bookmark
profile
No.8
覆水盆に返らず
何かを壊すのはいつだって些細なきっかけに他ならない。
「あ」と言う声を上げた頃には時すでに遅し。慌てて手を伸ばした手は虚しくも空を切り、為すすべもない。するりと翻ったそれは引き寄せられるように地面に落下し、着地と共にけたたましい破砕音を木霊させる。ガシャン。瞬間、反射的に目を瞑り、耳を塞ぐ。その破砕音がきんと神経に沁みる。
「あ、らら……」
おそるおそると目を開いてみれば、足元には見事なまでに粉々に砕け散った陶器の破片が散乱している。それは愛用していた茶碗だったもの。毎食を共にしてきた茶碗。割ってしまったことへの衝撃。その場に暫し立ち尽くしてしまう。思いの外、喪失感が強い。後悔悔の念が強く心の中へと立ちこめていく。こだわりを持っていたわけでもない、人から贈られた言うわけでもない、この茶碗に纏わる思い出などもない。これは街に買い物へ行ったときに適当に買ったものだ。飯が食えれば何でもいいと買ったものだ。それがいつしか、なくてはならないものになる。適当に買った茶碗でも毎回使い込めば愛着の一つや二つも湧く。物は大事にする性質。少しの繕いで直るならば本当に使えなくなるまで使う。貧乏臭いと揶揄される事もあるが、使い馴染んだものを使うのが一番だと思っている。
しゅんと気持ちが萎えて立ち尽くしていた身体に鞭を打って無理矢理動かす。足元の破片を踏まないように注意深く歩き、棚の上に予備の茶碗がないか確認をする。確か色違いの飯茶碗を置いて置いたはずだが、影も形もない。おかしいと暫しの間考え込んでいたが、そういえば、随分昔にそれも割ってしまっていた事を思い出す。その時は今割ってしまった物があるからと買わなかったのだが、今となっては横着せずに予備を備えておくべきだった。後悔先に立たず。茶碗がなければ食事もままならない。米櫃を抱えて食べるという荒技もあるが、抱えながら食べるのは余計に草臥れるから可能な限り却下である。
「これ、修理にならんのだろうなぁ」
しゃがみ込んで地面に飛び散った欠片の海を眺める。落下した衝撃が強かったのだろうか。茶碗の損傷は想像以上に激しい。修理に出せば使い続けることができるかもしれない。そうは思ったのだが、欠片が思いの外細かく、修理に出してどうにかなるかどうか。素人目では全くわからない。兎にも角にも茶碗がなければ話にならない。昼食は街まで出向き適当に食べれば問題はないが、夕食からはそうはいかない。毎回外で食べるのも落ち着かないし、職業柄帰宅する頃には店仕舞いなんてこともザラにある。そういったときはやはり家で食事をとる必要性が出てくる。昼食のついでに飯茶碗を買い足しておかなければならないなと思案していると、ぐぐぐっとくぐもった虫の音に思わず苦笑いをして、下腹をさする。
「まずは腹拵えだなぁ。街に出るか」
久々の非番はゆっくりと身体を休めたかった手前、家から出たくなかったのだが、腹が減ってしまえばやむを得ない。家には食事用の器の代えがない。ついでに夕食の材料の調達もした方がよいかもしれない。深く溜め息をついて肩を竦め、飛び散った茶碗の破片を箒でかき集めると、庭の土を木鋤で掘り返して埋める。再び虫が鳴く。腹が減っては何とやら。食を求めて街へと出掛けるために着替え始めた。
京都。この明治の治世より遥か昔、当時の統治者・桓武帝がこの地に遷都したことから始まる千年の都。その始まりの時代・平安の貴族達の治世から源氏と平氏などの武士の台頭、鎌倉に開かれたという幕府、足利氏の幕府政権、混迷を極めた戦国の乱世、徳川による江戸の幕府政権までの千年間、帝がおわす不動の都であった。この不動の都は東京奠都てんとされるまでのおよそ千百年もの間、政治や文化などこの日本の中心となってきた一大都市である。明治維新後は今までこの都を見守っておられた帝は東の都・東京へと御所を移された。政治や文化の中心が移されたこの京都はその寂しさを湛えているものの、街中の活気はまだまだ失われていない。帝のお膝元であったという誇りを持つこの街は衰えを知らない。
そんな壮麗な古都・京都の街の外れに、その青年は住んでいた。外観の古さは目立つが、青年が一人で住むには部屋も十分過ぎるぐらいに広い家だ。本来ならばこの若い青年が普通に働いて稼いでも手に入れるのは難しい代物だ。しかし、それを安く譲ってもらい手に入れたのである。当然、それにはそれなりの訳があるが、それはまたいつかの機会があればの話。きっと蛇足になろうが。
身支度を整えた青年は、町屋づくりの家屋が並ぶ街中を闊歩する。
藍色の紬に、鼠色の袴。腰には大小。髪を高く結った中性的な顔立ちの青年。若侍といった出で立ちの男だ。散髪脱刀令が発布され、髪型を自由に変える事が可能になった。その影響か、散切り頭の男達が界隈に見られるようになっているが、この青年は散髪するまでには至っていないようである。やや時代錯誤となりつつあるそのいで立ち。その腰には廃刀令が発布された今尚刃が息を潜め、静かに狙いを定めている。ただし、この京都の街ではそういった刀を下げる者もまだ珍しくない。廃刀令が出ているからと言って特段目くじらを立てて非難するような者は少ない。すれ違う者達は刀へ一瞥を送るものの、そのまま去っていく。青年に機嫌を損ねて斬りかかられても困ると言うことで無視を決め込んでいるという見方もできるのだが、そこまで掘り下げる必要もない話である。
この通りには軒並み色々な商店が立ち並んでいて、街に買い物へ来ると必ず通るのがこの通りである。日用品を取り扱う店や食事処、呉服屋、質屋など、多様な商店が集中している。いわば商店街だ。青年もよくこの辺の食事処にはふらりと顔を出しているため、店の者達とも顔馴染みだ。青年が店の前を通れば、店の者達が軽く声を掛けていく。
「今日も賑わってるなぁ」
青年は辺りを見回して、楽しげに笑う。昼下がりの通りは、人が所狭しと行き交っていて騒がしい。着流しを着た男や青年と同じように袴姿の男、近年増えているシャツにスラックスの洋装の男、振袖の若い女や、丸髷の女、明治になってから着用の許された羽織を早速着こなす女。市中に出れば、様々な人がおり、その顔には喜怒哀楽がそれぞれに宿る。車夫が通りかかる度に、人々は暗黙の了解とでもいうように道を空けては、見送っていく。通りに面した食事処からは香ばしい匂いやら、甘い匂いやらが漂っていて、食欲を掻き立てられる。一時的に静まっていた腹の虫が刺激され、再び鳴き始める。路面に立ち並ぶ店の前には客に呼び掛ける看板娘や店の女将、店の主人。その賑やかな声も頼もしく、数年前までの幕末の動乱の殺伐とした空気感を感じさせないほどだ。幕末の市井も往来はこの明治に負けぬ程度には確かに市井は活気があったが、その反面、暗躍する者達のきな臭さがどこかにあった。明治維新後の混沌は尾を引いている節は無きにしも非ずといったところだが、それでもこの都は懸命に生きている。
日々欧化政策が打ち出されていく明治の世では、外国の食文化も欧化の波が到来している。幕末頃に横浜外国人居留地の設立により広がった肉食文化。この京都にもその波はやってきて、牛鍋店が人気を博している。牛鍋とは文字通り牛の肉を使った料理。開国される以前まで、この国では肉食の文化が根付いていなかったが、異人達によって齎もたらされた新たな食文化だった。作り方は鉄鍋の中にだし汁、醤油・みりん・砂糖・酒などを加え煮立てた割り下というものを入れ、牛肉と野菜を入れて煮ると言うもので、鍋の中の肉を返しながら煮るのである。因みに野菜を入れるのは日本人が食べ慣れていない肉のくさみを消すために入れたのがきっかけらしい。
