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八坂紗弥(privatter+ / mixi2)
3月31生まれ。気候変動に弱い。自分で一から計画して国内を旅行するのが好き。大体RTA。
大体ちょろい。

No.33

御影密とジュンブラ

 紫陽花が色鮮やかに咲き始める六月。水色や紫、桃色。花弁の彩りの美しさがこの時期の憂鬱な雰囲気を少しだけ穏やかにする。梅雨の走りの天気の中、久方ぶりに穏やかに晴れたの中。肌を撫でるひんやりとした風が心地良く、うたた寝が心地良い季節だ。
「あれ? 御影さん、寝てる……?」
 散歩がてら買い物に出掛けた{name1}{name2}が土手縁をゆったりと歩いていると、見知った人物を見つける。
斜面に生える青青とした土手の草花に埋もれるように倒れている。否、眠っている。
 ――御影密。この天鵞絨町の劇団・MANKAIカンパニーの劇団員。白銀の髪。アシンメトリーの前髪は右目を覆い隠し、ミステリアスな雰囲気を醸し出す。細く透き通るような顔と肌。メジロ美しい色を彷彿とさせる瞳。どこか浮き世離れした彼方のような人。
 {name2}が密と初めてあった日も道端に倒れていて大層驚いたのだが、どこでも寝てしまうという風変わりな人物であっただけで、その時介抱してからというもの、所々で眠っている彼を見つけては介抱しているので奇妙な関係性になっていた。今日も気持ちよさそうに昼寝しているだけのようだが、初めて見たときは具合が悪く行き倒れているのかと大層肝を冷やしたものである。
 転がり落ちないようにと慎重に斜面を降りて行くと、中腹辺りで猫のように丸まって眠っている密に近づいていく。目の前まで近付くと、履いていたロングスカートの裾を丁寧に折り畳んで足に巻き付けると彼の顔を覗き込むようにしゃがむ。
「御影、さん?」
 すぅすぅと穏やかな寝息を立てて眠る密。閉ざされた瞳に寄り添う長い睫毛、透明感のある色白い肌。その美しい見目に、思わず溜め息を吐き出してしまう容姿。その美しさに少し気後れしてしまう。
「……眠り姫、みたい」
 彼はどんな夢を見ているのだろうか。楽しい夢だろうか、それとも。穏やかな寝息を立てているのだからきっと優しい夢を見ているのだろうけれども。夢の中とて幸せであるといい。
 そっとその場に座り込むと、自分のトートバックから紺色のカーディガンを取り出す。六月とはいえ、梅雨寒の日もある。体が資本の役者が風邪を引いては一大事だ。
 眠る密の身体にそっと掛けてやると、すっと手が伸びてきて{name2}の手首をつかむ。
「俺に何か用?」
「! おお起きてたんですか!?」
「{name2}の気配、覚えた」
「け、はい?」
「うん、覚えた」
「?? そう、なんですか?(よくわからないけど、少し得意げな感じがかわいい)」
 密はたまに不思議な物言いをする。その物言いに{name2}は首を捻ってしまうのだが、当の密に至っては説明する気もないため結局{name2}は置いてけぼりを食らう。そういった彼独特な感性は彼らしいと思わなくもないし、きっと彼の性質のようなものであるから気になりはするが結局のところそれはそういうことであると納得するほかない。また、そう言ったところはミステリアスで魅力なのかもしれない。
 まだまだ寝たりないというようで、ゆっくりと身体を起こすも大きな欠伸をする。眠たげに目をこすり、ゆらりと瞳を転がす。眠たげに目を細める仕草はまるで子どものようで可愛いらしくみえてしまい、ほくそ笑む。
「おはよ、{name2}」
「はい。おはようございます、御影さん」
「今日はおやすみ?」
「はい。今日はお仕事お休みなんです。密さんもお休みですか?」
「うん。今度劇団でブライダルフェアのお仕事する事になってちょっと考えていたんだけど……」
 こてり、と密は首を捻る。
 {name2}はその様子から察して小さく苦笑する。
「寝てしまったんですね」
「うん。気持ちよかった」
 目を細めて穏やかな笑みを浮かべる密に、{name2}はどきりとする。密のような見目麗しい人物の笑みというものは思わず息を飲んでしまう。とくり、とくり、と胸の辺りが忙しなくなる。きゅっと心臓を鷲掴みにされたような感覚。こそばゆいような、えも言われぬ感覚。そこには歓喜のような感覚も入り混ざっていて、口元が自然と緩んでいくのがわかる。
