おいしい夜の作り方

がその一報を受けたのは、昼下がりのまどろみの頃である。
 午前中の業務に一区切りをつけ、遅い昼食を取っていた。コンビニで買ったサラダチキンと紅鮭のおにぎりを片手に、私用の携帯電話をチェックをしていた。
 私用の携帯電話を眺めていれば、不在着信が入っていることに気がついた。一体誰だろうか。不思議に思いながら、着信履歴画面を開くと、”公衆電話”と書かれていた。
「うわぁ……なんて面倒くさい……」
 このご時世に携帯電話ではなく公衆電話を利用する知人の姿を思い浮かべ、これはやってしまったなァと肩を落とす。
 何せ相手はこのご時世において携帯電話を持たない人物だ。家には固定電話すらない。時代錯誤もいいところ。どこの仙人だと思わず悪態の一つもつきたくなるほどだ。
 一度電報を打って連絡を取ったことがある。その人物との共通の知人にそれについて愚痴を一つ漏らしたときには、ヒィヒィと腹を抱えて笑われた。今時電報と笑いすぎて苦しそうにしていたが、としては正直しゃれにならない。頭が痛い。頭痛が痛いどころの騒ぎではない。
「せめて留守電だけでもいれてくれよ……」
 さてはて、どうしたものだろうか。携帯電話を片手にごちる。相手には連絡先は教えてあるが、こちらから連絡のしようがない。その着信があったのは正午を少し過ぎた頃合い。ということは、昼休みだろうと踏んで相手が連絡を寄こしたということだ。2時間ほど前に電話を掛けてから一度もかかっていない所を鑑みるとそこまで緊急性を持ったものではないだろう。よほど急を要するならば相手から何度も電話を掛けてくるはずだ。着信履歴の”公衆電話”の文字は一度きり表示されただけで、が再び履歴を確認するまでの間に連絡が入ることはなかった。
「――一体、何の用だったんだろう?」
 電話してきたであろう人物が、緊急を要する電話を寄こすのか。と言えば、甚だ疑問である。先程も述べた通り、相手は時代錯誤も良いところの山奥で一人暮らしをしているような人物だ。自給自足を不思議と成立させている相手だ。他人の手を借りずとも到底一人で生きていけるような超人。腹が立つほど完璧にそつなくこなす人物なのだ。
 そういった人物がわざわざ電話を掛けてくるというのは想像しがたいのが実情である。一体どういう状況なのだろうか。一応に連絡先を教えはしたものの、便りのなければそれに越したことはない。
 そんな風に思っていたので、リアクションが取りづらいのが本音である。何か用事があった時に連絡できればいいような感覚でしかないのだ。
 そもそも、彼が携帯電話の一つでも所持していれば、万事解決なのである。いい加減に携帯電話だけでも持ってほしい。ただでさえ少ない休日に連絡のつかない相手を探しに軽登山は正直しんどい。

「――うーん。仕方ない、今日は早めに帰れるようにしておいて、連絡待つか。それか登山か……うわァ……行きたくねぇ」
「先輩、休憩中すいません! 緊急です!」
「はいはーい。今行くよ」
 ラウンジの入口に顔を出した後輩に、さっと手をあげて応える。
 携帯電話を上着のポケットにしまい込む。もう片方の手でおにぎりを一気に口の中に押し込んだ。お茶で更に流し込むと、急ぎ足でラウンジを出ていく。
 そうして慌ただしく過ごしていく内に、すっかりと電話のことは忘れ去られていく。