この京都にある白べこという牛鍋店は東京にも姉妹店がある人気の店であり、青年も何度か上司に連れられて足を運んでいる。初めて店を訪ねた時、そこの娘は牛鍋の作り方や特徴を初めて食べる青年に丁寧に教えた。気さくで、商売上手な娘だ。初めて食べる牛鍋に感銘を受けていた青年を微笑ましそうに見守っていたことを青年自身も記憶している。そんな彼女は今日も今日とて往来の人々に呼び込みを行っている。
「お昼はぜひ牛鍋白べこへ! ……あら? {name3}はんやないの。こんにちは」
「こんにちは、関原さん。よく覚えてらっしゃいましたね」
青年──{name3}が界隈を歩いてきたのに気付いた女性は愛想良く声をかける。彼女の名は関原冴という。関原の頭には三角巾、着物の上にはひらひらとした可愛らしい装飾の布地が付いた前掛け。にこにこと朗らかな笑みを浮かべている。この牛鍋・白べこの看板娘である。{name3}はこの店に上司と何度か足を運んでいるため、顔馴染みとなっていた。
「そりゃあ覚えてますよ、牛鍋おいしそうに食べとったもん。あん時は{name3}はんの上司の藤田はんも締まりがないって呆れとったね」
「はは、そりゃどうも」
「褒めてへんよ?」
{name3}も関原につられるように笑う。
「{name3}はん、お昼はもう食べましたか? まだだったらぜひ白べこでお食べやす」
「牛鍋かぁ。今度藤田さんと食べにくる予定だったけど、誘われた手前折角だから食べてこうかな」
「あら? 藤田はんとお約束してらしたんですか?」
「いいえ。約束してはないけど、散々こき使われている分は奢ってもらわないと割に合わないと言いますか」
「ふふっ。そうなんですか。おもしろいこといいはりますね。わかりました。そんなら藤田はんにぎょーさん奢ってもらわないとあきまへんね」
「今度白べこにお金を沢山落とさせますからね、楽しみにしててくださいね」
「まぁ、頼もしい!」
和やかに笑い合う二人。{name3}の軽口に、笑う関原。彼の上司である藤田が聞いたならば、只では済まないが、ここにはその藤田はおらぬ。冗談を交えながら和やかに会話をする穏やかな日々の何気ない風景。夢のようだと{name3}は思う。少し前までの陰惨な幕末の京都は今や昔話だ。徳川主導の幕府は倒れ、明治と改められた治世。制限されていた異国との交流は撤廃され、新しい文化がこの街にもやってくる。そして、新しい日々。人々が何気ない一日を穏やかに、何気なくても一生懸命に、その日を過ごしている。もう道端に人を転がす日々は来ないのだろう。そっと腰に帯びた刀を撫でる。{name3}の目の前にいる市井の人が恐怖に陥れられることも嘆き悲しむこともない。ぬるま湯のような穏やかな日々を暮らす為の犠牲の果て。その果てに見えた景色がこの日常なのだろうか。
促されるままに白べこの店内に入ると、関原があっと何か気付いたようだ。
「そういえば{name3}はん急ぎの用とかなかった? 今日はどこか行く予定やったんです?」
「ああ。そういえば食事のついでに食器を買いに行こうと思ってたんだ」
食事の事に気を取られて当初の目的を思い出した{name3}。
「食器?」
「食器割ってしまってね。予備も前に割ってしまったままだったので新調するんです。よく見たら皆ボロボロだったし、いい機会だから全て新調しようかと」
「そんならこの通りをまっすぐ行って、角で左に曲がって四軒目のお店にいくとええよ。うちもよくお世話になってるお店なんです」
「へぇ、それはいいことを聞いた。ありがとうございます」
「先に買い物してからうち来ます?」
「うーん、そうだな。お腹減ったしに先にここで食べてから行こうかな……あれ?」
「? あら、外が騒がしい。喧嘩かねぇ?」
ふと店の外が騒がしいことに二人は気が付いた。思わず顔を見合わせて、合わせ鏡のように首を傾げる。店内に居合わせた数名の客と店員は互いの顔色を窺いつつ、店外の雰囲気を感じ取ったのだろうか、表情に翳りが見える。不安そうに外を気にする様子の客と店員。
{name3}は店内の雰囲気を感じ取って、戸口に静かに近寄るとそっと隙間を作り、様子を窺う。普段の市井の賑わいとは一変し、物々しさすら感じる。男の怒号や女性の悲鳴が轟き、穏やかではない。何らかの事件が発生したようだ。大橋の方へと駆けていく人やら何やらと。事態を収拾できる者がおらず、混沌と化している。状況を今一度理解しきれてはいないのだが、兎にも角にもこの状態で人々の不安を増幅させるままではいかぬ。非番だなんだと文句も全て飲み込む他ないだろう。
「{name3}はん」
不安そうに見つめてくる関原に、{name3}はにこりと微笑み、幼子に言い聞かせるように穏やかに話す。
「私が外の様子を見てきます。関原さんは危ないからお店の中で騒ぎが収まるまで待ってて、ね?」
「お巡りはん呼んできましょうか?」
「お気遣いありがとうございます。大丈夫、様子を見てくるだけです。その代わりに美味しい牛鍋用意しといてくださいよ?」
お道化たように言えば、関原の強張っていた表情が漸く解けていく。それを見て安心した{name3}もにこりと笑い、頭をポンポンと撫でて、いってくると再び外への扉を勢いよく開いて出ていく。
「泥棒! 泥棒!」
「泥棒?!」
白べこを出た途端に女の悲鳴が聞こえ、{name3}はハッとする。先程までの不明瞭だった状況が一気に開けていく。普段は穏やかな昼下がりの街中が騒然としていた理由の答えが転がってきた。その声を聴いて慌てて辺りを見回して見るが、往来に犇めく群衆に盗人が紛れて込んでいるためか盗人の姿が判然としない。木を隠すなら森の中とはよく言ったものだ。
「くそ、今日は人多いな!?」
感心している場合ではないと{name3}は改めて周りを見回すが、依然として往来は騒然とするばかりだ。あっちに行った、こっちに行った、怪我人が出た……あちらこちらで上がる不穏の声。この状況は不味い。身勝手な輩のために無関係な人々が巻き込まれている。それは許容できぬ。理不尽な事で泣き寝入りさせられるのを黙って見過ごすほどの外道でもない。だからこそこのままでは見逃してしまうと焦りが募る。それだけは阻止したい。
「あの男! 髪が長くて背が高い男! 捕まえて!」
叫ぶ声に弾かれたように振り返る。あまりにも騒然とした界隈。人でごった返した往来の中で誰が叫んだのか判然としない。致し方ない。叫んだ者を探すにも流動的なこの往来を探すには困難だ。盗人逃げられるのも不味い。手当たり次第探す他ないか。焦燥感に追い立てられながら周囲を見回すと進行方向に髪が長く背の高い男が立ち去ろうとしているのを発見する。
──見つけた
髪の毛が長く背の高い男。それらしき男の後ろ姿を発見する。立ち去ろうとする背中を見失わないように小走りを始める。犇めき合う往来を身体を捩らせながらするりするりとすり抜けていく。盗人は人の群れに紛れ込んだつもりなのだろうか。歩く姿は威風堂々としたものであり、{name3}はギリっと歯噛みをする。外套など羽織って随分と派手な男だ。憎たらしい。腹立たしさを押し殺しながら接近していく。往来の人々に紛れ込みつつ、気取られぬように注意深く尚且つ迅速に。人の流れの切れ間に出て、一気に詰め寄って男の腕をガシリと掴んだ。
「待ちなさい、あんたが盗人か?」
「あ?」
不意をつかれて驚いた表情の男。瞳の中に人影が映る。
