bookmark
profile
カテゴリ「短編」に属する投稿[18件]
安室透(降谷零)とハロウィーン
八月の夏休み終了直後から売り始めたハロウィン関連グッズにピンとこなかったが、気がつけば過酷な残暑も形を潜め、少しずつ冬に近づく十月の終わり。秋の深まり。ハロウィンの季節である。イベント事はかきいれ時だ。繁忙期である。こぞってイベントを盛り上げて客たちに楽しんでもらおうと力を入れる。
喫茶ポアロでも例に違わずハロウィンフェアが開催されていた。主にかぼちゃを使った食品が期間限定で提供されることになっている。かぼちゃを使ったニョッキ、かぼちゃプリン、かぼちゃのキッシュ、パンプキンラテ、エトセトラエトセトラ……。
中でもかぼちゃのニョッキは提供開始から好評でそれを求めにやってくるお客さんも多いらしい。
店内はかぼちゃのカラーオレンジを基調とした装飾が施され、老若男女幅広い世代で楽しめるようにポップで可愛らしい飾り付けが多い。店員達も簡易な仮装として魔女のとんがり帽子を被っている。漂う食事の匂いとコーヒーの匂い。――ほっとする匂い。
「トリックオアトリート!」
「はい。かぼちゃプリンサービスさせていただきますね」
「えー、私は安室さんにいたずらしたかった!」
「ははは。イタズラはこのプリンで勘弁してくださいね」
女子高生の客がハロウィンお馴染みの合言葉を唱えた。その相手はポアロの名物店員となった安室透だ。安室がポアロで勤務するようになってから、女性客が増えた。眉目秀麗の男を目当てに来店したが、料理も旨いとくれば評判が評判を呼ぶ。今日も店内は大盛況。昔ながらのシックな喫茶店は新たな形を見出しながら賑わいを見せている。
「遅くなってすみません、ただいま戻りました!」
勢いよく店の扉が開き、ポアロのもう一人の店員・榎本梓が買い出し荷物を抱えて入ってくる。それ続いてパンツスーツを来た女が同じく荷物を抱えて入ってくる。安室はその透き通る瞳をわずかに瞠目させたが、すぐににこりと笑みを結ぶ。
「梓さんありがとうございます。もしかして{name2}さんに手伝っていただいたのですか?」
「そうなんです。{name2}さんと途中で会って荷物運ぶの手伝ってもらったんです。{name2}さんありがとう」
「沢山抱えて重そうだったから心配だったし気にしないで」
「梓さんも{name2}さんもお疲れさまです。ありがとうございました。{name2}さん、今飲み物用意しますから飲んでいってください」
「申し出はありがたいのですが、仕事に戻る途中だったのでお気になさらず」
「すぐに用意できますからこちらの席にどうぞ」
「{name2}さん、飲み物だけでも飲んでいてください!」
「え、っと……そういうことなら少しだけ」
二人から説得をされ、{name2}は困惑した表情を浮かべていたが、観念したように苦笑してカウンターの端の席に座る。{name2}はキョロキョロと店内を見回していると、荷物を仕舞い終えた榎本が{name2}に近づいて話しかける。
「{name2}さんのおかげで本当に助かっちゃった。ありがとう」
「うん。お役に立てたなら何より……ポアロはハロウィンイベント中なんだね」
「そうなんですよ。今なら「トリックオアトリート」って合言葉でかぼちゃプリンをプレゼントしてます!」
「trick or treat?」
「――おや? すみません。今、かぼちゃプリン切らしてしまいました。イタズラ……お手柔らかにお願いしますね?」
タイミングよくマグカップを持って登場した安室に、{name2}はギョッとする。彼女としてはただ単に榎本の言った言葉を復唱しただけにすぎない。かぼちゃプリンをもらう意図は特になかった。慌てて首を振る。
「あ、いいんです、いいんです。今のはなし。気にしないでください」
「そうですか。代わりと言っては何ですが、こちらをどうぞ」
「?」
透明なカップにたっぷりと注がれたパンプキンラテ。底の方にはかぼちゃの橙色、上部にはホイップクリームがふわふわと浮かび、シナモンなどのスパイスが振り掛けられている。見た目もとても美味しそうだ。
「安室さん特製のパンプキンラテですよ、美味しいですよ」
絶品です、と満面の笑みで両頬を押さえる榎本。彼女のお墨付きならば相当美味しいのだろう。ありがとうございます、と{name2}が受け取ると安室と{name2}の視線がパチリとかち合う。
「好きでしたよね、甘いの」
にっこりと満面の笑みを浮かべた安室に、目を丸くする{name2}。隣に立っていた榎本は何かしら勘違いしたのか、わあっと口元を両手で押さえた。きらきらと目を輝かせて{name2}を見つめる視線を、{name2}は黙殺する。騒然とする店内さえも黙殺し、受け取ったカップを一口。腔内に広がるのはかぼちゃのホックリとした甘さとミルクのたっぷり入ったエスプレッソとスパイス。それらが絶妙に混ざり合い、ほおっと息をつく。{name2}は指先で唇を拭うと、安室へと再び視線を向けた。静かに息を呑む気配を感じてにっこりと笑い返した。
「好きですよ、甘いの」
あなたも大概甘いもの。
* * *
「trick or treat」
「何……だっ、て?」
{name2}が帰宅してみれば、不意打ちも甚だしい。『人を駄目にする…… 』でお馴染みのクッションに乗っかって寛いでいる降谷零の姿を見つけ、目を丸くする。{name2}の姿を見るなり無言で両手を広げた降谷を見て、{name2}は肩を竦める。勝手に上がり込んで何をしているのやら。そのままその場立ち尽くしていると、「{name2}」と懇願するような声で呼ばれた。それでいて割れ物に触れるような優しい声に、一瞬、息が詰まったが、誤魔化すようにふうと息を吐く。鞄をテーブルの上にを置いて、近づいていく。
「おかえり」
「……ただいま」
「お勤めご苦労さま」
「うん、零君もお疲れさま」
目の前まで近づくと腕をぐいと引っ張られて、そのまま降谷の上に雪崩込む。
「れいくん。いきなり引っ張ったら危ないよ」
「ん、ごめん」
生返事をする降谷の様子を見て訝しんだが、プンと香った酒の匂いにハッとする。確信する。この男は{name2}が戸棚に仕舞っていたバーボンを飲んだようだ。酔っ払うと言ったことがなかったが、今日はどこかほろ酔いで機嫌が良いようだ。{name2}の髪ゴムをするりと抜き取ると、くしゃくしゃと撫で、そのままするりと頬へと手を滑らせて撫でる。
「{name2}」
起き上がろうとする{name2}を阻止するように、彼女の背中に降谷の腕が回る。
「trick or treat」
「? 珍しいね。お菓子なら台所の棚の上の……」
「食べたよ」
「え」
「お酒の当てに食べたよ、他にある?」
「……ない」
「そう……なら」
――イタズラ、しようか
降谷は{name2}の耳元で囁いた。背筋をゾクリと震わせた{name2}は思わず身を捩ったが、耳たぶをかぷりと甘噛みされる。
「ひっ!? れ、零君!?」
「ふふふ。びっくりした?」
「そりゃびっくりするよ!」
「{name2}もイタズラ、していいよ」
「? 何? いきなり」
「昼間言っただろう」
「ああ……ポアロの時」
「君になら、イタズラされてもいいよ」
「そんな事言われても……」
「{name2}は僕にどんなイタズラするのかな?」
何言ってんだこいつ、と言った風に{name2}が視線を向ければ、降谷はふにゃりと気の抜けた炭酸のような表情を浮かべるばかりだ。頬を寄せてすりっと頬ずりして、ぎゅうと抱き込まれてしまえば、ああ、何も言えない。ただ、頬ずりした瞬間に擦れた頬にあたった髭がこそばゆい。少しヒゲが伸び始めているから暫く多忙だったのだろうか、などと思ったりする。
「……君は温かいな」
「そうかな?」
「このぐらい温かいといい」
「んー」
「一人はさむい」
酔ったふりをしないと甘えられないこの男に憐憫を寄せるように背中を擦る。トントントン、と赤子をあやすように叩き始めれば、顔の割に武骨な身体がの身体{name2}に巻き付いて離れない。後頭部を撫でると、ひしと更に抱き締める力が強くなる。甘えてくる飼い犬をあやしているような気分になってなんだか笑えてしまう。
「零君」
「……ぬくい」
「離して。私、お腹減ったよ」
「僕はお腹いっぱい」
「狡いよ、私のお菓子とウィスキー食べて幸せ一杯お腹いっぱいだなんて」
「うーん……ごめん」
「お風呂は?」
「まだ……」
「一緒に入る?」
「入……え!?」
「嘘だよ。イタズラの仕返し」
驚いて飛び起きた降谷のおでこをツンと小突いて{name2}は笑う。さて、残り物で夕飯でも済まそうか。{name2}は解放されて立ち上がると一瞥をする。
呆然とした表情でぱちぱちと瞬きをしていた降谷は小突かれた額を暫く撫でいたが、はあ、と大きく溜息を吐くと、のろのろと立ち上がる。
「――ごめん、{name2}。作ってあるよ、ご飯」
「そうなの?」
「うん。準備するから着替えて待ってて」
「はぁい」
{name2}はテーブルに置いていたカバンを回収し、寝室に入って着替えを済ませると手洗いを済ませるとリビングの食卓に座す。卓上にはご飯と味噌汁。目玉焼き付きのデミグラスハンバーグとコーンとツナのサラダ、と。
「あ、かぼちゃプリン!」
「お昼に渡せなかったからね」
向かいの椅子に座した降谷がお茶を注ぎ、{name2}に渡し、自分の分を注ぐとクイッとコップを呷る。
「そっか、わざわざありがとう。そしたらイタズラするのはやめとくね」
「え、考えてたの?」
「ふふふ、いただきます」
「え、{name2}? 気になるんだか?」
「内緒」
降谷のハッと息を飲む音を尻目に、{name2}はマイペースに食事を始める。彼の料理はいつも美味しいと思わず頬が綻んでしまう。
――あなたの苗字を貰う。
なんて、イタズラで驚かせてやろうと思ったが、やっぱりイタズラでも言えないな、なんて、思いながら。
25.09.17 初出 『秋色のひとしずく』
八月の夏休み終了直後から売り始めたハロウィン関連グッズにピンとこなかったが、気がつけば過酷な残暑も形を潜め、少しずつ冬に近づく十月の終わり。秋の深まり。ハロウィンの季節である。イベント事はかきいれ時だ。繁忙期である。こぞってイベントを盛り上げて客たちに楽しんでもらおうと力を入れる。
喫茶ポアロでも例に違わずハロウィンフェアが開催されていた。主にかぼちゃを使った食品が期間限定で提供されることになっている。かぼちゃを使ったニョッキ、かぼちゃプリン、かぼちゃのキッシュ、パンプキンラテ、エトセトラエトセトラ……。
中でもかぼちゃのニョッキは提供開始から好評でそれを求めにやってくるお客さんも多いらしい。
店内はかぼちゃのカラーオレンジを基調とした装飾が施され、老若男女幅広い世代で楽しめるようにポップで可愛らしい飾り付けが多い。店員達も簡易な仮装として魔女のとんがり帽子を被っている。漂う食事の匂いとコーヒーの匂い。――ほっとする匂い。
「トリックオアトリート!」
「はい。かぼちゃプリンサービスさせていただきますね」
「えー、私は安室さんにいたずらしたかった!」
「ははは。イタズラはこのプリンで勘弁してくださいね」
女子高生の客がハロウィンお馴染みの合言葉を唱えた。その相手はポアロの名物店員となった安室透だ。安室がポアロで勤務するようになってから、女性客が増えた。眉目秀麗の男を目当てに来店したが、料理も旨いとくれば評判が評判を呼ぶ。今日も店内は大盛況。昔ながらのシックな喫茶店は新たな形を見出しながら賑わいを見せている。
「遅くなってすみません、ただいま戻りました!」
勢いよく店の扉が開き、ポアロのもう一人の店員・榎本梓が買い出し荷物を抱えて入ってくる。それ続いてパンツスーツを来た女が同じく荷物を抱えて入ってくる。安室はその透き通る瞳をわずかに瞠目させたが、すぐににこりと笑みを結ぶ。
「梓さんありがとうございます。もしかして{name2}さんに手伝っていただいたのですか?」
「そうなんです。{name2}さんと途中で会って荷物運ぶの手伝ってもらったんです。{name2}さんありがとう」
「沢山抱えて重そうだったから心配だったし気にしないで」
「梓さんも{name2}さんもお疲れさまです。ありがとうございました。{name2}さん、今飲み物用意しますから飲んでいってください」
「申し出はありがたいのですが、仕事に戻る途中だったのでお気になさらず」
「すぐに用意できますからこちらの席にどうぞ」
「{name2}さん、飲み物だけでも飲んでいてください!」
「え、っと……そういうことなら少しだけ」
二人から説得をされ、{name2}は困惑した表情を浮かべていたが、観念したように苦笑してカウンターの端の席に座る。{name2}はキョロキョロと店内を見回していると、荷物を仕舞い終えた榎本が{name2}に近づいて話しかける。
「{name2}さんのおかげで本当に助かっちゃった。ありがとう」
「うん。お役に立てたなら何より……ポアロはハロウィンイベント中なんだね」
「そうなんですよ。今なら「トリックオアトリート」って合言葉でかぼちゃプリンをプレゼントしてます!」
「trick or treat?」
「――おや? すみません。今、かぼちゃプリン切らしてしまいました。イタズラ……お手柔らかにお願いしますね?」
タイミングよくマグカップを持って登場した安室に、{name2}はギョッとする。彼女としてはただ単に榎本の言った言葉を復唱しただけにすぎない。かぼちゃプリンをもらう意図は特になかった。慌てて首を振る。
「あ、いいんです、いいんです。今のはなし。気にしないでください」
「そうですか。代わりと言っては何ですが、こちらをどうぞ」
「?」
透明なカップにたっぷりと注がれたパンプキンラテ。底の方にはかぼちゃの橙色、上部にはホイップクリームがふわふわと浮かび、シナモンなどのスパイスが振り掛けられている。見た目もとても美味しそうだ。
「安室さん特製のパンプキンラテですよ、美味しいですよ」
絶品です、と満面の笑みで両頬を押さえる榎本。彼女のお墨付きならば相当美味しいのだろう。ありがとうございます、と{name2}が受け取ると安室と{name2}の視線がパチリとかち合う。
「好きでしたよね、甘いの」
にっこりと満面の笑みを浮かべた安室に、目を丸くする{name2}。隣に立っていた榎本は何かしら勘違いしたのか、わあっと口元を両手で押さえた。きらきらと目を輝かせて{name2}を見つめる視線を、{name2}は黙殺する。騒然とする店内さえも黙殺し、受け取ったカップを一口。腔内に広がるのはかぼちゃのホックリとした甘さとミルクのたっぷり入ったエスプレッソとスパイス。それらが絶妙に混ざり合い、ほおっと息をつく。{name2}は指先で唇を拭うと、安室へと再び視線を向けた。静かに息を呑む気配を感じてにっこりと笑い返した。
「好きですよ、甘いの」
あなたも大概甘いもの。
* * *
「trick or treat」
「何……だっ、て?」
{name2}が帰宅してみれば、不意打ちも甚だしい。『人を駄目にする…… 』でお馴染みのクッションに乗っかって寛いでいる降谷零の姿を見つけ、目を丸くする。{name2}の姿を見るなり無言で両手を広げた降谷を見て、{name2}は肩を竦める。勝手に上がり込んで何をしているのやら。そのままその場立ち尽くしていると、「{name2}」と懇願するような声で呼ばれた。それでいて割れ物に触れるような優しい声に、一瞬、息が詰まったが、誤魔化すようにふうと息を吐く。鞄をテーブルの上にを置いて、近づいていく。
「おかえり」
「……ただいま」
「お勤めご苦労さま」
「うん、零君もお疲れさま」
目の前まで近づくと腕をぐいと引っ張られて、そのまま降谷の上に雪崩込む。
「れいくん。いきなり引っ張ったら危ないよ」
「ん、ごめん」
生返事をする降谷の様子を見て訝しんだが、プンと香った酒の匂いにハッとする。確信する。この男は{name2}が戸棚に仕舞っていたバーボンを飲んだようだ。酔っ払うと言ったことがなかったが、今日はどこかほろ酔いで機嫌が良いようだ。{name2}の髪ゴムをするりと抜き取ると、くしゃくしゃと撫で、そのままするりと頬へと手を滑らせて撫でる。
「{name2}」
起き上がろうとする{name2}を阻止するように、彼女の背中に降谷の腕が回る。
「trick or treat」
「? 珍しいね。お菓子なら台所の棚の上の……」
「食べたよ」
「え」
「お酒の当てに食べたよ、他にある?」
「……ない」
「そう……なら」
――イタズラ、しようか
降谷は{name2}の耳元で囁いた。背筋をゾクリと震わせた{name2}は思わず身を捩ったが、耳たぶをかぷりと甘噛みされる。
「ひっ!? れ、零君!?」
「ふふふ。びっくりした?」
「そりゃびっくりするよ!」
「{name2}もイタズラ、していいよ」
「? 何? いきなり」
「昼間言っただろう」
「ああ……ポアロの時」
「君になら、イタズラされてもいいよ」
「そんな事言われても……」
「{name2}は僕にどんなイタズラするのかな?」
何言ってんだこいつ、と言った風に{name2}が視線を向ければ、降谷はふにゃりと気の抜けた炭酸のような表情を浮かべるばかりだ。頬を寄せてすりっと頬ずりして、ぎゅうと抱き込まれてしまえば、ああ、何も言えない。ただ、頬ずりした瞬間に擦れた頬にあたった髭がこそばゆい。少しヒゲが伸び始めているから暫く多忙だったのだろうか、などと思ったりする。
「……君は温かいな」
「そうかな?」
「このぐらい温かいといい」
「んー」
「一人はさむい」
酔ったふりをしないと甘えられないこの男に憐憫を寄せるように背中を擦る。トントントン、と赤子をあやすように叩き始めれば、顔の割に武骨な身体がの身体{name2}に巻き付いて離れない。後頭部を撫でると、ひしと更に抱き締める力が強くなる。甘えてくる飼い犬をあやしているような気分になってなんだか笑えてしまう。
「零君」
「……ぬくい」
「離して。私、お腹減ったよ」
「僕はお腹いっぱい」
「狡いよ、私のお菓子とウィスキー食べて幸せ一杯お腹いっぱいだなんて」
「うーん……ごめん」
「お風呂は?」
「まだ……」
「一緒に入る?」
「入……え!?」
「嘘だよ。イタズラの仕返し」
驚いて飛び起きた降谷のおでこをツンと小突いて{name2}は笑う。さて、残り物で夕飯でも済まそうか。{name2}は解放されて立ち上がると一瞥をする。
呆然とした表情でぱちぱちと瞬きをしていた降谷は小突かれた額を暫く撫でいたが、はあ、と大きく溜息を吐くと、のろのろと立ち上がる。
「――ごめん、{name2}。作ってあるよ、ご飯」
「そうなの?」
「うん。準備するから着替えて待ってて」
「はぁい」
{name2}はテーブルに置いていたカバンを回収し、寝室に入って着替えを済ませると手洗いを済ませるとリビングの食卓に座す。卓上にはご飯と味噌汁。目玉焼き付きのデミグラスハンバーグとコーンとツナのサラダ、と。
「あ、かぼちゃプリン!」
「お昼に渡せなかったからね」
向かいの椅子に座した降谷がお茶を注ぎ、{name2}に渡し、自分の分を注ぐとクイッとコップを呷る。
「そっか、わざわざありがとう。そしたらイタズラするのはやめとくね」
「え、考えてたの?」
「ふふふ、いただきます」
「え、{name2}? 気になるんだか?」
「内緒」
降谷のハッと息を飲む音を尻目に、{name2}はマイペースに食事を始める。彼の料理はいつも美味しいと思わず頬が綻んでしまう。
――あなたの苗字を貰う。
なんて、イタズラで驚かせてやろうと思ったが、やっぱりイタズラでも言えないな、なんて、思いながら。
25.09.17 初出 『秋色のひとしずく』
ポアロで七夕 / 安室透(降谷零)
六月も下旬に差し掛かるといったところ。梅雨真っただ中の曇天の日。湿気を含んだ空気が夏の空気を帯び始め、じっとりとした熱気を肌で感じる嫌な季節。雨の降らない空梅雨が多い昨今の天候には珍しく、従順なまでに天よりはらはらと雨が降り出したかと思えば、それは次第に勢いづき豪雨へと化けた。バチバチと火花を散らすような破裂音に、その雨の激しさを物語る。一度外へ出れば一瞬で濡れ鼠、傘を差せども乱反射した雨粒が足元をずぶ濡れにするだろう。
「なかなか止まないなぁ」
朝方から降り出したこの雨の影響で、喫茶ポアロの客足は思いの外伸び悩んでいた。否、正確に言うなれば、悩むという表現は誤りである。大して悩んではいなかった。悩むと言うよりは、――そう、暇を持て余していたと言うべきであった。開店から客足がまばらであったが、この雨が長時間に渡って降り注いでいる影響だろうか。普段は毎日のように姿を見せる常連客も今日は半分も姿を見せていない。いつも通り姿を見せた常連も食事だけを済ませてそそくさと出て行ってしまうから滞在時間は好天時より遥かに短いときた。この嵐のような天気であるから致し方ないが、普段賑わいを見せている店内が静まり返っているのをみると、どこか物足りなさを感じてしまう。特段、慌ただしい方が好きというわけでもないが、何分拍子抜けもいいところである。暇を持て余して清掃をしてみたところで、そもそも飲食を取り扱う店であるから衛生面は日ごろから徹底的に配慮しているためにこれもする事がないような状態であった。
いよいよ暇になった彼ら――安室透と榎本梓は顔を見合わせる。外は相も変わらず雨脚が強いまま。お客の影などは一向に見られるはずもない。昼時の近いこの時間、人っ子一人いない喫茶ポアロというのは珍しい。安室が働き始めるようになってからは彼目当ての若い女性客が増えたが、この昔ながらの喫茶店の客中心層は中年や年配の人間が主である。そんな顔馴染みの客も今日は家で静かに過ごしているのだろうか。特に年配層は足元が悪い日は外出を控える傾向にある。
「梓さん、どうしましょうか?」
「うーん……早いですけれども、休憩にしましょうか? こんな様子でしたら当分お客さん来ないでしょうし」
「そうですよね……休憩にしてしまいましょうか」
窓の外に視線を向ければ、依然としてアスファルトに叩き付けられている雨音。ガラス窓を打つ雨量も依然として衰える気配がみられない。ポアロの前の通りを歩く人の影も見当たらないぐらいであるから、皆外出を控えているのだろう。ざあざあと変わり映えのしない雨音に一つ苦笑いを浮かべ、まかないの準備に取り掛かる。
「そういえば、安室さんは今度の七夕のお願い考えました?」
「七夕?」
まかないを作り始めた榎本がふと思い出したという風に安室に尋ねる。突然飛び出した七夕の話題に疑問を抱いたが、すぐさま季節の頃合いを鑑みて七夕の日が近いことを思い出す。
七夕といえば短冊に願いを書いて笹竹に飾る習慣や織姫と彦星の七夕伝説が想起されるが、安室にとっては馴染みの薄い話だ。それこそ子どもの頃の町内会の催し物として短冊に願いを書いた記憶があるが、年を重ねるに連れて重要度が低くなりがちだ。
安室にとっても例外ではなく、成長するに連れて七夕とは疎遠の生活となっていた。中々習慣がない限りは素通りしてしまう行事であると思う。仙台で開催されるあの有名な七夕祭りであればまた話は別だが、安室が幼少期を過ごした街ではそういったことはない。一般的な七夕の行事なのである。
「――懐かしいですね。七夕なんて小さい頃の話ですよ」
「?? あれ? まだ聞いていませんでしたか? 今度の七夕の日にポアロでも七夕飾りをしようってことになったんですよ?」
「え?」
ぽかんとした榎本に、安室もきょとりとする。寝耳に水。安室にはその報せは届いていなかった。何時の間にかに決まったのだろうか。
榎本によれば、元々は安易に提案したのがこの七夕飾りのイベントらしい。じめじめとした憂鬱な梅雨の季節を打破するために何か気分転換にできることはないかと考えていたとのことだ。どうやら安室の休暇中にその七夕飾りの件は決まったらしい。暫くの間ポアロでの仕事が入っていなかった安室が知り得なかった事であった。安室透名義の携帯電話を確認してみるが、そういった連絡メールを貰った覚えはなかった。腑に落ちないが、榎本の反応を見る限り、おそらく行き違いになったと考えるしかない。
申し訳なさそうな表情をする榎本に軽く笑みを浮かべて気にしていないとフォローを入れつつ、続きを促せば、七夕飾りはわざわざ笹竹を持ってきて短冊を飾るらしい。七夕限定の飲食メニューを提供する案も出たらしいが、準備期間がさすがに足りないのことでそちらは見送りになったそうだ。
短冊は常連客を筆頭に配るようだ。そこに願い事を書いてもらい、笹竹に飾るということだそうだ。先程の榎本が七夕の願いを考えたかと尋ねてきた経緯はそういう事であった。
「――なるほど。それで願い事なんですね」
「ええ! ですから、安室さんも短冊に書くこと考えてくださいね! 飾っちゃいますから!」
「え。お客さんの分だけではなく、僕のも、ですか?」
少し引きつった安室に、榎本は気付きもせずに楽しそうに話を続けていく。
「もちろん! こういう事は皆で楽しんでやりましょうよ! 初めて来たお客さんにだって渡しましたよ!」
「いきなり書いてくれるものなんですか?」
「美味しいものが食べたいー! とか、お金持ちになりたいー! とか些細な事でもいいんですって言ったら結構その場で書いてくださりましたよ?」
「そういうものなんですかねぇ……」
「適当でいいって言わないと書いてくれないですからね」
「そうですか……」
「そこに書いてくださった方の分の短冊ありますから、参考にするといいんじゃないですか? 参考にするぐらいなら平気ですよきっと!」
「そ、それは……」
「安室さん、絶対書いてくださいね! まかないの方は私に任せてください!」
今日の賄いはカラスミパスタですと胸を張って彼女の十八番を出されてしまえば、安室も苦笑いをしながらも折れるほかない。それだけこの七夕を盛り上げようと一生懸命なのだ。
「か、考えてみます ……で、では少し拝見」
カウンターの隅に置かれた手作りの空き箱をそっと開ける。その中には縦十センチ横四センチほどの色画用紙が何枚か入っている。
これが榎本が言っていた短冊だろう。少し申し訳なく思いながらも、好奇心に負けてパラパラと見てみれば何とも気の抜けるようなゆるい願い事が多い。
たとえば、寿司をたらふく食いたいだとか、宝くじで一攫千金、意中の相手と付き合いたいだとか。中には、家出したらしい嫁の帰還を乞う切実な祈りや安室を嫁に迎えたいといった何ともいえないような願い事まである。
「(あの人が幸せになれますように……? {name2}も来てたのか。あの人って誰だ?)」
中には文字に見覚えがあるとよくよく目を凝らしてみれば安室の本名・降谷零名義の幼馴染{name1}{name2}の短冊が混ざっていて、思わず目を瞠った。相変わらずのお人好しで自分の願いですらない。こういう時ぐらいは軽い気持ちで書いたって構いやしないのに。彼女の筆跡をなぞる。{name1}とは偶然再会したのがこのポアロであったが、音信不通となった幼馴染が名前を変えて別人のように振る舞う様を見て事情があると察したらしい。鉢合わせしないように気を利かせて訪問するタイミングを見計らって訪問するようになった。安室が働き始める前からよく来ていたため、{name1}の訪問頻度が減ったことに対して榎本は最近あんまり来ないねと寂しそうにしているのが心苦しい。今回も安室が休みの日に訪れたらしい。確かに何があるかわからない状況ではある。必要以上の接触は避けるべきだが、成り行き上ならばある程度は仕方ないことだ。その場で誤魔化せばどうにでもなる。律儀なものだ。思わずくすりと笑みを漏らしてしまう。
「安室さん、書けましたか?」
「あ、いえ……皆さんの書いてる姿が目に浮かぶようで、何だかいいな、と」
「そうですよね! 子どものお願いは微笑ましいものばかりですし、受験や資格に合格するとか、ゆめがあったりしていいですよね」
「ええ。その人の心が映し出されるようですね」
安室は手元にある短冊に視線を落としさてどうするべきかと考え始める。箱の中に入っていた黄色い短冊をテーブルの上に乗せてボールペン手に持ってみるが、早々に書き出しをどうするべきかと筆を置いてしまう。
「(僕の……俺の願い……)」
願いとは一体何だろう。立場上、本音では書くことはできない。当たり前だが、今の自分は“降谷零”ではなく“安室透”なのだから、“安室透”として書かなければならない。降谷零はこの小さな箱庭にはいらない。ならば安室としての願いとは何だろうか。ポアロの客がよりよく過ごせますように。探偵として眠りの小五郎のように凄腕の探偵になりたいといったところだろうか。書くとしたらその程度が無難だろうか。そんなことを書けばいいのだろうか。“降谷零”としての願いは一体どこへ行けばいいのか。
胃の奥がもやもやと消化不良を起こしているようだ。
「(――そういえば、ヒロと{name2}と俺で昔短冊書いたっけ)」
{name1}の置いていった誰かの幸せを願う短冊の文字を撫でていると、ふと古い記憶がこちらを見つめてくる。
親友の諸伏景光と幼馴染の{name1}の2人との記憶。町内会の七夕祭りで飾る短冊に願い事を書いた時の記憶だ。その日は朝から雨が降っていて、近所の商店街のアーケードの下に笹竹が飾られていた。その近くには会議室にあるような長机が数台並んでいて、机上には空き箱に入った色とりどりの短冊とマジックペンが入っていた。
皆で短冊を書こうということになって、いざ書こうと思うと降谷は何を書くか悩んでしまった。景光は澱みなくその頃子ども達の間で流行っていた特撮のヒーローになりたいと書いていた。降谷もその正義のヒーローに憧れはしていたものの、景光と同じものを書くのは何だか気恥ずかしい。脳裏にあの先生の事を掠めたが、きっと景光にからかわれてしまうし、それを書くことも恥ずかしい。結局、ヒーローと書くのは恥ずかしくから同じく正義の使者である警察官になりたいと書いて飾ってもらった。
「なあ、{name2}は何をお願いしたの?」
ぐしゃぐしゃ。
そう声を掛けた途端、{name1}はハッと弾かれたように短冊を勢いよく丸めてごみ箱に捨てた。白昼夢でも見ていたといったようなその瞳の奥は開いていた。
「{name2}ちゃん? 大丈夫? 顔が真っ青だよ……?」
「……大丈夫だよ、景くん。間違えちゃった。もう一回書き直すから待ってて」
さっと降谷と景光の方を向くと、つとめて笑み浮かべ、近くにおいてあった短冊を引ったくるように掴み、さらさらと淀みなく書き上げていく。普段大人しい彼女の異様な雰囲気に圧倒された降谷と景光は何も口を挟めず、互いに顔を見合わせたが、にこりと何事もなかったかのように微笑み続けているためそれ以上は声をかけることが出来なかった。
新しい短冊には、
“零くんと景くんと一緒にずっと仲良く過ごせますように!”
そう、書いてあった。
それ以降はその日の七夕について誰も追求せずにいたためそのまま記憶の中に眠っていた。後々、彼女が棄てた短冊を景光がこっそりと拾って保管していた事が分かった。組織に潜入する前に降谷へと渡された棄てられたら願いはあの短冊に書かれた願いとは違う願いであった。
「――安室さん? まかないできましたよ? 書けました?」
「あ……」
榎本の呼び掛けによって記憶の水底から引き戻される。
手元には安室透が書いた、“お客様がポアロで楽しく快適に過ごせますように”という短冊。
ふと窓の外に視線を向けると、雨足は弱まりはじめていた。
* * *
祭の起源と言えば、豊穣への感謝や祈り、慰霊といった意味合いから端を発している。
また「まつり」という言葉は「祀る」という言葉に因る。神様を”祀る”という意味合いからも窺い知れるように儀式的な要素を差す。
今日の祭といえば、そういった宗教的要素から乖離しつつある。“催しもの”、“イベント”といった意味合いが強く、祈りや感謝、などといった儀式的要素形骸化され娯楽要素が加味されることに至った。
少年――正確には、とある闇組織の取引現場を目撃した高校生探偵・工藤新一が幼児化した姿である――江戸川コナンが居候する毛利小五郎探偵事務所。の、階下。喫茶ポアロにおいても祭りの娯楽化は例外ではない。七夕飾りが盛大に飾られている。
偶然少年探偵団の待ち合わせで立ち寄ったポアロの装飾には一瞬、呆気にとられたが、そういえば江戸川もその短冊を書かされたのだったと思い出す。
――7月7日。突き抜けるような快晴。天候は一日中良い予報がでており、織姫と彦星も今夜は一夜限りの逢瀬を喜ぶのだろう。
少年探偵団の面々との約束の時間まではまだ少し時間がある。折角七夕飾りも盛大に飾られていることだ。暇つぶしに眺めて時間を潰すとしよう。
短冊が一番見やすいテーブルに腰掛ける。
いらっしゃいとにこりと笑みを浮かべている安室は普段よりもどこか上機嫌な事は気になったが、彼が黒の組織に潜入している公安警察であることが判明しているので、特に危険視することもないだろうから暫し様子見だ。
出されたアイスコーヒーを片手に頬杖を付いて笹に飾られた色とりどりの短冊を眺めていく。
ポアロのお客さんが楽しい一時を過ごせますようにやら、探偵団の皆と楽しく過ごしたいやら、うな重腹一杯喰いたいやら、競馬で万馬券を当てたいやら。微笑ましいものからどうしようもないような願いも書かれているが、工藤新一の幼なじみの少女の“会いたい”という一言には少しばかり感じ入ってしまう。
「――あれ?」
「どうかしたかい、コナン君?」
一枚だけ。一枚だけ古い色画用紙。
一度ぐしゃぐしゃに丸めて引き伸ばしたのだろう短冊が一枚。笹の葉に隠れて少し見えづらい所に括ってある。まるで隠されていたようだ。その短冊に顔を近づけてみれば、滲んだサインペンの文字。薄い黄色い紙には少し書き慣れない子どもの字で書かれている。
“れいくんのおよめさんになりたい”
バッと江戸川が彼の方を振り向けば、目を細めて穏やかな表情を浮かべた安室の姿が目に入る。すぐに江戸川の視線に気がついた安室は唇にそっと人差し指を添えて、ぱちりとウィンクをする。
おいおい、嘘だろう……?
夢でも見てるのかという信じられないという気持ちで視線を向ければ、安室は手厳しいねと苦笑を浮かべている。
「安室さーん、戻りました」
カランカランとドアベルが揺れ、榎本が買い物袋片手に上機嫌で入ってくる。その後をおずおずと入ってきた{name1}{name2}に安室は一瞬目を丸くしたが、すぐににこやかに微笑む。
「――いらっしゃい。カウンター席、ご案内しますね」
「えと……お邪魔します?」
「ふふふ、何いってるんですか。遠慮なさらずゆっくりしていってくださいね」
江戸川はどこか上機嫌な安室を見て、今までこのポアロで関わり合いのなかった{name1}と安室の二人に接点などあっただろうかと首を捻ったが、勢いよく扉が開き少年探偵団のメンバー達が入ってきたことで、安室が偶然機嫌が良かっただけかもしれないと思い直し、彼らに声を掛けた。
店のドアが開き空気が振動してためか、笹の葉が揺れる。振動であの古い短冊の裏に隠れていて見えなかった一枚が、姿を現す。
――今度こそ、君の願いを守れますように。
18.08.05 初出 『天の川に眠る初恋』
25.07.29 修正
六月も下旬に差し掛かるといったところ。梅雨真っただ中の曇天の日。湿気を含んだ空気が夏の空気を帯び始め、じっとりとした熱気を肌で感じる嫌な季節。雨の降らない空梅雨が多い昨今の天候には珍しく、従順なまでに天よりはらはらと雨が降り出したかと思えば、それは次第に勢いづき豪雨へと化けた。バチバチと火花を散らすような破裂音に、その雨の激しさを物語る。一度外へ出れば一瞬で濡れ鼠、傘を差せども乱反射した雨粒が足元をずぶ濡れにするだろう。
「なかなか止まないなぁ」
朝方から降り出したこの雨の影響で、喫茶ポアロの客足は思いの外伸び悩んでいた。否、正確に言うなれば、悩むという表現は誤りである。大して悩んではいなかった。悩むと言うよりは、――そう、暇を持て余していたと言うべきであった。開店から客足がまばらであったが、この雨が長時間に渡って降り注いでいる影響だろうか。普段は毎日のように姿を見せる常連客も今日は半分も姿を見せていない。いつも通り姿を見せた常連も食事だけを済ませてそそくさと出て行ってしまうから滞在時間は好天時より遥かに短いときた。この嵐のような天気であるから致し方ないが、普段賑わいを見せている店内が静まり返っているのをみると、どこか物足りなさを感じてしまう。特段、慌ただしい方が好きというわけでもないが、何分拍子抜けもいいところである。暇を持て余して清掃をしてみたところで、そもそも飲食を取り扱う店であるから衛生面は日ごろから徹底的に配慮しているためにこれもする事がないような状態であった。
いよいよ暇になった彼ら――安室透と榎本梓は顔を見合わせる。外は相も変わらず雨脚が強いまま。お客の影などは一向に見られるはずもない。昼時の近いこの時間、人っ子一人いない喫茶ポアロというのは珍しい。安室が働き始めるようになってからは彼目当ての若い女性客が増えたが、この昔ながらの喫茶店の客中心層は中年や年配の人間が主である。そんな顔馴染みの客も今日は家で静かに過ごしているのだろうか。特に年配層は足元が悪い日は外出を控える傾向にある。
「梓さん、どうしましょうか?」
「うーん……早いですけれども、休憩にしましょうか? こんな様子でしたら当分お客さん来ないでしょうし」
「そうですよね……休憩にしてしまいましょうか」
窓の外に視線を向ければ、依然としてアスファルトに叩き付けられている雨音。ガラス窓を打つ雨量も依然として衰える気配がみられない。ポアロの前の通りを歩く人の影も見当たらないぐらいであるから、皆外出を控えているのだろう。ざあざあと変わり映えのしない雨音に一つ苦笑いを浮かべ、まかないの準備に取り掛かる。
「そういえば、安室さんは今度の七夕のお願い考えました?」
「七夕?」
まかないを作り始めた榎本がふと思い出したという風に安室に尋ねる。突然飛び出した七夕の話題に疑問を抱いたが、すぐさま季節の頃合いを鑑みて七夕の日が近いことを思い出す。
七夕といえば短冊に願いを書いて笹竹に飾る習慣や織姫と彦星の七夕伝説が想起されるが、安室にとっては馴染みの薄い話だ。それこそ子どもの頃の町内会の催し物として短冊に願いを書いた記憶があるが、年を重ねるに連れて重要度が低くなりがちだ。
安室にとっても例外ではなく、成長するに連れて七夕とは疎遠の生活となっていた。中々習慣がない限りは素通りしてしまう行事であると思う。仙台で開催されるあの有名な七夕祭りであればまた話は別だが、安室が幼少期を過ごした街ではそういったことはない。一般的な七夕の行事なのである。
「――懐かしいですね。七夕なんて小さい頃の話ですよ」
「?? あれ? まだ聞いていませんでしたか? 今度の七夕の日にポアロでも七夕飾りをしようってことになったんですよ?」
「え?」
ぽかんとした榎本に、安室もきょとりとする。寝耳に水。安室にはその報せは届いていなかった。何時の間にかに決まったのだろうか。
榎本によれば、元々は安易に提案したのがこの七夕飾りのイベントらしい。じめじめとした憂鬱な梅雨の季節を打破するために何か気分転換にできることはないかと考えていたとのことだ。どうやら安室の休暇中にその七夕飾りの件は決まったらしい。暫くの間ポアロでの仕事が入っていなかった安室が知り得なかった事であった。安室透名義の携帯電話を確認してみるが、そういった連絡メールを貰った覚えはなかった。腑に落ちないが、榎本の反応を見る限り、おそらく行き違いになったと考えるしかない。
申し訳なさそうな表情をする榎本に軽く笑みを浮かべて気にしていないとフォローを入れつつ、続きを促せば、七夕飾りはわざわざ笹竹を持ってきて短冊を飾るらしい。七夕限定の飲食メニューを提供する案も出たらしいが、準備期間がさすがに足りないのことでそちらは見送りになったそうだ。
短冊は常連客を筆頭に配るようだ。そこに願い事を書いてもらい、笹竹に飾るということだそうだ。先程の榎本が七夕の願いを考えたかと尋ねてきた経緯はそういう事であった。
「――なるほど。それで願い事なんですね」
「ええ! ですから、安室さんも短冊に書くこと考えてくださいね! 飾っちゃいますから!」
「え。お客さんの分だけではなく、僕のも、ですか?」
少し引きつった安室に、榎本は気付きもせずに楽しそうに話を続けていく。
「もちろん! こういう事は皆で楽しんでやりましょうよ! 初めて来たお客さんにだって渡しましたよ!」
「いきなり書いてくれるものなんですか?」
「美味しいものが食べたいー! とか、お金持ちになりたいー! とか些細な事でもいいんですって言ったら結構その場で書いてくださりましたよ?」
「そういうものなんですかねぇ……」
「適当でいいって言わないと書いてくれないですからね」
「そうですか……」
「そこに書いてくださった方の分の短冊ありますから、参考にするといいんじゃないですか? 参考にするぐらいなら平気ですよきっと!」
「そ、それは……」
「安室さん、絶対書いてくださいね! まかないの方は私に任せてください!」
今日の賄いはカラスミパスタですと胸を張って彼女の十八番を出されてしまえば、安室も苦笑いをしながらも折れるほかない。それだけこの七夕を盛り上げようと一生懸命なのだ。
「か、考えてみます ……で、では少し拝見」
カウンターの隅に置かれた手作りの空き箱をそっと開ける。その中には縦十センチ横四センチほどの色画用紙が何枚か入っている。
これが榎本が言っていた短冊だろう。少し申し訳なく思いながらも、好奇心に負けてパラパラと見てみれば何とも気の抜けるようなゆるい願い事が多い。
たとえば、寿司をたらふく食いたいだとか、宝くじで一攫千金、意中の相手と付き合いたいだとか。中には、家出したらしい嫁の帰還を乞う切実な祈りや安室を嫁に迎えたいといった何ともいえないような願い事まである。
「(あの人が幸せになれますように……? {name2}も来てたのか。あの人って誰だ?)」
中には文字に見覚えがあるとよくよく目を凝らしてみれば安室の本名・降谷零名義の幼馴染{name1}{name2}の短冊が混ざっていて、思わず目を瞠った。相変わらずのお人好しで自分の願いですらない。こういう時ぐらいは軽い気持ちで書いたって構いやしないのに。彼女の筆跡をなぞる。{name1}とは偶然再会したのがこのポアロであったが、音信不通となった幼馴染が名前を変えて別人のように振る舞う様を見て事情があると察したらしい。鉢合わせしないように気を利かせて訪問するタイミングを見計らって訪問するようになった。安室が働き始める前からよく来ていたため、{name1}の訪問頻度が減ったことに対して榎本は最近あんまり来ないねと寂しそうにしているのが心苦しい。今回も安室が休みの日に訪れたらしい。確かに何があるかわからない状況ではある。必要以上の接触は避けるべきだが、成り行き上ならばある程度は仕方ないことだ。その場で誤魔化せばどうにでもなる。律儀なものだ。思わずくすりと笑みを漏らしてしまう。
「安室さん、書けましたか?」
「あ、いえ……皆さんの書いてる姿が目に浮かぶようで、何だかいいな、と」
「そうですよね! 子どものお願いは微笑ましいものばかりですし、受験や資格に合格するとか、ゆめがあったりしていいですよね」
「ええ。その人の心が映し出されるようですね」
安室は手元にある短冊に視線を落としさてどうするべきかと考え始める。箱の中に入っていた黄色い短冊をテーブルの上に乗せてボールペン手に持ってみるが、早々に書き出しをどうするべきかと筆を置いてしまう。
「(僕の……俺の願い……)」
願いとは一体何だろう。立場上、本音では書くことはできない。当たり前だが、今の自分は“降谷零”ではなく“安室透”なのだから、“安室透”として書かなければならない。降谷零はこの小さな箱庭にはいらない。ならば安室としての願いとは何だろうか。ポアロの客がよりよく過ごせますように。探偵として眠りの小五郎のように凄腕の探偵になりたいといったところだろうか。書くとしたらその程度が無難だろうか。そんなことを書けばいいのだろうか。“降谷零”としての願いは一体どこへ行けばいいのか。
胃の奥がもやもやと消化不良を起こしているようだ。
「(――そういえば、ヒロと{name2}と俺で昔短冊書いたっけ)」
{name1}の置いていった誰かの幸せを願う短冊の文字を撫でていると、ふと古い記憶がこちらを見つめてくる。
親友の諸伏景光と幼馴染の{name1}の2人との記憶。町内会の七夕祭りで飾る短冊に願い事を書いた時の記憶だ。その日は朝から雨が降っていて、近所の商店街のアーケードの下に笹竹が飾られていた。その近くには会議室にあるような長机が数台並んでいて、机上には空き箱に入った色とりどりの短冊とマジックペンが入っていた。
皆で短冊を書こうということになって、いざ書こうと思うと降谷は何を書くか悩んでしまった。景光は澱みなくその頃子ども達の間で流行っていた特撮のヒーローになりたいと書いていた。降谷もその正義のヒーローに憧れはしていたものの、景光と同じものを書くのは何だか気恥ずかしい。脳裏にあの先生の事を掠めたが、きっと景光にからかわれてしまうし、それを書くことも恥ずかしい。結局、ヒーローと書くのは恥ずかしくから同じく正義の使者である警察官になりたいと書いて飾ってもらった。
「なあ、{name2}は何をお願いしたの?」
ぐしゃぐしゃ。
そう声を掛けた途端、{name1}はハッと弾かれたように短冊を勢いよく丸めてごみ箱に捨てた。白昼夢でも見ていたといったようなその瞳の奥は開いていた。
「{name2}ちゃん? 大丈夫? 顔が真っ青だよ……?」
「……大丈夫だよ、景くん。間違えちゃった。もう一回書き直すから待ってて」
さっと降谷と景光の方を向くと、つとめて笑み浮かべ、近くにおいてあった短冊を引ったくるように掴み、さらさらと淀みなく書き上げていく。普段大人しい彼女の異様な雰囲気に圧倒された降谷と景光は何も口を挟めず、互いに顔を見合わせたが、にこりと何事もなかったかのように微笑み続けているためそれ以上は声をかけることが出来なかった。
新しい短冊には、
“零くんと景くんと一緒にずっと仲良く過ごせますように!”