***


「遅いじゃねえか、。女がこんな遅くまでで歩いてんじゃねえ」
「――何ですか、比古の旦那。勝手に人の家に上がり込んで。しょっぴきますよ」
 トンネルを抜けた先は雪国であった。
――というような情緒はなく、自宅の鍵を開ければ、大男が待ち構えていた。
 例の仙人である。
 彼の名は比古清十郎。最近は新進気鋭の人気陶芸作家・新津覚之進としての名の方が有名であろうか。
 黒漆のような艶やかな長髪。四十を超えたとは思えぬような美しい造形の顔立ち。筋骨隆々とした巨躯。群青の着物。黒の袴。肩には月白の羽織。――兎にも角にも、大柄の男だ。
 そんな出で立ちの大男が腕を組み、仁王立ちで待ち構えていれば誰だって一度とならずもドアを閉めるだろう。
――否、本当は今の今まで電話をもらっていたことを失念していたから決まりが悪いだけだ。
 しかし、彼はそうはさせまいと締まりかけたドアを片手でグッと押さえ、反対側の手での手首を掴むと一気に引き寄せた。異なる極の磁石を近づけた時の勢いよくくっついていくような強い力だ。
 がごつんと比古の分厚い筋肉にぶつかって怯んでいる間に、彼は退路を断つように扉の金具を落とす。
 その音にハッと背後へと視線が飛び、すぐさま比古へと視線が戻っていく。流れるように一瞬で扉を閉められてしまった。
 ――これが神速を超えた超神速か。などと軽口を叩くが、圧倒されていただけである。
 鋼鉄のような肉体をぐっと押し返して体勢を立て直せば、彼はあっさりと掴んでいた彼女の手首を解放する。その代わりにじっとりと不満げな視線がの身につき刺さしていく。きっと待ち惚けを食らったことに聊か腹を据えかねているのだろう。
 その無言の圧力に耐えかねたが降参だと両手を挙げる。
「(電話あったの完全に忘れてたわ……)えっとそれで、何故――」
「お前が、鍵寄越しただろう」
 大きな溜め息を吐いた比古はやれやれと呆れた表情での前に鍵をちらつかせた。
 言われてみれば、仕事柄帰らない日も多いから街に降りてきた時のホテル代わりに利用していいと渡したような気もする。どうせ寝に帰る家だ。もしも鉢合わせようとも女に困るような醜男でもない。
 鍵を渡しはしたものの、彼は人嫌いの気があるから、他人の領域に入ってこないだろうと予想していたが、どうやらそうでもないらしい。意外ではある。
「俺に何か言うことは」
「明日は嵐かな?」
「ほぉ? 俺に喧嘩売ってんのか」
「――冗談です。お久しぶりですね。ご心配おかけしました。長い間お待たせしてすみません、ただいま帰りました」
「――おう」
 彼はの言葉にこくりと頷くと、ぬっと太い腕を伸ばした。唐突に伸ばされる腕に、は驚いて半歩足が後退する。ゴンと鈍く背中がドアにぶつかる。何事だとは思わず身を硬くしたが、ぽんと頭に手が乗せられた。疑問符を浮かべる間もなくさらさらと頭を撫でられる。
 ――頭を、撫でられた……?
 思い掛けない行動で、ピクリとも動けずにただ呆けてしまった。ぽかんと開いた口がふさがらなかった。
 どういう意図で彼は自分の頭を撫でたのか。頭を撫でられるようなことはしていない。それなのになぜ撫でられているのか。その意図がわからない。何かの思惑があって撫でたのか。
 の頭の中は疑問符の濁流でぐるぐると渦巻いている。その面映ゆさに顔がひくひくとひきつっていく。
 そんなの思考を知ってか知らずか、比古は感触を確かめるような緩慢な手付きで彼女の頭を撫でる。
 その表情はいつも通りの仏頂面ではあるが、どこかを見据えるその視線は慈愛に満ちているような気さえする。共通の知人がいるというだけの薄い関係であるはずだが、随分と寛容な態度を取るものだ。それが少しばかり気怠い。
 信用はしているが、本当に信頼するような仲ではないと思っていたのだ。ただの共有の知人を通した知り合い。近すぎず、かといって遠すぎることもなく。ほどほどの距離感が一番心地よいと思っていた。
 比古のどこか柔らかく見守るような、包み込むようなその眼差しを素直に受け入れるにはまだ躊躇いが生じてしまう。こそばゆく、落ち着かない気持ちが、の視線を宙に彷徨わせる。
 決まり悪い。が渋い顔をしていれば、頭上からふっと息の漏れるような笑いが聞こえてくる。徐に見上げると、それを遮るようにぐしゃぐしゃと荒々しく頭を撫でられる。
 いきなり何だ。
 が抗議の意を込めて、彼をじっとりと見据えれば、当の本人は一頻り何かに満足したようだ。何事もなかったかのように彼は踵を返して部屋の奥に向かって歩いていく。も慌ててパンプスを脱いでその後を追う。
「……怒ってない?」
「は?」
「あ、いえ……気にせず……」
「? 早く中入れよ」
「いや、私の家ですが……」
 連絡も付かずに待ちぼうけを喰らっていたはずだが、特に機嫌も悪い様子はなく、軽口を叩いてもそれ自体に大した反感もなさそうだ。寧ろ、夜遅くに帰ってくることに対して不満があるようだ。仕事柄仕方がないことであると自身は思っているのだが、心配してくれているらしい。他人から心配されるということは実にこそばゆい感覚だ。
 ――随分と大きな手だったなァ。
 ぽんと、撫でられた頭に触れてみる。随分と大きな手の感触であったなと、もしゃもしゃと乱れ髪を整える。
 スキンシップを取るのはあまり好まない方である。しかし、不思議と彼に撫でられるのは深いではない。
 少しだけあの男が、超人たらしめる男が自分を認めてくれている気がして、気分がいい。少しだけ、愉快だ。