この数年後の明治11年、明治東京で浪漫譚が始まるのだが、京都の明治浪漫譚は今ここから始まる──かもしれない。
往来に対峙する二人の男。一人は筋骨隆々とした巨躯の男、もう一人は巨躯の男と比較すればより
儚く見えてしまうような優男。どちらも眉目秀麗といった出立ちであり、スッと背筋が伸びた立ち姿。優男の方が巨躯の男の腕を掴んだまま離さないために、ちらちらと視線が注がれているのだが、当人たちはそれどころではない。
「──なんだって?」
じろりと切れ長の瞳が優男──{name3}を捉える。男の威風堂々とした佇まいに思わず口篭ってしまいそうな所ではあるが、{name3}も引きはしない。ここで引いてしまえば確実に人一人泣き寝入りする羽目になるのだ。それは看過できない。
「……あなたと特徴が似た男に物を盗まれたと叫んだ人がいて犯人を探しています。ただ情報が少ないので何か知っていることはないかと皆に確認しているところです」
「盗人? そんなもん知らねぇよ、俺は一介の陶芸家だぜ」
「陶芸、家……?」
{name3}は訝しく男に視線を送る。男の特徴は端的に言うなれば眉目秀麗、筋骨隆々。端正な顔立ち、切れ長の瞳、凛々しい眉、鼻筋のよく通った顔。その涼しげな顔立ちとは対称的に肉体は厚い。筋肉で隆起した四肢。真紅の襟を持つ白い外套はその風格を体現するかの如く。陶芸家と自称するその男を見ながら首を傾げる。一体全体どうしたらここまで筋肉を鍛え上げられるのかと疑問に思うほどの筋肉の鎧。美しい肉体美。{name3}のような優男では到底押してもびくともしなさそうな鋼の肉体だ。天と地の差である。
陶芸家と言われても{name3}のみならず他の者であっても訝るのは無理からぬ事である。
「何だ?」
男も怪訝そうに{name3}に視線を寄こす。
「いえ、士族の方かと思ったので芸術家の方とは思いませんでした」
「まあ当たらずとも遠からずだな」
「え?」
男はこほんと咳払いをする。
「ともかく、だ。お前が探している背が高くて髪の長い盗人だったか? そういえば、そんな奴が俺よりも前の方を走っていったのを見たな」
「ほんとですか?」
「あのなァ、嘘ついてどうすんだよ。大体なんでお前にそんなこと言われなきゃならねぇんだよ。警察気取りか?」
「一応警察関係者です」
「……」
「……」
「お兄さんっ! け、警察の方なんですか?!」
一人の女性が人を掻き分けるようにして息を切らせながら走ってやってくる。膝に両手をつき、ぜえぜえと息を切らした女性を見かねて{name3}は静かに近づいていく。満身創痍の彼女がふらりと倒れそうになるのを支えてやると、力なく彼女は礼を述べる。おそらくはこの女性が盗人の被害に遭った女性なのだろう。ここまで一生懸命走って追いかけて来た彼女を労わるように背中を擦ってやる。
「お嬢さん大丈夫ですか?」
「はぁ、はぁ……ありがとう。でも、泥棒は、その人、じゃ、ないの」
「……違うんですか?」
「鼠色の着物に柿渋の袴の……」
「鼠色に柿渋……?」
ちらりと横目で男に視線を向けるが、既に{name3}へと向ける視線が痛い。確かにこの男は背が高く髪も長いが着物の色はまるで違う。赤襟の外套など奇抜なものだ。{name3}は男の腕を掴んでいた手をそっと離して静かに後退しようとするが、今度はガシリと大きな手によって制止を余儀なくされる。
「……」
「……」
「何か言うことはあるか」
「……失礼致しました。他を当たります」
「おう」
男はまだ釈然としない様子ではあったが、{name3}の謝罪を受け入れたようである。一先ず女性の方に向き直ると、彼女に視線を合わせて安心させるように語り掛ける。
「お嬢さん、今度こそ捕まえてきますので警察署の方で先にお待ちいただいても?」
「え、ええ……でも」
「大丈夫です。こう見えても腕っぷしには少し自信があるんです」
任せてくれませんかと朗らかに笑みを浮かべる{name3}に、女は躊躇いを見せていたが、もう自分にはどうすることも出来ないことを理解していた為、{name3}の申し出に藁をも縋る思いで頷いた。
「しっかり捕まえてやれよ」
絶対に。一部始終を見守っていた男が念押しする。{name3}が苦笑いを浮かべながらも首肯すると、また群衆の声が一段と騒がしくなる。今度は何だ、喧しい。半ば呆れ顔で騒ぎの大きい方へ視線を振れば、走ってくる男達。若い男やら中年の男やらが入り乱れて走る姿は何とも得体の知れなさを感じる。今度は何の騒ぎだろうか。女性と外套の男、{name3}の三人は互いに怪訝そうに顔を見合わせる。気のせいだろうか、それとも。その男たちは{name3}と
外套の男の二人を目掛けて走ってきているような気がする。
「いたぞ、あそこだ! 長い髪の男!」
「どっちだ!?」
「髪が長くて……? ええい! 両方とっ捕まえてしまえ!」
──うおお!
雄叫びを上げながら突っ込んでくる男達。嘘だろ。これにはぎょっとした{name3}。想定外としかいいようがない。とんだ濡れ衣だ。まさか己が盗人と間違えられるとは。
「なんで!?」
「ぼーっとすんな! この場は逃げるぞ!」
唖然として立ち尽くしていた{name3}の腕を男は引いて走り出す。暫く男に引き摺られるがままでいた{name3}も我に返ってはっとすると、自力で地面を蹴って走り出す。「逃げたぞ、追え!」と後方から聞こえる声を尻目に、男と京都の街中を並走する。こんな筈ではなかったと思いつつも、今の状況ではどう足掻いたところで転がるように滑り落ちていく岩石を正面から止めようとする方が骨の折れる話である。あれでは話し合いどころではない。
「ったく、なんでこの俺がこんなことに……」
「こうなったらあなたと私で一蓮托生です。捕まる前に真犯人を先にしょっ引くしかないですよ。そうじゃなければこのままずっと鬼ごっこです」
「ちっ。めんどくせぇ」
「逃がすな! 追え、追えーッ! 盗人だ、盗人だ!」
混雑する往来。人混み縫うように通り抜けながら{name3}と外套の男は加速していく。地面を強く蹴り上げて、加速に加速を重ね、京の街を駆け抜けていく。{name3}たちが走り抜けていくのを人々は驚いたり、迷惑そうに顔を顰めたり、危ないと怒鳴り散らしたりしていく。彼らの言い分は尤もであるが、{name3}たちは御免と一言述べつつも逃げていく男の後を追いかけていく。人の隙間からそれらしき人物がちらりちらりと見える。ただ往来は人とすれ違うには窮屈なほどの人混みで、それが追いかける{name3}と外套の男の行く手を阻むため中々距離が縮まらない。
「不味い。この先は中山道だ」
「京都から出て行ってそのまま東に逃げる気だな」
「あの野郎……勝ち逃げする気か、許せん」
「詰めるにもまだ距離があるぞ。どうするつもりだ?」
「うーん……あ」
「あ?」
ニヤリ。どちらが悪党なのかわからないあくどい笑みを{name3}が浮かべたその隣で外套の男の顔も引き攣った。
それは獲物に狙いを定めた狼の如く。
* * *
京都の街を一人の若い男が駆けていく。その緊迫した表情に、すれ違う人々は何事かと怪訝そうな顔をして男を見送る。男は混雑する界隈を突き抜けていく。随分と前から街中を走り続けていて、息は浅い。足は疲労の色が濃くなっていく。それでも焦燥感が走れと叫ぶ。速く、速く。もっと速く。足よ、止まるな。動け、動け。急がなければ。すれ違う人々にぶつかるのもなりふり構ってはいられない。怒号が飛んでくるのも関係ない。兎角速く、速く、速く。早くこの街から抜け出さなければ──。