「{name2}?」
「あ、いえ。それより、今度また何かイベントがあるんですか?」
 怪訝そうに顔を覗き込んできた密に、びくりとする。彼は無意識に行動するが、顔がいいのであまり不用意に近づかれてしまうとドキドキしてしまう。
{name2}が居住まいを正しながら距離を保つと、密はきょとりとした表情を浮かべ瞬いた。暫し、{name2}のことを怪訝そうに見つめていたが、何を言うでもなく{name2}から借りたカーディガンを畳み始める。その手つきは意外や手慣れている。
「今度……ブライダル、フェア? とかいうので、コラボするんだって」
「ブライダルフェア!! 素敵ですね!」
 {name2}は思わず身を乗り出すように声を上げる。所謂、ロマンチシズム的なものが好みであり、こういったブライダルフェアのようなものも当然{name2}の興味関心を引く。乙女心を擽るには十分であった。
 明るさの灯る声色を聴き、密は動かしていた手を止めて{name2}へと視線を向ける。そして、あっと気が付いた顔。{name2}が少女趣味思考であるのを思い出したのだろう。彼女が前のめりになった瞬間、驚いた表情を浮かべたが、すぐに合点が行ったというように目をそっと細めた。
「それで、ちょっとしたお芝居もするからエチュードがてら考えてみようって話になって考えてた」
「何かいいアイディア出ました?」
「まだ。{name2}なら、どんなプロポーズされたら嬉しい?」
「え!? わ、私ですか!?」
 ありがとうと畳んだカーディガンを渡してくる密に、驚いて落としそうになる。まさか密からそう言った相談を持ちかけられるとは思いも寄らなかった。慌てて掴んだカーディガンを丁寧に持ち直してバックの中に入れながら考え始める。演劇については門外漢であるし、果たして{name2}自身の理想が彼の芸の肥やしとなるかは甚だ疑問ではあるが、言われたからには考えるのが筋だ。うーんと唸りながら考えてみるのだが、自分が理想とするプロポーズを答えて参考になるのだろうか。答えたところでその独り善がりな思いを演技に乗せてしまってもいいのだろうか。
 途方もない気持ちになって静かに密へと視線を向ければ、ふああっとマイペースに欠伸を漏らし、くしゃくしゃと髪を掻いてうつらうつらと船を漕ぎ始めている。これではまたしても眠ってしまうと、慌てて考え始める。尤も、これは{name2}が考えることではなく、密が考えるべきことなのだが、お人好しの{name2}は生真面目に言葉を探している。
「え、ええ……えっと、うーん、好きな人からのプロポーズなら何でも嬉しいですけど」
「それじゃあ困る」
「う、うーん。そう、ですね。月並みですけど、ずっと側にいて欲しいとか、大切にするとか、言われたいですね。エンゲージリングはめてもらって……えっと、その、恥ずかしいですね……」
「ふぅん」
「……参考になるかわからないですけど、やっぱり好意を真摯に伝えてくれるならばどんな形でも私は嬉しい、と思います」
 たどたどしく紡ぎ出した言葉に、密の薄い反応。元より感情の起伏は少ない彼であるから気を揉んだところで仕方がないのだが、あまりにも鈍い反応に{name2}も焦燥感を覚えてしまう。うろうろと視線を彷徨わせていると、暫し思案顔の密がちょっと待っててと言い、すっと立ち上がって歩き始めてしまう。
「え? 御影さん?」
「{name2}はここで待ってて」
 すぐ戻るから。そう言って斜面を足取り軽く歩いていく密。足元に視線を落としながら、先を進んでいく姿をその場から動けずに眺めていると、数十メートル先の土手縁辺りでその場にしゃがみ込んだ。暫く落とし物を探すような仕草で雑草を掻き分けていたが、何を思ったのだろうか、不意にその辺に生えている草を引っこ抜き始める。突拍子もない行動に{name2}は驚くが、彼女を気にも止めずに次々と引き抜いている。一体何をしているのだろうか。{name2}には密の考えが皆目見当もつかない。それどころか、突拍子がなさすぎて、少しだけハラハラしている。決して意味のない行動はしないけれども、そこに至るまでの説明がなされないため、時折、{name2}は不安になってしまう。忙しなく揺れる心を落ち着かせるようにきゅっとスカートの裾を握りしめ、固唾を呑んでいると、雑草を引っこ抜いていた密が直ぐにこちらに向かって歩いてくる。