 静かに視線を比古に移せば、いつの間にか、ぼんやりと考えているを見下ろして首を傾げている。思考の水底に沈み、無反応のを訝しんだのだろう。
「比古の、旦那?」
「ぼーっとしてどうした? 疲れてるのか」
「あー、ちょっとだけ」
「だろうな。いつもより顔がブサイクだ」
「は、はあ……(何言ってんだこいつ)」
 の両頬を包むように、比古の武骨な手が這う。目の下の皮膚をぐいっと親指で伸ばす。じっと瞳の奥を覗くように顔を近付けられる。もぞもぞと居たたまれなさに、目を泳がせていれば、こちらを見ろと叱責する。観念したように気怠い瞳を引き摺った。反転する自分の姿。その深層に宿る衰えぬ閃光。ぎくりとする。
「ちゃんと栄養とっているか?」
「――え、ええ。」
「偏った生活してんじゃあないか。俺はもう少しふくよかな方が抱き心地がよくて好きだぞ」
「おい、しょっぴかれたいか貴様」
 ぺたぺたとの体を触って心配しているのだかわからない小言を言う比古。
 神妙な顔でをしている彼に、なんだか色々とごちゃごちゃと考えるのが馬鹿らしくなってふっと笑いを漏らすと、その手をそっと退けて彼の肩にこつりと頭を乗せた。
――まァ、少しだけ寄り添ってみるのも悪くはない、かもしれない。
 その筋骨隆々とした巨躯に目一杯腕を巻き付ければ、静かに息を飲む気配がした。
――ほら優しい。
「――
 宙を彷徨っていた腕が意を決したように、の背に回る。みしみしと軋む体に、苦笑してぐりぐりと肩口に頭押し付ける。
「少し、休憩です」
「そうか」
「ごめんなさいね、電話取れなくて」
「気にすんな」
「――ああ、ここにいてくれて良かったです。疲れた体に登山はキツい」
「お前が俺の家に住めばいいだろう」
「嫌ですよ、さっさと文明開化しましょうよ」
「はあ? 冗談じゃない。こんな人の多い所なんざ」
「その割りに、私のところには程々に来ますよね」
「……たまたまだ。俺の陶芸品が欲しいやつらと打ち合わせする拠点には丁度良い」
「――そうですか、新津せんせ?」
 それが可笑しくて小さく笑みを漏らせば、笑うなと決まりが悪いのを誤魔化すように、ぐしゃぐしゃとの髪を乱雑に撫でる。照れ隠しにしてはベタベタだが、そういった人間らしいところは少しばかり安心する。
「――そういえば、正午頃にお電話下さったのは何用でしたか?」
「久々に山下りてきたから、飯でも食いに行こうと思った」
「そうだったんですか? おすすめの食事処の場所が知りたかったんですか?」
「違う」
「違う」
「そうじゃ」
「そうじゃ」
「な……ばっか! ちげぇよ! お前だお前!」
「? 私?」
 ぱちくりと瞬きをすれば、ハッとした比古が珍しく歯切れの悪そうな物言いをする。
「……お前と一緒に飯が食いたかったんだよ」
「――もしかして、たかるきでした?」
「はぁ……ほんとお前って……クソ……何で俺がこんな……」
「どうでもいいですけど、ご飯一緒に食べるなら有り合わせのものでも良いですか?」
「お前、ほんといい度胸だよな」
「超人に下克上したいのはいつの日も同じです」
「ちょっと黙れ……」
「へい、作ります」
「はぁ……もう作ってある」
 手洗って座って待ってろ。
 そう言って、リビングのドアを開けてキッチンの方に入っていった比古を見送り、も言うとおり手を洗って早々に席に着く。
 テーブルの上にはホットプレートが乗っており、既に熱気が立ち上り始めている。
 ――もしやこれは。
「お前、この間にお好み焼き食べたいってボヤいてただろう」
「え!? あれ……!?」
