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八坂紗弥(privatter+ / mixi2)
3月31生まれ。気候変動に弱い。自分で一から計画して国内を旅行するのが好き。大体RTA。
大体ちょろい。

カテゴリ「あさきゆめみし」に属する投稿[18件]

春は何処か

雲一つない澄んだ秋空。気がつけば夏の焦がれるような暑さはいざ知らず。微笑みかけるような柔らかい日差しが降り注ぐ。手拭いで顔を拭った夏がどこか恋しいような。少し遠くなった太陽に手を翳せども夏ほどの眩しさは無くなってしまった。いつの間にかに青々としていた紅葉は黄色く。そして黄色から赤。燃えるような麗しの赤に染め上がっていた。枝から旅に出た落葉がカサカサと涼風に吹かれて転がっていく。首元の襟巻きの端がひらひらと風にたなびくのを感じていた。
「ふぁあっ……いい天気だなぁ」
 非番。日用品の買い出しを早々に終えて一息。用事は済ませてしまったが、折角の休みにそのまますぐに帰るのも味気ない気がする。そう思って立ち寄ったのが屯所近くの古刹である。重厚な門をくぐり、境内へと足を踏み入れていくと、石畳の参道と本堂がまず視界に入ってくる。開けた境内をぐるりと見回すと、作務衣を来た坊主が竹箒を持っている。掃除をしているようで、石畳に散らばった枯葉色を集めている。しゃっしゃっと箒の乾いた音が小気味よい。参拝者の姿はぱっと見回す限りでは見当たらず、時折修練の為にやってくる隊士達も今日は見当たらない。遊びにやってくる近所の子ども達の姿も見当たらない。珍しく静かな境内だ。これはよい。少しばかり休憩をしていこうと、門の前から奥にある本堂の方へと踏み入れていき、本堂前の幅広い階段に腰を掛ける。会談の隅に腰を掛けると、懐から先程道中で買ってきた饅頭の包みを取り出した。それを見て思わず口角が吊り上がってしまう。
「ふふん。今日はこれが買えて僥倖だった」
「何がぎょーこーなの?」
「それはこの饅頭を買えたことだよ。人気のお店だから中々買えない、ん……?」
 {name2} がハッとして顔を上げると、目の前にはいつの間にかに幼女が立っていた。おかっぱの幼女。修練などでこの寺によく訪れているが、この辺ではあまり見かけたことのない顔の子だ。気がつかなかったとぱちぱちと瞬きをしていると、その幼女は無邪気な笑みを浮かべて{name2} の膝に乗り上げてくる。{name2} とは初対面のはずだが、随分と人懐っこい子どもである。
「そうなの?! いいなぁ、私も食べたいなぁ!」
「……食べる?」
「うん!」
 ポリポリと頬を掻いた{name2} に、屈託のない笑みを浮かべる幼女。{name2} は子どもの扱いなどてんでわからないのだが、まさか無下に出来るはずもなく、分け与えてやることにする。正直なところ、甘味は{name2} の好物であるから、惜しいと言えば惜しいのだが、それではあまりにも大人げない。
「——でも、まずはご挨拶してからにしようか」
「ご挨拶?」
「うん」
 持っててと幼女に饅頭の包みを持たせ、そのまま抱えるあげると本殿前の賽銭箱に二人分の賽銭を入れる。
「仏様にご挨拶?」
「そうだよ、そうしたら食べようね」
「わかった!」
 一生懸命に拝み始める幼女の様子を見て、微笑ましく思った{name2} は思わずつられて笑う。お邪魔しますと{name2} も暫し手を合わせていると、少女は待ちきれなさそうに{name2} の袖を引いている。早く饅頭を食べたいという表情で見つめてくる幼女を見て、世間の妹や弟はこうやって兄や姉を慕ってくれるのだろうか。そう思いながら、幼女の頭を優しく撫でてやる。
「食べよっか」
「食べるー!」
「ゆっくりお食べ」
 満面の笑みを浮かべた幼女は待ってましたとばかりにはしゃぐ。{name2} も苦笑しながら、抱えていた幼女を隣にそっと下ろしてやると、包みを開き、饅頭を一つ手渡してやる。ありがとうと嬉しそうに受け取った幼女を横目に己の分も取り出して食べ始めようとする。
「あれ? {name3} くんだ」
「こんにちは、沖田せんせい」
 にわかに門の方が騒がしくなったかと思えば、子ども達が境内に飛び込んでくる。この壬生寺の近所に住んでいる子ども達だ。きゃっきゃと楽しそうに追いかけっこをしている。子ども達に交じってやってきたのは、{name2} の上司である沖田総司だ。沖田は{name2} の姿を認めるなりパッと明るい顔をして近寄ってくる。嬉しそうにニコニコと笑みを浮かべた彼は{name2} の目の前までやってきた。
「お一人ですか? 隣いいですか?」
「え?」
 ハッとして横を向けば、先程まで隣にいたあの幼女はいなくなっていた。きょろきょろと境内に視線を飛ばすが、走り回る子ども達の中にその姿を認めることができなかった。
「(いつのまに……?)」
{name3} くん?」
「いや、何でもないです」
「それじゃあ、お隣失礼しますね」
 「少し休憩します!」と走り回る子ども達に高々と宣言した沖田は、ニコニコと笑みを浮かべながら{name2} の座っている階段の隣に腰を下ろす。立ち止まった子ども達は、了解というように沖田に手を振って返事をすると、再び境内を走り回り始めた。その様子を微笑ましそうに眺める沖田につられるように、{name2} も子ども達が楽しそうに鬼遊びをする様子を見守る。
 子ども達は実に縦横無尽に駆け回っている。境内の掃除をしていた坊主が一度走ると危ないぞと注意をしてはいたが、坊主の顔もどこか慈しむような表情で子ども達を見守っている。本堂前まで階段を駆け上がってみたり、境内に植わっている大木の周りをぐるぐると回ったり、鐘楼の影にこっそり隠れてみたり、挙句の果てには{name2} と沖田の背後に隠れてみたり、本当に自由闊達だ。
「いつもお休みの日は子ども達と遊んでいるのですか?」
 持っていた饅頭を手で割って、沖田に差し出すと嬉しそうに手に取った。
「そうですね。大体は子ども達と遊んでいますね」
 沖田は一度{name2} へと視線を戻し、再び子ども達へと視線が向かわせた。その瞳には普段屯所にいる時とは違った穏やかで優しい橙色を灯している。そして、子ども達の笑い声に誘われるように穏やかに笑い声を零している。屯所でくつろいでいる時などは物腰柔らかく穏やかな雰囲気はあるが、任務中は緊張感で張り詰めている。危険な仕事であるから当然と言えば当然だが、こうして心の底から気持ちを寛げている姿を見せるのは珍しい。滅多に見かけない穏やかな表情をこっそりと横目で追う。
「それにお勤めがお勤めですから……できる限りは一緒に子ども達といたいんです」
 子ども達と一緒に過ごす時間がとても愛おしいのです。
 屈託のない表情で子ども達を見守っている沖田。心の底からそう思っているようであった。それは沖田にとって心の拠り所でもあるようだった。殺伐としたこの京の都で命がけ。いつ死ぬかもわからない状況だ。どこかに拠り所は必要だ。他の隊士達もそういった各々の拠り所があって、日々を生き続けている。他の隊士達は色街などへ行って心を慰めたりするようだが、沖田にとってはこうして子ども達と遊ぶことが何よりも心の慰めになるらしい。そういった沖田のあり方を{name2} はどこか安堵していた。
「せんせいは、色街には行かないのですね」
「うーん、{name3} くんも色街には行かないですよね?」
「え?」
「ん?」
 気が付けばぽろりと零れていった言葉にハッとする。無意識だった。個人的な事を聞くものではなかったと、慌てて口元を抑えると、怒ってないから気にしないでくださいと気を使われる始末である。目を丸くした沖田が、すぐににこにこと笑みを浮かべた。
「ボクはね、少し気になる子がいるんです」
「気になる子……そういう女性がいたとは初耳ですね」
 瞬間。少しだけ、子ども達の笑い声が遠く聞こえた。
 沖田に想い人がいるなどとは{name2} は思いもよらなかった。驚き目を丸くすると同時に、すぐさま先程の問いに対しての回答が腑に落ちる。なるほど、その気になる女性というのは、色街へと行っても会えない人物なのだろう。そうすると市中の女性か、江戸へ残していった恋人などなのかもしれない。そういう存在がいたというのは本当に初耳で驚いてしまったが、そうであれば納得がいく。男性であればそういうこともあるだろうし、色街へ行くことが悪いことではないが、沖田が行かない理由を述べた瞬間、何となく安堵してしまった。それと同時に無性に落ち着かないような何とも言えない心地がする。やはり自分の上官の色事など知りたくないからだろうか。
「ふふっ……。原田さんや永倉さんには内緒にしてくださいね。あっという間に屯所内で知れ渡ってしまうし、知られると恥ずかしいですから」
「あ、ええ……。そういう個人的な事は他人には話したりはしませんよ。そういうのって野暮でしょう?」
「……そうですね」
 噛み締めるように呟いた沖田に、思わず視線を向ければ、覗き込むような視線と絡み合う。凪いだ海というのはこういうものだろうかと見入っていると、神妙な面持ちで見つめてくる。
{name3} くんは気になる人、いますか?」
「?」
「いいえ、何でもないです」
 {name2} の自然と傾いた首を見て、沖田は困ったような顔をしたが、すぐさま、穏やかな表情を浮かべて首を振った。何でもないですといった表情を見て、とても何でもなさそうには思えなかったが、今の{name2} には沖田にかけるべき言葉が何なのか見当がつかず、必死に言葉を紡ごうと口を開いたり閉じたりしているが、結局のところ、唇は震えなかった。
「総司! お兄ちゃん! 一緒に遊んでよ~!」
「よぉ~し! そしたらボクが今度は鬼の役ですね! 十数えたら追いかけますよ~!」
「わああ! にげろにげろ~!」
 打って変わって。勢いよく立ち上がった沖田に、びくりと{name2} は身体を揺らした。先程の沖田の神妙な面持ちは跡形もなく消えてなくなってしまった。それでも脳内はどこか言葉を探している。
 間延びした数数え。一目散に散り散りになって四方へ走っていく笑い声。少し傾いた陽の光。
「——{name3} くんが良ければ、またお休みの日に来てくれませんか?」
「え」
「子ども達も、ボクも、喜ぶので」
 十。高らかに宣言した沖田が{name2} を置いて走り出す。残された{name2} はただその背中を見つめて、暫く座り込んでいた。早速一人子どもを捕まえた沖田がぎゅうと羽交い絞めにするように抱きしめて頬ずりをしているのが見える。きゃいきゃいと子ども達が楽しそうにする声が、そっと優しく寄り添って、何とも言えないような温かさを感じる。少しだけ、優しいような気持ちと張り詰めた糸が弛緩していくような、そんな心地に包まれて、居た堪れなくなった{name2} はすっと立ち上がると、腰に刀を差して走り出す。
 それを見た沖田は嬉しそうに笑って、
「今度は{name3} くんが鬼だよ」
 そう言って頬ずりして仲良くしていた子どもを抱えながら夕暮れに走り出していった。

21.11.09 『春は何処か』 初出
22.01.03         加筆
(4555文字) No.25 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
知っていたよ、君の答えは

生命力溢れる眩い光に包まれる初夏。新緑が美しく潤う季節。日に日に日没までの時間が遅くなっていくのを感じる。同時に盛夏へ向かって一段と蒼く美しい色に空は染まっていく。
緩やかに髪を撫でる風が涼しく過ごしやすい季節だ。爽やかな心地に包まれて、体内が穏やかに循環していくのを感じる。
転寝をするには心地よい時分である。
「……寝、てる?」
畳の上に彼女は丸くなって眠っていた。身体を呼吸に合わせて上下させている。普段の堅い表情とは違い、平素穏やかな表情を浮かべて眠っている。ふにゃりと口許を弛ませる様子から幸せな夢でも見ているのだろうか。

思わぬ光景に出くわした私は暫く彼女を見つめ、立ち尽くしていた。近寄っても良いものかと躊躇い、立ち竦んでしまった。彼女があまりにも穏やかに眠っているものだから、戸惑ってしまう。いつも何処かぎこちない表情を浮かべる彼女幸せそうに笑みを浮かべて眠っている。起こしてしまえばきっとそんな表情を見る機会など失ってしまう。気配に過敏な彼女の事であるから、近づけばきっと起こしてしまう。彼女には少しでも笑っていて欲しい。

だから、近づいてしまいたい気持ちの反面、その場に立ち尽くしてしまう。起こしてしまえば、あのぎこちない表情を浮かべるのだろう。

――ああ、でも、少しだけならば許されるだろうか。

彼女に触れること。少しだけならば、許されるだろうか。眠っている少しの間であれば、隣にいてもよいだろうか。そんな考えが、立ち尽くした私の身体を静かに動かし始める。気配を悟られぬようにそっと彼女の目の前まで近づいていく。足音を殺し、静かに腰を下ろす。深い眠りに身を焦がしているようで、珍しく彼女は目を瞑ったまま動かない。触れたくなって咄嗟に手を伸ばしかける。ふと躊躇いが生じたが、髪に触れてしまえば手が優しく髪を撫でて始めてしまう。心地良さそうに眠っているのでその手を離すなどできなくなってしまった。
「{name1} 、さん」
優しく頬に触れる。温かい熱を持った頬、唇から漏れる寝息。手のひらで弧を描きながら撫でていく。ずっと触れられなかった感触。控えめな睫毛も膨らんだ瞼も小さな唇も。今だけは触れられる。
彼女の存在が心の何処かに息づいていて、ずっと探していた。初めましてとぎこちなく笑う彼女に見えない壁を感じ、落ち込んでしまってから、私は彼女に触れられなくなってしまった事を悟ってしまった。こんな形でさえなければ。
もう一度、彼女に触れていたかった。
「{name2} 、さん」
「{name2} さん」
「――{name2} 、」
眠る彼女に顔を近づけた。ふわりと彼女の匂いが胸一杯に吸い込まれていく。私に気づかずに穏やかに寝息を立てている彼女。指先を彼女の唇にそっと這わせて、自分の唇に這わす。ごくりと生唾を飲み込んで、狡いことをしていると思いながらもそっと彼女を啄んだ。
彼女はまだ眠っている。

あの頃、無自覚ながらも彼女は私のことを愛してくれていた。私と話すときは誰よりも穏やかに過ごしていたし、私を誰よりも側に置いてくれた。
私は彼女の気持ちに気づいていたけれど、死と隣り合わせのあの頃は色恋沙汰どころではなかった。体を病んでいたから後先短い私が彼女を縛ることに抵抗があったのだ。彼女の気持ちに目を瞑っていることしかできなかった。
彼女の瞳が私を映していたことは嬉しかった。私の事を大切に思っていてくれた事も嬉しかった。少しずつ死に行く私の身体が使い物にならなくなることに恐怖心を抱いていた中で、それでも彼女は、あなたは、私を愛してくれた。それが嬉しかった。
たとえ、君が覚えていなかったとしても、
「――{name2} 」
もう一度。彼女の唇をなぞると、彼女は唸り声を溢し、ピクリと身体を震わせる。名残惜しいが起こしてしまったようだ。震える瞼が開く前にそっと身を引いて彼女に呼び掛ける。
「{name1} さん」
「…………?」
「風邪を引きますよ、早く起きてください」
「…………お、きた、さん?」
「はい、沖田です」
ゆらりと瞼が開いてその瞳に私の姿を映していた。大きな欠伸をしながら伸びをする彼女。まだ脳が働いていないのか視線がふわふわとしている。
「?」
「こちらで眠っていらっしゃったので今起こそうと思っていたんですよ」
「……あー。私、寝てたのか」
目の前に私が居たことを不思議そうにしていたが、返事をすれば合点が言った様子である。上手く誤魔化せたとほっと思う反面、罪悪感が残る。意識のない彼女に触れてしまったのだ。一時的な幸福感を得たが、あの頃の彼女と今の彼女は違うのだから、自分勝手な軽率な行動であったと内省する。
頬をポリポリと掻いてぼんやりとしている彼女に寝癖がついていると指摘すれば、彼女は目を丸くしてから恥ずかしそうに髪を手櫛で解かす。片側の頬に畳の跡がついていて少し微笑ましい。こればかりは手の施しようはないので胸の内に秘めておく。
「沖田さんは稽古に?」
「ええ……お土産買って来たので先にこちらに置きに来たのですが」
「そしたら私がここで寝ていた、と」
彼女はこそばゆそうに表情を歪める。
「気持ち良さそうに寝ていましたよ」
「そうですか?……珍しく幸せな夢を見たからかもしれませんね」
「そうですか。どんな夢だったんですか?」
ぱちぱちと彼女は瞬きをする。暫くきょとんとした表情を浮かべていたが、柔らかい笑みを浮かべて、唇に指を当てた。
「――内緒、です」
はっと息を飲むほど柔らかな笑みだった。彼女が私に向けて優しく笑いかけてくれるなんて思いもしなかったのだ。暫し彼女のことを見つめてしまい、彼女が怪訝そうに声をかけるまで意識が飛んでいた。
「沖田さん?」
「え、あ、はい」
「どうかされました?」
「すみません。少し、ぼんやりしていました」
「そうですか」
「――{name1} 、さん。あの」
「{name2} ー!皆で昼飯食いに行くぞー!」
道場の方が騒がしい。稽古をしていた原田さんや藤堂さんが騒いでいる。柱時計を見れば、丁度正午を回ったところである。どうりで近くの家から昼食の匂いが漂ってくるわけである。
「沖田さん、皆さん待っていますし行きましょうか」
顔を見合わせた{name2} は行きましょうと立ち上がる。そっと彼女の手を握ってみれば、驚いたようで彼女は私を見た。
触れられないと思い込んでいたが、今度こそ触れていたい。
「今日は原田さん達にいっぱい奢ってもらいましょうね」
「……そうですね、困らせてやりましょう」
街の剣道場。かつて共に戦場を駆け抜けた仲間達がもう一度芽吹き、何の因果か導かれるように集まった。過去では考えられない程穏やかな日々を綴る。
彼女は何も覚えていない。それでも、こうして導かれるようにこの場所に来た。
それだけで、それだけで十分だ。
彼女が私を愛していてくれた事も私が知っていればそれだけで十分だ。
今度は私があなたを愛すればいい。

16.05.22 初出 『知っていたよ、君の答えは』
16.05.29 加筆
(2932文字) No.24 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
体温を愛惜した

 家路へ向かう往来はまるで深々と降り積もる雪の夜のようだった。斜陽の陽だまりの道と家々の作り出す薄暗い影。日が当たらぬ冬の水底の路地裏。往来を通り抜ける人気はない。
 深、と降り積もる静けさが、底冷えする空気が、じんじんと身に沁みる。北風がひゅるりと凪ぐ度に身が縮こまって、暖をとろうと首に巻いた襟巻きに頬を埋める。悴んだ手のひらを合わせてスリスリと手揉みをしながら往来を歩いて行く姿はさぞかし不格好ではあるが、背に腹は代えられぬ、致し方ない。
「寒いですよね。もう少しですから我慢してくださいね」
「わかっているよ、そのくらいは我慢するさ」
 一歩先を歩く背中はいつだって美しく伸びている。楽しそうに息を弾ませるその表情を窺うことは叶わないが、見なくたってわかりきっている。
 くるりと振り向いたその表情はやはりにこやかに笑っていて、笑い声と共に白い息が吐き出される。
「あはははっ! {name3} くん少し短気なところありますからね」
「うるさいよ、総司」
「私は好きですよ、そういうとこ」
「(――またそうやって、臆面もなく……)」
 彼の言動を苦々しく思い、顔が歪むのを感じながら、袖の中に手を引っ込めようとすれば、先に手を握られる。ぎょっと彼を凝視する。
 彼はにんまりと花が咲いたようにきれいに笑っている。それは、女である自分でさえも息を飲み溜息を吐いてしまうような悩ましい美しさ。眩暈がするような優しい眼差しは、真っ直ぐに受け止めるには眩しすぎる。
 そっと視線をずらせば、{name3} くんと優しく手を包み込んで、丁寧に撫でられる。自分の手の冷たさで感覚が曖昧になっているが、ひんやりとした彼の手はきっとこちらの手よりもずっと冷たくて、まるで、まるで……。
 脳裏に過った言葉に背筋をぞっとさせてぶるぶると考えを振り払う。
 するりと手を解こうとしてみるが、しっかりと手を離さないように握り締められて解けない。
「寒いので{name3} くん手貸してくださいね」
「私だって、手つめたい……」
「冷たい同士くっつけば温かくなりますって」
「……」
「ね、{name3} くん?」
「――屯所の近くまで」
「ふふ、ありがとうございます。嬉しいです」
 狡い。狡い、ずるい。
 この男はそうやって人の心に付け込もうとするのだ。にこにこと朗らかに笑って、人懐っこい笑みを浮かべて、そうやってすべてをなし崩しにしてしまう。人の気も知らないで、どろどろに私を甘やかすから本当にたちが悪い。自然とゆるみ始める口許だって、襟巻きを整えて隠してしまわなければならない。冷たかった指先がじわじわと握られた部分から熱を帯びて冷え切った心までも温かく溶かすようだ。
「放さないでくださいね」
「――わかっているよ、寒いのだろう」
「ぜったいに、はなさないで」
「? 総司?」
 じっと見つめるその真剣な眼差しを受けて、軽口など叩けるはずもなく、息を飲んだ。先を歩いていた{name3} の手を引いて立ち止まらせると、両頬をその手で包み込む。まるで壊れ物にでも触れるような優しい手付きで{name3} に触れるとそっと頬に口づけを落とす。
「そう、じ」
 どくり、どくり。心臓が沸き立っていく。頭の中は騒然としている。まるで幽鬼でも見たような現実味がない感覚に、思考が追い付かず狼狽える。彼と過ごしていく内に、彼のことを心のどこかで慕っていたのを感じてはいたが、想いを告げるという行為は禁則行為のようにとらえていた。自分が男装している以上、女であることは許されない事だと思っていたし、明日をも知れぬ身でありながら、色恋になどかまけている場合ではないと理解していた。この感情もそっと目隠しをして氷を口の中に含ませるように溶かして飲み込んでしまえば、そっと水底にしまい込んでしまえば、少し息苦しいだけだ。ただ、そこに彼や仲間たちと一緒に笑い合える方がよほど今の自分には大事なことだと思っていた。
 それなのに、どうして。どうして、こんなむごいことをするのだ。ただ、一緒に生きることができるだけで良かったのだ。私が性別を偽ってようやっと肩を並べて彼と戦うことができるのだ。性別を偽って漸く手に入れた彼らと駆け抜けてきた大切な日々を、いつの間にか大切になってしまったこの日々を捨てなければならない。
「――きっとあなたは、私と一緒には居られないのでしょうね」
「あ、あ……」
 ああ。そうやって、寂しそうな顔で笑うなんてずるい。
「それでもね。思ってしまいました。あなたとずっと一緒にいたいなぁ、って」
 だから、泣かないでください。
 はらはらと、涙と雪が舞うのは一体どちらが先であったか。唇を開いて言葉を発しようとするが、わなわなと唇が振動して上手く開かない。視界がぼんやりとぼやけていく。どうして、こうも私は上手く紡ぐことが出来ないのだろう。歪んで君が見えなくなっていく。いかないで。
 これは君に言わなければならない言葉だ。あの時、ずっと言えなくて後悔していた言葉だ。だから今度こそ、目が覚めてしまわぬ前に、私もずっと――
「――私も。ずっと一緒に、いたかった。いたかったよ」
 それは遠き、冬の片隅の夢。


18.11.24 初出 『体温を愛惜した』 title by : そにどり
18.12.27 加筆修正
(2214文字) No.23 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
『春一番』

 少し前までの凍えるような寒さが嘘みたいに暖かくなった三月中旬。桃色が美しい早咲きの桜はそろそろと葉桜になり、後少しすればソメイヨシノが開花する。そんな頃。
寒い冬ももう少し。春本番を迎えようとしているこの時期は卒業式やらと世間は何かと騒がしいらしいが、この病院はまた別の忙しさと日々闘っている。
 この病院に所属する医師・高荷恵は午前中の診察を終えて、遅い昼休憩を取ろうとしていた。それまでは小さな町医者の元で働いていたが、縁あってこの大きな病院に赴任した。赴任してみれば街医者の元で働いていた頃よりも沢山の患者が毎日病院へとやってくる。大変ではあるが、具合が悪く困っている人たちの力になれることでこの仕事に対してのやりがいを感じる。一人ひとりと向き合い、各々の体質にあった方法で不調を改善していくために処置する。各々に合った処置というのは難しい。様々な症状や病床を考慮した上でその時の現状での最適解だと判断しても、実際に処置してみると体質的に問題が出てしまったりと当の本人からしてみれば最適解ではなかったりもする。鈍感な時もあるが人の身体は多分に繊細なところもあるため故の難しさ。内心頭を抱えながらも向き合い続ける中で患者の笑顔を引き出せたならば、それだけでも報われてしまう。
 そうして向き合い続け、あっという間に昼が過ぎる。この仕事にやりがいを感じてはいるが、自分とて一人の人間だ。ずっと根を詰めていては疲れて気が滅入ってしまう。気分転換がてら外の空気を吸おうと中庭のベンチに腰掛けて休憩を取ることにした。
「……桜は、もう少し先かしら」
 ベンチの上に伸びる桜の木を見上げる。このベンチはソメイヨシノが咲く頃には薄墨色に美しく染まる。今はまだ硬く閉ざされた蕾。売店で買ったペットボトルのお茶を一口。喉を潤しながら、一息つく。
「あー高荷ちゃん! おつかれちゃん!」
「たかにちゃん! おつかれちゃん!」
「……{name1}先生。子ども達に悪影響だから止めてくださる?」
「高荷ちゃんは今からご飯? おつかれちゃん」
「話聞いています?」
 黒髪の癖毛の男。{name1}{name3}。高荷恵と同じくこの病院に所属する医者である。外科の若い男であるが、その腕は若いながらに評判がいいと聞く。性格は朗らかで緩い。子ども達に慕われているらしく、院内ではよく子ども達に群がれている姿を目撃している。子ども達をおんぶにだっこしている姿はとても腕利きの外科医には見えず、保育士といったところの風体である。おんぶした子どもに癖毛を引っ張られながらもにこにこと笑みを浮かべた男にやれやれと溜息を吐いて子ども達に声を掛ける。
「皆。それ以上は{name1}先生も疲れてきているから止めてあげてね」
「えー?」
「うん。実は流石に疲れてきていた。皆、五円玉チョコ上げるから勘弁してちょ」
「五円玉チョコ!」
 チョコレート菓子につられて子ども達は{name1}から次々と離れていく。何とも現金な子ども達だと思わなくもないが、子どもは正直なぐらいが丁度いい。{name1}も同じことを思ったのか「おまいさん達、ほんと現金じゃのぅ……」と少し寂しそうな瞳を湛えて呟いていた。そんな{name1}のことなどお構いなし。子ども達は容赦は知らぬ。チョコレート頂戴コールのが始まり、もみくちゃにされ始める。
「わ~?」
「ちょっと! 何やってんのよ!?」
「高荷ちゃん、ヘルプ~」
「もー! アンタってやつは世話が焼けるわね!?」
 子ども達から追い剥ぎ同然の目に合う外科医の男を見て深い溜息を吐く。
 {name1}はどこからともなく取り出した五円玉チョコをすぐさま子ども達にひったくられて、白衣のポケットやら何やらを勝手に漁られている。
 子ども達は大袋に入った五円玉チョコの大袋を何個か見つけると、わあわあとそれに群がって袋を開け始める。個包装になった五円玉チョコが何枚も入っていて、それを皆で仲良く山分けし始めている。宝物をみつけた子ども達はそちらに夢中で{name1}になど見向きもしない。
「ちょっと、大丈夫?」
「はは。手厳しか」
 もみくちゃにされて地面に倒れ込んでいた{name1}に高荷が近づいて手を差し出せば、彼はぱちぱちと瞬きをして暫く高荷を見つめていたが、にこりと嬉しそうに笑い、「心配してくれるのは高荷ちゃんだけじゃ」と満足そうに手を取って立ち上がった。ぱたぱたと白衣についた砂埃を叩いているしょぼしょぼとした男の腕を引いてベンチに座らせると栄養ドリンクをすっと渡す。
「ほ?」
「もみくちゃにされて大変だったでしょ。これ飲んでおきなさい。それじゃ午後もたないわよ」
「ありがとう! 大切にしまっておくね!」
「このおバカ! 飲めって言ってるでしょう。飲みなさいよ!」
 この様子だとこの男は本当に飲まずにしまっておきそうだ。一度渡した栄養ドリンクひったくり、キリキリと開栓してから再び{name1}に渡す。念押しして、飲みなさいといえば、彼はすっと目を細めて、ありがとうと穏やかに紡ぐ。それは、凪いだ海のように穏やかな表情。
「……ご馳走様。高荷ちゃん飲もうとしたんだよね。ごめんね。お礼にどうぞ。子ども達にには内緒だよ」
 しい。
 人差し指を唇に添え、身振り手振りしながら渡されたのは金平糖の入った小さな瓶。一体どこに隠し持っていたのだろうか。手のひらの上にポンと小さな瓶を持たされると、またねとひらひらと手を振って立ち去っていく。
「……変な奴」
 再び子ども達に囲まれてわいのわいのと騒いでいる{name1}を見て呟く。
 掌に乗せられた金平糖の瓶に視線を落とす。薄桜色、若草色、黄色、白色。パステルカラーに近い色合いの金平糖が瓶詰にされていて、その様子がかわいらしい。そっと零れないように開栓し、手のひらに星屑を転がす。それを暫く眺めてから口の中にそっと含ませると、柔らかく優しい甘さが広がり、その優しい甘さが張り詰めた気持ちを緩やかに弛緩させていく。
「──さて、午後も頑張ろうかしら」
 便の蓋を締めてそっとポケットにしまう。ベンチから立ち上がりぐっと空に向かって伸びをすると、あっと思わず声が漏れる。ベンチの上に伸びたその枝に一輪だけ花を開いたソメイヨシノ。これから日にちが過ぎればまた次々と桜が花開いていくのだろう。その頃にはこうやってこのベンチの下で満開の桜が見られるのだろうか。その時には今日のお礼にでもあの男を誘ってやろうか。きっと驚いた顔をしながらまたあの締まりのない顔で笑うのだろう。
 小さく笑みを漏らし、仕事へ戻ろうと院内へと足を向ければ、もうお菓子はないよと未だに子ども達にたかられている{name1}の姿が見えて思わず笑ってしまった。