そう、書いてあった。
それ以降はその日の七夕について誰も追求せずにいたためそのまま記憶の中に眠っていた。後々、彼女が棄てた短冊を景光がこっそりと拾って保管していた事が分かった。組織に潜入する前に降谷へと渡された棄てられたら願いはあの短冊に書かれた願いとは違う願いであった。
「――安室さん? まかないできましたよ? 書けました?」
「あ……」
榎本の呼び掛けによって記憶の水底から引き戻される。
手元には安室透が書いた、“お客様がポアロで楽しく快適に過ごせますように”という短冊。
ふと窓の外に視線を向けると、雨足は弱まりはじめていた。
* * *
祭の起源と言えば、豊穣への感謝や祈り、慰霊といった意味合いから端を発している。
また「まつり」という言葉は「祀る」という言葉に因る。神様を”祀る”という意味合いからも窺い知れるように儀式的な要素を差す。
今日の祭といえば、そういった宗教的要素から乖離しつつある。“催しもの”、“イベント”といった意味合いが強く、祈りや感謝、などといった儀式的要素形骸化され娯楽要素が加味されることに至った。
少年――正確には、とある闇組織の取引現場を目撃した高校生探偵・工藤新一が幼児化した姿である――江戸川コナンが居候する毛利小五郎探偵事務所。の、階下。喫茶ポアロにおいても祭りの娯楽化は例外ではない。七夕飾りが盛大に飾られている。
偶然少年探偵団の待ち合わせで立ち寄ったポアロの装飾には一瞬、呆気にとられたが、そういえば江戸川もその短冊を書かされたのだったと思い出す。
――7月7日。突き抜けるような快晴。天候は一日中良い予報がでており、織姫と彦星も今夜は一夜限りの逢瀬を喜ぶのだろう。
少年探偵団の面々との約束の時間まではまだ少し時間がある。折角七夕飾りも盛大に飾られていることだ。暇つぶしに眺めて時間を潰すとしよう。
短冊が一番見やすいテーブルに腰掛ける。
いらっしゃいとにこりと笑みを浮かべている安室は普段よりもどこか上機嫌な事は気になったが、彼が黒の組織に潜入している公安警察であることが判明しているので、特に危険視することもないだろうから暫し様子見だ。
出されたアイスコーヒーを片手に頬杖を付いて笹に飾られた色とりどりの短冊を眺めていく。
ポアロのお客さんが楽しい一時を過ごせますようにやら、探偵団の皆と楽しく過ごしたいやら、うな重腹一杯喰いたいやら、競馬で万馬券を当てたいやら。微笑ましいものからどうしようもないような願いも書かれているが、工藤新一の幼なじみの少女の“会いたい”という一言には少しばかり感じ入ってしまう。
「――あれ?」
「どうかしたかい、コナン君?」
一枚だけ。一枚だけ古い色画用紙。
一度ぐしゃぐしゃに丸めて引き伸ばしたのだろう短冊が一枚。笹の葉に隠れて少し見えづらい所に括ってある。まるで隠されていたようだ。その短冊に顔を近づけてみれば、滲んだサインペンの文字。薄い黄色い紙には少し書き慣れない子どもの字で書かれている。
“れいくんのおよめさんになりたい”
バッと江戸川が彼の方を振り向けば、目を細めて穏やかな表情を浮かべた安室の姿が目に入る。すぐに江戸川の視線に気がついた安室は唇にそっと人差し指を添えて、ぱちりとウィンクをする。
おいおい、嘘だろう……?
夢でも見てるのかという信じられないという気持ちで視線を向ければ、安室は手厳しいねと苦笑を浮かべている。
「安室さーん、戻りました」
カランカランとドアベルが揺れ、榎本が買い物袋片手に上機嫌で入ってくる。その後をおずおずと入ってきた{name1}{name2}に安室は一瞬目を丸くしたが、すぐににこやかに微笑む。
「――いらっしゃい。カウンター席、ご案内しますね」
「えと……お邪魔します?」
「ふふふ、何いってるんですか。遠慮なさらずゆっくりしていってくださいね」
江戸川はどこか上機嫌な安室を見て、今までこのポアロで関わり合いのなかった{name1}と安室の二人に接点などあっただろうかと首を捻ったが、勢いよく扉が開き少年探偵団のメンバー達が入ってきたことで、安室が偶然機嫌が良かっただけかもしれないと思い直し、彼らに声を掛けた。
店のドアが開き空気が振動してためか、笹の葉が揺れる。振動であの古い短冊の裏に隠れていて見えなかった一枚が、姿を現す。
――今度こそ、君の願いを守れますように。
18.08.05 初出 『天の川に眠る初恋』
25.07.29 修正
高校生の諸伏景光と同級生女子が夏祭りに行く話
夏というだけで心焦がれ心躍るような感覚がするのは夏という言葉が持つイメージに夢を抱くからなのだろうか。
シャアシャアと気づけば蝉が鳴きはじめている。突き抜けるような快晴、夏空。中天に浮かぶ太陽は燦々と。止めどなく体内から噴き出る汗、茹だるような暑さには辟易するものだが、どうしても嫌いになれない。
期末テストが終了し、再開された部活動。いよいよ夏の大会に向けて各部活は熱が帯びていく。{name2}の所属する吹奏楽部も夏のコンクールに向けて練習が過熱する。夏季休暇に入ればコンクールのまでの間はほぼ毎日のように練習だろう。好きでやっていることだからそれ自体には問題はない。ないが、折角の夏季休暇であるから部活動だけではなく後で振り返ってみて楽しかったと満足できるような事を一つぐらいは体験したい。
そうなると思い当たるのは――
「花火大会、行きたいなぁ……」
ピロティに掲示された花火大会のお知らせポスター。ピロティを通る度に立ち止まって、紺碧の海に鮮やかに咲き誇る火の花の写真に釘付けになってしまう。親友と毎年観に行こうと出かけていたが、今年は一緒には行けない。親友は“幼馴染の研二くん”と遂に両想いになり、二人で花火大会デートだ。親友は花火大会に行くのは{name2}との恒例行事だから{name2}の方が優先と有り難い申し出もあったが、それまで定期的に彼女の恋の悩みを聞いていた手前、遂に想いが通じ合ったという事実を前に引き下がらずには居られなかった。彼女の想いが通じ、男女交際を始めると聞かされた時は自分のことのように歓喜し泣いてしまったぐらいだ。喜んで親友を送り出した。
確かに毎年恒例行事であったから親友と一緒に行けないのは寂しい。とは言っても一人で行くには寂しいので今年は大人しく諦めるとするか。そう考えているその時であった。
「――お疲れ、{name1}」
「ひゃあぅっ!? つめたっ!?」
ぼんやりとポスターを眺めていれば、背後から声を掛けられて、ぴとりと首筋に何か冷たいものを押し当てられて飛び上がる。持っていたトランペットを落としそうになり、慌てて抱え込んで死守すると勢い良く振り返った。振り向けば、ペットボトルを持ったクラスメイトの降谷零と諸伏景光が立っていて、きまりが悪そうな表情で頬を掻く。
「ふ、降谷くん!」
「あ……その、ごめん。少しだけ驚かせようと思っただけなんだ」
「びっくりした! びっくりしたよ!」
「ご、ごめん……{name1}さん」
「諸伏くんも気づいた時点で止めてほしかったよ……」
「う、うん……ごめん」
「……はぁ、落とさなくて良かった」
息を吐き出すとシュンとした降谷と諸伏を見て、やれやれと息を吐く。降谷の手中のペットボトルを手に取ると、順番に二人の頬に引っ付ける。
「ひっ! つめた!?」
「お返し。これでチャラね。びっくりはしたけど怒ってないよ」
「っめたっ! そ、そうか……よかった」
まさか仕返しされると思わなかったのか、驚いた表情を浮かべた降谷と諸伏に、にんまりと笑う。恥ずかしそうに口元を両手で覆う諸伏と気の抜けた炭酸水のようになった降谷。何だかそれが可笑しくて
クスクスと笑うと、二人も顔を見合わせて眉尻を下げて破顔する。
「降谷くんって意外と悪戯っ子なのね」
「悪かったって……」
「ははは……{name1}さん、それ見てたけど今度の花火大会行くの?」
諸伏に言われて再びポスターを一瞥するが、首をふるふると振る。
「今年は行く人いないしいかないかな」
「……それなら、一緒に行かない?」
思わぬ申し出に弾かれたように諸伏を見つめれば、やや緊張した面持ちで{name2}を見ていた。ゴクリと唾を飲み込んだ諸伏の普段の穏やかな雰囲気とはまた違う様子に驚いたものの、花火大会は気になっていたので有り難い申し出だ。一人で行く気にはならなかったが、降谷と諸伏が一緒ならば楽しめそうではある。二人とはクラスメイトの間柄であるし、時折会話もする。全く話したことのない相手という訳でもないから初対面というわけでもないため気まずくもないが、親友同士で約束しているならばぽっと出の人間が割って入るのも気が引ける。
「申し出は有り難いけど……諸伏くんは降谷くんと一緒に行くのでしょ? 私が入っていったらお邪魔じゃない?」
「全然邪魔じゃないよ!」
食って掛かるように即答した諸伏に、{name2}は驚いて目を丸めると、彼はしハッとして赤面する。その後ろで降谷は腹を抱えて笑っている。確かに勢いのある即答のは驚いたがそこまで笑わなくとも。
そこまで笑わなくていいだろと笑われた本人も抗議するが、くふふふっと腕に口元を押さえつけて笑いを堪らえようと必死だ。
「……ふふふ。俺は、気にしない。ふふっ、はぁ……俺達浴衣着て全力で楽しみたいから{name1}も浴衣着てきてくれるか」
「え? 零、そんなこと」
「ヒロが花火大会すごく楽しみにしているんだ」
「えーっと、雰囲気大事にしたいってこと?」
「そうそれ」
「お、おい、ゼロ。そんな勝手に」
「ヒロ、浴衣好きだろ?」
「……好き、だけどさ」
オレの気持ちを考えてよと、ぼやく諸伏を横目に
{name2}は首を傾げる。一方の降谷は上機嫌なのでこの二人は仲がいいんだか悪いんだか。外野の名前が気にしたところで無意味であるのは明白ではあるが。
「? わかったけど、私その日も部活あるから途中から合流でもいい?」
「そうなのか。吹奏楽部、大変だな」
「上手くいかないこともあるけど、好きでやってるからそこまで大変じゃないよ」
視線を抱えていたトランペットへ向け、表面を優しく撫でる。小学生の金管楽器中心の金管クラブでトランペットに出会ってからずっトランペットを吹いてきた。中学に上がってから両親にお願いして学業と両立することを条件にこのトランペットを買ってもらって以来の相棒。ソロパートがうまくいかなくて泣いた日も、楽しく演奏して笑った日も、この相棒にはいろんな思い出が詰まっている。
「……そういうとこもいいな」
「? 諸伏くん?」
「あ、いや! {name1}さん、毎日暑いから体調には気をつけてね」
「うん。ありがとう諸伏くん」
「よかったな、ヒロ」
降谷が諸伏の背中を叩くと、思いの外力が強かったのか諸伏は大きく咳き込んだ。ぎょっとしたのは{name2}だけでなく叩いた本人も予想外だったのか、慌てて諸伏の背中を擦っている。一頻り咳き込んで落ち着いてきた諸伏は「ゼロ……」降谷をじとりと睨む。おやァと{name2}が雲行きを怪しんでいると、
珍しく平謝りな降谷に、珍しくご立腹な諸伏。やれやれ、仕方ない。
トランペットを構えて大きく息を吸い込めば、二人はピタリと言い争いをやめて、{name2}を見る。戦々恐々とした表情を浮かべた男子高校生を見て、{name2}は笑う。
「喧嘩はメッ、だよ」
固まった二人を置いて、{name2}は歩き出す。そろそろ他の楽器の部員達との合奏の時間だ。夏の新たな楽しみが出来たとほくそ笑んでいれば、諸伏が声をかけてくる。
「夏祭り、楽しみにしてる!」
振り返ってみれば、ほのかに顔を上気させた諸伏がはにかんだ。
* * *
花火大会に誘われてから二週間。その間に修業式を迎え、夏季休暇に突入した。各部活動の活動は活発化し、熱を帯びる。夏の大会に向けて誰も彼もが情熱を注ぎ頑張っているんだと感じると、{name2}ももうひと頑張りしようと気合が入る。毎日朝早く登校しては下校時間限界まで練習して帰るの繰り返し、束の間の休日は宿題や花火大会に行くための前準備に費やした。光陰矢の如し。諸伏との約束をした花火大会の日をいよいよ迎えた。先生達も見回りがあるからと部活は想定よりも早く切り上げられ、普段は遅くまで自主練して帰宅する{name2}も明るい内に帰宅して浴衣に着替える準備をする。風呂場で身を清め、着付けを済ませると、軽く化粧をする。普段は日焼け止めぐらいしかしないけれど、あの恐ろしく美形のクラスメイトの隣に立つのならば最低限は身綺麗にしていたい。最後にキープメイクミストをすると、今度はヘアセットだ。難しいとヘアセットはできないが、動画サイトで見かけた簡単なシニヨンヘアにする。上手い具合にまとめ上げると、温めていたヘアアイロンで毛先を少し巻いた。最終チェックで顔を左右に傾けながら、メイクやヘアスタイルを確認すると、脱衣所を出て巾着袋にスマホとお財布とハンカチ、携帯用のウェットティッシュ、交通系ICカードを入れ、戸締まりをして会場へ向かう。
秋は夕暮れ、とはいうけれど、夏の夕暮れもあの青と黄色が混じり合うグラデーションが美しい。斜陽が水平線を煌々と燃え上がらせ、これから始まる夜を祝福するようだ。
花火大会の会場の最寄り駅は沢山の人が集まり、既にごった返している。祭りの気配に浮き足立った人々の心を映す鏡のように賑わいを見せている。この中から諸伏と降谷の二人と合流できるのだろうかと不安になるが、そういえば部活が早く切り上げになったことを連絡していなかった。慌ててスマホを取り出して先日教えてもらった諸伏のメッセージアプリのページを開く。
「――{name1}、さん?」
「――あ、うん。諸伏くんこんばんは。今日は早く終わったの」
振り返れば、驚いた表情を浮かべた諸伏が立っていた。緑青の浴衣を着ていて、普段とはまた違う雰囲気。落ち着いた風合いの浴衣が良く似合っている。かっこいいなァ。
「かわいい」
「ありがとう、この浴衣一目惚れだったの」
白地に紫、紫に近しい青の花が散りばめられたら浴衣。紺の帯。事前に見立ててくれた親友は大人しすぎないかと小首を傾げていたが、寧ろ大人っぽい雰囲気が気に入った。諸伏のにもお墨付きをいただきたいので褒められて悪い気などしない。
「{name1}さん。すごく、かわいいよ」
諸伏はふわりと花笑みを浮かべる。あまりにもきれいに笑うものだから、{name2}は息を呑んでしまう。眉目秀麗とはこのことか。そわそわと浮ついた心を鎮めるために別の話をする。
「そういえば、降谷くんとは一緒に来なかったの?」
ぱっと華やかな笑みを浮かべていたかと思えば、すっと波のように引いていき、眉尻を下げた表情が浮かぶ。
「――零は他のやつと行くことになって、俺と{name1}さんの二人だけ」
「そうなんだ」
「……零と一緒がよかった?」
「三人で楽しめたらと思ったけど、人それぞれだからね。諸伏くんこそ、降谷くんとニコイチみたいな感じだったから私と二人で良かったの?」
「……なるほど。君はそういう考えか」
ふむ、と顎に手を当てて思案するような素振りを見せた諸伏。先ほどとは打って変わって口元を綻ばせている。
「諸伏くん?」
「今日は{name1}さんと一緒がいい」
「う、うん。ありがと」
何だか胸の奥がキュウする。もしや、と脳裏を過るがすぐのその思考は打ち消した。諸伏は穏やかで誰にでも優しいから、隣の席になって少し会話するような間柄の{name2}にも優しくしてくれるだけだ。ただの厚意に好意を向けるのは自惚れだ。勘違いしてはいけない。
「諸伏くん、折角だから露店見て回ってみない?」
「うん、そうしようか」
ゆっくりと並んで歩き始める。花火大会と言えばメインは当然花火であるが、露店も楽しみの一つである。ずらりと並ぶ露店には食品を取り扱った店が多い。たこ焼きややきそば、フルーツ飴、ベビーカステラ、牛串、かき氷。どれも美味しそうに見える。芳ばしい匂いが辺りの一面に漂ってきていて食欲を唆る。食品以外では定番のお面屋や金魚すくい、ヨーヨー釣り、射的などが楽しめるようだ。
「ちょっとそこのお兄さん。射的やってみない?」
「オレ?」
射的屋の親父が諸伏に声を掛け、立ち止まる。パイプ椅子に座ってすっかり寛いでいた親父がちょいちょいと手招きするのを見て互いに顔を見合わせえう。
「彼女に射撃でかっこいいとこ見せちゃおうよ」
「やります」
「諸伏くん?! いえ、あの、私、彼女じゃ……」
「そうこなくちゃ!」
{name2}を蚊帳の外にしてトントン拍子に話が進められていく。諸伏は店主の親父から射的用の銃を受け取り何やらヒソヒソと話している。時折{name2}の方を一瞥して頷いている様子を見て、居心地の悪さを感じるが、話し終えた諸伏は「頑張れよ」と親父に背中をパンと叩かれている。デジャヴだ。
「{name1}さん、どれが欲しい?」
「え、諸伏くんの欲しいもの優先しなよ」
「オレは射的やりたいだけだから」
「そうなの?」
「うん。だから好きなの選んで」
「兄ちゃん気張れよー、ここが男の見せ所だぜ」
「うん、おじさんありがとう」
Tシャツの袖を捲って力瘤を見せ、そこをパンと叩く親父。それに呼応して諸伏も浴衣の袖を捲り、意外とガッチリとした腕をパンと叩いて笑い合っている。夏の夜の奇妙な友情。{name2}は楽しそうでいいなと眺めていると振り返った諸伏とバチリと視線が絡み合い、彼はクシャリと無邪気に笑う。トクン、と揺れる心臓を誤魔化すように胸元を両手を添える。
「{name1}さん、何がいいか決まった?」
「えっと……それじゃあ、あの子がいい」
「へぇ、ぷりんくん好きなの?」
「うん、かわいくて癒されるから好き」
犬のキャラクターの名前が書いてある的を見て、諸伏が銃を構える。銃を構えるその姿に、思わずスマホを取り出して写真を撮ると、撮られたことに気づいて少しはにかんだ。
「どうしたのいきなり?」
「今日の記念に。後で送るね」
「ええ? 自分のカッコつけてる写真は恥ずかしいな」
「いいじゃん。構えた姿がスナイパーみたいでかっこいいよ」
「え……ほんと? 絶対にぷりんちゃん取るね」
「おーい、仲良しなのは微笑ましいけどおじさんを忘れないで」
「おじさんも諸伏くんと一緒に写真どうですか?」
「え? いいの?」
くすりと笑ってカメラを構えると店の親父と一緒にピースサインを取る諸伏。写真を撮って見せると、二人は嬉しそうによく撮れてるという。
「絶対に取らないとね」
再び銃を構え直した諸伏の横顔は真剣そのもの。先程までの穏やかな雰囲気とは打って変わって声を掛けられずに{name2}はそのまま押し黙る。店の親父も固唾を呑んで見守る。決着は一瞬だ。諸伏が引き金を引いた瞬間、弾はきれいに的に当たり、地面に落ちる。一発だ。凄腕のスナイパーのように見事の命中させた。
「す、すごい! 一発で当たった!?」
「やるじゃねぇか! 兄ちゃん!」
「ふふふ。オレ、射的結構得意なんだよね」
得意げな表情で店の親父から景品のキャラクターのぬいぐるみを受け取る諸伏に{name2}はいたく感心し、尊敬の念を持って目を輝かせる。諸伏が差し出してきたぬいぐるみを見て、ハッとしてスマホを取り出すとすぐに写真を撮った。うん、かわいい。
「{name1}さん、写真じゃなくて受け取ってよ」
「ごめんね。つい撮らなきゃと思ったら……本当にいいの?」
「{name1}さんのために取ったんだからもらってくれたほうが嬉しい」
「ありがとう。大切にするね」
諸伏からぬいぐるみを受け取り、ぎゅうと抱え込む。自分のために頑張って取ってくれたのかと思うとつい口元が綻んでしまう。肌触りの良いぬいぐるみのお腹を撫でているとパシャリと機械の音。ちらりと音のした方を見れば、もう一度シャッター音が下ろされる。今度は諸伏が{name2}の写真を撮ったようだ。
「? 私の写真撮ってもなんも面白味もないよ?」
「オレも今日の記念に撮りたいなと思って、ダメだった?」
「別にいいけど……」
「よかった。……おじさん、ありがとね」
「おう、楽しんでな!」
「行こう、{name1}さん。お腹減っちゃった」
射的屋の親父に別れを告げ、{name2}と諸伏は再び露店巡りを再開する。日が暮れていくにつれて会場付近には沢山の人達が集まっているのか、歩くのもやっとである。押し合いへし合いの様相を呈した状況に、{name2}は一生懸命逸れないように諸伏の浴衣の袖を控え目に掴めば、ぱっと諸伏が{name2}の方を見た。
「も、諸伏くん……」
「{name1}さん、触れていい?」
「え?」
「手、触れていいですか?」
「う、うん」
「ごめんね、失礼します」
まるで壊れ物にでも触れるかのように、手を優しく掴まれて、そっと引き寄せられる。男の子と手を繋ぐのは初めてだ。小さい頃に遠足で同じ班の子と手を繋いだとかそういう類いはまた別だ。自分よりも大きくてゴツゴツと骨張った、男の人の手。指先が触れ合って熱い。離れないようにと絡まる大きな手にどきりとして心臓が忙しない。この手を放したくないと握り返すとピクリと揺れが伝わってきた。
途中の屋台でたこ焼きや焼きそば、かき氷を買って高台の公園に足を運ぶ。日もとっぷりと暮れ、公園は静寂に包まれている。人がぽつりぽつりといるが、閑静な住宅街を抜けた先にある高台であるからか、意外にもその存在は認知されていないらしい。東屋のベンチに腰を下ろせば、タイミングよく花火が夜空に長い尾を引いて昇っていく。パアンと花が開く。華やかに煌めいてパラパラと散っていく。間髪入れずに次弾が打ち上げられ、次々と夜空に花開いていく。喧騒は遠く、花火も少し遠いが濃紺の夜空によく木霊するため、その余韻がどこか心地良い。暫く二人は無言のまま眺めていたが、かき氷が溶け始めているのに気付き、慌てて食べ始めるとキーンとして二人してこめかみを抑えた。あまりにもシンクロした一連の流れに互いに顔を見合わせて破顔一笑した。
「――きれいだ」
「本当にきれいだね」
「今日の{name1}さんも」
「っ……」
「ほんとはね、零も一緒に来るはずだったんだけど、二人きりで行ってこいって気を遣わせちゃったんだ」
「そう、なんだ……」
動揺が隠せずに視線を膝の上に落とせば、「触れるね」と両手を包むように握られ、視線が再び諸伏の方へと向かされる。射抜かれるような視線に目を逸らすことができない。ああ、焦がされていく。
「――ねえ。オレ、{name1}さんのこと、好きだよ」
全身の細胞が震え上がり、熱を帯びていく。
「オレの、側にいて下さい」
花火が次々と咲いて眩しい筈なのに、目の前の男の人が一番輝いて見える。
――私の、好きな人
目の奥に灯る恋慕に気がつけば、内に秘めていた熱情は暴かれていく。彼の手から指先から彼の熱が伝わって、{name2}の内側から焦がしていくようだった。
この人の厚意を好意と混同させて困らせてはいけないと思っていた。席が近くなり話すようになり、近しい間柄になった頃、この感情を自覚する前に牽制され、釘を差されてきた。彼を慕う彼女たちの希う気持ちは今となっては身に沁みる。立場が違えば自分がそうだったかもしれない。それでも、望まれるならば、目の前のこの人を幸せにしたいと思うのだ。
するりと手を振り解き、今度は{name2}が諸伏の両手を包み込むようにして握る。
「私でいいのかな?」
「{name1}さんがいい」
「私、部活で手一杯になるかもしれないけど?」
「大丈夫。オレ、{name1}さんが自主練してるの聴くの好きだったから!」
「え、聴いてたの? 知らなかった」
「あ」
しまったと咄嗟に口元を押さえた諸伏を見て、{name2}は呆気に取られたがクスクスと笑う。優しく詰問すれば、恥ずかしそうに顔を両手で覆う。{name2}の練習の邪魔になると嫌だったから知られたくなかったらしい。情感豊かに歌う{name2}のトランペットの音色に心打たれてからひっそりと耳を傾けていたと白状した。{name2}は諸伏のこういった思いやりを好ましく思っていて、彼の美徳であると思う。{name2}の好きになった男の良いところだ。
{name2}は諸伏の両手を取って目を覗き込むと、優しく語りかける。
愛を、歌うように。
「諸伏くん」
「なあに?」
「私も諸伏くんのこと好きだよ」
色とりどりの花火が夜空に花開く。
まるで二人の愛を祝福するように。
25.07.22 初出 『きみの名を、灯すように』
夏というだけで心焦がれ心躍るような感覚がするのは夏という言葉が持つイメージに夢を抱くからなのだろうか。
シャアシャアと気づけば蝉が鳴きはじめている。突き抜けるような快晴、夏空。中天に浮かぶ太陽は燦々と。止めどなく体内から噴き出る汗、茹だるような暑さには辟易するものだが、どうしても嫌いになれない。
期末テストが終了し、再開された部活動。いよいよ夏の大会に向けて各部活は熱が帯びていく。{name2}の所属する吹奏楽部も夏のコンクールに向けて練習が過熱する。夏季休暇に入ればコンクールのまでの間はほぼ毎日のように練習だろう。好きでやっていることだからそれ自体には問題はない。ないが、折角の夏季休暇であるから部活動だけではなく後で振り返ってみて楽しかったと満足できるような事を一つぐらいは体験したい。
そうなると思い当たるのは――
「花火大会、行きたいなぁ……」
ピロティに掲示された花火大会のお知らせポスター。ピロティを通る度に立ち止まって、紺碧の海に鮮やかに咲き誇る火の花の写真に釘付けになってしまう。親友と毎年観に行こうと出かけていたが、今年は一緒には行けない。親友は“幼馴染の研二くん”と遂に両想いになり、二人で花火大会デートだ。親友は花火大会に行くのは{name2}との恒例行事だから{name2}の方が優先と有り難い申し出もあったが、それまで定期的に彼女の恋の悩みを聞いていた手前、遂に想いが通じ合ったという事実を前に引き下がらずには居られなかった。彼女の想いが通じ、男女交際を始めると聞かされた時は自分のことのように歓喜し泣いてしまったぐらいだ。喜んで親友を送り出した。
確かに毎年恒例行事であったから親友と一緒に行けないのは寂しい。とは言っても一人で行くには寂しいので今年は大人しく諦めるとするか。そう考えているその時であった。
「――お疲れ、{name1}」
「ひゃあぅっ!? つめたっ!?」
ぼんやりとポスターを眺めていれば、背後から声を掛けられて、ぴとりと首筋に何か冷たいものを押し当てられて飛び上がる。持っていたトランペットを落としそうになり、慌てて抱え込んで死守すると勢い良く振り返った。振り向けば、ペットボトルを持ったクラスメイトの降谷零と諸伏景光が立っていて、きまりが悪そうな表情で頬を掻く。
「ふ、降谷くん!」
「あ……その、ごめん。少しだけ驚かせようと思っただけなんだ」
「びっくりした! びっくりしたよ!」
「ご、ごめん……{name1}さん」
「諸伏くんも気づいた時点で止めてほしかったよ……」
「う、うん……ごめん」
「……はぁ、落とさなくて良かった」
息を吐き出すとシュンとした降谷と諸伏を見て、やれやれと息を吐く。降谷の手中のペットボトルを手に取ると、順番に二人の頬に引っ付ける。
「ひっ! つめた!?」
「お返し。これでチャラね。びっくりはしたけど怒ってないよ」
「っめたっ! そ、そうか……よかった」
まさか仕返しされると思わなかったのか、驚いた表情を浮かべた降谷と諸伏に、にんまりと笑う。恥ずかしそうに口元を両手で覆う諸伏と気の抜けた炭酸水のようになった降谷。何だかそれが可笑しくて
クスクスと笑うと、二人も顔を見合わせて眉尻を下げて破顔する。
「降谷くんって意外と悪戯っ子なのね」
「悪かったって……」
「ははは……{name1}さん、それ見てたけど今度の花火大会行くの?」
諸伏に言われて再びポスターを一瞥するが、首をふるふると振る。
「今年は行く人いないしいかないかな」
「……それなら、一緒に行かない?」
思わぬ申し出に弾かれたように諸伏を見つめれば、やや緊張した面持ちで{name2}を見ていた。ゴクリと唾を飲み込んだ諸伏の普段の穏やかな雰囲気とはまた違う様子に驚いたものの、花火大会は気になっていたので有り難い申し出だ。一人で行く気にはならなかったが、降谷と諸伏が一緒ならば楽しめそうではある。二人とはクラスメイトの間柄であるし、時折会話もする。全く話したことのない相手という訳でもないから初対面というわけでもないため気まずくもないが、親友同士で約束しているならばぽっと出の人間が割って入るのも気が引ける。
「申し出は有り難いけど……諸伏くんは降谷くんと一緒に行くのでしょ? 私が入っていったらお邪魔じゃない?」
「全然邪魔じゃないよ!」
食って掛かるように即答した諸伏に、{name2}は驚いて目を丸めると、彼はしハッとして赤面する。その後ろで降谷は腹を抱えて笑っている。確かに勢いのある即答のは驚いたがそこまで笑わなくとも。
そこまで笑わなくていいだろと笑われた本人も抗議するが、くふふふっと腕に口元を押さえつけて笑いを堪らえようと必死だ。
「……ふふふ。俺は、気にしない。ふふっ、はぁ……俺達浴衣着て全力で楽しみたいから{name1}も浴衣着てきてくれるか」
「え? 零、そんなこと」
「ヒロが花火大会すごく楽しみにしているんだ」
「えーっと、雰囲気大事にしたいってこと?」
「そうそれ」
「お、おい、ゼロ。そんな勝手に」
「ヒロ、浴衣好きだろ?」
「……好き、だけどさ」
オレの気持ちを考えてよと、ぼやく諸伏を横目に
{name2}は首を傾げる。一方の降谷は上機嫌なのでこの二人は仲がいいんだか悪いんだか。外野の名前が気にしたところで無意味であるのは明白ではあるが。
「? わかったけど、私その日も部活あるから途中から合流でもいい?」
「そうなのか。吹奏楽部、大変だな」
「上手くいかないこともあるけど、好きでやってるからそこまで大変じゃないよ」
視線を抱えていたトランペットへ向け、表面を優しく撫でる。小学生の金管楽器中心の金管クラブでトランペットに出会ってからずっトランペットを吹いてきた。中学に上がってから両親にお願いして学業と両立することを条件にこのトランペットを買ってもらって以来の相棒。ソロパートがうまくいかなくて泣いた日も、楽しく演奏して笑った日も、この相棒にはいろんな思い出が詰まっている。
「……そういうとこもいいな」
「? 諸伏くん?」
「あ、いや! {name1}さん、毎日暑いから体調には気をつけてね」
「うん。ありがとう諸伏くん」
「よかったな、ヒロ」
降谷が諸伏の背中を叩くと、思いの外力が強かったのか諸伏は大きく咳き込んだ。ぎょっとしたのは{name2}だけでなく叩いた本人も予想外だったのか、慌てて諸伏の背中を擦っている。一頻り咳き込んで落ち着いてきた諸伏は「ゼロ……」降谷をじとりと睨む。おやァと{name2}が雲行きを怪しんでいると、
珍しく平謝りな降谷に、珍しくご立腹な諸伏。やれやれ、仕方ない。
トランペットを構えて大きく息を吸い込めば、二人はピタリと言い争いをやめて、{name2}を見る。戦々恐々とした表情を浮かべた男子高校生を見て、{name2}は笑う。
「喧嘩はメッ、だよ」
固まった二人を置いて、{name2}は歩き出す。そろそろ他の楽器の部員達との合奏の時間だ。夏の新たな楽しみが出来たとほくそ笑んでいれば、諸伏が声をかけてくる。
「夏祭り、楽しみにしてる!」
振り返ってみれば、ほのかに顔を上気させた諸伏がはにかんだ。
* * *
花火大会に誘われてから二週間。その間に修業式を迎え、夏季休暇に突入した。各部活動の活動は活発化し、熱を帯びる。夏の大会に向けて誰も彼もが情熱を注ぎ頑張っているんだと感じると、{name2}ももうひと頑張りしようと気合が入る。毎日朝早く登校しては下校時間限界まで練習して帰るの繰り返し、束の間の休日は宿題や花火大会に行くための前準備に費やした。光陰矢の如し。諸伏との約束をした花火大会の日をいよいよ迎えた。先生達も見回りがあるからと部活は想定よりも早く切り上げられ、普段は遅くまで自主練して帰宅する{name2}も明るい内に帰宅して浴衣に着替える準備をする。風呂場で身を清め、着付けを済ませると、軽く化粧をする。普段は日焼け止めぐらいしかしないけれど、あの恐ろしく美形のクラスメイトの隣に立つのならば最低限は身綺麗にしていたい。最後にキープメイクミストをすると、今度はヘアセットだ。難しいとヘアセットはできないが、動画サイトで見かけた簡単なシニヨンヘアにする。上手い具合にまとめ上げると、温めていたヘアアイロンで毛先を少し巻いた。最終チェックで顔を左右に傾けながら、メイクやヘアスタイルを確認すると、脱衣所を出て巾着袋にスマホとお財布とハンカチ、携帯用のウェットティッシュ、交通系ICカードを入れ、戸締まりをして会場へ向かう。
秋は夕暮れ、とはいうけれど、夏の夕暮れもあの青と黄色が混じり合うグラデーションが美しい。斜陽が水平線を煌々と燃え上がらせ、これから始まる夜を祝福するようだ。
花火大会の会場の最寄り駅は沢山の人が集まり、既にごった返している。祭りの気配に浮き足立った人々の心を映す鏡のように賑わいを見せている。この中から諸伏と降谷の二人と合流できるのだろうかと不安になるが、そういえば部活が早く切り上げになったことを連絡していなかった。慌ててスマホを取り出して先日教えてもらった諸伏のメッセージアプリのページを開く。
「――{name1}、さん?」
「――あ、うん。諸伏くんこんばんは。今日は早く終わったの」
振り返れば、驚いた表情を浮かべた諸伏が立っていた。緑青の浴衣を着ていて、普段とはまた違う雰囲気。落ち着いた風合いの浴衣が良く似合っている。かっこいいなァ。
「かわいい」
「ありがとう、この浴衣一目惚れだったの」
白地に紫、紫に近しい青の花が散りばめられたら浴衣。紺の帯。事前に見立ててくれた親友は大人しすぎないかと小首を傾げていたが、寧ろ大人っぽい雰囲気が気に入った。諸伏のにもお墨付きをいただきたいので褒められて悪い気などしない。
「{name1}さん。すごく、かわいいよ」
諸伏はふわりと花笑みを浮かべる。あまりにもきれいに笑うものだから、{name2}は息を呑んでしまう。眉目秀麗とはこのことか。そわそわと浮ついた心を鎮めるために別の話をする。
「そういえば、降谷くんとは一緒に来なかったの?」
ぱっと華やかな笑みを浮かべていたかと思えば、すっと波のように引いていき、眉尻を下げた表情が浮かぶ。
「――零は他のやつと行くことになって、俺と{name1}さんの二人だけ」
「そうなんだ」
「……零と一緒がよかった?」
「三人で楽しめたらと思ったけど、人それぞれだからね。諸伏くんこそ、降谷くんとニコイチみたいな感じだったから私と二人で良かったの?」
「……なるほど。君はそういう考えか」
ふむ、と顎に手を当てて思案するような素振りを見せた諸伏。先ほどとは打って変わって口元を綻ばせている。
「諸伏くん?」
「今日は{name1}さんと一緒がいい」
「う、うん。ありがと」
何だか胸の奥がキュウする。もしや、と脳裏を過るがすぐのその思考は打ち消した。諸伏は穏やかで誰にでも優しいから、隣の席になって少し会話するような間柄の{name2}にも優しくしてくれるだけだ。ただの厚意に好意を向けるのは自惚れだ。勘違いしてはいけない。
「諸伏くん、折角だから露店見て回ってみない?」
「うん、そうしようか」
ゆっくりと並んで歩き始める。花火大会と言えばメインは当然花火であるが、露店も楽しみの一つである。ずらりと並ぶ露店には食品を取り扱った店が多い。たこ焼きややきそば、フルーツ飴、ベビーカステラ、牛串、かき氷。どれも美味しそうに見える。芳ばしい匂いが辺りの一面に漂ってきていて食欲を唆る。食品以外では定番のお面屋や金魚すくい、ヨーヨー釣り、射的などが楽しめるようだ。
「ちょっとそこのお兄さん。射的やってみない?」
「オレ?」
射的屋の親父が諸伏に声を掛け、立ち止まる。パイプ椅子に座ってすっかり寛いでいた親父がちょいちょいと手招きするのを見て互いに顔を見合わせえう。
「彼女に射撃でかっこいいとこ見せちゃおうよ」
「やります」
「諸伏くん?! いえ、あの、私、彼女じゃ……」
「そうこなくちゃ!」
{name2}を蚊帳の外にしてトントン拍子に話が進められていく。諸伏は店主の親父から射的用の銃を受け取り何やらヒソヒソと話している。時折{name2}の方を一瞥して頷いている様子を見て、居心地の悪さを感じるが、話し終えた諸伏は「頑張れよ」と親父に背中をパンと叩かれている。デジャヴだ。
「{name1}さん、どれが欲しい?」
「え、諸伏くんの欲しいもの優先しなよ」
「オレは射的やりたいだけだから」
「そうなの?」
「うん。だから好きなの選んで」
「兄ちゃん気張れよー、ここが男の見せ所だぜ」
「うん、おじさんありがとう」
Tシャツの袖を捲って力瘤を見せ、そこをパンと叩く親父。それに呼応して諸伏も浴衣の袖を捲り、意外とガッチリとした腕をパンと叩いて笑い合っている。夏の夜の奇妙な友情。{name2}は楽しそうでいいなと眺めていると振り返った諸伏とバチリと視線が絡み合い、彼はクシャリと無邪気に笑う。トクン、と揺れる心臓を誤魔化すように胸元を両手を添える。
「{name1}さん、何がいいか決まった?」
「えっと……それじゃあ、あの子がいい」
「へぇ、ぷりんくん好きなの?」
「うん、かわいくて癒されるから好き」
犬のキャラクターの名前が書いてある的を見て、諸伏が銃を構える。銃を構えるその姿に、思わずスマホを取り出して写真を撮ると、撮られたことに気づいて少しはにかんだ。
「どうしたのいきなり?」
「今日の記念に。後で送るね」
「ええ? 自分のカッコつけてる写真は恥ずかしいな」
「いいじゃん。構えた姿がスナイパーみたいでかっこいいよ」
「え……ほんと? 絶対にぷりんちゃん取るね」
「おーい、仲良しなのは微笑ましいけどおじさんを忘れないで」
「おじさんも諸伏くんと一緒に写真どうですか?」
「え? いいの?」
くすりと笑ってカメラを構えると店の親父と一緒にピースサインを取る諸伏。写真を撮って見せると、二人は嬉しそうによく撮れてるという。
「絶対に取らないとね」
再び銃を構え直した諸伏の横顔は真剣そのもの。先程までの穏やかな雰囲気とは打って変わって声を掛けられずに{name2}はそのまま押し黙る。店の親父も固唾を呑んで見守る。決着は一瞬だ。諸伏が引き金を引いた瞬間、弾はきれいに的に当たり、地面に落ちる。一発だ。凄腕のスナイパーのように見事の命中させた。
「す、すごい! 一発で当たった!?」
「やるじゃねぇか! 兄ちゃん!」
「ふふふ。オレ、射的結構得意なんだよね」
得意げな表情で店の親父から景品のキャラクターのぬいぐるみを受け取る諸伏に{name2}はいたく感心し、尊敬の念を持って目を輝かせる。諸伏が差し出してきたぬいぐるみを見て、ハッとしてスマホを取り出すとすぐに写真を撮った。うん、かわいい。
「{name1}さん、写真じゃなくて受け取ってよ」
「ごめんね。つい撮らなきゃと思ったら……本当にいいの?」
「{name1}さんのために取ったんだからもらってくれたほうが嬉しい」
「ありがとう。大切にするね」
諸伏からぬいぐるみを受け取り、ぎゅうと抱え込む。自分のために頑張って取ってくれたのかと思うとつい口元が綻んでしまう。肌触りの良いぬいぐるみのお腹を撫でているとパシャリと機械の音。ちらりと音のした方を見れば、もう一度シャッター音が下ろされる。今度は諸伏が{name2}の写真を撮ったようだ。
「? 私の写真撮ってもなんも面白味もないよ?」
「オレも今日の記念に撮りたいなと思って、ダメだった?」
「別にいいけど……」
「よかった。……おじさん、ありがとね」
「おう、楽しんでな!」
「行こう、{name1}さん。お腹減っちゃった」
射的屋の親父に別れを告げ、{name2}と諸伏は再び露店巡りを再開する。日が暮れていくにつれて会場付近には沢山の人達が集まっているのか、歩くのもやっとである。押し合いへし合いの様相を呈した状況に、{name2}は一生懸命逸れないように諸伏の浴衣の袖を控え目に掴めば、ぱっと諸伏が{name2}の方を見た。
「も、諸伏くん……」
「{name1}さん、触れていい?」
「え?」
「手、触れていいですか?」
「う、うん」
「ごめんね、失礼します」
まるで壊れ物にでも触れるかのように、手を優しく掴まれて、そっと引き寄せられる。男の子と手を繋ぐのは初めてだ。小さい頃に遠足で同じ班の子と手を繋いだとかそういう類いはまた別だ。自分よりも大きくてゴツゴツと骨張った、男の人の手。指先が触れ合って熱い。離れないようにと絡まる大きな手にどきりとして心臓が忙しない。この手を放したくないと握り返すとピクリと揺れが伝わってきた。
途中の屋台でたこ焼きや焼きそば、かき氷を買って高台の公園に足を運ぶ。日もとっぷりと暮れ、公園は静寂に包まれている。人がぽつりぽつりといるが、閑静な住宅街を抜けた先にある高台であるからか、意外にもその存在は認知されていないらしい。東屋のベンチに腰を下ろせば、タイミングよく花火が夜空に長い尾を引いて昇っていく。パアンと花が開く。華やかに煌めいてパラパラと散っていく。間髪入れずに次弾が打ち上げられ、次々と夜空に花開いていく。喧騒は遠く、花火も少し遠いが濃紺の夜空によく木霊するため、その余韻がどこか心地良い。暫く二人は無言のまま眺めていたが、かき氷が溶け始めているのに気付き、慌てて食べ始めるとキーンとして二人してこめかみを抑えた。あまりにもシンクロした一連の流れに互いに顔を見合わせて破顔一笑した。
「――きれいだ」
「本当にきれいだね」
