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No.43
ポアロで七夕 / 安室透(降谷零)
六月も下旬に差し掛かるといったところ。梅雨真っただ中の曇天の日。湿気を含んだ空気が夏の空気を帯び始め、じっとりとした熱気を肌で感じる嫌な季節。雨の降らない空梅雨が多い昨今の天候には珍しく、従順なまでに天よりはらはらと雨が降り出したかと思えば、それは次第に勢いづき豪雨へと化けた。バチバチと火花を散らすような破裂音に、その雨の激しさを物語る。一度外へ出れば一瞬で濡れ鼠、傘を差せども乱反射した雨粒が足元をずぶ濡れにするだろう。
「なかなか止まないなぁ」
朝方から降り出したこの雨の影響で、喫茶ポアロの客足は思いの外伸び悩んでいた。否、正確に言うなれば、悩むという表現は誤りである。大して悩んではいなかった。悩むと言うよりは、――そう、暇を持て余していたと言うべきであった。開店から客足がまばらであったが、この雨が長時間に渡って降り注いでいる影響だろうか。普段は毎日のように姿を見せる常連客も今日は半分も姿を見せていない。いつも通り姿を見せた常連も食事だけを済ませてそそくさと出て行ってしまうから滞在時間は好天時より遥かに短いときた。この嵐のような天気であるから致し方ないが、普段賑わいを見せている店内が静まり返っているのをみると、どこか物足りなさを感じてしまう。特段、慌ただしい方が好きというわけでもないが、何分拍子抜けもいいところである。暇を持て余して清掃をしてみたところで、そもそも飲食を取り扱う店であるから衛生面は日ごろから徹底的に配慮しているためにこれもする事がないような状態であった。
いよいよ暇になった彼ら――安室透と榎本梓は顔を見合わせる。外は相も変わらず雨脚が強いまま。お客の影などは一向に見られるはずもない。昼時の近いこの時間、人っ子一人いない喫茶ポアロというのは珍しい。安室が働き始めるようになってからは彼目当ての若い女性客が増えたが、この昔ながらの喫茶店の客中心層は中年や年配の人間が主である。そんな顔馴染みの客も今日は家で静かに過ごしているのだろうか。特に年配層は足元が悪い日は外出を控える傾向にある。
「梓さん、どうしましょうか?」
「うーん……早いですけれども、休憩にしましょうか? こんな様子でしたら当分お客さん来ないでしょうし」
「そうですよね……休憩にしてしまいましょうか」
窓の外に視線を向ければ、依然としてアスファルトに叩き付けられている雨音。ガラス窓を打つ雨量も依然として衰える気配がみられない。ポアロの前の通りを歩く人の影も見当たらないぐらいであるから、皆外出を控えているのだろう。ざあざあと変わり映えのしない雨音に一つ苦笑いを浮かべ、まかないの準備に取り掛かる。
「そういえば、安室さんは今度の七夕のお願い考えました?」
「七夕?」
まかないを作り始めた榎本がふと思い出したという風に安室に尋ねる。突然飛び出した七夕の話題に疑問を抱いたが、すぐさま季節の頃合いを鑑みて七夕の日が近いことを思い出す。
七夕といえば短冊に願いを書いて笹竹に飾る習慣や織姫と彦星の七夕伝説が想起されるが、安室にとっては馴染みの薄い話だ。それこそ子どもの頃の町内会の催し物として短冊に願いを書いた記憶があるが、年を重ねるに連れて重要度が低くなりがちだ。
安室にとっても例外ではなく、成長するに連れて七夕とは疎遠の生活となっていた。中々習慣がない限りは素通りしてしまう行事であると思う。仙台で開催されるあの有名な七夕祭りであればまた話は別だが、安室が幼少期を過ごした街ではそういったことはない。一般的な七夕の行事なのである。
「――懐かしいですね。七夕なんて小さい頃の話ですよ」