 キッチンから出てきた比古は腕にボールを抱えながら、片方の手で練り練りと泡立て器で生地を交ぜている。が普段使っている黒のエプロンと何故か三角巾をつけている姿に、ひくりと口端が痙攣する。
 窮屈そうなエプロンと学生の調理実習かと反応してしまいそうになる三角巾。確かに飲食店ならば三角巾も可笑しくはないだろうが、あまりにもイメージのない男が着用するには絵面の暴力だ。あまりにも見慣れないものはどうしても滑稽に映ってしまう。飛天御剣流は陸の上の黒船と言われる所以か。絶対に違う。
 少しばかり往生しそうな穏やかな気持ちになって、ふと乾いた笑いをする。
 どうかしたかと43才は絵になる首の傾げ方をする。
「どうした?」
「いや、比古さんって料理できるんですね」
「は? 当たり前だろ、天才にできないことははない」
「――だったら、いつも料理作らせるの止めてくださいよ」
「却下。お前がいるときはおまえに作らせる」
「はあ……?」
「ほら、焼くぞ」
 サラダ油を鉄板に垂らし、へらで鉄板全体に伸ばして馴染ませていく。熱した鉄板がじゅうと活き良く鳴いて、湯気が上がる。その上に先程まで泡立て器で練っていたお好み焼きのタネを落として円上に広げていく。
 練られたお好み焼きの種の中には豚肉やじゃがいも、キャベツ、小エビ、刻んだイカなどが所狭しと雑居している。
 じゅうじゅうと小気味よく焼ける音に、空腹が沁みる。いい匂いだ。これにソースを掛けたらまたいい案配なのだろう。
 思わず唾をごくりと飲み込めば、比古はにやりと不適に笑う。
「おいおい、お楽しみはこれからだぜ?」
「わ!? 卵だ!?」
 好物の登場に思わず、目――普段はほぼ死んでる――をきらきらと輝かせる。
 これには、比古も驚いた。
「卵好きなのか」
「好き。万能ですよね、何でも合います。3食卵料理でもいい」
「それは止めとけ」
「……だめ?」
「――――だめだ。バランスよく食べなさい」
「ちぇーっ」
「そろそろひっくり返すか」
「お願いしまーす」
 の気分の向上を見て、満更でもない比古は軽快にお好み焼きをひっくり返す。おおと歓声が上がる。
 程よく焼けた面が現れて、その上からはけでお好み焼きの特性ソースをたっぷりと塗る。更にあおさのり、鰹節、特性マヨネーズを掛ける。
 鉄板に垂れたお好み焼きソースとマヨネーズが小さくはじけてそれはまた、芳ばしい音と匂いを漂わせ始める。
 もう少ししたら完成だと比古は満足気にしている。
「せんせ。一杯如何ですー?」
「洋酒か?」
 いつの間にか冷蔵庫から瓶と炭酸水を持ってきた。にやっとだらしなく笑う。
「ハイボールです。ビールは少し苦手で……後日本酒と焼酎は切らしててね」
「もらおう」
「そうこなくっちゃ!」
 鼻歌交じりに氷の入ったグラスに炭酸水とハイボールを注いでいく。
「比古さん」
「あ? もう焼けるから待ってろ」
「今日は食事に誘ってくださりありがとうございます」
「……ああ」
「また、お好み焼き食べましょうね」
「まだ喰ってねえだろ」
「おいしいに決まっていますよ、お願いしますね」
「――考えておいてやるよ」
 できた。
 目玉焼きを乗せたお好み焼きを切り分けて皿に乗せる。ハイボールの入ったグラスをかしゃんと酌み交わせば、晩餐の始まりである。
ホクホクのお好み焼きに美味しいと下包みを打つ。得意気の比古。

 実は昨夜、比古の弟子が偶然帰ってきていて、一緒にお好み焼きを食べに行ったとは口が裂けてでも言えない。

19.03.28 初出 『おいしい夜の作り方』