「今日の{name1}さんも」
「っ……」
「ほんとはね、零も一緒に来るはずだったんだけど、二人きりで行ってこいって気を遣わせちゃったんだ」
「そう、なんだ……」
動揺が隠せずに視線を膝の上に落とせば、「触れるね」と両手を包むように握られ、視線が再び諸伏の方へと向かされる。射抜かれるような視線に目を逸らすことができない。ああ、焦がされていく。
「――ねえ。オレ、{name1}さんのこと、好きだよ」
全身の細胞が震え上がり、熱を帯びていく。
「オレの、側にいて下さい」
花火が次々と咲いて眩しい筈なのに、目の前の男の人が一番輝いて見える。
――私の、好きな人
目の奥に灯る恋慕に気がつけば、内に秘めていた熱情は暴かれていく。彼の手から指先から彼の熱が伝わって、{name2}の内側から焦がしていくようだった。
この人の厚意を好意と混同させて困らせてはいけないと思っていた。席が近くなり話すようになり、近しい間柄になった頃、この感情を自覚する前に牽制され、釘を差されてきた。彼を慕う彼女たちの希う気持ちは今となっては身に沁みる。立場が違えば自分がそうだったかもしれない。それでも、望まれるならば、目の前のこの人を幸せにしたいと思うのだ。
するりと手を振り解き、今度は{name2}が諸伏の両手を包み込むようにして握る。
「私でいいのかな?」
「{name1}さんがいい」
「私、部活で手一杯になるかもしれないけど?」
「大丈夫。オレ、{name1}さんが自主練してるの聴くの好きだったから!」
「え、聴いてたの? 知らなかった」
「あ」
しまったと咄嗟に口元を押さえた諸伏を見て、{name2}は呆気に取られたがクスクスと笑う。優しく詰問すれば、恥ずかしそうに顔を両手で覆う。{name2}の練習の邪魔になると嫌だったから知られたくなかったらしい。情感豊かに歌う{name2}のトランペットの音色に心打たれてからひっそりと耳を傾けていたと白状した。{name2}は諸伏のこういった思いやりを好ましく思っていて、彼の美徳であると思う。{name2}の好きになった男の良いところだ。
{name2}は諸伏の両手を取って目を覗き込むと、優しく語りかける。
愛を、歌うように。
「諸伏くん」
「なあに?」
「私も諸伏くんのこと好きだよ」
色とりどりの花火が夜空に花開く。
まるで二人の愛を祝福するように。
25.07.22 初出 『きみの名を、灯すように』
喫煙者の同期の女と松田陣平
「よォ、元気か」
「やあ松田くん。今日も元気にニコチン摂取しておるよ」
「俺が言うのも何だけどよ、ニコチンは元気に摂取するもんじゃねぇと思う」
一仕事終えた松田陣平は気分転換も兼ねて庁内の喫煙所に足を運んだ。見慣れてしまった喫煙所の薄暗さや古びた長椅子、申し訳程度に置かれた部屋の隅の萎びた観葉植物。その喫煙所に身を潜ませるように座っていた先客を見つけ声を掛ける。同期の女だ。交通課所属する彼女は同じ警察学校での顔見知り程度ですれ違えば声を掛ける程度の仲ではあったが、この喫煙所で鉢合わせるようになってからは時折こうして世間話をしたり、食事に出かけたりしている。真面目で堅物なタイプかとも思えばおおらか。飄々としたタイプであったが、同期に休憩が長いと怒られながら引きづられていくダメなところもあるが、それは休憩中だけの話であって、仕事はさすがにきっちりとこなしているらしい。無色透明のような女であるが、付かず離れずと適度な距離感を保つので気の置けない女友達と言ったところ、であろうか。
地べたに座ってぼんやりしていた同期の女は、恐らくここで眠っていたのだろう。まだ寝惚けた顔をしている。警察官という職業柄、男性警察官の方が多数派だ。女性警察官も増えつつあるが、就業比率としてもまだまだ男性が多い。男社会の風潮がまだ尾を引くこともあるため、誰でも出入り可能な空間で無防備に寝入る姿を晒すなど危機感がない。
「お前、俺が来るまで寝てただろ」
「ん……少し立て込んでてね。うっかり、うっかり」
「気をつけろよ。誰もが優しい訳じゃねぇぞ」
「ん」
じとりと睨めつけるがまだぼんやりしているこの女には暖簾に腕押しだ。やれやれ、これでは先が思いやられる。松田が大きな溜息をつきながらぐしゃぐしゃと髪を搔いているのを尻目に、女はシガレットケースから一本煙草を取り出すと、口に咥えた。今度はマッチケースからマッチを一本取り出し、手慣れた手つきで火を灯すと、火種を手で囲うようにして咥えた煙草の先に火を灯す。マッチの炎を振って消すと、ふうと煙を吐いた。
その流れるような一連の動作を見て、そういえば自分も喫煙しに来たのだったと松田は思い出す。胸ポケットからシガレットケースを取り出して更にそこから煙草を一本。口に咥えると、手持ちのライターで着火を試みる。ライターの着火ボタンを押すが、ぼっと一瞬音が鳴るだけで火がつかない。もう一度試してみるが、どうも火がつかない。オイル切れか。ついていない。予備などは生憎持っていない。松田は仕方なく女に手を差し出してマッチを乞う。
「なぁ、マッチくれ」
「んー、マッチ? ……ごめん、マッチはさっきので品切れだ」
「あ? まじかよ。……お前、ライターなんっつーもんは」
「無いね」
「ついてねぇ……」
ぐしぐしと苛立ちで再び髪をかき混ぜていると、ふうと息を吐いた女は、気怠げにゆらりと立ち上がる。松田の腕を掴むとくいくいと袖を引っ張った。何だなんだ。松田は怪訝に思いながら視線を女に向けた。松田を見上げるように立った女の目の下には血色の悪いクマが浮かんでいる。立て込んでいると言っていたのを思い出し、思わず憐憫を寄せる。
「松田くん」
「あ?」
「少し屈んでくれる?」
「? なんだ、よ……!?」
思わず煙草を落としそうになるのを慌てて咥え直す。女は、己の身長に合わせて屈んだ松田の煙草の先端に自分の煙草の先端を押し当てた。
――シガーキスだ。
これには松田も瞠目する。一層近づいた女の息遣いがやけに生々しく感ぜられて、凝視した。伏し目がちの瞼を彩るまつげ、煙草を咥えたルージュの赤。じりじりと焦がされているのは煙草だけではない。互いに接した部分が熱で焦がされていき、やがて細い煙が立ち始める。徐々に熱を帯び、火種は火が燃え移る。
伏せられた瞳が、松田を映し、視線が絡み合う。その瞳の灯火に触れたい。ふうと吐いた息が、松田に降りかかる。
「――火着いたね」
「……サンキュ」
「一回やってみたかったんだよね、これ」
悪戯っ子のようにうししっと歯を見せて笑う女。思わず息を呑み込んでその顔を凝視してしまったが、この女のペースだ。振り回されていると気づくと徐々に腹立たしさが湧いてくる。人の気も知らないでよくもまあ。己が咥えていた煙草を口から放した。女の煙草を引ったくるとそれを灰皿に押し付けた。あ、と女が非難の声を上げるのを無視して、煙を彼女の顔へとけしかける。
「げほっごほっ! ま、松田、くん!? 何!?」
「煙草じゃなくて本当はこっちがお望みなんだろう?」
「!?」
自分の煙草を灰皿に置いて、女の頬を掴む。親指の腹で柔らかい唇をつつけば、目を見開いて後退りしようとするので、にやりと笑う。
「煙草を相手に意図して吹きかける意味、それぐらいわかるだろう?」
「っ……」
頬を赤らめて狼狽える女の姿を見て、背筋がゾクリとする。随分と可愛い反応をするものだ。自分から線引きをしていたというのに。
「なぁ、逃げるなら今の内だぜ?」
――逃がしやしないけれど。
その言葉は心音で秘めて、唇をやわやわと指先で弄べば、女の瞳の奥が揺らめいた。
「……うそつき。逃がしちゃくれないくせに」
「待ってやってんだから俺にしては優しい方だぜ?」
「逃してはくれないのね」
「捕まえて欲しいくせに」
互いにじっと見つめ合い、破顔する。女は松田に抱き着き、松田もその背中に腕を回す。すっぽりと腕の中に収まった女の身体は熱を帯びて温かい。コツンと松田の胸に、女の頭が預けられる。その背中を撫でれば、ぐりぐりと頭を押し付けてくる。甘えられていると思うと、可愛げがあるものだ。
「あーあ。捕まっちゃったなあ」
「おー。観念しろ、不良刑事」
「松田くん、萩原くんに一途だから諦めようと思ったのにな」
「あ? 萩とそんなんじゃねぇよ!」
「知ってるよ。君が親友の事で一生懸命なの。……だから私の気持ち、邪魔になるんじゃないかって思ってたの」
「……馬鹿野郎」
「たまに構ってくれればいいよ」
「だから馬鹿だって言ってんだよ」
「さすがにバカバカ言い過ぎ!」
ぐわっと顔を上げた女の両頬をぐいっと掴む。そのまま黙らせるように唇に噛み付いた。驚いた女はビクリと体を揺らしたが、そのまま目を瞑り、松田からの口付けを享受していた。ちゅとわざとらしく音を立てて離れると、女は照れくさそうに視線が外していく。灰皿に手を伸ばして、松田が吸っていた煙草を咥えると煙を吸い込んで、松田に吹きかけた。
「――さすがにもう行かないと」
「今夜は帰って来れるのか?」
「誘ったんだから帰るよ、また連絡する」
女はにっと笑って、咥えていた煙草を松田の口に咥えさせると、そのまま喫煙室を出ていった。
短くなってきた煙草を一吸いし、ふうと紫煙を燻らせる。メール画面を開き、宛名のない手紙へ女の事を書き連ねると、さてもう一仕事するかと灰皿に煙草を押し付ける。
喫煙所を出た瞬間に、女から来たメッセージに「降谷に怒られた」と想像に難くないメッセージが飛んで来てにやりと笑ったが、松田どこだと自分を呼ぶ怒号が聞こえてきて、慌てて走り出した。
25.06.22 初出 『キックバック』
「よォ、元気か」
「やあ松田くん。今日も元気にニコチン摂取しておるよ」
「俺が言うのも何だけどよ、ニコチンは元気に摂取するもんじゃねぇと思う」
一仕事終えた松田陣平は気分転換も兼ねて庁内の喫煙所に足を運んだ。見慣れてしまった喫煙所の薄暗さや古びた長椅子、申し訳程度に置かれた部屋の隅の萎びた観葉植物。その喫煙所に身を潜ませるように座っていた先客を見つけ声を掛ける。同期の女だ。交通課所属する彼女は同じ警察学校での顔見知り程度ですれ違えば声を掛ける程度の仲ではあったが、この喫煙所で鉢合わせるようになってからは時折こうして世間話をしたり、食事に出かけたりしている。真面目で堅物なタイプかとも思えばおおらか。飄々としたタイプであったが、同期に休憩が長いと怒られながら引きづられていくダメなところもあるが、それは休憩中だけの話であって、仕事はさすがにきっちりとこなしているらしい。無色透明のような女であるが、付かず離れずと適度な距離感を保つので気の置けない女友達と言ったところ、であろうか。
地べたに座ってぼんやりしていた同期の女は、恐らくここで眠っていたのだろう。まだ寝惚けた顔をしている。警察官という職業柄、男性警察官の方が多数派だ。女性警察官も増えつつあるが、就業比率としてもまだまだ男性が多い。男社会の風潮がまだ尾を引くこともあるため、誰でも出入り可能な空間で無防備に寝入る姿を晒すなど危機感がない。
「お前、俺が来るまで寝てただろ」
「ん……少し立て込んでてね。うっかり、うっかり」
「気をつけろよ。誰もが優しい訳じゃねぇぞ」
「ん」
じとりと睨めつけるがまだぼんやりしているこの女には暖簾に腕押しだ。やれやれ、これでは先が思いやられる。松田が大きな溜息をつきながらぐしゃぐしゃと髪を搔いているのを尻目に、女はシガレットケースから一本煙草を取り出すと、口に咥えた。今度はマッチケースからマッチを一本取り出し、手慣れた手つきで火を灯すと、火種を手で囲うようにして咥えた煙草の先に火を灯す。マッチの炎を振って消すと、ふうと煙を吐いた。
その流れるような一連の動作を見て、そういえば自分も喫煙しに来たのだったと松田は思い出す。胸ポケットからシガレットケースを取り出して更にそこから煙草を一本。口に咥えると、手持ちのライターで着火を試みる。ライターの着火ボタンを押すが、ぼっと一瞬音が鳴るだけで火がつかない。もう一度試してみるが、どうも火がつかない。オイル切れか。ついていない。予備などは生憎持っていない。松田は仕方なく女に手を差し出してマッチを乞う。
「なぁ、マッチくれ」
「んー、マッチ? ……ごめん、マッチはさっきので品切れだ」
「あ? まじかよ。……お前、ライターなんっつーもんは」
「無いね」
「ついてねぇ……」
ぐしぐしと苛立ちで再び髪をかき混ぜていると、ふうと息を吐いた女は、気怠げにゆらりと立ち上がる。松田の腕を掴むとくいくいと袖を引っ張った。何だなんだ。松田は怪訝に思いながら視線を女に向けた。松田を見上げるように立った女の目の下には血色の悪いクマが浮かんでいる。立て込んでいると言っていたのを思い出し、思わず憐憫を寄せる。
「松田くん」
「あ?」
「少し屈んでくれる?」
「? なんだ、よ……!?」
思わず煙草を落としそうになるのを慌てて咥え直す。女は、己の身長に合わせて屈んだ松田の煙草の先端に自分の煙草の先端を押し当てた。
――シガーキスだ。
これには松田も瞠目する。一層近づいた女の息遣いがやけに生々しく感ぜられて、凝視した。伏し目がちの瞼を彩るまつげ、煙草を咥えたルージュの赤。じりじりと焦がされているのは煙草だけではない。互いに接した部分が熱で焦がされていき、やがて細い煙が立ち始める。徐々に熱を帯び、火種は火が燃え移る。
伏せられた瞳が、松田を映し、視線が絡み合う。その瞳の灯火に触れたい。ふうと吐いた息が、松田に降りかかる。
「――火着いたね」
「……サンキュ」
「一回やってみたかったんだよね、これ」
悪戯っ子のようにうししっと歯を見せて笑う女。思わず息を呑み込んでその顔を凝視してしまったが、この女のペースだ。振り回されていると気づくと徐々に腹立たしさが湧いてくる。人の気も知らないでよくもまあ。己が咥えていた煙草を口から放した。女の煙草を引ったくるとそれを灰皿に押し付けた。あ、と女が非難の声を上げるのを無視して、煙を彼女の顔へとけしかける。
「げほっごほっ! ま、松田、くん!? 何!?」
「煙草じゃなくて本当はこっちがお望みなんだろう?」
「!?」
自分の煙草を灰皿に置いて、女の頬を掴む。親指の腹で柔らかい唇をつつけば、目を見開いて後退りしようとするので、にやりと笑う。
「煙草を相手に意図して吹きかける意味、それぐらいわかるだろう?」
「っ……」
頬を赤らめて狼狽える女の姿を見て、背筋がゾクリとする。随分と可愛い反応をするものだ。自分から線引きをしていたというのに。
「なぁ、逃げるなら今の内だぜ?」
――逃がしやしないけれど。
その言葉は心音で秘めて、唇をやわやわと指先で弄べば、女の瞳の奥が揺らめいた。
「……うそつき。逃がしちゃくれないくせに」
「待ってやってんだから俺にしては優しい方だぜ?」
「逃してはくれないのね」
「捕まえて欲しいくせに」
互いにじっと見つめ合い、破顔する。女は松田に抱き着き、松田もその背中に腕を回す。すっぽりと腕の中に収まった女の身体は熱を帯びて温かい。コツンと松田の胸に、女の頭が預けられる。その背中を撫でれば、ぐりぐりと頭を押し付けてくる。甘えられていると思うと、可愛げがあるものだ。
「あーあ。捕まっちゃったなあ」
「おー。観念しろ、不良刑事」
「松田くん、萩原くんに一途だから諦めようと思ったのにな」
「あ? 萩とそんなんじゃねぇよ!」
「知ってるよ。君が親友の事で一生懸命なの。……だから私の気持ち、邪魔になるんじゃないかって思ってたの」
「……馬鹿野郎」
「たまに構ってくれればいいよ」
「だから馬鹿だって言ってんだよ」
「さすがにバカバカ言い過ぎ!」
ぐわっと顔を上げた女の両頬をぐいっと掴む。そのまま黙らせるように唇に噛み付いた。驚いた女はビクリと体を揺らしたが、そのまま目を瞑り、松田からの口付けを享受していた。ちゅとわざとらしく音を立てて離れると、女は照れくさそうに視線が外していく。灰皿に手を伸ばして、松田が吸っていた煙草を咥えると煙を吸い込んで、松田に吹きかけた。
「――さすがにもう行かないと」
「今夜は帰って来れるのか?」
「誘ったんだから帰るよ、また連絡する」
女はにっと笑って、咥えていた煙草を松田の口に咥えさせると、そのまま喫煙室を出ていった。
短くなってきた煙草を一吸いし、ふうと紫煙を燻らせる。メール画面を開き、宛名のない手紙へ女の事を書き連ねると、さてもう一仕事するかと灰皿に煙草を押し付ける。
喫煙所を出た瞬間に、女から来たメッセージに「降谷に怒られた」と想像に難くないメッセージが飛んで来てにやりと笑ったが、松田どこだと自分を呼ぶ怒号が聞こえてきて、慌てて走り出した。
25.06.22 初出 『キックバック』
大学3,4年ぐらいの萩原研二とバイクタンデム
好きなアーティストが歌う自転車の歌に憧れていた。自転車の荷台に乗って、二人で楽しく背中越しに話をしたり、時にはご機嫌に鼻歌を歌ったり、時にはペダルを漕ぐ背中を応援したり、そんなレモンソーダみたいな青春に憧れていた。二人乗りするような気の置けない相手とならばどこまでも行けそうな気がして、いつか誰かとそういう間柄になれればよいと思った。
ジメジメとした梅雨空に、珍しく光が差し込んだ昼下がり。うっすらと汗ばむ陽気に暑さ慣れしていない身体はへこたれて、コンビニでチューブ型のアイスを買い、半分こした。コンビニ前で凍った容器を揉み込んで中身を解していると、向かいの道路を二人乗りして楽しそうに笑い合う男子高校生と女子高校生目の前を通り過ぎていった。その背中に萩原は大声で呼び掛ける。
「おーい、自転車の二人乗りは危ないぞ!」
「大丈夫でーす! 安全運転しまーす!」
「そういう問題じゃ! おい! おーい! ……ああ、行っちまった」
「確かに危ないけど私は自転車の二人乗りって、青春の縮図みたいで少し憧れる」
そう呟いて近づけば、萩原は意外だと思ったらしく、私の方を向いてパチパチと瞬きをした。
「{name1}ちゃんって、意外とそういう乙女なところあるんだね」
「は? 萩原くん、私のことなんだと思っているの?」
「いや、馬鹿にしてるんじゃないよ。いつものクールな{name1}ちゃんもいいけど、かわいい{name1}ちゃんもいいなァ、って思ったんだ」
「どうせ可愛げのない女だよ」
フンと自嘲するが、萩原に至っては神妙な顔つきで答える。
「{name1}ちゃんはかわいいよ。普段の{name1}ちゃんの気の置けない感じも気に入ってるんだけど、新しい一面見れて嬉しい」
「……そうかい、ありがとう」
屈託のない笑みを浮かべる萩原に、視線を逸らす。よくもまあ恥ずかしげもなく口の回ることだと。それでも、こうして恥ずかしげもなく素直に言葉を告げるからこそ、沢山の人間から好意を寄せられるのだろう。真摯な言葉は心に響く。聞いているこちらはこそばゆくなるものだが、この男はさらりと言ってのける。それはこの男の美徳だ。松田には爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいだ。
「気持ちはわかったけど、さっきの自転車で二人乗りは危ないからだめだよ、{name1}ちゃん」
「それはわかるんだけど、憧れはあってもいいでしょう」
「うーん、わかるけどさぁ……あ、それじゃあタンデム自転車は?」
「タンデムはまた別でしょ」
「あは、やっぱり?」
柔らかくなったチューブ型アイスの封を切り、齧りつく。体温で柔らかくなったアイスはシャーベット状になって、ちゅるりと出てくる。甘みのあるコーヒー味と程よいシャーベットの食感がひんやりと喉を潤して、心地よい。
先程の二人乗りの高校生の走っていった方を見れば、遠くの方でねずみ取りのパトカーに捕まっている。ご愁傷様。
「……まあ、憧れるけれどもやっぱり危ないものね」
「……」
「萩原?」
高校生達が走っていった方を暫く見ていた萩原は閃いたという顔をして、私の方を向いた。名案だというように顔を輝かせている。
「{name1}ちゃん! 今度の休みの日いつ?」
「え?」
「俺と青春しに行こ!」
「は?」
訝る私を尻目に、萩原は上機嫌でチューブ型アイスを食べ切るとゴミ箱に捨てた。
* * *
「おはよう、{name1}ちゃん! 出かけよう!」
「…………まだ夜明け前だよ、萩原」
ピンポンとアパートのチャイムが鳴り、恐る恐るドアスコープを覗いてみれば、萩原が満面の笑みで立っていた。廊下の蛍光灯が静かに光っている。遠くで新聞配達のバイクの音が聞こえる程度の静寂に包まれており、外はまだとっぷりと暗闇に支配されている。太陽が日の出の時間を間違えたようなものかとのろのろと玄関の施錠を開けて室内に招き入れれば、満面の笑みを浮かべていた萩原は私を見るなり目を見開いて、宙に視線を彷徨わせた。寝起きで顔が浮腫んでそうだから見苦しかったのならば不可抗力であるから勘弁して欲しい。
「あー……あまり薄着で寝たら風邪をひくよ、{name1}ちゃん」
「ん……そうは言ってももう夏だし暑いよ……萩原の格好も暑そう」
「ああ、バイク乗ってきたからさ。ライダースーツ着てきたんだ。それより、出かける準備しようぜ」
「こんな早くからどこ行くの?」
「んー、どこがいい?」
「ええ? 決めてないの? 決めてるのかと思ったよ?」
リビングへと案内しようと促すと、萩原は首を振って玄関で待ってると言って、上り框に座り込む。こうなれば玄関で待つつもりなのだろう。わざわざ迎えに来てくれたからのだから支度ができるまではゆっくり寛いでほしいのだが、きっと首を縦には振らないだろう。
「わかった。支度急ぐね」
「いいよ。{name1}ちゃんのこと待ってるの好きだから」
「…………すぐ準備する。待ってて」
「ん」
冷蔵庫に入っていたお茶をグラスに注いで手渡すと、急いで支度を始める。
「あ」
「? どうかした?」
「ううん。なんでもない」
ドアを開いた瞬間に萩原が目を逸らす訳だ。キャミソールと三分丈程のルームウェア用の短パン姿で来客対応するなんて慎みがないと思ったのだろう。やんわりと注意してくれていたのだと今更気づく。ちらりと玄関の萩原を見れば、こちらに背を向けて麦茶を飲んでいるようだった。洗顔から化粧、ヘアメイクを時短で済ませ、風通しの良い白の綿ブラウスに、動きやすいレギンスパンツ、軽く羽織るUVカットのパーカーを羽織る。リュックにハンカチとちり紙、化粧ポーチ、スマホ、モバイルバッテリー、二人分のペットボトルのお茶を適当に詰めると萩原と一緒に部屋を出た。
相も変わらず夜の空気が充満している。放射冷却で昨日の日中よりもひんやりとした空気を纏った夜は心地良い。施錠をして、階下へと降りれば先に降りていた萩原は自分のバイクに跨って待っていた。街頭に照らされた萩原。
――ライダースーツ姿の萩原かっこいいな。
すらりとした萩原によく似合う。まじまじと眺めていれば、早くおいでと手招きするので促されるままに萩原に近づいていった。
「お待たせ」
「ううん。{name1}ちゃんとツーリング楽しみにしてたから待つ時間も楽しいよ」
「そ、う……」
――萩原研二、本当によくできた男である。
「安全運転最優先で行くから安心してな」
「萩原のこと信頼してるからそこは気にしてないけど」
「ほんと? 嬉しいこと言ってくれるねぇ」
萩原はにかりと笑って、私の髪をグシャグシャに撫でつける。わっと軽い悲鳴を上げた私を無視して一頻り撫でると、ヘルメットを付けられる。キツくないと確認されて首肯すると、よしと満足そうな表情を浮かべ、萩原も自身のヘルメットを被った。後ろ手にタンデムシートをポンポンと叩いた。恐る恐る萩原に跨ると彼は楽しそうに言う。
「あはは! {name1}ちゃん、緊張しすぎだよ」
「だってバイク乗ったことないし、ドキドキするよ」
「二人乗り夢だったんだから今日は思いっきり青春しようよ!」
「あ、覚えてたんだ」
「忘れるわけないよ、気になる子の事だもん」
「安全の為に俺の腰に掴まってね」
「う、うん」
ドギマギしながら萩原の腰に腕を回すと、ピクリと萩原の体が揺れる。腕の力加減が強すぎたかと少し緩めようとすれば、萩原の手の大きな手が私の手に添えられる。すりすりと撫でられる。そっと抱き着く力を込め直せば、バイクが嘶いた。ゆっくりと走り出したバイクが徐々に速度を上げてあっという間に市街地を抜けていく。景色は吹き飛んでいき、風を切って駆けていく様はすいすいと水中を泳ぐペンギンのように早く、心も疾走していく。バイクが風切る音とエンジンの音で他は何も聞こえない。空に薄っすらと灯りが垂れ込め始める。
――ああ、夜が明けて朝が来る。
富士山が見え始め、稜線がキラキラと白み始め、光が満ち始めてくる。その眩さは新しい朝を祝福するようで美しい。息を呑み、感嘆が漏れる。これも萩原が私の憧れを叶えてくれたから見られた景色だ。萩原が私に光りをくれる。
私は、萩原の何を与えられるのだろうか。
「――好きだ、萩原」
背中にそっと頭をくっつけて、しっかりと抱き締める。背中を通して心臓の音が伝わってしまっているかもしれないことが少しだけ怖いけれど、伝わっているといい。萩原が向けてくれている好意に期待してもいいだろうか。
「{name1}ちゃん、どう? 青春できてる?」
赤信号で止まると、萩原はちらりと私の方を向く。ふにゃりとだらしない、幸せそうな顔をしている萩原を見て、私までふにゃりとだらしない顔をして笑ってしまう。
「うん、キラキラしてる」
信号が青になり、再び走り出す。どこまでもどこまでも。愛おしい、という感情が風に乗って駆け抜けていく。
25.06.15 初出 『夜明けのアクセル』
好きなアーティストが歌う自転車の歌に憧れていた。自転車の荷台に乗って、二人で楽しく背中越しに話をしたり、時にはご機嫌に鼻歌を歌ったり、時にはペダルを漕ぐ背中を応援したり、そんなレモンソーダみたいな青春に憧れていた。二人乗りするような気の置けない相手とならばどこまでも行けそうな気がして、いつか誰かとそういう間柄になれればよいと思った。
ジメジメとした梅雨空に、珍しく光が差し込んだ昼下がり。うっすらと汗ばむ陽気に暑さ慣れしていない身体はへこたれて、コンビニでチューブ型のアイスを買い、半分こした。コンビニ前で凍った容器を揉み込んで中身を解していると、向かいの道路を二人乗りして楽しそうに笑い合う男子高校生と女子高校生目の前を通り過ぎていった。その背中に萩原は大声で呼び掛ける。
「おーい、自転車の二人乗りは危ないぞ!」
「大丈夫でーす! 安全運転しまーす!」
「そういう問題じゃ! おい! おーい! ……ああ、行っちまった」
「確かに危ないけど私は自転車の二人乗りって、青春の縮図みたいで少し憧れる」
そう呟いて近づけば、萩原は意外だと思ったらしく、私の方を向いてパチパチと瞬きをした。
「{name1}ちゃんって、意外とそういう乙女なところあるんだね」
「は? 萩原くん、私のことなんだと思っているの?」
「いや、馬鹿にしてるんじゃないよ。いつものクールな{name1}ちゃんもいいけど、かわいい{name1}ちゃんもいいなァ、って思ったんだ」
「どうせ可愛げのない女だよ」
フンと自嘲するが、萩原に至っては神妙な顔つきで答える。
「{name1}ちゃんはかわいいよ。普段の{name1}ちゃんの気の置けない感じも気に入ってるんだけど、新しい一面見れて嬉しい」
「……そうかい、ありがとう」
屈託のない笑みを浮かべる萩原に、視線を逸らす。よくもまあ恥ずかしげもなく口の回ることだと。それでも、こうして恥ずかしげもなく素直に言葉を告げるからこそ、沢山の人間から好意を寄せられるのだろう。真摯な言葉は心に響く。聞いているこちらはこそばゆくなるものだが、この男はさらりと言ってのける。それはこの男の美徳だ。松田には爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいだ。
「気持ちはわかったけど、さっきの自転車で二人乗りは危ないからだめだよ、{name1}ちゃん」
「それはわかるんだけど、憧れはあってもいいでしょう」
「うーん、わかるけどさぁ……あ、それじゃあタンデム自転車は?」
「タンデムはまた別でしょ」
「あは、やっぱり?」
柔らかくなったチューブ型アイスの封を切り、齧りつく。体温で柔らかくなったアイスはシャーベット状になって、ちゅるりと出てくる。甘みのあるコーヒー味と程よいシャーベットの食感がひんやりと喉を潤して、心地よい。
先程の二人乗りの高校生の走っていった方を見れば、遠くの方でねずみ取りのパトカーに捕まっている。ご愁傷様。
「……まあ、憧れるけれどもやっぱり危ないものね」
「……」
「萩原?」
高校生達が走っていった方を暫く見ていた萩原は閃いたという顔をして、私の方を向いた。名案だというように顔を輝かせている。
「{name1}ちゃん! 今度の休みの日いつ?」
「え?」
「俺と青春しに行こ!」
「は?」
訝る私を尻目に、萩原は上機嫌でチューブ型アイスを食べ切るとゴミ箱に捨てた。
* * *
「おはよう、{name1}ちゃん! 出かけよう!」
「…………まだ夜明け前だよ、萩原」
ピンポンとアパートのチャイムが鳴り、恐る恐るドアスコープを覗いてみれば、萩原が満面の笑みで立っていた。廊下の蛍光灯が静かに光っている。遠くで新聞配達のバイクの音が聞こえる程度の静寂に包まれており、外はまだとっぷりと暗闇に支配されている。太陽が日の出の時間を間違えたようなものかとのろのろと玄関の施錠を開けて室内に招き入れれば、満面の笑みを浮かべていた萩原は私を見るなり目を見開いて、宙に視線を彷徨わせた。寝起きで顔が浮腫んでそうだから見苦しかったのならば不可抗力であるから勘弁して欲しい。
「あー……あまり薄着で寝たら風邪をひくよ、{name1}ちゃん」
「ん……そうは言ってももう夏だし暑いよ……萩原の格好も暑そう」
「ああ、バイク乗ってきたからさ。ライダースーツ着てきたんだ。それより、出かける準備しようぜ」
「こんな早くからどこ行くの?」
「んー、どこがいい?」
「ええ? 決めてないの? 決めてるのかと思ったよ?」
リビングへと案内しようと促すと、萩原は首を振って玄関で待ってると言って、上り框に座り込む。こうなれば玄関で待つつもりなのだろう。わざわざ迎えに来てくれたからのだから支度ができるまではゆっくり寛いでほしいのだが、きっと首を縦には振らないだろう。
「わかった。支度急ぐね」
「いいよ。{name1}ちゃんのこと待ってるの好きだから」
「…………すぐ準備する。待ってて」
「ん」
冷蔵庫に入っていたお茶をグラスに注いで手渡すと、急いで支度を始める。
「あ」
「? どうかした?」
「ううん。なんでもない」
ドアを開いた瞬間に萩原が目を逸らす訳だ。キャミソールと三分丈程のルームウェア用の短パン姿で来客対応するなんて慎みがないと思ったのだろう。やんわりと注意してくれていたのだと今更気づく。ちらりと玄関の萩原を見れば、こちらに背を向けて麦茶を飲んでいるようだった。洗顔から化粧、ヘアメイクを時短で済ませ、風通しの良い白の綿ブラウスに、動きやすいレギンスパンツ、軽く羽織るUVカットのパーカーを羽織る。リュックにハンカチとちり紙、化粧ポーチ、スマホ、モバイルバッテリー、二人分のペットボトルのお茶を適当に詰めると萩原と一緒に部屋を出た。
相も変わらず夜の空気が充満している。放射冷却で昨日の日中よりもひんやりとした空気を纏った夜は心地良い。施錠をして、階下へと降りれば先に降りていた萩原は自分のバイクに跨って待っていた。街頭に照らされた萩原。
――ライダースーツ姿の萩原かっこいいな。
すらりとした萩原によく似合う。まじまじと眺めていれば、早くおいでと手招きするので促されるままに萩原に近づいていった。
「お待たせ」
「ううん。{name1}ちゃんとツーリング楽しみにしてたから待つ時間も楽しいよ」
「そ、う……」
――萩原研二、本当によくできた男である。
「安全運転最優先で行くから安心してな」
「萩原のこと信頼してるからそこは気にしてないけど」
「ほんと? 嬉しいこと言ってくれるねぇ」
萩原はにかりと笑って、私の髪をグシャグシャに撫でつける。わっと軽い悲鳴を上げた私を無視して一頻り撫でると、ヘルメットを付けられる。キツくないと確認されて首肯すると、よしと満足そうな表情を浮かべ、萩原も自身のヘルメットを被った。後ろ手にタンデムシートをポンポンと叩いた。恐る恐る萩原に跨ると彼は楽しそうに言う。
「あはは! {name1}ちゃん、緊張しすぎだよ」
「だってバイク乗ったことないし、ドキドキするよ」
「二人乗り夢だったんだから今日は思いっきり青春しようよ!」
「あ、覚えてたんだ」
「忘れるわけないよ、気になる子の事だもん」
「安全の為に俺の腰に掴まってね」
「う、うん」
ドギマギしながら萩原の腰に腕を回すと、ピクリと萩原の体が揺れる。腕の力加減が強すぎたかと少し緩めようとすれば、萩原の手の大きな手が私の手に添えられる。すりすりと撫でられる。そっと抱き着く力を込め直せば、バイクが嘶いた。ゆっくりと走り出したバイクが徐々に速度を上げてあっという間に市街地を抜けていく。景色は吹き飛んでいき、風を切って駆けていく様はすいすいと水中を泳ぐペンギンのように早く、心も疾走していく。バイクが風切る音とエンジンの音で他は何も聞こえない。空に薄っすらと灯りが垂れ込め始める。
――ああ、夜が明けて朝が来る。
富士山が見え始め、稜線がキラキラと白み始め、光が満ち始めてくる。その眩さは新しい朝を祝福するようで美しい。息を呑み、感嘆が漏れる。これも萩原が私の憧れを叶えてくれたから見られた景色だ。萩原が私に光りをくれる。
私は、萩原の何を与えられるのだろうか。
「――好きだ、萩原」
背中にそっと頭をくっつけて、しっかりと抱き締める。背中を通して心臓の音が伝わってしまっているかもしれないことが少しだけ怖いけれど、伝わっているといい。萩原が向けてくれている好意に期待してもいいだろうか。
「{name1}ちゃん、どう? 青春できてる?」
赤信号で止まると、萩原はちらりと私の方を向く。ふにゃりとだらしない、幸せそうな顔をしている萩原を見て、私までふにゃりとだらしない顔をして笑ってしまう。
「うん、キラキラしてる」
信号が青になり、再び走り出す。どこまでもどこまでも。愛おしい、という感情が風に乗って駆け抜けていく。
25.06.15 初出 『夜明けのアクセル』
大学3,4年萩原研二とバイクタンデム
好きなアーティストが歌う自転車の歌に憧れていた。自転車の荷台に乗って、二人で楽しく背中越しに話をしたり、時にはご機嫌に鼻歌を歌ったり、時にはペダルを漕ぐ背中を応援したり、そんなレモンソーダみたいな青春に憧れていた。二人乗りするような気の置けない相手とならばどこまでも行けそうな気がして、いつか誰かとそういう間柄になれればよいと思った。
ジメジメとした梅雨空に、珍しく光が差し込んだ昼下がり。うっすらと汗ばむ陽気に暑さ慣れしていない身体はへこたれて、コンビニでチューブ型のアイスを買い、半分こした。コンビニ前で凍った容器を揉み込んで中身を解していると、向かいの道路を二人乗りして楽しそうに笑い合う男子高校生と女子高校生目の前を通り過ぎていった。その背中に萩原は大声で呼び掛ける。
「おーい、自転車の二人乗りは危ないぞ!」
「大丈夫でーす! 安全運転しまーす!」
「そういう問題じゃ! おい! おーい! ……ああ、行っちまった」
「確かに危ないけど私は自転車の二人乗りって、青春の縮図みたいで少し憧れる」
そう呟いて近づけば、萩原は意外だと思ったらしく、私の方を向いてパチパチと瞬きをした。
「{name1}ちゃんって、意外とそういう乙女なところあるんだね」
「は? 萩原くん、私のことなんだと思っているの?」
「いや、馬鹿にしてるんじゃないよ。いつものクールな{name1}ちゃんもいいけど、かわいい{name1}ちゃんもいいなァ、って思ったんだ」
「どうせ可愛げのない女だよ」
フンと自嘲するが、萩原に至っては神妙な顔つきで答える。
「{name1}ちゃんはかわいいよ。普段の{name1}ちゃんの気の置けない感じも気に入ってるんだけど、新しい一面見れて嬉しい」
「……そうかい、ありがとう」
屈託のない笑みを浮かべる萩原に、視線を逸らす。よくもまあ恥ずかしげもなく口の回ることだと。それでも、こうして恥ずかしげもなく素直に言葉を告げるからこそ、沢山の人間から好意を寄せられるのだろう。真摯な言葉は心に響く。聞いているこちらはこそばゆくなるものだが、この男はさらりと言ってのける。それはこの男の美徳だ。松田には爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいだ。
「気持ちはわかったけど、さっきの自転車で二人乗りは危ないからだめだよ、{name1}ちゃん」
「それはわかるんだけど、憧れはあってもいいでしょう」
「うーん、わかるけどさぁ……あ、それじゃあタンデム自転車は?」
「タンデムはまた別でしょ」
「あは、やっぱり?」
柔らかくなったチューブ型アイスの封を切り、齧りつく。体温で柔らかくなったアイスはシャーベット状になって、ちゅるりと出てくる。甘みのあるコーヒー味と程よいシャーベットの食感がひんやりと喉を潤して、心地よい。
先程の二人乗りの高校生の走っていった方を見れば、遠くの方でねずみ取りのパトカーに捕まっている。ご愁傷様。
「……まあ、憧れるけれどもやっぱり危ないものね」
「……」
「萩原?」
高校生達が走っていった方を暫く見ていた萩原は閃いたという顔をして、私の方を向いた。名案だというように顔を輝かせている。
「{name1}ちゃん! 今度の休みの日いつ?」
「え?」
「俺と青春しに行こ!」
「は?」
訝る私を尻目に、萩原は上機嫌でチューブ型アイスを食べ切るとゴミ箱に捨てた。
* * *
「おはよう、{name1}ちゃん! 出かけよう!」
「…………まだ夜明け前だよ、萩原」
ピンポンとアパートのチャイムが鳴り、恐る恐るドアスコープを覗いてみれば、萩原が満面の笑みで立っていた。廊下の蛍光灯が静かに光っている。遠くで新聞配達のバイクの音が聞こえる程度の静寂に包まれており、外はまだとっぷりと暗闇に支配されている。太陽が日の出の時間を間違えたようなものかとのろのろと玄関の施錠を開けて室内に招き入れれば、満面の笑みを浮かべていた萩原は私を見るなり目を見開いて、宙に視線を彷徨わせた。寝起きで顔が浮腫んでそうだから見苦しかったのならば不可抗力であるから勘弁して欲しい。
「あー……あまり薄着で寝たら風邪をひくよ、{name1}ちゃん」
「ん……そうは言ってももう夏だし暑いよ……萩原の格好も暑そう」
「ああ、バイク乗ってきたからさ。ライダースーツ着てきたんだ。それより、出かける準備しようぜ」
「こんな早くからどこ行くの?」
「んー、どこがいい?」
「ええ? 決めてないの? 決めてるのかと思ったよ?」
リビングへと案内しようと促すと、萩原は首を振って玄関で待ってると言って、上り框に座り込む。こうなれば玄関で待つつもりなのだろう。わざわざ迎えに来てくれたからのだから支度ができるまではゆっくり寛いでほしいのだが、きっと首を縦には振らないだろう。
「わかった。支度急ぐね」
「いいよ。{name1}ちゃんのこと待ってるの好きだから」
「…………すぐ準備する。待ってて」
「ん」
冷蔵庫に入っていたお茶をグラスに注いで手渡すと、急いで支度を始める。
「あ」
「? どうかした?」
「ううん。なんでもない」
ドアを開いた瞬間に萩原が目を逸らす訳だ。キャミソールと三分丈程のルームウェア用の短パン姿で来客対応するなんて慎みがないと思ったのだろう。やんわりと注意してくれていたのだと今更気づく。ちらりと玄関の萩原を見れば、こちらに背を向けて麦茶を飲んでいるようだった。洗顔から化粧、ヘアメイクを時短で済ませ、風通しの良い白の綿ブラウスに、動きやすいレギンスパンツ、軽く羽織るUVカットのパーカーを羽織る。リュックにハンカチとちり紙、化粧ポーチ、スマホ、モバイルバッテリー、二人分のペットボトルのお茶を適当に詰めると萩原と一緒に部屋を出た。
相も変わらず夜の空気が充満している。放射冷却で昨日の日中よりもひんやりとした空気を纏った夜は心地良い。施錠をして、階下へと降りれば先に降りていた萩原は自分のバイクに跨って待っていた。街頭に照らされた萩原。
――ライダースーツ姿の萩原かっこいいな。
すらりとした萩原によく似合う。まじまじと眺めていれば、早くおいでと手招きするので促されるままに萩原に近づいていった。
「お待たせ」
「ううん。{name1}ちゃんとツーリング楽しみにしてたから待つ時間も楽しいよ」
「そ、う……」
――萩原研二、本当によくできた男である。
「安全運転最優先で行くから安心してな」
「萩原のこと信頼してるからそこは気にしてないけど」
「ほんと? 嬉しいこと言ってくれるねぇ」
萩原はにかりと笑って、私の髪をグシャグシャに撫でつける。わっと軽い悲鳴を上げた私を無視して一頻り撫でると、ヘルメットを付けられる。キツくないと確認されて首肯すると、よしと満足そうな表情を浮かべ、萩原も自身のヘルメットを被った。後ろ手にタンデムシートをポンポンと叩いた。恐る恐る萩原に跨ると彼は楽しそうに言う。
「あはは! {name1}ちゃん、緊張しすぎだよ」
「だってバイク乗ったことないし、ドキドキするよ」
「二人乗り夢だったんだから今日は思いっきり青春しようよ!」
「あ、覚えてたんだ」
「忘れるわけないよ、気になる子の事だもん」
「安全の為に俺の腰に掴まってね」