「{name2}、手出して」
「え? はい……?」
「左手がいい」
「左手、ですか? わかりました」
 再び目の前にしゃがみ込んだ密に乞われ、左手を出すと、薬指に何か円状のものを差し込んだ。よく見ればそれは三つ葉のクローバーを編み込んだ指輪になっていて、薬指の根元まで差し込むと、密はそのまま指先を持ち上げて口づけを落とす。
「っ! み、御影さん!?」
「{name2}のこと、俺が幸せにしたい。いつも俺の隣にいて欲しい。結婚しよう」
「えっ!?」
 どきり。心臓が跳ね上がる。告白。夢にまでみた、プロポーズ。異性からの、熱の籠もったプロポーズ。小さい頃から少女漫画やドラマで見てはいつか自分も大切な人からプロポーズを受けてみたいと心踊らせていた。親友からはロマンチック思考の{name2}らしくて好きだけど、結婚詐欺とかに引っかかったりしないか心配だと真面目な顔で言われてしまったが、憧れはいつも鮮やかで美しく胸の奥で輝いている。
 高まる鼓動と上気していく頬。こんな風に男の人からプロポーズをされるなんて、夢みたいだ。
 真剣な眼差しが胸を焦がすように熱く、優しい。どきどきと胸がいっぱいになって、体中が熱く沸騰していく。
 満足そうに口元を緩めた密が{name2}の薬指を優しくさする。
「クローバーに込められたら意味知ってる?」
「クローバー、ですか?」
「三つ葉には『希望』・『愛情』・『信仰』って意味があるって紬から聞いた」
「へぇ……素敵ですね。そうしたら四つ葉だと最後の一枚はどんな意味があるんですか?」
「最後の一枚は『幸福』。幸福が訪れるんだって」
 そういわれて、指に宿るそのリングを見つめる。青々とした三つ葉のクローバー。もう一つ葉が合ったならばとないものねだりをしてしまうが、四つ葉の葉は珍しいと言うから仕方がない。
「だから{name2}が最後の一枚になって俺のところに来て欲しいな」
 ダメかな。
 小首を傾げた密は少し寂しそうな表情を浮かべる。その様が女の自分よりも様になっていて、思わず心揺さぶられてしまう。思わず息を呑むほどの美しい所作であった。そして、揺れる{name2}の気持ちを知ってか知らずか。密は{name2}の手を包み込むように握る。求愛を受けているという事実が、気恥ずかしくもあり、嬉しくて、忙しなく視線を揺らす。緊張は最高潮。
 まさか密からプロポーズされるなんて思いも寄らなかった。新生冬組の旗揚げ公演で観た役者・御影密。普段の飄々とした雰囲気とは打って変わって、まるで別人のようにリアリティのあるお芝居をする人だなと思った。普段の緩やかな風体からは大凡考えも及ばないその姿に驚いた。そして、御影密という役者は何と人間描写が巧いのだろうと思った。第二回公演の時は旗揚げ公演の時の天界に住む天使の人間離れした役所とは違い、大正時代の財閥の子息といった異なる役柄を演じていた。どちらの役も普段の密からは違った新しい面をみているようで、「ああ、この人は役者さんなんだ」と改めて思ったのである。そういった彼の演じるお芝居を観て、普段の彼と過ごしていく内に、もっと色々な面を観てみたいと思うようになった。御影密という一人の人間にもっと触れてみたいと思ってしまった。この熱を帯びた美しい黄緑の瞳を、私は、
「御影さん。私……」
「プロポーズする人ってこんな気持ちなのかな?」
「え?」
「プロポーズって難しい……今度のブライダルフェアもこんな風になるのかな」
「え!? あ! ……え、エチュード……」
 ハッと我に返ると羞恥心で更に顔が熱くなるのを感じた。
 ――なんて、馬鹿なんだろう。
 冷や水を浴びせられたような感覚であった。男性からの告白に勝手に舞い上がって馬鹿だ。ブライダルフェアをテーマにした演技ネタについての話をしていたのだから、今のプロポーズは演技に決まっている。それを本当にプロポーズされたような錯覚に陥って、一人舞い上がってしまった。密にとってこれは演技の練習であったのに、それを本気に取ってしまって全く馬鹿だ。穴があったら入りたい。都合の良い夢を見ていたのだ。