「?? あれ? まだ聞いていませんでしたか? 今度の七夕の日にポアロでも七夕飾りをしようってことになったんですよ?」
「え?」
ぽかんとした榎本に、安室もきょとりとする。寝耳に水。安室にはその報せは届いていなかった。何時の間にかに決まったのだろうか。
榎本によれば、元々は安易に提案したのがこの七夕飾りのイベントらしい。じめじめとした憂鬱な梅雨の季節を打破するために何か気分転換にできることはないかと考えていたとのことだ。どうやら安室の休暇中にその七夕飾りの件は決まったらしい。暫くの間ポアロでの仕事が入っていなかった安室が知り得なかった事であった。安室透名義の携帯電話を確認してみるが、そういった連絡メールを貰った覚えはなかった。腑に落ちないが、榎本の反応を見る限り、おそらく行き違いになったと考えるしかない。
申し訳なさそうな表情をする榎本に軽く笑みを浮かべて気にしていないとフォローを入れつつ、続きを促せば、七夕飾りはわざわざ笹竹を持ってきて短冊を飾るらしい。七夕限定の飲食メニューを提供する案も出たらしいが、準備期間がさすがに足りないのことでそちらは見送りになったそうだ。
短冊は常連客を筆頭に配るようだ。そこに願い事を書いてもらい、笹竹に飾るということだそうだ。先程の榎本が七夕の願いを考えたかと尋ねてきた経緯はそういう事であった。
「――なるほど。それで願い事なんですね」
「ええ! ですから、安室さんも短冊に書くこと考えてくださいね! 飾っちゃいますから!」
「え。お客さんの分だけではなく、僕のも、ですか?」
少し引きつった安室に、榎本は気付きもせずに楽しそうに話を続けていく。
「もちろん! こういう事は皆で楽しんでやりましょうよ! 初めて来たお客さんにだって渡しましたよ!」
「いきなり書いてくれるものなんですか?」
「美味しいものが食べたいー! とか、お金持ちになりたいー! とか些細な事でもいいんですって言ったら結構その場で書いてくださりましたよ?」
「そういうものなんですかねぇ……」
「適当でいいって言わないと書いてくれないですからね」
「そうですか……」
「そこに書いてくださった方の分の短冊ありますから、参考にするといいんじゃないですか? 参考にするぐらいなら平気ですよきっと!」
「そ、それは……」
「安室さん、絶対書いてくださいね! まかないの方は私に任せてください!」
今日の賄いはカラスミパスタですと胸を張って彼女の十八番を出されてしまえば、安室も苦笑いをしながらも折れるほかない。それだけこの七夕を盛り上げようと一生懸命なのだ。
「か、考えてみます ……で、では少し拝見」
カウンターの隅に置かれた手作りの空き箱をそっと開ける。その中には縦十センチ横四センチほどの色画用紙が何枚か入っている。
これが榎本が言っていた短冊だろう。少し申し訳なく思いながらも、好奇心に負けてパラパラと見てみれば何とも気の抜けるようなゆるい願い事が多い。
たとえば、寿司をたらふく食いたいだとか、宝くじで一攫千金、意中の相手と付き合いたいだとか。中には、家出したらしい嫁の帰還を乞う切実な祈りや安室を嫁に迎えたいといった何ともいえないような願い事まである。
「(あの人が幸せになれますように……? {name2}も来てたのか。あの人って誰だ?)」