「う、うん」
ドギマギしながら萩原の腰に腕を回すと、ピクリと萩原の体が揺れる。腕の力加減が強すぎたかと少し緩めようとすれば、萩原の手の大きな手が私の手に添えられる。すりすりと撫でられる。そっと抱き着く力を込め直せば、バイクが嘶いた。ゆっくりと走り出したバイクが徐々に速度を上げてあっという間に市街地を抜けていく。景色は吹き飛んでいき、風を切って駆けていく様はすいすいと水中を泳ぐペンギンのように早く、心も疾走していく。バイクが風切る音とエンジンの音で他は何も聞こえない。空に薄っすらと灯りが垂れ込め始める。
――ああ、夜が明けて朝が来る。
富士山が見え始め、稜線がキラキラと白み始め、光が満ち始めてくる。その眩さは新しい朝を祝福するようで美しい。息を呑み、感嘆が漏れる。これも萩原が私の憧れを叶えてくれたから見られた景色だ。萩原が私に光りをくれる。
私は、萩原の何を与えられるのだろうか。
「――好きだ、萩原」
背中にそっと頭をくっつけて、しっかりと抱き締める。背中を通して心臓の音が伝わってしまっているかもしれないことが少しだけ怖いけれど、伝わっているといい。萩原が向けてくれている好意に期待してもいいだろうか。
「{name1}ちゃん、どう? 青春できてる?」
赤信号で止まると、萩原はちらりと私の方を向く。ふにゃりとだらしない、幸せそうな顔をしている萩原を見て、私までふにゃりとだらしない顔をして笑ってしまう。
「うん、キラキラしてる」
信号が青になり、再び走り出す。どこまでもどこまでも。愛おしい、という感情が風に乗って駆け抜けていく。
25.06.15 初出 『夜明けのアクセル』
好きなアーティストが歌う自転車の歌に憧れていた。自転車の荷台に乗って、二人で楽しく背中越しに話をしたり、時にはご機嫌に鼻歌を歌ったり、時にはペダルを漕ぐ背中を応援したり、そんなレモンソーダみたいな青春に憧れていた。二人乗りするような気の置けない相手とならばどこまでも行けそうな気がして、いつか誰かとそういう間柄になれればよいと思った。
ジメジメとした梅雨空に、珍しく光が差し込んだ昼下がり。うっすらと汗ばむ陽気に暑さ慣れしていない身体はへこたれて、コンビニでチューブ型のアイスを買い、半分こした。コンビニ前で凍った容器を揉み込んで中身を解していると、向かいの道路を二人乗りして楽しそうに笑い合う男子高校生と女子高校生目の前を通り過ぎていった。その背中に萩原は大声で呼び掛ける。
「おーい、自転車の二人乗りは危ないぞ!」
「大丈夫でーす! 安全運転しまーす!」
「そういう問題じゃ! おい! おーい! ……ああ、行っちまった」
「確かに危ないけど私は自転車の二人乗りって、青春の縮図みたいで少し憧れる」
そう呟いて近づけば、萩原は意外だと思ったらしく、私の方を向いてパチパチと瞬きをした。
「{name1}ちゃんって、意外とそういう乙女なところあるんだね」
「は? 萩原くん、私のことなんだと思っているの?」
「いや、馬鹿にしてるんじゃないよ。いつものクールな{name1}ちゃんもいいけど、かわいい{name1}ちゃんもいいなァ、って思ったんだ」
「どうせ可愛げのない女だよ」
フンと自嘲するが、萩原に至っては神妙な顔つきで答える。
「{name1}ちゃんはかわいいよ。普段の{name1}ちゃんの気の置けない感じも気に入ってるんだけど、新しい一面見れて嬉しい」
「……そうかい、ありがとう」
屈託のない笑みを浮かべる萩原に、視線を逸らす。よくもまあ恥ずかしげもなく口の回ることだと。それでも、こうして恥ずかしげもなく素直に言葉を告げるからこそ、沢山の人間から好意を寄せられるのだろう。真摯な言葉は心に響く。聞いているこちらはこそばゆくなるものだが、この男はさらりと言ってのける。それはこの男の美徳だ。松田には爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいだ。
「気持ちはわかったけど、さっきの自転車で二人乗りは危ないからだめだよ、{name1}ちゃん」
「それはわかるんだけど、憧れはあってもいいでしょう」
「うーん、わかるけどさぁ……あ、それじゃあタンデム自転車は?」
「タンデムはまた別でしょ」
「あは、やっぱり?」
柔らかくなったチューブ型アイスの封を切り、齧りつく。体温で柔らかくなったアイスはシャーベット状になって、ちゅるりと出てくる。甘みのあるコーヒー味と程よいシャーベットの食感がひんやりと喉を潤して、心地よい。
先程の二人乗りの高校生の走っていった方を見れば、遠くの方でねずみ取りのパトカーに捕まっている。ご愁傷様。
「……まあ、憧れるけれどもやっぱり危ないものね」
「……」
「萩原?」
高校生達が走っていった方を暫く見ていた萩原は閃いたという顔をして、私の方を向いた。名案だというように顔を輝かせている。
「{name1}ちゃん! 今度の休みの日いつ?」
「え?」
「俺と青春しに行こ!」
「は?」
訝る私を尻目に、萩原は上機嫌でチューブ型アイスを食べ切るとゴミ箱に捨てた。
* * *
「おはよう、{name1}ちゃん! 出かけよう!」
「…………まだ夜明け前だよ、萩原」
ピンポンとアパートのチャイムが鳴り、恐る恐るドアスコープを覗いてみれば、萩原が満面の笑みで立っていた。廊下の蛍光灯が静かに光っている。遠くで新聞配達のバイクの音が聞こえる程度の静寂に包まれており、外はまだとっぷりと暗闇に支配されている。太陽が日の出の時間を間違えたようなものかとのろのろと玄関の施錠を開けて室内に招き入れれば、満面の笑みを浮かべていた萩原は私を見るなり目を見開いて、宙に視線を彷徨わせた。寝起きで顔が浮腫んでそうだから見苦しかったのならば不可抗力であるから勘弁して欲しい。
「あー……あまり薄着で寝たら風邪をひくよ、{name1}ちゃん」
「ん……そうは言ってももう夏だし暑いよ……萩原の格好も暑そう」
「ああ、バイク乗ってきたからさ。ライダースーツ着てきたんだ。それより、出かける準備しようぜ」
「こんな早くからどこ行くの?」
「んー、どこがいい?」
「ええ? 決めてないの? 決めてるのかと思ったよ?」
リビングへと案内しようと促すと、萩原は首を振って玄関で待ってると言って、上り框に座り込む。こうなれば玄関で待つつもりなのだろう。わざわざ迎えに来てくれたからのだから支度ができるまではゆっくり寛いでほしいのだが、きっと首を縦には振らないだろう。
「わかった。支度急ぐね」
「いいよ。{name1}ちゃんのこと待ってるの好きだから」
「…………すぐ準備する。待ってて」
「ん」
冷蔵庫に入っていたお茶をグラスに注いで手渡すと、急いで支度を始める。
「あ」
「? どうかした?」
「ううん。なんでもない」
ドアを開いた瞬間に萩原が目を逸らす訳だ。キャミソールと三分丈程のルームウェア用の短パン姿で来客対応するなんて慎みがないと思ったのだろう。やんわりと注意してくれていたのだと今更気づく。ちらりと玄関の萩原を見れば、こちらに背を向けて麦茶を飲んでいるようだった。洗顔から化粧、ヘアメイクを時短で済ませ、風通しの良い白の綿ブラウスに、動きやすいレギンスパンツ、軽く羽織るUVカットのパーカーを羽織る。リュックにハンカチとちり紙、化粧ポーチ、スマホ、モバイルバッテリー、二人分のペットボトルのお茶を適当に詰めると萩原と一緒に部屋を出た。
相も変わらず夜の空気が充満している。放射冷却で昨日の日中よりもひんやりとした空気を纏った夜は心地良い。施錠をして、階下へと降りれば先に降りていた萩原は自分のバイクに跨って待っていた。街頭に照らされた萩原。
――ライダースーツ姿の萩原かっこいいな。
すらりとした萩原によく似合う。まじまじと眺めていれば、早くおいでと手招きするので促されるままに萩原に近づいていった。
「お待たせ」
「ううん。{name1}ちゃんとツーリング楽しみにしてたから待つ時間も楽しいよ」
「そ、う……」
――萩原研二、本当によくできた男である。
「安全運転最優先で行くから安心してな」
「萩原のこと信頼してるからそこは気にしてないけど」
「ほんと? 嬉しいこと言ってくれるねぇ」
萩原はにかりと笑って、私の髪をグシャグシャに撫でつける。わっと軽い悲鳴を上げた私を無視して一頻り撫でると、ヘルメットを付けられる。キツくないと確認されて首肯すると、よしと満足そうな表情を浮かべ、萩原も自身のヘルメットを被った。後ろ手にタンデムシートをポンポンと叩いた。恐る恐る萩原に跨ると彼は楽しそうに言う。
「あはは! {name1}ちゃん、緊張しすぎだよ」
「だってバイク乗ったことないし、ドキドキするよ」
「二人乗り夢だったんだから今日は思いっきり青春しようよ!」
「あ、覚えてたんだ」
「忘れるわけないよ、気になる子の事だもん」
「安全の為に俺の腰に掴まってね」
「う、うん」
ドギマギしながら萩原の腰に腕を回すと、ピクリと萩原の体が揺れる。腕の力加減が強すぎたかと少し緩めようとすれば、萩原の手の大きな手が私の手に添えられる。すりすりと撫でられる。そっと抱き着く力を込め直せば、バイクが嘶いた。ゆっくりと走り出したバイクが徐々に速度を上げてあっという間に市街地を抜けていく。景色は吹き飛んでいき、風を切って駆けていく様はすいすいと水中を泳ぐペンギンのように早く、心も疾走していく。バイクが風切る音とエンジンの音で他は何も聞こえない。空に薄っすらと灯りが垂れ込め始める。
――ああ、夜が明けて朝が来る。
富士山が見え始め、稜線がキラキラと白み始め、光が満ち始めてくる。その眩さは新しい朝を祝福するようで美しい。息を呑み、感嘆が漏れる。これも萩原が私の憧れを叶えてくれたから見られた景色だ。萩原が私に光りをくれる。
私は、萩原の何を与えられるのだろうか。
「――好きだ、萩原」
背中にそっと頭をくっつけて、しっかりと抱き締める。背中を通して心臓の音が伝わってしまっているかもしれないことが少しだけ怖いけれど、伝わっているといい。萩原が向けてくれている好意に期待してもいいだろうか。
「{name1}ちゃん、どう? 青春できてる?」
赤信号で止まると、萩原はちらりと私の方を向く。ふにゃりとだらしない、幸せそうな顔をしている萩原を見て、私までふにゃりとだらしない顔をして笑ってしまう。
「うん、キラキラしてる」
信号が青になり、再び走り出す。どこまでもどこまでも。愛おしい、という感情が風に乗って駆け抜けていく。
25.06.15 初出 『夜明けのアクセル』
25年スタンプラリー駅員衣装より駅員パロ / 諸伏高明
日々の袋小路に追い詰められる。オフィス街と自宅の往復を機械的に繰り返し、休日を迎えては布団に包まって一日を過ごす。繁忙期を乗り越え、心身ともに解放されてみれば、この代わり映えのしない日々をそのまま過ごすだけで良いのだろうかという疑問が浮上する。一度首を捻れば、現状維持というわけにも行かない。普段の日常から少しだけでも抜け出したくなるものだ。そうなると自分にとっての普段とは異なる非日常とは何か考える必要性が出てきた。
日常で習慣化していないこと――たとえば、食事。外食をすることであれば、普段食べるご飯よりも少しお金を出して食べに行くとか、普段は食べる習慣のない珍しい料理や外国料理を食べること。お弁当を作って近所の公園にピクニックに出かけるのも良いだろう。
習い事を始めるというのも良いかもしれない。ヨガや英会話、資格の勉強、自己投資は無駄にならないというし、長い目で見れば自己の人生の肥やしになり、豊かにするかもしれないならば、悪くない――。
「ほら、新幹線が来るよ」
ふと耳に入ってきた若い女性の声にハッとした我に返る。声のした方を振り返れば、新幹線のミニカーを持った小さな男の子を抱っこした若い母親の姿。男の子は電車が好きなのだろう。きゃっきゃと嬉しそうに笑ってふにゃふにゃした指を方向へ向ける。それにつられるようにして指差す方へ視線を向ければ、新幹線用のレールを颯爽と走っていく新幹線が目の前を通っていく。力強い風圧で髪が揺れ、ものの数十秒で通り過ぎていく。あっという間に遠ざかって小さくなっていく、新幹線を見送って、感じたのは確信。吹き抜けていく疾走感と高揚感。心が躍る体験はこれだ。
――そうだ、旅に出よう。
思い立ったが吉日。優柔不断が服着て歩くような女ではあるが、こうと決まれば行動は早い方である。スマホを駆使して情報収集し、行き先を検討する。幼馴染から丁度のタイミングで連絡があり、新幹線に乗りたいから旅に出るという旨を伝えれば、それならば会いたいからぜひ会いに来て欲しいとのことで会うことになった。長野から引越してからの転勤族の子の私は携帯電話やスマホでのやりとりが主流で、長期休みにタイミングが会えば会う事が多い。私が引っ越してからはメールや電話でのやりとりがメインで暫く会えていなかったので幼馴染達との久々の再会に向けてより心が弾む。
券売機で週末限定のフリーきっぷと特急券を購入し、駅員に質問する外国人観光客を横目にきっぷを挿入し新幹線改札を通り抜ける。普段利用する在来線とはどこか違う雰囲気に、早くも非日常感を感じ始め、旅が始まる高揚感を感じる。気持ちが弾んで見るもの全てに目が行く。好奇心の塊になったようだ。
新幹線改札内には駅会社の系列店が経営するカフェとコンビニ、待合所が設置されている。在来線の店舗には売っていない地域のお土産が売っているところもまた小さな非日常感がする。東都ばなな、と言った有名なお土産も売っていて、幼馴染への軽い手土産にと買っていくことにした。
「ええと……何番線だろう?」
「何かお困りですか?」
電光掲示板を見てキョロキョロしていると、駅員の制服を着た男性に声を掛けられる。つり目がちの高身長の男性駅員だ。顔立ちが涼やかで若々しいが、口髭を蓄えている。年齢は三十代といったところだろうか。精悍な顔つきの駅員に思わず息を呑みむ。駅員の制服がよく似合っていてかっこいい。どことなく幼馴染の高明くんに似ているなと見惚れていたら、お客様と怪訝そうな表情で首を傾げる駅員にハッと我に返る。眉目秀麗な男の、その首を傾げる仕草がかわいいなんて思ったのは内緒だ。そもそも高明くんが首都圏にいる筈がない。以前高明くんから聞いた時に長野で就職したと言っていた筈だ。
「えっと、長野駅まで行きたいのですが、どちらのホームですか?」
「長野ですか。長野方面の列車でしたらあちらの二十一番ホームですね」
「二十一番ホームですね。ありがとうございます」
お礼を述べれば、にこりと微笑んだ駅員は私の手に持っていたフリーパスと特急券を見て、自由席に乗られるようでしたらは一号車から四号車のどこかで乗ってくださいねと教えてくれた。
「長野へは観光ですか?」
「ええ。それと幼馴染に会いに行くんです。久々に会うからドキドキするけど楽しみなんです」
「幼馴染。それは楽しみですね」
「ええ。由衣ちゃん達に会うの楽しみすぎて早く目が覚めてしまいました」
「……ゆい、さん?」
駅員の男性はぱちくりと瞬いた。
「由衣ちゃんは私の大事な幼馴染です」
「ふふふ……なるほど。その様子だと今回の再会ですぐに旧交を温まりそうですね」
「きゅうこう?」
「ええ。……と、自由席に乗車されるようでしたらそろそろ時間ですね」
一頻り笑った駅員の男性は腕時計に視線を向ける。つられて自分の腕時計に視線を向ければ、そろそろ先発の列車が到着する頃合いであった。
「あ、引き留めてしまって申し訳ありませんでした」
「とんでもないです。お話しいただきありがとうございました。それではまた。良い旅を」
「はい、ありがとうございました」
恭しくお辞儀をした駅員の男性に会釈をすると、教えられたホームに向かう。新幹線ホームは新幹線の到着を待つ乗客たちで賑わい始めていた。リュックサックやキャリーバックなどのカバンを多く見掛けるようになる。その様子を眺めながら、カバンの数だけ今までの思い出が詰め込まれているのだろうなと思う。そして今日もこれからそのカバンに思い出が詰め込まれていくのだろう。新幹線はただ単に移動する手段ではない。乗客達当人や各々の目的地、その目的地で迎えようと待つ人達、それぞれの想いを乗せて走り、人々を繋いでいく。一つ一つが繋がっていく。私の想いも乗せて繋いでくれる。それはとても素敵な仕事だなとキャリーバックをガラガラと引いてホームを歩いていく。旅は一期一会。駅員の彼は「それではまた」と言ってくれたが、あの駅員さんにもいつかまた会えるのだろうか。
新幹線自由席の乗車待機列には既に人が並び始めていた。由衣ちゃんが「自由席は人気の席だから早めに並んだ方がいいわよ」と助言してくれていたのは有り難い。先程の駅員の男性もそれを見越して話に夢中になりそうなところを切り上げてくれたのだろう。まだ整列の少ない所に並び、電光掲示板見上げた。電光掲示板には私が乗る新幹線の名前と時刻が表示されていて、スマホのカメラで写真を撮る。幼馴染の由衣に、この電車に乗るよと添付してメッセージを送れば、すぐに既読表示がついた。
「なまえちゃんおはよう! 了解しました。なまえちゃんが到着するの楽しみに待ってるね」
メッセージと共に可愛らしいキャラクターのスタンプが会いに来て、思わず口が綻んでしまう。自分と会うのを楽しみにしてくれると言う彼女が親友として愛おしい。
「私も由衣ちゃんに早く会いたい!」
「嬉しい! 敢ちゃんもなまえちゃんに会うの楽しみにしてるわよ!」
「ほんと!? やったー!」
「高明くんも来れるって言ってたけど……もしかしたら一緒の電車なんじゃない?」
「え? 高明くん、東都来てたの?」
高明くんも由衣ちゃんと敢助君の幼馴染。敢助くんと同い年で私と由衣ちゃんの六つ年上。物腰の柔らかく、理知的な男の子だった。転勤族の子の私は小学生の卒業までを長野で過ごしていたが、その後は転々と引っ越していたため、会うのは全くの久しぶりだ。特に高明くんや敢助くんとは年齢が六つ違うとなると、中々生活リズムが合わない。私と由衣ちゃんが小学校を卒業して中学校に進学する頃には、二人は高校を卒業して大学に進学する頃合いだ。高明君は東都の大学へ進学して行ってしまったし、高明君が東都にいる間の私は関西の高校に進学して生活していた。私が東都へと引っ越して住み始めた頃には、高明くんが大学を卒業して長野へ帰った後であった。まともに会ったのは何時だったかという記憶も怪しいぐらいだ。手紙や携帯で連絡を取り合うことは時折あったが、こうして会うのは何時ぶりだったか。私の記憶の中の高明君と敢助君はもう朧気だ。覚えているのはおままごとをしたいとせがんだ私に、嫌な顔をせずに付き合ってくれたことぐらいだ。……敢助君は少し嫌そうだったかもしれない。
――間もなく、二十一番線に電車が参ります。危ないですから黄色い線の内側までお下がりください。
業務放送が流れ、スマホのメッセージ画面からはたと顔を上げる。由衣ちゃんとのメッセージのやり取りは楽しいが、乗り過ごしたら元も子もない。きょろきょろと見回せば、新幹線が速度を落としてゆっくりとホームへと入線してくる。待ち侘びた。徐々に速度を落とし停車すると、上京するためにやってきた人々が次々と降車していき、全員が降車したのを確認してすぐさま清掃員の人々が入って車内清掃を始める。その様子は窓からはっきりと見え、テキパキと掃除をしていく様子が見える。こういった様子も新幹線に乗車する機会がないと見れないから私にとっては非日常かもしれない。時間の合間を縫って一生懸命清掃スタッフには賞賛しかない。裏方仕事というのは中々クローズアップされないものであるが、こうして見ていると快適に過ごす為に誰かしらが裏からサポートしてくれているのを日々忘れてはいけないなと思い直す。掃除を済ませて車内から出てきた清掃スタッフの人と目が合い、感謝の意を込めて会釈をすると、驚いたような表情を浮かべたが、はにかみながらも心からの笑顔を見せて会釈をし返してくれた。
車内に入ると、すぐに窓側の一角に座ることができた。他の乗客たちも席を確保しつつ、荷物を頭上の収納スペースに積み込んでいる。在来線ではすぐ降りてしまうからこそ、中々使わないスペースだが、こういう所からも旅の匂いがする。列車に乗り込んで走り出す前のこの雑然とした雰囲気が好きだ。浮き足立った車内の雰囲気に高揚感を覚えつつ座って待っていれば、いよいよドアの締まる音がする。ゆっくりと動き出す新幹線。
ここから旅が始まる。徐々に加速していく窓の外の景色に胸躍らせて、車内の雰囲気を味わう。都心の高層ビルの街並みを縫って走り始めた新幹線が、一時間も経てば次第に高層ビルの姿が少なくなって、視界が開けていく。遠くには山並みが美しく走って青空が広がっている。一気に視界が広がっていく様子にどこか心の広がるような心地もする。新幹線の中は存外静かで、出張で乗車したサラリーマンの男性はパソコンで作業をしていたり、登山バックを背負った中年の女性客は黙々と菓子パンを食べていたり、大学生ぐらいの青年はイヤホンをつけて動画配信サービスで映画鑑賞をしている。思い思いの時間の過ごし方からその人のライフスタイルが垣間見えておもしろい。退屈しないなと一人ほくそ笑んでいれば、何かが足元に転がって来る。
「?」
「お姉ちゃん、ぼくのミニカーそっち行っちゃった」
足元にコツンと何かが当たったと同時に向かいの席の男の子がパタパタとやってくる。白いスポーツカーのミニカーが足元に落ちていた。大方それを地面に走らせて遊んでいたのだろうか。ねじ巻き式のそれは何度か後方へ引いてから指を放すと自動で前に進むのだという。それを渡してやると男の子はにこりと笑ってお礼を述べた。
「お姉ちゃんありがとう」
「どういたしまして。ミニカーかっこいいね」
「うん。パパに買ってもらったぼくのおきにいりなんだ!」
にこにこと屈託のない笑みを浮かべた男の子は私の隣の空いている席にちょこんと座る。周囲を見渡すが、保護者らしき人物は見当たらない。
「お父さんかお母さんは?」
「パパ今トイレ行ってる。あれきっとうんこだよ!」
「う、うん……な、なるほど」
「つまんないからしんかんせんのたんけんしにきたんだ」
「そうだったんだねぇ」
「お姉ちゃんひまだったらぼくのたんけんたいのたいいんにしてあげる」
「お、おお……?」
トントン拍子に探検隊に加入することになってしまった。随分と人懐っこい子だが、大丈夫だろうかと少し心配になる。このまま断って一人で歩き回らせるのも心配であるし、それとなく保護者を探しながらこの少年に付き合ってやるべきだろうか。リュックから化粧ポーチを取り出して簡易テーブルに置いておく。帰ってきた時の目印だ。立ち上がり少年に敬礼をする。
「わかりました隊長。自分もお供させていただきます!」
「よし! お姉ちゃんたいいん、それではしゅっぱつします! しゅっぱつしんこー!」
「おー!」
私がついてくると理解するや否や少年はぱあっと雲の切れ間から光が差したように顔を輝かせた。がしっと手首を掴まれて、ぐいぐいと引っ張る。水を得た魚のようだ。ずんずんと突き進んでいく力強さに驚きつつ、そういえばこうして敢助くんや高明くんに手を引かれて遊び回っていたような思い出が蘇ってきて、思わず目を細める。
「隊長」
「なあに、お姉ちゃんたいいん?」
「パパ隊員をおトイレまで迎えに行ってあげるのはどうですか? 皆で探検したほうが楽しいですよ?」
「たんけんはきけんがいっぱいだ。たのしいことばかりじゃないぞ! きをつけないと!」
「そ、そうですね。ごめんなさい」
「だけどお姉ちゃんたいいんのいけんもわかるのでそれにしよ!」
「やったー! そうしましょう!」
それとなく少年を誘導して父親を探す探検という目的に切り替えさせることに成功しホッとする。迷子ならば車掌に相談するのが最善だ。車掌室に向かいながら父親を探す方が良いだろう。今頃トイレから帰ってきた父親は我が子が自分の座席にいないことに気づいて慌てて探し回っているかもしれない。ならば車掌の下へ相談しに向かっているかもしれない。
「隊長はどこの席に座っていたんですか?」
「うーん? あっちの方」
「あっちは……指定席の方かな。そうしたらパパ隊員はあっちのおトイレの方かもしれませんね。行ってみませんか?」
「うん。れっつごー!」
「はい。レッツゴー! あ、走ると寝てる人に怒られちゃうんで忍び足で行きましょう! 忍者の足です!」
「ニンジャ!」
「おー、隊長かっこいい〜!」
少年は私の言葉に反応して、忍者の手で印を組むポーズをしてご機嫌だ。少年が転ばぬように背後で見守りながら、指定席車両の方向へ向かって歩いていく。
「隊長は新幹線に乗ってどこ行く予定なんですか?」
「金沢のおじいちゃんち。おじいちゃんにさいごのばいばいするんだって」
「そっか……聞いてごめんね」
「? なんで?」
「……ううん。おじいちゃんと沢山お話してあげてくださいね」
「うん。おねえちゃんたいいんは?」
「私は、お友達に会いに行くの。引っ越してからあまり会えなくなっちゃったから」
「そしたらお姉ちゃんもいっぱいお話しなきゃね」
「……そうだね」
新幹線は沢山の物語を運んで走っていく。
少年はひょうたん島のテーマを歌いながら進んでいく。その後をしみじみとついて行くと、車掌に向かう途中でトイレを見つける。トイレの前では焦った様子の三十代ぐらいの男性と先程駅で案内してくれた男性駅員が話していた。
「あれ、先程の駅員さん?」
「おや……?」
「パパ!」
「翔! どこ行ってたんだ! 翔がいないからパパびっくりしたよ!」
やはり少年の父親だったらしいその男性は、ほっと安心した顔をして、少年に駆け寄って抱き締めた。チラッと駅員の彼に視線を送れば、彼もホッとした表情を浮かべ、帽子のつばをもち、軽く会釈をした。
「パパがうんこしにいってなかなかかえってこないからお姉ちゃんに遊んでもらってた」
「う……それはごめんな……お姉さんも翔の相手してくださってありがとうございます」
翔の父親は赤面している。子どもの素直さは時に残酷である。
「気にしないでくださいね。翔くんが暇してた私を探検ごっこに誘ってくださったので楽しい時間を過ごせましたよ。ね、翔隊長?」
「うん、お姉ちゃんたいいんとパパたいいんをさがすたんけんしたよ。たのしかったよ」
「そうか、パパ隊員も翔隊長とお姉さんに見つけてもらえてよかったよ。車掌さんもお手数おかけして申し訳ありませんでした」
「いえ。ご子息が見つかって何よりです。お姉さん隊員さんもご協力ありがとうございました」
「お姉ちゃんありがとね」
「うん、またね」
翔の父親は私と駅員さんにお辞儀をすると、翔少年の手を引いて、自分たちの座席に戻っていく。残された二人は改めて向き直る。またいつか会えるといいなと思っていたら早々に再会してしまった。
「まさか駅員さんも乗ってたなんて思いませんでした」
「東都には仕事で来ていて丁度長野に帰る途中でしたので」
「そうだったんですね。お疲れ様です」
「ありがとうございます。隊員さんもお疲れ様です」
クスリときれいな顔で笑われ、バツが悪い。子どもに付き合っていたとは言え面と向かって言われると少しこそばゆ
い。逃げるように、席に戻りますと言えば、微笑みを絶やさずにそれではまたと駅員さんも持ち場に戻っていった。
席に戻り、化粧ポーチの中身を確認し、リュックに仕舞う。お土産と一緒に駅で買っていたお茶の入ったペットボトルを開けて、残りの到着時間はゆったりとくつろぎながら窓の外の景色を見つめることにした。その地域に住む人たちの息づかいが窓の外を静かに流れていく。
「あれ? 高明君からメッセージ入ってる?」
目的地の長野まで十五分切ったところで連絡を入れようとすれば、メッセージアプリに連絡が来ていることに気づく。
「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」
「……高明くんの故事成語、懐かしいね。相変わらずよくわかんないけど」
ふふふっと思い出す。小さい頃に高明くんが言った故事成語を魔法の呪文だと勘違いして、高明くんは魔法使いだと言って、彼を困らせていたのを思い出した。珍しく困った顔をしていて、敢助くんが愉快そうに笑っていたのも鮮明に憶えている。
「高明くんお久し振りです。今日は会えるのを楽しみにしています」
メッセージを返すと、車内チャイムが鳴る。まもなく長野駅到着するというアナウンスを聞いて、頭上の収納からキャリーバックを下ろし、駅に着いたらすぐに降りられるように荷物を整理する。まだ始まったばかりだというのに色々な事があったなと息をつく。予想外ごとが多かったが、全て新幹線が結んでくれたご縁なのだろう。袖売り合うのも他生の縁。小さな事だろうが、こういった経験も自分の中で何かしらの一部になっていくのだろう。そう思うとここまでに抱いた気持ちは悪い気はしない。
荷物を纏めて新幹線を降りる。――長野駅。ホームから見える街並みは変わってしまっているところもあるようだけれども、どこか懐かしい。ほっとするのは大好きな人たちが私を待っていてくれるからなのだろう。
新幹線が発車するのを見えなくなるまで見送ってからホームを降りて改札口へと向かう。改札をでて、きょろきょろと見回すと、私に向かって手を振る由衣ちゃんと隣に佇む敢助くんの姿が見えた。会いたかった二人に感極まる反面、杖をついている敢助くんに姿にぎょっとする。事故に遭ったと聞いてたが大丈夫なのだろうか。
「なまえちゃん! こっち!」
「おー、みょうじか。大きくなったな」
「由衣ちゃん! 敢助君! 久し振り!」
足早に近寄って行けば、由衣ちゃんが両手を広げてそのまま抱き締めて、敢助くんが頭をポンポンと撫でてくれる。会いたい相手がいるって幸せなことだなァ。三人で一頻り再会を喜び合っていると、背後からポンと肩を叩かれた。振り向く前に肩口に誰かの顔が近づいて耳元で囁かれる。
「お客様、きっぷを拝見」
「っ!?」
ドキリとして飛び上がり、囁かれた耳を押さえてよろよろと由衣ちゃんの背後に隠れた。甘みを帯びた低温が鼓膜の奥で渦巻いている。何やっているんだと敢助くんの胡乱な視線を気にしている余裕はない。心臓はどくどくと早鐘を打ち、そっと様子を窺う。長野に来るまでに何度も会っていたあの駅員の男性が高明くんだったなんて全然気づかなかった。似ているような気はしたけど、随分と会っていなかったから他人の空似かもしれないと全然気づかなかった。高明くんはきっと最初から私のことに気づいていて、どこで気づくのかと反応を見てほくそ笑んでいたのだろう。彼は意外とそういうところがある。私のことを絶対に揶揄っている。
「先ほど落とされましたよ」
そういって私が落としたきっぷを差し出してきた彼は悪戯が成功したという笑みを浮かべていた。
25.06.09 初出 『great journey』
日々の袋小路に追い詰められる。オフィス街と自宅の往復を機械的に繰り返し、休日を迎えては布団に包まって一日を過ごす。繁忙期を乗り越え、心身ともに解放されてみれば、この代わり映えのしない日々をそのまま過ごすだけで良いのだろうかという疑問が浮上する。一度首を捻れば、現状維持というわけにも行かない。普段の日常から少しだけでも抜け出したくなるものだ。そうなると自分にとっての普段とは異なる非日常とは何か考える必要性が出てきた。
日常で習慣化していないこと――たとえば、食事。外食をすることであれば、普段食べるご飯よりも少しお金を出して食べに行くとか、普段は食べる習慣のない珍しい料理や外国料理を食べること。お弁当を作って近所の公園にピクニックに出かけるのも良いだろう。
習い事を始めるというのも良いかもしれない。ヨガや英会話、資格の勉強、自己投資は無駄にならないというし、長い目で見れば自己の人生の肥やしになり、豊かにするかもしれないならば、悪くない――。
「ほら、新幹線が来るよ」
ふと耳に入ってきた若い女性の声にハッとした我に返る。声のした方を振り返れば、新幹線のミニカーを持った小さな男の子を抱っこした若い母親の姿。男の子は電車が好きなのだろう。きゃっきゃと嬉しそうに笑ってふにゃふにゃした指を方向へ向ける。それにつられるようにして指差す方へ視線を向ければ、新幹線用のレールを颯爽と走っていく新幹線が目の前を通っていく。力強い風圧で髪が揺れ、ものの数十秒で通り過ぎていく。あっという間に遠ざかって小さくなっていく、新幹線を見送って、感じたのは確信。吹き抜けていく疾走感と高揚感。心が躍る体験はこれだ。
――そうだ、旅に出よう。
思い立ったが吉日。優柔不断が服着て歩くような女ではあるが、こうと決まれば行動は早い方である。スマホを駆使して情報収集し、行き先を検討する。幼馴染から丁度のタイミングで連絡があり、新幹線に乗りたいから旅に出るという旨を伝えれば、それならば会いたいからぜひ会いに来て欲しいとのことで会うことになった。長野から引越してからの転勤族の子の私は携帯電話やスマホでのやりとりが主流で、長期休みにタイミングが会えば会う事が多い。私が引っ越してからはメールや電話でのやりとりがメインで暫く会えていなかったので幼馴染達との久々の再会に向けてより心が弾む。
券売機で週末限定のフリーきっぷと特急券を購入し、駅員に質問する外国人観光客を横目にきっぷを挿入し新幹線改札を通り抜ける。普段利用する在来線とはどこか違う雰囲気に、早くも非日常感を感じ始め、旅が始まる高揚感を感じる。気持ちが弾んで見るもの全てに目が行く。好奇心の塊になったようだ。
新幹線改札内には駅会社の系列店が経営するカフェとコンビニ、待合所が設置されている。在来線の店舗には売っていない地域のお土産が売っているところもまた小さな非日常感がする。東都ばなな、と言った有名なお土産も売っていて、幼馴染への軽い手土産にと買っていくことにした。
「ええと……何番線だろう?」
「何かお困りですか?」
電光掲示板を見てキョロキョロしていると、駅員の制服を着た男性に声を掛けられる。つり目がちの高身長の男性駅員だ。顔立ちが涼やかで若々しいが、口髭を蓄えている。年齢は三十代といったところだろうか。精悍な顔つきの駅員に思わず息を呑みむ。駅員の制服がよく似合っていてかっこいい。どことなく幼馴染の高明くんに似ているなと見惚れていたら、お客様と怪訝そうな表情で首を傾げる駅員にハッと我に返る。眉目秀麗な男の、その首を傾げる仕草がかわいいなんて思ったのは内緒だ。そもそも高明くんが首都圏にいる筈がない。以前高明くんから聞いた時に長野で就職したと言っていた筈だ。
「えっと、長野駅まで行きたいのですが、どちらのホームですか?」
「長野ですか。長野方面の列車でしたらあちらの二十一番ホームですね」
「二十一番ホームですね。ありがとうございます」
お礼を述べれば、にこりと微笑んだ駅員は私の手に持っていたフリーパスと特急券を見て、自由席に乗られるようでしたらは一号車から四号車のどこかで乗ってくださいねと教えてくれた。
「長野へは観光ですか?」
「ええ。それと幼馴染に会いに行くんです。久々に会うからドキドキするけど楽しみなんです」
「幼馴染。それは楽しみですね」
「ええ。由衣ちゃん達に会うの楽しみすぎて早く目が覚めてしまいました」
「……ゆい、さん?」
駅員の男性はぱちくりと瞬いた。
「由衣ちゃんは私の大事な幼馴染です」
「ふふふ……なるほど。その様子だと今回の再会ですぐに旧交を温まりそうですね」
「きゅうこう?」
「ええ。……と、自由席に乗車されるようでしたらそろそろ時間ですね」
一頻り笑った駅員の男性は腕時計に視線を向ける。つられて自分の腕時計に視線を向ければ、そろそろ先発の列車が到着する頃合いであった。
「あ、引き留めてしまって申し訳ありませんでした」
「とんでもないです。お話しいただきありがとうございました。それではまた。良い旅を」
「はい、ありがとうございました」
恭しくお辞儀をした駅員の男性に会釈をすると、教えられたホームに向かう。新幹線ホームは新幹線の到着を待つ乗客たちで賑わい始めていた。リュックサックやキャリーバックなどのカバンを多く見掛けるようになる。その様子を眺めながら、カバンの数だけ今までの思い出が詰め込まれているのだろうなと思う。そして今日もこれからそのカバンに思い出が詰め込まれていくのだろう。新幹線はただ単に移動する手段ではない。乗客達当人や各々の目的地、その目的地で迎えようと待つ人達、それぞれの想いを乗せて走り、人々を繋いでいく。一つ一つが繋がっていく。私の想いも乗せて繋いでくれる。それはとても素敵な仕事だなとキャリーバックをガラガラと引いてホームを歩いていく。旅は一期一会。駅員の彼は「それではまた」と言ってくれたが、あの駅員さんにもいつかまた会えるのだろうか。
新幹線自由席の乗車待機列には既に人が並び始めていた。由衣ちゃんが「自由席は人気の席だから早めに並んだ方がいいわよ」と助言してくれていたのは有り難い。先程の駅員の男性もそれを見越して話に夢中になりそうなところを切り上げてくれたのだろう。まだ整列の少ない所に並び、電光掲示板見上げた。電光掲示板には私が乗る新幹線の名前と時刻が表示されていて、スマホのカメラで写真を撮る。幼馴染の由衣に、この電車に乗るよと添付してメッセージを送れば、すぐに既読表示がついた。
「なまえちゃんおはよう! 了解しました。なまえちゃんが到着するの楽しみに待ってるね」
メッセージと共に可愛らしいキャラクターのスタンプが会いに来て、思わず口が綻んでしまう。自分と会うのを楽しみにしてくれると言う彼女が親友として愛おしい。
「私も由衣ちゃんに早く会いたい!」
「嬉しい! 敢ちゃんもなまえちゃんに会うの楽しみにしてるわよ!」
「ほんと!? やったー!」
「高明くんも来れるって言ってたけど……もしかしたら一緒の電車なんじゃない?」
「え? 高明くん、東都来てたの?」
高明くんも由衣ちゃんと敢助君の幼馴染。敢助くんと同い年で私と由衣ちゃんの六つ年上。物腰の柔らかく、理知的な男の子だった。転勤族の子の私は小学生の卒業までを長野で過ごしていたが、その後は転々と引っ越していたため、会うのは全くの久しぶりだ。特に高明くんや敢助くんとは年齢が六つ違うとなると、中々生活リズムが合わない。私と由衣ちゃんが小学校を卒業して中学校に進学する頃には、二人は高校を卒業して大学に進学する頃合いだ。高明君は東都の大学へ進学して行ってしまったし、高明君が東都にいる間の私は関西の高校に進学して生活していた。私が東都へと引っ越して住み始めた頃には、高明くんが大学を卒業して長野へ帰った後であった。まともに会ったのは何時だったかという記憶も怪しいぐらいだ。手紙や携帯で連絡を取り合うことは時折あったが、こうして会うのは何時ぶりだったか。私の記憶の中の高明君と敢助君はもう朧気だ。覚えているのはおままごとをしたいとせがんだ私に、嫌な顔をせずに付き合ってくれたことぐらいだ。……敢助君は少し嫌そうだったかもしれない。
――間もなく、二十一番線に電車が参ります。危ないですから黄色い線の内側までお下がりください。
業務放送が流れ、スマホのメッセージ画面からはたと顔を上げる。由衣ちゃんとのメッセージのやり取りは楽しいが、乗り過ごしたら元も子もない。きょろきょろと見回せば、新幹線が速度を落としてゆっくりとホームへと入線してくる。待ち侘びた。徐々に速度を落とし停車すると、上京するためにやってきた人々が次々と降車していき、全員が降車したのを確認してすぐさま清掃員の人々が入って車内清掃を始める。その様子は窓からはっきりと見え、テキパキと掃除をしていく様子が見える。こういった様子も新幹線に乗車する機会がないと見れないから私にとっては非日常かもしれない。時間の合間を縫って一生懸命清掃スタッフには賞賛しかない。裏方仕事というのは中々クローズアップされないものであるが、こうして見ていると快適に過ごす為に誰かしらが裏からサポートしてくれているのを日々忘れてはいけないなと思い直す。掃除を済ませて車内から出てきた清掃スタッフの人と目が合い、感謝の意を込めて会釈をすると、驚いたような表情を浮かべたが、はにかみながらも心からの笑顔を見せて会釈をし返してくれた。
車内に入ると、すぐに窓側の一角に座ることができた。他の乗客たちも席を確保しつつ、荷物を頭上の収納スペースに積み込んでいる。在来線ではすぐ降りてしまうからこそ、中々使わないスペースだが、こういう所からも旅の匂いがする。列車に乗り込んで走り出す前のこの雑然とした雰囲気が好きだ。浮き足立った車内の雰囲気に高揚感を覚えつつ座って待っていれば、いよいよドアの締まる音がする。ゆっくりと動き出す新幹線。
ここから旅が始まる。徐々に加速していく窓の外の景色に胸躍らせて、車内の雰囲気を味わう。都心の高層ビルの街並みを縫って走り始めた新幹線が、一時間も経てば次第に高層ビルの姿が少なくなって、視界が開けていく。遠くには山並みが美しく走って青空が広がっている。一気に視界が広がっていく様子にどこか心の広がるような心地もする。新幹線の中は存外静かで、出張で乗車したサラリーマンの男性はパソコンで作業をしていたり、登山バックを背負った中年の女性客は黙々と菓子パンを食べていたり、大学生ぐらいの青年はイヤホンをつけて動画配信サービスで映画鑑賞をしている。思い思いの時間の過ごし方からその人のライフスタイルが垣間見えておもしろい。退屈しないなと一人ほくそ笑んでいれば、何かが足元に転がって来る。
「?」
「お姉ちゃん、ぼくのミニカーそっち行っちゃった」