23.03.28 『春一番』 初出
(2817文字) No.22 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
『Best Wishes!』

 吐く息が白く濁る。朝焼けの眩い光と稜線から顔を出し始めた太陽光が幻想的に美しい真冬。
 二月十四日のバレンタインデーを迎え、閉店まで慌ただしく過ごししてふと思えばあの女の姿を今日は見なかったと思い出す。常連の女は二十代頃だろうか。少し傷んだ黒髪と薄らと浮かぶクマ、草臥れた様子の女。面は悪くないが、仕事が忙しいのか疲労感が抜けないその姿から哀愁が漂う。他人に深入りはしない比古ではあるが、たまにの休日にやってきては満面の笑みで幸せそうに己の作った菓子を食うのだがら、情ぐらいは沸くものだ。土日が必ず休みの仕事ではないらしく、来る日も平日の午前や午後だったり、時折土日のどちらかであったりするのでいつ来るかはその女の勤務状況次第といった所である。ハロウィンやクリスマスなどのイベント限定販売の菓子を求めて仕事帰り閉店時間間近ギリギリに買って帰る時もあるため、今日もその内来るのだろうかと一つケーキを残していたが、女が来ることなく閉店を迎えた。約束していたわけでもないが、少しばかり締まりのなさを感じつつ閉店作業をする。
「師匠のお気に入りの{name1}さん、来なかったですね」
 カフェスペースの掃除を終えた緋村剣心がバックヤードまで戻ってきていう。誰だ。初めて聞いた名前に小首を傾げる。知人の中ではその名前の人はいなかったはずだ。思い返してみても心当たりがない。
「誰だ?」
 緋村は意外そうに比古の方を振り向いた。
「あれ? 師匠もしかして名前聞いてなかったんですか? ほら、あのパンツスーツ着たポニーテールの子。少し草臥れてる。師匠の作ったケーキ幸せそうに食べてた……!」
 窓際の席で束の間の幸せをひっそりと噛み締める姿のあの女。あの女は{name1}というのか。
  ――ところで。
「剣心。お前なんで名前知ってんだよ」
「以前、お友達の誕生日ケーキ予約したいって来た時にお名前聞きましたよ。{name1}{name2}さん。警察でお仕事されてるそうですよ」
「……なんで、お前の方が知ってんだよ」
「えぇ、まさか師匠とあろうお方が知らないとは」
「おい。にやにやしてんじゃねぇよ。そんなんじゃねぇよ」
「えぇ? 俺は何も言ってないですよ?」
「ああ゛、うるせぇなぁ! 明日もあるんだ、早く帰って寝ろ!」
「ふふっ。ガトーショコラ、渡せるといいですね」
 早く帰れと手を振ると、にこにことしながら降参と両手上げてそそくさと休憩室の方へと逃げていく。取り置きしておいた分を目敏く見つけていたらしい。カンのいいやつめ。やれやれと溜息を深く吐き、肩を竦める。冷蔵庫の中を開ける。奥にしまっておいた箱。毎回イベント期間には必ず来店するため取って置いた分。いつも美味しかったと屈託の笑みで会計して帰っていく{name1}。そんな女の姿を見るのを密かな楽しみにしていた。宝箱を開け、中の宝石を発見したようなキラキラとした瞳の輝き。高揚した頬。チェリー色の豊潤な唇が己の作った洋菓子を喰んでいく姿。口元をクリームで汚しながらもうっとりとした表情で味わうその姿が脳に焼き付いている。食べる前まで草臥れた表情を浮かべていたというのに、食べ始めればまるで水を得た魚のように生き返る。そうやって己の作った菓子で人を幸せにできるとしたならば作り手としては本望だ。
 冷蔵庫の奥からその箱を取り出して、帰宅の準備を始める。ずっと置いておくわけにも行かないので少しずつ家で食べるほかない。ガトーショコラならばウィスキーのアテにでもするとよいか。などと考えて戸締まりを終えて外へ出ようとすると、ゴンと何かにぶつかった。
「?」
「ったぁ……」
「あんたは」
「うぅ……もう、お店終わっちゃいました?」
 外を覗くように身を乗り出せば、ドアにぶつかったらしい女が頭を押さえて蹲っている。あの{name1}と言う女だ。今しがた弟子と話していたばかりなだけに少し決まりが悪い。丈の長いダウンコートにマフラーをぐるぐるに巻いている。丁度仕事帰りだったのだろうか。
 外の様子を見回せば、既に日は落ち、雲一つとない美しい夜の帳が下りている。昼間の温かい日差しはどこえやら、身が引き締まるような凍える寒さだ。ひゅうと笛のように音を立てて風が吹いていく。冷蔵庫の中に閉じ込められたような寒さに思わず眉根が寄り合う。頭を抱えて蹲ったまま暫く動かない{name1}にぶつからないようにそっと入り口から出て、目の前にしゃがみ込み頭に触れると、{name1}に驚いた表情が浮き上がる。
「大丈夫か?」
「す、すみません」
「怪我は……とりあえず無さそうか?」
「は、はい。大丈夫です」
 恥ずかしげにはにかんで{name1}はゆっくりと立ち上がる。ふらつかずにすっと立ち上がったところを見ると、不幸中の幸いにも致命傷を負ったという様子はなさそうである。怪我がない事を確認し、そっと胸を撫で下ろすと、ゆっくりと立ち上がった。不慮の事故とはいえ、怪我をさせるなど言語道断だ。当の本人は比古を観ながら、背高いですねなどと気の抜けるような事を呟いているが、そんな呑気な事を言ってのけるぐらいだから何ともないのだろう。それは何より。久々にこうして会ってみれば、相変わらずといったところだ。仕事に追われて草臥れてはいるが、以前見かけた時よりも今日は元気そうだ。
「悪いな、今日は店仕舞いだ」
「そうですか……やっぱり間に合わなかったかぁ」
「その代わりと言っちゃなんだが、これ持って帰ってくれ」
「え? でも……」
 残念そうにしょんぼりとしていた{name1}に、取り置きしていたガトーショコラの箱を渡せば、寝耳に水といった素っ頓狂な表情を浮かべる。店の手提げ袋に入れて持たせると、暫くそれをじっと見つめて少しばかり複雑そうな表情をしていたが、首を振る。すぐに渡したばかりの箱を返そうと差し出される。
「受け取れません。営業時間内に間に合わなかった私が悪いので」
「キャンセル分出すの忘れてただけだ。俺は仕事中以外は甘いもん食わねぇし折角だからもらってくれ」
「でも……」
 渋る{name1}の手をそっと押すと、そのまま紙袋を持つ手を握り込ませる。
「処分するより貰ってくれた方が助かる。金は要らねぇ。その代わりにまた来てくれよ。お前さんの食いっぷりが見ていて気持ちがいいからよ」
「! み、見てたんですか!?」
「パティシエが言えた事じゃねぇが、甘いものばかり食べすぎないようにな」
「は、はずかしい……」
 まさか見られていたなんて。そう言って居た堪れ無さそうに頬を赤く染めた{name1}が己の両頬を覆い隠すようにして手を添える。{name1}はスイーツを頬張って気が緩んだ姿をしっかりと見られていたことが恥ずかしいというのだが、比古にとっては好ましく思えていた。自分が作った菓子をそれはもうこの世の祝福を一心に受けたというような顔をして食べている{name1}を見た時、気分が良かった。その食べっぷりに甚く感服し、とても好ましく思っていた。
「いつも喰いに来てくれてありがとな」
 比古はほくそ笑む。ポカンと比古を暫し見つめていた{name1}はハッと我に返ると視線を右往左往させていたが、あっと何かに気づいたように声を漏らすと、鞄のポケットの中から何かを取り出して比古に手を差し出すように促した。
「これ。貰ってください」
「……何だこれ?」
「五円玉チョコ。今日友人からもらったんです。良いご縁がくるって。一枚あなたにあげます」
「だがお前がもらったものだろう、それなら」
「私はもうご縁もらいましたので」
 {name1}はにこりと慈しむように笑い、そっと比古の手に己の手を添えて拳を握り込ませながら魔法を掛けるように呟いた。

 ――あなたにもご縁がありますように

23.02.18 『Best wishes!』 初出
(3260文字) No.21 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
『結び目』

 冬茜。冬の夕焼けの燃える美しさは思わず足を止め息を飲むほどである。日没が迫り、稜線を燃やし始める美しいあの橙は{name2}冽な空気さえも息を飲むように美しい。澱みのない澄み切った空気がより一層夕景を際立たせ、誰しもを魅了する。
 缶コーヒーを飲みながら、{name2}は一人窓の向こう側を臨む。誰そ彼。街灯の橙が薄っすらと色付き始めている。家路へと向かう人かそれとも。自治体のスピーカーから流れる時報の音楽がどこか物悲しくもあるが、どこか明日への期待を感じる。ひんやりとした廊下の片隅に自販機とゴミ箱の列。気分転換がてらに作業を中断し抜け出してはきたのだが上着かマフラーでも持ってくればよかったのしれない。少し身震いをしつつも、静まり返った廊下の片隅でのコーヒーブレイク。薄暗い自販機の側面に寄りかかりながら、少し温くなったコーヒーを一口。ぼんやりと暮れ泥んでいく夕景を眺めながら、深い息を吐き出した。
「甘いものが食べたい」
 無意識に吐き出された言葉が廊下の空気を揺らす。思いの外、ゆらゆらと、己の鼓膜をゆする。
 コーヒーのお供に甘いものが食べたい。コーヒーを飲みながら零れ出た思いが言霊により一層強くなる。交通違反に交通事故、酔っ払いの介抱、強盗、ストーカー、エトセトラ。事実は小説よりも奇なり。思いもしない事件に振り回されて流石に疲れていた。疲れ時には糖分がいいと聞く。甘いものが食べたいときは特定の栄養素が足りていないとも聞く。何が足りていないのかなどと気にしすぎるよりは好きなものを好きに食べた方が健康的な気もするが。
 要するに甘いものが食べられれば何でもよいのだ。散々けったいな事件に振り回されたのだ。早く仕事を終わらせてお気に入りの店に飛び込むのもいいのかもしれない。お気に入りの洋菓子店。ふとした時に食べたくなる美味しい洋菓子店。少し無骨なパティシエが作る繊細で美しくも甘いもの好きを多幸感で満たす美味しいお菓子の数々。サクサクで甘いクッキーやふんわり柔らかいフィナンシェ、皮はさっくり中はたっぷりなめらかカスタードシュークリーム、甘くて美味しいケーキ……嗚呼、想像しただけで食べたくなる。こうしてはいられない。早く報告書を片付けて一時でも早くこんなところから抜け出すべきだ。
「プリン、シュークリーム、ケーキ、チョコ……嗚呼、どいつもこいつも何でつまんないことで仕事増やすのよ。手当たり次第しょっ引いてやろうか」
「わぁ……あんさん随分キテるなぁ……おつかれさん」
「あ、沢下条……お疲れさま」
 喧しい男が来たと喉まででかかった言葉を飲み込んで労いの言葉をかけると、上機嫌な金髪の男がやってくる。同僚の沢下条張という男だ。すらりとした見た目だが、程よく筋肉質の男。陽気な関西人。{name2}の得意なタイプではないが、その性格から何だかんだで憎めない男だ。沢下条は「よっ」と手を立てて砕けた挨拶をすると自販機に小銭を入れて缶コーヒーのボタンを押す。転がり出た缶を拾い上げ、隣に並ぶようにして立つとカチャリとプルタブを捻った。同時に先ほど己が開けた缶と同じコーヒーの香ばしい香りが舞い戻ってきて、思わず鼻をひくりとさせた。嚥下する咽喉の流動を横目に、香りが拡散してしてわからなくなった己の缶コーヒーを煽る。
「今日はどうしたん?」
「交通違反にドラック、強盗、痴話げんか、その他もろもろ。警察は何でも屋じゃないわ」
「あー、お疲れさん」
「そろそろ帰りたい」
「あー、そうしょげるな。よし、しゃあないな。ワイのとっておきをくれてやるで」
 {name2}を不憫に思ったのか、沢下条は犬を撫でるように{name2}の頭をわしゃわしゃと撫でた。そうしてごそごそとズボンのポケットを何やら漁り始める。何だろうか怪訝に思いながらも、ぼさぼさになった髪の毛を手櫛で軽く整える。手間だ。余計な事をしてくれる。そう思いながらじとりと成り行きを見守っていると、何かを見つけたらしい沢下条が「あった」と嬉々として{name2}の手のひらの上に小さい包みを乗せた。茶色いビニールフィルムにプリントされた五円玉を模したキャラクター。小学生ぐらいの子どものお小遣いでも手軽に買えるチョコレート菓子だ。{name2}も幼少期の頃に小遣いを肩掛けバックに入れて田んぼに囲まれた駄菓子屋まで買いに行った記憶がある。成長して買う機会は減ってしまったが、本物の五円玉のようで面白いチョコだと気に入って買っていた。
「? ごえんだま、チョコ?」
「ハッピーバレンタインやで!」
 快活に笑う沢下条を見て、はてな。
「馬連……?」
「馬ちゃうで、バレンタインや! チョコや、チョコ! 好きな人に愛の告白とチョコ渡す日や! この沢下条張様からかわいそうな{name2}に愛のお裾分けや!」
 バレンタインデーと言えば、何某かの殉教の日であるとか、友達や恋人、大切な人に贈り物をする日だったか。日本では女性が意中の相手に愛の告白と一緒にチョコレイトを贈ったり、親しい友人間でチョコを交換してその日を楽しんだりする。{name2}も友人にチョコレイトを交換したことはあるが、学生時代の頃の話で近年では中々会うことも出来なくなってしまったため、そういった行事ごとには遠ざかっていた。職場では義理チョコの文化は用意する側の負担になるとのことで廃止されたため、益々バレンタインデーとは縁遠い生活を送っていた。
「そっか。もうそんな日か」
「どや。ワイからの愛のある友チョコや」
「愛のある友チョコ……?」
「おい、首傾げんなや! 泣くで!」
「ははっ。わかっているよ、ありがとう」
「たく……。仕方ないやっちゃ。ほら特別にもう一枚やる。これで少しは元気だしや。ええことあるとええな」
「沢下条」
「五円玉チョコやったんや。今からお前にも良いご縁がくるで」
「それは……まあ楽しみにしてみるよ」
 ほなな。そういって手をひらひら振りながら廊下を歩いていく。その後ろ姿を見送りながら、手のひらの五円玉チョコに視線を落とす。何とも言えない気が抜けるような顔の五円玉のキャラクターの表情。愛嬌のあるその顔を見て、ふと小さく笑ってしまった。久方ぶりにあったあの男は相変わらずの賑やかしい男だが、何だかんだでこの五円玉チョコのキャラクターのように憎めない。
「ご縁、いただきます」
 一つだけフィルムを破いて、口に入れる。小さい頃お小遣いを握り締めて買いに行った時と今も変わらず甘い味。冷め切ったコーヒーを流し込んで、もうひと頑張りしようと気合を入れ直すのである。

23.02.14 『結び目』 初出
(2742文字) No.20 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
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 舞台に立つのは初めてではないが、ミュージカルとなるとまた普通の劇とは違う。
 今日、人気漫画やアニメ、ゲームなどの題材の舞台が人気である。多数の作品が役者たちによって舞台化されている。原作となる漫画やアニメを忠実に再現し、キャラクターに成り切って演じる。大まかにいえばそのようなものであるが、これに歌がついてくるのがミュージカルだ。ただの歌ではない。この歌を通して、観客たちは劇の状況やその役の心情を汲み取る。そのためにこの歌唱が重要になってくる。{name2} 自身は歌うのは好きだが、上手か上手でないかとそういわれると自分では何とも言えない。それでもやる以外の選択肢はない。今回が{name2} にとっては初めての挑戦である。初めての挑戦に自然と練習への熱が入っていく。稽古する度に知ることや稽古して見えてくることもあって、楽しみであると同時に少し緊張もしている。

 {name2} が演じるのは男として生きた女警官。自分の腕っ節一つで幕末を生き抜き、新しい時代に翻弄されながらも生きていく役だ。主要キャラの部下であり、何かとこき使われて裏で工作するキャクターなので、出番が多いわけではないが、ちょこちょこと出番がある。{name2} 自身はこのキャラクターをわりと気に入っている。主人公の師匠と少しいい感じにはなるのだが、今回の演出上はほぼカットである。
「何か気になることがあるのか?」
 台本をじっと見つめて思案していると、主人公の師匠役・比古清十郎が怪訝そうに言う。{name2} よりも先輩の役者であり、比較的に若い役者が多い今回のミュージカルの中では年長者である。{name2} の役との絡みもあるためか、何かと気にかけてコミュニケーションを取ろうとしてくれているようだ。そのため、稽古が始まってからはしばしば声を掛けられることが増えた。二人の出番が被る同じシーンやそれぞれのキャラクター像についての互いの考えを示し、話し合う。そこからそれぞれの役どころを咀嚼し、演技の方向性を探る。そういったコミュニケーションを大事にとってくれている事は有難いことだ。それに付随して出番が重ならないシーンに関しても助言をくれたり、稽古以外に食事に行ったりと、可能な限りのコミュニケーションを取ってくれる。演じ合う上で理解しようとしてくれているのだ。
 比古は{name2} の隣まで歩いてくると、手元の台本を覗き込んだ。高身長のせいか少し見づらそうにしている様子を見て、更に見やすい位置に台本を持ち上げる。とんと身体が触れ合った瞬間に、一瞥が向けられたが、再び台本に視線が落ちて行った。
「――どこだ?」
「ええと、この殺陣のシーンなんですけど……」
「どれ、やってみせろ」
 台本を隅に置き、立て掛けてある稽古用の刀を投げ渡すと、比古はそれを手に取って腰に下げた。休憩をしていた演者達の視線が自然と{name2} 達に集まり始める。比古清十郎の殺陣は美しくも力強く、憧れを抱く者が多い。誰もがその殺陣に近づきたいと思っているから当然だ。本人に至っては役者が本業ではなく陶芸家や剣道家という異色。そうお目にかかる機会もないから皆がそのと殺陣を一目見たいと思う気持ちはわからぬでもない。{name2} 自身も比古の殺陣の美しさに惹かれるものがあるから、こうして直々に稽古をつけてもらうのは貴重な機会だ。
 高揚し始める気持ちを感じながら腰に刀を差し、比古を正面に対峙する。お前のタイミングで始めろという比古の言葉に頷く。
「――行きますよ」
「こい」
 床を強く蹴り、一気に間合いを掻き消していく。素早く柄に手を掛けて勢いよく抜刀する。右薙に一刀。抜刀した比古の初速がすぐに追いついて、稽古用の刀が高らかに交わる音が稽古場一面に響く。
 ――速い。
 手は抜いていない。この男相手に抜けるわけがない。この一手は全力で打ち込んだ。しかし、後から抜刀した比古に難なく受け止められてしまった。……悔しい。ギリギリと歯噛みする。この斬撃が通らないことは分かっていたが、こうも易々と止められてしまうと悔しい。ニヤリと不敵の笑みを浮かべる比古も気に食わない。ギロリと睨みつけながら素早く切り返して、次の一刀。一歩踏み込んでいく。指先が地を蹴りつけ、更に一歩踏み込む。追撃の手は緩めない。実力差は否めない。長期戦は尚更分が悪い。ならば斬り込んでいく他ない。始めから分が悪いのはわかっている。覚悟の上だ。連撃を繰り返す{name2} に、比古はあくまでも冷静に見定めて受け流していく。誰から見ても実力差は明らかだろう。{name2} とて人並みよりも優れた剣の使い手であるが、比古はまた一味も違う。まさに剣の達人だ。{name2} の剣戟を少しずつ切り返していくとあっという間に{name2} を追い詰めてしまった。
「っ!」
「勝負あり、だな」
 キンと刃同士が交わり、競り負けた{name2} の手から刀がくるくると弧を描きながら弾き飛ばされていく。弾かれてビリビリと痺れた手。間合いを取ろうと後退する前に比古は{name2} の首元に切っ先を突き付ける。
 ――チェックメイトだ。
 {name2} と比古の殺陣の迫力に圧倒された他の役者たちは誰もがそう思った。だが。{name2} のその顔は未だ諦念は浮かばない。鞘に素早く手に掛けて切っ先を弾いて退けると背後に飛び、飛ばした刀を拾って素早く打ち込む。
「ふぅん? 中々やるじゃねぇか」
「はぁ……は、ぁ……はぁ……それは、どうも」
 切っ先が互いの喉笛を捉えている。汗だくになった{name2} と依然として余裕綽々としたいで立ちの比古。ゆっくりと切っ先を下ろした{name2} は納刀し、両膝に手をついて呼吸を繰り返しながら息を整える。結果は分かってはいたがやはり悔しい。全力で立ち向かっていったのに、比古は息一つ切らさずに対峙していた。「二人ともすげぇな……」と誰かが呟いた声が、{name2} の表情を一層曇らせる。{name2} としてはその言葉に見合うだけの動きは出来なかったと感じていた。
「あまり気に病むことはない。あれだけ動けていれば十分だ。いい筋してるな」
「そう、です……か」
 ぽんぽんと比古の手が{name2} の頭を撫でる。撫でられると思っていなかった{name2} はぽかんと見上げると、ニッと満足気に頷いている。自分ではまだまだ足りないかと思っていたが、少しは認めてもらえたという事だろうか。
「師匠、セクハラ……」
「あ? 何でだよ、褒めただけだろ」
「えー、知らないんですか。師匠が褒めたつもりでも触られるの嫌って人だっているんですよ」
「めんどくせぇ。そういうもんなのかよ……やだったか?」
「え? いや、べつに……」
 比古と{name2} の手合わせをギャラリーの一人として見つめていた緋村が静かに近づいてくる。静まり返っていた稽古場がそれを皮切りに騒然とし始めていく。比古と{name2} の稽古を観て触発されたのか、それぞれが中断していた稽古には熱が入っている。皆も認めてくれたのだろうか。それならば嬉しい。
 乱れた息をゆっくりとした呼吸で整えていると、にこにこと笑みを浮かべた緋村が{name2} にねぎらいの言葉を掛けながら手拭いを渡してくる。
「{name2} 。今の殺陣、鬼気迫る感じがすごく良かった。連撃も無駄な動きがないし、容赦なく叩き込んでいくかっこよかった」
「……ふぅ……ありがとう緋村」
「{name2} に師匠の事ぼこぼこにしてほしかったけど、師匠も中々しぶといから」
「おい剣心」
「次はボコボコにする」
「{name2} ……それじゃ話が成立しねぇだろ……」
 やれやれと呆れた表情の比古に、楽しそうに笑う緋村。頭の上から離れていった手。ぼんやりとじゃれ合う比古と緋村を眺める。乗せられた大きな手の感触を思い出しながら、触れられた所にそっと手を当てる。緋村はああいっていたが、決して……
「{name2} 。調子はどう? やってけそう?」
「……うん、何とかがんばれそう」
 台本を持った鎌足が{name2} の所までスタスタと近づいてくる。ちらりとまだ言い合いを続けている師弟を一瞥し、自らも鎌足の側へと歩み寄っていく。正直不安がないと言えば嘘になるが、それでもどうにかしがみついてやっていけるかもしれない。それはきっと頼もしい仲間がいるからで。
「鎌足。ここの歌、練習するからアドバイスちょうだい」
「OK! そうこなくちゃ!」
 鎌足と歌い始めると、それに合わせて誰かが歌い始める。それが繋がってまた違う誰かが歌い始める。稽古は初めてのことが多くて大変だけれども、一つのものを大勢で作り上げていくという作業は悪くない。それに、ただ少しだけ褒められただけでもまたがんばろうと思えるならそれも悪くないのかもしれない。

23.02.11 『Show Mast Go On』 初出
(3717文字) No.19 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
Stay who you are.

 夏は蒸し暑く、冬は寒い。今年は数年に一度の寒波が襲来。京の街は雪化粧がお気に入りのようで金閣の屋根が美しいスノーホワイトに染まる日が幾日か。子どもの頃は雪が降る度にはしゃいだものだが、大人になると色々な障害に縛られてあんなに好きだった雪の日もどこか億劫になる。
 今日は寒凪。暦の上ではもう春であるのにまだまだ春が遠いこの時期。凍てつくような寒さに身を震わせながら歩きながらも何処か浮き足立っているのは二月の甘い季節だからだろうか。
「今年のバレンタインはどうしようかしら。志々雄様にはマストだけど、{name2} にも何かあげたいわね。あの子涼しい顔して甘いものに目がないんだから」
 今日会うはずだった友人の顔を思い浮かべ、自然と笑みが溢れてくる。何を上げても喜ぶだろうから何も心配はないけれど、一方で何にするか選択肢が多過ぎるから迷ってしまいそうだ。
「うーん。やっぱり甘いものかしら? 疲れてるからアロマグッズ? お花もいいわ、ね……あら?」
「あ? お前は確か、{name2} の」
 通りの店から出てきたのは鎌足の友人の{name1} {name2} の意中の相手・比古清十郎である。


 * * *


 カランカラン。ドアの上部に取り付けられた呼び鈴が鳴る。人の良さそうなマスターがちらりと鎌足達の姿を見てにっこりと笑うと、お好きな席にどうぞと告げる。
「ブレンド。奢ってやるから好きなもの頼んでいいぞ」
「え、あっ……じゃあ、チーズケーキとブレンド」
「マスター」
「はい、かしこまりました。少々お待ち下さいね」
 コーヒーミルを挽きながらにこにこと微笑むマスターを横目に、通り沿いの窓際の席に腰を掛ける。
 店内はどの街の何処かにあるような喫茶店。少し薄暗い店内に灯る橙の蛍光灯、アンティークの家具、調度品。店内にはマスターの淹れるコーヒーの香ばしい香りと穏やかなジャズミュージック。客達は思い思いの穏やかな時間を過ごしている。古めかしさはあるが純喫茶と言った感じで落ち着き洒落ている。センスがいい。比古の行きつけの喫茶店なのだろうか。コートを脱いで向かいに腰掛ける比古をチラリと見る。
「確か――本条鎌足、だったか」
「ええ、おっさん。私の{name2} がお世話になってるようね」
「おっ……」
 比古は面食らった表情を浮かべたが、すぐに眉間に眉を寄せる。顎を摩りながら、「おっさん」と鎌足に言われた言葉を反芻している。鎌足が嫌味で行ったのだが、少しばかり気にしているらしい。鎌足としては大事な親友を取られてしまった八つ当たりのようなものであるが。
「お待たせしました。ブレンド二つとチーズケーキです」
「ありがとうございます」
「ごゆっくり」
 にこにこと微笑を浮かべるマスターに礼をいい、互いに一杯。
 芳醇なコーヒーの香り、苦味だがコーヒーの味わいを引き立てる為の味わい深い苦味。温かいコーヒーが冬の寒空の下歩いて冷え切った身体を温めて安らぎを与えてくれる。フォークで切り分けたチーズケーキを一口添えれば、チーズケーキの優しい味わいとコーヒーがうまくマッチする。
「今日、{name2} がお前と会うの楽しみにしてだはずだが?」
 ソーサーの上にカップを置いた比古が、鎌足を見る。少しだけ空気が刺々しいのは先ほど鎌足の発言のせいだろうか。
「あの子は仕事の呼び出しよ。バレンタインのチョコ見に行こうって約束してたのよ」
「バレンタイン?」
「{name2} があなたに渡したいって言ってたわよ」
 バレンタインと聞いてキョトンとした顔をしていた比古だが、己のためだと理解すると目がスッと細まった。へえと言いながらカップに手をつける比古は吝かでもない様子だ。{name2} が自分の為に贈り物の準備をしたいと思った事実が嬉しいのだろう。
「(何よ、満更でもないんじゃないよ)」
 きっかけは緋村剣心と言う彼の弟子を通じて知り合ったという。学生時代、剣道部員だった{name2} と緋村は、緋村の剣の師匠である比古清十郎を訪ねては剣の腕前を磨いたと言う。それからずっと師匠と弟子として過ごしてきて、緋村が就職を機に上京してからも二人は時折一緒に休日を過ごしていると言う。映画館へ行ったり、美術館や博物館に行ったり、互いの家を行き来して休日を過ごしたり。ただの師匠と弟子というには少し歪だ。手を出されてもないというから尚の事。
 鎌足は{name2} の親友だ。男のくせに女みたいな態度が気に入らないと一部の人間から白眼視されていたが、{name2} は素直にすごいと褒めてくれた。ファッションもメイクもわからない彼女にメイクをしてやれば、魔法見たいとキラキラした表情で嬉しそうに笑ってくれた。鎌足にとって{name2} は自分を受け入れてくれる大切な存在だ。同性が好きとカミングアウトした時もそっかとさらりと受け止めてくれた。そんな彼女だから比古と一緒で幸せになれるならなって欲しいと願っている。好きな友人を年の離れたおっさんに取られるのは少し悔しいけれども、彼女が幸せになれるなら後押ししてやりたい。
「比古さんはさ、{name2} の事どう思っているの」
「あ?」
「もしその気がないんだったら{name2} から離れて欲しい」
「……なんだよそれ」
 穏やかだった顔が険しい顔に戻る。比古の顔は眉目秀麗という言葉がぴったりと当てはまるほど整っているから、そういう美人が怒ると威圧感を感じる。一瞬たじろぎそうになったが、ここで引くわけには行かないと唇を噛む。
「……っお節介だとは思った。けど、{name2} は私の大切な親友よ。だから大切にしてくれる人と幸せになって欲しいの。だからアンタの気持ちが{name2} に向いているか知りたい」
 持っていたフォークを皿の上に置き、居住まいを正す。目はその力強い視線に。