中には文字に見覚えがあるとよくよく目を凝らしてみれば安室の本名・降谷零名義の幼馴染{name1}{name2}の短冊が混ざっていて、思わず目を瞠った。相変わらずのお人好しで自分の願いですらない。こういう時ぐらいは軽い気持ちで書いたって構いやしないのに。彼女の筆跡をなぞる。{name1}とは偶然再会したのがこのポアロであったが、音信不通となった幼馴染が名前を変えて別人のように振る舞う様を見て事情があると察したらしい。鉢合わせしないように気を利かせて訪問するタイミングを見計らって訪問するようになった。安室が働き始める前からよく来ていたため、{name1}の訪問頻度が減ったことに対して榎本は最近あんまり来ないねと寂しそうにしているのが心苦しい。今回も安室が休みの日に訪れたらしい。確かに何があるかわからない状況ではある。必要以上の接触は避けるべきだが、成り行き上ならばある程度は仕方ないことだ。その場で誤魔化せばどうにでもなる。律儀なものだ。思わずくすりと笑みを漏らしてしまう。
「安室さん、書けましたか?」
「あ、いえ……皆さんの書いてる姿が目に浮かぶようで、何だかいいな、と」
「そうですよね! 子どものお願いは微笑ましいものばかりですし、受験や資格に合格するとか、ゆめがあったりしていいですよね」
「ええ。その人の心が映し出されるようですね」
安室は手元にある短冊に視線を落としさてどうするべきかと考え始める。箱の中に入っていた黄色い短冊をテーブルの上に乗せてボールペン手に持ってみるが、早々に書き出しをどうするべきかと筆を置いてしまう。
「(僕の……俺の願い……)」
願いとは一体何だろう。立場上、本音では書くことはできない。当たり前だが、今の自分は“降谷零”ではなく“安室透”なのだから、“安室透”として書かなければならない。降谷零はこの小さな箱庭にはいらない。ならば安室としての願いとは何だろうか。ポアロの客がよりよく過ごせますように。探偵として眠りの小五郎のように凄腕の探偵になりたいといったところだろうか。書くとしたらその程度が無難だろうか。そんなことを書けばいいのだろうか。“降谷零”としての願いは一体どこへ行けばいいのか。
胃の奥がもやもやと消化不良を起こしているようだ。
「(――そういえば、ヒロと{name2}と俺で昔短冊書いたっけ)」
{name1}の置いていった誰かの幸せを願う短冊の文字を撫でていると、ふと古い記憶がこちらを見つめてくる。
親友の諸伏景光と幼馴染の{name1}の2人との記憶。町内会の七夕祭りで飾る短冊に願い事を書いた時の記憶だ。その日は朝から雨が降っていて、近所の商店街のアーケードの下に笹竹が飾られていた。その近くには会議室にあるような長机が数台並んでいて、机上には空き箱に入った色とりどりの短冊とマジックペンが入っていた。
皆で短冊を書こうということになって、いざ書こうと思うと降谷は何を書くか悩んでしまった。景光は澱みなくその頃子ども達の間で流行っていた特撮のヒーローになりたいと書いていた。降谷もその正義のヒーローに憧れはしていたものの、景光と同じものを書くのは何だか気恥ずかしい。脳裏にあの先生の事を掠めたが、きっと景光にからかわれてしまうし、それを書くことも恥ずかしい。結局、ヒーローと書くのは恥ずかしくから同じく正義の使者である警察官になりたいと書いて飾ってもらった。
「なあ、{name2}は何をお願いしたの?」
ぐしゃぐしゃ。
そう声を掛けた途端、{name1}はハッと弾かれたように短冊を勢いよく丸めてごみ箱に捨てた。白昼夢でも見ていたといったようなその瞳の奥は開いていた。
「{name2}ちゃん? 大丈夫? 顔が真っ青だよ……?」
「……大丈夫だよ、景くん。間違えちゃった。もう一回書き直すから待ってて」
さっと降谷と景光の方を向くと、つとめて笑み浮かべ、近くにおいてあった短冊を引ったくるように掴み、さらさらと淀みなく書き上げていく。普段大人しい彼女の異様な雰囲気に圧倒された降谷と景光は何も口を挟めず、互いに顔を見合わせたが、にこりと何事もなかったかのように微笑み続けているためそれ以上は声をかけることが出来なかった。
新しい短冊には、
“零くんと景くんと一緒にずっと仲良く過ごせますように!”