足元にコツンと何かが当たったと同時に向かいの席の男の子がパタパタとやってくる。白いスポーツカーのミニカーが足元に落ちていた。大方それを地面に走らせて遊んでいたのだろうか。ねじ巻き式のそれは何度か後方へ引いてから指を放すと自動で前に進むのだという。それを渡してやると男の子はにこりと笑ってお礼を述べた。
「お姉ちゃんありがとう」
「どういたしまして。ミニカーかっこいいね」
「うん。パパに買ってもらったぼくのおきにいりなんだ!」
にこにこと屈託のない笑みを浮かべた男の子は私の隣の空いている席にちょこんと座る。周囲を見渡すが、保護者らしき人物は見当たらない。
「お父さんかお母さんは?」
「パパ今トイレ行ってる。あれきっとうんこだよ!」
「う、うん……な、なるほど」
「つまんないからしんかんせんのたんけんしにきたんだ」
「そうだったんだねぇ」
「お姉ちゃんひまだったらぼくのたんけんたいのたいいんにしてあげる」
「お、おお……?」
トントン拍子に探検隊に加入することになってしまった。随分と人懐っこい子だが、大丈夫だろうかと少し心配になる。このまま断って一人で歩き回らせるのも心配であるし、それとなく保護者を探しながらこの少年に付き合ってやるべきだろうか。リュックから化粧ポーチを取り出して簡易テーブルに置いておく。帰ってきた時の目印だ。立ち上がり少年に敬礼をする。
「わかりました隊長。自分もお供させていただきます!」
「よし! お姉ちゃんたいいん、それではしゅっぱつします! しゅっぱつしんこー!」
「おー!」
私がついてくると理解するや否や少年はぱあっと雲の切れ間から光が差したように顔を輝かせた。がしっと手首を掴まれて、ぐいぐいと引っ張る。水を得た魚のようだ。ずんずんと突き進んでいく力強さに驚きつつ、そういえばこうして敢助くんや高明くんに手を引かれて遊び回っていたような思い出が蘇ってきて、思わず目を細める。
「隊長」
「なあに、お姉ちゃんたいいん?」
「パパ隊員をおトイレまで迎えに行ってあげるのはどうですか? 皆で探検したほうが楽しいですよ?」
「たんけんはきけんがいっぱいだ。たのしいことばかりじゃないぞ! きをつけないと!」
「そ、そうですね。ごめんなさい」
「だけどお姉ちゃんたいいんのいけんもわかるのでそれにしよ!」
「やったー! そうしましょう!」
それとなく少年を誘導して父親を探す探検という目的に切り替えさせることに成功しホッとする。迷子ならば車掌に相談するのが最善だ。車掌室に向かいながら父親を探す方が良いだろう。今頃トイレから帰ってきた父親は我が子が自分の座席にいないことに気づいて慌てて探し回っているかもしれない。ならば車掌の下へ相談しに向かっているかもしれない。
「隊長はどこの席に座っていたんですか?」
「うーん? あっちの方」
「あっちは……指定席の方かな。そうしたらパパ隊員はあっちのおトイレの方かもしれませんね。行ってみませんか?」
「うん。れっつごー!」
「はい。レッツゴー! あ、走ると寝てる人に怒られちゃうんで忍び足で行きましょう! 忍者の足です!」
「ニンジャ!」
「おー、隊長かっこいい〜!」
少年は私の言葉に反応して、忍者の手で印を組むポーズをしてご機嫌だ。少年が転ばぬように背後で見守りながら、指定席車両の方向へ向かって歩いていく。
「隊長は新幹線に乗ってどこ行く予定なんですか?」
「金沢のおじいちゃんち。おじいちゃんにさいごのばいばいするんだって」
「そっか……聞いてごめんね」
「? なんで?」
「……ううん。おじいちゃんと沢山お話してあげてくださいね」
「うん。おねえちゃんたいいんは?」
「私は、お友達に会いに行くの。引っ越してからあまり会えなくなっちゃったから」
「そしたらお姉ちゃんもいっぱいお話しなきゃね」
「……そうだね」
新幹線は沢山の物語を運んで走っていく。
少年はひょうたん島のテーマを歌いながら進んでいく。その後をしみじみとついて行くと、車掌に向かう途中でトイレを見つける。トイレの前では焦った様子の三十代ぐらいの男性と先程駅で案内してくれた男性駅員が話していた。
「あれ、先程の駅員さん?」
「おや……?」
「パパ!」
「翔! どこ行ってたんだ! 翔がいないからパパびっくりしたよ!」
やはり少年の父親だったらしいその男性は、ほっと安心した顔をして、少年に駆け寄って抱き締めた。チラッと駅員の彼に視線を送れば、彼もホッとした表情を浮かべ、帽子のつばをもち、軽く会釈をした。
「パパがうんこしにいってなかなかかえってこないからお姉ちゃんに遊んでもらってた」
「う……それはごめんな……お姉さんも翔の相手してくださってありがとうございます」
翔の父親は赤面している。子どもの素直さは時に残酷である。
「気にしないでくださいね。翔くんが暇してた私を探検ごっこに誘ってくださったので楽しい時間を過ごせましたよ。ね、翔隊長?」
「うん、お姉ちゃんたいいんとパパたいいんをさがすたんけんしたよ。たのしかったよ」
「そうか、パパ隊員も翔隊長とお姉さんに見つけてもらえてよかったよ。車掌さんもお手数おかけして申し訳ありませんでした」
「いえ。ご子息が見つかって何よりです。お姉さん隊員さんもご協力ありがとうございました」
「お姉ちゃんありがとね」
「うん、またね」
翔の父親は私と駅員さんにお辞儀をすると、翔少年の手を引いて、自分たちの座席に戻っていく。残された二人は改めて向き直る。またいつか会えるといいなと思っていたら早々に再会してしまった。
「まさか駅員さんも乗ってたなんて思いませんでした」
「東都には仕事で来ていて丁度長野に帰る途中でしたので」
「そうだったんですね。お疲れ様です」
「ありがとうございます。隊員さんもお疲れ様です」
クスリときれいな顔で笑われ、バツが悪い。子どもに付き合っていたとは言え面と向かって言われると少しこそばゆ
い。逃げるように、席に戻りますと言えば、微笑みを絶やさずにそれではまたと駅員さんも持ち場に戻っていった。
席に戻り、化粧ポーチの中身を確認し、リュックに仕舞う。お土産と一緒に駅で買っていたお茶の入ったペットボトルを開けて、残りの到着時間はゆったりとくつろぎながら窓の外の景色を見つめることにした。その地域に住む人たちの息づかいが窓の外を静かに流れていく。
「あれ? 高明君からメッセージ入ってる?」
目的地の長野まで十五分切ったところで連絡を入れようとすれば、メッセージアプリに連絡が来ていることに気づく。
「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」
「……高明くんの故事成語、懐かしいね。相変わらずよくわかんないけど」
ふふふっと思い出す。小さい頃に高明くんが言った故事成語を魔法の呪文だと勘違いして、高明くんは魔法使いだと言って、彼を困らせていたのを思い出した。珍しく困った顔をしていて、敢助くんが愉快そうに笑っていたのも鮮明に憶えている。
「高明くんお久し振りです。今日は会えるのを楽しみにしています」
メッセージを返すと、車内チャイムが鳴る。まもなく長野駅到着するというアナウンスを聞いて、頭上の収納からキャリーバックを下ろし、駅に着いたらすぐに降りられるように荷物を整理する。まだ始まったばかりだというのに色々な事があったなと息をつく。予想外ごとが多かったが、全て新幹線が結んでくれたご縁なのだろう。袖売り合うのも他生の縁。小さな事だろうが、こういった経験も自分の中で何かしらの一部になっていくのだろう。そう思うとここまでに抱いた気持ちは悪い気はしない。
荷物を纏めて新幹線を降りる。――長野駅。ホームから見える街並みは変わってしまっているところもあるようだけれども、どこか懐かしい。ほっとするのは大好きな人たちが私を待っていてくれるからなのだろう。
新幹線が発車するのを見えなくなるまで見送ってからホームを降りて改札口へと向かう。改札をでて、きょろきょろと見回すと、私に向かって手を振る由衣ちゃんと隣に佇む敢助くんの姿が見えた。会いたかった二人に感極まる反面、杖をついている敢助くんに姿にぎょっとする。事故に遭ったと聞いてたが大丈夫なのだろうか。
「なまえちゃん! こっち!」
「おー、みょうじか。大きくなったな」
「由衣ちゃん! 敢助君! 久し振り!」
足早に近寄って行けば、由衣ちゃんが両手を広げてそのまま抱き締めて、敢助くんが頭をポンポンと撫でてくれる。会いたい相手がいるって幸せなことだなァ。三人で一頻り再会を喜び合っていると、背後からポンと肩を叩かれた。振り向く前に肩口に誰かの顔が近づいて耳元で囁かれる。
「お客様、きっぷを拝見」
「っ!?」
ドキリとして飛び上がり、囁かれた耳を押さえてよろよろと由衣ちゃんの背後に隠れた。甘みを帯びた低温が鼓膜の奥で渦巻いている。何やっているんだと敢助くんの胡乱な視線を気にしている余裕はない。心臓はどくどくと早鐘を打ち、そっと様子を窺う。長野に来るまでに何度も会っていたあの駅員の男性が高明くんだったなんて全然気づかなかった。似ているような気はしたけど、随分と会っていなかったから他人の空似かもしれないと全然気づかなかった。高明くんはきっと最初から私のことに気づいていて、どこで気づくのかと反応を見てほくそ笑んでいたのだろう。彼は意外とそういうところがある。私のことを絶対に揶揄っている。
「先ほど落とされましたよ」
そういって私が落としたきっぷを差し出してきた彼は悪戯が成功したという笑みを浮かべていた。
25.06.09 初出 『great journey』
『隻眼』で病院抜け出した後の諸伏高明と看護師の幼馴染
親鳥の後を追う雛鳥、そんな印象だった。
弟が公園で仲良くなったという少女は弟と同い年。性格は温和で人懐っこい性格であった。弟が紹介してくれた時に、大きな目をキラキラと輝かせて、景光くんのお兄ちゃんと羨望の眼差しで見つめられた時は満更でもなかった。程なくして懐いた彼女は「高明くん、高明くん」とついて回る姿も鳥類の刷り込み現象のようだった。自分を慕ってついてくる彼女が本当の妹のようで、自分の妹のように可愛がっていた。小学生、中学生、高校生、と成長してからも変わらず高明くんと朗らかな笑みを浮かべて接する彼女に癒されていた。
彼女が医療機関に勤めることになったと聞いたのは随分前だった。彼女は大和敢助や上原由衣とも顔見知りの間柄であり、諸伏らが警察官になると決めたことで、彼女もその決意を固くしたようであった。
――高明くんと景光くん、敢助くん、由衣ちゃんが警察官になるなら、私が皆を怪我や病気から護る
そうして宣言していた言葉通りになった。看護師となった彼女は日々命と向き合い、多くの人々の助けとなっているようだ。暫く会えていなかったが、まさか己が彼女の勤務するに運ばれると思わなかった。氷で覆われた滝つぼから九死に一生を得て、目を覚ましてみれば、泣き出しそうな表情を浮かべた彼女を見つけた。はっとした彼女はすぐに諸伏さんと問診を開始する。先程まで泣き出しそうな表情をしていたのは見間違いだったのかと思わせるぐらい成長した彼女は凛々しく、テキパキと処置をしていた。
「絶対に安静ですからね。ゆっくり休んでくださいね」
「ええ、ありがとうございます」
そう言って部屋を出ていった彼女を見送って帰ってこないのを確認すると急ぎ病院を抜け出し、天文台での一件を終え病院へと戻れば、彼女が仁王立ちしながらニッコリと出迎えたのである――
「高明くん、私は絶対安静にしてろって言ったよね!?」
「そうでしたっけ?」
「とぼけないでよ。心配したんだよ!」
「すみません」
彼女はぐいっと顔を覗き込むように近づけてきた。神妙な顔つきのその眼下にはうっすらと青いクマが浮かんでいる。
「病院抜け出して具合悪くなったりしてない?」
「問題ないですよ。ただ君の仕事ぶりに感心していました」
「はぁ……今度抜け出したらはっ倒すからね」
「ははは、もうしませんよ」
「前科一犯ですよ、諸伏警部」
「おや、手厳しい」
じとりとした視線を寄越した彼女を見る。昔、自分の後ろを追いかけていた引っ込み思案は少女はいつの間にかに成長し、人の命を護るための美しく成長した。小さな握って先を歩いていた筈がいつしか隣を歩いていたのだと気付いてフフッと笑えば、胡乱な視線が飛んでくる。
「やはり滝つぼ落ちたのに無理して熱が……?!」
諸伏の額に当てた白い腕を掴み、背に片腕を回す。額同士を合わせると、微笑を浮かべた。
「……ほら。杞憂、でしょう?」
固まった彼女を見やり、掴んでいた方の腕も背に回す。肩口に埋もれた彼女の顔は見えなくなったが、小さい嗚咽が聞こえてきて、幼子をあやすように背中をトントンと叩く。泣き虫は変わらないなあ。
「…………高明くん、敢助くんと由衣ちゃん後で来てくれるそうですよ」
「そうですか」
「彼らもそうですが、高明くんももっと自分を大事にしてください。病院に運ばれてきた時、血の気が引きました」
「……ご心配お掛けして申し訳ない」
「私たちは患者さんを助けるためなら全力を尽くします。でも状況によっては見つけ出す前にお亡くなりになってしまったりして助け出せない時もあります」
グッと目元を乱暴に拭った彼女は、諸伏を見上げる。
「職務を遂行するその信念は素晴らしい。けれども命あっての物種だから――」
――もっとご自愛ください。
生半可な二の句はとても継げやしない。
今回は命拾いしたが、次はどうかはわからない。絶対はない。待つ身より待たるる身とはこんな気持ちのなるものなのか。気丈に振る舞おうとするから涙さえ拭うことは出来なかった。
あまつさえ彼女の言葉には満足に応えられない。口惜しさを覚えつつも、少し落ち着いたらしい彼女は諸伏の胸を押して立ち上がる。目元は赤くなってしまっているが、その奥の瞳は真っ直ぐに諸伏を見つめている。
――ほんとうに強くなった。
彼女が近所のガキ大将に揶揄われているのを見かけて助け出したのは今は昔。泣き虫だった雛鳥が成長して育った姿を見て感慨深くも、胸の奥に隙間風が吹き込んでいくような感覚がする。
「高明くんが生きてて良かった」
肩の荷が下りたと息をついた彼女のその目元は赤く痛々しい。優しく撫でてやると、冷たい手と頬ずりして笑った。その姿にそっと息を呑む。約束はできないが、せめて彼女の覚悟には応えなければならない。
「言うは易く行うは難し」
「?」
彼女は突然飛んできた言葉にピンときてない様子で、またことわざ? と首を捻っているのを見て、微笑む。彼女に対するこの気持ちは慈しみに他ならない。優しく撫でていた目元からなぞるようの指先を下降させ、頬のなだらかなふくらみを通り過ぎ、指先でふにっと唇をつつくと、慌てた声が転がって来たが、それも悪くない。
「職業上、今回の様な怪我を負ったり、帰れなかったりもあるでしょうから絶対に帰るとは約束はできません」
「うん」
「……ですが、目覚めた時、私を想うあなたの姿を見て、帰る場所はあなたの元がいいと思いました」
「え」
「これからも私が帰る場所にあなたがいて欲しい」
諸伏は彼女の手を取ってその甲に口づけを落とした。その小さな手は荒れていて、その手でこの病院の患者達と向き合い、この病院だけではなく、病や怪我と闘う者全ての者の味方でありたいと命を活かそうと粉骨砕身してきたのだろう。そう想うと愛おしく思う。顔を上げて、にこりと微笑めば、頬を紅潮させた彼女がはにかんだ。
「高明! どこだ!? 無事か!?」
「ちょっと敢ちゃん! ここ病院よ!」
どたどたと騒がしい声がこの部屋に近づいてくるのを聞いて、「来たな、敢助くんと由衣ちゃん……」と彼女が呟く。他の患者さんの迷惑だから注意してくるね、と出ていったその顔は先程までの可愛らしい表情ではなく、仕事に真摯に向き合おうとする凛々しい表情であった。「静かにしてください」と敢助くん達を注意した瞬間に他の看護師から「あなたも少し声が大きい」と注意されている声がこの部屋まで届いてきて、思わず笑ってしまった。
25.06.04 加筆修正
25.05.25 初出 『思う念力岩をも通す』
親鳥の後を追う雛鳥、そんな印象だった。
弟が公園で仲良くなったという少女は弟と同い年。性格は温和で人懐っこい性格であった。弟が紹介してくれた時に、大きな目をキラキラと輝かせて、景光くんのお兄ちゃんと羨望の眼差しで見つめられた時は満更でもなかった。程なくして懐いた彼女は「高明くん、高明くん」とついて回る姿も鳥類の刷り込み現象のようだった。自分を慕ってついてくる彼女が本当の妹のようで、自分の妹のように可愛がっていた。小学生、中学生、高校生、と成長してからも変わらず高明くんと朗らかな笑みを浮かべて接する彼女に癒されていた。
彼女が医療機関に勤めることになったと聞いたのは随分前だった。彼女は大和敢助や上原由衣とも顔見知りの間柄であり、諸伏らが警察官になると決めたことで、彼女もその決意を固くしたようであった。
――高明くんと景光くん、敢助くん、由衣ちゃんが警察官になるなら、私が皆を怪我や病気から護る
そうして宣言していた言葉通りになった。看護師となった彼女は日々命と向き合い、多くの人々の助けとなっているようだ。暫く会えていなかったが、まさか己が彼女の勤務するに運ばれると思わなかった。氷で覆われた滝つぼから九死に一生を得て、目を覚ましてみれば、泣き出しそうな表情を浮かべた彼女を見つけた。はっとした彼女はすぐに諸伏さんと問診を開始する。先程まで泣き出しそうな表情をしていたのは見間違いだったのかと思わせるぐらい成長した彼女は凛々しく、テキパキと処置をしていた。
「絶対に安静ですからね。ゆっくり休んでくださいね」
「ええ、ありがとうございます」
そう言って部屋を出ていった彼女を見送って帰ってこないのを確認すると急ぎ病院を抜け出し、天文台での一件を終え病院へと戻れば、彼女が仁王立ちしながらニッコリと出迎えたのである――
「高明くん、私は絶対安静にしてろって言ったよね!?」
「そうでしたっけ?」
「とぼけないでよ。心配したんだよ!」
「すみません」
彼女はぐいっと顔を覗き込むように近づけてきた。神妙な顔つきのその眼下にはうっすらと青いクマが浮かんでいる。
「病院抜け出して具合悪くなったりしてない?」
「問題ないですよ。ただ君の仕事ぶりに感心していました」
「はぁ……今度抜け出したらはっ倒すからね」
「ははは、もうしませんよ」
「前科一犯ですよ、諸伏警部」
「おや、手厳しい」
じとりとした視線を寄越した彼女を見る。昔、自分の後ろを追いかけていた引っ込み思案は少女はいつの間にかに成長し、人の命を護るための美しく成長した。小さな握って先を歩いていた筈がいつしか隣を歩いていたのだと気付いてフフッと笑えば、胡乱な視線が飛んでくる。
「やはり滝つぼ落ちたのに無理して熱が……?!」
諸伏の額に当てた白い腕を掴み、背に片腕を回す。額同士を合わせると、微笑を浮かべた。
「……ほら。杞憂、でしょう?」
固まった彼女を見やり、掴んでいた方の腕も背に回す。肩口に埋もれた彼女の顔は見えなくなったが、小さい嗚咽が聞こえてきて、幼子をあやすように背中をトントンと叩く。泣き虫は変わらないなあ。
「…………高明くん、敢助くんと由衣ちゃん後で来てくれるそうですよ」
「そうですか」
「彼らもそうですが、高明くんももっと自分を大事にしてください。病院に運ばれてきた時、血の気が引きました」
「……ご心配お掛けして申し訳ない」
「私たちは患者さんを助けるためなら全力を尽くします。でも状況によっては見つけ出す前にお亡くなりになってしまったりして助け出せない時もあります」
グッと目元を乱暴に拭った彼女は、諸伏を見上げる。
「職務を遂行するその信念は素晴らしい。けれども命あっての物種だから――」
――もっとご自愛ください。
生半可な二の句はとても継げやしない。
今回は命拾いしたが、次はどうかはわからない。絶対はない。待つ身より待たるる身とはこんな気持ちのなるものなのか。気丈に振る舞おうとするから涙さえ拭うことは出来なかった。
あまつさえ彼女の言葉には満足に応えられない。口惜しさを覚えつつも、少し落ち着いたらしい彼女は諸伏の胸を押して立ち上がる。目元は赤くなってしまっているが、その奥の瞳は真っ直ぐに諸伏を見つめている。
――ほんとうに強くなった。
彼女が近所のガキ大将に揶揄われているのを見かけて助け出したのは今は昔。泣き虫だった雛鳥が成長して育った姿を見て感慨深くも、胸の奥に隙間風が吹き込んでいくような感覚がする。
「高明くんが生きてて良かった」
肩の荷が下りたと息をついた彼女のその目元は赤く痛々しい。優しく撫でてやると、冷たい手と頬ずりして笑った。その姿にそっと息を呑む。約束はできないが、せめて彼女の覚悟には応えなければならない。
「言うは易く行うは難し」
「?」
彼女は突然飛んできた言葉にピンときてない様子で、またことわざ? と首を捻っているのを見て、微笑む。彼女に対するこの気持ちは慈しみに他ならない。優しく撫でていた目元からなぞるようの指先を下降させ、頬のなだらかなふくらみを通り過ぎ、指先でふにっと唇をつつくと、慌てた声が転がって来たが、それも悪くない。
「職業上、今回の様な怪我を負ったり、帰れなかったりもあるでしょうから絶対に帰るとは約束はできません」
「うん」
「……ですが、目覚めた時、私を想うあなたの姿を見て、帰る場所はあなたの元がいいと思いました」
「え」
「これからも私が帰る場所にあなたがいて欲しい」
諸伏は彼女の手を取ってその甲に口づけを落とした。その小さな手は荒れていて、その手でこの病院の患者達と向き合い、この病院だけではなく、病や怪我と闘う者全ての者の味方でありたいと命を活かそうと粉骨砕身してきたのだろう。そう想うと愛おしく思う。顔を上げて、にこりと微笑めば、頬を紅潮させた彼女がはにかんだ。
「高明! どこだ!? 無事か!?」
「ちょっと敢ちゃん! ここ病院よ!」
どたどたと騒がしい声がこの部屋に近づいてくるのを聞いて、「来たな、敢助くんと由衣ちゃん……」と彼女が呟く。他の患者さんの迷惑だから注意してくるね、と出ていったその顔は先程までの可愛らしい表情ではなく、仕事に真摯に向き合おうとする凛々しい表情であった。「静かにしてください」と敢助くん達を注意した瞬間に他の看護師から「あなたも少し声が大きい」と注意されている声がこの部屋まで届いてきて、思わず笑ってしまった。
25.06.04 加筆修正
25.05.25 初出 『思う念力岩をも通す』
女審神者と三日月
――断じてこれは愛ではない。愛の行為ではない。
己にそう言い聞かせながら、密やかに息を吸う。喉奥はからからと痰が絡んでいる。乾いた咳払いをしつつ、呼吸がしずらいのはこの痰のせいだけではないことは理解している。唇はふるふると震え、緊張で気道が絞まっていく。努めてゆっくりと肺を揺らし、呼吸を繰り返すがそれでも吸い込んだ空気は体内を上手く巡りやしない。情けなく息を漏らしながら喘いでいる。
「あるじ? また具合が悪いのか?」
――月が見ている。
溜息を漏らすような、はたまた、はっと息を呑むような。そんな美しい月がこちらを見下ろしている。さらりと揺れる夜を凝縮した色の髪。その眼差しは慈愛に満ち、優しく真綿で包み込むようであった。下弦の月が濃紺の空に浮かび、さらさらと揺れる長い柳の葉が瞬く。その一挙手一投足、すべてが美しく悩ましい。その相貌に見惚れていれば、瞳は見る間に曇り、不安を灯す。ゆっくりと手が伸び、両頬が包まれる。輪郭に触れ、人間の柔らかい感触をじっくりと確かめる仕草はまるで壊れ物にでも扱うかのように触れ方だ。少し顔色が悪いと、雲の切れ間から覗き込むように顔色を窺う仕草も様になるものだから、些か居心地が悪い。この美しい月に下心など微塵もない。ただあるのは主である己への労りだけ。憧憬に懸想する哀れな小娘を慈しみ、審神者という役割から脱落しないように繋ぎ止めているに過ぎない。眼下の薄い皮膚を冷たい指先がなぞり、しかりと眠れているかと物憂げに見つめてくるその表情に益々苦々しくなる。はくりと口を開くが喉が乾いて音にならない。振りほどくように咳払いをして再び口を開く。
「だい、じょうぶ。大丈夫だよ、三日月」
「主……。しかし、だなぁ……」
「今日は安静にしてた。大丈夫。いくら霊力が不安定だからって……その……やっぱり、良くないよ」
彷徨いそうになる視線をぐっと堪えてその麗しい月を見つめて言う。当の本人は想定外だったというような顔をしており、そのきょとんとした顔ですらも美しい。思わず手を伸ばしそうになった手をキツくに握り締め、そっと心臓に手を当てる。
「(……ああ、なんて浅ましい)」
献身的な善意を下劣な心で無為にするなどは許されない。この方は己を主として、審神者として慕っているだけだ。歴史修正主義者と対峙するために刀剣より顕現された付喪神。軟弱な小娘ごときが憧憬を寄せたところでたかが知れている。
「口吸いの相手がじじいでは嫌か?」
そんな浅ましい審神者の心をいざ知らず。彼は長い睫毛をはたはたと瞬かせ、こてんと首を傾げている。
三日月は眼下から指先を移動させ、渇いた唇をつんと弾いた。血色の悪い唇をそっとなぞられる。頭を掻き毟りたくなるような厚意に、目が、眩みそうになる。
「――そう、じゃない」
「ならば」
そうではない。
絞り出した声は思いの外低く唸った。その声に三日月は驚いた表情を浮かべる。
「霊力を補う苦肉の策とはいえ、体の交わりで補うなんてことはしたくない……そんな当人の意思を度外視にした行為はしたく、ない」
「? 所詮刀はモノであろう。顕現させたのは主だ。俺は主のモノといえばそうなのだろう」
事も無げに言い放つ三日月に、喉奥が引きつりひゅっと鳴る。上顎が貼り付いたように息苦しく、砂漠に一人解き放たれたような寂しさにぎゅと心臓を握り潰された心地になってしまう。ガツンと頭を殴られたよう。目の前が暗くなる感覚。
「違う……ちがう」
それを振り払おうとぶんぶんと頭を振る。神様が人の姿をして同じ高さまで降りてきてくれた。決して目の前にいる三日月がモノだとは到底思っていなかったし、そんなつもりは毛頭なかった。こうして眼の前で向き合って、会話して、笑ったり、泣いたり、喧嘩をしたり。そういう心を通わせて少しは親しくなれた間柄だと思っていた。不出来な審神者を見限ろうなどせず、ついぞ支えてくれたから。刀のいろはも分からぬ小娘に呆れずに優しく教えて見守ってくれた。そうした厚意に応えたかった。そんな相手にそう思わせていたなんてあまりにも寂しすぎる。
「ちが、う、ちがうっ!」
「あ、あるじ?」
声が震えて、目の奥が熱くなる。キュッと喉の奥が締まる。わなわなと身体が震えてしまう。腹の底からふつふつと湧き上がる憤りに唇を噛み締める。己のままならぬ状況が不甲斐なくて狂おしいほど悔しい。戦場に送り出すたびに苛まれる。引き裂かれるような罪悪感と二度と帰ってこないのではないかという恐怖心。霊力が不安定であるばかりに仲間を中々顕現させられない。常に戦力不足。そんな状況でも何一つ不平不満を言わず、審神者の体調を第一に気に掛けてくれる。
「無理をしてくれるな主よ。身体を大事にしれくれ」
呼び掛ける優しい声には焦燥が滲む。声を張り上げて噎せる背中を擦るその優しい手。あなたは、あなたたちはモノではないのだ。
「主よ。もう無理をしないでくれ。主が倒れてしまったら困る」
「……ねぇ、やっぱりあなたはモノではないよ」
「何を」
「あなた達には物心が付いたでしょう」
丸まった背中をさする手が止まる。乱れた呼吸を整えながら顔をあげれば、丸い水面に映る三日月は揺れている。
――嗚呼、きれいだ。
三日月にそっと手を伸ばし、透明感のある頬に触れる。ピクリと三日月の体が揺れたが、払い除けられるような拒絶はない。ゆっくり優しく撫でれば、むず痒いような表情で暫く頬を引きつらせていた。やがて、眉根をハの字に曲げ、はにかむように笑うと、手の平に頬擦りをしてきた。
「あるじ」
「私の霊力が安定しないばかりに気遣ってくれたのはとても嬉しいよ。ありがとう」
「ああ」
「だけど”主"だからという義務感で自分を蔑ろには絶対にしないで欲しい」
約束してくれるかい。そう言って三日月の頬を撫でながらその瞳を見つめれば、ぐいっと腕を引かれて抱き締められる。あるじ、と密やかな声で呼び掛ける三日月の姿を目にしてしまえばもう何も言うまい。きつく抱き締められたまま、されるがままになって、天井を仰いだまま目を瞑る。
「ありがとう」
「体調不良で中々安定しないから苦労かけてると思うけど……」
「そんなことはない。加州や乱も今剣も。皆が主の世話焼くの楽しそうにしておった」
「ああ……迷惑かけてる」
「誰も迷惑だとは思っておらんよ」
「そうだと……ありがたいけどなぁ」
「あるじ」
「なに……んぅ」
落とされた口づけ。優しい刹那。何が起こったのか混乱していたが、事の次第に気づくとハッと我に返るが、抱き締められたまま身動きができない。身を捩ろうにも抑え込まれ、されるがまま唇を甘噛みされたり吸われたりしている内に脳がぼんやりとしていく。このままでは良くない。蕩ける意思の中で止めようと伸ばした手はそのまま地面に縫い付けられてしまう。
「っあ……みか、づき、だめ」
「……大丈夫だ。主が俺たちを大事に想ってくれるように俺たちも主を大事に想っている」
にこりと美しい月の微笑みに、視界が霞む。初めての口づけは切ないほどやさしい。唇をぬるりと舐めて引き結んでいた口元が解かれていく。ゆっくりと口内に入ってきた舌が絡まり、吸い上げられる。ちゅちゅちゅと吸われていると身体の底からじんわりと熱を帯び始めていく。それと同時に温かい何かが流れ込んでくる感覚がする。眠っていた細胞が活性化されているような感覚。これが三日月の霊力なのだろうか。少しずつ身体が目覚めいくような、そんな感覚がする。身体が火照っている。
「……っは、ぁっ……主」
ゆっくりと離れた三日月は恍惚とした表情を浮かべながら己の唇をなぞっている。霊力が循環し、彼自身も火照っているようであった。無意識なのか何度も何度も己の唇をなぞり、先程の行為を反芻しているようだった。恥ずかしいやら何やらで視線を彷徨わせていれば、「主」とはにかむ月の声。
「みかづき?」
「その……もう少し、口を吸ってもよいか?」
そう言ってこちらを見つめる瞳は月というよりは焦がれる太陽のようであった。
24.08.19 初出 『月よ星よと』
――断じてこれは愛ではない。愛の行為ではない。
己にそう言い聞かせながら、密やかに息を吸う。喉奥はからからと痰が絡んでいる。乾いた咳払いをしつつ、呼吸がしずらいのはこの痰のせいだけではないことは理解している。唇はふるふると震え、緊張で気道が絞まっていく。努めてゆっくりと肺を揺らし、呼吸を繰り返すがそれでも吸い込んだ空気は体内を上手く巡りやしない。情けなく息を漏らしながら喘いでいる。
「あるじ? また具合が悪いのか?」
――月が見ている。
溜息を漏らすような、はたまた、はっと息を呑むような。そんな美しい月がこちらを見下ろしている。さらりと揺れる夜を凝縮した色の髪。その眼差しは慈愛に満ち、優しく真綿で包み込むようであった。下弦の月が濃紺の空に浮かび、さらさらと揺れる長い柳の葉が瞬く。その一挙手一投足、すべてが美しく悩ましい。その相貌に見惚れていれば、瞳は見る間に曇り、不安を灯す。ゆっくりと手が伸び、両頬が包まれる。輪郭に触れ、人間の柔らかい感触をじっくりと確かめる仕草はまるで壊れ物にでも扱うかのように触れ方だ。少し顔色が悪いと、雲の切れ間から覗き込むように顔色を窺う仕草も様になるものだから、些か居心地が悪い。この美しい月に下心など微塵もない。ただあるのは主である己への労りだけ。憧憬に懸想する哀れな小娘を慈しみ、審神者という役割から脱落しないように繋ぎ止めているに過ぎない。眼下の薄い皮膚を冷たい指先がなぞり、しかりと眠れているかと物憂げに見つめてくるその表情に益々苦々しくなる。はくりと口を開くが喉が乾いて音にならない。振りほどくように咳払いをして再び口を開く。
「だい、じょうぶ。大丈夫だよ、三日月」
「主……。しかし、だなぁ……」
「今日は安静にしてた。大丈夫。いくら霊力が不安定だからって……その……やっぱり、良くないよ」
彷徨いそうになる視線をぐっと堪えてその麗しい月を見つめて言う。当の本人は想定外だったというような顔をしており、そのきょとんとした顔ですらも美しい。思わず手を伸ばしそうになった手をキツくに握り締め、そっと心臓に手を当てる。
「(……ああ、なんて浅ましい)」
献身的な善意を下劣な心で無為にするなどは許されない。この方は己を主として、審神者として慕っているだけだ。歴史修正主義者と対峙するために刀剣より顕現された付喪神。軟弱な小娘ごときが憧憬を寄せたところでたかが知れている。
「口吸いの相手がじじいでは嫌か?」
そんな浅ましい審神者の心をいざ知らず。彼は長い睫毛をはたはたと瞬かせ、こてんと首を傾げている。
三日月は眼下から指先を移動させ、渇いた唇をつんと弾いた。血色の悪い唇をそっとなぞられる。頭を掻き毟りたくなるような厚意に、目が、眩みそうになる。
「――そう、じゃない」
「ならば」
そうではない。
絞り出した声は思いの外低く唸った。その声に三日月は驚いた表情を浮かべる。
「霊力を補う苦肉の策とはいえ、体の交わりで補うなんてことはしたくない……そんな当人の意思を度外視にした行為はしたく、ない」
「? 所詮刀はモノであろう。顕現させたのは主だ。俺は主のモノといえばそうなのだろう」
事も無げに言い放つ三日月に、喉奥が引きつりひゅっと鳴る。上顎が貼り付いたように息苦しく、砂漠に一人解き放たれたような寂しさにぎゅと心臓を握り潰された心地になってしまう。ガツンと頭を殴られたよう。目の前が暗くなる感覚。
「違う……ちがう」
それを振り払おうとぶんぶんと頭を振る。神様が人の姿をして同じ高さまで降りてきてくれた。決して目の前にいる三日月がモノだとは到底思っていなかったし、そんなつもりは毛頭なかった。こうして眼の前で向き合って、会話して、笑ったり、泣いたり、喧嘩をしたり。そういう心を通わせて少しは親しくなれた間柄だと思っていた。不出来な審神者を見限ろうなどせず、ついぞ支えてくれたから。刀のいろはも分からぬ小娘に呆れずに優しく教えて見守ってくれた。そうした厚意に応えたかった。そんな相手にそう思わせていたなんてあまりにも寂しすぎる。
「ちが、う、ちがうっ!」
「あ、あるじ?」
声が震えて、目の奥が熱くなる。キュッと喉の奥が締まる。わなわなと身体が震えてしまう。腹の底からふつふつと湧き上がる憤りに唇を噛み締める。己のままならぬ状況が不甲斐なくて狂おしいほど悔しい。戦場に送り出すたびに苛まれる。引き裂かれるような罪悪感と二度と帰ってこないのではないかという恐怖心。霊力が不安定であるばかりに仲間を中々顕現させられない。常に戦力不足。そんな状況でも何一つ不平不満を言わず、審神者の体調を第一に気に掛けてくれる。
「無理をしてくれるな主よ。身体を大事にしれくれ」
呼び掛ける優しい声には焦燥が滲む。声を張り上げて噎せる背中を擦るその優しい手。あなたは、あなたたちはモノではないのだ。
「主よ。もう無理をしないでくれ。主が倒れてしまったら困る」
「……ねぇ、やっぱりあなたはモノではないよ」
「何を」
「あなた達には物心が付いたでしょう」
丸まった背中をさする手が止まる。乱れた呼吸を整えながら顔をあげれば、丸い水面に映る三日月は揺れている。
――嗚呼、きれいだ。
三日月にそっと手を伸ばし、透明感のある頬に触れる。ピクリと三日月の体が揺れたが、払い除けられるような拒絶はない。ゆっくり優しく撫でれば、むず痒いような表情で暫く頬を引きつらせていた。やがて、眉根をハの字に曲げ、はにかむように笑うと、手の平に頬擦りをしてきた。
「あるじ」
「私の霊力が安定しないばかりに気遣ってくれたのはとても嬉しいよ。ありがとう」
「ああ」
「だけど”主"だからという義務感で自分を蔑ろには絶対にしないで欲しい」
約束してくれるかい。そう言って三日月の頬を撫でながらその瞳を見つめれば、ぐいっと腕を引かれて抱き締められる。あるじ、と密やかな声で呼び掛ける三日月の姿を目にしてしまえばもう何も言うまい。きつく抱き締められたまま、されるがままになって、天井を仰いだまま目を瞑る。
「ありがとう」
「体調不良で中々安定しないから苦労かけてると思うけど……」
「そんなことはない。加州や乱も今剣も。皆が主の世話焼くの楽しそうにしておった」
「ああ……迷惑かけてる」
「誰も迷惑だとは思っておらんよ」
「そうだと……ありがたいけどなぁ」
「あるじ」
「なに……んぅ」
落とされた口づけ。優しい刹那。何が起こったのか混乱していたが、事の次第に気づくとハッと我に返るが、抱き締められたまま身動きができない。身を捩ろうにも抑え込まれ、されるがまま唇を甘噛みされたり吸われたりしている内に脳がぼんやりとしていく。このままでは良くない。蕩ける意思の中で止めようと伸ばした手はそのまま地面に縫い付けられてしまう。
「っあ……みか、づき、だめ」
「……大丈夫だ。主が俺たちを大事に想ってくれるように俺たちも主を大事に想っている」
にこりと美しい月の微笑みに、視界が霞む。初めての口づけは切ないほどやさしい。唇をぬるりと舐めて引き結んでいた口元が解かれていく。ゆっくりと口内に入ってきた舌が絡まり、吸い上げられる。ちゅちゅちゅと吸われていると身体の底からじんわりと熱を帯び始めていく。それと同時に温かい何かが流れ込んでくる感覚がする。眠っていた細胞が活性化されているような感覚。これが三日月の霊力なのだろうか。少しずつ身体が目覚めいくような、そんな感覚がする。身体が火照っている。
「……っは、ぁっ……主」
ゆっくりと離れた三日月は恍惚とした表情を浮かべながら己の唇をなぞっている。霊力が循環し、彼自身も火照っているようであった。無意識なのか何度も何度も己の唇をなぞり、先程の行為を反芻しているようだった。恥ずかしいやら何やらで視線を彷徨わせていれば、「主」とはにかむ月の声。
「みかづき?」
「その……もう少し、口を吸ってもよいか?」
そう言ってこちらを見つめる瞳は月というよりは焦がれる太陽のようであった。
24.08.19 初出 『月よ星よと』
御影密と女主とウィークエンドシトロン
秋の日差しが心地よく身に沁みる。部屋の窓際に置かれた大きなビーズクッションに身体をもたれかけて日向ぼっこ。夏ならば暑くて辟易していた日差しも、肌寒くなってきたこの季節になるとその温かさが恋しくなる。海老のように丸くなって目を瞑るとふわふわと良い心地になって、うとうとと眠くなっていく。
「密さん? お眠ですか?」
彼女の、{name2}の声。優しくて柔らかくて、お菓子みたいに甘くて良い匂い。洋菓子店に勤務する彼女の家はお店で出すお菓子の練習のためにお菓子を作っている為いつも甘い匂いがする。焼き菓子の香ばしい匂いであったり、チョコレートの甘い匂いであったり。甘いものが好きな俺にとってはそれがたまらない。ふらりと朝日の家に立ち寄れば、彼女は嫌な顔一つせずににこにこと笑って部屋に上げてお菓子をご馳走してくれる。味見してほしいと差し出される{name2}が作るお菓子は甘くて美味しい。食感も甘さも香りも、そのお菓子の美味しいを引き出すようして作られているからどのお菓子も文句のつけようがなく美味しい。俺はマシュマロが好きだけど、同じぐらい{name2}が作るお菓子は美味しくてどれもお気に入り。甘いものが好きな俺にとってはまさに至れり尽くせりだ。必ず帰る際には俺が所属する劇団の団員達と食べてとレモンケーキをお土産まで渡してくれる。レモンの爽やかな風味と表面をコーティングする砂糖掛けの程よい甘さ。口当たりが良くて劇団の皆からも好評だった。本当は誰にもあげたくないけれど{name2}は皆で食べてねと必ず念押しをする。穏やかな{name2}がそういう風に強めに主張するのは珍しいし、余程のことだろうから仕方なく皆にお裾分けしているけれど、どうしてなのだろう。
「密さん、密さん。起きてください。有栖川さんがお迎えにきていますよ」
「迎えに来たよ、密くん。皆が待っているから帰ろう」
劇団の同室のアリスが{name2}の家の中に入ってきていた。いつも眠ってしまう俺を迎えに来るのはアリスの役目みたいになっているけれども、まだこの砂糖菓子のような空間で微睡んでいたい。そっと片目を開けてアリスの姿を見つけて、再び目を閉じる。
「いないって言って追い返して」
「いないって……私もう目の前にいるのだからそれは通用しないよ」
「お、起きて密さん……。お土産のケーキもありますから」
「レモンケーキ?」
「ええ。今日のは良い出来栄えです」
「おお。{name2}くんの特製のレモンケーキだね。私もこれを頂くの楽しみなのだよ」
先程まで考えていたレモンケーキの事が話題に上がり、思わず目を開く。何かいい詩興の予感がするといいながらブツブツ何か考えているアリスを放っておいて、ゆっくりと体を起こす。おはようございますと少しほっとしたような笑みを浮かべた{name2}を見やる。またいつでも来てくださいねとラッピングされた箱を差し出される。
「皆さんで食べてくださいね」
「どうしていつもレモンケーキなの?」
俺の問いかけにキョトンした{name2}が、おずおずと言う。
「お嫌い、でした?」
「ううん。{name2}のお菓子はいつも美味しいから好き」
「そ、それはありがとうございます!」
「俺一人で全部食べたいぐらい」
「そ、それはダメ。だ、ダメです」
「なんで?」
「珍しいね。物腰の柔らかい{name2}君がそこまで言うのは?」
