きみの明星にふれる

 斜陽が入り込んでいたその部屋も遂に明かりが差し込まなくなってしまった。窓から辛うじて見える水平線は橙色の膨張し、上空へ向かって濃紺にグラデーションしていく。
 校庭ではサッカー部の生徒たちが練習に勤しみ、時折第2グラウンドからはボールを打つ金属音の切れの良い音が聞こえてくる。体育館からはバレーボール部やらバスケットボール部の威勢のいい掛け声、別棟の校舎からは吹奏楽部のトランペットやパーカッションなどが飛んだりはねたりしている。
 そんな喧騒にひっそりと耳を傾けて、窓辺の机に身を預ける。静かに息をついて、乱雑に開けた包み紙から一粒チョコレートを摘まむ。自分で作ったトリュフチョコは少しだけ、苦い。コロコロと指先で転がして、ぴんと弾くと窓の外の夕闇へと飲み込まれていく。
「おい。物を粗末にするな。今外に何か捨てただろ」
「……せんせ」
 チカチカと瞬く。人工光が一瞬に内に輪郭を撫でていく。大量の光が押し寄せ、眩しさに目を窄め、は腕枕からそっと身を起こし、気怠い視線を向けける。
 そこには筋骨隆々とした一人の男が立っていた。この男はこの学び舎の教師であるが、見た目が体育教師であるのに実は美術科の非常勤教師という何とも奇妙な男である。その手には大量の紙袋を提げたれており、中には誰もが知っているハイブランド洋菓子店の名前の入った紙袋も視認できる。目視できるだけの分でも両手で数えられる数を優に越しているようで、それだけその男・新津覚之進の人気の高さが窺える証拠でもあった。確かに新津の顔はその筋肉質な肉体の割に小綺麗に整っているし、ぶっきら棒な割に生徒に対して面倒見もよいと聞く。そういった観点も踏まえた上での人気の表れがこの洋菓子店の福袋の量なのだろう。沢山の貢物に特に浮かれた様子もないが、満更機嫌も悪いようではない。
 そんな新津が目の前に現れる中、薄暗い教室で一人、チョコレイトをつついていたは酷く虫の居所が悪かった。その上、居心地の悪さは最上級だ。にしてみれば人を避けるようにしてこの無人の教室で一人物思いに耽っていた。第三者が近付かないような場所を敢えて選んだ。それをいとも簡単に見つけられたのだ。よりにもよってが一番見つけられたくない相手である。
--ああ腹が立つ。
 ぎりりっと奥歯が擦れる。の気持ちも知らず、否、知っていて敢えて。新津はこの教室へと無遠慮に侵入する。教卓の上に沢山の紙袋の山を置いて、がどれほど威嚇しようとも素知らぬ顔での前までやってくる。嫌味なほどしなやかな足取りで歩く新津を忌々しく思っていた。
「随分と人気者ですね、センセ」
「俺のこの美貌だからな、当然だ」
 得意気に歯を見せて笑う新津にはニコリともしないが、新津も新津で調子を崩さない。
「なんだ妬いてるのか」
「焼かれたいのかい」
「お前の過激なところ、愛情の裏返しで俺は好きだぜ」
「減らず口」
「--なァよ。いい加減にこっち向けよ」
 とん、と机が揺れる。机の上に片手をついて乗り出すようにに近付いた新津。吐息が交わるぐらいに近い距離。されどこの距離は何よりも険しい。頬杖を付いて窓の向こうを見据えるとそれを神妙な顔で見つめる新津は決して交わらない。のちろりと舐めるような一瞥は冷然としており、とても甘い雰囲気とは程遠く、寧ろ、今にも殺人が起こりそうな殺伐とした空気が漂い始めている。
「アイツに渡したのか」
 殺気の籠もった視線が鋭く新津に突き刺さる。
「貴方には関係ないだろう」
「やっとこっちを見てくれたな」
「センセ」
「あいつ。俺に結婚する、と報告してきたぞ」
 の顔から一切の顔色が消え失せた。それは能面のそれとよく似ている。その瞬間を新津が見逃すはずもなく、の両頬を掴むとゴツと軽く頭突きするように額を合わせ、その双眸を覗く。そして、淡々と言葉を紡いでいく。嫌に耳障りの良い低音で、それは子どもの言い聞かせるような耳障りの良い静かな声だった。
「お前の好きな男は、結婚するんだ」