「!?」
「おっと。兄チャン、すまんけぇの」
三条大橋を渡り、京都の街から離れるために中山道方面へと走っている途中、曲がり角から出てきた男にぶつかり、思いっきり地面に転がる。勢い余って地面を転がった弾みで身体を強く打ち付ける。痺れる様な痛みに、舌打ちをする。ついていない。今日はぶつかってばかりだ。痛む身体を無理やり起こし、ぶつかった男の方を睨みつける。
「おい、痛えじゃねぇか!」
「大丈夫かえ? すまんのぅ、吹き飛ばしちまった」
男は困ったような表情で手を差し伸べる。大事ないかと柔らかく微笑みかける千草色の作務衣を来た男。頭には三角巾を巻いている。先程ぶつかった優男よりもこの男の方が体格はしっかりとしているが、まさか自分が吹き飛ばされるとは思っていなかった。奇天烈な言葉遣いをする男。背丈は五尺八寸約178cm程はあるだろう。ふわふわとした黒くて長い癖毛結い上げた若い男。年は二十代前半か半ばといったところだろうか。男と同じ年頃かもしれない。人当たりの良さそうな綺麗な顔はさぞかし女から好評だろう。気に食わない。腹が立つ。モテない男の僻みであることはわかっている。この目の前の男が何の気なしに手を差し伸べてくれていることもわかる。それでも屈折してしまった男は差し伸べられた手を叩き落とし、自力で立ち上がる。
案の定、手を弾かれた男は驚いて目を丸めている。
「気をつけろ、馬鹿野郎!」
「およよ、手厳しかね」
「何がおよよだ、気色悪い! さっさとどけっ! 俺は急いでいるんだっ!」
「逃がすかよっ!」
「おい馬鹿!! 俺の万寿!!」
「っ!?」
少し高めの男の声が飛んできて、ハッとする。もう追手が来たのかと慌てて振り向こうとした、瞬間、背中に重たい一撃。ドンとどつかれたような重い痛みで前のめりに転ぶ。ガシャンと甲高い悲鳴を上げて飛んできた酒瓶が割れて落ち、中に入っていた酒が周囲に華やいだ芳香を漂わせていく。
「ってぇ!!」
「引ったくりは良くないぜ、お兄サン」
引ったくりと呼んだ男に酒瓶を投げつけた{name3}は軽快な足取りでその男に近づいていく。蹲った引ったくりの男はげほげほげほと激しく噎せ返すと、ぶるぶると身体を痙攣させる。瞬間、胃液が逆流する。酸っぱい匂いに耐えかねて嘔吐。べちゃべちゃと聞くに堪えない音を立てて、まき散らす。浅くなった呼吸を整えようと息を荒げ、立ち上がろうとすれば、背中に容赦なく足が踏み降ろされて、地面へと縫い付けられる。ジタバタと藻掻き、起き上がろうとするが、カチャリと嫌な金属音が耳に響く。
「ひぃっ!?」
「観念してさっさと盗んだものを返せ」
落ち着いた静かな声で優男――{name3}は言う。その顔に表情はない。ただの無だ。無関心。怒りすらない。引ったくりの男の身体中には冷や汗が伝い、血の気がすっと引いていく。本能が感じている。この明治のご時世に刀を持ち、人に向けても何一つ顔色を変えない様子は明らかに異質だ。刀を持って昨日今日の若造ではない。引ったくりの男が知らない先の戦い幕末の動乱を知っているのだろう。下手したら命ごと引き裂かれてしまうかもしれない。心臓はどくどくと速く脈を打ち始め、緊張感が高まっていく。ただの優男かと思ったが、とんでもないことだった。幕末の亡霊だ。明治が始まってもう少しで十年経とうとするこの時代に、こいつはきっとその気になれば、人を殺めることなど何一つ悪だと思わないだろう。殺すことなど造作もないことだと思っている。きっとそうだ。殺される。殺らなければ殺られる。嫌だ死にたくない死にたくない。逃げなければ。
「面倒だなぁ、鬼ごっこはもういいだろう?」
首元に添えられた刀に、思わず喉の奥が引き攣る。刃先が首の皮に当たり、ぷつりと切れ、じわりと痛みで痺れていく。このままでは本当に殺されてしまう。
「うわああああああああっ!」
「っ!」
死にたくない。そんな思いが男の身体に起死回生の力を宿す。身体の底から力を振り絞って起き上がり、引ったくりが動けないようにと背中を踏みつけていた{name3}を跳ね飛ばす。火事場の馬鹿力だ。
一方の{name3}は反撃を食らうと思っていなかったのだろう。態勢を崩し、そのまま転がり込んだ。その拍子に手から転がり落ちた刀を男が奪い、更にもう一本脇差を引き抜いて{name3}が容易に拾えない場所へと飛ばす。形勢逆転だ。起き上がった{name3}の眼前に切っ先を突き付ける。追い詰められていた男は、相手の武器を奪ったことで少しずつ落ち着きを取り戻し始める。
「っ動くなよ! 動いたら斬り捨ててやるからな!」
窮地から解放された男は余裕が出て来たのか、ニヤリと笑う。追い詰められて気が動転してしまったが、{name3}とて丸腰ではどうにもならないだろう。もう一本の脇差も手の届かないところに投げ捨ててやった。取りに走るにしろ、それに抜く前に斬り捨ててしまえばいい。何も剣術は{name3}の専売特許ではない。男とて剣術を学んでいたし、それなりの腕前を持っている。丸腰ではない。男にも刀があるのだから、どうにか凌いで掻い潜ることは出来るだろう。ただで殺られることもない。それにいざとなれば、あの奇天烈な言葉を使う丸腰の男を人質にしてしまえばいい。他人の物を取り返しに来るようなお人好しの奴だ。どんなに昔強かろうとも今は腑抜けてしまっている、結局のところ甘チャンだ。
「財布を返せ」
「ふん。これは俺の財布だ。落とし物なら他当たんな」
「白を切るか」
「うるせぇな、俺の懐にあるもんは俺のもんだ!」
「大人しく従わないなら、従わせるまでだ」
「ふん! やれるものなら、やってみやがれ!」
男は刀を振り上げ、上段から一気に振り下ろす。剣術道場での成績はいつも上位だった。目録だって──
「っ!?」
「馬鹿か、アンタ。侍が丸腰では何もできないとでも本当に思っているのか」
目にも止まらぬ速さで引き抜いたのは刀の鞘であった。男が刀を上段から振り下ろしきる前に、鞘で弾き飛ばすと、低く踏み込んだ{name3}は懐に勢いよく飛び込んで突きを鳩尾に叩き込む。強烈な突きを食らった男は身体を弓なりにしならせて吹き飛ばされていく。先程までの自信は音もなく崩れていく。刀が無ければどうにでもなると思っていた。勝てるとさえ思い込んでいた。そんな傲慢な考えは一つの突きに塵と化していく。相手を見縊った男の完全なる敗北であった。
男の手から離れた刀は宙へ舞い、くるくると回転しながら落ちていく。{name3}は落ちて来た刀をそのまま手に取ると、{name3}の突きを食らって立ち上がれなくなった男の前に刀を突きつけた。
「この私が、逃がすわけないじゃないか」
あくまでも{name3}は冷静だった。圧倒的な力量差に戦意喪失しつつある男は、悪夢でも見たような顔で{name3}をみる。当初考えていた中山道を下って逃げてしまおうという気力は毛頭残っていなかった。
{name3}はぐいっと引ったくりの男の襟を引くと、懐を遠慮なく漁る。男の持ち物としては華やかすぎる女性のものらしき財布を見つけると、にんまりと笑う。
「警察から逃げられると思うなよ、兄サン」
「否。俺、そんな柄の悪い警官おらんと思うんじゃけど」
「俺もそう思う」
事の成り行きを見守っていた作務衣の男と外套の男は冷静に突っ込んだ。
21.05.18 『覆水盆に返らず』 初出
23.05.06 修正
何かを壊すのはいつだって些細なきっかけに他ならない。