疑問に思っていたのは俺だけではなかったらしい。新しい詩を考えていたアリスもはたりと意識をこちらに向けて怪訝そうな顔をしている。
「ウィークエンドシトロンはこのケーキの名前通り週末に大切な人達と一緒に過ごしながら食べるケーキです。だから大事な人達との時間をこのケーキを食べながら大切にしてほしいんです」
「そういう事だったんだね」
「そうなんだ。俺、知らなかった」
「なので密さんにとって大切な劇団の方々と楽しく食べてくださると嬉しいです」
一人で食べちゃダメですよ渡されたレモンケーキの入った箱。アリスの方を見れば、穏やかに笑っていて、見透かされているみたいで何だか腹が立つ。
「食べるよ、{name2}」
「ええ、皆さんで食べてくださいね」
「{name2}と俺とで」
「え?」
「密君。私の分もちゃんと用意してくれたまえよ」
「……仕方ないからアリスの分も」
「仕方ないとはなんだね!?」
{name2}の手を引いて椅子に座らせると、台所から包丁とお皿を三枚持ってきて、箱の中のケーキを切り分ける。慌てる{name2}をアリスが宥めながら、紅茶を用意する。
「ひ、密さん」
「俺は{name2}の事も大切に思っているから、今日は{name2}と一緒にケーキを食べたい。そう思うのはダメなの?」
「……ダメ、じゃないです。ありがとうございます」
泣きそうな顔をする{name2}の頭を優しく撫でる。いつもありがとうと言葉を掛ければ、ついに泣き始めてしまい、泣き止むまでの間は暫くケーキと紅茶はお預けになってしまった。
23.07.23 『Sweets are forever.』 初出
秋の日差しが心地よく身に沁みる。部屋の窓際に置かれた大きなビーズクッションに身体をもたれかけて日向ぼっこ。夏ならば暑くて辟易していた日差しも、肌寒くなってきたこの季節になるとその温かさが恋しくなる。海老のように丸くなって目を瞑るとふわふわと良い心地になって、うとうとと眠くなっていく。
「密さん? お眠ですか?」
彼女の、{name2}の声。優しくて柔らかくて、お菓子みたいに甘くて良い匂い。洋菓子店に勤務する彼女の家はお店で出すお菓子の練習のためにお菓子を作っている為いつも甘い匂いがする。焼き菓子の香ばしい匂いであったり、チョコレートの甘い匂いであったり。甘いものが好きな俺にとってはそれがたまらない。ふらりと朝日の家に立ち寄れば、彼女は嫌な顔一つせずににこにこと笑って部屋に上げてお菓子をご馳走してくれる。味見してほしいと差し出される{name2}が作るお菓子は甘くて美味しい。食感も甘さも香りも、そのお菓子の美味しいを引き出すようして作られているからどのお菓子も文句のつけようがなく美味しい。俺はマシュマロが好きだけど、同じぐらい{name2}が作るお菓子は美味しくてどれもお気に入り。甘いものが好きな俺にとってはまさに至れり尽くせりだ。必ず帰る際には俺が所属する劇団の団員達と食べてとレモンケーキをお土産まで渡してくれる。レモンの爽やかな風味と表面をコーティングする砂糖掛けの程よい甘さ。口当たりが良くて劇団の皆からも好評だった。本当は誰にもあげたくないけれど{name2}は皆で食べてねと必ず念押しをする。穏やかな{name2}がそういう風に強めに主張するのは珍しいし、余程のことだろうから仕方なく皆にお裾分けしているけれど、どうしてなのだろう。
「密さん、密さん。起きてください。有栖川さんがお迎えにきていますよ」
「迎えに来たよ、密くん。皆が待っているから帰ろう」
劇団の同室のアリスが{name2}の家の中に入ってきていた。いつも眠ってしまう俺を迎えに来るのはアリスの役目みたいになっているけれども、まだこの砂糖菓子のような空間で微睡んでいたい。そっと片目を開けてアリスの姿を見つけて、再び目を閉じる。
「いないって言って追い返して」
「いないって……私もう目の前にいるのだからそれは通用しないよ」
「お、起きて密さん……。お土産のケーキもありますから」
「レモンケーキ?」
「ええ。今日のは良い出来栄えです」
「おお。{name2}くんの特製のレモンケーキだね。私もこれを頂くの楽しみなのだよ」
先程まで考えていたレモンケーキの事が話題に上がり、思わず目を開く。何かいい詩興の予感がするといいながらブツブツ何か考えているアリスを放っておいて、ゆっくりと体を起こす。おはようございますと少しほっとしたような笑みを浮かべた{name2}を見やる。またいつでも来てくださいねとラッピングされた箱を差し出される。
「皆さんで食べてくださいね」
「どうしていつもレモンケーキなの?」
俺の問いかけにキョトンした{name2}が、おずおずと言う。
「お嫌い、でした?」
「ううん。{name2}のお菓子はいつも美味しいから好き」
「そ、それはありがとうございます!」
「俺一人で全部食べたいぐらい」
「そ、それはダメ。だ、ダメです」
「なんで?」
「珍しいね。物腰の柔らかい{name2}君がそこまで言うのは?」
疑問に思っていたのは俺だけではなかったらしい。新しい詩を考えていたアリスもはたりと意識をこちらに向けて怪訝そうな顔をしている。
「ウィークエンドシトロンはこのケーキの名前通り週末に大切な人達と一緒に過ごしながら食べるケーキです。だから大事な人達との時間をこのケーキを食べながら大切にしてほしいんです」
「そういう事だったんだね」
「そうなんだ。俺、知らなかった」
「なので密さんにとって大切な劇団の方々と楽しく食べてくださると嬉しいです」
一人で食べちゃダメですよ渡されたレモンケーキの入った箱。アリスの方を見れば、穏やかに笑っていて、見透かされているみたいで何だか腹が立つ。
「食べるよ、{name2}」
「ええ、皆さんで食べてくださいね」
「{name2}と俺とで」
「え?」
「密君。私の分もちゃんと用意してくれたまえよ」
「……仕方ないからアリスの分も」
「仕方ないとはなんだね!?」
{name2}の手を引いて椅子に座らせると、台所から包丁とお皿を三枚持ってきて、箱の中のケーキを切り分ける。慌てる{name2}をアリスが宥めながら、紅茶を用意する。
「ひ、密さん」
「俺は{name2}の事も大切に思っているから、今日は{name2}と一緒にケーキを食べたい。そう思うのはダメなの?」
「……ダメ、じゃないです。ありがとうございます」
泣きそうな顔をする{name2}の頭を優しく撫でる。いつもありがとうと言葉を掛ければ、ついに泣き始めてしまい、泣き止むまでの間は暫くケーキと紅茶はお預けになってしまった。
23.07.23 『Sweets are forever.』 初出
御影密とジュンブラ
紫陽花が色鮮やかに咲き始める六月。水色や紫、桃色。花弁の彩りの美しさがこの時期の憂鬱な雰囲気を少しだけ穏やかにする。梅雨の走りの天気の中、久方ぶりに穏やかに晴れたの中。肌を撫でるひんやりとした風が心地良く、うたた寝が心地良い季節だ。
「あれ? 御影さん、寝てる……?」
散歩がてら買い物に出掛けた{name1}{name2}が土手縁をゆったりと歩いていると、見知った人物を見つける。
斜面に生える青青とした土手の草花に埋もれるように倒れている。否、眠っている。
――御影密。この天鵞絨町の劇団・MANKAIカンパニーの劇団員。白銀の髪。アシンメトリーの前髪は右目を覆い隠し、ミステリアスな雰囲気を醸し出す。細く透き通るような顔と肌。メジロ美しい色を彷彿とさせる瞳。どこか浮き世離れした彼方のような人。
{name2}が密と初めてあった日も道端に倒れていて大層驚いたのだが、どこでも寝てしまうという風変わりな人物であっただけで、その時介抱してからというもの、所々で眠っている彼を見つけては介抱しているので奇妙な関係性になっていた。今日も気持ちよさそうに昼寝しているだけのようだが、初めて見たときは具合が悪く行き倒れているのかと大層肝を冷やしたものである。
転がり落ちないようにと慎重に斜面を降りて行くと、中腹辺りで猫のように丸まって眠っている密に近づいていく。目の前まで近付くと、履いていたロングスカートの裾を丁寧に折り畳んで足に巻き付けると彼の顔を覗き込むようにしゃがむ。
「御影、さん?」
すぅすぅと穏やかな寝息を立てて眠る密。閉ざされた瞳に寄り添う長い睫毛、透明感のある色白い肌。その美しい見目に、思わず溜め息を吐き出してしまう容姿。その美しさに少し気後れしてしまう。
「……眠り姫、みたい」
彼はどんな夢を見ているのだろうか。楽しい夢だろうか、それとも。穏やかな寝息を立てているのだからきっと優しい夢を見ているのだろうけれども。夢の中とて幸せであるといい。
そっとその場に座り込むと、自分のトートバックから紺色のカーディガンを取り出す。六月とはいえ、梅雨寒の日もある。体が資本の役者が風邪を引いては一大事だ。
眠る密の身体にそっと掛けてやると、すっと手が伸びてきて{name2}の手首をつかむ。
「俺に何か用?」
「! おお起きてたんですか!?」
「{name2}の気配、覚えた」
「け、はい?」
「うん、覚えた」
「?? そう、なんですか?(よくわからないけど、少し得意げな感じがかわいい)」
密はたまに不思議な物言いをする。その物言いに{name2}は首を捻ってしまうのだが、当の密に至っては説明する気もないため結局{name2}は置いてけぼりを食らう。そういった彼独特な感性は彼らしいと思わなくもないし、きっと彼の性質のようなものであるから気になりはするが結局のところそれはそういうことであると納得するほかない。また、そう言ったところはミステリアスで魅力なのかもしれない。
まだまだ寝たりないというようで、ゆっくりと身体を起こすも大きな欠伸をする。眠たげに目をこすり、ゆらりと瞳を転がす。眠たげに目を細める仕草はまるで子どものようで可愛いらしくみえてしまい、ほくそ笑む。
「おはよ、{name2}」
「はい。おはようございます、御影さん」
「今日はおやすみ?」
「はい。今日はお仕事お休みなんです。密さんもお休みですか?」
「うん。今度劇団でブライダルフェアのお仕事する事になってちょっと考えていたんだけど……」
こてり、と密は首を捻る。
{name2}はその様子から察して小さく苦笑する。
「寝てしまったんですね」
「うん。気持ちよかった」
目を細めて穏やかな笑みを浮かべる密に、{name2}はどきりとする。密のような見目麗しい人物の笑みというものは思わず息を飲んでしまう。とくり、とくり、と胸の辺りが忙しなくなる。きゅっと心臓を鷲掴みにされたような感覚。こそばゆいような、えも言われぬ感覚。そこには歓喜のような感覚も入り混ざっていて、口元が自然と緩んでいくのがわかる。
「{name2}?」
「あ、いえ。それより、今度また何かイベントがあるんですか?」
怪訝そうに顔を覗き込んできた密に、びくりとする。彼は無意識に行動するが、顔がいいのであまり不用意に近づかれてしまうとドキドキしてしまう。
{name2}が居住まいを正しながら距離を保つと、密はきょとりとした表情を浮かべ瞬いた。暫し、{name2}のことを怪訝そうに見つめていたが、何を言うでもなく{name2}から借りたカーディガンを畳み始める。その手つきは意外や手慣れている。
「今度……ブライダル、フェア? とかいうので、コラボするんだって」
「ブライダルフェア!! 素敵ですね!」
{name2}は思わず身を乗り出すように声を上げる。所謂、ロマンチシズム的なものが好みであり、こういったブライダルフェアのようなものも当然{name2}の興味関心を引く。乙女心を擽るには十分であった。
明るさの灯る声色を聴き、密は動かしていた手を止めて{name2}へと視線を向ける。そして、あっと気が付いた顔。{name2}が少女趣味思考であるのを思い出したのだろう。彼女が前のめりになった瞬間、驚いた表情を浮かべたが、すぐに合点が行ったというように目をそっと細めた。
「それで、ちょっとしたお芝居もするからエチュードがてら考えてみようって話になって考えてた」
「何かいいアイディア出ました?」
「まだ。{name2}なら、どんなプロポーズされたら嬉しい?」
「え!? わ、私ですか!?」
ありがとうと畳んだカーディガンを渡してくる密に、驚いて落としそうになる。まさか密からそう言った相談を持ちかけられるとは思いも寄らなかった。慌てて掴んだカーディガンを丁寧に持ち直してバックの中に入れながら考え始める。演劇については門外漢であるし、果たして{name2}自身の理想が彼の芸の肥やしとなるかは甚だ疑問ではあるが、言われたからには考えるのが筋だ。うーんと唸りながら考えてみるのだが、自分が理想とするプロポーズを答えて参考になるのだろうか。答えたところでその独り善がりな思いを演技に乗せてしまってもいいのだろうか。
途方もない気持ちになって静かに密へと視線を向ければ、ふああっとマイペースに欠伸を漏らし、くしゃくしゃと髪を掻いてうつらうつらと船を漕ぎ始めている。これではまたしても眠ってしまうと、慌てて考え始める。尤も、これは{name2}が考えることではなく、密が考えるべきことなのだが、お人好しの{name2}は生真面目に言葉を探している。
「え、ええ……えっと、うーん、好きな人からのプロポーズなら何でも嬉しいですけど」
「それじゃあ困る」
「う、うーん。そう、ですね。月並みですけど、ずっと側にいて欲しいとか、大切にするとか、言われたいですね。エンゲージリングはめてもらって……えっと、その、恥ずかしいですね……」
「ふぅん」
「……参考になるかわからないですけど、やっぱり好意を真摯に伝えてくれるならばどんな形でも私は嬉しい、と思います」
たどたどしく紡ぎ出した言葉に、密の薄い反応。元より感情の起伏は少ない彼であるから気を揉んだところで仕方がないのだが、あまりにも鈍い反応に{name2}も焦燥感を覚えてしまう。うろうろと視線を彷徨わせていると、暫し思案顔の密がちょっと待っててと言い、すっと立ち上がって歩き始めてしまう。
「え? 御影さん?」
「{name2}はここで待ってて」
すぐ戻るから。そう言って斜面を足取り軽く歩いていく密。足元に視線を落としながら、先を進んでいく姿をその場から動けずに眺めていると、数十メートル先の土手縁辺りでその場にしゃがみ込んだ。暫く落とし物を探すような仕草で雑草を掻き分けていたが、何を思ったのだろうか、不意にその辺に生えている草を引っこ抜き始める。突拍子もない行動に{name2}は驚くが、彼女を気にも止めずに次々と引き抜いている。一体何をしているのだろうか。{name2}には密の考えが皆目見当もつかない。それどころか、突拍子がなさすぎて、少しだけハラハラしている。決して意味のない行動はしないけれども、そこに至るまでの説明がなされないため、時折、{name2}は不安になってしまう。忙しなく揺れる心を落ち着かせるようにきゅっとスカートの裾を握りしめ、固唾を呑んでいると、雑草を引っこ抜いていた密が直ぐにこちらに向かって歩いてくる。
「{name2}、手出して」
「え? はい……?」
「左手がいい」
「左手、ですか? わかりました」
再び目の前にしゃがみ込んだ密に乞われ、左手を出すと、薬指に何か円状のものを差し込んだ。よく見ればそれは三つ葉のクローバーを編み込んだ指輪になっていて、薬指の根元まで差し込むと、密はそのまま指先を持ち上げて口づけを落とす。
「っ! み、御影さん!?」
「{name2}のこと、俺が幸せにしたい。いつも俺の隣にいて欲しい。結婚しよう」
「えっ!?」
どきり。心臓が跳ね上がる。告白。夢にまでみた、プロポーズ。異性からの、熱の籠もったプロポーズ。小さい頃から少女漫画やドラマで見てはいつか自分も大切な人からプロポーズを受けてみたいと心踊らせていた。親友からはロマンチック思考の{name2}らしくて好きだけど、結婚詐欺とかに引っかかったりしないか心配だと真面目な顔で言われてしまったが、憧れはいつも鮮やかで美しく胸の奥で輝いている。
高まる鼓動と上気していく頬。こんな風に男の人からプロポーズをされるなんて、夢みたいだ。
真剣な眼差しが胸を焦がすように熱く、優しい。どきどきと胸がいっぱいになって、体中が熱く沸騰していく。
満足そうに口元を緩めた密が{name2}の薬指を優しくさする。
「クローバーに込められたら意味知ってる?」
「クローバー、ですか?」
「三つ葉には『希望』・『愛情』・『信仰』って意味があるって紬から聞いた」
「へぇ……素敵ですね。そうしたら四つ葉だと最後の一枚はどんな意味があるんですか?」
「最後の一枚は『幸福』。幸福が訪れるんだって」
そういわれて、指に宿るそのリングを見つめる。青々とした三つ葉のクローバー。もう一つ葉が合ったならばとないものねだりをしてしまうが、四つ葉の葉は珍しいと言うから仕方がない。
「だから{name2}が最後の一枚になって俺のところに来て欲しいな」
ダメかな。
小首を傾げた密は少し寂しそうな表情を浮かべる。その様が女の自分よりも様になっていて、思わず心揺さぶられてしまう。思わず息を呑むほどの美しい所作であった。そして、揺れる{name2}の気持ちを知ってか知らずか。密は{name2}の手を包み込むように握る。求愛を受けているという事実が、気恥ずかしくもあり、嬉しくて、忙しなく視線を揺らす。緊張は最高潮。
まさか密からプロポーズされるなんて思いも寄らなかった。新生冬組の旗揚げ公演で観た役者・御影密。普段の飄々とした雰囲気とは打って変わって、まるで別人のようにリアリティのあるお芝居をする人だなと思った。普段の緩やかな風体からは大凡考えも及ばないその姿に驚いた。そして、御影密という役者は何と人間描写が巧いのだろうと思った。第二回公演の時は旗揚げ公演の時の天界に住む天使の人間離れした役所とは違い、大正時代の財閥の子息といった異なる役柄を演じていた。どちらの役も普段の密からは違った新しい面をみているようで、「ああ、この人は役者さんなんだ」と改めて思ったのである。そういった彼の演じるお芝居を観て、普段の彼と過ごしていく内に、もっと色々な面を観てみたいと思うようになった。御影密という一人の人間にもっと触れてみたいと思ってしまった。この熱を帯びた美しい黄緑の瞳を、私は、
「御影さん。私……」
「プロポーズする人ってこんな気持ちなのかな?」
「え?」
「プロポーズって難しい……今度のブライダルフェアもこんな風になるのかな」
「え!? あ! ……え、エチュード……」
ハッと我に返ると羞恥心で更に顔が熱くなるのを感じた。
――なんて、馬鹿なんだろう。
冷や水を浴びせられたような感覚であった。男性からの告白に勝手に舞い上がって馬鹿だ。ブライダルフェアをテーマにした演技ネタについての話をしていたのだから、今のプロポーズは演技に決まっている。それを本当にプロポーズされたような錯覚に陥って、一人舞い上がってしまった。密にとってこれは演技の練習であったのに、それを本気に取ってしまって全く馬鹿だ。穴があったら入りたい。都合の良い夢を見ていたのだ。
「{name2}?」
「え、あ、本当にプロポーズをされたみたいでドキドキしてしまいました。えへへ。素敵なお芝居でしたよ」
「俺はよくわからないけれど、女の人はこういうプロポーズされたら嬉しくなるの?」
「あ、はい。すごく、嬉しいです」
「……」
「御影さんのプロポーズされたら、どんな女の人も頷く、と思います」
密の顔を見るのが怖くなって、視線をうろうろ宙に漂わせてから下降していく。気持ちが萎びていくのと同じように。努めて笑顔でいなければならないと頭の中では思っていても表情はぎこちなく固まっていく。密が訝しがる前にいつも通りに振る舞わなくては、いつも通りに笑顔に、
――もし、御影さんが私ではない誰かにプロポーズしたら嫌だなァ。
そう思ってしまったら、もうダメだった。今日はうまく笑えない。
そもそも、彼は好きな女性はいるのだろうか。密の身近な女性といえばMANKAIカンパニーの監督。彼女・立花いづみは密の劇団関係者であるし、互いに近しい距離の間柄だ。{name2}も密を通していづみに会ったことがあるが、心根の美しい人だった。彼女の持ち前の明るさや実直さは惹かれるものがある。それ故に団員達からは多大なる信頼を寄せられており、密もその一人だろう。もしも、密がいづみへと想いを寄せているとしたならばとても敵わないと思う。同性である{name2}も惹かれるような魅力を持った彼女に、何の取り留めもない女の勝ち目などないのだから。
願わくば密の好きな人が彼女でなければいいのにと浅ましくも願わずには居られない。
――あれ? どうして、そう思うのだろう……?
「{name2}」
「おーい、密くーん!」
何か言い掛けた密を、不意に呼ぶ声が響く。はっと引き戻されるような感覚。{name2}も密も聞き馴染みのある芯の通ったテノール。呼ばれた当の本人の顔には少しばかり苦々しげな表情が浮かぶ。密が暮らすMANKAI寮の同室の男の声だ。
「密くん、お昼の時間だよ。昼食の後にはミーティングが……おや?」
「こ、こんにちは有栖川さん」
「うむ。{name2}くんが一緒だったか。よかったよ」
「アリス、うるさい」
「うるさいとはなんだね!? 折角私と紬くんが君を探しに来たのに!」
「密くん! 臣くんがマシュマロデザート作って待ってるよ、帰ろう?」
「帰る」
「ほんと君はブレないね……」
土手の上から見下ろす二人の男。詩人であり、密の所属するMANKAIカンパニー劇団員の有栖川誉と同じく団員である月岡紬である。二人は密を探しに来たらしく、土手の下にいる{name2}と密を見つけるとほっと安堵したような表情を浮かべて{name2}と密に向かって手を振っている。
{name2}は内心ほっと胸をなで下ろしていた。これ以上密と二人きりでいるのは、胸が苦しくて居たたまれないから。これ以上二人きりで居たら、声が震えてしまいそうだった。
密は密で先程までは何かいいたそうに{name2}を見つめていた。じっとりとした視線を{name2}に向けて、一瞬、逡巡を灯したか。判断しかねるその刹那、すでに彼の瞳には他の色が灯っていた。
料理上手な劇団員が己の好物であるマシュマロを使用したデザートを作って帰りを待っているということを聞くなり、興味はそちらに向けた。すっと音もなく立ち上がると土手を素早く上っていく。これはこれで{name2}の動揺を鎮めるためのきっかけにはなったが、こうもあっさりと離れて行かれると離れがたく感じてしまう。かといって引き留めることは{name2}にはできなかった。追及されず安心してしまった手前、そんな資格などはない。手に灯る温もりが残滓を湛えている。我ながら自分勝手だと小さく苦笑しつつも、後を追うように土手を上る。
{name2}が土手の上へと上がってくるころには、既に密と誉はMANKAIカンパニーへの帰路へと少し歩き始めていた。ちらりと密が{name2}の方に視線を寄こす。きっと、密は{name2}の動揺に気づいているのだろう。
「{name1}さん」
{name2}を待っていた紬がそっと手を引いて土手の上に引き上げる。
「月岡さんありがとうございます」
「{name1}さん、その指輪は?」
紬の視線は{name2}の左手薬指に注がれている。先程密がくれたクローバーで編んだ指輪。一人舞い上がってプロポーズだと思ってしまった。偽りの指輪。密にとってプロポーズではなかったが、それでも捨てようとは思えなかった。彼からもらったものだったから。
「――……御影さんが、先ほどエチュードで作ってくださって」
「エチュード?」
「ブライダルフェアで皆お芝居するからって」
「ああ。密くん練習しておいてねって言ったこと覚えれくれてたんだ」
我が事のように嬉しそうに笑みを浮かべる紬に、{name2}もつられて笑ってしまう。
「とても。とても素敵なお芝居でびっくりしてしまいました」
「密くんのお芝居は本当にリアリティがあって精細なんだよね」
「お恥ずかしいんですが、私、うっかり……」
「そんなことはないよ。それは密くんの気持ちが沢山込められている証拠だよ」
「え?」
「以前密くんにクローバーの話をしたんだけどね」
「あ、花言葉の?」
「うん、そうそう。密くんから聞いたんですか?」
「はい。月岡さんからお聞きになったとか」
「ふふっ。クローバーをみつけたら大切な人にあげるといいよって言ったんだけど、覚えててくれたんだなぁ」
「……え」
悪戯が成功したというような笑みを浮かべる紬に、{name2}はドキリとして目を大きく見開いてしまう。
凪いだその深い色の瞳が慈しみを湛えている。
「密くんは、{name1}さんのこと大切に思ってるよ」
「そ、うでしょうか……?」
「寂しいのかな。{name1}さんが忘れてった膝掛けをよく抱え込んで寝てる。{name2}の匂いがして落ち着くって」
「……」
「ふふっ。林檎みたい」
「……っ!」
自分の事のように嬉しそうに笑う紬を見て、{name2}は思わず赤面する。何だか彼には自分が思っていることは何でもお見通しのような気がしてならない。加えて、邪気もなく厚意を向けられてしまえばただただ、自分の不安や心配がちっぽけなことに見えてしまう。
「……今は、密くんなりに自分の記憶のこととか思うところがあるみたいだけれど……」
「――ええ」
「それでも、」
――{name1}さんと一緒にいるときは幸せそうだ。
だから見守ってあげて欲しい。紬はそう言って、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。それにはもう何も言えなくなってしまう。本当に密にとって自分は大切に思う存在になることができているのだろうか。正直な所、自信はない。けれども、紬が言うならば少しでも密の為になることが出来ているのではないかと思えてきてしまう。
「おーい、紬くん、{name2}くん! 君たちも早く来たまえ! 皆が私達の帰りを待っているよ! 早く帰ろうではないかー!」
ふとみると、先を歩いていた誉が二人の方を振り返り、声を上げていた。すれ違いざまのランニングをしている男性がちらりと一瞥を寄こし、走り去っていく。彼の声の響きが良いから驚いたのだろう。朗らかにこちらへと手を振る誉の姿を見ていると、何だか色々な不安なことも和らいでいくような、不思議と元気が沸いてい来るような気がする。それは、まるで、大丈夫だというかのような。
「{name2}、行こう」
「御影、さん」
いつのまにかに{name2}の目の前まで戻って来た密に目を丸くしたが、彼の白い手が{name2}の手をそっと引き結ぶ。壊れ物を扱うかのように、それは、優しく。
「皆、俺達を待っててくれるよ」
小さい笑み。きゅっと結ばれた指先。しっかりと離さないというような手つき。温かい手の温もり。静かに揺れ始める心。
密が紬の方を一瞥したの釣られるように{name2}も紬の方を向こうとすれば、振り向く前に密が歩き出し引っ張られていく。握られた左手には先程密がくれたクローバーの指輪が指に彩を与えている。いつか、この指輪が本当の意味でのエンゲージリングになる日がくるのだろうか。その相手がこの、やさしい人だとといい。
そっと紬の方を窺えば、ぽかんとした表情を浮かべていたが、目があった瞬間、相変わらずの柔和な笑みを浮かべて{name2}たちを見つめていた。
20.10.03 初出 『花になれ』
紫陽花が色鮮やかに咲き始める六月。水色や紫、桃色。花弁の彩りの美しさがこの時期の憂鬱な雰囲気を少しだけ穏やかにする。梅雨の走りの天気の中、久方ぶりに穏やかに晴れたの中。肌を撫でるひんやりとした風が心地良く、うたた寝が心地良い季節だ。
「あれ? 御影さん、寝てる……?」
散歩がてら買い物に出掛けた{name1}{name2}が土手縁をゆったりと歩いていると、見知った人物を見つける。
斜面に生える青青とした土手の草花に埋もれるように倒れている。否、眠っている。
――御影密。この天鵞絨町の劇団・MANKAIカンパニーの劇団員。白銀の髪。アシンメトリーの前髪は右目を覆い隠し、ミステリアスな雰囲気を醸し出す。細く透き通るような顔と肌。メジロ美しい色を彷彿とさせる瞳。どこか浮き世離れした彼方のような人。
{name2}が密と初めてあった日も道端に倒れていて大層驚いたのだが、どこでも寝てしまうという風変わりな人物であっただけで、その時介抱してからというもの、所々で眠っている彼を見つけては介抱しているので奇妙な関係性になっていた。今日も気持ちよさそうに昼寝しているだけのようだが、初めて見たときは具合が悪く行き倒れているのかと大層肝を冷やしたものである。
転がり落ちないようにと慎重に斜面を降りて行くと、中腹辺りで猫のように丸まって眠っている密に近づいていく。目の前まで近付くと、履いていたロングスカートの裾を丁寧に折り畳んで足に巻き付けると彼の顔を覗き込むようにしゃがむ。
「御影、さん?」
すぅすぅと穏やかな寝息を立てて眠る密。閉ざされた瞳に寄り添う長い睫毛、透明感のある色白い肌。その美しい見目に、思わず溜め息を吐き出してしまう容姿。その美しさに少し気後れしてしまう。
「……眠り姫、みたい」
彼はどんな夢を見ているのだろうか。楽しい夢だろうか、それとも。穏やかな寝息を立てているのだからきっと優しい夢を見ているのだろうけれども。夢の中とて幸せであるといい。
そっとその場に座り込むと、自分のトートバックから紺色のカーディガンを取り出す。六月とはいえ、梅雨寒の日もある。体が資本の役者が風邪を引いては一大事だ。
眠る密の身体にそっと掛けてやると、すっと手が伸びてきて{name2}の手首をつかむ。
「俺に何か用?」
「! おお起きてたんですか!?」
「{name2}の気配、覚えた」
「け、はい?」
「うん、覚えた」
「?? そう、なんですか?(よくわからないけど、少し得意げな感じがかわいい)」
密はたまに不思議な物言いをする。その物言いに{name2}は首を捻ってしまうのだが、当の密に至っては説明する気もないため結局{name2}は置いてけぼりを食らう。そういった彼独特な感性は彼らしいと思わなくもないし、きっと彼の性質のようなものであるから気になりはするが結局のところそれはそういうことであると納得するほかない。また、そう言ったところはミステリアスで魅力なのかもしれない。
まだまだ寝たりないというようで、ゆっくりと身体を起こすも大きな欠伸をする。眠たげに目をこすり、ゆらりと瞳を転がす。眠たげに目を細める仕草はまるで子どものようで可愛いらしくみえてしまい、ほくそ笑む。
「おはよ、{name2}」
「はい。おはようございます、御影さん」
「今日はおやすみ?」
「はい。今日はお仕事お休みなんです。密さんもお休みですか?」
「うん。今度劇団でブライダルフェアのお仕事する事になってちょっと考えていたんだけど……」
こてり、と密は首を捻る。
{name2}はその様子から察して小さく苦笑する。
「寝てしまったんですね」
「うん。気持ちよかった」
目を細めて穏やかな笑みを浮かべる密に、{name2}はどきりとする。密のような見目麗しい人物の笑みというものは思わず息を飲んでしまう。とくり、とくり、と胸の辺りが忙しなくなる。きゅっと心臓を鷲掴みにされたような感覚。こそばゆいような、えも言われぬ感覚。そこには歓喜のような感覚も入り混ざっていて、口元が自然と緩んでいくのがわかる。
「{name2}?」
「あ、いえ。それより、今度また何かイベントがあるんですか?」
怪訝そうに顔を覗き込んできた密に、びくりとする。彼は無意識に行動するが、顔がいいのであまり不用意に近づかれてしまうとドキドキしてしまう。
{name2}が居住まいを正しながら距離を保つと、密はきょとりとした表情を浮かべ瞬いた。暫し、{name2}のことを怪訝そうに見つめていたが、何を言うでもなく{name2}から借りたカーディガンを畳み始める。その手つきは意外や手慣れている。
「今度……ブライダル、フェア? とかいうので、コラボするんだって」
「ブライダルフェア!! 素敵ですね!」
{name2}は思わず身を乗り出すように声を上げる。所謂、ロマンチシズム的なものが好みであり、こういったブライダルフェアのようなものも当然{name2}の興味関心を引く。乙女心を擽るには十分であった。
明るさの灯る声色を聴き、密は動かしていた手を止めて{name2}へと視線を向ける。そして、あっと気が付いた顔。{name2}が少女趣味思考であるのを思い出したのだろう。彼女が前のめりになった瞬間、驚いた表情を浮かべたが、すぐに合点が行ったというように目をそっと細めた。
「それで、ちょっとしたお芝居もするからエチュードがてら考えてみようって話になって考えてた」
「何かいいアイディア出ました?」
「まだ。{name2}なら、どんなプロポーズされたら嬉しい?」
「え!? わ、私ですか!?」
ありがとうと畳んだカーディガンを渡してくる密に、驚いて落としそうになる。まさか密からそう言った相談を持ちかけられるとは思いも寄らなかった。慌てて掴んだカーディガンを丁寧に持ち直してバックの中に入れながら考え始める。演劇については門外漢であるし、果たして{name2}自身の理想が彼の芸の肥やしとなるかは甚だ疑問ではあるが、言われたからには考えるのが筋だ。うーんと唸りながら考えてみるのだが、自分が理想とするプロポーズを答えて参考になるのだろうか。答えたところでその独り善がりな思いを演技に乗せてしまってもいいのだろうか。
途方もない気持ちになって静かに密へと視線を向ければ、ふああっとマイペースに欠伸を漏らし、くしゃくしゃと髪を掻いてうつらうつらと船を漕ぎ始めている。これではまたしても眠ってしまうと、慌てて考え始める。尤も、これは{name2}が考えることではなく、密が考えるべきことなのだが、お人好しの{name2}は生真面目に言葉を探している。
「え、ええ……えっと、うーん、好きな人からのプロポーズなら何でも嬉しいですけど」
「それじゃあ困る」
「う、うーん。そう、ですね。月並みですけど、ずっと側にいて欲しいとか、大切にするとか、言われたいですね。エンゲージリングはめてもらって……えっと、その、恥ずかしいですね……」
「ふぅん」
「……参考になるかわからないですけど、やっぱり好意を真摯に伝えてくれるならばどんな形でも私は嬉しい、と思います」
たどたどしく紡ぎ出した言葉に、密の薄い反応。元より感情の起伏は少ない彼であるから気を揉んだところで仕方がないのだが、あまりにも鈍い反応に{name2}も焦燥感を覚えてしまう。うろうろと視線を彷徨わせていると、暫し思案顔の密がちょっと待っててと言い、すっと立ち上がって歩き始めてしまう。
「え? 御影さん?」
「{name2}はここで待ってて」
すぐ戻るから。そう言って斜面を足取り軽く歩いていく密。足元に視線を落としながら、先を進んでいく姿をその場から動けずに眺めていると、数十メートル先の土手縁辺りでその場にしゃがみ込んだ。暫く落とし物を探すような仕草で雑草を掻き分けていたが、何を思ったのだろうか、不意にその辺に生えている草を引っこ抜き始める。突拍子もない行動に{name2}は驚くが、彼女を気にも止めずに次々と引き抜いている。一体何をしているのだろうか。{name2}には密の考えが皆目見当もつかない。それどころか、突拍子がなさすぎて、少しだけハラハラしている。決して意味のない行動はしないけれども、そこに至るまでの説明がなされないため、時折、{name2}は不安になってしまう。忙しなく揺れる心を落ち着かせるようにきゅっとスカートの裾を握りしめ、固唾を呑んでいると、雑草を引っこ抜いていた密が直ぐにこちらに向かって歩いてくる。
「{name2}、手出して」
「え? はい……?」
「左手がいい」
「左手、ですか? わかりました」
再び目の前にしゃがみ込んだ密に乞われ、左手を出すと、薬指に何か円状のものを差し込んだ。よく見ればそれは三つ葉のクローバーを編み込んだ指輪になっていて、薬指の根元まで差し込むと、密はそのまま指先を持ち上げて口づけを落とす。
「っ! み、御影さん!?」
「{name2}のこと、俺が幸せにしたい。いつも俺の隣にいて欲しい。結婚しよう」
「えっ!?」
どきり。心臓が跳ね上がる。告白。夢にまでみた、プロポーズ。異性からの、熱の籠もったプロポーズ。小さい頃から少女漫画やドラマで見てはいつか自分も大切な人からプロポーズを受けてみたいと心踊らせていた。親友からはロマンチック思考の{name2}らしくて好きだけど、結婚詐欺とかに引っかかったりしないか心配だと真面目な顔で言われてしまったが、憧れはいつも鮮やかで美しく胸の奥で輝いている。
高まる鼓動と上気していく頬。こんな風に男の人からプロポーズをされるなんて、夢みたいだ。
真剣な眼差しが胸を焦がすように熱く、優しい。どきどきと胸がいっぱいになって、体中が熱く沸騰していく。
満足そうに口元を緩めた密が{name2}の薬指を優しくさする。
「クローバーに込められたら意味知ってる?」
「クローバー、ですか?」
「三つ葉には『希望』・『愛情』・『信仰』って意味があるって紬から聞いた」
「へぇ……素敵ですね。そうしたら四つ葉だと最後の一枚はどんな意味があるんですか?」
「最後の一枚は『幸福』。幸福が訪れるんだって」
そういわれて、指に宿るそのリングを見つめる。青々とした三つ葉のクローバー。もう一つ葉が合ったならばとないものねだりをしてしまうが、四つ葉の葉は珍しいと言うから仕方がない。
「だから{name2}が最後の一枚になって俺のところに来て欲しいな」
ダメかな。
小首を傾げた密は少し寂しそうな表情を浮かべる。その様が女の自分よりも様になっていて、思わず心揺さぶられてしまう。思わず息を呑むほどの美しい所作であった。そして、揺れる{name2}の気持ちを知ってか知らずか。密は{name2}の手を包み込むように握る。求愛を受けているという事実が、気恥ずかしくもあり、嬉しくて、忙しなく視線を揺らす。緊張は最高潮。
まさか密からプロポーズされるなんて思いも寄らなかった。新生冬組の旗揚げ公演で観た役者・御影密。普段の飄々とした雰囲気とは打って変わって、まるで別人のようにリアリティのあるお芝居をする人だなと思った。普段の緩やかな風体からは大凡考えも及ばないその姿に驚いた。そして、御影密という役者は何と人間描写が巧いのだろうと思った。第二回公演の時は旗揚げ公演の時の天界に住む天使の人間離れした役所とは違い、大正時代の財閥の子息といった異なる役柄を演じていた。どちらの役も普段の密からは違った新しい面をみているようで、「ああ、この人は役者さんなんだ」と改めて思ったのである。そういった彼の演じるお芝居を観て、普段の彼と過ごしていく内に、もっと色々な面を観てみたいと思うようになった。御影密という一人の人間にもっと触れてみたいと思ってしまった。この熱を帯びた美しい黄緑の瞳を、私は、
「御影さん。私……」
「プロポーズする人ってこんな気持ちなのかな?」
「え?」
「プロポーズって難しい……今度のブライダルフェアもこんな風になるのかな」
「え!? あ! ……え、エチュード……」
ハッと我に返ると羞恥心で更に顔が熱くなるのを感じた。
――なんて、馬鹿なんだろう。
冷や水を浴びせられたような感覚であった。男性からの告白に勝手に舞い上がって馬鹿だ。ブライダルフェアをテーマにした演技ネタについての話をしていたのだから、今のプロポーズは演技に決まっている。それを本当にプロポーズされたような錯覚に陥って、一人舞い上がってしまった。密にとってこれは演技の練習であったのに、それを本気に取ってしまって全く馬鹿だ。穴があったら入りたい。都合の良い夢を見ていたのだ。
「{name2}?」
「え、あ、本当にプロポーズをされたみたいでドキドキしてしまいました。えへへ。素敵なお芝居でしたよ」
「俺はよくわからないけれど、女の人はこういうプロポーズされたら嬉しくなるの?」
「あ、はい。すごく、嬉しいです」
「……」
「御影さんのプロポーズされたら、どんな女の人も頷く、と思います」
密の顔を見るのが怖くなって、視線をうろうろ宙に漂わせてから下降していく。気持ちが萎びていくのと同じように。努めて笑顔でいなければならないと頭の中では思っていても表情はぎこちなく固まっていく。密が訝しがる前にいつも通りに振る舞わなくては、いつも通りに笑顔に、
――もし、御影さんが私ではない誰かにプロポーズしたら嫌だなァ。
そう思ってしまったら、もうダメだった。今日はうまく笑えない。
そもそも、彼は好きな女性はいるのだろうか。密の身近な女性といえばMANKAIカンパニーの監督。彼女・立花いづみは密の劇団関係者であるし、互いに近しい距離の間柄だ。{name2}も密を通していづみに会ったことがあるが、心根の美しい人だった。彼女の持ち前の明るさや実直さは惹かれるものがある。それ故に団員達からは多大なる信頼を寄せられており、密もその一人だろう。もしも、密がいづみへと想いを寄せているとしたならばとても敵わないと思う。同性である{name2}も惹かれるような魅力を持った彼女に、何の取り留めもない女の勝ち目などないのだから。
願わくば密の好きな人が彼女でなければいいのにと浅ましくも願わずには居られない。
――あれ? どうして、そう思うのだろう……?