「{name2}?」
「え、あ、本当にプロポーズをされたみたいでドキドキしてしまいました。えへへ。素敵なお芝居でしたよ」
「俺はよくわからないけれど、女の人はこういうプロポーズされたら嬉しくなるの?」
「あ、はい。すごく、嬉しいです」
「……」
「御影さんのプロポーズされたら、どんな女の人も頷く、と思います」
 密の顔を見るのが怖くなって、視線をうろうろ宙に漂わせてから下降していく。気持ちが萎びていくのと同じように。努めて笑顔でいなければならないと頭の中では思っていても表情はぎこちなく固まっていく。密が訝しがる前にいつも通りに振る舞わなくては、いつも通りに笑顔に、
 ――もし、御影さんが私ではない誰かにプロポーズしたら嫌だなァ。
 そう思ってしまったら、もうダメだった。今日はうまく笑えない。
 そもそも、彼は好きな女性はいるのだろうか。密の身近な女性といえばMANKAIカンパニーの監督。彼女・立花いづみは密の劇団関係者であるし、互いに近しい距離の間柄だ。{name2}も密を通していづみに会ったことがあるが、心根の美しい人だった。彼女の持ち前の明るさや実直さは惹かれるものがある。それ故に団員達からは多大なる信頼を寄せられており、密もその一人だろう。もしも、密がいづみへと想いを寄せているとしたならばとても敵わないと思う。同性である{name2}も惹かれるような魅力を持った彼女に、何の取り留めもない女の勝ち目などないのだから。
 願わくば密の好きな人が彼女でなければいいのにと浅ましくも願わずには居られない。
 ――あれ? どうして、そう思うのだろう……?
「{name2}」
「おーい、密くーん!」
 何か言い掛けた密を、不意に呼ぶ声が響く。はっと引き戻されるような感覚。{name2}も密も聞き馴染みのある芯の通ったテノール。呼ばれた当の本人の顔には少しばかり苦々しげな表情が浮かぶ。密が暮らすMANKAI寮の同室の男の声だ。
「密くん、お昼の時間だよ。昼食の後にはミーティングが……おや?」
「こ、こんにちは有栖川さん」
「うむ。{name2}くんが一緒だったか。よかったよ」
「アリス、うるさい」
「うるさいとはなんだね!? 折角私と紬くんが君を探しに来たのに!」
「密くん! 臣くんがマシュマロデザート作って待ってるよ、帰ろう?」
「帰る」
「ほんと君はブレないね……」
 土手の上から見下ろす二人の男。詩人であり、密の所属するMANKAIカンパニー劇団員の有栖川誉と同じく団員である月岡紬である。二人は密を探しに来たらしく、土手の下にいる{name2}と密を見つけるとほっと安堵したような表情を浮かべて{name2}と密に向かって手を振っている。
 {name2}は内心ほっと胸をなで下ろしていた。これ以上密と二人きりでいるのは、胸が苦しくて居たたまれないから。これ以上二人きりで居たら、声が震えてしまいそうだった。
 密は密で先程までは何かいいたそうに{name2}を見つめていた。じっとりとした視線を{name2}に向けて、一瞬、逡巡を灯したか。判断しかねるその刹那、すでに彼の瞳には他の色が灯っていた。
 料理上手な劇団員が己の好物であるマシュマロを使用したデザートを作って帰りを待っているということを聞くなり、興味はそちらに向けた。すっと音もなく立ち上がると土手を素早く上っていく。これはこれで{name2}の動揺を鎮めるためのきっかけにはなったが、こうもあっさりと離れて行かれると離れがたく感じてしまう。かといって引き留めることは{name2}にはできなかった。追及されず安心してしまった手前、そんな資格などはない。手に灯る温もりが残滓を湛えている。我ながら自分勝手だと小さく苦笑しつつも、後を追うように土手を上る。
 {name2}が土手の上へと上がってくるころには、既に密と誉はMANKAIカンパニーへの帰路へと少し歩き始めていた。ちらりと密が{name2}の方に視線を寄こす。きっと、密は{name2}の動揺に気づいているのだろう。
「{name1}さん」
 {name2}を待っていた紬がそっと手を引いて土手の上に引き上げる。
「月岡さんありがとうございます」
「{name1}さん、その指輪は?」