「比古清十郎。あなたは、{name2} のことどう思っているの?」
 
 * * *

 「何かあったら」と渡されていた合鍵で施錠を開く。玄関を入るとその家の匂いがする。ふんわりと香るサボンの匂い。後ろ手に鍵を閉め靴を揃えて脱ぐ。
「{name2} ?」
 リビングまで入っていけば、ソファの上にスーツを脱ぎ散らかしたまま寝こけている女の姿が目に入る。キャミソールに、レースのパンツ。猫のように丸まって眠っている。
「……黒」
 すうすうと穏やかな寝息を立てながら無防備に眠っている姿に頭を抱えたくなったが、隣の寝室から掛け布団を引っ張ってきて掛けてやる。脱ぎ捨てたワイシャツやスーツを拾い集めて、洗濯籠やハンガーに吊るしたりしてやる。どうやら帰ってきてそのまま力尽きたらしい。
 比古は{name2} の目の前にしゃがみ込んで覗き込む。目元にはうっすらとクマが出来ている。あまり眠れていなかったのだろうか。指先で目元を撫でて、頬に掛かった髪をどかしてやる。薄紅色に色付いた唇から小さく漏れ出る寝息。穏やかな表情を浮かべて眠っている。一体どんな夢を見ているのやら。
「ん……ひこ、さん……それは、エタノールだ……お酒じゃないよぉ……」
「何っていう夢を見てんだ、こいつ」
 へへへと呑気に寝言をいう彼女に、溜息が零れる。ぐにぐにと頬を引っ張ってやると、ううっと苦しそうに唸るので、すぐに手を放してやる。ぺしっと額を叩いて立ち上がる。
「仕方ねぇな、寝かせとくか」
 窓際に置かれたままの陶器の花瓶を手に持つと台所へと持っていく。花瓶を軽く濯ぎ、水を入れると買ってきた薔薇の花束を移し替える。丁寧に活けて満足すると、冷蔵庫を開いて買ってきた包み紙を入れようとする。
「お。今年はガトーショコラか」
 タッパーに冷やされたガトーショコラを見つけてそれと引き換えに包み紙を冷蔵庫に入れ替える。湯を沸かしてコーヒーを準備しつつ、再び花瓶を窓際に置く。淹れたてのコーヒーとタッパーを片手にソファーを背に床に座り、タッパーからガトーショコラを取り出した。一口食べてみると甘さを控えめにしたようで、思いの外甘すぎず丁度良い。比古が酒を嗜むと把握しているからだろう。ラム酒が程よく風味が効いている。あまり甘いものは食べないのだが、毎年この時期になると{name2} がせっせと食べやすく作ってくれるので、その分だけは残さず食べることに決めている。
「ウィスキーかブランデー辺りが欲しいところだが、仕方ねぇな」
 淹れたてのコーヒーのお供にガトーショコラを食べ進める。昼下がりの穏やかな光、背中から伝わる微睡みの気配、柔らかい{name2} の匂い、コーヒーとガトーショコラの香ばしくも甘い匂い。息をゆっくりと吐き出して空になったカップとタッパーをテーブルの上に置く。
「いつもありがとうな」
 囁くように呟いて{name2} の寝顔を覗き込むと、触れるだけの口付けを落とす。よしよしと頭を撫でるとピンポンとインターホンが鳴る。宅急便だ。いまだに起き上がる気配のない{name2} を一瞥しつつ、玄関まで受け取って再びリビングまで戻ってくると、ようやっと目が覚めたらしい{name2} が身体を起こしていた。{name2} と呼べば、うんと気の抜けた返事が返ってくる。ぼんやりと何を見ているのかと視線をたどると、先程飾った窓際の薔薇をじいっと眺めていた。その耳は少しばかり薔薇のように赤く色づいているようで、おやァと思うよりも早く口角が吊り上がる。
「おはよう。口元にチョコレイトついてるぞ」
にやりと笑いながら{name2} の唇をなぞれば、真っ赤な顔をした{name2} にうるさいと睨みつけられた。

22.02.14 『Stay who you are.』 初出
(4022文字) No.18 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
As you like it

 幼い頃は野山を駆け回る方が好きな子どもだった。
 少女達が好きなおままごとはあまり好きではなくて、どちらかというと鬼ごっこや日曜日の朝に放映されるヒーローのごっこ遊びの方が好きだった。ヒーローでも悪役で何でも。少年達に混じって縦横無尽に駆け回っている方が好きだった。少女達が大好きな色恋の話よりも幼い頃から習っていた剣道が好きで、少女達からは風変わりな子だと言われてきた。気には留めなかったが、男勝りだと揶揄されてきた。
 そんな{name2} でも好きな人がいた。心臓が震えるほどに、呼吸が震えるほどに。ただ、あいしていると伝えたい人がいた。熱に浮かされたように想いを募らせていた。身の内側から静かに焦がし、燃やし尽くされる恋だった。ただ隣にいるだけでも幸せで、ずっと一緒にいたいと願っていた。願ってしまった。叶わぬ、恋だった。彼にとっての{name2} は大切な妹でしかなかった。かわいい妹。彼は{name2} の最愛の人であるが、{name2} は彼の最愛の人にはなれない。そんな彼に思いを告げられるわけもなく、彼は{name2} の知らない女性と結ばれてしまった。
 今度こそ告白するのだと作っていたチョコレートは渡せぬまま、ゴミ箱の中に初恋と共に溶けていった。

 {name2} は思わず苦い顔をする。セーラー服を身にまとっていた学生時代から時分よりも大人にはなったが、苦い記憶というものは中々どうしてか消化されないものである。
 目の前の催事場には、バレンタインフェアと可愛らしいデザインフォントと色掛かれたパネルが天井からぶら下げられている。小さな少女から素敵な婦人まで。女性は誰しもが恋する乙女だ。ショーケースの中に陳列された見本のチョコを真剣な眼差しで吟味している。
 日々忙しく過ごしていたから{name2} はすっかり忘れていたのだが、季節は二月上旬。バレンタインデーの日を目前としていた。
 ──バレンタイン。キリスト教のお祝いの日。聖バレンティヌスに由来する記念日。カップル達の愛の日。家族や恋人といった大切な人に贈り物をする習慣がある。それがどういったわけか、日本においては女性が意中の相手にチョコレートを贈り、愛の告白をする日となり随分と年月が経つ。
 基本的にバレンタインデーと言えば、女性から意中の男性へと愛の告白とともにチョコレートを贈るイメージが根強いが、昨今では友人に贈る友チョコや日頃の自分へのご褒美としての自分用チョコ、お世話になった相手へ贈る義理チョコなど、チョコレート一つ贈るにも形態は様々である。
 初恋の相手に贈ろうとした日以来、{name2} はバレンタインを祝うことを止めた。もちろんもらえば、お返しにホワイトデーにお菓子を渡したりしていたが、自分から参加しようとすることはなくなっていた。あの日以来、手作りでチョコレートを作ることもない。
「あら。そういえば、もうすぐバレンタインだったわね。自分へのご褒美に欲しかったのよ。見ていきましょ!」
「え、あ、うん」
 隣にいた友人の鎌足が目をきらきらと輝かせた。鎌足は学生時代からの{name2} の友人であり、気の置けない仲である。お互いに忙しくしていて、久々に会うことになっただが、彼女は昔からイベント事が好きで、マメにこういった行事に参加しては楽しむタイプの人間だった。{name2} 自身はそういったイベント事に積極的に参加する方ではないが、鎌足に手を引かれては色々なイベント事を一緒に楽しんできたため、昔のように{name2} の手を引いて催事場へと歩き出す鎌足に小さく笑う。最初は乗り気ではなくとも彼女に手を引いてもらうと、最後には一緒に楽しんでいたなとしみじみと握られた手をみつめる。催事場の中へ躊躇いもなく入って行くと、彼女はわくわくとした顔でチョコレートを物色し始める。その顔は昔と変わらず楽しそうで、先ほどまで苦い記憶を思い出して憂鬱になっていた{name2} の気持ちを吹き飛ばしてくれるかのようだった。
「これ、おいしいわよ。アンタも食べなさい」
「ははっ。鎌足が作ったんじゃないのに」
「こっちは選ぶのに真剣なんだから、遠慮しないでどんどん食べなきゃ損よ! 」
 店員の女性から試食のチョコレートをもらって、当然のように{name2} の分だと次から次へと渡してくる。遠慮のなさに{name2} は苦笑いしつつもそれを受け取り、一つずつ食べながら展示されているチョコレートの見本を見ていく。
 チョコレートと言っても実に豊富な種類がある。定番のハートの形のチョコレート、ホワイトチョコレート、抹茶のチョコレート。それぞれの会社で出しているチョコレートには特徴が大きく異なっていて、中々にバラエティー豊かで視覚的にも面白い。こちらも美味しいですよ、と朗らかな笑みを浮かべる店員の女性が渡してくる試食品のチョコを食べてみると、コクがあり、チョコレート特有の甘味が舌の上で踊る。生チョコレートなどは舌に乗せた瞬間に蕩けていく感覚が心地よく、思わず買いたくなってしまうような品だ。
「(このチョコはお酒が入ってるんだ……こういうのなら食べそう)」
 ふと、暫く会っていないとある男の姿が脳裏によぎる。
「そういえば、あの男とまだ続いているの?」
「え?」
 間髪入れずに鎌足の小綺麗な顔がくしゃりと歪む。
「あの比古とかいういけ好かない男よ」
「ああ。……ふふっ、比古さんか」
 脳裏を過った人物を言い当てられたようで{name2} はどきりとしたが、鎌足の気持ちはわからなくもないのでクスリと笑う。
「気障ったらしくて、私は嫌よ。あんなおじさん。むかつく!」
「ふふふっ……いけ好かない、おじさん……」
「笑ってんじゃないわよ!」
 鎌足の歯に衣着せぬ物言いを{name2} は気に入っている。彼女──正確には彼だが──のさっぱりとした性格が好きで、学生時代一緒に過ごしていた。大した面識のない相手にさえこれであるから、思わず苦笑いしてしまう。だが、それは彼女のよいところでもあると{name2} は思っている。
「{name2} ってば、あいつに良いように扱われてない? 大丈夫なの?」
「なんで? 私と比古さんは師と弟子みたいなものでしょう?」
「それは昔の話でしょ。わからないわよ。弟子の緋村とアンタの三人ではそうかもしれないけど、緋村が上京した今は男と女の二人きりでしょ。アンタ、容姿はそんな悪くないからいつく食べられても可笑しくないわよ」
「食べる、って……比古さんは別にそんなことは考えてはないと思うけど? 昔から緋村と一緒に剣道教えていた手前その延長線上の付き合いだと思うけれども」
「そうかしら。私はそうは思わないけど。男と女で、アンタのこと気に入ってはいるんでしょ。{name2} が嫌じゃなければ何も言わないけど、少しでも不快に思うのなら会うの止めた方がいいわよ」
 {name2} はチョコレートを見つめていた視線を移し、まじまじと鎌足の顔を見る。その表情はいつになく神妙な面持ちを湛えていて、開きかけた口を噤む。
 彼女なりに友人が年上の男に騙されていないかと心配してくれているらしい。彼女はドライなようで、{name2} の事を昔から気にかけている。そういう心配を彼女は昔からしてくれて、{name2} はそれがありがたく嬉しいかったりする。ハッキリと物事を言うので敬遠されてしまうところもある彼女だが、心根はとても優しいのである。少しだけ口は悪いが。そこはご愛嬌。
「鎌足、心配してくれてありがとう」
「アンタって薄氷の上に立ってるような感じがして心配なのよ。いい? あいつに苛められたらすぐに私に言いなさいよ。ぶっ飛ばしてやるから」
「私、鎌足と結婚する……」
「嫌よ。私、あんたの面倒見きれないわ。アンタのこと引っ張っていけるのあの男ぐらいよ」
「え? さっきと言ってること矛盾してない?」
「だってなんか大事な親友取られるのシャクに障るのよ!」
「鎌足、結婚……」
「嫌よ」
「がっかり」
「友達として好きよ、{name2} 」
 今日は私が奢ってあげる。そう言ってウィンクをする鎌足は{name2} が持っていたチョコレートの箱をひったくるとあっという間に会計を済ませてしまった。
 鎌足はああいっていたが、比古は自分の事をどう思っているのだろうと{name2} は少し気になった。そして、{name2} 自身は比古の事をどう思っているのだろうかという事。鎌足から指摘されて気づいたが、第三者からしたら比古と{name2} は男女の関係と捉えられる場合があるようだ。言われてみればそういった見方も可能なのかもしれない。当事者である{name2} は全く想像もしていなかった。{name2} としては一環として師匠と弟子というような関係だと思っていた。同じ剣道部だった緋村剣心に紹介され、比古の下へ通って稽古していた。{name2} からしたら剣の師。比古からしてみれば突然降って沸いて出た二人目の弟子といったところだろう。剣の才能は認めてくれているようで、{name2} が学生大会で無敗記録を打ち立てたときには感心していた。男にだって引けを取らない実力を持っていると褒めたこともある。
 だが、それが男と女という視点となると疑問である。恋人たちの甘い関係などはない。たまに会えば、近況報告のように食事に行き、手合わせをしたり、その程度のものだ。
 うーんと考え込んでいる{name2} を見かねたのだろうか。鎌足は呆れたように笑って、{name2} の頭をぐりぐりと撫でつける。
「知ってる? 運命の相手はいい匂いがするのよ」
「え?」
「──まあ、いつもお世話になってるんだったら感謝の気持ちのつもりでチョコレート贈ってみたら。いい機会なんじゃない?」
「う、うん」
 にっこりと笑う鎌足に、{name2} はそれもそうかと納得する。久し振りに手作りでもしてみようかとぼんやりと考え始める。



「……バレンタイン、どころじゃなかった」
 偶然にもバレンタインの日と休みが重なったと感心していた矢先のことである。バレンタインといえば、愛の告白のイメージが先行してしまうが、外国では家族や友人など大切な人に感謝の気持ちを込めて贈り物を贈るという。鎌足にも助言をもらった。確かにいつも世話になっているし、いい機会だと思った{name2} は買っておいたチョコレートやココアパウダーで生チョコを作ることしていた。人並みにレシピを見たりしたりすれば料理はできるものの、あまり凝ったものは作れないので、以前Webサイトに載っていた簡単に作れるという謳い文句の生チョコレートを作ることにした。材料によってはビターな仕上がりになるとのことで、甘めなものが苦手な男性でも食べやすいとのことだ。加えて、お酒が入った生チョコなので酒を嗜む比古は何だかんだできっと食べてくれるだろう。
 早速材料を集めて、チョコを溶かしながら混ぜる。更にそのチョコレートの中にお酒と生クリームを少し入れて混ぜ込んでいく。バットにクッキングシートを引いてその中に溶かしたチョコを流し込む。冷蔵庫で数時間冷やした後、包丁で切り、ココアパウダーをまぶせば完成だ。心地の良い達成感。後はラッピングをして渡すだけだ。そこまでは出来た。
 問題はその後だった。急遽入った呼び出しで休日が一転。人手が足りないから応援が欲しいとのことで渋々出勤する羽目になった。
 その後は散々なものだった。高齢者の住宅に侵入した空き巣事件の操作、銀行強盗犯による立てこもり、マンションの上下階の生活音を巡るトラブルによる口論から発展した人傷沙汰の事件、果ては迷子のお守りと親探し。
 次から次へと起きるトラブルに奔走し、すべての事件の処理一段落させて帰路に着く頃には二月十五日の斜陽を拝む事になっていた。学校指定のセーラー服やブレザーを着た少女達や学ランのしょうねん達が友人とのおしゃべりに花を咲かせながら帰路へと向かう。斜陽の光に包まれてきらきらと輝いて見える彼らが眩しくて、やるせない気持ちにさせる。
 くたびれた自身のパンツスーツ姿を見て大きな溜息を吐いて、帰路へと向かう。渡すどころか会いに行くことすらままならなかった。仕方ないと思いつつ、渡せなかったことが少しだけ心残りだ。陶芸家として名の通っている男だから基本的に山小屋に籠もっては土を捏ね、土を焼いている。集中した作業になるので次はいつ会えるかわからない。冷蔵庫の中に入れたままのチョコレートは帰ったら処分する他ないだろう。そうだ、自分で食べてしまうのがよろしい。
 疲労でふらふらとしながらも自宅にたどり着く。だが、へろへろだった{name2} の眼光は鋭く研ぎ澄まされていく。
 ──部屋に誰かいる。
 疲労で澱んでいた空気を薙払い、気を張り詰める。先程の満身創痍を感じさせない臨戦態勢。
 音を立てずにドアを閉めると、足音と気配を殺して進んでいく。どうやらリビングの中に人がいるようだ。泥棒だろうか。警察官の自宅に泥棒が入るなど洒落にならない。ぎりっと奥歯を噛みしめて、リビングルームに続く扉を開けようと手を伸ばす。だが、{name2} がドアのぶをひねる前にぐっとドアが引かれ、{name2} の身体は前のめりに傾く。しまった。咄嗟に受け身を取ろうと身構えるが、中にいた人物に腕を引かれて抱え込まれる。
「危ねぇな、大丈夫か?」
 ふんわりと匂う清潔感のある香水の匂いが{name2} の鼻を掠める。分厚い筋肉の鎧。がっしりと抱え込む太い腕。さらりと頬にかかる長い髪。端正な顔立ちの男が{name2} の顔をのぞき込んでいる。
「比古、さん?」
「仕事か? ご苦労さんだったな」
「ん……」
 よしよしと節くれだった手が{name2} の頭を撫でて労う比古の姿に、張り詰めていた空気がしゅわりと泡のように溶けていく。空き巣ではなくて良かったとほっと胸をなで下ろすと、隅に無理矢理押し込めていた疲労感がぶり返していく。身体の体勢を立て直そうと比古の厚い胸板を押して立ち上がろうとするが、よろよろとふらついてしまい、比古を巻き込んでソファーの上にダイブする。
「おい、{name2} 」
「ははっ、ごめんなさい。力が上手入らなかった」
「無理するぐらいなら寄りかかってろ」
「いっ!?」
 ピンと額を小突かれる。手加減して小突いたのだろうが少し痛くて思わず額をさすっていると、からからと笑う気配が密着した身体から振動として伝わる。そっと耳を胸につけ、手を添える。脈を打つ音に耳を傾けて静かに目を瞑る。とく、とく、とく。優しい、鼓動と暖かいぬくもりに尖っていた神経が解れていく。
 人手が足りないと応援で呼び出され、ひったくりやら強盗犯やら何やらとジェットコースターのような一日だった。それこそ治安の悪さを心配するぐらいの事件の多発。そう滅多にあることではないのだが、こういう馬鹿みたいに事件が連発することも時折ある。怒号も飛び交う混沌を極めた状況を乗り越え、こうして優しく労われるのは報われた気がして、嬉しかった。
「つかれた」
 大きな身体に腕を回してぎゅっと抱き締めると、{name2} の耳許で息を飲む音がした。
 そして、暫くの沈黙の後、比古の止まっていた手が再び{name2} の髪を撫で始める。
「俺だからいいが、軽率に男に抱きつくんじゃない」
「しないよ。しても比古さんと緋村と鎌足ぐらいかな」
「あのバカ弟子とあいつも駄目だ。特にあの赤い髪のあいつ」
「えー。お祝いの時に喜びをわかちあえないじゃないか」
「それは抱きつかなくてもできるだろう」
「まあ、それもそうだけど。その時の気持ちが高ぶったときってやってしまう時もあるので」
「やめなさい」
「……はい」
「いいこだ」
 するりと骨張った手が{name2} の頬を撫でる。それは幼子をあやすように優しい。目元に指先を滑らすと、その薄い皮膚を揉んでいく。
「ちゃんと飯食ってるか? 随分とやつれている」
「ほんとは昨日お休みだったんですけどね。呼び出しかかってしまってね」
「あまり無理はするな」
「自分で選んだんだ。そうもいかないよ」
「あまりにも辛いなら辞めるのも手だぞ」
 その言葉に、{name2} は目を開き、撫でられていた手をそっとどかすと立ち上がって比古を見下ろす。
「それはない。私は辞めない。辛くとも辞めるつもりは毛頭ない。たとえ、殺されたって辞めるものか」
 先ほどまでの満身創痍の状態とは打って変わって、無機質な表情の{name2} 。その瞳には静かに灯る光が轟轟と燃えている。それをじっと見上げていた比古は口角を上げて笑みを浮かべる。
「……そうだ。それでこそだ。お前のそういうところが俺は好きだぜ」
「相変わらず意地が悪い。焚きつけといて」
「そんなことはねぇよ。俺なりの優しささ」
 もう大丈夫そうだな。そういってソファから立ち上がると、ポンと{name2} の頭を撫でて玄関へと向かって歩いていく。
「比古さん?」
「ちゃんと食べて今日はさっさと休め。冷蔵庫に何もなかったから食い物入れておいた」
「? 泊まっていかないの?」
「嫁入り前の女のところに軽々しく泊まらねぇよ」
 ちゃんと休めよ。そういって部屋を出ていった比古。{name2} はそういう気遣いできたのかと感心した。だが、一つ疑問は残る。はて、結局何しに来たのだろうか。{name2} は小首を傾げて考えてみるが、てんで見当もつかない。思いつかないものだからもういいとすぐに考えるのを諦めると、あっと思い出す。そういえばチョコレートを比古に渡すのをすっかり忘れていたのだ。否、チョコレートを食べているところ見ないからもらっても困るかもしれないのだが。それでも、日頃の感謝は伝えるべきだ。いつ伝えられなくなるかわからないのだ。今から走って追いかければまだ間に合うだろうか。{name2} は慌てて冷蔵庫まで駆け寄って、ドアを開く。
「あ」
 冷蔵庫の中に入っていたはずの生チョコの姿は跡形もなくなっていた。代わりにきれいにラッピングされた見慣れない箱がいくつか入っている。その箱の上に乗っていたメモ用紙の切れ端には走り書きで一言。うまかったと書いてあり、思わず笑ってしまった。何だそういうことか。
 ポケットに入っていたスマートフォンが着信を告げる。メッセージアプリが受信したメッセージには鎌足からのメッセージが届いていた。
 ハッピーバレンタインと書かれたメッセージ、突然の比古の来訪。──やってくれたなと思うと同時に、次に会った時にはお返しをしてやらなければなあと{name2} はほくそ笑んだ。

『As you like it』 初出:21.02.17
(7762文字) No.17 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
ミミック!

 ショーウィンドウの中を見つめるその視線は財宝を見つけ出した海賊だった。
 キラキラと色鮮やかな宝石が焼き菓子の上に所狭しと乗っている。一つは桃、一つはぶどう、一つは梨。ブルーベリーやイチゴなど数種類乗せたもの。そういったケーキが何種類もショーケースの中でじっと息を潜めている。
 洋菓子店の店前でじっと佇んでいたその女は、それを見て瞬いた。浮雲のように流れていく普段の女からは想像しがたいような執着である。じっと羨望を含んだ色を乗せた視線は子どもそのものであり、その普段済ました顔はキラキラと明るく輝いて見える。
 その様子を見て、そういえば、甘いものが好きだったかと連れ立っていた男は思い出す。少し離れた先の彼女を眺めていれば、根を生やしたかのようにショーケースの前に釘付けになっている。その向かい側に待機している店員の女は心なしかそんな女を微笑ましそうに見守っている。
「どれが食べたいんだ?」
 はっとした女が男の方へ視線を向けた。その顔はショーケースのフルーツタルトに見惚れてて男の存在を今しがたまで忘れていたという決まりの悪そうな顔であった。
「お気遣いありがとうございます。ですが、大丈夫です」
 慌てて男に追い付こうとした女を制止し、男自ら女に歩み寄っていく。
 女の隣に立った男がショーケースに合わせて屈んでみると、なるほど、隣人が好みそうなケーキばかりである。
 比古サンと弱弱しく呼ぶ女を一瞥し、比古もケーキを品定めしていく。
「どれがいいんだ」
「い、いいんですって……もう帰るんですから」
 居た堪れないと言わんばかりの女は男の洋服の袖を引いて立ち上がるように促す。
 その一部始終を見ていた店員は女の思惑とは裏腹に、比古を援護するように助け舟を出す。
「ご試食も可能ですよ、いかがですか」
「え、いや、あの」
「おい嬢ちゃん。一切れずつくれ」
「ありがとうございます。準備いたしますので少々お待ちください」
 にこにこと満面の笑みを浮かべる店員が、手際よくショーケースから一切れずつケーキを紙箱に移していく。
比古が徐に財布を取り出せば、横から勢いよく女の手が伸びてきて比古の手首を掴む。
 ダメだ、と首を振る切迫した表情の女。これは比古がしてやりたくてしている厚意であるから比古にとってはそこまで遠慮しなくてもよいのだが、それでもなお奢ってもらう道理が無いなどと野暮なことを考えて居るのだろう。そういう所は真面目だ。男の下心に感づいていないはずがなかろうに。
 財布を出そうと鞄を漁る女はどこまでも他人行儀な女であるが、そういう女だからこそ、比古は少し甘やかしてやりたいと思ったのである。
「お、お金払います……比古さん、あまり甘味はお食べにならないでしょう」
「いらねえ。その代わり半分に分けろ、俺も食べる」
「え」
「お前の好きなもんを俺はもっと知りたい」
「おまたせしました、こちらお品物になります」
「ほら」
「え、はい」
 戸惑いを隠せない女に、店員からケーキの詰め合わせが入った紙箱が渡される。中には保冷剤とフォークが二つ入っているとにこやかに店員に、おずおずと礼を述べる女を満足気に比古が眺めていれば、店員の女からアイコンタクトが飛んでくる。
 またお越しください。
 そう言った店員をしり目に、きっとこの女はこの店には二度と来ないのだろうと渡された真新しいスタンプカードを財布にしまい込む。少しばかり忌々しそうに比古を見つめる女の手を取って、歩き出すと、女は何とも言えない顔でとぼとぼと歩き始めた。
「誰かにケーキ買ってもらうのは初めてです」
 ぽつり。そう呟いた女の顔を思わず見る。まっすぐ前を向いたまま、紙袋を大事そうに抱え込んでいる。
「親は」
「兄が体が弱くて入院していて、そちらで手一杯で私はよく放し飼いされていました」
「放し飼いって、お前な……」
「いつも放っておかれたので不仲ですし、口も聞いていません」
 だから、ちょっとケーキ分けて食べるってワクワクしますね。
 少しこそばゆそうに口を緩めている女。過ごして来た家庭環境に難があるのはなんとなしに察しは付いていたが、そういう普通のことを満足に過ごせずにここまで流れ着いてしまったことには、少し同情的になってしまう。だが、当の本人は微塵も自分を哀れだとも思っていないのだろう。珍しく浮かれた様子の女が自然と自分の手を掴む力を強めるのを感じて、なかなかどうして悪くないと思ってしまった。
「比古さん、ありがとうございます」
 早く帰って食べましょうと楽しそうに鼻歌を歌い始める女に釣られて、そこまで興味のなかったケーキの箱に視線を移す。普段すました顔の女がこうも明るい表情で笑うのだから、また今度も買ってやろうと喜ぶ顔を浮かべ、自然と口元を緩ませた。
 
19.09.01 初出 『ミミック!』
(2010文字) No.16 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
晴れるや