「あ」と言う声を上げた頃には時すでに遅し。慌てて手を伸ばした手は虚しくも空を切り、為すすべもない。するりと翻ったそれは引き寄せられるように地面に落下し、着地と共にけたたましい破砕音を木霊させる。ガシャン。瞬間、反射的に目を瞑り、耳を塞ぐ。その破砕音がきんと神経に沁みる。
「あ、らら……」
おそるおそると目を開いてみれば、足元には見事なまでに粉々に砕け散った陶器の破片が散乱している。それは愛用していた茶碗だったもの。毎食を共にしてきた茶碗。割ってしまったことへの衝撃。その場に暫し立ち尽くしてしまう。思いの外、喪失感が強い。後悔悔の念が強く心の中へと立ちこめていく。こだわりを持っていたわけでもない、人から贈られた言うわけでもない、この茶碗に纏わる思い出などもない。これは街に買い物へ行ったときに適当に買ったものだ。飯が食えれば何でもいいと買ったものだ。それがいつしか、なくてはならないものになる。適当に買った茶碗でも毎回使い込めば愛着の一つや二つも湧く。物は大事にする性質。少しの繕いで直るならば本当に使えなくなるまで使う。貧乏臭いと揶揄される事もあるが、使い馴染んだものを使うのが一番だと思っている。
しゅんと気持ちが萎えて立ち尽くしていた身体に鞭を打って無理矢理動かす。足元の破片を踏まないように注意深く歩き、棚の上に予備の茶碗がないか確認をする。確か色違いの飯茶碗を置いて置いたはずだが、影も形もない。おかしいと暫しの間考え込んでいたが、そういえば、随分昔にそれも割ってしまっていた事を思い出す。その時は今割ってしまった物があるからと買わなかったのだが、今となっては横着せずに予備を備えておくべきだった。後悔先に立たず。茶碗がなければ食事もままならない。米櫃を抱えて食べるという荒技もあるが、抱えながら食べるのは余計に草臥れるから可能な限り却下である。
「これ、修理にならんのだろうなぁ」
しゃがみ込んで地面に飛び散った欠片の海を眺める。落下した衝撃が強かったのだろうか。茶碗の損傷は想像以上に激しい。修理に出せば使い続けることができるかもしれない。そうは思ったのだが、欠片が思いの外細かく、修理に出してどうにかなるかどうか。素人目では全くわからない。兎にも角にも茶碗がなければ話にならない。昼食は街まで出向き適当に食べれば問題はないが、夕食からはそうはいかない。毎回外で食べるのも落ち着かないし、職業柄帰宅する頃には店仕舞いなんてこともザラにある。そういったときはやはり家で食事をとる必要性が出てくる。昼食のついでに飯茶碗を買い足しておかなければならないなと思案していると、ぐぐぐっとくぐもった虫の音に思わず苦笑いをして、下腹をさする。
「まずは腹拵えだなぁ。街に出るか」
久々の非番はゆっくりと身体を休めたかった手前、家から出たくなかったのだが、腹が減ってしまえばやむを得ない。家には食事用の器の代えがない。ついでに夕食の材料の調達もした方がよいかもしれない。深く溜め息をついて肩を竦め、飛び散った茶碗の破片を箒でかき集めると、庭の土を木鋤で掘り返して埋める。再び虫が鳴く。腹が減っては何とやら。食を求めて街へと出掛けるために着替え始めた。
京都。この明治の治世より遥か昔、当時の統治者・桓武帝がこの地に遷都したことから始まる千年の都。その始まりの時代・平安の貴族達の治世から源氏と平氏などの武士の台頭、鎌倉に開かれたという幕府、足利氏の幕府政権、混迷を極めた戦国の乱世、徳川による江戸の幕府政権までの千年間、帝がおわす不動の都であった。この不動の都は東京奠都てんとされるまでのおよそ千百年もの間、政治や文化などこの日本の中心となってきた一大都市である。明治維新後は今までこの都を見守っておられた帝は東の都・東京へと御所を移された。政治や文化の中心が移されたこの京都はその寂しさを湛えているものの、街中の活気はまだまだ失われていない。帝のお膝元であったという誇りを持つこの街は衰えを知らない。
そんな壮麗な古都・京都の街の外れに、その青年は住んでいた。外観の古さは目立つが、青年が一人で住むには部屋も十分過ぎるぐらいに広い家だ。本来ならばこの若い青年が普通に働いて稼いでも手に入れるのは難しい代物だ。しかし、それを安く譲ってもらい手に入れたのである。当然、それにはそれなりの訳があるが、それはまたいつかの機会があればの話。きっと蛇足になろうが。
身支度を整えた青年は、町屋づくりの家屋が並ぶ街中を闊歩する。
藍色の紬に、鼠色の袴。腰には大小。髪を高く結った中性的な顔立ちの青年。若侍といった出で立ちの男だ。散髪脱刀令が発布され、髪型を自由に変える事が可能になった。その影響か、散切り頭の男達が界隈に見られるようになっているが、この青年は散髪するまでには至っていないようである。やや時代錯誤となりつつあるそのいで立ち。その腰には廃刀令が発布された今尚刃が息を潜め、静かに狙いを定めている。ただし、この京都の街ではそういった刀を下げる者もまだ珍しくない。廃刀令が出ているからと言って特段目くじらを立てて非難するような者は少ない。すれ違う者達は刀へ一瞥を送るものの、そのまま去っていく。青年に機嫌を損ねて斬りかかられても困ると言うことで無視を決め込んでいるという見方もできるのだが、そこまで掘り下げる必要もない話である。
この通りには軒並み色々な商店が立ち並んでいて、街に買い物へ来ると必ず通るのがこの通りである。日用品を取り扱う店や食事処、呉服屋、質屋など、多様な商店が集中している。いわば商店街だ。青年もよくこの辺の食事処にはふらりと顔を出しているため、店の者達とも顔馴染みだ。青年が店の前を通れば、店の者達が軽く声を掛けていく。
「今日も賑わってるなぁ」
青年は辺りを見回して、楽しげに笑う。昼下がりの通りは、人が所狭しと行き交っていて騒がしい。着流しを着た男や青年と同じように袴姿の男、近年増えているシャツにスラックスの洋装の男、振袖の若い女や、丸髷の女、明治になってから着用の許された羽織を早速着こなす女。市中に出れば、様々な人がおり、その顔には喜怒哀楽がそれぞれに宿る。車夫が通りかかる度に、人々は暗黙の了解とでもいうように道を空けては、見送っていく。通りに面した食事処からは香ばしい匂いやら、甘い匂いやらが漂っていて、食欲を掻き立てられる。一時的に静まっていた腹の虫が刺激され、再び鳴き始める。路面に立ち並ぶ店の前には客に呼び掛ける看板娘や店の女将、店の主人。その賑やかな声も頼もしく、数年前までの幕末の動乱の殺伐とした空気感を感じさせないほどだ。幕末の市井も往来はこの明治に負けぬ程度には確かに市井は活気があったが、その反面、暗躍する者達のきな臭さがどこかにあった。明治維新後の混沌は尾を引いている節は無きにしも非ずといったところだが、それでもこの都は懸命に生きている。
日々欧化政策が打ち出されていく明治の世では、外国の食文化も欧化の波が到来している。幕末頃に横浜外国人居留地の設立により広がった肉食文化。この京都にもその波はやってきて、牛鍋店が人気を博している。牛鍋とは文字通り牛の肉を使った料理。開国される以前まで、この国では肉食の文化が根付いていなかったが、異人達によって齎もたらされた新たな食文化だった。作り方は鉄鍋の中にだし汁、醤油・みりん・砂糖・酒などを加え煮立てた割り下というものを入れ、牛肉と野菜を入れて煮ると言うもので、鍋の中の肉を返しながら煮るのである。因みに野菜を入れるのは日本人が食べ慣れていない肉のくさみを消すために入れたのがきっかけらしい。
