半歩先を歩く男と半歩後を歩く女。その足取りはゆったりとしており、夜の散歩を楽しむような足取りだ。彼らは酔い覚ましがてらに歩き始めたつもりであったが、ひんやりとした夜風が火照った体には存外心地が良く、ほろ酔い気分の体に染み渡るのが一層心地よく感じていた。
今宵は静かな夜だ。静寂に包まれた夜道、煌々と光る月、その傍らのはにかむように笑う星。夜風に揺れて触れ合う木々の葉。
薄暗い道を温かく照らす小さな弓張提灯が歩く振動で揺蕩って、それがまるで今のほろ酔い気分を表すかのようで少しだけおかしい気持ちになる。
酒のせいで柄にもなく浮ついているのだろう。酒は良い。特にうまい酒を飲めたならばなおさら気分が良い。
二人の間に会話は一切ないが、酒宴の余韻としては気にはならない。酔いを溶かしていくように、ふうぅっと長い息を吐きながら、黙々とただ歩くのである。
「せいさん」
「どうした?」
くいっと後方から袖を引かれ、足取りを止める。振り向いてみれば、神妙そうに男を見つめる女。じっと何かを求めるような――……そんな目をしている。
しかし、男にはてんで皆目見当がつかない。何故ならばこの女は他人に何かを求めるということをしない。自己完結できることはすべて自己完結させるし、他人の手を借りるということも極力しない。
そうやって線引きをする女が、このように懇願する姿を見せるのは得も言われぬ気分だ。何を求めているのかは些末な事として、こういう女に求められるというのは存外に、腹の底がぞくぞくとする。求められているというのは吝かではないのだ。
「せいさん」
「どうした、?」
少し眠たそうな、とろりとしたような瞳がじっと比古を見つめている。その顔は少し赤らんでおり、吐息で唇を静かに濡らしている。
うまそうだなとじっと唇を見つめていれば、清十郎さんとむっとした表情の女が、がしりと男の顔を掴んだ。そして、返事をする暇もなく。ぐっと顔ごと引っ張られると、女の顔が目の前に迫った。
ふにっと柔らかい感触が男の唇に当たる。それが今し方までうまそうだなと眺めていた女の唇であることに気づくにはそう時間はかからなかった。
ちゅっと軽く唇を吸い、あっさりと離れた彼女の顔を呆然と見送る。それは想定外の行動であった。まさに寝耳に水と言った状態で、比古も驚きのあまり反応ができなかった。
「――?」
「察してくださいよ。何が飛天の剣ですか」
「は? え? おま、え?」
「私はね、どうでもいい男と二人っきりで酒は飲みませんよ」
目を細めて笑う彼女は男の唇を指で優しくなぞると、ぺろりと舌なめずりをする。その瞬間、ぞくぞくっと腹の底から湧き上がってくる高揚感。
線引きする女に大して無理強いなど恰好がつかないと泳がしていたが、これはこの女からの宣戦布告だ。ならば、これ以上手加減してやる義理もない。たとえ泣き喚こうが、何しようが、逃がしはしない。
ペロリ。なぞられた唇を舐め、ふらふらと先を歩き始めていた女にずんずんと近づいていく。腕を引き、強引に振り向かせると、丸い瞳が比古へと向いた。
「……比古の旦那?」
「俺を本気にさせたんだ、覚悟は良いよな」
「え? ちょっと、まって……」
「お前こそ察しろ」
「っ~~!」
二の句を継ごうとするその唇を塞ぐ。女の唇を舐め、舌を割って腔内へと滑り込ますと、ちゅうとわざとらしく音を立てて舌を吸った。旨そうだなあと思った見立ては悪くない。骨の髄までしゃぶりつくしてやろうかと、逃げようとする舌に食らいつけば、思いっきりの力で足の甲を踏みつけられた。
19.04.22 初出 『夜明けの祝杯』