 暮れ泥む。水平線の際が燃える橙から群青へと美しい色彩を引いていった。深々と積もり始める静寂。長い夜のはじまり。水平線にすっぽりと姿を隠して太陽が眠り始めれば、急速に冷え込んで行く夜の街。手提灯の仄かな灯火が凍えるような寒さで俯く心を上向かせるように導いていく。
「へくしゅっ!」
 襟巻きを整えて口元を覆う。澄んだ空気が一層身に沁みる。吐く息の白さも身が震える水の冷たさも、今はまだ見ぬ春が恋しくなる。悴んだ手のひらに息を吹きかけてみても焼石に水だ。すぐさま止めた途端にひんやりと冷たくなる。じわんじわんと寒さで手が悴んでしまう。
「くしゅん、くしゅっ、くしゅっん、くしゅっ!」
「……何だ。手袋持ってこなかったのか」
 振り返る痩せた狼は訝しげに息を吐く。
「忘れました」
「あらら……僕の貸してあげましょうか?」
「それじゃあ沖田さんが寒いでしょう」
「お、何なに? {name1} は手袋忘れたのか? 俺の貸してやろうか?」
「永倉さんは手汗がすごそうなのでちょっと……」
「ひどい!」
「それにしても今日は冷え込みますね。雪でも降るんでしょうか?」
「確かに昨日よりも冷え込んでいるな」
「おーい、無視しないで……?」
およよよ、とがっくりと肩す永倉。あくまでも冷静な斎藤に立ち止まる方が寒いと歩くように促されるとしょぼんとした永倉は歩き始める。そんな様子を後方で歩いていた{name3} は静かに息を吐いて、来た道をそっと振り返る。疎ながらも夜更けに出歩く人もいて、彼らも初詣に向かうといったところだろうか。皆寒さに縮こまりながらもどこか表情は明るい。新しい年に期待を寄せているから待ち遠しいのだ。手持ち提灯がゆらゆらと揺れる姿も浮き足立っているかのようだ。
「へっくしゅん!」
「ほんとに風邪引いちゃいましたかね?」
 くしゃみの反動でズレた襟巻きを、今度は沖田が丁寧に直してくれる。心配そうに見つめてくる彼に小さく首を振る。
「う……ずっ…大事、ない、です」
 くしゅん。再びくしゃみをする。今日は本当によく冷える。無理しないでくださいねと困ったように言った沖田に頷いて、またズレそうになる襟巻を整える。
「今年もあっという間、でしたね」
 ぼんやりと墨色の空を見上げていた沖田に、つられて空を見上げてみる。垂れ込んだ夜にそっと呼吸をする星の綴り。空気は冷たく、張り詰めた糸のようにピンと張っている。頬を掠める空気も冷たくて肌がひりつく。凍えるような寒さはいつもよりも一段と寒い。寒さで震える身体がたどたどしく息を吐いた。
「……そう、ですね」
「色々と大変なこともあったけど、皆が一緒だったから良かった」
「ええ」
「{name3} くん、それはあなたのことも言っているんですよ」
 沖田は空を撫でていた視線をこちらに向けた。その後ろを駆けていったのは、流れ星だっただろうか。ぽかんとして見つめていると、にこりと微笑んだ沖田が{name2} の両手を引く。「手冷たくなっちゃいましたね」と温めるように擦る。ぎょっとしてビクリと震えると、ぱちくりとして{name2} を見つけていたが、ぷっと吹き出してクスクスと笑う。沖田は己のしていた手袋を外すとそれを{name2} の手につける。
「え」
「風邪引いたらつまらないですからね」
「これでは総司の手が冷たくなってしまうからダメです」
「ボクは大丈夫ですよ」
「私が嫌です」
 片側を外してすっと目の前に差し出せば、きょとりとした沖田は仕方ないなと苦笑を浮かべて片側だけ手袋をつけた。
 行きましょう。そう言って剥き出しになって言える互いの手を取り合って歩き出す。前を歩く沖田の結髪は機嫌が良さそうに揺れる。彼もこの街の雰囲気に浮かれているのかもしれない。本当に不可思議な心地だ。大晦日というだけで、街はどこか普段と雰囲気が違う。お祭りのように浮き足立っている。昨日も今日も変わり映えのしない日でただ大晦日というだけで同じようなものなのに。露店にはちらほらと店を出す者もいて甘酒や鮓、天麩羅、蕎麦などの店は賑わいを見せ始めている。新しい年に期待を乗せた除夜の鐘が夜の帳に響き渡る。こぼれた息は白く冷たい。
 ――にこりと微笑む、星。
「おーい。二人とも早く早く! 早くお蕎麦食べに行こうよ、斎藤が苛々してるから」
「してません」
「ほらはやくー! お蕎麦食べたら甘酒飲もう!」
 ぶんぶんと手を振る永倉、むっつりと眉間に皺を寄せた斎藤が遅れた二人を待っている。
「はーい。今行きます!」
 少し急ぎましょうか。そういう割には速度を上げずにそのままの速さで歩き続ける沖田。怪訝に思いながらも、その歩幅に追いていかれまいと指先に力を込める。呼応するように握り締められた温かい指先から熱が伝わる。温かくて心地良い。温かくて離れ難い。
 前を行く彼らに追いつくと、するりと離れた指先はすぐに冷めてしまった。

「──起きろ、阿呆」
「あ、れ?」
 トン、と手刀が脳天に落ちる。ぱちぱちと瞬き、ぽりぽりと頭を掻く。はて。一体ここはどこだろうか――。冴えない頭のまま辺りを見回すと、見慣れた警察署の資料室中であった。床には資料が散乱したままになっている。どうやら調べ物をしながら座り込んで眠ってしまっていたようだ。視界の端に靴の先が映り、足元から手繰るように顔を上げると、目の前には胡乱げな表情を浮かべた斎藤一が佇んでいた。呆れたといった大きな溜め息を吐かれ、再びぱちぱちと瞬く。
「やっと起きたか、阿呆」
「あー? 斎藤、さん? ……すみません。寝てました?」
「涎ついてるぞ」
「え?」
「冗談だ。阿呆め」
 慌てて袖で口元を拭えば、やれやれと言ったようにまた深い溜息を吐く。斎藤一。{name1} {name2} とは今も昔も仕事仲間といった所。言葉は乱暴ではあるがわかりやすくいえば、腐れ縁。今しがた見ていた夢の中にも彼は登場していた。昔の――幕末の頃の夢。泡沫のように優しい、懐かしい夢だった。いつだったか目の前の男と他の旧知の男達と初詣に出かけた時の記憶だ。同じ組織の仲間という括りではあったが、斎藤とはつかず離れずといった関係であって、仲良いわけではなかった。それでもあの日、仲間達に誘われて初詣に行った記憶は今でも鮮明に覚えていて、今のことのように思い出される。
「……へっくしゅん!」
 窓を開ける音がして、ちらりと視線を向ければ、深々と冷えた冬の夜の冴ゆる空気が滑り込んでくる。目が覚める寒さに思わず身震いをする。シガレットケエスから一本煙草を取り出した斎藤は流れるような動作で燐寸を擦り、煙草の先に炎を灯す。煙草の匂いが瞬間、充満していく。斎藤は口に咥え、静かに少しゆっくりとした調子で吸い込むと、ゆっくりと息を吐き出した。
「また煙草ですか? あんまり吸いすぎるのもどうなんですか?」
「うるさい」
 窓辺に佇む斎藤の隣まで移動すると、窓の外を眺める。横から飛んでくる忌々しそうな視線は黙殺する。転寝をする前は部屋に日が差し込んでいたがいつの間にかに外はとっぷりと暮れている。空には幾千の星が密やかに囁き合っている。地上では暗闇の中、ちらほらと手提灯の仄かな光が点々と見られる。何処か浮足立った気配がして、「おやア?」と首を傾げる。心なしか往来を歩く者たちは普段より多い。中には露店らしきものも見える。
「なんか賑やかですね?」
「今日は大晦日だから浮足立ったやつらも多い。中には度し難い阿呆らも多い。今日は見廻りの人員をも増やしている」
「私達もいつぞやは浮かれた阿呆でしたね」
「……いつの話をしているかと思えば」
 {name2} が見た過去の夢の話をすれば、憶えていた斎藤は眉間に皺を寄せた。年越しぐらいは静かに過ごそうと思っていたところを永倉と沖田に初詣に誘われ引きずり出されたのだった。そのことを思い出したのだろう。{name2} も斎藤と同じで永倉と沖田に引きずり出された側ではあるが、今振り返ればあの時は仲間たちと楽しく過ごすことが出来たし、誘われて初詣に行ってよかったと思う。
「――今となってはいい思い出だと思いますけど」
「誰も悪いとは言っておらん」
 フンと鼻を鳴らした斎藤に、{name2} はパチパチと瞬きをして、緩やかに相好を崩す。斎藤が吐き出した紫煙がそっと夜の空を駆けていく。
「あ、そうだ、斎藤さん。お蕎麦食べに行きましょうよ」
「は? お前と?」
「え、何で嫌そうな顔するですか。久々に見廻りがてら行きましょうよ」
「食べたいなら一人で行け。なんで仕事終わりにまでお前のお守りをしないとならん」
「え、仕事終わったんですか?」
「お前が寝こけてる間にな」
「ええ~。私まだ終わってない……」
「……はぁ。もう今日は切りのいいところまででいい。急務ではないから、使う時までにしっかりまとめておいてくれればいい。どうせ今日のお前は使い物にならん。俺は帰るぞ」
「はは、手厳しい。……わかりました、お疲れさまです」
 ふぅと大きく息を吐きだした斎藤は、机の上にある灰皿に煙草を押し付けて火種を消す。窓を閉めて、ちゃんと戸締りしろよと資料室をでていこうとする。その背中を見送りながら、作業に戻ろうとしていた{name2} だが、くしゅんとクシャミをすると、斎藤が扉を開けて立ち止まり、くるりと振り返る。
「手袋はいるか?」
 ニヤリと嗤うこの男に、{name2} は苦笑して首を振る。
「――いいえ。もういらない」

 * * *

 斎藤が退出してから一刻は経っただろうか。乱雑に散らばっていた資料を整理し、今後利用するものはすぐ利用できるようにまとめ終えることが出来た。もちろんこれが全てではないが部屋を出ていった斎藤が急務ではないと言っていたこともあるし、区切り良いところで一区切りとして切り上げることにしたのである。作業中に転寝するぐらいではあるから何だかんだで身体の隅には疲労感が蓄積しているのだ。片側の肩を押さえて首を左右に、ほぐすように動かすと、パキパキと固まった肩回りの肉が悲鳴を上げる。この様子では年越し蕎麦よりも帰ってゆっくりと休息を取った方が良いかもしれない。はあ、と重く吐いた息は冷たい。
 資料室内の後片付けを済ませ戸締りをし、{name2} も警察署を後にする。宿直の担当者に挨拶をすれば、羨ましそうに視線を送られたが、すぐに気を付けて帰れよと気遣いの言葉が送られてぎこちなく笑った。難儀なものだ。
 警察署の外に出ると先程よりも一層冷たい空気が垂れ込めていた。深々と夜が降り積もり続けている。研ぎ澄まされていくように空気は冷たく、美しい。良く晴れ渡った空に泳ぐ星々が一層きれいに光り輝いている。普段は静かな夜だが、今日は大晦日。戌の刻を過ぎたが、普段よりも出歩く人々は多い。この光景はあの頃と、昔も今も変わらない。新しい年に期待を募らせて、足取りが軽やかになる。良い一年だったと言える人にも、そうでなかったと思う人も、”来年も”、”来年こそ”は、と希望を抱くのだろうか。往来を行く人々の顔はどこか晴れやかに見える。中には酔いどれ達が道端で吐き戻したり眠りこけていたりするのだが、それもまた新しい年に期待して浮かれてしまうから仕方のない事なのだろうか。
「ほらほら、そこの旦那さん達。こんなところで寝ていたら風邪を引いてしまうよ。そちらの旦那さんはお水はいるかい?」
「ううーん……? あれ? 死んだとっつぁん?」
「おろろろろろ……うっぷ……まだまだ……うぷ……」
「残念だけど私はアンタの死んだとっつぁんじゃあなくて勤務帰りのお巡りさんだよ。お水だよ、ほらしっかり」
 やれやれと呆れ思いながらも、男達を放ってはおけない。露店の親父がちらりちらりと心配そうに視線をくれる。まだ他の客がいるから屋台から離れられずにいるがこちらの事も気にかかっているらしい。有り難いことだ。水もらっていいかと声を掛けると、水の入ったこと竹筒を投げ渡してくれる。栓を抜き、吐き戻す男には水を、眠りかける男には声を掛け続けていると、不意に頭上が暗くなる。ふと顔を上げれば、驚いた。目の前に筋骨隆々とした巨躯の男が立っている。赤襟のついた白い外套が目立つ。新津覚之進という男だ。
「お前はいっつも何か巻き込まれているな」
「センセ?」
 この先生と呼ぶのはこの男が陶芸家であるからだ。縁など蝋燭の火のように吹けば消える程度だろうと当初は陶芸家先生と他人行儀に呼んでいたのだが、慇懃無礼だと指摘されて以来、{name2} は先生と呼んでいる。山奥に住むような人嫌いな男ではあるが、何かと縁があったのか小さなきっかけが積み重なり、縁を重ねる内暫し酒を酌み交わすようになった。同じ銘柄の酒を好み、穏やかに飲み交わす内に互いに打ち解けて合うことができたようだ。この男はわざわざ下山して{name2} を探しにやってきたようだ。
「年越しぐらい酒飲みにと、お前の家に行ったが留守だった」
 じろりと非難めいた視線を寄こした新津に、{name2} は瞬きをする。酒飲みに{name2} を誘いに来てくれたらしい。斎藤には振られたが、新津は年越しに付き合ってくれるつもりがあるようだ。それは僥倖ではあるが。
「え? センセは冬眠してたのでは?」
「俺は熊じゃねぇよ……! 折角人が酒でも飲んで年でも越そうかと思ったら、お前まさか……」
 苦虫を噛み潰した表情をする。
「ああ。仕事してましたけど?」
「お前も、本当に難儀なものだな……」
  新津の視線の中に憐憫が滲み始めるが見えると、決まりが悪く視線を逸らす。
 すると事の成り行きを見守ってた露店の店主がバタバタとこちらにやってくる。
「なあ。今聞こえたんだけど、お兄ちゃん達知り合いかい?! ちょっと店番頼んでいいかい?!」
「え?」
「こいつらの家の人呼んですぐ戻ってくるから! それまで頼むよ! 奢るからさ!」
「え!? ちょっと!? おじさん!?」
「意外と足速ぇな、あの親父……」
 ちょっくら言ってくらァ、と疾走していった親父。その姿はすでに小さくなっていき、やがて見えなくなった。新津が感心する程の足の速さだ。
 酔っ払いの親父二人を放っておくわけにもいかないので、少し移動させるべきか。よっこいしょと親父の屋台の近くにある街路樹にもたれ掛からせて、着ていた羽織を脱いでかけてやる。大したことをしてはやれなかったがすぐ家人を呼ぶと言っていたから、それまでは様子見しながら待つ他ない。そっと屋台の椅子に新津と腰掛けていれば、ぐうと腹が鳴る。咄嗟に腹を押さえれば、しっかりと聞こえていたらしい新津がプッと噴き出した。
「何だ、飯食ってねぇのか?」
「……食べ損ねてましたからね」
 ニヤニヤと笑う新津。{name2} はぷいとそっぽを向けば、一頻り笑った新津が立ち上がり、外套を脱ぎ捨てる。この真冬に半袖かと{name2} はぎょっとして思わず両腕を擦るが、この男は特段寒さを感じてはいないらしい。{name2} は見てるだけで寒いというのに。
「仕方ねぇな。少し待ってな」
「え、あなた……この寒いのに……半袖……?」
「そばがある……ってなんの話してんだお前。人がせっかく準備してやろうと」
「いえ……お蕎麦いいですね。大晦日だし丁度食べたかったんですよね」
「……ったく。天ぷらもあるぞ」
「それは素晴らしいですね」
「これは俺から特別に、だ」
 すっと取り出したのは万寿の酒瓶。{name2} と飲もうと昼間に馴染みの酒屋で買って腰帯に引っ掛けて持ち歩いていたらしい。栓を抜いて猪口にとくとくと二人分。猪口に流し込まれた瞬間に米の柔らかい匂いが香り立つ。涼やかな透明度の水面がきらきらと輝く。並々と注がれた猪口を互いに持つと、その場で猪口を掲げてから互いに酒を呷る。こくり、こくり、こくり、とゆっくり嚥下する。
「……はぁ」
 唇を潤すと思わず漏れる溜息。――ああ美味い。この豊潤な香りと旨み。仕事の後の一杯はまた格別である。
「遅くまでご苦労だったな」
 飲み終えた新津はことりと徳利を置き、早速料理の準備を始める。それを眺めながら、空になった猪口をコロコロと弄ぶ。
「今更ですけど、飲酒して料理するのっていいんですか?」
「このくらい造作もない」
「ふぅん? ……ねぇ、センセ、もう一杯」
「俺が作ってんだから大人し待ってろ」
「ちぇ~」
 新津は茹で釜にそばを入れて茹でていく。{name2} はその間に箸と丼を準備して、ぼんやりとその姿を眺めている。
「もう今年も終わりかぁ、早かったなあ」
「そうだな」
「センセとは……お花見しながらお酒飲んだり、月見しながらお酒飲んだり……? 私たち、お酒飲んだりしかしてないですね?」
「フ……違いねぇ。不満だったか?」
 茹で上がったそばを湯切りして、丼にそばを入れる。その上から温かい蕎麦汁を入れ、切ってあったネギとわかめを散らし、仕上げに海老の天ぷらを乗せる。海老天そばだ。出汁の香りが食欲を掻き立てる。{name2} がわァと感嘆を漏らせば、新津は作った甲斐があったとニッと笑う。
「待たせたな」
「わぁ! ありがとうございます。いただきます!」
 丼を受け取った{name2} は早速そばを一口。温かくてほろりとする。疲れた体に染み渡るような優しい温かさ。腰の効いた蕎麦に、蕎麦本来の風味。さっくりと上げられた海老の天麩羅に蕎麦汁が絡むとまた美味しい。空腹だったために無心でつるつると啜っていると、己の分の丼を手に持った新津が{name2} の隣に腰を下ろした。いつの間にやら先程脱いでいた外套を羽織っている。
 {name2} が美味いと一瞥を送れば、新津はニヤっと口端を釣り上げて酒瓶を取り出した。{name2} に向けて軽く傾けたのを合図に、{name2} は慌てて自分の猪口を両手で持って差し出した。並々と注がれていく酒。
「ありがとうございます。お蕎麦美味しいです」
「そりゃ良かったな」
 酒を注ぎ終わった新津が今度は{name2} に酒瓶を差し出し、{name2} は自分の猪口を置いてからそれを受取る。新津の猪口にそっと酒を注いで器を満たすと、酒のお供に蕎麦を食べ始める。
「……私は、皆でお酒飲むのも楽しいけれど、こうしてゆっくりと静かに飲むのも楽しいから好きですよ」
「そうか」
「先生。また来年もお花見したり、お祭り見に行ったり、お月見したり、雪見したりしましょうね」
「……考えとく」
「ふふふ。考えといてください」
「仕方ねぇな」
「ええ。来年もよろしくお願いしますね」
 屋台に垂れ下がっている風鈴が揺れる。それは年の瀬の浮き足立つのように軽やかに。そしてこれから迎える新しい年を祝福するように。冷たいけれども優しい風に吹かれて風鈴が鳴る。きっと来年もまたその先も。こうして緩やかに年を重ねていくのだろう。その時はあの頃のように誰か側にいてくれるだろうか。
 ちらりと視線を移せば、蕎麦を啜る男と目が合い、小さく笑う。ピクリと動いた眉根を見て、ゆっくりと視線を戻して蕎麦を一口啜る。汁を飲み、ふーっと息を吐けば吐く息が白く濁る。
「降ってきたな、どうりで寒いわけだ」
「雪……かァ」
「{name1}」
「はい?」
「来年もよろしく頼む」
 ハッとして新津へ視線を送れば、何事もなかったように蕎麦を啜っている。遠くの喧騒が祝福するのは新しい年の始まりだろうか。はらり、はらり。小さな雪の欠片が静かに舞い始めている。へくしょんと側で寝ていた酔っ払いの男達はくしゃみをして起きると、丁度良い具合に向こうの通りから店の親父が彼らの家人を連れてやってくるのが見えた。
「アンタ! また酔っ払って人様に迷惑かけて!」
「か、かあちゃん! ご、ごめんって!」
 すぐに酔っ払い達に気がつくとすぐに詰め寄って来て、説教が始まった。平謝りの彼らを問答無用でひっぱたき、{name2} と新津と店主の親父に謝罪していくと、酔っ払いを引きずって帰っていく。あっという間に酔っ払いを連れて帰っていく姿は実につむじ風のようで、残された三人は顔を見合わせて、笑ってしまった。
「店番ありがとうございやす。お礼に……と思いましたが、もう蕎麦食べてしまいましたね」
「こいつが待ち切れなくてな」
「ちょっとセンセ! そこは恥ずかしいから内緒にしといてくださいよ」
 {name2} が慌てて抗議するが新津はフンと鼻で笑う。
「親父の分も残してあるから食べてくれ」
「え?」
 ご苦労だったなと新津が店の親父に自分が作った天麩羅蕎麦を渡せば、店の親父はきょとんとしていたが、俺の分の蕎麦かァと嬉しそうに顔を綻ばせた。
「蕎麦を人に作ってもらうなんて久し振りだなぁ……それじゃあ、遠慮なくいただきやす」
「この蕎麦、親父さんの手打ちですよね。噛み応えもコシもあって美味しかったです」
「ああ。親父の蕎麦中々美味かったぜ」
「お二人とも……ありがとうございます。この天麩羅蕎麦も美味しいです」
 ずるずると美味しそうに蕎麦を啜り始めた親父を見て、新津と{name2} 顔を見合わせほくそ笑む。酔っぱらいの世話で疲れただろう。後はゆっくりしてくれと声をかけてお代を払うと、申し訳なさそうにしていたが、次の機会に蕎麦を食べる約束をすると、今から張り切っているようだった。
 蕎麦屋の親父と別れて、紺碧の夜に閉じ込められた街を歩く。降り始めた雪の粒は夜が更け、新しい年へと向かうにつれて少しずつ大きくなっているようであった。芯から冷え混んでいく空気に身震いをして、両手を擦り合わせる。先程斎藤の申し出を断ってしまったが、大人しく手袋を借りておけばよかったかもしれない。――否、彼に借りを作るのは後が怖いから我慢だ。
「ふぇっっ、くしゅん! くしゅん!」
「寒いのか?」
「……うぅ……少し」
「なら、家帰って飲み直すか」
「ええ? 初詣は?」
「また明日でいいだろう。一緒に行ってやるから。今日はお前んち帰るぞ」
 風邪引いたら元も子もないだろう。そう言って{name2} の手引っ掴むと、往来の流れに逆らって、{name2} の家に向かって歩き始める。握られた大きくて温かい手。昔繋いだ手とはまた違う。武骨な手。この手が器を生み出す手のだ。繋がれた手をぼんやりと眺める。
「お前の手冷てぇ」
「だいぶ冷えてしまいましたからね。センセの手温かくて名残惜しいですが、センセが寒いのは不本意なので離してよいですよ」
「それではお前が寒いだろう」
 ぐっと拳ごと手を握り締められる。優しい手。ふふふとほくそ笑む。手を握る力を込めれば、何処からか新年の挨拶をする声が聞こえてきて、{name2} も早く帰って新しい年の祝杯をするのが楽しみになってきたのである。

24.12.15 初出 『晴れるや』
(9410文字) No.15 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
枯木逢春

 春光が氾濫する、冬がひっそりと解けていく。

 比古清十郎が己の住む山奥の山小屋から下りて街に出てみれば、里は既に春の気配が漂っていた。光のどけき春を迎え、冬の刺々しい気配も次の冬に向けて眠りにつこうとしている。住処とする山奥より一足先に人里にはすっかり梅の馥郁(ふくいく)たる香りが漂い始めている。
 いよいよ、春が眠りから覚めていく。
「贈答用に食器を作ってほしい」
 それは{name1}{name2}からの依頼だった。
 遡るはまだ春眠る冬の日の事。雪で閉ざされた山奥へ分厚い防寒対策をして{name2}がやって来た。そんな{name2}の姿に比古も驚いたが、比古のもう一つの側面である陶芸家・新津覚之進への依頼で遥々訪ねてきたのだ。その依頼というのが、贈答用に食器を作ってほしいという依頼であったのだ。話によれば、{name2}の近所に住む夫婦が子どもを授かったとのこと。次の春頃にはその子が産まれるであろうということらしい。そのお祝いに贈り物をしたいと考えたようだ。陶芸家・新津覚之進の腕を見込んでの相談であり、比古からしてみれば意外な事であった。{name1}{name2}という女は剣術には秀でた才覚を持っているのだが、芸事に関して疎いところがある。武家の娘である故に一通りの事は習いはしたようだが、最低限といった具合だ。一度だけ陶芸に興味を持った{name2}が比古に教えを請うたことがあったが、その一度きりとなってしまった。{name2}自身は陶芸に携わることはなかったが、新津が作った食器を実際に愛用している。その上で新津を信頼し依頼したのである。それならば{name2}の信頼に応えるべきだと二つ返事で了承した。
 それから数ヶ月。完成した食器を手に、こうして山を下りて来たのである、が──。
「何故こうなる……?」
「まあまあ。後でわかるから今は何も聞かずにお願いします」
 {name2}の住む家を訪ねて行けば、当の本人は不在のようだった。その代わりに玄関の戸に貼り紙がされていた。すぐにその所在が分かり、{name2}は葵屋にいるとのことであった。葵屋といえば京都の街の一角にある料亭兼旅館。以前比古が十本刀の破軍・不二と対峙した場所だ。そして……。思い出した記憶に少しばかり苦々しさを感じつつも、依頼した当の本人がいなければ話にならない。葵屋に集う元御庭番衆の賑やかしい連中の顔ぶれを思い出しながら、その足で葵屋まで訪ねて行けば、葵屋の娘・巻町操が待ってましたと言わんばかりに比古を葵屋の中へと引っ張り込んで客間に押し込むと、置いてあった行李の中から姿を現したのは上等な絹で織られた束帯衣装。その上等さに思わず感心していたが、巻町は唐突に比古の外套を脱がせようと掴みかかり、代わりにその束帯を着ろという。唐突な事で訳が分からぬと流石の比古も困惑したが、{name2}のために着てほしいと言われてしまうと訳が分からぬながらも抵抗する手を緩めてしまう。悪いようにはならないと鼻息荒げに述べる巻町に一抹の不安が過るが、{name2}のためになるという文言と悪いようにはならないという文言を信用するほかないのである。深くため息を吐き、外套を脱いでいう通りにする。すると部屋の外で控えていた白尉と黒尉が申し訳なさそうな表情を浮かべつつも入ってきて、比古の束帯衣装の着替えを手伝い始める。髪は頭頂部に結い直されて、冠を被せられる。輪無唐草の文様が入った二藍の縫腋袍(ほうえきほう)に、表袴。
 この装束はひな人形の──
「{name2}さん。ひな祭りしたことないんだって」
「ひな祭り? ……──そういえば今日は<ruby>上巳<rt>じょうし</rt>の節句</ruby>か」
 ひな祭り。上巳の節句ともいう。上巳の節句の上巳とは三月最初の巳の日のことを指す。古代中国ではこの日に川の水で身を清め、厄を祓う風習があったという。この風習が日本へと伝わったのが平安時代。それが草や藁、紙といった物から作った人(ひと</rt>形<rt>がた)に災いや穢れを映し、川や海へと流す日本古来からある風習と融合したという。
 貴族たちの間では人形のような小児の形をしたものが幼児に降りかかる災いを振り払ってくれると考えられ、その貴族たちの子女の間で“ひいな遊び”小さな人形や道具で遊ぶままごとが行われていた。それらが信仰がいつしか融合し、今日の“ひな祭り”へと形を変えて年中行事として受け継がれてきたという。
 下賀茂神社では小さな人形を作り、子どもの身代わりとして境内のみたらし川へと流して無病息災を願う“流し雛”が行われている。
 因みに上巳の節句は桃の節句とも言われるが、旧暦の三月三日桃の花が咲く頃であったためにその名で呼ばれるようになったようである。桃には古来より魔除けや厄除けとしての効果があるとも考えられているため、ひな祭りの飾りとして使用されている。
 葵屋では今日のひな祭りの催し物として訪れた客にちらし五目鮓とか蛤の吸い物などの特別な料理を振舞っていたらしい。ちらし五目鮓(ごもくずし)は飯に酢塩を加え、椎茸・木耳・玉子焼・紫海苔・芽紫蘇・蓮根・笋(たけのこ)・鮑・海老など。魚肉は酢に漬けたものなどを細かく刻み、飯の中に混ぜる。色々な具材を混ぜた酢飯の上には錦糸卵を散らす。決して安くはないが、お祝いの日には丁度良いだろう。海老は背が丸くなるまで長生きするように、蓮根は先を見通せるように。そう言った縁起の良い食べ物と一緒に子どもたちの健康を願う想いが混ぜ込められている。
 蛤のお吸い物は蛤が二枚貝であること。対になる貝以外とは二枚の貝を合わせても合わないこと。そういったことから、一生同じ人と連れ添うように、将来仲のよい夫婦になりますように、と願いを込めるのである。
 そういった縁起の良いものを食べてひな祭りの日を過ごそうということで、試しに企画してみた所それが盛況となり、人手が足りなくなった。手が空いていた{name2}が手伝いに入ったそうなのだが、当の本人はひな祭りの祝いなどしたことがないと言ったのだ。これには話を聞いた巻町はぎょっとしたのだが、{name2}自身は気にも留めていないようで、寧ろ、本人よりも巻町の方が気がかりになって仕方が無くなってしまったのである。
 巻町の指摘を聞き、{name1}{name2}という女の生い立ちが歪んだものであったことを改めて思い知らされる。幼少期より男として育てられ、その後の彼女の人生を大きく歪ませた。それは呪いのようなものだ。“{name1}{name2}”という人格を否定し、“{name1}{name3}"という人格に成り代わり、男として生きてきた。長年の呪いに苛まれ続け、解き放たれた昨今は本来の{name1}{name2}という女として生きている。最近の話だ。それまでは男として生きてきたわけだから当然ひな祭りなど縁遠い日々だったのだろう。
「……」
「{name2}さんは平然としてたけど、私はその話聞いた時に寂しくなっちゃった。親が子どもが平穏無事に成長するのを願うのは当たり前でしょ!?」
「せめてもお前がそう思ってくれるのは{name2}にとっては救いだろう」
 ハッとした巻町。すぐに苦虫を噛み潰したようは顔をする。巻町の頭にポンと手を乗せて撫でてやると、益々複雑そうな表情をして、そんなのはあんまりだと消え入るように呟いた。巻町は複雑な気持ちを抱いたようであるが、そうやって{name1}{name2}という一個人に心を寄せる者がいる事実は何よりも有り難かった。比古も彼女のことを気にかけてはいるが、いつも側にいてやれるとは限らない。少なからずとも気にかけてくれるのならば一人でも多い方が良い。{name1}{name2}と言う女はその佇まいから一見凜々しくも見えるのだが、どこか危うさを孕んでいる。放っておけば人知れず野垂れ死ぬぐらいの危うさはある。自分を蔑ろにして犠牲になる。それが最善策であれは平然とやってのける気があるのだ。そういう輩を引き止めるためには巻町のような存在が必要だ。
 ポンポンと頭を撫でてやると、{name2}の気配のする部屋の前まで歩いて行く。入る前にちらりと巻町を見て頷くと、部屋の中の{name2}に声を掛けて、一気に開け放つ。
「──新津、センセイ?」
「……へぇ」
「?」
 感嘆。
 そこには色鮮やかな女房装束に身を包んだ{name2}の姿。施された化粧は{name2}の顔立ちに合わせ色づき、その唇には美しい紅色が灯る。柔らかく色づいた頬。涼やかな目元に引かれた線と彩りがより美しく目元を見せる。
 ポカンとした表情で立ち尽くす{name2}の側によれば、我に返った{name2}がそっと袖を引き上げて自分の顔を隠そうとするが、その腕を取って引き寄せるとそのまま逃げられないように背に腕を回す。
「顔をよく見せろ」
「恥ずかしい」
「恥ずかしがることねぇだろ」
「だって」
 隠していた顔を目元だけ覗かせる。
「今日のあなた、かっこいいから」
 頬を赤らめて顔を背ける{name2}。思いがけぬ言葉に呆気に取られかけるが、こちらを向いて欲しいと優しく諭せば、そっと袖を下ろす。比古を見上げると、そっと胸元に手を添えてくる。透き通った瞳には束帯を着た己の姿が映り込んでいる。頭にそっと撫でて、ゆっくりと頬へと滑らせながら撫でると、指先が紅い唇に触れ、引き寄せられるように輪郭をなぞった。
「新津、センセイ……私、」
 震える唇。息を飲む音。
「わかっている」
 {name2}の身体を抱き寄せて笑いかけると、目を見開いて固まっていたが、そっと額を合わせるように顔を近づけて、壊れ物にでも触れるように頬に触れてくる。それがおかしくて喉奥を鳴らす。
「心配すんな。俺はそんな柔じゃねぇよ」
「うん」
「俺はお前に何も言わずにどこかへは行かん」
「私は勝手に出かける」
「おい」
 ふふふ、っと笑いを漏らす{name2}。すっと神妙な表情で言う。
「私よりも長生きしてね」
「縁起でもねぇこというな」
「好きな人に先立たれるのはもう沢山だから」
「ああ……」
 脳裏に過る、この女の初恋の相手の存在。
「もう誰も好きにならないつもりだったんだ。──あなたが責任取ってくれないと困る」
 それは祈りのような、告白だった。睫毛が震え、薄らと瞳には幕が張る。密やかな吐息。人を恋しく想う顔はどんな化粧よりも美しい。その顔をまじまじと見つめていると、{name2}は何か言ってよ、と居心地悪そうに視線を彷徨わせ始めた。そんな姿もいじらしく愛おしい。ふっと笑みを零すと、ぱちくりと瞬いて怪訝そうに首をかしげる。
「ま、お前の面倒見られるのは俺ぐらいなもんだしな」
「なにそれ、この自信家野郎」
「その自信家に恋焦がれてるのは誰だったか?」
「意地悪」
「いじめがいがあるからつい、な」
 互いに暫し睨み合っていたが、破顔一笑。手を重ね合わせ、指を一本ずつ丁寧に折っていき、互いの手に絡ませていく。
「ねぇ……ひな祭りって何すればいいの?」
「あ? ……唐突だな」
「巻町さんに「お店手伝ってくれたお礼」って言われてこんなに綺麗な着物着つけてもらっちゃったんだけどいいのかなぁ?」
「よく似合ってるな」
「そ……そう、かなぁ。あなたこそ、よくお似合い、です」
「(素直に褒められると弱いんだよな、こいつ)」
「こほん……それでね。ひな祭りって特に女の子の成長をお祝いするみたいなんだけど、その成長を願ってお食事するみたいんなんだけれども」
「そういえば、あの操とやらもそんなこと言ってたな。祝い事だったら酒とか飲むんじゃねぇのか」
「つまり──……宴会みたいなことすればいいってこと?」
「……そうだな。折角お膳立てしてくれたんだから、ここはぱっとやらねぇとなぁ?」
 ニヤリ。二人して顔を見合わせて悪い顔をする。
「巻町さん、そんなところで覗き見してないで一緒にお祝いしましょうよ」
「え、いいの!? ……あ」
 天井裏から下りて来た巻町にクスリと笑う。あわあわ慌てる巻町を{name2}も比古も咎めずに、優しく迎え入れる。
「巻町さん色々手を回してがんばってくれたね。今日はありがとう。いい思い出になった」
 にこりと{name2}が笑ったことで、慌てていた巻町はすぐに満面の笑みで頷く。
「……うん! 皆も呼んできていい?」
「お好きにどうぞ」
 爺や皆に声かけてみる、と元気よく部屋を飛び出していった巻町を見送り、部屋に用意されていた白酒の入った酒瓶を開けて、二人分を銚子に注ぐ。互いに見つめ合って小さく笑うと盃を静かに合わせ、酒を口にした。