この京都にある白べこという牛鍋店は東京にも姉妹店がある人気の店であり、青年も何度か上司に連れられて足を運んでいる。初めて店を訪ねた時、そこの娘は牛鍋の作り方や特徴を初めて食べる青年に丁寧に教えた。気さくで、商売上手な娘だ。初めて食べる牛鍋に感銘を受けていた青年を微笑ましそうに見守っていたことを青年自身も記憶している。そんな彼女は今日も今日とて往来の人々に呼び込みを行っている。
「お昼はぜひ牛鍋白べこへ! ……あら? {name3}はんやないの。こんにちは」
「こんにちは、関原さん。よく覚えてらっしゃいましたね」
青年──{name3}が界隈を歩いてきたのに気付いた女性は愛想良く声をかける。彼女の名は関原冴という。関原の頭には三角巾、着物の上にはひらひらとした可愛らしい装飾の布地が付いた前掛け。にこにこと朗らかな笑みを浮かべている。この牛鍋・白べこの看板娘である。{name3}はこの店に上司と何度か足を運んでいるため、顔馴染みとなっていた。
「そりゃあ覚えてますよ、牛鍋おいしそうに食べとったもん。あん時は{name3}はんの上司の藤田はんも締まりがないって呆れとったね」
「はは、そりゃどうも」
「褒めてへんよ?」
{name3}も関原につられるように笑う。
「{name3}はん、お昼はもう食べましたか? まだだったらぜひ白べこでお食べやす」
「牛鍋かぁ。今度藤田さんと食べにくる予定だったけど、誘われた手前折角だから食べてこうかな」
「あら? 藤田はんとお約束してらしたんですか?」
「いいえ。約束してはないけど、散々こき使われている分は奢ってもらわないと割に合わないと言いますか」
「ふふっ。そうなんですか。おもしろいこといいはりますね。わかりました。そんなら藤田はんにぎょーさん奢ってもらわないとあきまへんね」
「今度白べこにお金を沢山落とさせますからね、楽しみにしててくださいね」
「まぁ、頼もしい!」
和やかに笑い合う二人。{name3}の軽口に、笑う関原。彼の上司である藤田が聞いたならば、只では済まないが、ここにはその藤田はおらぬ。冗談を交えながら和やかに会話をする穏やかな日々の何気ない風景。夢のようだと{name3}は思う。少し前までの陰惨な幕末の京都は今や昔話だ。徳川主導の幕府は倒れ、明治と改められた治世。制限されていた異国との交流は撤廃され、新しい文化がこの街にもやってくる。そして、新しい日々。人々が何気ない一日を穏やかに、何気なくても一生懸命に、その日を過ごしている。もう道端に人を転がす日々は来ないのだろう。そっと腰に帯びた刀を撫でる。{name3}の目の前にいる市井の人が恐怖に陥れられることも嘆き悲しむこともない。ぬるま湯のような穏やかな日々を暮らす為の犠牲の果て。その果てに見えた景色がこの日常なのだろうか。
促されるままに白べこの店内に入ると、関原があっと何か気付いたようだ。
「そういえば{name3}はん急ぎの用とかなかった? 今日はどこか行く予定やったんです?」
「ああ。そういえば食事のついでに食器を買いに行こうと思ってたんだ」
食事の事に気を取られて当初の目的を思い出した{name3}。
「食器?」
「食器割ってしまってね。予備も前に割ってしまったままだったので新調するんです。よく見たら皆ボロボロだったし、いい機会だから全て新調しようかと」
「そんならこの通りをまっすぐ行って、角で左に曲がって四軒目のお店にいくとええよ。うちもよくお世話になってるお店なんです」
「へぇ、それはいいことを聞いた。ありがとうございます」
「先に買い物してからうち来ます?」
「うーん、そうだな。お腹減ったしに先にここで食べてから行こうかな……あれ?」
「? あら、外が騒がしい。喧嘩かねぇ?」
ふと店の外が騒がしいことに二人は気が付いた。思わず顔を見合わせて、合わせ鏡のように首を傾げる。店内に居合わせた数名の客と店員は互いの顔色を窺いつつ、店外の雰囲気を感じ取ったのだろうか、表情に翳りが見える。不安そうに外を気にする様子の客と店員。
{name3}は店内の雰囲気を感じ取って、戸口に静かに近寄るとそっと隙間を作り、様子を窺う。普段の市井の賑わいとは一変し、物々しさすら感じる。男の怒号や女性の悲鳴が轟き、穏やかではない。何らかの事件が発生したようだ。大橋の方へと駆けていく人やら何やらと。事態を収拾できる者がおらず、混沌と化している。状況を今一度理解しきれてはいないのだが、兎にも角にもこの状態で人々の不安を増幅させるままではいかぬ。非番だなんだと文句も全て飲み込む他ないだろう。
「{name3}はん」
不安そうに見つめてくる関原に、{name3}はにこりと微笑み、幼子に言い聞かせるように穏やかに話す。
「私が外の様子を見てきます。関原さんは危ないからお店の中で騒ぎが収まるまで待ってて、ね?」
「お巡りはん呼んできましょうか?」
「お気遣いありがとうございます。大丈夫、様子を見てくるだけです。その代わりに美味しい牛鍋用意しといてくださいよ?」
お道化たように言えば、関原の強張っていた表情が漸く解けていく。それを見て安心した{name3}もにこりと笑い、頭をポンポンと撫でて、いってくると再び外への扉を勢いよく開いて出ていく。
「泥棒! 泥棒!」
「泥棒?!」
白べこを出た途端に女の悲鳴が聞こえ、{name3}はハッとする。先程までの不明瞭だった状況が一気に開けていく。普段は穏やかな昼下がりの街中が騒然としていた理由の答えが転がってきた。その声を聴いて慌てて辺りを見回して見るが、往来に犇めく群衆に盗人が紛れて込んでいるためか盗人の姿が判然としない。木を隠すなら森の中とはよく言ったものだ。
「くそ、今日は人多いな!?」
感心している場合ではないと{name3}は改めて周りを見回すが、依然として往来は騒然とするばかりだ。あっちに行った、こっちに行った、怪我人が出た……あちらこちらで上がる不穏の声。この状況は不味い。身勝手な輩のために無関係な人々が巻き込まれている。それは許容できぬ。理不尽な事で泣き寝入りさせられるのを黙って見過ごすほどの外道でもない。だからこそこのままでは見逃してしまうと焦りが募る。それだけは阻止したい。
「あの男! 髪が長くて背が高い男! 捕まえて!」
叫ぶ声に弾かれたように振り返る。あまりにも騒然とした界隈。人でごった返した往来の中で誰が叫んだのか判然としない。致し方ない。叫んだ者を探すにも流動的なこの往来を探すには困難だ。盗人逃げられるのも不味い。手当たり次第探す他ないか。焦燥感に追い立てられながら周囲を見回すと進行方向に髪が長く背の高い男が立ち去ろうとしているのを発見する。
──見つけた
髪の毛が長く背の高い男。それらしき男の後ろ姿を発見する。立ち去ろうとする背中を見失わないように小走りを始める。犇めき合う往来を身体を捩らせながらするりするりとすり抜けていく。盗人は人の群れに紛れ込んだつもりなのだろうか。歩く姿は威風堂々としたものであり、{name3}はギリっと歯噛みをする。外套など羽織って随分と派手な男だ。憎たらしい。腹立たしさを押し殺しながら接近していく。往来の人々に紛れ込みつつ、気取られぬように注意深く尚且つ迅速に。人の流れの切れ間に出て、一気に詰め寄って男の腕をガシリと掴んだ。
「待ちなさい、あんたが盗人か?」
「あ?」
不意をつかれて驚いた表情の男。瞳の中に人影が映る。
この数年後の明治11年、明治東京で浪漫譚が始まるのだが、京都の明治浪漫譚は今ここから始まる──かもしれない。