「{name2}」
「おーい、密くーん!」
何か言い掛けた密を、不意に呼ぶ声が響く。はっと引き戻されるような感覚。{name2}も密も聞き馴染みのある芯の通ったテノール。呼ばれた当の本人の顔には少しばかり苦々しげな表情が浮かぶ。密が暮らすMANKAI寮の同室の男の声だ。
「密くん、お昼の時間だよ。昼食の後にはミーティングが……おや?」
「こ、こんにちは有栖川さん」
「うむ。{name2}くんが一緒だったか。よかったよ」
「アリス、うるさい」
「うるさいとはなんだね!? 折角私と紬くんが君を探しに来たのに!」
「密くん! 臣くんがマシュマロデザート作って待ってるよ、帰ろう?」
「帰る」
「ほんと君はブレないね……」
土手の上から見下ろす二人の男。詩人であり、密の所属するMANKAIカンパニー劇団員の有栖川誉と同じく団員である月岡紬である。二人は密を探しに来たらしく、土手の下にいる{name2}と密を見つけるとほっと安堵したような表情を浮かべて{name2}と密に向かって手を振っている。
{name2}は内心ほっと胸をなで下ろしていた。これ以上密と二人きりでいるのは、胸が苦しくて居たたまれないから。これ以上二人きりで居たら、声が震えてしまいそうだった。
密は密で先程までは何かいいたそうに{name2}を見つめていた。じっとりとした視線を{name2}に向けて、一瞬、逡巡を灯したか。判断しかねるその刹那、すでに彼の瞳には他の色が灯っていた。
料理上手な劇団員が己の好物であるマシュマロを使用したデザートを作って帰りを待っているということを聞くなり、興味はそちらに向けた。すっと音もなく立ち上がると土手を素早く上っていく。これはこれで{name2}の動揺を鎮めるためのきっかけにはなったが、こうもあっさりと離れて行かれると離れがたく感じてしまう。かといって引き留めることは{name2}にはできなかった。追及されず安心してしまった手前、そんな資格などはない。手に灯る温もりが残滓を湛えている。我ながら自分勝手だと小さく苦笑しつつも、後を追うように土手を上る。
{name2}が土手の上へと上がってくるころには、既に密と誉はMANKAIカンパニーへの帰路へと少し歩き始めていた。ちらりと密が{name2}の方に視線を寄こす。きっと、密は{name2}の動揺に気づいているのだろう。
「{name1}さん」
{name2}を待っていた紬がそっと手を引いて土手の上に引き上げる。
「月岡さんありがとうございます」
「{name1}さん、その指輪は?」
紬の視線は{name2}の左手薬指に注がれている。先程密がくれたクローバーで編んだ指輪。一人舞い上がってプロポーズだと思ってしまった。偽りの指輪。密にとってプロポーズではなかったが、それでも捨てようとは思えなかった。彼からもらったものだったから。
「――……御影さんが、先ほどエチュードで作ってくださって」
「エチュード?」
「ブライダルフェアで皆お芝居するからって」
「ああ。密くん練習しておいてねって言ったこと覚えれくれてたんだ」
我が事のように嬉しそうに笑みを浮かべる紬に、{name2}もつられて笑ってしまう。
「とても。とても素敵なお芝居でびっくりしてしまいました」
「密くんのお芝居は本当にリアリティがあって精細なんだよね」
「お恥ずかしいんですが、私、うっかり……」
「そんなことはないよ。それは密くんの気持ちが沢山込められている証拠だよ」
「え?」
「以前密くんにクローバーの話をしたんだけどね」
「あ、花言葉の?」
「うん、そうそう。密くんから聞いたんですか?」
「はい。月岡さんからお聞きになったとか」
「ふふっ。クローバーをみつけたら大切な人にあげるといいよって言ったんだけど、覚えててくれたんだなぁ」
「……え」
悪戯が成功したというような笑みを浮かべる紬に、{name2}はドキリとして目を大きく見開いてしまう。
凪いだその深い色の瞳が慈しみを湛えている。
「密くんは、{name1}さんのこと大切に思ってるよ」
「そ、うでしょうか……?」
「寂しいのかな。{name1}さんが忘れてった膝掛けをよく抱え込んで寝てる。{name2}の匂いがして落ち着くって」
「……」
「ふふっ。林檎みたい」
「……っ!」
自分の事のように嬉しそうに笑う紬を見て、{name2}は思わず赤面する。何だか彼には自分が思っていることは何でもお見通しのような気がしてならない。加えて、邪気もなく厚意を向けられてしまえばただただ、自分の不安や心配がちっぽけなことに見えてしまう。
「……今は、密くんなりに自分の記憶のこととか思うところがあるみたいだけれど……」
「――ええ」
「それでも、」
――{name1}さんと一緒にいるときは幸せそうだ。
だから見守ってあげて欲しい。紬はそう言って、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。それにはもう何も言えなくなってしまう。本当に密にとって自分は大切に思う存在になることができているのだろうか。正直な所、自信はない。けれども、紬が言うならば少しでも密の為になることが出来ているのではないかと思えてきてしまう。
「おーい、紬くん、{name2}くん! 君たちも早く来たまえ! 皆が私達の帰りを待っているよ! 早く帰ろうではないかー!」
ふとみると、先を歩いていた誉が二人の方を振り返り、声を上げていた。すれ違いざまのランニングをしている男性がちらりと一瞥を寄こし、走り去っていく。彼の声の響きが良いから驚いたのだろう。朗らかにこちらへと手を振る誉の姿を見ていると、何だか色々な不安なことも和らいでいくような、不思議と元気が沸いてい来るような気がする。それは、まるで、大丈夫だというかのような。
「{name2}、行こう」
「御影、さん」
いつのまにかに{name2}の目の前まで戻って来た密に目を丸くしたが、彼の白い手が{name2}の手をそっと引き結ぶ。壊れ物を扱うかのように、それは、優しく。
「皆、俺達を待っててくれるよ」
小さい笑み。きゅっと結ばれた指先。しっかりと離さないというような手つき。温かい手の温もり。静かに揺れ始める心。
密が紬の方を一瞥したの釣られるように{name2}も紬の方を向こうとすれば、振り向く前に密が歩き出し引っ張られていく。握られた左手には先程密がくれたクローバーの指輪が指に彩を与えている。いつか、この指輪が本当の意味でのエンゲージリングになる日がくるのだろうか。その相手がこの、やさしい人だとといい。
そっと紬の方を窺えば、ぽかんとした表情を浮かべていたが、目があった瞬間、相変わらずの柔和な笑みを浮かべて{name2}たちを見つめていた。
20.10.03 初出 『花になれ』
御影密と夢主
――随分と太陽を見ていない気がする。
傘を透かすように空をじっと睨む。空はどんよりとした灰色。雨脚はやや強く、傘を差さなければすぐに間もなく全身濡れ鼠になるほどの強さ。ぱちぱちと傘の上や地面に弾ける度に、反射した雨粒が体に掛かったりかからなかったりする。
近年多かった雨がほとんど降らない空梅雨も、今年ばかりは本来の梅雨空。梅雨入りしてからこの一ヶ月近く晴れた空を暫く見ていない。
雨は嫌いだ。髪は湿気を含んで扱いづらいし、洗濯物も乾きが遅い。梅雨寒の気候のせいで体調管理も難しい。しとしととした雨音に耳を傾けて眠るのは嫌いではないが、こうどんよりとした天気が続くと元気もでないし、太陽が少し恋しい。
くしゅんとクシャミをして鼻を啜ると、雨が当たらない様に傘を持ち直して帰路を慎重に歩き始める。水たまりを避けながらいつもよりもゆっくりと歩いていると、前方の軒先に見知った人物の姿を見つけた。突然の雨であったから降られてしまったのだろうか。普段はふわふわっとしている髪――白に近い薄緑というのだろうか――がしっとりと水気を含み、その人の輪郭にぴったりと張り付いている。たらりと雨粒が頬横切り、喉元を伝っていく。
――ほんとうに、美しい人だ。
普段とはまた違うミステリアスな雰囲気に思わずその場にくぎ付けになっていれば、コチラの視線に気づいたその人が私を認め、怪訝そうにしている。
「{name2} ?」
「ひ、ひそか、さん」
すっと引き結んだ黄緑色の日本人離れした瞳が、柔らかく笑みを浮かべている。息を飲んでしまうようなその仕草に惚けてしまう。こうして微笑みかけてくれるのは私の事を親しい間柄だと思ってくれているのだろうか。そうだとすれば、彼に少し近づけたような気がして嬉しい。
弛んだ口角のままに笑みを浮かべて応えれば、そんなところにいないでおいでと密さんは手を差し出してくれる。誘われるように彼に近づいてその手をとれば、ぐいと手を引いて私を引き寄せた密さんが傘の中に入ってくる。
「{name2} 、おしごとだったの?」
するり、と彼の白い手が私の傘を持つ手に絡まって握る拳を解くと、傘を攫って行く。
「――は、はい。密さんもですか?」
「うん。今日はスーパーの試食コーナーのおしごと」
「そうなんですね。お疲れさまです! 沢山売れました?」
「うん、美味しかったよ」
「えー? 試食品食べちゃったんですか? 食べちゃダメですよ?」
「子どもが一緒に食べようって来たから一緒に食べちゃったけど、美味しいって言ったら皆買ってくれたよ」
「うーん。それだったら、いいの……かなぁ?」
肩を寄せてそっと傘を傾けてくれる密さんに申し訳ないなと心の中で言い訳をしながら、そうっと身を寄せる。ぱちぱちと弾ける雨音と一緒にさっきまで引き摺っていた憂鬱は弾けて消えてしまったようだ。
ちらりと盗み見た密さんの横顔は相変わらず陶磁器のように白くてきれいだ。その涼やかな顔にはいつもどぎまぎとさせられてしまう。少し子どもっぽいこの人はマイペースでいつも眠っているような感じがする。けれども、この人は見ていないようでいつも何かを見ている。ほんの僅かな機微でさえもその黄緑色の双眸は捉えている。何考えて居るのか読み取れないその涼し気な容貌で、何か見透かされているような気がしてしまう。
「{name2} 、いい匂いする」
「え!? そうですか? 今日作ったお菓子かな……?」
「ん。甘くて優しい匂い」
ちらりと盗み見していた視線と密さんの視線がかち合って少し決まりが悪い。そんな私を密さんは気にも留めずに、湿気でいつも以上にうねる私の髪をそっとのけて、
「!」
「……ん、あまい」
何の前触れもなく、唇をはむと咥えられ、あっさりと離れていく。
密さんはぺろりと唇を舐めて、少し思案顔。どくどくどくと心臓の鼓動がうるさく鳴って思わず両手で口元を隠せば、密さんがこちらに視線を向けて、目が合う。すっと目を細めた彼が、{name2} と撫でるように私を呼んで、口元を覆った指先にもう一度触れるだけのキスをする。
「かえろう、{name2} 」
「っ……」
何事もなかったかのように傘を畳む密さんを視界の端で捉えることしかできない。項垂れながら両頬を手で抑え、蒸気する体温を静まれと念じていれば、覗きこんできた密さんに再び唇を甘噛みされるのである。
19.07.15 初出 『 きみの触れた火が柔いこと 』 title by:alkalism
――随分と太陽を見ていない気がする。
傘を透かすように空をじっと睨む。空はどんよりとした灰色。雨脚はやや強く、傘を差さなければすぐに間もなく全身濡れ鼠になるほどの強さ。ぱちぱちと傘の上や地面に弾ける度に、反射した雨粒が体に掛かったりかからなかったりする。
近年多かった雨がほとんど降らない空梅雨も、今年ばかりは本来の梅雨空。梅雨入りしてからこの一ヶ月近く晴れた空を暫く見ていない。
雨は嫌いだ。髪は湿気を含んで扱いづらいし、洗濯物も乾きが遅い。梅雨寒の気候のせいで体調管理も難しい。しとしととした雨音に耳を傾けて眠るのは嫌いではないが、こうどんよりとした天気が続くと元気もでないし、太陽が少し恋しい。
くしゅんとクシャミをして鼻を啜ると、雨が当たらない様に傘を持ち直して帰路を慎重に歩き始める。水たまりを避けながらいつもよりもゆっくりと歩いていると、前方の軒先に見知った人物の姿を見つけた。突然の雨であったから降られてしまったのだろうか。普段はふわふわっとしている髪――白に近い薄緑というのだろうか――がしっとりと水気を含み、その人の輪郭にぴったりと張り付いている。たらりと雨粒が頬横切り、喉元を伝っていく。
――ほんとうに、美しい人だ。
普段とはまた違うミステリアスな雰囲気に思わずその場にくぎ付けになっていれば、コチラの視線に気づいたその人が私を認め、怪訝そうにしている。
「{name2} ?」
「ひ、ひそか、さん」
すっと引き結んだ黄緑色の日本人離れした瞳が、柔らかく笑みを浮かべている。息を飲んでしまうようなその仕草に惚けてしまう。こうして微笑みかけてくれるのは私の事を親しい間柄だと思ってくれているのだろうか。そうだとすれば、彼に少し近づけたような気がして嬉しい。
弛んだ口角のままに笑みを浮かべて応えれば、そんなところにいないでおいでと密さんは手を差し出してくれる。誘われるように彼に近づいてその手をとれば、ぐいと手を引いて私を引き寄せた密さんが傘の中に入ってくる。
「{name2} 、おしごとだったの?」
するり、と彼の白い手が私の傘を持つ手に絡まって握る拳を解くと、傘を攫って行く。
「――は、はい。密さんもですか?」
「うん。今日はスーパーの試食コーナーのおしごと」
「そうなんですね。お疲れさまです! 沢山売れました?」
「うん、美味しかったよ」
「えー? 試食品食べちゃったんですか? 食べちゃダメですよ?」
「子どもが一緒に食べようって来たから一緒に食べちゃったけど、美味しいって言ったら皆買ってくれたよ」
「うーん。それだったら、いいの……かなぁ?」
肩を寄せてそっと傘を傾けてくれる密さんに申し訳ないなと心の中で言い訳をしながら、そうっと身を寄せる。ぱちぱちと弾ける雨音と一緒にさっきまで引き摺っていた憂鬱は弾けて消えてしまったようだ。
ちらりと盗み見た密さんの横顔は相変わらず陶磁器のように白くてきれいだ。その涼やかな顔にはいつもどぎまぎとさせられてしまう。少し子どもっぽいこの人はマイペースでいつも眠っているような感じがする。けれども、この人は見ていないようでいつも何かを見ている。ほんの僅かな機微でさえもその黄緑色の双眸は捉えている。何考えて居るのか読み取れないその涼し気な容貌で、何か見透かされているような気がしてしまう。
「{name2} 、いい匂いする」
「え!? そうですか? 今日作ったお菓子かな……?」
「ん。甘くて優しい匂い」
ちらりと盗み見していた視線と密さんの視線がかち合って少し決まりが悪い。そんな私を密さんは気にも留めずに、湿気でいつも以上にうねる私の髪をそっとのけて、
「!」
「……ん、あまい」
何の前触れもなく、唇をはむと咥えられ、あっさりと離れていく。
密さんはぺろりと唇を舐めて、少し思案顔。どくどくどくと心臓の鼓動がうるさく鳴って思わず両手で口元を隠せば、密さんがこちらに視線を向けて、目が合う。すっと目を細めた彼が、{name2} と撫でるように私を呼んで、口元を覆った指先にもう一度触れるだけのキスをする。
「かえろう、{name2} 」
「っ……」
何事もなかったかのように傘を畳む密さんを視界の端で捉えることしかできない。項垂れながら両頬を手で抑え、蒸気する体温を静まれと念じていれば、覗きこんできた密さんに再び唇を甘噛みされるのである。
19.07.15 初出 『 きみの触れた火が柔いこと 』 title by:alkalism
降谷とプロポーズ
朝の匂いを察知して自然と目を覚ました瞬間、隣のぬくもりを探すのが最早日課となってしまった。見つからないその面影の行方を期待して探してしまう。もしかしたら。もしかしたら今日こそはあの黄色い幸せを見つけることが出来るのかもしれないと求めてしまう。そうして見つからないその人思って明日こそは、とその空白に呪いを掛けるのだ。
さらりとシーツを撫でて、いつか横たわっていた日々を思い出して頬をそっと寄せて目を瞑る。
「零くん」
瞼の裏に棲みついた彼は私に優しく笑いかけてくれる。心を優しく撫でてくれる。
繊細な麦わら色の髪も、私を見つめるくすんだ水色の瞳も、小麦色の頼もしい腕も、少しだけ荒れた薄い唇も。全て身体が覚えていて、全てが愛おしい。彼を形どる全てを思い出しては求めてしまう。
「君は一人でも生きていけるけれども、これじゃあ私は君がいないときっと生きられないね」
小さい笑みを零し、するりとシーツを愛撫する。すんと鼻を啜る。いつか鼻を擽った彼の匂いも今ではどこかへと消えて行ってしまった。
暫くじっとその空白を見つめ、もう一撫ですると、名残惜しい気持ちを抑えてベッドから抜け出した。
きっと今日もこの国のために戦っているのだろう。あの人はそういう男だ。そして、その大多数を守るためにいつか私は切り捨てられてしまうだろう。それでもあの人を、孤独なあの人を愛することが出来たのならば、その孤独を少しでも癒すことができたのならば、私はそのいつかが来ても構わない。君が生きていてくれさえすれば、それ以上のことは本当はどうだっていい。
……本当は。本当は、今日という日を一緒に過ごすことができないのが残念だった。最後の日一緒に過ごし、明日からの新しい日々を一緒に迎えたかった。けれども、あの人が平穏無事ならば、帰って来ない寂しさも飲み込んでしまわなければならない。
「……あれ?」
リビングの卓上がいつもの様子が違う。近づいてみて見ると、ラップに包まれた朝食とクリアファイルに入れられた書類が置いてある。そのクリアファイルの上には正方形の付箋紙が貼りつけられていて、「{name2}へ。今日中に記入すること!」と一言添えられている。
そんなことよりも……。
「え!? うそ、帰って来てた!?」
何時の間にかに帰って来ていたのだろうか。一言声を掛けてくれればいいものなのに。思わずリビングを見回してしまうが、当然彼の姿はない。もう出て行ってしまった後のなのだ。
わかってはいたものの、思わず肩を落として溜息を吐く。彼の仕事が多忙であることは理解はしているが、やはり一目でもいいから会いたかった。あんなにも焦がれていた彼とすれ違いをしてしまい、失望は大きい。次はいつ会えるのかわからない。明日か明後日か来週かそれまたさらに先か。仕事が立て込めば一週間以上は当たり前だ。
零くんと、心許ない気持ちで呟くと、不意にピリリリとテーブルの上に置きっぱなしにしていたスマートフォンが鳴る
はてな。昨夜はコンセントに繋いだはずだったが……?
「もしも……」
「ああ、僕だよ。おはよう{name2}。今日も元気かい? ちゃんと朝食は食べてくれよ」
「零くん!?」
「うん。おはよう、{name2}。今起きたばっかりだったかな。約束。朝食は残さずきっちり食べること!」
「う、うん!」
「食べ終わったら、暫くシンクに着けておくこと」
「うん!」
「そしたら、そこのクリアファイルの書類の記入欄に必要事項をしっかり読んで書くこと」
「うん! ……あれ? 婚姻、届?」
「…………{name2}」
改まった声色の彼に、そっと背筋が伸びる。珍しく緊張した雰囲気に、ごくりと息を飲む。
「これからもずっと一緒に」
“僕と結婚してください”
耳たぶを打つ言葉が優しい。今までもらったどんな言葉よりも、何よりも、優しい声色の言葉は、そっと心臓を撫でて震わせる。目の奥がじわりと熱くなって、明日からも一緒に居ていいのかと思うと胸がきゅうと一杯になって、目からぽろぽろぽろぽろと涙が零れてくる。
――ああ、大事な書類なのに。
「……私、いいの?」
「いいんだよ。{name2}と一緒に居たいんだよ」
「零くん……」
「一人で泣くなよ、今は傍にいてあげられないんだから」
「うっ……零くん……」
「泣かないで、{name2}」
「書類……涙で……濡らし……ちゃった」
一瞬の沈黙。だが、すぐに笑い声が破裂する。
「っははは!」
「零、くん?」
「やっぱり、{name2}だなァ……」
「え? え? なに? 怒ってないの?」
「予備もらっておいたから大丈夫だよ。テーブルの隅に封筒置いてない?」
「あ!」
「ふふっ、もう泣き止んだね」
「え、あ……!」
ハッとして、頬を抑えれば、電話の向こう側からクスクスと楽しそうな声。
――やっぱり、零君がいないと私は駄目だなあ。
「そろそろ電話切らなくちゃいけないんだけど、最後にもう一つ約束していい?」
「うん? なあに?」
「明日一緒に書類出しに行こうね」
――また明日。
そう言って、電話はあっさりと切れてしまった。
いつか、零君の理想の為に、切り捨てられてしまうのだろうと思っていた。彼が守りたいと思うものの為に、私は最小限のリスクの一部として、離れていかなければならない日が来るのだろう。そう思っていた。
しかし、零君は違ったのだ。私を抱え込んだまま、理想を遂げようと覚悟を決めたのだ。きっと足手まといにしかならない私と一緒に居たいと願ってくれた。それはこの上ない幸せなことだ。明日だけじゃなくて明後日明々後日と続く未来への約束だ。それを零君がくれるのだ。ならば私も零君に全てを捧げる覚悟をしよう。
「零くん……ありがとう」
一度スマートフォンをぎゅっと胸に抱きしめると、そっとテーブルの上に置いた。そして、封筒に入った予備の婚姻届けを取り出してみる。そこには既に零くんの繊細な筆跡で名前が書かれていた。
”降谷 零”
その何よりも美しいと思う名前をそっとなぞり笑みを零すと、その横の欄にゆっくり自分の名前を書いた。その美しい文字とは対称的に丸みを帯びた垢抜けない自分の字を見て、そのアンバランスさに小さく笑ってしまった。零君から名前を貰い、いつか、私の名前も美しい名前になれるだろうか。
書き終わった婚姻届けを感慨深く眺めながら、スマートフォンを再び起動する。写真を撮ってメールに添付して送れば、彼の作ってくれた朝食を食べ始める。
明日からの新しい日々に期待を寄せながら。
19.04.30 初出 『式日』
朝の匂いを察知して自然と目を覚ました瞬間、隣のぬくもりを探すのが最早日課となってしまった。見つからないその面影の行方を期待して探してしまう。もしかしたら。もしかしたら今日こそはあの黄色い幸せを見つけることが出来るのかもしれないと求めてしまう。そうして見つからないその人思って明日こそは、とその空白に呪いを掛けるのだ。
さらりとシーツを撫でて、いつか横たわっていた日々を思い出して頬をそっと寄せて目を瞑る。
「零くん」
瞼の裏に棲みついた彼は私に優しく笑いかけてくれる。心を優しく撫でてくれる。
繊細な麦わら色の髪も、私を見つめるくすんだ水色の瞳も、小麦色の頼もしい腕も、少しだけ荒れた薄い唇も。全て身体が覚えていて、全てが愛おしい。彼を形どる全てを思い出しては求めてしまう。
「君は一人でも生きていけるけれども、これじゃあ私は君がいないときっと生きられないね」
小さい笑みを零し、するりとシーツを愛撫する。すんと鼻を啜る。いつか鼻を擽った彼の匂いも今ではどこかへと消えて行ってしまった。
暫くじっとその空白を見つめ、もう一撫ですると、名残惜しい気持ちを抑えてベッドから抜け出した。
きっと今日もこの国のために戦っているのだろう。あの人はそういう男だ。そして、その大多数を守るためにいつか私は切り捨てられてしまうだろう。それでもあの人を、孤独なあの人を愛することが出来たのならば、その孤独を少しでも癒すことができたのならば、私はそのいつかが来ても構わない。君が生きていてくれさえすれば、それ以上のことは本当はどうだっていい。
……本当は。本当は、今日という日を一緒に過ごすことができないのが残念だった。最後の日一緒に過ごし、明日からの新しい日々を一緒に迎えたかった。けれども、あの人が平穏無事ならば、帰って来ない寂しさも飲み込んでしまわなければならない。
「……あれ?」
リビングの卓上がいつもの様子が違う。近づいてみて見ると、ラップに包まれた朝食とクリアファイルに入れられた書類が置いてある。そのクリアファイルの上には正方形の付箋紙が貼りつけられていて、「{name2}へ。今日中に記入すること!」と一言添えられている。
そんなことよりも……。
「え!? うそ、帰って来てた!?」
何時の間にかに帰って来ていたのだろうか。一言声を掛けてくれればいいものなのに。思わずリビングを見回してしまうが、当然彼の姿はない。もう出て行ってしまった後のなのだ。
わかってはいたものの、思わず肩を落として溜息を吐く。彼の仕事が多忙であることは理解はしているが、やはり一目でもいいから会いたかった。あんなにも焦がれていた彼とすれ違いをしてしまい、失望は大きい。次はいつ会えるのかわからない。明日か明後日か来週かそれまたさらに先か。仕事が立て込めば一週間以上は当たり前だ。
零くんと、心許ない気持ちで呟くと、不意にピリリリとテーブルの上に置きっぱなしにしていたスマートフォンが鳴る
はてな。昨夜はコンセントに繋いだはずだったが……?
「もしも……」
「ああ、僕だよ。おはよう{name2}。今日も元気かい? ちゃんと朝食は食べてくれよ」
「零くん!?」
「うん。おはよう、{name2}。今起きたばっかりだったかな。約束。朝食は残さずきっちり食べること!」
「う、うん!」
「食べ終わったら、暫くシンクに着けておくこと」
「うん!」
「そしたら、そこのクリアファイルの書類の記入欄に必要事項をしっかり読んで書くこと」
「うん! ……あれ? 婚姻、届?」
「…………{name2}」
改まった声色の彼に、そっと背筋が伸びる。珍しく緊張した雰囲気に、ごくりと息を飲む。
「これからもずっと一緒に」
“僕と結婚してください”
耳たぶを打つ言葉が優しい。今までもらったどんな言葉よりも、何よりも、優しい声色の言葉は、そっと心臓を撫でて震わせる。目の奥がじわりと熱くなって、明日からも一緒に居ていいのかと思うと胸がきゅうと一杯になって、目からぽろぽろぽろぽろと涙が零れてくる。
――ああ、大事な書類なのに。
「……私、いいの?」
「いいんだよ。{name2}と一緒に居たいんだよ」
「零くん……」
「一人で泣くなよ、今は傍にいてあげられないんだから」
「うっ……零くん……」
「泣かないで、{name2}」
「書類……涙で……濡らし……ちゃった」
一瞬の沈黙。だが、すぐに笑い声が破裂する。
「っははは!」
「零、くん?」
「やっぱり、{name2}だなァ……」
「え? え? なに? 怒ってないの?」
「予備もらっておいたから大丈夫だよ。テーブルの隅に封筒置いてない?」
「あ!」
「ふふっ、もう泣き止んだね」
「え、あ……!」
ハッとして、頬を抑えれば、電話の向こう側からクスクスと楽しそうな声。
――やっぱり、零君がいないと私は駄目だなあ。
「そろそろ電話切らなくちゃいけないんだけど、最後にもう一つ約束していい?」
「うん? なあに?」
「明日一緒に書類出しに行こうね」
――また明日。
そう言って、電話はあっさりと切れてしまった。
いつか、零君の理想の為に、切り捨てられてしまうのだろうと思っていた。彼が守りたいと思うものの為に、私は最小限のリスクの一部として、離れていかなければならない日が来るのだろう。そう思っていた。
しかし、零君は違ったのだ。私を抱え込んだまま、理想を遂げようと覚悟を決めたのだ。きっと足手まといにしかならない私と一緒に居たいと願ってくれた。それはこの上ない幸せなことだ。明日だけじゃなくて明後日明々後日と続く未来への約束だ。それを零君がくれるのだ。ならば私も零君に全てを捧げる覚悟をしよう。
「零くん……ありがとう」
一度スマートフォンをぎゅっと胸に抱きしめると、そっとテーブルの上に置いた。そして、封筒に入った予備の婚姻届けを取り出してみる。そこには既に零くんの繊細な筆跡で名前が書かれていた。
”降谷 零”
その何よりも美しいと思う名前をそっとなぞり笑みを零すと、その横の欄にゆっくり自分の名前を書いた。その美しい文字とは対称的に丸みを帯びた垢抜けない自分の字を見て、そのアンバランスさに小さく笑ってしまった。零君から名前を貰い、いつか、私の名前も美しい名前になれるだろうか。
書き終わった婚姻届けを感慨深く眺めながら、スマートフォンを再び起動する。写真を撮ってメールに添付して送れば、彼の作ってくれた朝食を食べ始める。
明日からの新しい日々に期待を寄せながら。
19.04.30 初出 『式日』
安室透とポアロの常連のOL
学生の頃とは打って変わり、社会人となって日々は目まぐるしく流れていく。仕事をして、家に帰って、次の日の業務の確認をして、眠って、また起きて。時々、学生時代の友人と会ったりして。
それがずっと続くと思うと、少しだけ、寂しい気もする。
その分、好きな事を増やそうと思った。好きなものが増えることは、幸せになれる時間が増えるということだと思う。
好きな歌手の音楽を聴くこと、好きな食べ物を食べること、好きなデザインの洋服を身に纏うこと。それらは、絶え間ない日々にそっと寄り沿うようにして私を幸福感で満たしていく。
「いらっしゃいませ……! {name2}さん、こんにちは!」
「こんにちは、安室さん! 今日は席空いてますか?」
仕事の合間にふらっと立ち寄った喫茶店も、最近増えた好きなものの一つ。
喫茶ポアロ。個人経営の喫茶店だ。このポアロは雑居ビルの1階層に店を構えており、2階層にはあの有名な毛利小五郎の探偵事務所がある。そのため、毛利小五郎本人やそのご家族の方たちと鉢合わせることもあり、ちょっとした有名人にも会えるという不思議な喫茶店でもある。そんなところも少しおもしろいところだと思う。
ポアロの店内は――……お世辞にも、そう広くはないが、開放的な作りにはなっている。店の目鼻先は通りに面しており、往来がある。通りの面はガラス張りになっているため、外からポアロの様子を窺うことが出来る。
店内にはカウンター席とテーブル席の二通りの席があり、店の混雑の具合によりけりではあるが、作業しにポアロへ訪れることもあるため、テーブル席に通してもらうことが多い。
以前の客の年齢層は中高年の男性が多かったようだが、噂の名物店員”安室 透”さんが従業員として働くようになってからは日に日に女性客が増えているらしい。彼目当て訪れる女子高生は専ら安室さんとの距離が近いカウンター席が人気なので、作業したいときには店員から少し遠いテーブル席が空くので少しありがたい。少し騒がしいけれども、嫌な騒がしさではないので気に入ってはいる。
「あれ? 今日は随分と穏やかですね」
「穏やか?」
「安室さんいらっしゃる時は女子高生いっぱいなイメージがあったので」
「ははっ。彼女たちだって、いつもここにいるわけではないですよ」
店内にはカウンター席に常連のおじさんが2人。テーブル席には飛び石に2人。それぞれが、思い思いに昼下がりの緩やかな時間を過ごしているようだ。普段、安室さん目当てで来る女子高生たちは珍しく一人として見当たらない。
はて、と首を捻れば、近くに座っていたおじさんが、高校生たちはテスト期間であるらしいということを教えてくれた。図書館の近所に住むその常連さんが朝方散歩している時に早くから図書館の開館時間待ちをしている学生の行列を見たという。
今は図書館が駆け込み寺らしい。道理で休日であるが学生の姿が見当たらないわけだ。
「学生さんが元気で賑やかなのも楽しいけれども、たまには以前みたいな長閑なポアロもいいよね」
「そうだなぁ。学生の若い子見てると元気出るけれども、俺たちおじさんだからちょっと疲れちゃうね」
「違いない!」
「はは……確かに、高校生の子たち元気いっぱいですものね」
苦笑いしながら、共感の意を示してみれば、くるりと視線が私の方に向く。
なんだ、なんだ。
「{name2}ちゃん……いい保養だな」
「10代を経た20代の少し落ち着いた若い子……いいね。オアシスだ」
「すみません、店内でナンパは……ちょっと」
「ええ! 安室くん! 僕たちからまだ女の子を取り上げるのかい! ずるいよ~イケメンだからって!」
「そ、そういうわけではないんですが!……ゴホン! {name2}さん、今日は奥のテーブル席でよろしいですか!」
「安室君のいけずー!」
背中を押されるように奥のテーブル席に案内されて席に座れば、常連さん達はにやにやと安室さんを見て楽しそうに笑っている。
私がこの店に通うようになってからあまり見かけない光景だ。
普段は女学生が多い時間帯に来てしまう事が多く、こういった常連さんたちの憩う時間帯に身を置く機会がなかった。皆さんとは何となく顔を合わせて、顔馴染みに挨拶する程度ではあったが、こうやって気さくに交友する機会は珍しかった。安室さんは気を使って茶化すいい大人たちから庇ってくれたが、少しだけ、そういった細やかな交流が楽しかったりする。
ポアロを見つける前は、誰もが知っている有名カフェチェーン店をその時の気分で利用していたが、こういった細やかな人の交友とは無縁の場所であった。店内は沢山の人で賑わい、どこもかしも席を見つけるのが難しく、やっとの思いで席を見つけた席もどこか少し落ち着かないことがあった。お店のコーヒーやお茶菓子は力を入れているなりにおいしいし、安定した商品供給がされていて、店舗数もそれなりにあるので気軽に立ち寄りやすい。チェーン店にもいいところがある。それがお気に入りだったし、好きだった。
けれど、ふとした瞬間に、居心地が悪く感じてしまう。
お気に入りのカフェラテは温かいけれども、ふと我に返った時、周囲を見回してみるとパソコンと睨めっこをするサラリーマンや仕事の打ち合わせをする人々。少しくたびれた顔。知らない談笑。
無人島に1人流れ着いたような、宇宙空間に放り出されたような、哀愁漂う冬の黄昏時のような。
心許ない寂寥感。騒然とした中に深々と息を顰める荒涼感。
それがどこか寂しくて、温かいはずなのに寒い感じがした。
ポアロを見つけた時は嬉しかった。また新しく好きなものが増えると思った。梓さんや安室さんが愛想よく気さくに迎えてくれて、案の定、すぐにお気に入りの場所になった。ごはんやデザート、コーヒーは何を頼んでも美味しくて幸せな気持ちなるし、少しばかり騒がしい常連さんたちも、それも何だか温かくて心地よかった。
鶴山のおばあちゃんは仕事の作業をしていれば、えらいねと一粒の飴玉をくれるし、久々に会って隣になった常連のおじさんは久しぶり元気だったと声を掛けてくれる。そんな些細なことが嬉しくて、楽しくて、ここでの交流も好きなものの一つになっていた。
やはり好きなものに囲まれて過ごす時間は幸せだ。
「ふふっ」
「なにかいいことありました?」
「! 安室さん!」
「コーヒーとハムサンド、お待たせしました」
仕事の資料を広げて作業しつつ思い出し笑いをしていれば、安室さんが頼んでいたコーヒーとハムサンドを運んできた。見られた。
恥ずかしくなって、両頬に手を添えれば、にこにこと笑みを浮かべた彼が、お疲れ様ですと労いの言葉を掛けてくる。
コーヒーカップに寄り添うようにソーサーの上にちょこんと乗った小さな包み紙を見つけて、あっと思う。その中には少量の金平糖が入っていて、それもポアロで好きになったものの一つだ。コーヒーに添えられたそれは密かな楽しみであった。
少しテーブルの上を整えて、スペースを作ると早速運んできてくれたハムサンドとコーヒーをいただく。
シャキシャキのレタスとハムにマヨネーズと味噌が混ざったソースが程よく絡まっておいしい。食べものの魔法。おいしいものは自然と口元が綻んでいく。
おいしいコーヒーと居心地のよいゆったりとした空間。このポアロには幸せが沢山つまっている。
「相変わらず愛されてるね、{name2}ちゃん」
「え?」
よく隣の席になる物静かなおじさんが、新聞から視線を私に向ける。
何が気づいていなかったのだろうと、思案していれば、彼は意外そうな表情をしていた。
「気づいてなかった? そのソーサーに乗ってる金平糖。普通はついてないんだよ。安室君が君にコーヒーを出すときだけはいつも乗っているんだ」
「――え?」
思わず常連のおじさんを接客している安室さんの方を見れば、バチっと目があって、ウィンクを一つ。どきり、と心臓が揺れた。とくとくと、さざめき始める胸にそっと手を当てて、冷静に努めようとする。
これは、どういう事なのだろう。少なくとも彼は私に対して好感を持ってくれていると捉えていいのだろうか。都合のいいことばかり考えて勘違いしてしまいそうだ。
彼は店のドアが開く音に反応して、すぐに新たなる客を迎えに行く。他の学校よりも一足先にテストが終わっていた学校の生徒だろうか。賑やかになり始める店内に、一部始終を見ていたおじさん達からの生温い視線。どきどきといまだ熱を持つ心臓。
視線が彼を負い始めようとするのを抑えて視線を逸らせば、コーヒーカップに寄り添うように置かれた金平糖の入った包み紙が目に入る。先程よりも愛おしく思えてきて、それをいつもよりも丁寧に開ける。中には、淡くも美しい色の金平糖が入っている。きらきらと輝く星のようだ。
ひとつまみ、その星を口の中に含めば、さりさりと小さく砕けて、口の中が甘い宇宙のようになっていく。残りの金平糖を丁寧に包み紙に包み直して、さらにハンカチで包んで大切にカバンの中にしまうと今度からはコーヒーの中にではなく、瓶の中に入れて取っておこうと思った。星を集めて、その星が瓶の中一杯になったならば、今度は私から彼に好意を返そう。
――また好きなものが増えそうだ。
フォロワーさんのお誕生日に送りました。おめでとう!
18.12.09 初出 『ロマンチック・スター』
学生の頃とは打って変わり、社会人となって日々は目まぐるしく流れていく。仕事をして、家に帰って、次の日の業務の確認をして、眠って、また起きて。時々、学生時代の友人と会ったりして。
それがずっと続くと思うと、少しだけ、寂しい気もする。
その分、好きな事を増やそうと思った。好きなものが増えることは、幸せになれる時間が増えるということだと思う。
好きな歌手の音楽を聴くこと、好きな食べ物を食べること、好きなデザインの洋服を身に纏うこと。それらは、絶え間ない日々にそっと寄り沿うようにして私を幸福感で満たしていく。
「いらっしゃいませ……! {name2}さん、こんにちは!」
「こんにちは、安室さん! 今日は席空いてますか?」
仕事の合間にふらっと立ち寄った喫茶店も、最近増えた好きなものの一つ。
喫茶ポアロ。個人経営の喫茶店だ。このポアロは雑居ビルの1階層に店を構えており、2階層にはあの有名な毛利小五郎の探偵事務所がある。そのため、毛利小五郎本人やそのご家族の方たちと鉢合わせることもあり、ちょっとした有名人にも会えるという不思議な喫茶店でもある。そんなところも少しおもしろいところだと思う。
ポアロの店内は――……お世辞にも、そう広くはないが、開放的な作りにはなっている。店の目鼻先は通りに面しており、往来がある。通りの面はガラス張りになっているため、外からポアロの様子を窺うことが出来る。
店内にはカウンター席とテーブル席の二通りの席があり、店の混雑の具合によりけりではあるが、作業しにポアロへ訪れることもあるため、テーブル席に通してもらうことが多い。
以前の客の年齢層は中高年の男性が多かったようだが、噂の名物店員”安室 透”さんが従業員として働くようになってからは日に日に女性客が増えているらしい。彼目当て訪れる女子高生は専ら安室さんとの距離が近いカウンター席が人気なので、作業したいときには店員から少し遠いテーブル席が空くので少しありがたい。少し騒がしいけれども、嫌な騒がしさではないので気に入ってはいる。
「あれ? 今日は随分と穏やかですね」
「穏やか?」
「安室さんいらっしゃる時は女子高生いっぱいなイメージがあったので」
「ははっ。彼女たちだって、いつもここにいるわけではないですよ」
店内にはカウンター席に常連のおじさんが2人。テーブル席には飛び石に2人。それぞれが、思い思いに昼下がりの緩やかな時間を過ごしているようだ。普段、安室さん目当てで来る女子高生たちは珍しく一人として見当たらない。
はて、と首を捻れば、近くに座っていたおじさんが、高校生たちはテスト期間であるらしいということを教えてくれた。図書館の近所に住むその常連さんが朝方散歩している時に早くから図書館の開館時間待ちをしている学生の行列を見たという。
今は図書館が駆け込み寺らしい。道理で休日であるが学生の姿が見当たらないわけだ。
「学生さんが元気で賑やかなのも楽しいけれども、たまには以前みたいな長閑なポアロもいいよね」
「そうだなぁ。学生の若い子見てると元気出るけれども、俺たちおじさんだからちょっと疲れちゃうね」
「違いない!」
「はは……確かに、高校生の子たち元気いっぱいですものね」
苦笑いしながら、共感の意を示してみれば、くるりと視線が私の方に向く。
なんだ、なんだ。
「{name2}ちゃん……いい保養だな」
「10代を経た20代の少し落ち着いた若い子……いいね。オアシスだ」
「すみません、店内でナンパは……ちょっと」
「ええ! 安室くん! 僕たちからまだ女の子を取り上げるのかい! ずるいよ~イケメンだからって!」
「そ、そういうわけではないんですが!……ゴホン! {name2}さん、今日は奥のテーブル席でよろしいですか!」
「安室君のいけずー!」
背中を押されるように奥のテーブル席に案内されて席に座れば、常連さん達はにやにやと安室さんを見て楽しそうに笑っている。
私がこの店に通うようになってからあまり見かけない光景だ。
普段は女学生が多い時間帯に来てしまう事が多く、こういった常連さんたちの憩う時間帯に身を置く機会がなかった。皆さんとは何となく顔を合わせて、顔馴染みに挨拶する程度ではあったが、こうやって気さくに交友する機会は珍しかった。安室さんは気を使って茶化すいい大人たちから庇ってくれたが、少しだけ、そういった細やかな交流が楽しかったりする。
ポアロを見つける前は、誰もが知っている有名カフェチェーン店をその時の気分で利用していたが、こういった細やかな人の交友とは無縁の場所であった。店内は沢山の人で賑わい、どこもかしも席を見つけるのが難しく、やっとの思いで席を見つけた席もどこか少し落ち着かないことがあった。お店のコーヒーやお茶菓子は力を入れているなりにおいしいし、安定した商品供給がされていて、店舗数もそれなりにあるので気軽に立ち寄りやすい。チェーン店にもいいところがある。それがお気に入りだったし、好きだった。
けれど、ふとした瞬間に、居心地が悪く感じてしまう。
お気に入りのカフェラテは温かいけれども、ふと我に返った時、周囲を見回してみるとパソコンと睨めっこをするサラリーマンや仕事の打ち合わせをする人々。少しくたびれた顔。知らない談笑。
無人島に1人流れ着いたような、宇宙空間に放り出されたような、哀愁漂う冬の黄昏時のような。
心許ない寂寥感。騒然とした中に深々と息を顰める荒涼感。
それがどこか寂しくて、温かいはずなのに寒い感じがした。
ポアロを見つけた時は嬉しかった。また新しく好きなものが増えると思った。梓さんや安室さんが愛想よく気さくに迎えてくれて、案の定、すぐにお気に入りの場所になった。ごはんやデザート、コーヒーは何を頼んでも美味しくて幸せな気持ちなるし、少しばかり騒がしい常連さんたちも、それも何だか温かくて心地よかった。
鶴山のおばあちゃんは仕事の作業をしていれば、えらいねと一粒の飴玉をくれるし、久々に会って隣になった常連のおじさんは久しぶり元気だったと声を掛けてくれる。そんな些細なことが嬉しくて、楽しくて、ここでの交流も好きなものの一つになっていた。
やはり好きなものに囲まれて過ごす時間は幸せだ。
「ふふっ」
「なにかいいことありました?」
「! 安室さん!」
「コーヒーとハムサンド、お待たせしました」
仕事の資料を広げて作業しつつ思い出し笑いをしていれば、安室さんが頼んでいたコーヒーとハムサンドを運んできた。見られた。
恥ずかしくなって、両頬に手を添えれば、にこにこと笑みを浮かべた彼が、お疲れ様ですと労いの言葉を掛けてくる。
コーヒーカップに寄り添うようにソーサーの上にちょこんと乗った小さな包み紙を見つけて、あっと思う。その中には少量の金平糖が入っていて、それもポアロで好きになったものの一つだ。コーヒーに添えられたそれは密かな楽しみであった。
少しテーブルの上を整えて、スペースを作ると早速運んできてくれたハムサンドとコーヒーをいただく。
シャキシャキのレタスとハムにマヨネーズと味噌が混ざったソースが程よく絡まっておいしい。食べものの魔法。おいしいものは自然と口元が綻んでいく。
おいしいコーヒーと居心地のよいゆったりとした空間。このポアロには幸せが沢山つまっている。
「相変わらず愛されてるね、{name2}ちゃん」
「え?」
よく隣の席になる物静かなおじさんが、新聞から視線を私に向ける。
何が気づいていなかったのだろうと、思案していれば、彼は意外そうな表情をしていた。
「気づいてなかった? そのソーサーに乗ってる金平糖。普通はついてないんだよ。安室君が君にコーヒーを出すときだけはいつも乗っているんだ」
「――え?」
思わず常連のおじさんを接客している安室さんの方を見れば、バチっと目があって、ウィンクを一つ。どきり、と心臓が揺れた。とくとくと、さざめき始める胸にそっと手を当てて、冷静に努めようとする。
これは、どういう事なのだろう。少なくとも彼は私に対して好感を持ってくれていると捉えていいのだろうか。都合のいいことばかり考えて勘違いしてしまいそうだ。
彼は店のドアが開く音に反応して、すぐに新たなる客を迎えに行く。他の学校よりも一足先にテストが終わっていた学校の生徒だろうか。賑やかになり始める店内に、一部始終を見ていたおじさん達からの生温い視線。どきどきといまだ熱を持つ心臓。
視線が彼を負い始めようとするのを抑えて視線を逸らせば、コーヒーカップに寄り添うように置かれた金平糖の入った包み紙が目に入る。先程よりも愛おしく思えてきて、それをいつもよりも丁寧に開ける。中には、淡くも美しい色の金平糖が入っている。きらきらと輝く星のようだ。
ひとつまみ、その星を口の中に含めば、さりさりと小さく砕けて、口の中が甘い宇宙のようになっていく。残りの金平糖を丁寧に包み紙に包み直して、さらにハンカチで包んで大切にカバンの中にしまうと今度からはコーヒーの中にではなく、瓶の中に入れて取っておこうと思った。星を集めて、その星が瓶の中一杯になったならば、今度は私から彼に好意を返そう。
――また好きなものが増えそうだ。
フォロワーさんのお誕生日に送りました。おめでとう!