そう、書いてあった。
それ以降はその日の七夕について誰も追求せずにいたためそのまま記憶の中に眠っていた。後々、彼女が棄てた短冊を景光がこっそりと拾って保管していた事が分かった。組織に潜入する前に降谷へと渡された棄てられたら願いはあの短冊に書かれた願いとは違う願いであった。
「――安室さん? まかないできましたよ? 書けました?」
「あ……」
榎本の呼び掛けによって記憶の水底から引き戻される。
手元には安室透が書いた、“お客様がポアロで楽しく快適に過ごせますように”という短冊。
ふと窓の外に視線を向けると、雨足は弱まりはじめていた。
* * *
祭の起源と言えば、豊穣への感謝や祈り、慰霊といった意味合いから端を発している。
また「まつり」という言葉は「祀る」という言葉に因る。神様を”祀る”という意味合いからも窺い知れるように儀式的な要素を差す。
今日の祭といえば、そういった宗教的要素から乖離しつつある。“催しもの”、“イベント”といった意味合いが強く、祈りや感謝、などといった儀式的要素形骸化され娯楽要素が加味されることに至った。
少年――正確には、とある闇組織の取引現場を目撃した高校生探偵・工藤新一が幼児化した姿である――江戸川コナンが居候する毛利小五郎探偵事務所。の、階下。喫茶ポアロにおいても祭りの娯楽化は例外ではない。七夕飾りが盛大に飾られている。
偶然少年探偵団の待ち合わせで立ち寄ったポアロの装飾には一瞬、呆気にとられたが、そういえば江戸川もその短冊を書かされたのだったと思い出す。
――7月7日。突き抜けるような快晴。天候は一日中良い予報がでており、織姫と彦星も今夜は一夜限りの逢瀬を喜ぶのだろう。
少年探偵団の面々との約束の時間まではまだ少し時間がある。折角七夕飾りも盛大に飾られていることだ。暇つぶしに眺めて時間を潰すとしよう。
短冊が一番見やすいテーブルに腰掛ける。
いらっしゃいとにこりと笑みを浮かべている安室は普段よりもどこか上機嫌な事は気になったが、彼が黒の組織に潜入している公安警察であることが判明しているので、特に危険視することもないだろうから暫し様子見だ。
出されたアイスコーヒーを片手に頬杖を付いて笹に飾られた色とりどりの短冊を眺めていく。
ポアロのお客さんが楽しい一時を過ごせますようにやら、探偵団の皆と楽しく過ごしたいやら、うな重腹一杯喰いたいやら、競馬で万馬券を当てたいやら。微笑ましいものからどうしようもないような願いも書かれているが、工藤新一の幼なじみの少女の“会いたい”という一言には少しばかり感じ入ってしまう。
「――あれ?」
「どうかしたかい、コナン君?」
一枚だけ。一枚だけ古い色画用紙。
一度ぐしゃぐしゃに丸めて引き伸ばしたのだろう短冊が一枚。笹の葉に隠れて少し見えづらい所に括ってある。まるで隠されていたようだ。その短冊に顔を近づけてみれば、滲んだサインペンの文字。薄い黄色い紙には少し書き慣れない子どもの字で書かれている。
“れいくんのおよめさんになりたい”
バッと江戸川が彼の方を振り向けば、目を細めて穏やかな表情を浮かべた安室の姿が目に入る。すぐに江戸川の視線に気がついた安室は唇にそっと人差し指を添えて、ぱちりとウィンクをする。
おいおい、嘘だろう……?
夢でも見てるのかという信じられないという気持ちで視線を向ければ、安室は手厳しいねと苦笑を浮かべている。
「安室さーん、戻りました」
カランカランとドアベルが揺れ、榎本が買い物袋片手に上機嫌で入ってくる。その後をおずおずと入ってきた{name1}{name2}に安室は一瞬目を丸くしたが、すぐににこやかに微笑む。
「――いらっしゃい。カウンター席、ご案内しますね」
「えと……お邪魔します?」
「ふふふ、何いってるんですか。遠慮なさらずゆっくりしていってくださいね」
