その同居人と比古は生活習慣が異なるため、基本的に顔を合わせる機会は少ない。同じ屋根の下に住んでいる筈であるが、おもしろいぐらい顔を付き合わせる機会が少ない。それは皆既日食といったような感じだろうか。少々大袈裟な物言いではあるが、仕事場に泊まり込みで帰って来ないこともしばしば。
そのため、前回まともに顔を付き合わせたのはいつ頃だっただろうかと記憶が曖昧である。同居している筈であるのに、一人で過ごすことが多いせいだろう。久々にその姿を見た瞬間狐に摘ままれたのだろうかと思わず二度見をした。
新進気鋭の人気陶芸家・新津覚之進として活躍する比古と警察官として働く同居人。
フレキシブルに働く比古とは異なり、忙しなく働く同居人は家を数日開けることもしばしば。帰宅する頻度が低いために、比古とこうして鉢合わせることは珍しいのである。
「――?」
比古は確認するように同居人・の名前を呼ぶ。倒れているにゆっくりと近付いていく。様子を窺うために目の前にしゃがみ込んでみるも、全く反応はない。気配に過敏な彼女が他人の接近に気づきもしないという状況に聊か驚いたが、寝息が聞こえるところ鑑みると、相当の疲労困憊であるということなのだろう。
「おい」
突っ伏したまま動かないその同居人に、比古はぶっきら棒に声をかける。しかし、相変わらずピクリとも動かない。再び「おい」と声を掛け、つま先でつついてみるがそれでも反応がない。同居人のタイトスカートをめくってみても、ピクリと反応もしない。やはり相当疲れがたまっているらしい。戯れに黒いストッキングを引っ張って脱がしてみる。びりっと裂いてしまっても依然として眠っている。戯れに裂け目から少しばかり筋肉質な脹脛をさするが、やはりぴくりともしない。あまりにも深く寝入っている姿を目の当たりにし、それで警察官が勤まるのかと呆れるが、裏を返せば比古に対してそれだけ無防備な姿を晒せるほど心を許しているということである。
今でこそ彼女は随分な醜態を晒しているが、出会った頃は寸分の隙もあったものではなかったし、今よりも頑なであった。比古も舌を巻くような刺々しさがあった。他人などに容易に心を明け渡すものかというような、いやに平淡な瞳で比古を見つめていたのを昨日のことのように思い出させる。
「(こちらの気も知らずに穏やかに眠りやがって……)」
懐かない猫が懐いたようで内心ほくそ笑むも、比古も男であるから気のある女が自分を信頼して無防備な姿を見せていることは嬉しい反面、複雑である。
裂けた黒のストッキングから覗く肌の色やスカートの裾のラインや浮き上がる体のライン。血色が少し悪いが無防備な半開きの唇。柔らかそうな体。据え膳。久方ぶりに会ったのだから、こんな再会はあんまりだ。彼女に触れたいと、そういった欲望はあるわけであり、数少ない時間を共有したいという思いもある。
これは無茶をする女だ。便りのないのがよい便りなどというが、そのまま仕事に出て行ったまま帰ってこないのではないかと思わせるぐらいの危うさを常に孕んでいる。この天才の隣に立ち続けようとするあまりに無理を押し通しかねない。それ故に、こうして無事に帰ってきたときぐらいは甘やかしてやりたいと比古は思うのである。もちろん、こそばゆくて素面の時には言えもしないのだが。
「ほぉれ起きろ、。こんな所で寝るんじゃあねぇよ」
の顔をのぞきこむように顔を近づけ、ぺちりぺちりと頬を優しく叩く。
「。起きろ。女がこんなとこで寝るんじゃあねえ」
「う゛う゛っ……馬鹿力……じじぃ……」
「ほぉー? そんなに抱き潰して欲しいんだったら早くそういえよ」
「やめてください……しんでしまいます……わたしが」
「――ったく。寝るならベッドにしろ。風邪を引く」
「ん」
ごろりと寝返りを打ったが、額の上に腕を乗せて電灯を眩しそうにしている。その日陰の中の双眸がぐるりと動き、比古の姿を捉える。舌足らずの瞳がとろりと溶けるのが見え、比古は思わずごくりと生唾を飲み込んだ。ぞくぞくと腹の底から煮え湯のように沸き立っていく高揚感が体の芯を毛羽立たせる。
そのとろりとしたその瞳がすっと細長く引いて、比古の無骨な手に頬ずりをする。甘えるようなその仕草に、ピクリと手を動かしかけるが、満身創痍の女に対して劣情を抱くのは感心したことではないとすぐにふるふると頭を降る。
「せんせえ?」と普段の軽口さえも身体が過敏に反応するのであるから、存外、自分はこの女の事を好いているのだと思い知る。ぼんやりとしているその女の頬から輪郭を優しくなぞり、親指で唇を愛撫してやれば、彼女は擽ったそうに笑う。
そんな彼の機微など露とも知らず。は比古に向かって両手を広げ、にんまりと普段は浮かべない気の抜けた笑み浮かべている。酒でも呑んでいるのかと思うくらいに今日はふわふわと覚束ない様子だ。余所からはクールビューティなどと言われているが、その面影は見いだせない。
「せいさん」
「? どうした?」
「せいさん」
「?」
「だっこ」
「……」
「少し、疲れてしまいました」
「……ほんと、仕方ねえな」
「ありがとうございます」
力無く笑う彼女。仕方ないと呆れたように言ったが、比古も満更でもない。
腕を脇下に潜らせて抱き締めると、彼女の首筋に顔を埋めてすんと鼻を啜る。好いた女の匂いがする。それは心地の良い匂いだ。思わず嗅いでいたくなるような、愛おしい匂い。ぬるま湯に浸かるような体温も愛おしい。
「くす……どうしたの、にいつせんせえ。わたしがいなくてさびしかったのかい?」
「バカ言うな。おまえ。放っておくとのたれ死にそうだから、俺が甘やかしてやってんだよ」
「そうか……それはありがたいね」
「ふん、この甘ったれめ」
「せいじゅうろう、さん」
「あ?」
「ありがとう」
抱き上げたその女は穏やかに、慈しむように比古の両頬を包み込むと手のひらで弧を描くように撫でて、徐に口付けをする。それはまるで祈るように、儀式めいた神聖さを醸し出していて、はっと息を飲み込んだ。
は比古の下唇をぺろりと舐めると、比古の瞼を塞ぎ、口づけを優しく落としていく。
「お、おい!」
「今度は私があなたを甘やかすことにしますからね」
覚悟しておいてくださいな。
愉快だというように笑ったは、冬の夜空よりも美しくうっとりとした表情で微笑んでいた。
おやすみなさいと腕の中で再び眠りに落ちていく彼女に、やれやれと深いため息を付きながらも、明日は彼女の言うように甘やかしてもらおうかと一人ほくそ笑む。さっさと寝間着に着替えさせると、彼女と共に同じ布団の中に潜り込むのであった。
翌日、もぬけの殻となった隣の温もりを撫で、今度は問答無用で抱き潰して縫い止めてやろうかと次の休日の算段を立てるのである。
今日の清凛
リビングで寝落ちているのを発見。ベッドまで運んであげようと腕に触れたら起こしてしまった。「ベッドで寝よう」と声を掛けるとヴ?んとか言って抱き着かれた。甘えんぼさんめ。
#今日の二人はなにしてる
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19.02.05 初出 『ハートのため息』 title by:まほら様