18.12.09 初出 『ロマンチック・スター』
審神者の独白
季節は生まれ変わり続け、貴方が居なくなった夏の終わりを今年も迎えました。
今年も相変わらず残暑の厳しい日々が続いています。軽い夏バテに苛まれたりして皆に心配をかけてしまいました。少しずつ夏が微睡み始めているというのに情けない話です。
この時期になると昼下がりの午後はとても曖昧で気が遠くなるような途方もない気持ちになります。砂漠の真ん中にポツリと佇むような、人気のない空間の死んだ空気の流れのような。荷物の臭いがする空き家を想像するとわかりやすいかもしれません。生活感があって誰かが住んでいた痕跡が見えるけれども誰もいない。あの死んでいる空間はどうにも恐ろしいものです。
夏は一番快活に見えるのに隅っこは冬の夜よりもどこか冷たいような寂しいような感覚がします。いつの間にかに聞こえなくなっていたことに気づく蝉の声、少しずつ眠る時間が長くなっていく夏。太陽が遠くなっていく。
華やかな夏の中に潜む鬱屈とした退廃が背筋をぞっとさせるのです。とても寒い、寒い。温かいはずなのにどこか寒い。
貴方とたった二人で紡ぎ始めたこの本丸も少しずつ仲間が増え賑やかになりました。それと同時にこの本丸が物静かであった時を思い出せなくなって来ています。
時折あなたと私が初めて鍛刀したあの子とお話しをします。あなたと一緒にいた頃の事を思い返そうと試みていますが少しずつ形を変えていってしまいます。記憶が少しずつ美化されていくのです。あなたと過ごした時間が少しずつ形を変えて綺麗な思い出として変わっていくのです。最初は意思疏通が上手く行っていなかったことも、わかり合えず言い合いをしたことも、忘れかけてあの子に言われて久々に思い出しました。それはきっと些末なことではあるけれども、私は愕然としてしまいました。記憶が形を変えてあなたの輪郭を曖昧にさせていくのです。あなたがいなくなったとき、一つたりとも忘れまいと決心していたのに私はすっかりと記憶を違えてしまったのです。最初から仲良くあなたと過ごしていたと思い込んでしまっていたのです。それはあなたをどんどん忘れていくようで恐ろしいです。
そんな私を励ましてくれるのは獅子王でした。覚えていますか、彼のこと。私達の本丸に初めて来てくれた太刀の獅子王です。今でもダメな私を励ましてくれます。本当にいい子です。私を気遣ってあなたが居た頃の話をよくしてくれます。先に獅子王と出会っていたら獅子王に恋していたかもしれませんね。たらればです。
新しく来た方達もとても頼もしい仲間です。
へし切長谷部は怖いぐらいに忠実ですが、審神者の私を先回りして手助けしてくれます。燭台切光忠は私が料理が得意でないことを察して上手く補助してくれます。今では食べ物を焦がすことも少なくなりました。
そういえば、あなたにはよく焦がして呆れられたものでしたね。自慢ではありませんが随分と上達しました。今では料理本を見ずとも簡単なものならば直ぐに作れます。皆おかわりしてくれます。昔では考えられないですね。
今、とても賑やかで毎日が心地好いです。
それでも、ふとした瞬間、浦島太郎の気持ちになるのです。温かくてぞっとするのです。私が好きな歌手がそんなことを歌っていましたが、こういう感覚なのかもしれません。あなたがいないと自覚した瞬間、どうしても突き放されたように寒くなるのです。
あなたを探してどうしようもなく語りかけたくなります。どうでもいいような事ばかりですが、ただあなたに聞いてほしいのです。恐ろしく穏やかなこの時間をあなたと過ごしたいのです。
私はあなたがいないことが寂しくてたまらないのです。いなくなるのはもう沢山だと鍛刀をすることが怖くなってしまって遠ざかっていました。皆が新しい仲間を連れてくるのをただひたすらに眺めていました。その中にあなたが戻ってきてくれるのではないかと期待してもいました。一方でそれはもうあなたではないのだからどうか来ないでほしいと願っていました。
またあなたを失うのが怖くてあなたを遠ざけようとしました。ごめんなさい。
けれども、もう止めようと思います。
会いたいのなら自分から会いに行くしかないのです。願うだけでは何も叶わない。私があなたへと会いに行くのです。
あの頃から私達と一緒にいたあの子は先日修行から帰ってきてくれました。今度は私の番です。私が一歩踏み出す番。今度は私の番です。あの子が強くなりました。私も今度は強くなって行こうと思います。
この手紙を書き終わったならば釜に入れて燃やしてしまいましょう。
そうすればきっと、あなたにこの想いが届く気がするのです。
「……新しい主?」
たとえ、現れたあなたが違うあなただったとしても。
「はじめまして、――様。この本丸の審神者です。これからもよろしくお願いします」
『夜明け前に』
18.03.19 加筆修正
季節は生まれ変わり続け、貴方が居なくなった夏の終わりを今年も迎えました。
今年も相変わらず残暑の厳しい日々が続いています。軽い夏バテに苛まれたりして皆に心配をかけてしまいました。少しずつ夏が微睡み始めているというのに情けない話です。
この時期になると昼下がりの午後はとても曖昧で気が遠くなるような途方もない気持ちになります。砂漠の真ん中にポツリと佇むような、人気のない空間の死んだ空気の流れのような。荷物の臭いがする空き家を想像するとわかりやすいかもしれません。生活感があって誰かが住んでいた痕跡が見えるけれども誰もいない。あの死んでいる空間はどうにも恐ろしいものです。
夏は一番快活に見えるのに隅っこは冬の夜よりもどこか冷たいような寂しいような感覚がします。いつの間にかに聞こえなくなっていたことに気づく蝉の声、少しずつ眠る時間が長くなっていく夏。太陽が遠くなっていく。
華やかな夏の中に潜む鬱屈とした退廃が背筋をぞっとさせるのです。とても寒い、寒い。温かいはずなのにどこか寒い。
貴方とたった二人で紡ぎ始めたこの本丸も少しずつ仲間が増え賑やかになりました。それと同時にこの本丸が物静かであった時を思い出せなくなって来ています。
時折あなたと私が初めて鍛刀したあの子とお話しをします。あなたと一緒にいた頃の事を思い返そうと試みていますが少しずつ形を変えていってしまいます。記憶が少しずつ美化されていくのです。あなたと過ごした時間が少しずつ形を変えて綺麗な思い出として変わっていくのです。最初は意思疏通が上手く行っていなかったことも、わかり合えず言い合いをしたことも、忘れかけてあの子に言われて久々に思い出しました。それはきっと些末なことではあるけれども、私は愕然としてしまいました。記憶が形を変えてあなたの輪郭を曖昧にさせていくのです。あなたがいなくなったとき、一つたりとも忘れまいと決心していたのに私はすっかりと記憶を違えてしまったのです。最初から仲良くあなたと過ごしていたと思い込んでしまっていたのです。それはあなたをどんどん忘れていくようで恐ろしいです。
そんな私を励ましてくれるのは獅子王でした。覚えていますか、彼のこと。私達の本丸に初めて来てくれた太刀の獅子王です。今でもダメな私を励ましてくれます。本当にいい子です。私を気遣ってあなたが居た頃の話をよくしてくれます。先に獅子王と出会っていたら獅子王に恋していたかもしれませんね。たらればです。
新しく来た方達もとても頼もしい仲間です。
へし切長谷部は怖いぐらいに忠実ですが、審神者の私を先回りして手助けしてくれます。燭台切光忠は私が料理が得意でないことを察して上手く補助してくれます。今では食べ物を焦がすことも少なくなりました。
そういえば、あなたにはよく焦がして呆れられたものでしたね。自慢ではありませんが随分と上達しました。今では料理本を見ずとも簡単なものならば直ぐに作れます。皆おかわりしてくれます。昔では考えられないですね。
今、とても賑やかで毎日が心地好いです。
それでも、ふとした瞬間、浦島太郎の気持ちになるのです。温かくてぞっとするのです。私が好きな歌手がそんなことを歌っていましたが、こういう感覚なのかもしれません。あなたがいないと自覚した瞬間、どうしても突き放されたように寒くなるのです。
あなたを探してどうしようもなく語りかけたくなります。どうでもいいような事ばかりですが、ただあなたに聞いてほしいのです。恐ろしく穏やかなこの時間をあなたと過ごしたいのです。
私はあなたがいないことが寂しくてたまらないのです。いなくなるのはもう沢山だと鍛刀をすることが怖くなってしまって遠ざかっていました。皆が新しい仲間を連れてくるのをただひたすらに眺めていました。その中にあなたが戻ってきてくれるのではないかと期待してもいました。一方でそれはもうあなたではないのだからどうか来ないでほしいと願っていました。
またあなたを失うのが怖くてあなたを遠ざけようとしました。ごめんなさい。
けれども、もう止めようと思います。
会いたいのなら自分から会いに行くしかないのです。願うだけでは何も叶わない。私があなたへと会いに行くのです。
あの頃から私達と一緒にいたあの子は先日修行から帰ってきてくれました。今度は私の番です。私が一歩踏み出す番。今度は私の番です。あの子が強くなりました。私も今度は強くなって行こうと思います。
この手紙を書き終わったならば釜に入れて燃やしてしまいましょう。
そうすればきっと、あなたにこの想いが届く気がするのです。
「……新しい主?」
たとえ、現れたあなたが違うあなただったとしても。
「はじめまして、――様。この本丸の審神者です。これからもよろしくお願いします」
『夜明け前に』
18.03.19 加筆修正
やや病みな鶴丸と女審神者
一仕事を終え、籠り切りの執務室から出てきたのは八時を過ぎた頃。厠で用を済ませ、そのまま部屋にとんぼ返りする気もせずに縁側で白銀の庭を眺めてみる。灰かぶりの空からにはしんしんと舞い落ちてきている。どうりで寒いはずである。
澄みきった冷たさが身に染みる。
普段であれば快活に駆け回る短刀達の姿も今日はさすがに見当たらない。身を切る寒さだ、皆部屋でのんびりと過ごしているのだろう。粟田口の短刀達が兄貴分の一期一振と楽しそうに過ごしている姿が目に浮かぶ。
誰もいない、私だけの庭。その寂しい庭にそっと降りる。さくりと降り積もった雪がささやいた。足元がひんやりとして少し身震いをする。だが、清々しさすら感じる。この寒々しさが喧騒としていた心象を宥めていくような感覚がする。ささくれだった心が少しずつ柔らかくなっていく。肺一杯に凜とした空気を吸い込んで、体の熱を冷ましていく。そうしていくことで全て浄化されていくような気がしてくるのだ。
―― 今、庭の椿が美しく咲き始めているぞ
ふと、忙殺されていく中で近侍からそんな言葉を聞いた事を思い出した。その頃は愛でる暇も惜しかったが、今は愛でるほかない。美しいものは心を潤してくれる。特に歴史修正主義者との戦闘の日々に草臥れてしまった今こそ愛でるべきだ。付喪神と人間の一筋縄ではいかないこの関係も神経をすり減らす。別段不仲ではないが、たまには一人っきりで少し放っておかれたいのだ。桜を大勢で愛でる春も好きではあるが、この深々とした空気の中で一人、花をそっと愛でる時間も自分には必要だった。束の間だけでもそれを味わっていたい。そうすればもう少しだけ喉が通るのだ。
「―― っえ?」
もう少し近くで眺めていようと椿の咲く植え込みに近づいた瞬間であった。踏み込んだ瞬間ぐっと重心が地面に引っ張られ、足が引っ張られる。
浮遊感。
あっと思った、落とし穴。身が空を切り、沈んでいく。雪に埋もれて全く気づきもしなかった。足元から崩落していく。慌てて受け身の体勢を取って落下の衝撃に備えれば、直後にびりびりと痺れるような一撃が全身を揺らした。怪我こそなさそうではあるが、地面に叩きつけられた痛みに顔を歪めてしまう。冷たい背中をさすりながら身体を起こしてから顔をあげると空は随分と遠くなった。随分と深い穴のようだ。ご丁寧に穴は垂直に掘られていて、容易によじ登るのは困難だ。誰かの手を借りぬ限りとても自力では這い上がることはできないだろう。
加えてこの悪天候。皆部屋の中でのんびりと過ごしている事だろうから助けを望むにも望みが薄い。確かに気分転換に一人になりたかったが、これほどとは言ってはいない。これでは最悪凍死してしまいそうだ。
「主」
「鶴丸?」
「主、みーつけた」
ひょっこりと穴を覗き込んできたのは今日の近侍である鶴丸国永だ。私の姿を認めるなり、嬉しそうに目元をくしゃりとさせて笑った。何が嬉しいのだか。相変わらずの死人のような白装束に寒々しさ。余計に寒さを感じて見ているこちらが眉を顰めてしまう。もう少し暖かそうな格好をしろ、風邪を引きそうだ。
それにしてもこんなに早くに見つけてくるとは思わなかった。……ではない、明らかにこいつが黒だ。否、白だけれども。白だけれども黒だ。この馬鹿みたいな深い穴を掘ったのはこの鶴丸国永という男だ。そうに決まっている。こうも早く見つけられるはずもないし、この雪が降って寒い中にわざわざ外へ出てくる者などいない。きっとこいつが意図的に私を落とすために画策したのだ。椿が咲いたと知らせてくれたのはこの男であった。用意周到だ。これもいつもの驚きとやらを追求した結果なのだろうか。その結果は後で減給、だ。手向かいすれば容赦はせん。
散々文句も言いたいが、誰にも見つからないのではと危惧はしていたところではあった。落とし穴に落とされたのは腹立たしいが、こうして様子を見に来てくれたことで落とし穴の中で凍死するなどという間抜けな結末を迎えず済んだことには胸を撫でおろしている。発育が劣悪だから胸などないなどといった茶化しも今なら許してやる。
何にせよ、気分転換もそこそこに出来たことだ。身体も冷えてきたことだし鶴丸国永に手を貸して引き上げてもらって、さっさとお汁粉でも作って暖をとろう。それがいい、今日はゆっくりと眠るのだ。ただ今は眠りたい。
「……鶴丸、もう気が済んだか?そろそろ部屋に帰りたいから手を貸してくれ」
穴の上の鶴丸に呼びかけるが、彼はじっとこちらを見下ろしたまま動かない。薄く笑みを浮かべているその様子に不穏な空気を感じる。まだ何かあるというのだろうか。
目を細めた彼は落とし穴から離れたかと思うと、あろうことか雪掻き用のスコップで雪を私の落ちた穴に落とし始めたのだ。一体何を考えているのだ。
冷たい!
落ちてくる雪の塊に焦って止めるように声を掛けるが雪はどんどん落とし穴の中に降り積もっていく。生き埋めにするつもりか。
アイツ今日の夕食抜き、減給。
「ばっ!鶴丸国永!お前どういうつもりだ!?」
「主。我慢してくれな、俺も直ぐにそちらに行くから」
「は?お前なに言って、」
あろうことか!
鶴丸はひょいと穴の中目掛けて飛び込んできて、私を下敷きにする。
狭い穴の中で避けきれるはずもなく、突然の衝撃に思わず倒れ込み、反撃の平手打ちを食らわす。
「っ~!バカ者っ!飛び込んでくるやつがあるか!」
「はははっ!君なら受け止めてくれると思っていたぜ」
怒鳴り付けても悪びれる様子もなく笑って私の上に馬乗りになる鶴丸。じわんじわんと鈍痛が沁みる。にんまりと蕩けるような笑みを浮かべるその瞳に、思わず口を噤む。その瞳はいつもよりも暗い。冬の海の曇り空を彷彿させる。寒くて暗い色。様子がおかしい。
「鶴丸国永」
「君が俺を置いて死ぬ夢をみるんだ」
「は?」
「最近、手薄になった本丸が襲撃されて審神者が殺されているって聞いている」
「――そう」
頬に触れられると弧を描くように愛撫し始める。次第にその手は輪郭をなぞり、目の周りをなぞり、鼻筋をなぞり、唇をなぞり、喉仏をなぞる。喉仏を何度もなぞると白い両手が首を包み込む。氷のような手。それは私という存在を確かめているようだった。存在を確認して目を細める。
「君が俺の知らないところで死ぬくらいなら、ここで君を殺してこの中に一緒に閉じ込めれてしまおうか」
「ふざけているのか」
「ふざけていないさ。俺をその懐に抱き込んでくれよ」
人差し指で左胸を指す。つんつんとつつく彼の行動が鬱陶しい。
億劫なことだ。最近横行する本丸奇襲の事件を受けて感傷的になっているのだろう。その不安を私にぶつけているのだ。
頬を撫でつける動作も生け垣から毟ってきた椿の花を私の髪に挿して満足げにうっそりと笑うのも、私に触れて生きているのに触れて安心しようとしている。
私はここにいるというのに。
個体差はあるようだが、この本丸に顕現させたこの男はどこか情緒不安定だ。知人の審神者に仕える鶴丸は裏表なく明朗快活であった。
この鶴丸も普段は飄々としてあけすけな性格をしているが、どこか不安定だ。
神様も存外情に左右されるらしい。
本人自身もその感情に戸惑っているようだ。
「鶴丸」
やれやれ。両手を広げて構えてみれば、すぐさま私の冷たい背中に腕を回される。胸に耳を当てて、良い音だと笑みを浮かべている。ゆるく胸を撫でるこの男にそういった意図がないのは承知であるが、苛立ちがくすぶる。この男には戦ってもらわなければならぬ。私がどうあがいても戦えない相手と戦うことができるこの男がここで折れてしまうのは憎々しい。
「君は死なないでくれよ」
「無茶いわんでくれよ」
体が軋む。
「置いてかないで」
「そういわれてもなぁ」
「そうなるぐらいなら君の懐で眠るんだ。しっかりと抱き込んでくれ」
「信濃の専売特許だね、それ」
「主、」
酷く、真剣な瞳をする。
「俺は、主と静かに眠りたかったんだ」
「――――ばかもの」
優しく後頭部に手を回して撫でてやると更にグリグリと頭を押し付けてくる。今日の鶴は甘えただ。すんすんと鼻を鳴らして私のにおいを嗅いでいる。胸に耳をくっつけて、生きていると呟いてから少しだけ顔が穏やかになった。世話のかかる神様だ。冷え切った体を抱え込んで、さらに遠くなった空をぼんやりと見つめる。
はらはらと舞い落ちてくる雪が私と鶴丸を白く包み込んでいく。
「{name2} 」
「?」
「俺を置いて死なないで」
「ばかめ、私がお前を置いていくのではないよ」
「え?――」
「お前が折れたとき、私は死ぬのだ」
精々最期まで折れてくれるなよ、私のかみさま。
『オブシディアンの輝き』 title by: 天文学 様
17.10.04 初出
17.11.21 加筆修正
一仕事を終え、籠り切りの執務室から出てきたのは八時を過ぎた頃。厠で用を済ませ、そのまま部屋にとんぼ返りする気もせずに縁側で白銀の庭を眺めてみる。灰かぶりの空からにはしんしんと舞い落ちてきている。どうりで寒いはずである。
澄みきった冷たさが身に染みる。
普段であれば快活に駆け回る短刀達の姿も今日はさすがに見当たらない。身を切る寒さだ、皆部屋でのんびりと過ごしているのだろう。粟田口の短刀達が兄貴分の一期一振と楽しそうに過ごしている姿が目に浮かぶ。
誰もいない、私だけの庭。その寂しい庭にそっと降りる。さくりと降り積もった雪がささやいた。足元がひんやりとして少し身震いをする。だが、清々しさすら感じる。この寒々しさが喧騒としていた心象を宥めていくような感覚がする。ささくれだった心が少しずつ柔らかくなっていく。肺一杯に凜とした空気を吸い込んで、体の熱を冷ましていく。そうしていくことで全て浄化されていくような気がしてくるのだ。
―― 今、庭の椿が美しく咲き始めているぞ
ふと、忙殺されていく中で近侍からそんな言葉を聞いた事を思い出した。その頃は愛でる暇も惜しかったが、今は愛でるほかない。美しいものは心を潤してくれる。特に歴史修正主義者との戦闘の日々に草臥れてしまった今こそ愛でるべきだ。付喪神と人間の一筋縄ではいかないこの関係も神経をすり減らす。別段不仲ではないが、たまには一人っきりで少し放っておかれたいのだ。桜を大勢で愛でる春も好きではあるが、この深々とした空気の中で一人、花をそっと愛でる時間も自分には必要だった。束の間だけでもそれを味わっていたい。そうすればもう少しだけ喉が通るのだ。
「―― っえ?」
もう少し近くで眺めていようと椿の咲く植え込みに近づいた瞬間であった。踏み込んだ瞬間ぐっと重心が地面に引っ張られ、足が引っ張られる。
浮遊感。
あっと思った、落とし穴。身が空を切り、沈んでいく。雪に埋もれて全く気づきもしなかった。足元から崩落していく。慌てて受け身の体勢を取って落下の衝撃に備えれば、直後にびりびりと痺れるような一撃が全身を揺らした。怪我こそなさそうではあるが、地面に叩きつけられた痛みに顔を歪めてしまう。冷たい背中をさすりながら身体を起こしてから顔をあげると空は随分と遠くなった。随分と深い穴のようだ。ご丁寧に穴は垂直に掘られていて、容易によじ登るのは困難だ。誰かの手を借りぬ限りとても自力では這い上がることはできないだろう。
加えてこの悪天候。皆部屋の中でのんびりと過ごしている事だろうから助けを望むにも望みが薄い。確かに気分転換に一人になりたかったが、これほどとは言ってはいない。これでは最悪凍死してしまいそうだ。
「主」
「鶴丸?」
「主、みーつけた」
ひょっこりと穴を覗き込んできたのは今日の近侍である鶴丸国永だ。私の姿を認めるなり、嬉しそうに目元をくしゃりとさせて笑った。何が嬉しいのだか。相変わらずの死人のような白装束に寒々しさ。余計に寒さを感じて見ているこちらが眉を顰めてしまう。もう少し暖かそうな格好をしろ、風邪を引きそうだ。
それにしてもこんなに早くに見つけてくるとは思わなかった。……ではない、明らかにこいつが黒だ。否、白だけれども。白だけれども黒だ。この馬鹿みたいな深い穴を掘ったのはこの鶴丸国永という男だ。そうに決まっている。こうも早く見つけられるはずもないし、この雪が降って寒い中にわざわざ外へ出てくる者などいない。きっとこいつが意図的に私を落とすために画策したのだ。椿が咲いたと知らせてくれたのはこの男であった。用意周到だ。これもいつもの驚きとやらを追求した結果なのだろうか。その結果は後で減給、だ。手向かいすれば容赦はせん。
散々文句も言いたいが、誰にも見つからないのではと危惧はしていたところではあった。落とし穴に落とされたのは腹立たしいが、こうして様子を見に来てくれたことで落とし穴の中で凍死するなどという間抜けな結末を迎えず済んだことには胸を撫でおろしている。発育が劣悪だから胸などないなどといった茶化しも今なら許してやる。
何にせよ、気分転換もそこそこに出来たことだ。身体も冷えてきたことだし鶴丸国永に手を貸して引き上げてもらって、さっさとお汁粉でも作って暖をとろう。それがいい、今日はゆっくりと眠るのだ。ただ今は眠りたい。
「……鶴丸、もう気が済んだか?そろそろ部屋に帰りたいから手を貸してくれ」
穴の上の鶴丸に呼びかけるが、彼はじっとこちらを見下ろしたまま動かない。薄く笑みを浮かべているその様子に不穏な空気を感じる。まだ何かあるというのだろうか。
目を細めた彼は落とし穴から離れたかと思うと、あろうことか雪掻き用のスコップで雪を私の落ちた穴に落とし始めたのだ。一体何を考えているのだ。
冷たい!
落ちてくる雪の塊に焦って止めるように声を掛けるが雪はどんどん落とし穴の中に降り積もっていく。生き埋めにするつもりか。
アイツ今日の夕食抜き、減給。
「ばっ!鶴丸国永!お前どういうつもりだ!?」
「主。我慢してくれな、俺も直ぐにそちらに行くから」
「は?お前なに言って、」
あろうことか!
鶴丸はひょいと穴の中目掛けて飛び込んできて、私を下敷きにする。
狭い穴の中で避けきれるはずもなく、突然の衝撃に思わず倒れ込み、反撃の平手打ちを食らわす。
「っ~!バカ者っ!飛び込んでくるやつがあるか!」
「はははっ!君なら受け止めてくれると思っていたぜ」
怒鳴り付けても悪びれる様子もなく笑って私の上に馬乗りになる鶴丸。じわんじわんと鈍痛が沁みる。にんまりと蕩けるような笑みを浮かべるその瞳に、思わず口を噤む。その瞳はいつもよりも暗い。冬の海の曇り空を彷彿させる。寒くて暗い色。様子がおかしい。
「鶴丸国永」
「君が俺を置いて死ぬ夢をみるんだ」
「は?」
「最近、手薄になった本丸が襲撃されて審神者が殺されているって聞いている」
「――そう」
頬に触れられると弧を描くように愛撫し始める。次第にその手は輪郭をなぞり、目の周りをなぞり、鼻筋をなぞり、唇をなぞり、喉仏をなぞる。喉仏を何度もなぞると白い両手が首を包み込む。氷のような手。それは私という存在を確かめているようだった。存在を確認して目を細める。
「君が俺の知らないところで死ぬくらいなら、ここで君を殺してこの中に一緒に閉じ込めれてしまおうか」
「ふざけているのか」
「ふざけていないさ。俺をその懐に抱き込んでくれよ」
人差し指で左胸を指す。つんつんとつつく彼の行動が鬱陶しい。
億劫なことだ。最近横行する本丸奇襲の事件を受けて感傷的になっているのだろう。その不安を私にぶつけているのだ。
頬を撫でつける動作も生け垣から毟ってきた椿の花を私の髪に挿して満足げにうっそりと笑うのも、私に触れて生きているのに触れて安心しようとしている。
私はここにいるというのに。
個体差はあるようだが、この本丸に顕現させたこの男はどこか情緒不安定だ。知人の審神者に仕える鶴丸は裏表なく明朗快活であった。
この鶴丸も普段は飄々としてあけすけな性格をしているが、どこか不安定だ。
神様も存外情に左右されるらしい。
本人自身もその感情に戸惑っているようだ。
「鶴丸」
やれやれ。両手を広げて構えてみれば、すぐさま私の冷たい背中に腕を回される。胸に耳を当てて、良い音だと笑みを浮かべている。ゆるく胸を撫でるこの男にそういった意図がないのは承知であるが、苛立ちがくすぶる。この男には戦ってもらわなければならぬ。私がどうあがいても戦えない相手と戦うことができるこの男がここで折れてしまうのは憎々しい。
「君は死なないでくれよ」
「無茶いわんでくれよ」
体が軋む。
「置いてかないで」
「そういわれてもなぁ」
「そうなるぐらいなら君の懐で眠るんだ。しっかりと抱き込んでくれ」
「信濃の専売特許だね、それ」
「主、」
酷く、真剣な瞳をする。
「俺は、主と静かに眠りたかったんだ」
「――――ばかもの」
優しく後頭部に手を回して撫でてやると更にグリグリと頭を押し付けてくる。今日の鶴は甘えただ。すんすんと鼻を鳴らして私のにおいを嗅いでいる。胸に耳をくっつけて、生きていると呟いてから少しだけ顔が穏やかになった。世話のかかる神様だ。冷え切った体を抱え込んで、さらに遠くなった空をぼんやりと見つめる。
はらはらと舞い落ちてくる雪が私と鶴丸を白く包み込んでいく。
「{name2} 」
「?」
「俺を置いて死なないで」
「ばかめ、私がお前を置いていくのではないよ」
「え?――」
「お前が折れたとき、私は死ぬのだ」
精々最期まで折れてくれるなよ、私のかみさま。
『オブシディアンの輝き』 title by: 天文学 様
17.10.04 初出
17.11.21 加筆修正
獅子王と女審神者
本丸に神降ろしがなされて暫く。放任主義な主に少しばかり面を食らったが、日々不自由なく過ごしている。歴史修正主義者討伐のための出陣や資源確保の遠征、他所の本丸との演習などの使命は勿論果たしている。碌に休みもない劣悪な環境の本丸があるが、この本丸は任務に支障がないならば自由――謀反を働くようなこと以外は――にしてよいという。
怪我をすれば丁寧に手入れをしてくれるし、無茶な進軍はさせない。そういった点を見れば、この本丸は良心的なのだろう。ただ、任務以外に審神者との関わり合いがないから、牛や馬のように放し飼いにされている気分だ。
「主、何処かに行くのか?」
「万屋に行ってくるよ、何か買って来て欲しいものあるかな?」
「俺もついてく!」
「? 今日は非番なんだから、無理に着いてくる必要はないよ?」
「いいんだよ、俺が主と行きたいの!」
「そう?」
自分よりも小さな身体に腕を巻き付ければ、刹那、彼女は身を堅くする。
一緒に過ごすようになってから、こういった行動で示す愛情表現を受けることに戸惑う事に気がついた。嫌がっている訳ではないから、いつもそれに気づきながらも知らぬ振りをする。
ぐりぐりと頬擦りをすると彼女は困ったように苦笑し、恐る恐る撫でてくれる。ささくれてごわついているが、優しい手つきだ。不器用にも慈しみを持って撫でてくれる。愛情のつまったこの手が好きで俺はいつもこうやって彼女の擦り寄っていた。不器用なりに俺達刀剣男士達の事を良く気にかけてくれていたし、俺達を丁寧に扱ってくれる。そんな彼女の事を少なからずも好いている。主として慕っている。
言葉にはしないが、俺が彼女を慕っている事実を嬉しく思ってくれているらしい。彼女は俺が甘えると満更小さく口角を上げる。そういうところが、少し不器用で可愛い。
そういうとむず痒かって隠してしまうから言わないけれども。
「獅子王、獅子王」
「なんだぁ?」
「お前は私には勿体ないくらい甘やかしてくれるね」
「そうかなぁ?」
「いつも私の事大切にしてくれてありがとう」
お前の心、嬉しいよ。
主は屈託なく笑った。俺に笑いかけてくれるだけで嬉しかった。
縁ある幕末の刀剣男士、特に新選組隊士縁の刀剣男士とは仲が良さそうで羨ましかった。主は不器控えめな性格だから俺たちが近付かなければ必要以上に踏み込まないように配慮している。それが余計に寂しい。きっと他の刀剣男士も同じだと思う。
だから何気ない買い出しだって、少しでも寄り添う時間ができることが嬉しい。
俺達は、刀は、こうやって人間に寄り添えるのが一番嬉しいのだ。
「{name2}」
「何だい?」
「これからも俺の事、大事に使ってくれよな」
そっと額に唇を寄せれば、きょとんとした表情をしたが、小さくはにかんで俺の額にも口付けを落としてくれた。
今日の夕食は俺の好きな献立を作ってくれるのだろう。彼女は俺の事も大事にしてくれるのだから。
――――――――
『砂糖はビン底にて』 title by :約30の嘘 様
16.05.21 初出
本丸に神降ろしがなされて暫く。放任主義な主に少しばかり面を食らったが、日々不自由なく過ごしている。歴史修正主義者討伐のための出陣や資源確保の遠征、他所の本丸との演習などの使命は勿論果たしている。碌に休みもない劣悪な環境の本丸があるが、この本丸は任務に支障がないならば自由――謀反を働くようなこと以外は――にしてよいという。
怪我をすれば丁寧に手入れをしてくれるし、無茶な進軍はさせない。そういった点を見れば、この本丸は良心的なのだろう。ただ、任務以外に審神者との関わり合いがないから、牛や馬のように放し飼いにされている気分だ。
「主、何処かに行くのか?」
「万屋に行ってくるよ、何か買って来て欲しいものあるかな?」
「俺もついてく!」
「? 今日は非番なんだから、無理に着いてくる必要はないよ?」
「いいんだよ、俺が主と行きたいの!」
「そう?」
自分よりも小さな身体に腕を巻き付ければ、刹那、彼女は身を堅くする。
一緒に過ごすようになってから、こういった行動で示す愛情表現を受けることに戸惑う事に気がついた。嫌がっている訳ではないから、いつもそれに気づきながらも知らぬ振りをする。
ぐりぐりと頬擦りをすると彼女は困ったように苦笑し、恐る恐る撫でてくれる。ささくれてごわついているが、優しい手つきだ。不器用にも慈しみを持って撫でてくれる。愛情のつまったこの手が好きで俺はいつもこうやって彼女の擦り寄っていた。不器用なりに俺達刀剣男士達の事を良く気にかけてくれていたし、俺達を丁寧に扱ってくれる。そんな彼女の事を少なからずも好いている。主として慕っている。
言葉にはしないが、俺が彼女を慕っている事実を嬉しく思ってくれているらしい。彼女は俺が甘えると満更小さく口角を上げる。そういうところが、少し不器用で可愛い。
そういうとむず痒かって隠してしまうから言わないけれども。
「獅子王、獅子王」
「なんだぁ?」
「お前は私には勿体ないくらい甘やかしてくれるね」
「そうかなぁ?」
「いつも私の事大切にしてくれてありがとう」
お前の心、嬉しいよ。
主は屈託なく笑った。俺に笑いかけてくれるだけで嬉しかった。
縁ある幕末の刀剣男士、特に新選組隊士縁の刀剣男士とは仲が良さそうで羨ましかった。主は不器控えめな性格だから俺たちが近付かなければ必要以上に踏み込まないように配慮している。それが余計に寂しい。きっと他の刀剣男士も同じだと思う。
だから何気ない買い出しだって、少しでも寄り添う時間ができることが嬉しい。
俺達は、刀は、こうやって人間に寄り添えるのが一番嬉しいのだ。
「{name2}」
「何だい?」
「これからも俺の事、大事に使ってくれよな」
そっと額に唇を寄せれば、きょとんとした表情をしたが、小さくはにかんで俺の額にも口付けを落としてくれた。
今日の夕食は俺の好きな献立を作ってくれるのだろう。彼女は俺の事も大事にしてくれるのだから。
――――――――
『砂糖はビン底にて』 title by :約30の嘘 様
16.05.21 初出
鶴丸と女審神者
遠征帰りの道すがら、小間物屋の紅が目を引いた。本丸で俺たちの帰還を待つ主の事を思い出して、その紅が急に欲しくなった。あの人に似合う美しい真紅だ。
直ぐにそれを手にとって、店主に銭を差し出せば、邪推した店主はにたりと下品な笑みを浮かべて紙袋に包んだ紅を渡してきた。上手くやれよ。下品な妄想をされるのは不愉快であったが、強ち間違いでもないため、苦笑いで返答するしかない。
改めて手の内にある紅を見て、買ってしまったことを後悔した。勢いで買ってしまったものの、どうすればいいのか途方に暮れてしまう。我に返ってみれば何だかこそばゆい。
良く良く考えれば主は身形に気を使う光忠や加州とは違い無頓着、否、正確には服装に対しての戒めがあるようだった。女物の着物は一切合切着ることはないし、万屋で買う着物は必ず男物。中性的な顔立ちも相俟って、男物の着物を着ていれば一般人には普通の好青年と間違えられる。女でありながらも男であるような振る舞いをするため、演練で会う他の女性審神者を魅了している節もある。本人も満更彼女達に好感を持たれるのは嬉しいようで、紅を渡した所で意味など成さないだろう。
「……似合う、と思うんだけどなぁ」
ちらつく主の姿。
一度だけ次郎太刀と乱藤四郎にせがまれ、根負けした主が初めて俺たち刀剣男士に見せた女性装。控え目で落ち着いた化粧、鮮やかな紅で引かれた口紅、目元を縁取る上品な黒、椿油で艶々とした漆塗りの黒髪。
普段青年として振る舞う主とはまるで別人のように変わり、その姿に本丸内の刀剣男士達は息を飲んだ。――俺もその中の一人。正直、予想以上だった。
普段の風貌や振る舞いから忘れてしまいがちだが、彼女は紛れもなく女だった。
「鶴丸国永?」
「あ、主!?」
物思いに耽っていたせいで肩越しに顔を覗き込まれるまで主が近くに居たことに気づかなかった。思いを馳せていた人物の登場に心臓がびくりと跳ね上がる。
「鶴…?」
「あ、いや。疲れてぼうっとしてたから驚いた。こりゃ一本取られた!」
「そうか…そういえばお前さんは遠征に行ってたのだったね、ご苦労さま」
目を細めて俺の頭を撫でる主が穏やかに笑うのを最近知った。最近まで仮面被っていたのだが、その素顔が明るみになった。本丸中に知れ渡ったことで主は仮面を被るのを止めたのだが、仮面をしていた時は表情が窺えず、よく加州や短刀達が不安がっていた。あまり自己主張しない人であった上に仮面等しているから余計に何を考えているのかわからなかった。だが、こう顔を付き合わして見るようになって俺たち刀剣男士の事をよく見てくれているのがわかった。素っ気ないようでかすり傷でも怪我をすれば直ぐに手入れをしてくれるし、すました顔をして短刀に結構甘い。個性の強い俺たちの我が儘も何だかんだで聞いてくれたりして、俺の驚かせも意外と気に入ってくれているようだ。少し遠く感じていた主が近付いたみたいで嬉しかった。こうやってお疲れさまと労って撫でられるのは心地が良くて好きだ。
「主」
「何だい?」
「……これ、主に似合うと思って」
「……紅?」
案の定、ぽかんと驚いた表情を浮かべた主。驚きを提供できた嬉しさもあるが、少しだけ愛らしいと思ってしまった。
貝殻を開いて紅を薬指で掬い取る。彼女の唇の前に手を翳せば、少し戸惑いながらも瞼を下ろした主。恐る恐ると唇に触れれば、柔らかい感触にどぎまぎした。禁忌に触れたような甘美な感覚に痺れる。唇の上に薬指を滑らせて愛撫するように紅を塗ると、鮮やかに色付いた唇にはっと息を飲んだ。
「きれいだ」
無意識に零れた言葉に長い睫毛を震わせながら瞳を開く主。鮮やかに色付いた唇。はあと一息吐いた半開きの唇が色めかしい。鶴丸と俺の名前を呼ぶ。背筋をぞくぞくとさせて身悶え、背徳感を感じていれば、主は俺の両頬を掴むと、唇をそっと重ね合わせてきた。優しい彼女の匂いがする。柔らかくて目眩がしそうになる。優しく触れるだけの口付けにふわふわと心が弛んで恍惚としてしまう。
「きれいな鶴ね」
名残惜しくもゆっくりと離れた主が俺の手のひらから貝殻をとって薬指で紅を掬いあげる。俺が彼女の唇に紅を塗ったように彼女は俺の唇にもそっと紅を引いていく。手入れをされる時のように大切なものに触れるような繊細な手つきで触れられて心が落ち着かない。俺を見上げる主を見下ろす俺。少し色が落ちた主の唇に目が留まり、先ほどこの唇に口吸いをしたのだと改めて自覚すると身体の内側から一気に熱くなっていく。どくどくと忙しない心臓。この不整脈を静めようとする俺の気持ちを知らずに主は俺を見て、驚いたかと柔らかく微笑んだ。その瞬間、俺はどうしようもなくなってしまって、彼女の事を力一杯抱き締めると、色の落ちた唇を再び色付かせるために口付けを落とした。
15.06.17
遠征帰りの道すがら、小間物屋の紅が目を引いた。本丸で俺たちの帰還を待つ主の事を思い出して、その紅が急に欲しくなった。あの人に似合う美しい真紅だ。
直ぐにそれを手にとって、店主に銭を差し出せば、邪推した店主はにたりと下品な笑みを浮かべて紙袋に包んだ紅を渡してきた。上手くやれよ。下品な妄想をされるのは不愉快であったが、強ち間違いでもないため、苦笑いで返答するしかない。
改めて手の内にある紅を見て、買ってしまったことを後悔した。勢いで買ってしまったものの、どうすればいいのか途方に暮れてしまう。我に返ってみれば何だかこそばゆい。
良く良く考えれば主は身形に気を使う光忠や加州とは違い無頓着、否、正確には服装に対しての戒めがあるようだった。女物の着物は一切合切着ることはないし、万屋で買う着物は必ず男物。中性的な顔立ちも相俟って、男物の着物を着ていれば一般人には普通の好青年と間違えられる。女でありながらも男であるような振る舞いをするため、演練で会う他の女性審神者を魅了している節もある。本人も満更彼女達に好感を持たれるのは嬉しいようで、紅を渡した所で意味など成さないだろう。
「……似合う、と思うんだけどなぁ」
ちらつく主の姿。
一度だけ次郎太刀と乱藤四郎にせがまれ、根負けした主が初めて俺たち刀剣男士に見せた女性装。控え目で落ち着いた化粧、鮮やかな紅で引かれた口紅、目元を縁取る上品な黒、椿油で艶々とした漆塗りの黒髪。
普段青年として振る舞う主とはまるで別人のように変わり、その姿に本丸内の刀剣男士達は息を飲んだ。――俺もその中の一人。正直、予想以上だった。
普段の風貌や振る舞いから忘れてしまいがちだが、彼女は紛れもなく女だった。
「鶴丸国永?」
「あ、主!?」
物思いに耽っていたせいで肩越しに顔を覗き込まれるまで主が近くに居たことに気づかなかった。思いを馳せていた人物の登場に心臓がびくりと跳ね上がる。
「鶴…?」
「あ、いや。疲れてぼうっとしてたから驚いた。こりゃ一本取られた!」
「そうか…そういえばお前さんは遠征に行ってたのだったね、ご苦労さま」
目を細めて俺の頭を撫でる主が穏やかに笑うのを最近知った。最近まで仮面被っていたのだが、その素顔が明るみになった。本丸中に知れ渡ったことで主は仮面を被るのを止めたのだが、仮面をしていた時は表情が窺えず、よく加州や短刀達が不安がっていた。あまり自己主張しない人であった上に仮面等しているから余計に何を考えているのかわからなかった。だが、こう顔を付き合わして見るようになって俺たち刀剣男士の事をよく見てくれているのがわかった。素っ気ないようでかすり傷でも怪我をすれば直ぐに手入れをしてくれるし、すました顔をして短刀に結構甘い。個性の強い俺たちの我が儘も何だかんだで聞いてくれたりして、俺の驚かせも意外と気に入ってくれているようだ。少し遠く感じていた主が近付いたみたいで嬉しかった。こうやってお疲れさまと労って撫でられるのは心地が良くて好きだ。
「主」
「何だい?」
「……これ、主に似合うと思って」
「……紅?」
案の定、ぽかんと驚いた表情を浮かべた主。驚きを提供できた嬉しさもあるが、少しだけ愛らしいと思ってしまった。
貝殻を開いて紅を薬指で掬い取る。彼女の唇の前に手を翳せば、少し戸惑いながらも瞼を下ろした主。恐る恐ると唇に触れれば、柔らかい感触にどぎまぎした。禁忌に触れたような甘美な感覚に痺れる。唇の上に薬指を滑らせて愛撫するように紅を塗ると、鮮やかに色付いた唇にはっと息を飲んだ。
「きれいだ」
無意識に零れた言葉に長い睫毛を震わせながら瞳を開く主。鮮やかに色付いた唇。はあと一息吐いた半開きの唇が色めかしい。鶴丸と俺の名前を呼ぶ。背筋をぞくぞくとさせて身悶え、背徳感を感じていれば、主は俺の両頬を掴むと、唇をそっと重ね合わせてきた。優しい彼女の匂いがする。柔らかくて目眩がしそうになる。優しく触れるだけの口付けにふわふわと心が弛んで恍惚としてしまう。
「きれいな鶴ね」
名残惜しくもゆっくりと離れた主が俺の手のひらから貝殻をとって薬指で紅を掬いあげる。俺が彼女の唇に紅を塗ったように彼女は俺の唇にもそっと紅を引いていく。手入れをされる時のように大切なものに触れるような繊細な手つきで触れられて心が落ち着かない。俺を見上げる主を見下ろす俺。少し色が落ちた主の唇に目が留まり、先ほどこの唇に口吸いをしたのだと改めて自覚すると身体の内側から一気に熱くなっていく。どくどくと忙しない心臓。この不整脈を静めようとする俺の気持ちを知らずに主は俺を見て、驚いたかと柔らかく微笑んだ。その瞬間、俺はどうしようもなくなってしまって、彼女の事を力一杯抱き締めると、色の落ちた唇を再び色付かせるために口付けを落とした。
15.06.17
サイト内創作物の無断転載禁止です。Do not repost.
閲覧後の苦情などは一切受けかねますので各自でのご自衛お願い申し上げます。
名前変換プログラムの仕様上デフォルト名が統一されていますが、作品毎に主人公の設定が異なります。
鍵付き作品は明治11年を西暦四桁。