江戸川はどこか上機嫌な安室を見て、今までこのポアロで関わり合いのなかった{name1}と安室の二人に接点などあっただろうかと首を捻ったが、勢いよく扉が開き少年探偵団のメンバー達が入ってきたことで、安室が偶然機嫌が良かっただけかもしれないと思い直し、彼らに声を掛けた。
店のドアが開き空気が振動してためか、笹の葉が揺れる。振動であの古い短冊の裏に隠れていて見えなかった一枚が、姿を現す。
――今度こそ、君の願いを守れますように。
18.08.05 初出 『天の川に眠る初恋』
25.07.29 修正
六月も下旬に差し掛かるといったところ。梅雨真っただ中の曇天の日。湿気を含んだ空気が夏の空気を帯び始め、じっとりとした熱気を肌で感じる嫌な季節。雨の降らない空梅雨が多い昨今の天候には珍しく、従順なまでに天よりはらはらと雨が降り出したかと思えば、それは次第に勢いづき豪雨へと化けた。バチバチと火花を散らすような破裂音に、その雨の激しさを物語る。一度外へ出れば一瞬で濡れ鼠、傘を差せども乱反射した雨粒が足元をずぶ濡れにするだろう。
「なかなか止まないなぁ」
朝方から降り出したこの雨の影響で、喫茶ポアロの客足は思いの外伸び悩んでいた。否、正確に言うなれば、悩むという表現は誤りである。大して悩んではいなかった。悩むと言うよりは、――そう、暇を持て余していたと言うべきであった。開店から客足がまばらであったが、この雨が長時間に渡って降り注いでいる影響だろうか。普段は毎日のように姿を見せる常連客も今日は半分も姿を見せていない。いつも通り姿を見せた常連も食事だけを済ませてそそくさと出て行ってしまうから滞在時間は好天時より遥かに短いときた。この嵐のような天気であるから致し方ないが、普段賑わいを見せている店内が静まり返っているのをみると、どこか物足りなさを感じてしまう。特段、慌ただしい方が好きというわけでもないが、何分拍子抜けもいいところである。暇を持て余して清掃をしてみたところで、そもそも飲食を取り扱う店であるから衛生面は日ごろから徹底的に配慮しているためにこれもする事がないような状態であった。
いよいよ暇になった彼ら――安室透と榎本梓は顔を見合わせる。外は相も変わらず雨脚が強いまま。お客の影などは一向に見られるはずもない。昼時の近いこの時間、人っ子一人いない喫茶ポアロというのは珍しい。安室が働き始めるようになってからは彼目当ての若い女性客が増えたが、この昔ながらの喫茶店の客中心層は中年や年配の人間が主である。そんな顔馴染みの客も今日は家で静かに過ごしているのだろうか。特に年配層は足元が悪い日は外出を控える傾向にある。
「梓さん、どうしましょうか?」
「うーん……早いですけれども、休憩にしましょうか? こんな様子でしたら当分お客さん来ないでしょうし」
「そうですよね……休憩にしてしまいましょうか」
窓の外に視線を向ければ、依然としてアスファルトに叩き付けられている雨音。ガラス窓を打つ雨量も依然として衰える気配がみられない。ポアロの前の通りを歩く人の影も見当たらないぐらいであるから、皆外出を控えているのだろう。ざあざあと変わり映えのしない雨音に一つ苦笑いを浮かべ、まかないの準備に取り掛かる。
「そういえば、安室さんは今度の七夕のお願い考えました?」
「七夕?」
まかないを作り始めた榎本がふと思い出したという風に安室に尋ねる。突然飛び出した七夕の話題に疑問を抱いたが、すぐさま季節の頃合いを鑑みて七夕の日が近いことを思い出す。
七夕といえば短冊に願いを書いて笹竹に飾る習慣や織姫と彦星の七夕伝説が想起されるが、安室にとっては馴染みの薄い話だ。それこそ子どもの頃の町内会の催し物として短冊に願いを書いた記憶があるが、年を重ねるに連れて重要度が低くなりがちだ。
安室にとっても例外ではなく、成長するに連れて七夕とは疎遠の生活となっていた。中々習慣がない限りは素通りしてしまう行事であると思う。仙台で開催されるあの有名な七夕祭りであればまた話は別だが、安室が幼少期を過ごした街ではそういったことはない。一般的な七夕の行事なのである。