 ──ほけきょう。どこかで春を告げる声が聞こえる。


23.03.28 初出 『枯木逢春』
(5285文字) No.14 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
猫に小判

  吾輩は━━といった有名な文章が生まれる前の話である。

 根無し草同然の私ではあるが、この界隈では人気者である。あちらへ行けばやれ可愛いだ、こちらへ行けばやれ可愛い。どこへ行っても目に入れて痛くない、私が通りを通れば皆振り返る。そういう存在である。
 今日も今日とてここいらの界隈は長閑なもので、雀がちゅんちゅんと囀り、どこかの家の牛がもおと呑気に歌う。お犬殿は自分の尻尾を追い回してくるくるとその場を回っている。畑には中年の男が何やら土を弄り、女たちは世間話に花を咲かせ、子ども達はそこら中で遊び走り回っている。数年前の京の街のきな臭さは夢まぼろしだったかの如く長閑である。
 春近し、の穏やかな陽気にうっとりと意識がとろけていく。真冬の寒さで縮こまり硬くなったが解れていくように。くわあっと大きく欠伸をして道端の日溜まりに蹲っていると、突如として黒い影が落ちる。何だ私が気持ちよく眠ろうとしていたのに。瞑りかけた目開けば、頭撫でるひんやりとした手。冷たい。全身の毛が逆立ってふるりと身震をする。私はこの手を前にも感じたことがある。
「━━にゃあ」
「元気だったかな、ぽち」
 私のことをぽちと巫山戯た名前で呼ぶ女が眼の前にしゃがみ込んでいた。名を{name2}という。この女も私に対して好意を抱く一人であって、道すがらに出会えばこうして足を止めて挨拶をしてくる。これは人気者の宿命というやつだ。だらしなく綻んだ顔は小綺麗で中性的な顔立ちをしている。私を見つめるその瞳はいつも凪いだ海のように湛えられている。どこまでも清澄な海。やさしく身を包まれたような。そんな感覚。温かい陽だまりのような、そんなこそばゆさを感ずる━━とはいってみたが、海など見たことない私にとっては伝聞を加味した上での想像の域を出ない。
 そういった海を瞳に宿す女に私は得も言われぬ思いを抱くのだが、女は私の気持ちも知らずに私の背などを撫でてにこにこと、暢気なものである。少しカサついた、肉刺が潰れて硬い手が背中を、背筋をなぞる。ザラついた手が不快な一方で痒いところをこすられたような一時の奇妙な快感。昼寝の邪魔をされたことも不服なのだが、その女は私を甘やかす一人だから仕方なしに相手をしてやることにする。決してこの女が撫でる手の感触が心地よいとかではない。
「ぽちはかわいいねぇ」
 瞑りかけた瞳を片方持ち上げて鼻を鳴らす。当然である。皆が私のこの愛らしい姿を見てこの女のようなだらしない顔をするのだ。私が愛らしく、人間たちの間で愛でられるのは至極当然。自然の摂理なのだから。そうであるからもっと撫でるがよい人間。にゃあと鳴いてやれば、増々だらしなく笑みを浮かべた顔が、私の身体をひょいと抱き上げ抱え込むとぎゅっと顔を押し付けてきた。こそばゆく身体を捩るのだが、人間の力にはさすがに勝てない。にゃあと再び鳴くが、私の背中に顔を埋めたまま離れない。やれやれ。私の可愛さは時として罪深い。
「お前……何やってんだ?」
 うっとり夢心地の中、突如として低い声が耳を揺らし、はっとする。声の主を横目で見れば胡乱な目を向けた男が{name2}のすぐそばの立っていた。いけ好かない整った顔立ち、野暮ったい白外套、その下から時折覗く鋼の巨躯。{name2}の知り合いなのだろうか。こういう図体のでかい男はこの辺ではあまり見ないから珍しい。威圧感のある切れ長の目がずいと私の顔を覗き込む。この界隈に住む人間はどいつもこいつも冴えない顔をしているがこの男は女みたい小綺麗な顔をしている。人間の女が好きそうな顔だ。{name2}もこの男みたいなのが好みなのだろうか。前足をぐっと伸ばしてしっしっと払い除ければ、すっと身を引いて届かない場所に下がった。それでもなお、手を顎に当てて思案するようにじっと私の顔を見つめていた。
「{name1}」
「待ってください。まだ私には猫吸いが足りないんです」
 静かに深呼吸をする{name2}。吐息が背中に当たってむず痒く、再度体を捩る。じたばたしても私の体に顔を埋めたまま離そうとしないので、呆れたものだ。男も同様に呆れた顔をする。
「離してやれ嫌がっているぞ」
「にゃ!」
「え? 怒った? ごめん」
 強めに抗議の声を上げると、{name2}は慌てて私の首元に埋めていた顔を上げる。ごめんごめんと私を抱え直し、赤子でもあやすかの如くぽんぽんと背中をたたかれる。騙されてなるものか。尻尾を揺らしぺしぺしと{name2}の胸元を叩く。ひょいと{name2}の腕の中から飛び出して、男の頭に飛び乗った。男は私の行動の予期まではしていなかったようで、飛びついた私を咄嗟に受け止めようとして態勢を崩した。
「?!」
「センセ!?」
 それに驚いた{name2}も咄嗟に手を伸ばしたが、男の恵まれた体躯を脆弱な{name2}に引き戻せるはずも無く雪崩込むようにそのまま男の上に倒れ込んだ。
「あたた……ごめんなさい。怪我してません? 大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。さすがに顔面めがけて飛びついてくるとは思わなかった……ったくよ」
「にゃぁお……」
「駄目だよぽち。いくらセンセイの顔が怖いからって奇襲なんて」
「おい。俺の顔は怖かねぇだろ」
 私と{name2}を受け止めた男は私に危ないから止めろと軽く𠮟った。{name2}はゆっくりと体を起こして新津の上から引くと、男を起こそうと手を差し出した。その手を掴んだ男がゆっくりと体を起こすと、懐から何かが転がり落ちた。びくりと反応した{name2}が素早く拾い上げて手のひらに収まったものを確認する。その瞬間にはふっと顔が弛緩し、つんとそれを指先でつつく。慈しむような表情を浮かべたその姿は春の木漏れ日のようだ。
「かわいいですね、これ。どうしたんですか?」
「以前こいつと出会った時に丁度丸まってる姿が箸置きになりそうだと思って作ってみたんだ」
「そうだったんですか。よかったねぇぽち」
 地面に降ろされた私の前に{name2}がしゃがみ込んだ。宝物を見せるかのように手の開き、男が作った箸置きとやらを見せてくれた。どんなものだろう、とゆらりと尻尾をくゆらせ、近づいてついと覗き込んで見れば、確かに丸くなって眠る我々猫らしきの作りものが乗っかっている。朗らかに笑みを浮かべる{name2}に喉を鳴らす。私はこんなにブサイクではない。低く唸り、{name2}の手の平に乗るそれをぱんと叩くのだが、びくともしない。それどころか{name2}は何を勘違いしたのか。気に入ったと思ったらしく、欲しいの?と勘違いする始末。
「お前にやる。試作品だ」
「よろしいのですか?」
「そのぐらい簡単に作れる」
「ありがとうございます」
 男にしてはらしくない。視線に逡巡が生じていたが、それも一瞬であった。
「──このくらいは、お前にも作れる」
「そうですか」
 {name2}は私に視線を落としたまま頭を優しく撫でてくる。にゃあと少し声を落として鳴けば、ごろごろと首を撫で、耳のつけ根を指先でモミモミと優しく揉む。ああ、よきかな、よきかな。{name2}の指先がやわやわと撫でるのが心地よく、心がぼんやりと蕩けてしまう。ふふふっと小さく笑う{name2}の声すらも柔らかくて心地よい。
「私、何かを創造することってしたことがなかったんです」
 {name2}は柿の実がポトンと地面に転がり落ちるような、何に気のない声で呟いた。
「壊すことは沢山してきたけど、思えば何かを作るってしたことがなかったんです。そういうころもあって何かを作るってことができるか不安があったんですけれど、それでもやってみて楽しかったです」
「そうか」
「私はきっと陶芸家は向いていないのかなと思ったけれども、あの日作ってみて少し不格好でもできたときは嬉しかった」
 神妙そうな表情で静かに耳を傾ける男の眼差しも、優しい。
「新津先生ありがとうございました」
 感謝しています。そう言って男を見て笑う{name2}の顔に屈託はない。男は珍しく目を見開いて{name2}を見ていたが、フッと口元歪ませると、男が近づいて私を優しく転がし晒された腹をわしゃわしゃと撫でた。突然の男の行動に無礼者、と声を上げようと思ったが如何せん男の猫の撫で方が上手い。中々やりおる。心地よいところを撫でられて抗議しようと思った気持ちも霧散してしまった。ふんわりと何かの匂いがする、この男の匂いだろうか。
「もう一度やってみるか」
「いいんですか? またはにわみたいな器作りますよ?」
「そこは……俺が要所要所でどうにかする」
「ふふふ。……それじゃあもう一回やってみようかねぇ。今度は飛び出さないでくれよ、ぽち」
「にゃ」
 肉球をぷにぷにと触られ、いい加減に飽きてきたとその手を払いのけようとして、ふとやめた。今度は飛び出すなと釘を刺した言葉に何となく心当たりがある。あの時だ。脳裏を掠めたのは己の手で作った焼物が私が飛び出してった拍子に不運にも落ちて割れてしまった時の{name2}のこの世の全ての終わりといったような顔。あの時一瞬浮かべたこの女の顔が今でも鮮明に思い出される。故意にやったことではない、仕方ないとすぐに己に言い聞かすようにして私の丸くなった背中を撫でていたあの手から伝わった複雑な感情を今でも覚えている。
 それ以来、{name2}は焼き物を作らなかった。作らないというよりもする機会がなかったようだが、あの頃の{name2}は今よりもどこか張り詰めた糸のような緊迫感を孕ませていたし、その後にさつまという国へ戦争に行くといって暫く帰ってこなかった。その時のこの女は死を覚悟した悍ましい諦観と希望が入り混じっていた。薄気味悪かったのを覚えている。戦とは人が不幸になるものだというが何故わざわざ不幸になりにいくのか私には理解できなかった。出征するまで{name2}を見かけるたびに声をかけたが、私を撫でて可愛がるばかりで伝わりやしない。案の定、{name2}も不幸になった。戦争から戻ってきた{name2}は満身創痍で惨憺たる顔をしていたからさすがの私も心配になったものだ。
 あの時の割れた器を思い出すと、悪いことをしたと罪悪感が湧いてくる。あの器は{name2}にとっての一種の希望であったのだと気づいた時には戦争は終わり、{name2}は死にかけて帰ってきた。もうあの器は戻ってこない。そんな憐れな女だから大人しく肉球ぐらい触らせてやるぐらいは仕方ないのだ。私なりの気遣いである。
「? 今日は大人しいね。おねむかな?」
「? そんなしおらしい猫だったか? っと」
「にゃ!」
「こらぽち! センセに腹立ったのはわかるけど一応芸術家だ。手はダメだ! 芸術家の手は命なんだ!」
「おい、一応ってなんだよ」
 この男は一言余計なのだと腹を立て、前足を振り上げれば{name2}は慌てて私を引き寄せて制止する。私の渾身の蹴りが空振りに終わり、ほっと息を吐いた{name2}ににゃっと抗議すれば、苦笑いしながらも私を宥めすかすように頭を撫でた。{name2}には強く出れない。
「よしよし……あれ。そういえば、新津センセ用事があったのでは? 今日はお買い物とかで降りてきたんですか?」
「ああ。そうだったな。お前は今日は休みか?」
「ええ。買い出しもしてきたので後はのんびりと過ごそうかと……何か御用ですか?」
「久々に酒でも酌み交わそうと思ったのだがどうだ?」
「酒盛り! わぁいいですね。そういえば久しぶりですね。それはいい、楽しそうだ」
 ごそごそと腰帯に紐をくくり提げていた酒瓶を持ち上げた男。わぁと{name2}が喜色を浮かべた。意外にも酒盛りは嫌いではないらしい。食いつきがよい。酒の肴はどうしようかと話し始める{name2}と男。楽しそうな二人。蚊帳の外にされて面白くないとポンと男の持っている酒瓶を前足で軽く叩くと、こらと男が酒瓶を遠ざける。なんだつまらんと喉を鳴らせば、不意にピシりという音がする。何の音だろうか。瞬間、酒瓶に亀裂が走り、ばらばらと崩れていく。その音に驚いて{name2}の腕の中から飛び出してしまった。
「「あ」」
 びちゃびちゃびちゃと酒が地面に零れ落ちて、独特の臭気が辺りに広がっていく。それほど強く叩いたつもりはないが、壊れてしまった。
「……俺の万寿」
「ど、どうして? 猫が叩いて割れる程の物でもな……あ、さっきぽちが飛び付いて転んだ時に罅が入っていたのか……?」
「……あ」
 顔を見合わせていた二人がぐるりと私へと視線を向ける。これは不味いかもしれない。静かに揺れるのは怒りの炎。本能が語り掛けている。逃げろと。慌てて走り出すと、待てぽちと叫び声が後ろから聞こえてきて、無我夢中で地面を蹴りながら畦道を駆け抜けていく。

24.10.24 『猫に小判』 初出
(5307文字) No.13 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
合縁奇縁

 ただ一人の人に会いたいという気持ちで危険の潜む京都の街へとやってきたという少女の気持ちは、己が恩人であるあの人に会いたいと思って東京まで行った気持ちとなんら変わりはない。少女の気持ちを理解してしまったからこそ、共感してしまったからこそ、彼女と彼を会わせてやりたいと思った。彼女が探している彼・緋村剣心が誰一人として戦いには巻き込まないと葵屋を出て行ってしまい、一人で過酷な運命を背負い込もうとしている緋村の姿を見て、巻町操はずっと腑に落ちないともやもやしていた。緋村がこれから戦おうとする相手の強大さ。人斬りとしての過去に囚われて自我を見失いそうになる危うさ。そんな状況下でたった一人立ち向かうなど納得がいかなかった。死ぬかもしれないその戦いに一人身を投じるなんてそんなの苦しすぎるし、緋村を想う人達の気持ちはどうなってしまうのだ。京都へ帰郷する道中で緋村には世話になったし、困っているなら少しでも力になってやりたい。過酷な運命が待ち受けている彼が少しでも報われてほしい。
 そう思っていた矢先に彼女はやってきた。緋村にただ会いたいから会いに来たと言った彼女・神谷薫。緋村と一緒に京都へ帰郷する道中で東京で別れたという人だとすぐに察した。緋村の身を案じ、危険を顧みずに東京から京都までやって来た。並々ならぬ覚悟を持ってやって来た彼女だからこそ緋村は絶対に彼女と会わせてやらなければならないと思った。そう思えば打って変わって悩み惑うてた心に日差しが差し、気がつけば神谷薫と同行していた少年・明神弥彦を引き連れて白べこを飛び出していた。
 そのために緋村の探し人・比古清十郎の所在を調べていた柏崎念至の元へまず帰ることにした。緋村と別れた時は居場所を掴んではいなかったが、きっと御庭番衆の情報網で情報を掴んでいるはずだ。まずは葵屋に戻り、柏崎に頼んで教えてもらおう。
「あれ、巻町さん?」
 気の抜けた声。穏やかな懐かしい声を聴き、思わず立ち止まった。久しぶりだね。そう言って笑う優男は自分の育ての親である柏崎念至の知人・{name1}{name3}である。暫く姿を見ていなかったが、元気そうだ。先の戦に出征して帰ってきた時は大怪我をしたと聞いてひやりとしたものだが全快したようだ。――よかった。思わぬ再会にがっしりと{name3}の両肩を掴んではしゃぐ。
「{name3}さん?! 久しぶり! 元気してた!? ご飯食べてる? ちゃんと寝てる? 上司にこき使われてるってぼやいていたよね!? 大丈夫なのアンタの上司?!」
「わっ……待って待って。揺すらないで」
「お、落ちついて操ちゃん!」
「これ、操! {name3}くんを困らせないで落ち着きなさい」
 {name3}という優男は警察関係の仕事をしているらしく、あちこち仕事で飛び回っている。巻町はそんな{name3}から己が探している四乃森蒼紫や元江戸城御庭番衆の仲間達の情報がないかとよく尋ねていた。彼も情報収集の一環として巻町達元隠密御庭番衆の情報網を目当てに訪ねてくるため時折情報交換をしている。警察の情報網で事足りるような気もするのだが、情報源は限定しないらしい。多角からの収集・検証をし、真偽の判定をする。情報網はありとあらゆる手段として手札として持っておきたいようだ。今日もその一環での来訪だろうか。
「おい、操! そんな優男と話してねぇで早く剣心のところに」
 痺れを切らした明神弥彦が声を上げる。そうであった。自分にとっては知人との思わぬ再会であったが、東京から遥々緋村に会いに来たという神谷と明神にとっては縁も縁もない初対面の相手だ。それは蚊帳の外にされては堪らないだろう。
「あ、ごめん。こちら知り合いの{name1}{name3}さん。警察の……」
「剣心? ……あれか、緋村剣心か?」
 巻町が{name3}を紹介しようとすれば、{name3}は何の気なしに言った。予想外の発言に驚いたと思ったのはその場に居合わせた全員であった。一気に{name3}へと視線が集中する。まさに寝耳に水。巻町も初耳だ。緋村にただ会いたいと京都へやって来た神谷にとっては緋村の知り合いという存在に更に期待が募る。
「あ、あなたも剣心を知っているんですか!?」
「ん? ああ、まぁ昔の知り合いってところかな?」
「え!? {name3}さんってばまさかの緋村と知り合いだった……?!」
「まあ敵対してたけどね」
「え」
「気にしないで、昔の話さ」
 何を考えているのかわからぬその顔で目を細めて笑う{name3}。他意はないのかもしれないが、神谷と明神はそうは思わなかったようだ。“敵対していた”という言葉に過敏に反応している。神谷も明神も緊迫した表情へと引き締まり、すぐに臨戦態勢を取れるようにと身構え、一歩下がる。巻町にとって{name1}{name3}という人間は同じ地域に住む顔見知りという感覚であるが、彼らと{name3}は初対面であるしそこまでの信用はない。加えて状況が悪い。緋村は志々雄一派と闘うには守りながら闘うには難しいと大切な彼らを危険から遠ざけるためにこの京都の地を訪れた。その想いに反し、会いたいという想いだけでここまで来た。会いたい気持ちが悪というわけではない。であるが、危険を顧みずに来てしまった手前事前に回避できうる危険からは回避しなければならない。万が一危険に晒されたとて、緋村の耳に届けば緋村は飛んできて彼らを助けるだろう。だが助けた後緋村は自分のせいで危険に晒してしまったと自責に駆られるだろう。たとえ緋村のせいでなくとも危険に巻き込まないために一人で来たのに危険な目に遭わせてしまった、と。故に神谷と明神は神経を尖らせて警戒を重ねるのだ。
「敵対してた、っていうのは……」
 巻町は神谷達を一瞥し{name3}へと問いかける。彼らよりも付き合いの長い己が間接的に話に入ることで少し緊張感を逸らす狙いもあるが、巻町自身も{name3}の昔話など聞いたことがなかったから興味本位でもある。単純に推測する限り、幕末の頃に敵対してのだろう。維新志士であった緋村と敵対していたとなれば、幕府方の関係者であろう。{name3}が警察関係の仕事をしているというのはその腕っぷしを買われたところもあるのだろうが、温厚な態度の彼しか見たことがないため中々想像しがたい。
「人斬り抜刀斎とは一戦交えたことがあったけれど、どっかの誰かさんが「俺が殺るとる」なんて言ってくれてしまってね。結局それっきりさ」
「どっかの誰か、さん……?」
「こちらの話だよ」
「{name1}くん」
 見兼ねた柏崎が{name3}を諌めると、彼は肩を竦めた。
「ええ、少し意地悪でしたかね。……でもそうやって気をつけておいたほうがいい。変なのが彷徨いているのが目に付くようになった。今の京の街は危ないから十分に気をつけなさい」
「えっと、あ、あの……ありがとうございます」
「――そんなことよりも、緋村を探しに来たんじゃなかった?」
「そうだ! じいや! こちらは緋村のトモダチ。東京から来たんだよ」
ハッとして柏崎に神谷と明神を紹介すれば、彼もハッとした表情をしてから神妙な面持ちで神谷に語りかける。
「緋村君が今日本の行く末を左右する闘いに挑んでいるのは知っとるな。生半可な……」
「はあ……」
「それもうあたし聞いた」
 巻町はさらに言葉を続け、柏崎の説得を試みる。
「薫さん本気だよ。だから緋村の行く先おしえてって」
「お願いします……」
 深々とお辞儀をした神谷。着物の裾を握り締めた手が震えているのに柏崎も気がついている。生半可な気持ちではない。最初から分かっていた。東京から京都まで人一人に会いたいと願いながら訪ねてくるぐらいなのだから、それが生半可なわけがない。ただ緋村の覚悟を知っているからには会わせてやるべきなのか、本当に危険だからと遠ざけてやるべきなのか。
「わかった。くれぐれも気をつけるんじゃぞ……」
 柏崎が筆を取り出して、紙に緋村の所在を書き留めると、成り行きを見守っていた{name3}に向き直る。神妙な面持ちの柏崎に{name3}だけでなく、隣にいた巻町も表情が引き締まる。
「{name1}くん。操達にいて行ってくれんかな」
「え?」
「無いことを願いたいが志々雄の配下の者がいつ襲いかかってくるかもわからん。彼らは京都に来たばかりで土地感もあまりない。警察の君がついていてくれると安心じゃ」
 その提案にきょとりとしていた{name3}はふむと少し考え込むような素振りをして、じっと神谷と明神を見た。つられて巻町も彼らを見れば、互いに顔を見合わせて困惑しているようであった。柏崎や巻町とのやりとりを見て、先ほどよりは{name3}への不審感は薄まったとは見える。
 はあと息を吐いた音を聞いて振り向けば、腕を組んで思案していた腕を解いた{name3}が柏崎へと向き直った。
「――いいでしょう。それで私は彼らをどちらまで連れていけば?」
「山奥の小屋に住んでいるという新津覚之進という者のところまで。新進気鋭の陶芸作家なんじゃが、その隠し名を比古清十郎という。緋村くんの飛天御剣流の師匠じゃ」
「却下」
「え? あ、待ってくれ{name1}くん! 待ってくれ! 操! お前も{name1}くんを止めてくれ〜!」