「…………」
「お前じゃない他の女と。結婚--」
 ギリギリと歯噛みする音が大きくなっていく。限界まで膨れた風船が弾ける。その如く。ガタンと勢いよく立ち上がった衝撃で椅子が引っ繰り返る。額をゴンと押し返して声を荒げる。
「煩い! 煩い! 煩い! そんなことわかっているわ! あの人が私を好きにならないことなんて!」
 聴きたくないと勢いよくが新津の手を払いのける。その憎悪に塗れた瞳が灼熱に燃ゆる。そのガラス玉に滔々と揺らめく憎悪は新津を映し、今にも業火で燃やそうとする。それはまるで稜線を燃やす太陽のようだ。轟々と煮えたぎった怒りや憎悪、悲哀を綯い交ぜにしたその感情は痛ましいまでに咆哮した。

「煩い!」

「聞きたくない!」
 泰然とした態度の新津は、ただ、ただ、悲嘆するを見つめている。触れようとしてはに手をはじかれ、尚も、彼女に触れようとする。その度には忌々しそうに、時折、悲しそうに顔を歪めていたが、それでもなお新津は何も言わない。ただ一心にに触れようとするだけである。
 何度拒もうと触れてこようとする態度に辟易としながらも触れられることを拒んでいただが、ふっと一瞬で我に返ったかのように怒気を帯びた表情を無へと返る。じっと新津の瞳に映る自身の姿を見ているようであった。
 地を這うような声が震える。
「--……解っているさ。私はあの人にとって所詮は妹にすぎないのだろう。それでも、それでも……」
 一瞬灯った憂いが、まもなく怒りに焼き尽くされる。
――好き、だった。
 空気を震え、言葉が静寂に飲み込まれていく。今まで外で聞こえていたすべての音が一瞬、飲み込まれたような感覚であった。ほろりと切ない白昼夢のようだった。
 浅い呼吸を繰り返すの瞳孔はぐらぐらと揺れ、噛み締めた唇からは真紅の血が滴り落ちていく。沢山の感情を綯交ぜにしたその表情は苦悶の表情へと変わっていく。
 唇を噛むなと新津がの噛み締めた唇を指先で柔やわと解していく。
「解ってねぇよ」
「……何」
「あいつはお前の男にはならねぇよ」
「だからそれはっ」
「お前は俺のだろう」
 はその言葉にひゅっと息を飲んだ。冷水を浴びせられた心地であった。
 彼女にとって望まない許嫁の関係だった。で彼の人を好いていたし、新津はとの年の差もあってか、に対して興味を持っていないような態度であった。互いが互いの許嫁の間柄を望んでいないような雰囲気があり、にとってそれは心地よさすら感じていた。形骸化されつつある因習は時機を見て淘汰されるべきだと考えていた。それは新津にとっても同様の考えを持っているとばかり考えていた。
 ――だが、そう考えて居たのがだけだとしたら……?
 その考えにたどり着いた瞬間に、ぞわりと身の毛がよだつ。考えもしなかった。否、考えないようにしていただけだ。望まぬ婚約関係から目を背けるのに躍起になって、ただただ考えないようにしてきただけだ。新津とて時代錯誤の因習などに付き合わされているのだと勝手に思い込んでいた。実際に新津がその関係に対してどう考えて居るのかも知らぬまま。
「――せ、んせい……」
「自惚れるなよ、小娘。俺は“許嫁殿”の拗らせた初恋に引導を渡してやったまでよ」
「そ、それはそれで、陰険……」
「うるせぇ。古くせぇ許嫁制度なんざどうでもいいが、俺の許嫁であること少しは自覚はもて」
「うっ……ごめん、なさい」
「まあ、俺もお前の親が陶芸会の会長なんかやってなかったら婚約破棄の一つでもしてやったが、後々がめんどくせぇ」
「なんか、すみません……」
「お前が謝ることじゃないだろ、勝手に決めた親でも恨んどけ」
 新津の顔をまともに見ることが出来なかった。の初恋はこの男との婚約関係を結ぶ前からの拗らせたものだが、それは最早言い訳にはならぬ。本来なら指摘されるまでに気持ちに折り合いをつけるべきだった。自覚が足りないというに他ならない。今回のことで思い知らされ、自省した。