「――懐かしいですね。七夕なんて小さい頃の話ですよ」
「?? あれ? まだ聞いていませんでしたか? 今度の七夕の日にポアロでも七夕飾りをしようってことになったんですよ?」
「え?」
ぽかんとした榎本に、安室もきょとりとする。寝耳に水。安室にはその報せは届いていなかった。何時の間にかに決まったのだろうか。
榎本によれば、元々は安易に提案したのがこの七夕飾りのイベントらしい。じめじめとした憂鬱な梅雨の季節を打破するために何か気分転換にできることはないかと考えていたとのことだ。どうやら安室の休暇中にその七夕飾りの件は決まったらしい。暫くの間ポアロでの仕事が入っていなかった安室が知り得なかった事であった。安室透名義の携帯電話を確認してみるが、そういった連絡メールを貰った覚えはなかった。腑に落ちないが、榎本の反応を見る限り、おそらく行き違いになったと考えるしかない。
申し訳なさそうな表情をする榎本に軽く笑みを浮かべて気にしていないとフォローを入れつつ、続きを促せば、七夕飾りはわざわざ笹竹を持ってきて短冊を飾るらしい。七夕限定の飲食メニューを提供する案も出たらしいが、準備期間がさすがに足りないのことでそちらは見送りになったそうだ。
短冊は常連客を筆頭に配るようだ。そこに願い事を書いてもらい、笹竹に飾るということだそうだ。先程の榎本が七夕の願いを考えたかと尋ねてきた経緯はそういう事であった。
「――なるほど。それで願い事なんですね」
「ええ! ですから、安室さんも短冊に書くこと考えてくださいね! 飾っちゃいますから!」
「え。お客さんの分だけではなく、僕のも、ですか?」
少し引きつった安室に、榎本は気付きもせずに楽しそうに話を続けていく。
「もちろん! こういう事は皆で楽しんでやりましょうよ! 初めて来たお客さんにだって渡しましたよ!」
「いきなり書いてくれるものなんですか?」
「美味しいものが食べたいー! とか、お金持ちになりたいー! とか些細な事でもいいんですって言ったら結構その場で書いてくださりましたよ?」
「そういうものなんですかねぇ……」
「適当でいいって言わないと書いてくれないですからね」
「そうですか……」
「そこに書いてくださった方の分の短冊ありますから、参考にするといいんじゃないですか? 参考にするぐらいなら平気ですよきっと!」
「そ、それは……」
「安室さん、絶対書いてくださいね! まかないの方は私に任せてください!」
今日の賄いはカラスミパスタですと胸を張って彼女の十八番を出されてしまえば、安室も苦笑いをしながらも折れるほかない。それだけこの七夕を盛り上げようと一生懸命なのだ。
「か、考えてみます ……で、では少し拝見」
カウンターの隅に置かれた手作りの空き箱をそっと開ける。その中には縦十センチ横四センチほどの色画用紙が何枚か入っている。
これが榎本が言っていた短冊だろう。少し申し訳なく思いながらも、好奇心に負けてパラパラと見てみれば何とも気の抜けるようなゆるい願い事が多い。
たとえば、寿司をたらふく食いたいだとか、宝くじで一攫千金、意中の相手と付き合いたいだとか。中には、家出したらしい嫁の帰還を乞う切実な祈りや安室を嫁に迎えたいといった何ともいえないような願い事まである。
「(あの人が幸せになれますように……? {name2}も来てたのか。あの人って誰だ?)」