 * * *

 柏崎と巻町の二人がかりで{name3}を説得し、葵屋を出発してから暫く。用心棒として同行した{name3}は暢気なもので、途中で酒屋に立ち寄ったり、馴染みの甘味屋に立ち寄ったり、そうしている間に東山に日が沈み、すっかり日が暮れてしまった。鬱蒼と生い茂る山道を歩いていく。{name3}は手提灯を持ち、後ろに連なる巻町達が歩きやすいようにと草木を時折踏みつぶしながら先導していく。晴れた空には無数の星星が光り輝いている。
「うわ。日が暮れたぁ」
「おい{name3}。お前がのんびりしてるから日暮れちまったじゃねぇか」
「まあまあ。気持ちはわかるけれども急がば回れ、だよ」
「でもまあ……爺やの調べによるともうすぐだよ」
 柏崎が認めてくれた書き付けを確認しながら、巻町はいう。それには緋村が会いに行った主の情報が仔細綴られている。陶芸家・新津覚之進。その筋では期待の新星とされているが、その実は「比古清十郎」の隠し名を持つ飛天御剣流の剣豪。つまり緋村剣心の師匠にあたる。
「隠し名?」
 明神は知らぬ言葉に首を傾げ、どういう意味だと神谷を見るので、彼女は世間に知られない様に隠匿してるもう一つの名前だと説明する。
「飛天御剣流の場合だと「比古清十郎」というのは本来、開祖の名前でその後代々流儀の全てを会得した者、つまり伝承者が受け継いでるんだって」
「へぇ」
「ふーん――ってちょっと待った! じゃあ!」
 そういう流派なのかと{name3}と明神が感嘆を漏らすと、ふと明神は何か気づき、巻町を見る。巻町も先ほどよりも少し昂った声色で続ける。
「そう! ひるがえせば緋村はまだ流儀の全てを修めた訳じゃないのよ! 緋村は何らかの理由で会得し残した技を今こそ会得しようとしてるのよ!」
「じゃあ、剣心は今より更に強くなるのか!」
 「すげェやっぱあいつ人間じゃねぇ」、「バケモンよ。バケモン!」と嬉々として喜ぶ巻町と明神を横目に、神谷は少し浮かない顔をする。より強くより強く……そうして探求するのは剣客として当然ではある。そうであるが……
「おやおや。緋村もひどい言われようだね」
 二人が緋村のさらなる飛躍の予感に嬉々としているところに、先を歩いていた{name3}が神谷の隣にやってくる。歩く振動でゆるやかに手提灯が振り子のように揺れ、照らされる影も揺らめいている。神谷は{name3}という人物をまだ見極めきれない戸惑いを感じながら、おずおずと答える。
「え……ええ」
「心配かい?」
「……そうですね。少しだけ」
「緋村は君たちを大事に思っているから、強くなろうとしているのだろう? ならば、信じてあげればいい」
「え」
「今はそれだけで十分。……ほら、巻町さんと明神くん。嬉しいのはわかるけど、そろそろ先に進もう」
 さっさと用事を済ませて晩酌でもしたいよと相変わらず暢気な調子で先頭を歩き出すと、二人から元はといえば、回り道した{name3}が悪いと文句が飛ばされるが、素知らぬ顔で進んでいく。山道を突き進み、暫くすると山間の開けた場所に出る。山小屋とその手前には竈門。おそらくこの釜で焼物を焼くのだろう。ここが陶芸家・新津覚之進。基、緋村の師匠・比古清十郎が住むという場所なのだろう。小屋の前まで近づいて、柏崎からの書付を確認するが、間違いないらしい。いよいよだ。再会に期待を膨らませ晴れやかな表情の明神の傍ら、神谷の表情は別離からの日々を思い出して硬くなる。静かに手を胸当てて、ぎゅっと握る。
「じゃ行――」
「やはり、お前に飛天御剣流を教えたのは間違いだったかもな」
 小屋の中から突如聞こえてきた言葉に、巻町と明神はぎょっとして、小屋の入り口に掛かっている簾を吹き飛ばして中に入っていく。納得できないと抗議の声を上げて、中にいる人物に噛みついていく。
「なんだなんだ今の発言はいったいなんだ!」
「なんだ。お前たちは?」
 とんっと、軽く背中を押されて、神谷は振り返る。{name3}がぐっと握りこぶしを持ち上げながら一歩踏み出すんだよと目を細めて笑う。
「ほら、会いに来たんだろう」
 こくりと背中を押してもらった神谷は緊張した面持ちで、一步小屋の入り口に立った。
「操殿、弥彦……」
 小屋の中には、壁沿いに囲うように棚が立ち並んでおり、その棚には新津が作ったであろう焼物が所狭しと並んでいる。奥には文机に、囲炉裏。部屋の隅には疊まれた布団。生活雑貨が思いの他雑然としている。その中で、対面するような形で緋村と新津が座っている。
「……薫殿」
 {name3}は二人の再会を尻目に、空を見上げる。澄み渡る空には二つの光り輝く星が美しく光を放っている。織姫と彦星が再会を喜ぶように。さて帰るかと踵を返したところで、小屋の中から声が掛かる。
「おい、お前も外にいねぇで入れ」
「私はここまで連れてくるのが仕事なので」
「いいからつべこべ言わずに入れ」
「……仕方ないなぁ」
 ふっと提灯の火を消して、小屋の中に一歩踏み入れれば、皆が驚いたように{name3}を見ていた。「{name1}殿……」と虚を突かれた表情を浮かべる緋村を横目に、{name3}はここへと来る前に買った酒瓶を新津に向かって投げ渡す。
「{name1}」
「それはいきなり押し掛けた詫びです。お久しぶりですね、新津先生」
 にこりと笑った{name3}の目の奥はどこか笑ってはいなかった。

25.01.28 『合縁奇縁』 初出
(6124文字) No.12 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
魚心あれば水心
 小暑。夏至を幾分過ぎてから日暮れの遅さを日々感じるようになった。じんわりと纏わりつくような蒸し暑い日々が今年もやってきている。懐に忍ばせた手拭いを引っ掴み、滲み始めた汗を拭き取る。見上げれば空はどこまでも突き抜けるような青。澄み切った美しい青、燦々と燃ゆる陽。白く輝く眩さに思わず頭上に腕を上げて光を遮る。簾の立て掛けられた軒先、どこかの家の軒下から転がってくる風鈴の音、通りの向かって打ち水をする女にねじり鉢巻をした金魚売りの男。山奥で悠々自適に過ごし、暫く振りに街まで降りてみればすっかり夏の気配がそこかしこと漂っている。夏の眩い空気に誘われて浮足立っているようだった。ぶらりと歩いていると、時折短冊が吊るされた笹竹が飾ってある軒端があって、そういえば夏には七夕などという節句があったと足を止めた。青々とした笹竹が澄み渡る天に向かって伸びており、笹の葉と短冊はさらさらと中を泳いでいる。眺めていると思い思いの願いが風にたなびいているのが見えた。一枚は舌足らずな字。かと思えば柔らかい女文字、流麗で美しい綴り……。一枚一枚に書き手の物語が想像される。何を見てきて何を思い、その小さな細長い紙に願うのか――。
「おじちゃんも書く!?」
「あ?」
 しみじみと宙を流るる短冊を眺めていると、そこへととと、っと子どもが駆けてくる。にこっと屈託のない笑みを浮かべると、ずいと短冊の束を差し出される。このお祭りの気分にしっかりと乗せられ満喫しているようで微笑ましい。屈んで視線を合わせてやると、その子どもは新津の手を掴み、短冊を握らせてくる。
「おじちゃんは願い事何を書く?」
「願い事……」
「俺はね、けいさつのおにーちゃんみたいになりたいんだ」
「警官のオニーチャン?」
「この前道に迷って人攫いに遭いそうだったんだけど助けてくれたんだ。髪の長いお兄ちゃん!」
 ふふふと思い出し笑いをする喜色ばんだ表情の子どもの言葉に、新津にも一人心当たりがある。その人物の姿を思い浮かべる。中性的な顔をした黒髪の知人を。すましたような表情に見えるその人は殊の外子どもに優しく、面倒などもよく見ている。無愛想に見える表情は決して子どもを邪見にはしない。特段扱い慣れているというわけでもないが、困っている子を捨ては置かない。以前見かけた時も人拐いから子どもを助けていた。
「ねぇ、おじちゃんはどんな願い事を書くの?」


  *  *  *


「いや、こんなにはいらねぇ……」
 用事があると子どもと別れ、取引相手に作品を引き渡す。よろしければ、とそこでも短冊を渡される。先程余分にもらっていたのだが、願いなんていつ叶うかなんてわからないのだから何枚でも書いておいて損はないとここでも押しつけられてしまった。やれやれ。深い溜息を吐く。じわじわと何処かでなく蝉の声を聴いているとさすがに暑さに辟易してくる。どこか茶屋でも入り少し休んでいくかとあたりを見回せば、ふと馴染みの姿が見えた。橋の下、川辺りに座り込み、そのまま足を浸して涼んでいる。背後に手をつき、そのまま体も後方に投げ出してくつろいでいる。袴の裾を少したくし上げ、足を晒す姿は少々だらしないが、暑さに参っているようでもあるから少しは目を瞑ってやるべきなのか否か……
「──そこで寝るなよ、{name1}」
「あれ? 新津先生? こんにちは」
 橋の上から覗き込めば、目を丸くした朔──{name3}があっと小さく声を上げ、新津を認識する。完全に気の抜けた姿の{name3}は慌てて取り繕うつもりもないようで、暢気にお久し振りですねなどと譫言を言う。手には扇子、どこで買ったのやら削り氷が入った器、首には手拭い。やれやれ、すでに出来上がっている。
 {name3}が涼んでいる橋の下に下りていくと、橋の下には{name3}と同じ様に陽射しから逃れようと涼んでいる連中がちらほらと見受けられた。確かに日向よりも随分涼しいから気持ちはわからんでもない。こっちこっちと手を振る{name3}の隣に座り込めば、持っていた扇子で扇いでくれる。些かひんやりとしたような風が起こり、なるほど、これはないよりあった方が良い。
「今日はお買い物ですか?」
「取引だ」
「……ああ、先生のお茶碗とか人気らしいものねぇ」
 のほほんと{name3}は割れ氷を一口含んでもごもごする。その姿が小動物が口をもごもごさせて餌を食べる姿に見え、益々気が抜ける。
「仕事は?」
「今日は休みです。ご飯ないから家から出てきたけど暑くて少し涼んでいました」
「暑いのはわかるがあまりだらしなくはするなよ」
 首にかけていた手拭いで口元を拭った{name3}は瞬き、暫く新津の顔を見ていたが、はァと肩を竦める。不服といった表情ではあるが、一意見として留めてくれはするようだ。新津は改めて{name3}を見据える。暑さで少し元気がない表情、不健康そうな血色、川に突っ込んだ足。晒された{name3}の脛肉には傷が走っている。古傷ではあるが、その傷跡は足に稲妻が走ったように生々しく見える。桃色の肉が盛り上がっている様はあまりにも痛々しく顔を顰めてしまう。
「それ、くれ」
「……ああ、これか。いいですよ」
 何となく決まりが悪いと話を変えるために新津が割れ氷を指指させば、{name3}は割れ氷を匙で掬う。そして掬った氷を新津の目の前に差し出した。どうぞと当たり前のように差し出した{name3}の行動に思わずぎょっとする。
「? どうしたんですか? 早くしないと溶けちゃいますよ?」
 何の気なしの{name3}は怪訝そうに首を傾げている。これは幼児に餌付けするような感覚で差し出しているのだろうか。
「センセ?」
「──あ、ああ。わかった」
 ひくりと口端が引き攣ったが、観念して口を開き、匙ごと氷を含む。嚥下した瞬間、ひんやりとした感触が一気に広がり、渇いた口腔内が潤っていく。すぅと溶けてなくなってしまった。喉の奥がひんやりとして心地よく染み込んでいく。
「もう少し食べます?」
 割れ氷の器に視線を落とし、サクサクと食べやすい大きさに細分している{name3}の手をそっと掴み制止させる。顔を上げた当人は怪訝そうな表情をしていたが、その手の中から割れ氷の器を受け取る。
「ありがとな。後は自分でやるさ」
「あ……ああ、そうですね」
 ちらりと向かい岸に視線をやれば、慌てて顔を背ける若い女達。ちらちらと新津と{name3}を見ては互いに耳打ちし合っている。その視線に悪意はないが、好奇心の色が見え隠れしている。そんな彼女たちと目が合ったようで、立ち上がった{name3}は小さく笑みを浮かべ、向かい岸に向かって手招きをした。これには驚いて思わず{name3}を二度見してしまう。何をする気か。突拍子もない行動に猜疑心を抱く。動揺したのは向こう岸の女達も同じであり、戸惑ったように顔を見合わせているが、おそるおそるといった風に立ち上がり、近くの飛石を乗り継いで渡ってくる。{name3}もすぐにさっと近づいていって、転ばぬように彼女らに手を差し出している。
「あ、あの……お兄さん」
 きまりが悪そうに{name3}の様子を窺う女性たちに、あっけらかんとした態度で懐からずっと何か取り出して差し出した。
「お嬢さんたち、時間ある? これ書かない?」
「え?」
「お前もか」
「え? 先生も?」
 懐から取り出したのは見覚えのある。まごうことなく。先程もらってきた短冊だ。{name3}ももらっていたらしい。納涼しながらをこちらのやりとりを窺っていた周囲の人々にも配り始めている。短冊かァと風情に感嘆を漏らす声で少しずつ賑わい始める橋の下。色とりどりの短冊を{name3}が配り回り、新津の元へと戻ってきた。
「はい先生」
「俺はいい」
 先ほどもらった短冊を取り出せば、あっと上げた声が切なく溶けていった。先生に押し付けようと思ったのに、と聞き捨てならぬぼやきが聞こえてきて視線を飛ばせば、{name3}は肩を竦めて両手を上げる。
「……なぁんだ。もらってたんですね」
「町中で配ってたガキにもらった」
「私もあの子にもらったんですよ」
「警察のオニーチャンに助けられたから警察官になりたいって書くって言ってたぞ」
「警察官かァ。うーん。私はともかく簾の怖いニイチャンがいるからなぁ……」
「簾……? 何言ってんだお前?」
 唐突におかしなことを言うものだから思わず聞き返してしまう。当の本人はどうでも良いようで、何でもないとすぐに矢立を取り出して、短冊片手に何やら思案し始めた。{name3}にとって怖い上司がいるということなのか。そういえば、以前こき使われているとかいないとか言っていた気がするがそういう事か。最早それ以上は考えても仕方がない。周囲を見れば、意外や意外、その場に居合わせた者達は存外乗り気になって短冊に何かしら願い事を書き始めている。初めて出会う者同士が期待に胸を膨らませて語り合い、和気藹々と短冊を書いている。
「億万長者に俺はなる!」
「鮓をたらふく喰いたい」
「畳屋の子と結婚したい」
 そういった十人十色の願いが語られるのが聞こえてくる。その横顔はどこか幼子の面影が見え隠れして、朗らかな心地にさせる。
「新津センセは願い事って何かありますか?」
 暫く思案していた横顔をじっと眺めていたが、どうやら思い浮かばなかったらしい。筆を置き、川に浸していた足を動かした。パシャパシャと緩やかに動かしているのを横目に、割れ氷を食べきると、さて、と矢立を取り出して短冊に筆を走らせ始める。
「何も思いつかないのか?」
「叶わないことを書いても虚しいし、ねぇ」
 新津は{name3}の顔を見る。真面目な奴め。
「別に気にしなくてもいいんじゃねぇの。些細なことでも何でも。あっちのやつらも億万長者だのなんだの、言っていたぜ。七夕の由来通りに機織りの上達祈願であったり、旨い酒が飲みたいとか。願いがを持つことが生きる上での希望になるんだろうよ」
 倒れ込んでいた{name3}がすくっと起き上がり、じっと新津を見つめる。何だ。
「意外といい事言いますね」
「あ?」
「なんでもないです」
「旨い酒、土作りに良いきれいな水……何でもいいだろ。本当に叶えたい願いはそいつ次第さ」
「まあそりゃそうですけど。子どもたちが一生懸命考えて書いてるのにそれでいいのかな、って」
「気にしねぇよ。あのガキも来年には警察官から政治家になりたいとでもなってるだろうよ」
「わかるけど……それはそれでちょっと複雑だなあ。」
 さらさらと筆を走らせていると、{name3}も短冊を一つ手にとって半信半疑といった表情をしていたがゆっくりと書き始める。
「……仕事が少し減りますように?」
「いいんじゃねぇの?」
 新津の言葉に答えを得たというように更に書き進める。水を得た魚のようだ。
「私のことこき使い過ぎなので上司は小指をタンスの角にぶつけますように?」
「そういうのは止めとけ。美味いもの食いたいとかにしとけ」
「……冗談ですよ」
 肩を竦めた{name3}を尻目に本当に冗談なのだろうかという言葉脳裏に過ったのだがそっと飲み込んだ。
「ほら、もっと楽しい感じのねぇのか?」
「うーん……鮓が食べたい!」
「おお。いいじゃねぇか」
「牛鍋!」
「ほぉ……酒と一緒に牛鍋もいいな」
「センセの奢り!」
「奢り? 俺の? ……おいちょっと待て!」
「鮓、牛鍋、酒、菓子、センセの奢り!」 
 聞き捨てならないと新津が声をかければ、{name3}は書き上げた短冊をずいっと新津に差し出した。
「鮓」
「牛鍋」
「湯豆腐」
「あぶり餅」
「新津センセが奢る旨い飯と酒」
 短冊に書かれた流麗な手を見て、内容には感心しないがその筆ぶりにはほうと感嘆を漏らした。己の弟子などは手はからきしで、辛くも読めるかといったところであったが、{name3}のは繊細で美しく、文字も軽やかだ。彼の人は巫山戯た警官だなと始めは思っていたものの、意外な一面に新津は感心した。
「お前……中々達者じゃねぇか」
「ふふふん。驚いたか。中々いい字を書くでしょう」
「この腕前なら人に手解きするのもわけねぇな」
「昔ね、代筆していてよく褒められましたからね」
 少し得意げに{name3}は笑う。褒められて満更でもないのだ。こそばゆそうだが頬肉が緩んでいる。こういうところは少し子供っぽくもあるが、普段のすました顔から意外な一面だ。思わずフッとつられて口元が緩む。ふと喧嘩別れした弟子の姿を思い出したのはこの{name3}とは同年代ぐらいだからだろうか。風の知らせで生きているのは知っていたが明治になってからの噂はてんでわからぬ。今頃何処かで過ごしているのかはたまた――無沙汰は無事の便りなどと言ったりもするが。
「新津センセ。食べ物のお願い書いていたらお腹が減りました。何か食べに行きませんか」
「お前の奢りなら行ってやってもいいぜ」
「ええ……でもお腹減ったし……仕方ないか」
 足を川底から引き抜き、頭に掛けていた手拭いを取ると濡れた足を拭き始める。足を拭き終えるとそばに置いていた足袋を履いて、草履を履く。よっこいせ、と気の抜ける掛け声と共に立ち上がった{name3}。両膝に手をついて立ち上がると、{name3}の袖からひらひらと一枚の短冊が流れていった。すぐに川の流れに飲み込まれてやがて短冊の姿すら見えなくなった。
「一枚、川に落ちていったぞ」
「え? これで全部だと思ったけどな?」
 きょとんとした顔の{name3}がゴソゴソと袖を探るが他には見当たらないようで怪訝そうな顔をしている。気のせいであったか……?
 じっと下流の方を見つめていると、流れてくる短冊が二、三。願いを書いた短冊を流す七夕送りにはまだ早いがどうやら一緒に書いていた連中が流したらしい。
「あれ? そういえば私の割れ氷は?」
「あ? ……ああ、暑ちぃから全部食っちまった」
「やっぱり全部奢ってもらおうかな」
 食い物の恨みは水には流れないらしい。

24.10.10 『魚心あれば水心』 初出
(5834文字) No.11 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
火変わり

「私にも、茶碗を作る事って可能なのでしょうか」

 少し高めの、しかし、しっかりと芯の通った、耳障りのよい声色が鼓膜の中で渦巻いた。
 違い棚に乱雑に置かれている陶器をしげしげといった素振りで眺めていたその人物。普段は陶器に関心も示さない薄情な奴からの発言だった。不意打ちの発言に、陶芸家・新津覚之進は暫し言葉の意味を考え込んでしまっていたが、聞こえてますかと訝しげな声が飛んできてそれが聞き間違い出はなかったことを確認する。珍しいこともあったものである。明日は槍でも降るのではないだろうか。
「新津せんせい」
「聞こえている」
 ろくろを回していた手を止めて訝しく視線を移せば、その水晶体がこちらを覗いている。昼下がりの憂鬱のぶら下げた瞳。そのくせ、嫌に透き通ったその眼球はじっと新津を見つめていた。珍しい視線だ。芸術のことはてんでわからないとぼやいていた奴だからこうして興味を示すのは珍しい。少しでも新津覚之進に興味を抱いたのだろうか。それはそれで小気味いいことだ。この不届き者は飛天御剣流第十三代目継承者比古清十郎の剣術には興味がある癖に、陶芸家・新津覚之進の作陶にはてんで興味がないようだった。正直それが面白くなかった。だが、無理に教え込んだところで何の意味もなさないから放っておいたが、少しでも興味があるようならば吝かではない。
「新津センセイ?」
「お前にその気があるならば何も問題などない」
 芸術は心に潤いを与える。己の中の感覚でそのものに対峙して触れる。それは触覚であるとか、視覚であるとか、嗅覚であるとか、所謂、五感であるとか。そういったものでその芸術の中に眠る何かの種を感じ取って、今度はそれを自分の中へ蒔いていく。その種はすぐ萌芽するかもしれないし、十年後かもしれない。あるいは一生芽吹くことはないかもしれない。それでも己を形成する一部となる。己の琴線に触れたものが自分の知らぬ間に染み渡って、いつか心を掬う時が来るかもしれない。そういったものが、目の前のこいつをいつか助けるかもしれない。それならば触れさせてやるために導いてやるのも芸術家としての務めだ。面倒ではあるが、目の前のこいつは導いてやる方が――
「――やはりいいです」
「は?」
 手拭いで手を拭い、どれ一つ引導を渡してやろうかと{name3}に近づこうと立ち上がったが、{name3}はそっと棚の上に持っていた湯呑を戻す。ちらりと見えた横顔が嫌に無機質だ。ことりと乾いた陶器の音が小屋の中に響く。その音が、やけに耳障りに渦を巻く。透明な声色に、自然と眉根が寄っていく。
「すみません、気にしないでください」
「おい」
「やはり……それに」
「{name3}」
 大股で近づいて、グッと腕を引っ張って{name3}を己の方を振り向かせる。驚いた表情の奥の、揺らぐ射干玉が新津の姿を映している。少しだけ水気を含んだその硝子玉を見て、不謹慎ながら、その艶やかな透明を美しいと思った。途方もないような、迷子の顔をした情けない表情。不細工な顔だと笑ってやる。目の前に天才がいるのだからそんな情けない顔するなんて馬鹿な話があったものか。ピンとデコピンを一発叩き込むと、弾いた額からキレの良い音が鳴り響く。
「っ!?」
「莫迦者。折角俺という天才が直々に教えてやろうってのにお前ときたら」
「って……このっ……馬鹿力……っ痛」
「もう一発行くか?」
「いらん! いらんいらん!」
 これ以上は堪らないと慌てて掴まれていない方の手で額を隠す{name3}。その必死さを見て、ふっと笑みを漏らしてしまう。そうだそれでいい。こいつは辛気臭いばかりする。そう言う顔でこの新津覚之進の前にいると言うのは気に入らない。渋い顔などせずに笑っていればいい。生意気に噛み付いて来るぐらいの張り合いがある方がいい。
「安心しろよ、{name1}。どんなに芸術の才能がなかろうとこの天才新津覚之進様が直々に教えてやるんだから」
「何ですかそれ」
「下手くそなのは承知の上だぞ」
「……一言余計じゃあないですか?」
 むっすりと、不愉快そうに言う。{name3}は怒りで頬を引きつらせるので、両頬をぐいぐいとほぐす様に上下に引っ張った。顔はいいのだから、いつも笑っていればよいというのに。


 * * *

「わっ、つめたい!」
 おそるおそる土に触れた{name3}の肩がビクリと跳ねた。冷たいと跳ねた手と顔が同じ表情を浮かべ、そっとその粘土の感触を確かめるように触れる。
 新津の勧めもあり、気を取り直した{name3}は新津に教えを乞いながら土を捏ね始めていた。芸術の事はてんでわからないと嘆いた{name3}だが、興味がないわけではなかったらしい。土を捏ねるのが楽しいようだ。その横顔は好奇心に満ち足りたように輝いていた。手つきは不器用だが、手を土塗れにしながらも楽しそうに捏ねている。先ほどとは打って変わって良い顔つきだ。夢中になって捏ねている{name3}を見て、新津はそっと笑う。引き留めて正解だった。幼子のように無邪気に目を輝かせて土弄りを楽しんでいる。武家の生まれであるから習い事は一通りできるようだが、手習にしろ何にしろ厳しく躾けられて、芸事を楽しむような環境にはなかったらしい。作陶などは縁がなかったようで、新しい習い事として興味深そうにしている。興味のなさそうな素振りはあったが、陶芸自体に興味がないわけではなさそうだ。大方、興味はあるが、芸術としてはよくわからぬから口を出さず遠巻きに見ていたといっところだろう。手を動かす度に着物の袖が揺れ、汚れそうになっている。見かねて背後から襷掛けをしてやると、弾かれたように{name3}が振り向いた。
「な、ん……?」
「袖が汚れる」
 目を白黒とさせていた{name3}が己の袖に視線向けてから物言いたげに新津をじとりと見つめてくるが、そろりそろりと止めていた手元へと視線を向けてぽつりと呟いた。
「……ありがとうございます」
「ああ、楽しそうだな」
 一瞬、虚を突かれたという風な顔をした{name3}はすぐに苦笑する。
「楽しいと言えば楽しい。けれど変な感じ」
「あ?」
 頬に掛かる髪を指先で弾きながら、土を捏ね続ける。
「こうやって何かを作るのって初めてなんです。だから自分の手で何かを生み出すって不思議な感じ」
「嫌だったか?」
 新津の問いかけに、{name3}がふふっと機嫌が良さそうに息を漏らす。
「でも、気分はいいですよ」
「そうかよ」
 新津も楽しそうに土を捏ねる{name3}につられるようにそっと笑みを漏らす。あまり笑わない奴だから心配していたが、しっかりと笑えている。ふとした瞬間に浮かべる辛気臭い顔がどうにも気に掛かっていたが、これをきっかけに何かが変わるかもしれない。
「そういえば、新津先生って陶芸界では偉い人なんですか?」
「別に偉くはないが、いきなり何だ」
「陶芸なんて私には縁遠いものだと思っていたから何も知らないと思ってね」
「お前、本当に俺のこと知らないよな」
「ははは。えー? まあまあ」
「ったく。しょうがねぇな」
 新津の事を先生というからにはある程度の事は知っているのかと新津自身は思い込んでいたが、それは全くの間違いだということに気が付いた。「飛天御剣流陶芸術とか?」などと頓珍漢な事を宣うっている。何が飛天御剣流陶芸術だ。呆れと腹立たしさを感じながらも、珍しく楽しそうにしている{name3}に毒気を抜かれてしまうのも事実。
「俺が陶芸を始めたのはここ近年だ。陶芸界ではまだまだ新人の部類だ」
「へぇ。もっと前からやってらっしゃるのかと思ったなぁ」
「巷じゃ新進気鋭の陶芸家なんて言われてるみたいでな。まぁ何でもこなせてしまう天才だから当然だな」
「うわ、腹立つな」
「あ?」
「あ」
 あという顔をした後、憎たらしいまでに{name3}は満面の笑みを浮かべる。
「――それで。どんな感じに作ってるんですか?」
 はぐらかしたと睨めば、シラを切る{name3}。どうあっても押し通すつもりらしい。一つ舌打ちをしつつ、仕方なく見逃してやる。
「作品はその時に作りたいものを作ってるが、基本的には湯呑や食器類は使いやすい形にするように作っている」
「へぇ。それはこだわりなんですか?」
「そうだな。実用的で四季折々を感じて親しめる方がいいだろう」
「四季折々、ですか?」
「食器っていうもんは人間が生活している長く使うものだろう。食器と共に生きるんだ。それならば、長く使い続けられて楽しめる方がいいだろうよ」
 じっと新津を見つめて話を聞いていた{name3}は感心したよう息を漏らす。その瞳には薄っすらと光が差し込み始めている。
「行きつけの酒屋の親父に一つやったら、使いやすくてずっと使っているって嬉しそうに話してやがったけどよ。やはり、そいつが気に入って長く使ってくれるって言うのが陶芸家としては嬉しいもんだな」
 しわがれた親父の顔がくしゃくしゃになって笑っていた。使いやすくて毎日食事の時間に器を何を盛りつけるか考えるのが楽しみだと欠けた前歯を見せながらからからと笑っている姿が目に浮かび、思わず笑みが零れてくる。
「ふぅん?」
 {name3}に視線を戻せば、にんまりといった様子の{name3}が新津を見ていた。
「何だよ、文句でもあるのか」
「いいや、貴方もそういう顔するんだなぁと少し合点がいった」
 {name3}が柔らかく笑う。あまりにも穏やかに笑うので珍しさにじっと見つめていると、{name3}のひんやりと冷たい手が新津の手に触れた。土に濡れた指先が輪郭をなぞる様に新津の手の甲や手のひらを這い、指先に絡まったりする。
「おい」
 新津も流石にぎょっとして手を放そうとするのだが、それでも{name3}は離さない。
「先生の手は”つくる手”なんですね」
「”つくる手”?」
「こうして作品を作ったりするのは勿論だけれども、それって誰かの生活の一部も作っているってことなんですよね」
「まあそうなるな」
「少なくともその酒屋の親父さんは新津先生の作ってくれた食器を使って生活することで毎日が豊かになったと思いますよ」