 自然と視線は下降して行く。動揺が視線の動線をゆらゆらと揺らめかせていく。顔からは血の気がさっと引いていく。目を反らすことは許さないというように新津の指先がの目の下の薄い皮膚を優しくなぞる。諫めるその仕草にそっと視線を浮かせていくと、その瞳に灯る色を見つけて後悔する。凪いだような瞳の奥には自身の姿しか映っていないのだ。
「お前は、本当に昔からアイツの事ばかりだな」
「は……?」
「何でもねぇ。俺もどうかしてると思ったさ……けどな、仮にも許嫁がそっぽ向いてるっつーのは面白くないに決まっているだろう」
 静かに見つめてくるその瞳と視線が交わり、はそれにたじろぐが、彼はそれを許さない。新津の指先が目の下を再度なぞり、なだらかな頬を通っていくと、唇を優しくなぞる。彼女の腕を引いて、耳元で名前を囁けば、その柔らかい声がの全身を撫でつけてそのまま金縛りにする。
 そうして、逃がしはしないと夜の帳が降り始める窓の向こうの世界を遮るように白いカーテンを引かれていく。その向こうからは音がもう何も聞こえない。ただ、夜風にぱたぱたと揺蕩うカーテンの裾だけだ。
 せんせい、と切羽詰った声が繋ぎ止めようとするが、そこにはもう男女がいるだけである。
 新津がの白い喉元を優しく撫でると、はぞわぞわと身を強張らせるが、そんな様子を満足そうにフッと笑っている。顎の裏、喉仏、首筋、鎖骨、触れるだけの優しい口づけが、何遍も気が遠くなるほど降り注がれて、はそのじれったさに赤面する。
「せん……」
「名前を呼べ」
「にい」
「そっちの名前じゃない」
「……っせい、じゅうろう」
 こそばゆそうに身を捩ったの姿を見て、新津は、清十郎は、よくできたなと満足気に笑みを深めて彼女の頭を撫でる。
「はァつまらん。早く俺のところまで堕ちてこい、
「私、今し方失恋したんですけど」
「知らん。俺のことを好きにならないお前が悪い。大体俺の方がいい男だろ」
「は? ちょっと私の好きな人のことバカにしないでくださいよ!」
「そういうとこいいよな、お前」
 --だから、早く俺のところまで堕ちてこい。
 の首筋をカサついた指先がなぞり、ちゅっと軽く吸い付いた。抵抗する間もなく、ぺろりと舐めてから新津は身を引いて、机の上に置いてあったトリュフチョコを摘まむ。不味いと顔をしかめながら次々と口の中に放り込む姿を見て、は聊か腹立たしい気持ちになるのだが、この男は自分の想いを決して忘れないようにしてくれているのだろう。想いも知らせずに終ぞ死に絶えた不遇の恋を、の初恋を、静かに飲み下しているのだ。それはきっと、が一人で苦しまないように。
「あんたは本当に腹立たしい男だ」
「フン。来年はちゃんと俺のチョコも用意しろよ」
「は、え? 婚約破棄しないの?」
「俺は甘くないのが良い」
 次に期待しているぞ、許嫁殿。そうニヤリと笑って、トリュフチョコを掴んだ指を軽く舐めると、スタスタと何事もなかったかのように教室を出ていった。
 仕切られたカーテンを引けば、辺りはまるで暗闇に染まっていて、所々の電灯が学内の様子を静かに照らしている。剣道場からあの人が丁度出てくるのが見えた。卒業した後もOBとしてやってくるあの人。 何気なく顔を上げたあの人がのいる教室を見て、少し驚いたような表情を浮かべていたが、いつもも穏やかな顔でのいる教室に向かって手を振っていた。それを見て少しだけ目の奥が熱を帯びたが、小さい笑みを作って手を振り返した。
 あの人は、きっとこれからもの好意に気づかずに幸せを手にして行くのだろう。と一緒に生きることは未来永劫ない。その現実は心を引き裂かれる様に痛い。それでも少しだけ救われたのは、行き場を失った想いを受け止めてくれた新津のおかげであったかもしれない。
「愛していた。にいさん」
 あなた以外を愛せるとしたら、あの男になるのだろうか。


20.02.11 初出 『きみの明星にふれる』 tite by:天文学
image song flumpool / 夜は眠れるかい?