中には文字に見覚えがあるとよくよく目を凝らしてみれば安室の本名・降谷零名義の幼馴染{name1}{name2}の短冊が混ざっていて、思わず目を瞠った。相変わらずのお人好しで自分の願いですらない。こういう時ぐらいは軽い気持ちで書いたって構いやしないのに。彼女の筆跡をなぞる。{name1}とは偶然再会したのがこのポアロであったが、音信不通となった幼馴染が名前を変えて別人のように振る舞う様を見て事情があると察したらしい。鉢合わせしないように気を利かせて訪問するタイミングを見計らって訪問するようになった。安室が働き始める前からよく来ていたため、{name1}の訪問頻度が減ったことに対して榎本は最近あんまり来ないねと寂しそうにしているのが心苦しい。今回も安室が休みの日に訪れたらしい。確かに何があるかわからない状況ではある。必要以上の接触は避けるべきだが、成り行き上ならばある程度は仕方ないことだ。その場で誤魔化せばどうにでもなる。律儀なものだ。思わずくすりと笑みを漏らしてしまう。
「安室さん、書けましたか?」
「あ、いえ……皆さんの書いてる姿が目に浮かぶようで、何だかいいな、と」
「そうですよね! 子どものお願いは微笑ましいものばかりですし、受験や資格に合格するとか、ゆめがあったりしていいですよね」
「ええ。その人の心が映し出されるようですね」
安室は手元にある短冊に視線を落としさてどうするべきかと考え始める。箱の中に入っていた黄色い短冊をテーブルの上に乗せてボールペン手に持ってみるが、早々に書き出しをどうするべきかと筆を置いてしまう。
「(僕の……俺の願い……)」
願いとは一体何だろう。立場上、本音では書くことはできない。当たり前だが、今の自分は“降谷零”ではなく“安室透”なのだから、“安室透”として書かなければならない。降谷零はこの小さな箱庭にはいらない。ならば安室としての願いとは何だろうか。ポアロの客がよりよく過ごせますように。探偵として眠りの小五郎のように凄腕の探偵になりたいといったところだろうか。書くとしたらその程度が無難だろうか。そんなことを書けばいいのだろうか。“降谷零”としての願いは一体どこへ行けばいいのか。
胃の奥がもやもやと消化不良を起こしているようだ。
「(――そういえば、ヒロと{name2}と俺で昔短冊書いたっけ)」
{name1}の置いていった誰かの幸せを願う短冊の文字を撫でていると、ふと古い記憶がこちらを見つめてくる。
親友の諸伏景光と幼馴染の{name1}の2人との記憶。町内会の七夕祭りで飾る短冊に願い事を書いた時の記憶だ。その日は朝から雨が降っていて、近所の商店街のアーケードの下に笹竹が飾られていた。その近くには会議室にあるような長机が数台並んでいて、机上には空き箱に入った色とりどりの短冊とマジックペンが入っていた。
皆で短冊を書こうということになって、いざ書こうと思うと降谷は何を書くか悩んでしまった。景光は澱みなくその頃子ども達の間で流行っていた特撮のヒーローになりたいと書いていた。降谷もその正義のヒーローに憧れはしていたものの、景光と同じものを書くのは何だか気恥ずかしい。脳裏にあの先生の事を掠めたが、きっと景光にからかわれてしまうし、それを書くことも恥ずかしい。結局、ヒーローと書くのは恥ずかしくから同じく正義の使者である警察官になりたいと書いて飾ってもらった。
「なあ、{name2}は何をお願いしたの?」
ぐしゃぐしゃ。
そう声を掛けた途端、{name1}はハッと弾かれたように短冊を勢いよく丸めてごみ箱に捨てた。白昼夢でも見ていたといったようなその瞳の奥は開いていた。
「{name2}ちゃん? 大丈夫? 顔が真っ青だよ……?」
「……大丈夫だよ、景くん。間違えちゃった。もう一回書き直すから待ってて」
さっと降谷と景光の方を向くと、つとめて笑み浮かべ、近くにおいてあった短冊を引ったくるように掴み、さらさらと淀みなく書き上げていく。普段大人しい彼女の異様な雰囲気に圧倒された降谷と景光は何も口を挟めず、互いに顔を見合わせたが、にこりと何事もなかったかのように微笑み続けているためそれ以上は声をかけることが出来なかった。
新しい短冊には、
“零くんと景くんと一緒にずっと仲良く過ごせますように!”