 ――陶芸家って素敵なつくる手を持っているのですね。

 いいですね、そういうの、って。
 慈しむような笑みを浮かべた{name3}。その眼差しには一点の曇りもなく尊敬の念が込められており、労わるようにするりと新津の手を一撫でして手が離される。陶芸に関して明るくない{name3}がこうして陶芸家・新津覚之進を称賛したのは初めてであった。それほど陶芸には興味を示さなかった人間が、こうして陶芸家・新津覚之進の事を認めて評価することは素直に喜ばしいことだ。自他共に認める天才肌であるから、
称賛されること自体に何の不思議も持っていない。寧ろ何でもできてしまう天才だからこそ称賛されることは普通であるという気概すらある。故に{name3}が新津を褒めたことも何ら不思議ではない。ただ、{name3}が心の底から陶芸家・新津覚之進に敬意を払う姿に、満更ではない感情が芽生えていた。ゆるりと胸の奥底を撫でるような心地はどこか日溜まりに浸かるような穏やかな心地がするこそばゆさがある。そのこそばゆさに新津は自分の髪をくしゃくしゃと乱暴に掻き混ぜる。普段は斜に構えているような所がある癖に、こうも素直に褒められるとなると何となくむず痒く調子が狂う。
「あー……お前、いつもこうなのか?」
「何ですかいきなり?」
「いや、何でもねぇよ。……そんで、何がつくりたいんだよ?」
「茶碗ですけど」
「? 埴輪作ってんじゃねぇの?」
「違いますけど」
 何言ってんだこいつという視線を寄越す{name3}の手が止まる。手のひらや指先で土を練りながら成形を始めていたのだが、茶碗というには奇妙な形だ。西洋の湯呑みのように取っ手を付けてみたのだと述べた{name3}の顔には、どこか溌剌とした表情が浮かんでいる。新津に触発されてやる気に満ち溢れていると言ったところだが、どうにも不可解な形状のものに見えてしまう。まごうことなき埴輪。否、土偶という線も捨てがたい。埴輪だろうかと問うてみたが、即座に否定されて、さすがの新津も困惑する。
「お前、変な創意工夫は止めろ。まずは基本に忠実に作れ」
「え? 持ち手あれば今度こそ落とさないと思ったんですけど」
「初心者は複雑にしない方がいい。それにあまり薄いとヒビ割れるから厚めにな」
「ちぇっ……取っ手をあるといいと思ったんだけどな」
「まだいうか」
 しょんぼりとしながら一度形を崩して再び土を捏ね直していく{name3}の姿に少しばかり罪悪感も覚えたが、これでは完成まで遠のく一方だ。適度に助け船を出してやりながらろくろで回しながら成形してやると、少し不恰好だが茶碗の形が姿を現していく。
「わ! 出来た!」
「まぁ、俺の手に掛かればざっとこんなものだろう。絵付けはどうするか決めているか?」
 各々が満足した表情で成形された茶碗を見つめる。{name3}は子供のようにきらきらと目を輝かせて、すごいと呟いている。
 小屋の外の窯の中に成形した茶碗を入れて、窯に火を入れる。
 後はこの窯の中で焼き上げる作業だけ。細かいところを上げれば、土に含まれた水分を飛ばしてから絵付けなどして再び焼き上げるというような工程もあるのだが、割愛する。
「絵付けなんてするんですか? 私、絵心ないのでお任せしていいですか?」
「(だろうな……)物によってはそのまま絵付けなしで焼いてもいいが、特別だ。絵入れといてやるよ」
「ありがとうございます」
 楽しみだなと小さく呟いたその横顔は、今まで観た中で一番穏やかで明るい顔をしていた。

 * * *

 {name3}が新津の山小屋で作陶をしてから暫く。素焼きや絵付などの工程を新津が引き継ぎ、ついに完成した。茶碗を持って新津は街へと降りた。警察関係者として働いている{name3}は仕事上出張しなければならないこともあるらしい。文のやり取りをして都合を互いに窺っていたが、漸く完成品を渡すときが来たのだ。作る前は心許ない様子の{name3}だったが、茶碗を成形していく内に興味関心が芽生えたのか楽しそうにしていたのが目に浮かぶ。
 ――それって誰かの生活の一部も作っているってことなんですよね。
 感心したように土を練っていた{name3}が笑っていたのを思い出す。その眼差しには大半は敬意の念が篭ってはいたが、その奥底に薄暗い燻りがなりを潜めていた。あれは{name3}の心の中の燻りだ。明治に入って数年。{name3}は自分の事を語らない。詳しい過去は与り知らぬところではあるが、{name1}{name3}という人間は未だに幕末という時代を引き摺って生きている節がある。薄氷の上に立っているような危うさがある。そういう姿を見ていると、喧嘩別れして音沙汰のない自分の弟・緋村剣心の姿が脳裏に過る。{name3}と己の弟子は同年代といったところだろうか。音沙汰がないものだからあの弟子が今どこで何を想い生きているのか定かではないが、{name3}みたいにどこか燻り続けながら生き続けていたら目覚めが悪い。緋村に与えた飛天御剣流は比古清十郎のとっておきだ。飛天御剣の剣がきっと緋村を助けてくれているだろうが、{name3}はどうだろうか。あれは――
この茶碗を{name3}に渡したら、{name3}の生活にも少しは彩りを添えてやることが出来るのだろうか。
「こんにちは新津先生」
「おう、{name1}。何やってんだ、こんなところで」
 思案していると、{name3}が軒下から這い出て来た。突然のことにぎょっとしたが、当の本人はお久しぶりですと拍子抜けするくらいに呑気な声だ。よく見れば腕の中に小麦色の猫が収まっている。目を真ん丸くしてきょろきょろと怪訝そうに見回しては時折ゆらゆらと尻尾を揺らがせている。{name3}が猫の頭を撫でてやると、にゃあと鬱陶しそうに手を払おうとしている。ぺしりと猫の前足が{name3}の手を叩くと、{name3}は指を動かして空気をにぎにぎとしていたが、ゆっくりと手を引っ込め。少しだけ寂しそうな顔に、少しだけ同情する。動物は結構好きらしい。
「猫ちゃんが迷子になったから見つけて捕まえてほしい、って近所の方に頼まれましてね」
「それで捕まえて泥だらけか」
「え、うそ。泥だらけになってます?」
 げっと苦々し気に顔を歪めた{name3}が猫を抱えながら、自分の着物の汚れを確認する。新津の指摘通り、{name3}も猫も身体中泥まみれになっている。群青色の着物も、白銅色の袴も、中性的な顔も、結った長い髪も、泥に塗れて、みすぼらしい。うわっと嘆息を漏らした{name3}を横目に、やれやれと懐から手拭いを取り出した。猫を抱えて手が塞がっている{name3}の顔をごしごしと拭いてやると、痛いと抗議の声が上がったが、新津の知ったところではない。猫の顔もごしごしと拭いてやると同じようににゃあと抗議の声が上がる。
「身なりはちゃんとしろ」
「新津センセイに言われてもなぁ」
「あ?」
「いや、なんでもないです」
「ったく、お前も世話が焼けるな」
 やれやれと溜息を吐き呆れる。頬を拭っていると、ふふふっと擽ったそうに呑気に笑う{name3}。腕の中の猫も泥だらけの顔を拭いてもらい、擽ったそうに鳴く。美人さんにしてもらえて良かったねと、猫の頭を撫でている。そんな戯れる姿を眺めていると、くるりと視線が新津に向く。猫の両前足を持って、人形師のように猫の手を動かすとポンポンと肉球で新津の腕を叩く。
「新津センセ、ありがとにゃん」
「あ、ああ……」
「あれ、猫お嫌いです?」
 横の前足をぴょこぴょこ動かしながら、{name3}は怪訝そうに首を傾ける。にゃあと猫も釣られて鳴く。
「いや……何というか。お前もそういうことするんだなって思った」
「猫と戯れるの楽しいですよ。新津せんせは猫と遊ばないんです?」
「猫はあんまり見かけねぇな。熊はよく戯れて来やがるが」
「熊?」
 {name3}は目を白黒させる。
「それより、お前の茶碗持ってきたぞ」
「あ! ありがとうございます。楽しみにしてました!」
 ぱあっと喜色を浮かべた{name3}を横目に、持ってきた包みの中から先日の茶碗を取り出した。
「すごい……!」
 息を呑む音がする。
 釉薬で美しい淡雪に身を包んだ白磁の茶碗。その美しい淡雪の上に引かれた流麗なな藍色の線が梅の花を描いている。白と藍が互いに美しい色合いを引き立てており、見る者を魅了する。豪奢さはないが、簡素ながらも洗練された美しさを表現した器は新津にとって会心の出来である。毎日使うものなのだからいつでも手に馴染むものが良いのだ。{name3}のとしてもこれぐらいが使いやすいだろう。
「気に入ったか」
「すごい……すごい。こんなに綺麗なるなんて思わなかった。ありがとうございます!」
 感極まったように、新津の手の中に収まった器を覗き込む。陶器色合いや肌、手触りを噛み締める様に確かめて、幼児のように嬉しそうに笑う。大袈裟だという言葉は、喉元で引っ掛かり声にはならなかった。
「……私にも、つくれるんだ」
 一瞬、{name3}はくしゃりと顔を歪めて、泣きそうな表情をした。
「お前」
「新津センセイ」
 動いた視線が柔らかく笑みを結ぶ。あれは見間違いだったのだろうか。
「大事に使いますね」
「――ああ」
{name3}が猫を抱え直そうとすると、大人しかった猫が突然足をパタパタとさせて暴れ始める。いきなり暴れ始めた猫に驚いて、落ち着かせようとするのだが何かが気に食わなかったか。バタバタといっそう暴れて、{name3}があっと叫ぶと同時に猫が腕の中から飛び出して新津に向かって飛び出した。咄嗟に飛び込んでくる猫を抱え込むことには成功したが、興奮した猫は新津の腕の中でバタバタと暴れて、再び飛び出していこうとする。

 ――ガシャアン!

 切り裂くような鋭利な音が響く。暴れた猫の足が持っていた包みを跳ね飛ばし、地面に落下した。茶碗は見るも無惨に四散する。猫は飛び出してそのままどこかへと走り去っていく。
「あ」
 粉々に砕け散った茶碗が足元に漂っている。往来する人は固まったままの新津と{name3}を横目に訝しそうに見ていくが、すぐに興味を失ったように通り過ぎていく。
 茶碗の出来栄えに心底喜んでいた手前、{name3}に何と声をかけてやるべきかと足元に視線落としたままの{name3}の様子を窺う。表情はすっかりと消え失せ、じっと足元を見つめまま立ち竦んでいる。
よく見れば、破片が飛んだのか、その手から鮮血がつつっと静かに流れている。
「! 大丈夫か。怪我しているぞ」
「――あ、ああ。大丈夫です。痛くないので」
 今気がついたというような顔で血が出ている箇所を認めると、{name3}は口付けを落とすように傷口に唇を当てる。どこか儀式めいたその様子に思わず息を呑み、凝視してしてしまう。{name3}の顔立ちは整っている為、そういった何気ない仕草も中々に様になるのだ。無言のまま細まった瞳がゆっくりとしゃがみ込み、足元に散らばった茶碗の破片を拾い始める。感情が何も乗らぬその瞳が気味が悪くも気にかかる。
「{name1}、俺がやる」
 破片を拾う手を掴んで制止すると、ハッとした表情で{name3}が新津を捉える。
「あ。すみません、折角仕上げていただいたのに」
「そんな顔をするな。時間はかかると思うが、金継ぎしてみよう」
「金継ぎ?」
 小首を傾げる{name3}に、新津は大きな欠片を丁寧に拾い上げる。そして繋ぎ目を合わせくっ付けて見せる。
「小麦粉と漆と水を混ぜ合わせたものを繋ぎに、破片と破片を接ぎ合わせる。他に欠けたとこを埋め合わせたり、金属粉で継ぎ目部分を装飾したりするんだ」
「でも結構細かく割れてしまったから難しいのでは?」
 ぽつりと呟いた{name3}の頭をガシガシと撫でて、ニッと口角を引き結ぶ。
「お前は俺を誰だと思っているんだ?」
「……山奥おじさん?」
「天才陶芸家だ。お前俺の事なんだと思ってんだ」
「わざわざ山奥で暮らす変な人」
「おい!」
「はははっ。人嫌いみたいな生活してるくせに、意外と世話焼きなおじさんですよね、新津先生って」
 目を細めて笑った{name3}がそっと新津の手を解く。{name1}。そう声を掛けた新津に首を振る。
「すみません。金継ぎするかしないかは新津先生に任せていいですか」
 欠片を拾い集めた{name3}が包みにしまい込んで新津に渡す。ゆっくりと膝を伸ばして立ち上がる{name3}が斜陽を眩しそうに見つめ、己の顔の前に腕で庇を作る。
「暫く仕事で京都を出なければいけないので」
「またか。忙しいな、どこ行くんだ?」
「薩摩の方に」
「怪我せず帰って来いよ。張り合いがないからな」
 新津が気を遣って掛けた言葉張り合いなんて思ってもないでしょうと、{name3}は力なく笑い、肩を竦めて深く息を吐く。
「{name1}」
「ま、その金継ぎとやらでも直りそうもなければ無理しなくて良いですよ。ものはよく壊れるものですから」
 左様なら。
 踵を返して家路へと歩いていく姿に、一抹の不安が過ぎる。
「おい! 今度帰ってくる時までに直して置く。土産の酒、忘れんなよ!」
ピタリと立ち止まった{name3}は振り返り、きょとんとした顔をしたが、相変わらずですねと苦笑した。
「にゃおん」
 先程の小麦色の猫が民家の瓦屋根から飛び降りてきて{name3}の前を横切って駆けていく。それにハッと気づいた{name3}が「ぽち! 逃げるな、家に帰るぞ!」と全力で駆け出して行く姿を見て、気が抜けた笑いが漏れてしまう。足が意外と早いようでもう既に遠くに見えるのみですぐに見えなくなって行った。些か気になりはするが、きっとひょっこりと帰ってくるのだろう。
 それまでにこの割れた茶碗を綺麗に直してやらないとなと手の中の包みを持ち上げる。いつかこの茶碗を使って飯を食うアイツを思い浮かべながら、酒でも買って帰ろうかと馴染の酒屋へと足を向けるのだった。

  ――後に西南戦争と呼ばれる、武士達による最後の武力蜂起が始まる、少し前の話である。

22.04.03 『火変わり』 初出
22.04.16        加筆修正
(10113文字) No.10 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
新しい酒は新しい革袋に盛れ

「ひ、人使い荒すぎる……ダメだ、仕事探そう。あの簾頭め」

 一仕事を終えて、昼下がりの往来。じりじりと擦り寄る陽炎。どこまでも吸い込まれるような、煌びやかな夏の青空。人々で賑わう街並みを一人の{name1}{name3}がのっそりと歩いていた。活気溢れる界隈とは裏腹に{name3}の足取りは重く、すれ違う人々はその草臥れた表情を見ては気の毒そうな表情を浮かべながらそそくさと去っていった。{name3}は猫の手も借りたいというような人手不足の状況下であちらこちらと駆けずり回り、漸く束の間の休息を手にして帰るところであった。疲労は最高潮。その疲れ目には真昼の日差しが眩しく突き刺さり、目が眩む。今日の日を迎えるまで常に時間に追われ、疲労に苛まれ、上司にはねちねちと結果を催促される。振り返れば大変だったと思わず溜息を吐かずにはいられない。仕事が一段落した今、自分を労わってやりたいと{name3}は思う。今日は一区切りついた褒美に家で酒でも飲もうという算段もつけている。疲労感はあるが、少しぐらい酒でも飲まなければやってられぬ。どうせすぐに次から次へと仕事が舞い込んで来るだろう。パーッと気分転換をしてやろう。そう思うと現金なもので心なしか元気が出てきたような気がする。善は急げ。思い立ったが吉日。好機逸すべからず。旨いものは宵に食え。そうだ酒屋に行こう。足取り軽く酒屋の戸を開け、上機嫌で挨拶をする。
「らっしゃい」
「こんにちは」
 無愛想な親父が{name3}が来たことを認識すると、選び終わったら呼びなと抑揚のない声で告げる。相変わらず無愛想だなと苦笑していると、すぐに他の客が店の中にやってきたので入口から少しずれる。店主の愛想はないが、酒の愛好家には評判の店である。
 店内には{name3}と同様に酒を買いに来た者達が何を買おうかと吟味しているようだった。雑然と酒瓶が雑に並べられていて、こういうところからも店主の性格が出るよなと{name3}は一種の関心を寄せる。薄暗い店内で親父はのんびりと茶を飲みながら、膝の上に転がる猫を撫でている。やる気があるのだかないのだか。気の抜けるような穏やかな風景にどこか安堵しつつ、目に留まったお気に入りの酒を告げる。
「「親父、朝日山の万寿!」」
「万寿? 悪いけど、それが最後の一瓶だよ」
「え?」
 重なる声に驚いて発信源を向く。勢いよく振り返れば、{name3}の後に入店した男と視線が絡み合った。随分と体格に恵まれた男だ。顔立ちの涼やかなこと。年は{name3}と変わらぬぐらいだろうか。
「あ。お前、この前の不良警官か」
「え?」
 不良警官とは随分失礼な男だ。それにしても一方的に相手は{name3}を知っているらしい。薄暗い店の中で目を凝らしてその男を凝視する。街の女たちが好みそうな黄色い声が上がるような眉目秀麗とした顔立ち。射干玉の黒髪。赤襟がついた白外套に、その下から覗く筋骨隆々とした巨躯。首を絞められでもしたらひとたまりもなさそうな巨木のような腕。──はてな。こてんと首を転がし、記憶を辿る。こういった出立ちの知り合いは……そういえば、数ヶ月前に会った気がする。あれは確か。
「──ああ、あの時の、空手家のお兄さんか」
「陶芸家だ。記憶を捏造すんな」
 じろじろと見られ訝しく思っていた{name3}だったが、その疑問はすぐに氷解された。一月か二月前だっただろうか。街中で起きた強盗事件の捕物騒動が発生した。その時に{name3}が強盗と間違えた男だ。無事強盗を捕縛し、後処理をしてそのまま会うこともなく次の仕事に奔走していたためすっかり忘れ去っていた。予期せぬ再会に驚きつつも、咄嗟のこととは言え、盗人を逃してはならぬと足止めの為に男の酒瓶を引ったくって投げていた。言うまでもなくその酒瓶はなきものにしてしまった。こうして顔合わせる決まりが悪い。
「あのー、譲っていただくわけには」
「あの時の万寿」
「……」
「弁償しろ」
「……」
「俺の万寿、投げたのは誰だったか?」
「う……私ですねそうでしたね。ごめんなさい」
「そういうわけだからこれでこの前の事はチャラにしてやる」
「私の万寿……」
「投げたのは誰だったか?」
「うっ……わかりました、奢ります、奢ります!」
 くっと歯を食い縛り、懐から渋々と財布を取り出した。中から酒代を出して店主に渡すと、まいどと呑気な声色。さらば私の万寿。{name3}は店主から受け取った酒瓶を渋々と男に差し出す。その様子に男は呆れた表情を浮かべているが、{name3}としてはこの酒屋に来るまでに満身創痍に近い状態になって好みの酒を買って帰るのを楽しみにしていたのだ。その酒を買って帰り、作ったつまみに舌鼓しながら家でゆっくりと酒を楽しむところまで考えていたから未練がましくもなってしまう。
「潔くねぇな」
「わ、わかってますよ、みっともないことぐらい! ただ馬車馬のように働かされて楽しみにしてたからがっかりが大きいんです!」
「お前それ……」
 苦々しそうに憐憫を向けた男に、{name3}はぐいっと男の手の内に酒瓶を押し込んだ。同じ店内にいるから話が聞こえていたようで心なしか周りにいる他の客も{name3}を不憫と思うような視線を向けている。ますます決まりが悪い。小さくなりかけた{name3}を横目に、くわあっと大きな欠伸をする酒屋の親父が言う。親父の膝の上で丸くなっていた猫もつられるようにして欠伸をする。 
「あんたらもう面倒だから一緒に酒盛りでもすればいいじゃないかい。仲良くやるには酒で万事解決だよ」
「それだ!」
「え?」
 店にいた他の客が一斉に振り返る。無遠慮に詰め寄る男達に思わず後ずさるのだが、意味を成さない。
「今日はみんなで出してやるから皆で飲もうぜ兄チャンたち!」
「え?」
「酒盛りだよ! 大変だったんだろう? そんな時は皆でパーっとやって楽しく過ごそうぜ! 親父、この予算だとどのくらい買える?」
「まいど……少しならまけてやるよ」
 ニヤリと笑った店主を見て、この人の一人勝ちだなと{name3}は頬を引きつらせた。ちらりと横目に大男を見れば、どうしてこうなるんだと溜息を吐いていた。

 * * *

 酒宴が催されると噂を聞きつけた近所に住む者達があれよあれよと{name3}の家にやってきては盛んに出入りする。老若男女は問わず。女たちは自分の田んぼや畑で採れた野菜やら米やらを持ってきて、厨で調理をし、男たちは女たちにどやされて掃除をし始める。{name3}が留守にしている間に埃っぽくなった家の雨戸を全て開け放ち、各自持ち回りで掃除をし始める。大勢の男たちの協力であっと言う間に綺麗になった家の中に{name3}が唖然としていると、一番広い居間の中に皆が集まって早速酒宴が始められる。各々が自分の家から持ってきたという漬物やら何やらを酒のつまみに飲み始めている。女たちは会話に花を咲かせながら料理を作り、その子ども達は手伝いをしてみたり、盗み食いをしてみたり、家の中を縦横無尽に走り回ったり、隠れん坊をしたり、無邪気に遊んでいる。{name3}も家主として料理を手伝っていたが、ここは任せてくつろいでくださいと逆に銚子と徳利、自分で作った鴬宿梅に卵ふわふわを持たされて厨を追い出されてしまった。とぼとぼと仕方なく宴会場と化したへと赴けば、「兄チャン! 一緒に飲もうぜ!」とわいのわいのと一瞬で取り囲まれて、次々と徳利に酒を継ぎ足されていく。飲み比べ大会がすでに始まっており、べろんべろんの酔いどれになっている。飲み過ぎて気分が悪くなったものは既に縁側から身を乗り出して吐き戻しているため、子ども達が面白おかしいといったように笑って庭に穴を掘り始めている。
「兄チャンも飲み比べやろうぜ…うっぷ」
「あなたは飲み過ぎですよ。これ以上子どもたちに迷惑かけないでくださいよ」
「う……まだだ、まだ行けるぜ……俺はな、呑兵衛の中の呑兵衛…うっ……おろろろろろっ……」
「この野郎……これでは私がいい気分で酔えやしないじゃないか……!」
 えいと引っ張っていって、子ども達が掘ってくれた穴に男の顔を突っ込むと、うええっと呻き声を上げながら戻し始めている。吐瀉物の酸っぱい臭いに顔を顰めながら手桶に水を張り、吐き戻している男の隣に手拭いと一緒に置いてやる。ぽんぽんと背中をさすってやると、ありがとなと満身創痍の男の声を聞いて溜息を吐く。
「大変そうだな」
「ああ……あなたか。あなたはちゃったかり楽しんでいるみたいだな」
 後は自称呑兵衛の気の済むまで吐き戻すしかあるまいと、呑兵衛から静かに離れると居間の隅に座り込む大男。隅に置いていた小さな台座の前に静かに座り酒を楽しんでいた。阿鼻叫喚と言った酔いどれ達の中に入り込む気力はなく、男の隣に座り込むと、男は持っていた猪口を{name3}に渡す。中には並々と酒が注がれており、男なりに気遣ってくれていると見た。有り難く頂戴することにした。
 その台座の上に香炉と線香、燐寸ケエスが並べられているのだが、男がつまみとして食べていたらしい大根の煮物が置かれている。その隣に{name3}が厨で作った鶯宿梅と卵ふわふわを置く。燐寸を擦って線香に火をつけると香炉に差すと手を合わせて一頻り拝む。
「――ありがとうございます。一緒に食事してくれたんですね」
 何とも言えぬ表情で{name3}を見つめていた男はゆっくりと視線ををずらして言う。
「ああ。どいつもこいつも目先の酒しか見えてねぇからな。俺ぐらいは線香の一本ぐらいは上げねぇと」
「賑やかなの好きな人達でしたし気にはしないと思いますけどね」
 {name3}は小さく苦笑し、目の前で繰り広げられる大宴会の様相を眺める。どこから降って湧いて出たのか。こうして近所の人々が己の家に集合した人数は老若男女問わず多数に渡る。普段は一人暮らしするには物悲しい寓居であるが、こうして人が集えば賑々しい限り。酔いどれ達の阿鼻叫喚、そのだらしない姿を見て可笑しそうに笑う子どもたち、厨から聞こえる楽しそうな女たちの声、肴片手に将棋を指す老紳士達、庭の隅の木の下で何やら雰囲気のよろしい若い男女。各々がこの宴会を各々の楽しみ方で穏やかに過ごしている。
「――まぁ、呑気なもんだ」
 零れ出た言葉に皮肉の意図はない。膝を抱えるようにして座り、膝の上に顎を乗せる。やいのやいのそこら中で笑い声が聞こえる。昔の仲間たちとこうして大宴会をしていた時も酔っ払いが脱いだり、酔った勢いで相撲をとったり、馬鹿騒ぎをしていた。遠い昔になりつつある在りし日の光景が眼前に再現されたような錯覚を覚え、つられて綻んでしまう。それと同時に冷水を浴びせられているように、どこか醒めていく。
「だが、嫌いじゃないのだろう?」
 ポンと開栓する音が聞こえ、視線を男に移す。男の手には先程譲った酒瓶が握られている。万寿だ。{name3}の猪口をひったくり、なみなみと注ぐとすぐに返される。ぽかんとしている間に自分の分も手酌で注ぐと、少し猪口を掲げたので{name3}も慌てて掲げた。それを合図に注がれた酒を呷れば――嗚呼、旨い。はぁと思わず感嘆が零れ落ち、それを見ていた男にクククッと笑われる。良い飲みっぷりだと
酒瓶を差し出され、瞬間、迷いが生じたが、これもこの男なりの労いだろう。ありがたく猪口を差し出せば再び並々と注ぎ、今度は{name3}がその酒瓶を受け取って男の猪口に注いでやる。喧騒を仏頂面で眺めている男の顔は呆れとわずかな苦笑が見て取れる。
「あなたも、ね」
 互いに顔を見合わせて、ふっと笑みをこぼすとくいっと猪口を煽る。
 ――ドォン。
 突如空を切り裂くような轟音が聴こえ、周囲に静寂が訪れる。爆発音だ。{name3}は慌てて立ち上がる。
「っ……!」
 急に立ち上がったせいか。酒のせいか。足がくらりとふらついてもつれ倒れそうになる。
「危ねぇな。気をつけろ」
「すみません。私」
 ドォン。
 もう一度轟音。ふらついた{name3}を支えた男はギロリと睨み、そのまま待ってろと{name3}を一度座らせてから縁側まで出て外の様子を窺い始める。一体何の音だろうか。額を軽く押さえながら、思考を巡らせる。考えられるのは不平士族の存在だろうか。最近、明治政府に不満をもつ士族たちに不穏な動きが見られるからそういう類の事件かもしれない。もうそうであったら、座っている場合ではない。ただ平凡な毎日を懸命に生きる街の人達を巻き込むわけにはいかぬ。今度こそとすっと立ち上がると、男の後を追って縁側まで出ていく。先に集まっていた者たちもじっと空を見つめたままで、声をかけようとした瞬間、轟音と共に空に光が放たれる。閃光。それは鮮やかに光を放ち、一瞬の輝きと共に花を開き散っていく。墨色の雲一つない空に咲く花。
「え……花火?」
 パラパラと花が散りゆく。それは夢の如く。美しい閃光。張り詰めていた気持ちは一気に萎び、ポカンとして見上げてしまう。再びドォンと轟音が夜空を駆け巡っていく。そういえば上司である男から今日は花火の催し物があると聞いていたのをすっかり忘れていた。勿論万が一の為の仕事もあるにはあったのだが、詰めていた{name3}を見兼ねて今回は免除していたのだ。今頃見廻をしながら上司はこの花火を見ているのだろうか。続々と花火が打ち上がり、大輪の花が夜空に咲く。夏の夜空を彩る花火に{name3}は思わず見惚れてしまう。
 ――きれいだ。
 無意識に呟いた言葉が軒下の風鈴と共に揺れる。夏の夜に咲き乱れた大輪の花。パラパラと散っていく花びらはすぐに見えなくなる。
「きれいだな」
 {name3}の言葉に応えるようにして、男が呟く。これは酒のせいか。ふわふわとした心地が{name3}の心を優しく、夏の夜風と共にすり寄ってくる。蒸し暑い空気と遠くに聴こえる祭囃子。子どものきゃっきゃと笑う声。花火が打ち上る度に「たまや」と「かぎや」の掛け声。何処かの家の夕飯の匂い、夏の夜の寂寞。軒下の風鈴が呼び寄せたのは夏と、その他には。
「おいお前」
「……{name1}{name3}です」
「{name1}」
  ほれ、と柱に凭れ掛かりながら空を見上げていた男がいつの間にかに持ってきた酒瓶を差し出してくる。促されるままに酒瓶を呷ると、丁度打ち上がった花火が美しく花開く。
「”春は夜桜、夏には星、秋に満月、冬には雪”」
「? なんですか? 呪い?」
「莫迦め。それだけで酒は十分美味いって話だよ」
 そういって{name3}から酒瓶受け取ると男もそのまま酒を呷る。
「……だが、花火も悪くない」
「ははっ……なんじゃそりゃ」
  ふふふっと笑い声を漏らすと、そんなに笑うなと少しムッと顔の男だったが、すぐにやれやれと息を吐き肩をすくめた。
 
 ――まぁ、悪くはないかな。

24.09.15 初出 『新しい酒は新しい革袋に盛れ』
(6190文字) No.9 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編
覆水盆に返らず