往来に対峙する二人の男。一人は筋骨隆々とした巨躯の男、もう一人は巨躯の男と比較すればより
儚く見えてしまうような優男。どちらも眉目秀麗といった出立ちであり、スッと背筋が伸びた立ち姿。優男の方が巨躯の男の腕を掴んだまま離さないために、ちらちらと視線が注がれているのだが、当人たちはそれどころではない。
「──なんだって?」
じろりと切れ長の瞳が優男──{name3}を捉える。男の威風堂々とした佇まいに思わず口篭ってしまいそうな所ではあるが、{name3}も引きはしない。ここで引いてしまえば確実に人一人泣き寝入りする羽目になるのだ。それは看過できない。
「……あなたと特徴が似た男に物を盗まれたと叫んだ人がいて犯人を探しています。ただ情報が少ないので何か知っていることはないかと皆に確認しているところです」
「盗人? そんなもん知らねぇよ、俺は一介の陶芸家だぜ」
「陶芸、家……?」
{name3}は訝しく男に視線を送る。男の特徴は端的に言うなれば眉目秀麗、筋骨隆々。端正な顔立ち、切れ長の瞳、凛々しい眉、鼻筋のよく通った顔。その涼しげな顔立ちとは対称的に肉体は厚い。筋肉で隆起した四肢。真紅の襟を持つ白い外套はその風格を体現するかの如く。陶芸家と自称するその男を見ながら首を傾げる。一体全体どうしたらここまで筋肉を鍛え上げられるのかと疑問に思うほどの筋肉の鎧。美しい肉体美。{name3}のような優男では到底押してもびくともしなさそうな鋼の肉体だ。天と地の差である。
陶芸家と言われても{name3}のみならず他の者であっても訝るのは無理からぬ事である。
「何だ?」
男も怪訝そうに{name3}に視線を寄こす。
「いえ、士族の方かと思ったので芸術家の方とは思いませんでした」
「まあ当たらずとも遠からずだな」
「え?」
男はこほんと咳払いをする。
「ともかく、だ。お前が探している背が高くて髪の長い盗人だったか? そういえば、そんな奴が俺よりも前の方を走っていったのを見たな」
「ほんとですか?」
「あのなァ、嘘ついてどうすんだよ。大体なんでお前にそんなこと言われなきゃならねぇんだよ。警察気取りか?」
「一応警察関係者です」
「……」
「……」
「お兄さんっ! け、警察の方なんですか?!」
一人の女性が人を掻き分けるようにして息を切らせながら走ってやってくる。膝に両手をつき、ぜえぜえと息を切らした女性を見かねて{name3}は静かに近づいていく。満身創痍の彼女がふらりと倒れそうになるのを支えてやると、力なく彼女は礼を述べる。おそらくはこの女性が盗人の被害に遭った女性なのだろう。ここまで一生懸命走って追いかけて来た彼女を労わるように背中を擦ってやる。
「お嬢さん大丈夫ですか?」
「はぁ、はぁ……ありがとう。でも、泥棒は、その人、じゃ、ないの」
「……違うんですか?」
「鼠色の着物に柿渋の袴の……」
「鼠色に柿渋……?」
ちらりと横目で男に視線を向けるが、既に{name3}へと向ける視線が痛い。確かにこの男は背が高く髪も長いが着物の色はまるで違う。赤襟の外套など奇抜なものだ。{name3}は男の腕を掴んでいた手をそっと離して静かに後退しようとするが、今度はガシリと大きな手によって制止を余儀なくされる。
「……」
「……」
「何か言うことはあるか」
「……失礼致しました。他を当たります」
「おう」
男はまだ釈然としない様子ではあったが、{name3}の謝罪を受け入れたようである。一先ず女性の方に向き直ると、彼女に視線を合わせて安心させるように語り掛ける。
「お嬢さん、今度こそ捕まえてきますので警察署の方で先にお待ちいただいても?」
「え、ええ……でも」
「大丈夫です。こう見えても腕っぷしには少し自信があるんです」
任せてくれませんかと朗らかに笑みを浮かべる{name3}に、女は躊躇いを見せていたが、もう自分にはどうすることも出来ないことを理解していた為、{name3}の申し出に藁をも縋る思いで頷いた。
「しっかり捕まえてやれよ」
絶対に。一部始終を見守っていた男が念押しする。{name3}が苦笑いを浮かべながらも首肯すると、また群衆の声が一段と騒がしくなる。今度は何だ、喧しい。半ば呆れ顔で騒ぎの大きい方へ視線を振れば、走ってくる男達。若い男やら中年の男やらが入り乱れて走る姿は何とも得体の知れなさを感じる。今度は何の騒ぎだろうか。女性と外套の男、{name3}の三人は互いに怪訝そうに顔を見合わせる。気のせいだろうか、それとも。その男たちは{name3}と
外套の男の二人を目掛けて走ってきているような気がする。
「いたぞ、あそこだ! 長い髪の男!」
「どっちだ!?」
「髪が長くて……? ええい! 両方とっ捕まえてしまえ!」
──うおお!
雄叫びを上げながら突っ込んでくる男達。嘘だろ。これにはぎょっとした{name3}。想定外としかいいようがない。とんだ濡れ衣だ。まさか己が盗人と間違えられるとは。
「なんで!?」
「ぼーっとすんな! この場は逃げるぞ!」
唖然として立ち尽くしていた{name3}の腕を男は引いて走り出す。暫く男に引き摺られるがままでいた{name3}も我に返ってはっとすると、自力で地面を蹴って走り出す。「逃げたぞ、追え!」と後方から聞こえる声を尻目に、男と京都の街中を並走する。こんな筈ではなかったと思いつつも、今の状況ではどう足掻いたところで転がるように滑り落ちていく岩石を正面から止めようとする方が骨の折れる話である。あれでは話し合いどころではない。
「ったく、なんでこの俺がこんなことに……」
「こうなったらあなたと私で一蓮托生です。捕まる前に真犯人を先にしょっ引くしかないですよ。そうじゃなければこのままずっと鬼ごっこです」
「ちっ。めんどくせぇ」
「逃がすな! 追え、追えーッ! 盗人だ、盗人だ!」
混雑する往来。人混み縫うように通り抜けながら{name3}と外套の男は加速していく。地面を強く蹴り上げて、加速に加速を重ね、京の街を駆け抜けていく。{name3}たちが走り抜けていくのを人々は驚いたり、迷惑そうに顔を顰めたり、危ないと怒鳴り散らしたりしていく。彼らの言い分は尤もであるが、{name3}たちは御免と一言述べつつも逃げていく男の後を追いかけていく。人の隙間からそれらしき人物がちらりちらりと見える。ただ往来は人とすれ違うには窮屈なほどの人混みで、それが追いかける{name3}と外套の男の行く手を阻むため中々距離が縮まらない。
「不味い。この先は中山道だ」
「京都から出て行ってそのまま東に逃げる気だな」
「あの野郎……勝ち逃げする気か、許せん」
「詰めるにもまだ距離があるぞ。どうするつもりだ?」
「うーん……あ」
「あ?」
ニヤリ。どちらが悪党なのかわからないあくどい笑みを{name3}が浮かべたその隣で外套の男の顔も引き攣った。
それは獲物に狙いを定めた狼の如く。
* * *
京都の街を一人の若い男が駆けていく。その緊迫した表情に、すれ違う人々は何事かと怪訝そうな顔をして男を見送る。男は混雑する界隈を突き抜けていく。随分と前から街中を走り続けていて、息は浅い。足は疲労の色が濃くなっていく。それでも焦燥感が走れと叫ぶ。速く、速く。もっと速く。足よ、止まるな。動け、動け。急がなければ。すれ違う人々にぶつかるのもなりふり構ってはいられない。怒号が飛んでくるのも関係ない。兎角速く、速く、速く。早くこの街から抜け出さなければ──。
「!?」
「おっと。兄チャン、すまんけぇの」