そう、書いてあった。
それ以降はその日の七夕について誰も追求せずにいたためそのまま記憶の中に眠っていた。後々、彼女が棄てた短冊を景光がこっそりと拾って保管していた事が分かった。組織に潜入する前に降谷へと渡された棄てられたら願いはあの短冊に書かれた願いとは違う願いであった。
「――安室さん? まかないできましたよ? 書けました?」
「あ……」
榎本の呼び掛けによって記憶の水底から引き戻される。
手元には安室透が書いた、“お客様がポアロで楽しく快適に過ごせますように”という短冊。
ふと窓の外に視線を向けると、雨足は弱まりはじめていた。
* * *
祭の起源と言えば、豊穣への感謝や祈り、慰霊といった意味合いから端を発している。
また「まつり」という言葉は「祀る」という言葉に因る。神様を”祀る”という意味合いからも窺い知れるように儀式的な要素を差す。
今日の祭といえば、そういった宗教的要素から乖離しつつある。“催しもの”、“イベント”といった意味合いが強く、祈りや感謝、などといった儀式的要素形骸化され娯楽要素が加味されることに至った。
少年――正確には、とある闇組織の取引現場を目撃した高校生探偵・工藤新一が幼児化した姿である――江戸川コナンが居候する毛利小五郎探偵事務所。の、階下。喫茶ポアロにおいても祭りの娯楽化は例外ではない。七夕飾りが盛大に飾られている。
偶然少年探偵団の待ち合わせで立ち寄ったポアロの装飾には一瞬、呆気にとられたが、そういえば江戸川もその短冊を書かされたのだったと思い出す。
――7月7日。突き抜けるような快晴。天候は一日中良い予報がでており、織姫と彦星も今夜は一夜限りの逢瀬を喜ぶのだろう。
少年探偵団の面々との約束の時間まではまだ少し時間がある。折角七夕飾りも盛大に飾られていることだ。暇つぶしに眺めて時間を潰すとしよう。
短冊が一番見やすいテーブルに腰掛ける。
いらっしゃいとにこりと笑みを浮かべている安室は普段よりもどこか上機嫌な事は気になったが、彼が黒の組織に潜入している公安警察であることが判明しているので、特に危険視することもないだろうから暫し様子見だ。
出されたアイスコーヒーを片手に頬杖を付いて笹に飾られた色とりどりの短冊を眺めていく。
ポアロのお客さんが楽しい一時を過ごせますようにやら、探偵団の皆と楽しく過ごしたいやら、うな重腹一杯喰いたいやら、競馬で万馬券を当てたいやら。微笑ましいものからどうしようもないような願いも書かれているが、工藤新一の幼なじみの少女の“会いたい”という一言には少しばかり感じ入ってしまう。
「――あれ?」
「どうかしたかい、コナン君?」
一枚だけ。一枚だけ古い色画用紙。
一度ぐしゃぐしゃに丸めて引き伸ばしたのだろう短冊が一枚。笹の葉に隠れて少し見えづらい所に括ってある。まるで隠されていたようだ。その短冊に顔を近づけてみれば、滲んだサインペンの文字。薄い黄色い紙には少し書き慣れない子どもの字で書かれている。
“れいくんのおよめさんになりたい”
バッと江戸川が彼の方を振り向けば、目を細めて穏やかな表情を浮かべた安室の姿が目に入る。すぐに江戸川の視線に気がついた安室は唇にそっと人差し指を添えて、ぱちりとウィンクをする。
おいおい、嘘だろう……?
夢でも見てるのかという信じられないという気持ちで視線を向ければ、安室は手厳しいねと苦笑を浮かべている。
「安室さーん、戻りました」
カランカランとドアベルが揺れ、榎本が買い物袋片手に上機嫌で入ってくる。その後をおずおずと入ってきた{name1}{name2}に安室は一瞬目を丸くしたが、すぐににこやかに微笑む。
「――いらっしゃい。カウンター席、ご案内しますね」
「えと……お邪魔します?」
「ふふふ、何いってるんですか。遠慮なさらずゆっくりしていってくださいね」
江戸川はどこか上機嫌な安室を見て、今までこのポアロで関わり合いのなかった{name1}と安室の二人に接点などあっただろうかと首を捻ったが、勢いよく扉が開き少年探偵団のメンバー達が入ってきたことで、安室が偶然機嫌が良かっただけかもしれないと思い直し、彼らに声を掛けた。
店のドアが開き空気が振動してためか、笹の葉が揺れる。振動であの古い短冊の裏に隠れていて見えなかった一枚が、姿を現す。
――今度こそ、君の願いを守れますように。
18.08.05 初出 『天の川に眠る初恋』
25.07.29 修正
サイト内創作物の無断転載禁止です。Do not repost.
閲覧後の苦情などは一切受けかねますので各自でのご自衛お願い申し上げます。
名前変換プログラムの仕様上デフォルト名が統一されていますが、作品毎に主人公の設定が異なります。
鍵付き作品は明治11年を西暦四桁。