 何かを壊すのはいつだって些細なきっかけに他ならない。

 「あ」と言う声を上げた頃には時すでに遅し。慌てて手を伸ばした手は虚しくも空を切り、為すすべもない。するりと翻ったそれは引き寄せられるように地面に落下し、着地と共にけたたましい破砕音を木霊させる。ガシャン。瞬間、反射的に目を瞑り、耳を塞ぐ。その破砕音がきんと神経に沁みる。
「あ、らら……」
 おそるおそると目を開いてみれば、足元には見事なまでに粉々に砕け散った陶器の破片が散乱している。それは愛用していた茶碗だったもの。毎食を共にしてきた茶碗。割ってしまったことへの衝撃。その場に暫し立ち尽くしてしまう。思いの外、喪失感が強い。後悔悔の念が強く心の中へと立ちこめていく。こだわりを持っていたわけでもない、人から贈られた言うわけでもない、この茶碗に纏わる思い出などもない。これは街に買い物へ行ったときに適当に買ったものだ。飯が食えれば何でもいいと買ったものだ。それがいつしか、なくてはならないものになる。適当に買った茶碗でも毎回使い込めば愛着の一つや二つも湧く。物は大事にする性質。少しの繕いで直るならば本当に使えなくなるまで使う。貧乏臭いと揶揄される事もあるが、使い馴染んだものを使うのが一番だと思っている。
 しゅんと気持ちが萎えて立ち尽くしていた身体に鞭を打って無理矢理動かす。足元の破片を踏まないように注意深く歩き、棚の上に予備の茶碗がないか確認をする。確か色違いの飯茶碗を置いて置いたはずだが、影も形もない。おかしいと暫しの間考え込んでいたが、そういえば、随分昔にそれも割ってしまっていた事を思い出す。その時は今割ってしまった物があるからと買わなかったのだが、今となっては横着せずに予備を備えておくべきだった。後悔先に立たず。茶碗がなければ食事もままならない。米櫃を抱えて食べるという荒技もあるが、抱えながら食べるのは余計に草臥れるから可能な限り却下である。
「これ、修理にならんのだろうなぁ」
 しゃがみ込んで地面に飛び散った欠片の海を眺める。落下した衝撃が強かったのだろうか。茶碗の損傷は想像以上に激しい。修理に出せば使い続けることができるかもしれない。そうは思ったのだが、欠片が思いの外細かく、修理に出してどうにかなるかどうか。素人目では全くわからない。兎にも角にも茶碗がなければ話にならない。昼食は街まで出向き適当に食べれば問題はないが、夕食からはそうはいかない。毎回外で食べるのも落ち着かないし、職業柄帰宅する頃には店仕舞いなんてこともザラにある。そういったときはやはり家で食事をとる必要性が出てくる。昼食のついでに飯茶碗を買い足しておかなければならないなと思案していると、ぐぐぐっとくぐもった虫の音に思わず苦笑いをして、下腹をさする。
「まずは腹拵えだなぁ。街に出るか」
 久々の非番はゆっくりと身体を休めたかった手前、家から出たくなかったのだが、腹が減ってしまえばやむを得ない。家には食事用の器の代えがない。ついでに夕食の材料の調達もした方がよいかもしれない。深く溜め息をついて肩を竦め、飛び散った茶碗の破片を箒でかき集めると、庭の土を木鋤で掘り返して埋める。再び虫が鳴く。腹が減っては何とやら。食を求めて街へと出掛けるために着替え始めた。

 京都。この明治の治世より遥か昔、当時の統治者・桓武帝がこの地に遷都したことから始まる千年の都。その始まりの時代・平安の貴族達の治世から源氏と平氏などの武士の台頭、鎌倉に開かれたという幕府、足利氏の幕府政権、混迷を極めた戦国の乱世、徳川による江戸の幕府政権までの千年間、帝がおわす不動の都であった。この不動の都は東京奠都てんとされるまでのおよそ千百年もの間、政治や文化などこの日本の中心となってきた一大都市である。明治維新後は今までこの都を見守っておられた帝は東の都・東京へと御所を移された。政治や文化の中心が移されたこの京都はその寂しさを湛えているものの、街中の活気はまだまだ失われていない。帝のお膝元であったという誇りを持つこの街は衰えを知らない。
 そんな壮麗な古都・京都の街の外れに、その青年は住んでいた。外観の古さは目立つが、青年が一人で住むには部屋も十分過ぎるぐらいに広い家だ。本来ならばこの若い青年が普通に働いて稼いでも手に入れるのは難しい代物だ。しかし、それを安く譲ってもらい手に入れたのである。当然、それにはそれなりの訳があるが、それはまたいつかの機会があればの話。きっと蛇足になろうが。
 身支度を整えた青年は、町屋づくりの家屋が並ぶ街中を闊歩する。
藍色の紬に、鼠色の袴。腰には大小。髪を高く結った中性的な顔立ちの青年。若侍といった出で立ちの男だ。散髪脱刀令が発布され、髪型を自由に変える事が可能になった。その影響か、散切り頭の男達が界隈に見られるようになっているが、この青年は散髪するまでには至っていないようである。やや時代錯誤となりつつあるそのいで立ち。その腰には廃刀令が発布された今尚刃が息を潜め、静かに狙いを定めている。ただし、この京都の街ではそういった刀を下げる者もまだ珍しくない。廃刀令が出ているからと言って特段目くじらを立てて非難するような者は少ない。すれ違う者達は刀へ一瞥を送るものの、そのまま去っていく。青年に機嫌を損ねて斬りかかられても困ると言うことで無視を決め込んでいるという見方もできるのだが、そこまで掘り下げる必要もない話である。
 この通りには軒並み色々な商店が立ち並んでいて、街に買い物へ来ると必ず通るのがこの通りである。日用品を取り扱う店や食事処、呉服屋、質屋など、多様な商店が集中している。いわば商店街だ。青年もよくこの辺の食事処にはふらりと顔を出しているため、店の者達とも顔馴染みだ。青年が店の前を通れば、店の者達が軽く声を掛けていく。
「今日も賑わってるなぁ」
 青年は辺りを見回して、楽しげに笑う。昼下がりの通りは、人が所狭しと行き交っていて騒がしい。着流しを着た男や青年と同じように袴姿の男、近年増えているシャツにスラックスの洋装の男、振袖の若い女や、丸髷の女、明治になってから着用の許された羽織を早速着こなす女。市中に出れば、様々な人がおり、その顔には喜怒哀楽がそれぞれに宿る。車夫が通りかかる度に、人々は暗黙の了解とでもいうように道を空けては、見送っていく。通りに面した食事処からは香ばしい匂いやら、甘い匂いやらが漂っていて、食欲を掻き立てられる。一時的に静まっていた腹の虫が刺激され、再び鳴き始める。路面に立ち並ぶ店の前には客に呼び掛ける看板娘や店の女将、店の主人。その賑やかな声も頼もしく、数年前までの幕末の動乱の殺伐とした空気感を感じさせないほどだ。幕末の市井も往来はこの明治に負けぬ程度には確かに市井は活気があったが、その反面、暗躍する者達のきな臭さがどこかにあった。明治維新後の混沌は尾を引いている節は無きにしも非ずといったところだが、それでもこの都は懸命に生きている。
 日々欧化政策が打ち出されていく明治の世では、外国の食文化も欧化の波が到来している。幕末頃に横浜外国人居留地の設立により広がった肉食文化。この京都にもその波はやってきて、牛鍋店が人気を博している。牛鍋とは文字通り牛の肉を使った料理。開国される以前まで、この国では肉食の文化が根付いていなかったが、異人達によって齎もたらされた新たな食文化だった。作り方は鉄鍋の中にだし汁、醤油・みりん・砂糖・酒などを加え煮立てた割り下というものを入れ、牛肉と野菜を入れて煮ると言うもので、鍋の中の肉を返しながら煮るのである。因みに野菜を入れるのは日本人が食べ慣れていない肉のくさみを消すために入れたのがきっかけらしい。
 この京都にある白べこという牛鍋店は東京にも姉妹店がある人気の店であり、青年も何度か上司に連れられて足を運んでいる。初めて店を訪ねた時、そこの娘は牛鍋の作り方や特徴を初めて食べる青年に丁寧に教えた。気さくで、商売上手な娘だ。初めて食べる牛鍋に感銘を受けていた青年を微笑ましそうに見守っていたことを青年自身も記憶している。そんな彼女は今日も今日とて往来の人々に呼び込みを行っている。
「お昼はぜひ牛鍋白べこへ! ……あら? {name3}はんやないの。こんにちは」
「こんにちは、関原さん。よく覚えてらっしゃいましたね」
 青年──{name3}が界隈を歩いてきたのに気付いた女性は愛想良く声をかける。彼女の名は関原冴という。関原の頭には三角巾、着物の上にはひらひらとした可愛らしい装飾の布地が付いた前掛け。にこにこと朗らかな笑みを浮かべている。この牛鍋・白べこの看板娘である。{name3}はこの店に上司と何度か足を運んでいるため、顔馴染みとなっていた。
「そりゃあ覚えてますよ、牛鍋おいしそうに食べとったもん。あん時は{name3}はんの上司の藤田はんも締まりがないって呆れとったね」
「はは、そりゃどうも」
「褒めてへんよ?」
 {name3}も関原につられるように笑う。
「{name3}はん、お昼はもう食べましたか? まだだったらぜひ白べこでお食べやす」
「牛鍋かぁ。今度藤田さんと食べにくる予定だったけど、誘われた手前折角だから食べてこうかな」
「あら? 藤田はんとお約束してらしたんですか?」
「いいえ。約束してはないけど、散々こき使われている分は奢ってもらわないと割に合わないと言いますか」
「ふふっ。そうなんですか。おもしろいこといいはりますね。わかりました。そんなら藤田はんにぎょーさん奢ってもらわないとあきまへんね」
「今度白べこにお金を沢山落とさせますからね、楽しみにしててくださいね」
「まぁ、頼もしい!」
 和やかに笑い合う二人。{name3}の軽口に、笑う関原。彼の上司である藤田が聞いたならば、只では済まないが、ここにはその藤田はおらぬ。冗談を交えながら和やかに会話をする穏やかな日々の何気ない風景。夢のようだと{name3}は思う。少し前までの陰惨な幕末の京都は今や昔話だ。徳川主導の幕府は倒れ、明治と改められた治世。制限されていた異国との交流は撤廃され、新しい文化がこの街にもやってくる。そして、新しい日々。人々が何気ない一日を穏やかに、何気なくても一生懸命に、その日を過ごしている。もう道端に人を転がす日々は来ないのだろう。そっと腰に帯びた刀を撫でる。{name3}の目の前にいる市井の人が恐怖に陥れられることも嘆き悲しむこともない。ぬるま湯のような穏やかな日々を暮らす為の犠牲の果て。その果てに見えた景色がこの日常なのだろうか。
 促されるままに白べこの店内に入ると、関原があっと何か気付いたようだ。
「そういえば{name3}はん急ぎの用とかなかった? 今日はどこか行く予定やったんです?」
「ああ。そういえば食事のついでに食器を買いに行こうと思ってたんだ」
 食事の事に気を取られて当初の目的を思い出した{name3}。
「食器?」
「食器割ってしまってね。予備も前に割ってしまったままだったので新調するんです。よく見たら皆ボロボロだったし、いい機会だから全て新調しようかと」
「そんならこの通りをまっすぐ行って、角で左に曲がって四軒目のお店にいくとええよ。うちもよくお世話になってるお店なんです」
「へぇ、それはいいことを聞いた。ありがとうございます」
「先に買い物してからうち来ます?」
「うーん、そうだな。お腹減ったしに先にここで食べてから行こうかな……あれ?」
「? あら、外が騒がしい。喧嘩かねぇ?」
 ふと店の外が騒がしいことに二人は気が付いた。思わず顔を見合わせて、合わせ鏡のように首を傾げる。店内に居合わせた数名の客と店員は互いの顔色を窺いつつ、店外の雰囲気を感じ取ったのだろうか、表情に翳りが見える。不安そうに外を気にする様子の客と店員。
 {name3}は店内の雰囲気を感じ取って、戸口に静かに近寄るとそっと隙間を作り、様子を窺う。普段の市井の賑わいとは一変し、物々しさすら感じる。男の怒号や女性の悲鳴が轟き、穏やかではない。何らかの事件が発生したようだ。大橋の方へと駆けていく人やら何やらと。事態を収拾できる者がおらず、混沌と化している。状況を今一度理解しきれてはいないのだが、兎にも角にもこの状態で人々の不安を増幅させるままではいかぬ。非番だなんだと文句も全て飲み込む他ないだろう。
「{name3}はん」
 不安そうに見つめてくる関原に、{name3}はにこりと微笑み、幼子に言い聞かせるように穏やかに話す。
「私が外の様子を見てきます。関原さんは危ないからお店の中で騒ぎが収まるまで待ってて、ね?」
「お巡りはん呼んできましょうか?」
「お気遣いありがとうございます。大丈夫、様子を見てくるだけです。その代わりに美味しい牛鍋用意しといてくださいよ?」
 お道化たように言えば、関原の強張っていた表情が漸く解けていく。それを見て安心した{name3}もにこりと笑い、頭をポンポンと撫でて、いってくると再び外への扉を勢いよく開いて出ていく。
「泥棒! 泥棒!」
「泥棒?!」
 白べこを出た途端に女の悲鳴が聞こえ、{name3}はハッとする。先程までの不明瞭だった状況が一気に開けていく。普段は穏やかな昼下がりの街中が騒然としていた理由の答えが転がってきた。その声を聴いて慌てて辺りを見回して見るが、往来に犇めく群衆に盗人が紛れて込んでいるためか盗人の姿が判然としない。木を隠すなら森の中とはよく言ったものだ。
「くそ、今日は人多いな!?」
 感心している場合ではないと{name3}は改めて周りを見回すが、依然として往来は騒然とするばかりだ。あっちに行った、こっちに行った、怪我人が出た……あちらこちらで上がる不穏の声。この状況は不味い。身勝手な輩のために無関係な人々が巻き込まれている。それは許容できぬ。理不尽な事で泣き寝入りさせられるのを黙って見過ごすほどの外道でもない。だからこそこのままでは見逃してしまうと焦りが募る。それだけは阻止したい。
「あの男! 髪が長くて背が高い男! 捕まえて!」
 叫ぶ声に弾かれたように振り返る。あまりにも騒然とした界隈。人でごった返した往来の中で誰が叫んだのか判然としない。致し方ない。叫んだ者を探すにも流動的なこの往来を探すには困難だ。盗人逃げられるのも不味い。手当たり次第探す他ないか。焦燥感に追い立てられながら周囲を見回すと進行方向に髪が長く背の高い男が立ち去ろうとしているのを発見する。
 ──見つけた
 髪の毛が長く背の高い男。それらしき男の後ろ姿を発見する。立ち去ろうとする背中を見失わないように小走りを始める。犇めき合う往来を身体を捩らせながらするりするりとすり抜けていく。盗人は人の群れに紛れ込んだつもりなのだろうか。歩く姿は威風堂々としたものであり、{name3}はギリっと歯噛みをする。外套など羽織って随分と派手な男だ。憎たらしい。腹立たしさを押し殺しながら接近していく。往来の人々に紛れ込みつつ、気取られぬように注意深く尚且つ迅速に。人の流れの切れ間に出て、一気に詰め寄って男の腕をガシリと掴んだ。
「待ちなさい、あんたが盗人か?」
「あ?」
 不意をつかれて驚いた表情の男。瞳の中に人影が映る。
 この数年後の明治11年、明治東京で浪漫譚が始まるのだが、京都の明治浪漫譚は今ここから始まる──かもしれない。

 往来に対峙する二人の男。一人は筋骨隆々とした巨躯の男、もう一人は巨躯の男と比較すればより
儚く見えてしまうような優男。どちらも眉目秀麗といった出立ちであり、スッと背筋が伸びた立ち姿。優男の方が巨躯の男の腕を掴んだまま離さないために、ちらちらと視線が注がれているのだが、当人たちはそれどころではない。
「──なんだって?」
 じろりと切れ長の瞳が優男──{name3}を捉える。男の威風堂々とした佇まいに思わず口篭ってしまいそうな所ではあるが、{name3}も引きはしない。ここで引いてしまえば確実に人一人泣き寝入りする羽目になるのだ。それは看過できない。
「……あなたと特徴が似た男に物を盗まれたと叫んだ人がいて犯人を探しています。ただ情報が少ないので何か知っていることはないかと皆に確認しているところです」
「盗人? そんなもん知らねぇよ、俺は一介の陶芸家だぜ」
「陶芸、家……?」
 {name3}は訝しく男に視線を送る。男の特徴は端的に言うなれば眉目秀麗、筋骨隆々。端正な顔立ち、切れ長の瞳、凛々しい眉、鼻筋のよく通った顔。その涼しげな顔立ちとは対称的に肉体は厚い。筋肉で隆起した四肢。真紅の襟を持つ白い外套はその風格を体現するかの如く。陶芸家と自称するその男を見ながら首を傾げる。一体全体どうしたらここまで筋肉を鍛え上げられるのかと疑問に思うほどの筋肉の鎧。美しい肉体美。{name3}のような優男では到底押してもびくともしなさそうな鋼の肉体だ。天と地の差である。
陶芸家と言われても{name3}のみならず他の者であっても訝るのは無理からぬ事である。
「何だ?」
 男も怪訝そうに{name3}に視線を寄こす。
「いえ、士族の方かと思ったので芸術家の方とは思いませんでした」
「まあ当たらずとも遠からずだな」
「え?」
 男はこほんと咳払いをする。
「ともかく、だ。お前が探している背が高くて髪の長い盗人だったか? そういえば、そんな奴が俺よりも前の方を走っていったのを見たな」
「ほんとですか?」
「あのなァ、嘘ついてどうすんだよ。大体なんでお前にそんなこと言われなきゃならねぇんだよ。警察気取りか?」
「一応警察関係者です」
「……」
「……」
「お兄さんっ! け、警察の方なんですか?!」
 一人の女性が人を掻き分けるようにして息を切らせながら走ってやってくる。膝に両手をつき、ぜえぜえと息を切らした女性を見かねて{name3}は静かに近づいていく。満身創痍の彼女がふらりと倒れそうになるのを支えてやると、力なく彼女は礼を述べる。おそらくはこの女性が盗人の被害に遭った女性なのだろう。ここまで一生懸命走って追いかけて来た彼女を労わるように背中を擦ってやる。
「お嬢さん大丈夫ですか?」
「はぁ、はぁ……ありがとう。でも、泥棒は、その人、じゃ、ないの」
「……違うんですか?」
「鼠色の着物に柿渋の袴の……」
「鼠色に柿渋……?」
 ちらりと横目で男に視線を向けるが、既に{name3}へと向ける視線が痛い。確かにこの男は背が高く髪も長いが着物の色はまるで違う。赤襟の外套など奇抜なものだ。{name3}は男の腕を掴んでいた手をそっと離して静かに後退しようとするが、今度はガシリと大きな手によって制止を余儀なくされる。
「……」
「……」
「何か言うことはあるか」
「……失礼致しました。他を当たります」
「おう」
 男はまだ釈然としない様子ではあったが、{name3}の謝罪を受け入れたようである。一先ず女性の方に向き直ると、彼女に視線を合わせて安心させるように語り掛ける。
「お嬢さん、今度こそ捕まえてきますので警察署の方で先にお待ちいただいても?」
「え、ええ……でも」
「大丈夫です。こう見えても腕っぷしには少し自信があるんです」
 任せてくれませんかと朗らかに笑みを浮かべる{name3}に、女は躊躇いを見せていたが、もう自分にはどうすることも出来ないことを理解していた為、{name3}の申し出に藁をも縋る思いで頷いた。
「しっかり捕まえてやれよ」
 絶対に。一部始終を見守っていた男が念押しする。{name3}が苦笑いを浮かべながらも首肯すると、また群衆の声が一段と騒がしくなる。今度は何だ、喧しい。半ば呆れ顔で騒ぎの大きい方へ視線を振れば、走ってくる男達。若い男やら中年の男やらが入り乱れて走る姿は何とも得体の知れなさを感じる。今度は何の騒ぎだろうか。女性と外套の男、{name3}の三人は互いに怪訝そうに顔を見合わせる。気のせいだろうか、それとも。その男たちは{name3}と
外套の男の二人を目掛けて走ってきているような気がする。
「いたぞ、あそこだ! 長い髪の男!」
「どっちだ!?」
「髪が長くて……? ええい! 両方とっ捕まえてしまえ!」
 ──うおお!
 雄叫びを上げながら突っ込んでくる男達。嘘だろ。これにはぎょっとした{name3}。想定外としかいいようがない。とんだ濡れ衣だ。まさか己が盗人と間違えられるとは。
「なんで!?」
「ぼーっとすんな! この場は逃げるぞ!」
 唖然として立ち尽くしていた{name3}の腕を男は引いて走り出す。暫く男に引き摺られるがままでいた{name3}も我に返ってはっとすると、自力で地面を蹴って走り出す。「逃げたぞ、追え!」と後方から聞こえる声を尻目に、男と京都の街中を並走する。こんな筈ではなかったと思いつつも、今の状況ではどう足掻いたところで転がるように滑り落ちていく岩石を正面から止めようとする方が骨の折れる話である。あれでは話し合いどころではない。
「ったく、なんでこの俺がこんなことに……」
「こうなったらあなたと私で一蓮托生です。捕まる前に真犯人を先にしょっ引くしかないですよ。そうじゃなければこのままずっと鬼ごっこです」
「ちっ。めんどくせぇ」
「逃がすな! 追え、追えーッ! 盗人だ、盗人だ!」
 混雑する往来。人混み縫うように通り抜けながら{name3}と外套の男は加速していく。地面を強く蹴り上げて、加速に加速を重ね、京の街を駆け抜けていく。{name3}たちが走り抜けていくのを人々は驚いたり、迷惑そうに顔を顰めたり、危ないと怒鳴り散らしたりしていく。彼らの言い分は尤もであるが、{name3}たちは御免と一言述べつつも逃げていく男の後を追いかけていく。人の隙間からそれらしき人物がちらりちらりと見える。ただ往来は人とすれ違うには窮屈なほどの人混みで、それが追いかける{name3}と外套の男の行く手を阻むため中々距離が縮まらない。
「不味い。この先は中山道だ」
「京都から出て行ってそのまま東に逃げる気だな」
「あの野郎……勝ち逃げする気か、許せん」
「詰めるにもまだ距離があるぞ。どうするつもりだ?」
「うーん……あ」
「あ?」
 ニヤリ。どちらが悪党なのかわからないあくどい笑みを{name3}が浮かべたその隣で外套の男の顔も引き攣った。
それは獲物に狙いを定めた狼の如く。

* * * 

 京都の街を一人の若い男が駆けていく。その緊迫した表情に、すれ違う人々は何事かと怪訝そうな顔をして男を見送る。男は混雑する界隈を突き抜けていく。随分と前から街中を走り続けていて、息は浅い。足は疲労の色が濃くなっていく。それでも焦燥感が走れと叫ぶ。速く、速く。もっと速く。足よ、止まるな。動け、動け。急がなければ。すれ違う人々にぶつかるのもなりふり構ってはいられない。怒号が飛んでくるのも関係ない。兎角速く、速く、速く。早くこの街から抜け出さなければ──。
「!?」
「おっと。兄チャン、すまんけぇの」
 三条大橋を渡り、京都の街から離れるために中山道方面へと走っている途中、曲がり角から出てきた男にぶつかり、思いっきり地面に転がる。勢い余って地面を転がった弾みで身体を強く打ち付ける。痺れる様な痛みに、舌打ちをする。ついていない。今日はぶつかってばかりだ。痛む身体を無理やり起こし、ぶつかった男の方を睨みつける。
「おい、痛えじゃねぇか!」
「大丈夫かえ? すまんのぅ、吹き飛ばしちまった」
 男は困ったような表情で手を差し伸べる。大事ないかと柔らかく微笑みかける千草色の作務衣を来た男。頭には三角巾を巻いている。先程ぶつかった優男よりもこの男の方が体格はしっかりとしているが、まさか自分が吹き飛ばされるとは思っていなかった。奇天烈な言葉遣いをする男。背丈は五尺八寸約178cm程はあるだろう。ふわふわとした黒くて長い癖毛結い上げた若い男。年は二十代前半か半ばといったところだろうか。男と同じ年頃かもしれない。人当たりの良さそうな綺麗な顔はさぞかし女から好評だろう。気に食わない。腹が立つ。モテない男の僻みであることはわかっている。この目の前の男が何の気なしに手を差し伸べてくれていることもわかる。それでも屈折してしまった男は差し伸べられた手を叩き落とし、自力で立ち上がる。
 案の定、手を弾かれた男は驚いて目を丸めている。
「気をつけろ、馬鹿野郎!」
「およよ、手厳しかね」
「何がおよよだ、気色悪い! さっさとどけっ! 俺は急いでいるんだっ!」
「逃がすかよっ!」
「おい馬鹿!! 俺の万寿!!」
「っ!?」
 少し高めの男の声が飛んできて、ハッとする。もう追手が来たのかと慌てて振り向こうとした、瞬間、背中に重たい一撃。ドンとどつかれたような重い痛みで前のめりに転ぶ。ガシャンと甲高い悲鳴を上げて飛んできた酒瓶が割れて落ち、中に入っていた酒が周囲に華やいだ芳香を漂わせていく。
「ってぇ!!」
「引ったくりは良くないぜ、お兄サン」
 引ったくりと呼んだ男に酒瓶を投げつけた{name3}は軽快な足取りでその男に近づいていく。蹲った引ったくりの男はげほげほげほと激しく噎せ返すと、ぶるぶると身体を痙攣させる。瞬間、胃液が逆流する。酸っぱい匂いに耐えかねて嘔吐。べちゃべちゃと聞くに堪えない音を立てて、まき散らす。浅くなった呼吸を整えようと息を荒げ、立ち上がろうとすれば、背中に容赦なく足が踏み降ろされて、地面へと縫い付けられる。ジタバタと藻掻き、起き上がろうとするが、カチャリと嫌な金属音が耳に響く。
「ひぃっ!?」
「観念してさっさと盗んだものを返せ」
 落ち着いた静かな声で優男――{name3}は言う。その顔に表情はない。ただの無だ。無関心。怒りすらない。引ったくりの男の身体中には冷や汗が伝い、血の気がすっと引いていく。本能が感じている。この明治のご時世に刀を持ち、人に向けても何一つ顔色を変えない様子は明らかに異質だ。刀を持って昨日今日の若造ではない。引ったくりの男が知らない先の戦い幕末の動乱を知っているのだろう。下手したら命ごと引き裂かれてしまうかもしれない。心臓はどくどくと速く脈を打ち始め、緊張感が高まっていく。ただの優男かと思ったが、とんでもないことだった。幕末の亡霊だ。明治が始まってもう少しで十年経とうとするこの時代に、こいつはきっとその気になれば、人を殺めることなど何一つ悪だと思わないだろう。殺すことなど造作もないことだと思っている。きっとそうだ。殺される。殺らなければ殺られる。嫌だ死にたくない死にたくない。逃げなければ。
「面倒だなぁ、鬼ごっこはもういいだろう?」
 首元に添えられた刀に、思わず喉の奥が引き攣る。刃先が首の皮に当たり、ぷつりと切れ、じわりと痛みで痺れていく。このままでは本当に殺されてしまう。
「うわああああああああっ!」
「っ!」
 死にたくない。そんな思いが男の身体に起死回生の力を宿す。身体の底から力を振り絞って起き上がり、引ったくりが動けないようにと背中を踏みつけていた{name3}を跳ね飛ばす。火事場の馬鹿力だ。
 一方の{name3}は反撃を食らうと思っていなかったのだろう。態勢を崩し、そのまま転がり込んだ。その拍子に手から転がり落ちた刀を男が奪い、更にもう一本脇差を引き抜いて{name3}が容易に拾えない場所へと飛ばす。形勢逆転だ。起き上がった{name3}の眼前に切っ先を突き付ける。追い詰められていた男は、相手の武器を奪ったことで少しずつ落ち着きを取り戻し始める。
「っ動くなよ! 動いたら斬り捨ててやるからな!」
 窮地から解放された男は余裕が出て来たのか、ニヤリと笑う。追い詰められて気が動転してしまったが、{name3}とて丸腰ではどうにもならないだろう。もう一本の脇差も手の届かないところに投げ捨ててやった。取りに走るにしろ、それに抜く前に斬り捨ててしまえばいい。何も剣術は{name3}の専売特許ではない。男とて剣術を学んでいたし、それなりの腕前を持っている。丸腰ではない。男にも刀があるのだから、どうにか凌いで掻い潜ることは出来るだろう。ただで殺られることもない。それにいざとなれば、あの奇天烈な言葉を使う丸腰の男を人質にしてしまえばいい。他人の物を取り返しに来るようなお人好しの奴だ。どんなに昔強かろうとも今は腑抜けてしまっている、結局のところ甘チャンだ。
「財布を返せ」
「ふん。これは俺の財布だ。落とし物なら他当たんな」
「白を切るか」
「うるせぇな、俺の懐にあるもんは俺のもんだ!」
「大人しく従わないなら、従わせるまでだ」
「ふん! やれるものなら、やってみやがれ!」
男は刀を振り上げ、上段から一気に振り下ろす。剣術道場での成績はいつも上位だった。目録だって──
「っ!?」
「馬鹿か、アンタ。侍が丸腰では何もできないとでも本当に思っているのか」
目にも止まらぬ速さで引き抜いたのは刀の鞘であった。男が刀を上段から振り下ろしきる前に、鞘で弾き飛ばすと、低く踏み込んだ{name3}は懐に勢いよく飛び込んで突きを鳩尾に叩き込む。強烈な突きを食らった男は身体を弓なりにしならせて吹き飛ばされていく。先程までの自信は音もなく崩れていく。刀が無ければどうにでもなると思っていた。勝てるとさえ思い込んでいた。そんな傲慢な考えは一つの突きに塵と化していく。相手を見縊った男の完全なる敗北であった。
 男の手から離れた刀は宙へ舞い、くるくると回転しながら落ちていく。{name3}は落ちて来た刀をそのまま手に取ると、{name3}の突きを食らって立ち上がれなくなった男の前に刀を突きつけた。
「この私が、逃がすわけないじゃないか」
 あくまでも{name3}は冷静だった。圧倒的な力量差に戦意喪失しつつある男は、悪夢でも見たような顔で{name3}をみる。当初考えていた中山道を下って逃げてしまおうという気力は毛頭残っていなかった。
{name3}はぐいっと引ったくりの男の襟を引くと、懐を遠慮なく漁る。男の持ち物としては華やかすぎる女性のものらしき財布を見つけると、にんまりと笑う。
「警察から逃げられると思うなよ、兄サン」
「否。俺、そんな柄の悪い警官おらんと思うんじゃけど」
「俺もそう思う」
 事の成り行きを見守っていた作務衣の男と外套の男は冷静に突っ込んだ。

21.05.18 『覆水盆に返らず』 初出
23.05.06           修正
(12596文字) No.8 あさきゆめみし at by NO IMAGE 八坂紗弥 編