 紬の視線は{name2}の左手薬指に注がれている。先程密がくれたクローバーで編んだ指輪。一人舞い上がってプロポーズだと思ってしまった。偽りの指輪。密にとってプロポーズではなかったが、それでも捨てようとは思えなかった。彼からもらったものだったから。
「――……御影さんが、先ほどエチュードで作ってくださって」
「エチュード?」
「ブライダルフェアで皆お芝居するからって」
「ああ。密くん練習しておいてねって言ったこと覚えれくれてたんだ」
 我が事のように嬉しそうに笑みを浮かべる紬に、{name2}もつられて笑ってしまう。
「とても。とても素敵なお芝居でびっくりしてしまいました」
「密くんのお芝居は本当にリアリティがあって精細なんだよね」
「お恥ずかしいんですが、私、うっかり……」
「そんなことはないよ。それは密くんの気持ちが沢山込められている証拠だよ」
「え?」
「以前密くんにクローバーの話をしたんだけどね」
「あ、花言葉の?」
「うん、そうそう。密くんから聞いたんですか?」
「はい。月岡さんからお聞きになったとか」
「ふふっ。クローバーをみつけたら大切な人にあげるといいよって言ったんだけど、覚えててくれたんだなぁ」
「……え」
 悪戯が成功したというような笑みを浮かべる紬に、{name2}はドキリとして目を大きく見開いてしまう。
凪いだその深い色の瞳が慈しみを湛えている。
「密くんは、{name1}さんのこと大切に思ってるよ」
「そ、うでしょうか……?」
「寂しいのかな。{name1}さんが忘れてった膝掛けをよく抱え込んで寝てる。{name2}の匂いがして落ち着くって」
「……」
「ふふっ。林檎みたい」
「……っ!」
 自分の事のように嬉しそうに笑う紬を見て、{name2}は思わず赤面する。何だか彼には自分が思っていることは何でもお見通しのような気がしてならない。加えて、邪気もなく厚意を向けられてしまえばただただ、自分の不安や心配がちっぽけなことに見えてしまう。
「……今は、密くんなりに自分の記憶のこととか思うところがあるみたいだけれど……」
「――ええ」
「それでも、」
 ――{name1}さんと一緒にいるときは幸せそうだ。
 だから見守ってあげて欲しい。紬はそう言って、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。それにはもう何も言えなくなってしまう。本当に密にとって自分は大切に思う存在になることができているのだろうか。正直な所、自信はない。けれども、紬が言うならば少しでも密の為になることが出来ているのではないかと思えてきてしまう。
「おーい、紬くん、{name2}くん! 君たちも早く来たまえ! 皆が私達の帰りを待っているよ! 早く帰ろうではないかー!」
 ふとみると、先を歩いていた誉が二人の方を振り返り、声を上げていた。すれ違いざまのランニングをしている男性がちらりと一瞥を寄こし、走り去っていく。彼の声の響きが良いから驚いたのだろう。朗らかにこちらへと手を振る誉の姿を見ていると、何だか色々な不安なことも和らいでいくような、不思議と元気が沸いてい来るような気がする。それは、まるで、大丈夫だというかのような。
「{name2}、行こう」
「御影、さん」
 いつのまにかに{name2}の目の前まで戻って来た密に目を丸くしたが、彼の白い手が{name2}の手をそっと引き結ぶ。壊れ物を扱うかのように、それは、優しく。
「皆、俺達を待っててくれるよ」
 小さい笑み。きゅっと結ばれた指先。しっかりと離さないというような手つき。温かい手の温もり。静かに揺れ始める心。
 密が紬の方を一瞥したの釣られるように{name2}も紬の方を向こうとすれば、振り向く前に密が歩き出し引っ張られていく。握られた左手には先程密がくれたクローバーの指輪が指に彩を与えている。いつか、この指輪が本当の意味でのエンゲージリングになる日がくるのだろうか。その相手がこの、やさしい人だとといい。
 そっと紬の方を窺えば、ぽかんとした表情を浮かべていたが、目があった瞬間、相変わらずの柔和な笑みを浮かべて{name2}たちを見つめていた。

20.10.03 初出 『花になれ』
(8779文字) No.33 短編 at by NO IMAGE 八坂紗弥 編