三条大橋を渡り、京都の街から離れるために中山道方面へと走っている途中、曲がり角から出てきた男にぶつかり、思いっきり地面に転がる。勢い余って地面を転がった弾みで身体を強く打ち付ける。痺れる様な痛みに、舌打ちをする。ついていない。今日はぶつかってばかりだ。痛む身体を無理やり起こし、ぶつかった男の方を睨みつける。
「おい、痛えじゃねぇか!」
「大丈夫かえ? すまんのぅ、吹き飛ばしちまった」
男は困ったような表情で手を差し伸べる。大事ないかと柔らかく微笑みかける千草色の作務衣を来た男。頭には三角巾を巻いている。先程ぶつかった優男よりもこの男の方が体格はしっかりとしているが、まさか自分が吹き飛ばされるとは思っていなかった。奇天烈な言葉遣いをする男。背丈は五尺八寸約178cm程はあるだろう。ふわふわとした黒くて長い癖毛結い上げた若い男。年は二十代前半か半ばといったところだろうか。男と同じ年頃かもしれない。人当たりの良さそうな綺麗な顔はさぞかし女から好評だろう。気に食わない。腹が立つ。モテない男の僻みであることはわかっている。この目の前の男が何の気なしに手を差し伸べてくれていることもわかる。それでも屈折してしまった男は差し伸べられた手を叩き落とし、自力で立ち上がる。
案の定、手を弾かれた男は驚いて目を丸めている。
「気をつけろ、馬鹿野郎!」
「およよ、手厳しかね」
「何がおよよだ、気色悪い! さっさとどけっ! 俺は急いでいるんだっ!」
「逃がすかよっ!」
「おい馬鹿!! 俺の万寿!!」
「っ!?」
少し高めの男の声が飛んできて、ハッとする。もう追手が来たのかと慌てて振り向こうとした、瞬間、背中に重たい一撃。ドンとどつかれたような重い痛みで前のめりに転ぶ。ガシャンと甲高い悲鳴を上げて飛んできた酒瓶が割れて落ち、中に入っていた酒が周囲に華やいだ芳香を漂わせていく。
「ってぇ!!」
「引ったくりは良くないぜ、お兄サン」
引ったくりと呼んだ男に酒瓶を投げつけた{name3}は軽快な足取りでその男に近づいていく。蹲った引ったくりの男はげほげほげほと激しく噎せ返すと、ぶるぶると身体を痙攣させる。瞬間、胃液が逆流する。酸っぱい匂いに耐えかねて嘔吐。べちゃべちゃと聞くに堪えない音を立てて、まき散らす。浅くなった呼吸を整えようと息を荒げ、立ち上がろうとすれば、背中に容赦なく足が踏み降ろされて、地面へと縫い付けられる。ジタバタと藻掻き、起き上がろうとするが、カチャリと嫌な金属音が耳に響く。
「ひぃっ!?」
「観念してさっさと盗んだものを返せ」
落ち着いた静かな声で優男――{name3}は言う。その顔に表情はない。ただの無だ。無関心。怒りすらない。引ったくりの男の身体中には冷や汗が伝い、血の気がすっと引いていく。本能が感じている。この明治のご時世に刀を持ち、人に向けても何一つ顔色を変えない様子は明らかに異質だ。刀を持って昨日今日の若造ではない。引ったくりの男が知らない先の戦い幕末の動乱を知っているのだろう。下手したら命ごと引き裂かれてしまうかもしれない。心臓はどくどくと速く脈を打ち始め、緊張感が高まっていく。ただの優男かと思ったが、とんでもないことだった。幕末の亡霊だ。明治が始まってもう少しで十年経とうとするこの時代に、こいつはきっとその気になれば、人を殺めることなど何一つ悪だと思わないだろう。殺すことなど造作もないことだと思っている。きっとそうだ。殺される。殺らなければ殺られる。嫌だ死にたくない死にたくない。逃げなければ。
「面倒だなぁ、鬼ごっこはもういいだろう?」
首元に添えられた刀に、思わず喉の奥が引き攣る。刃先が首の皮に当たり、ぷつりと切れ、じわりと痛みで痺れていく。このままでは本当に殺されてしまう。
「うわああああああああっ!」
「っ!」
死にたくない。そんな思いが男の身体に起死回生の力を宿す。身体の底から力を振り絞って起き上がり、引ったくりが動けないようにと背中を踏みつけていた{name3}を跳ね飛ばす。火事場の馬鹿力だ。
一方の{name3}は反撃を食らうと思っていなかったのだろう。態勢を崩し、そのまま転がり込んだ。その拍子に手から転がり落ちた刀を男が奪い、更にもう一本脇差を引き抜いて{name3}が容易に拾えない場所へと飛ばす。形勢逆転だ。起き上がった{name3}の眼前に切っ先を突き付ける。追い詰められていた男は、相手の武器を奪ったことで少しずつ落ち着きを取り戻し始める。
「っ動くなよ! 動いたら斬り捨ててやるからな!」
窮地から解放された男は余裕が出て来たのか、ニヤリと笑う。追い詰められて気が動転してしまったが、{name3}とて丸腰ではどうにもならないだろう。もう一本の脇差も手の届かないところに投げ捨ててやった。取りに走るにしろ、それに抜く前に斬り捨ててしまえばいい。何も剣術は{name3}の専売特許ではない。男とて剣術を学んでいたし、それなりの腕前を持っている。丸腰ではない。男にも刀があるのだから、どうにか凌いで掻い潜ることは出来るだろう。ただで殺られることもない。それにいざとなれば、あの奇天烈な言葉を使う丸腰の男を人質にしてしまえばいい。他人の物を取り返しに来るようなお人好しの奴だ。どんなに昔強かろうとも今は腑抜けてしまっている、結局のところ甘チャンだ。
「財布を返せ」
「ふん。これは俺の財布だ。落とし物なら他当たんな」
「白を切るか」
「うるせぇな、俺の懐にあるもんは俺のもんだ!」
「大人しく従わないなら、従わせるまでだ」
「ふん! やれるものなら、やってみやがれ!」
男は刀を振り上げ、上段から一気に振り下ろす。剣術道場での成績はいつも上位だった。目録だって──
「っ!?」
「馬鹿か、アンタ。侍が丸腰では何もできないとでも本当に思っているのか」
目にも止まらぬ速さで引き抜いたのは刀の鞘であった。男が刀を上段から振り下ろしきる前に、鞘で弾き飛ばすと、低く踏み込んだ{name3}は懐に勢いよく飛び込んで突きを鳩尾に叩き込む。強烈な突きを食らった男は身体を弓なりにしならせて吹き飛ばされていく。先程までの自信は音もなく崩れていく。刀が無ければどうにでもなると思っていた。勝てるとさえ思い込んでいた。そんな傲慢な考えは一つの突きに塵と化していく。相手を見縊った男の完全なる敗北であった。
男の手から離れた刀は宙へ舞い、くるくると回転しながら落ちていく。{name3}は落ちて来た刀をそのまま手に取ると、{name3}の突きを食らって立ち上がれなくなった男の前に刀を突きつけた。
「この私が、逃がすわけないじゃないか」
あくまでも{name3}は冷静だった。圧倒的な力量差に戦意喪失しつつある男は、悪夢でも見たような顔で{name3}をみる。当初考えていた中山道を下って逃げてしまおうという気力は毛頭残っていなかった。
{name3}はぐいっと引ったくりの男の襟を引くと、懐を遠慮なく漁る。男の持ち物としては華やかすぎる女性のものらしき財布を見つけると、にんまりと笑う。
「警察から逃げられると思うなよ、兄サン」
「否。俺、そんな柄の悪い警官おらんと思うんじゃけど」
「俺もそう思う」
事の成り行きを見守っていた作務衣の男と外套の男は冷静に突っ込んだ。
21.05.18 『覆水盆に返らず』 初出
23.05.06 修正
サイト内創作物の無断転載禁止です。Do not repost.
閲覧後の苦情などは一切受けかねますので各自でのご自衛お願い申し上げます。
名前変換プログラムの仕様上デフォルト名が統一されていますが、作品毎に主人公の設定が異なります。
鍵付き作品は明治11年を西暦四桁。