"あいしている"
聞き馴染まぬ言葉がその筆を制止させた。随分と不可思議な響きだ。"あいしている"とは、一体何のことだろうか。"あいしている"の"あい"は"愛"ということだろうか。言葉通りならばこういうことであろうが、如何せん身に覚えもない言葉だ。疎遠な言葉だ。人に憎まれることは数えきれないことしてきたが、人に愛される覚えなどは毛頭ない。地に足がつかないような浮遊感のある言葉だと思う。”愛されること”は私には理解しがたいが、それでも人を愛したことはあるのだから、それはきっと、その言葉が一番身近であればあるほど幸せなのだろうと思う。
それならば、今聞こえた言葉はその"愛している"という事なのだろうか。誰が何を愛するというのだろうか。
言葉をかみ砕き損ねた思考は、その裏側を探り始めている。理解が追い付かない。手始めに言葉が飛んできた方向に視線を向けてみても、ただそこには平生酒を煽る巨躯がいるだけ。その発信源――この男が発した言葉にしてはあまりにも優しすぎる言葉である。無礼ではあるが、その容貌から想像し難い言葉である。
"愛している"などという男には見えないし、愛を囁くよりも、勇猛に戦場を駆けていく方が似合っている。一騎当千といった男だ。その言葉は弟子であるあの優男の方が似合っている。彼の十本刀の巨人をいとも簡単に倒してしまうこの男には超人というに言葉が相応しい。その超人にとって愛を語るなど詮無きことなのではないかと思ってしまう。この男、あまりにも孤高なのだ。果てしないのだ。
一方。一方、凡庸で取るに足らぬ女である。女の形をした人間。ただ少し人より剣が立つ女だ。育ちはあまりよくはない。同じ剣士ではあるが、この男にはまるで勝てない。鍛錬の相手になってもらったことがあるが、この男は物ともせずにあしらってくれた。都を震撼させた人斬りなどと言われてもいたが、この男の前では全く歯が立たない。圧倒的な力量さを見せつけられ、暫く忌々しく思ったほどだ。勝てた試しがない。悔しいが、この男には勝てないのだろう。
この男の前では何もかもが凡人でしかない。
―― もしや、これは暇つぶしに揶揄っているのではなかろうか?
ふと湧いて出た言葉が、心に波紋を広げていく。光明を見いだした気分であった。皮肉にも一番合点がいく話だ。あれは、あまりにも素っ頓狂な言葉だった。第一、彼の弟子はこの男の事を人嫌いだと言っていた。事実人を避けるように山奥で生活している。仙人か何かかと思わず言いたくなるような男だ。最早、これが仙人冗句なのか。測り兼ねる。
大体、"愛している"などと酒を煽りながら抜かしおるからに冗句でなければ何というのだろうか。何かの意図があるのだろうか。試されているのだろうか。やはり暇つぶしに揶揄っているのだろうか。
何とも言い難い現状に小首を傾げる。暫し思いを巡らせてみるが、自分が聞き間違えていたと考える方が超人相手には筋が通るような気がしてきたので、開こうとしていた口を慌てて噤んだ。とてつもなく恥ずかしい聞き間違いだ。この超人を前にしてうっかり恥を掻くところであった。
そう結論付けて、再び筆を走らせ始めると聞いているのかと先程よりも近くで低い唸り声がした。はじかれたように顔を上げれば、その人は存外私の目前まで来て、睨み付けていた。
不機嫌そうだ。何故だ。それほど私で暇をつぶしたいのか。
「何ですか?」
「聞いていただろう」
「何を?」
「愛している」
「お酒ですか?知っていますよ」
「バカヤロウ、お前だ。お前」
「は」
心外だと言わんばかりに眉根を顰める男に、唖然とするほかない。
――今、何といった?
あいしている……?愛している?愛?この男が愛を語るのか。この孤高が、愛を語るのか?よりにもよってろくでなしを。女になり損ねたこの哀れな人斬りを。愛しているというのか。愛を語らずとも一人で十分に生きていけそうなこの男が、よりにもよって出来損ないを愛するとでもいうのか!
この男が、私を、愛している……?
心の中で反芻してみるが、いまいち現実味がない。懸想などとは無縁の人だと思ってばかりいたし、私の住処を訪問するのは街に酒を買いに来る序。毎度酒を買ってきては肴を作らされるものだからただの小間使いとしてしか認識されていないのだと思っていたのだ。まさか好意を寄せられるとは思わなんだ。
どうしろというのだ。二の句が継げぬ。
「ええ?……あの……」
「言っとくけど、嘘じゃねぇ」
「えー……え、えっと、私は……聞き間違えたのかと」
「あ?」
「……え、でも、お酒飲んでるし、その……」
からかって遊ばれているのかと。
そう言えば、珍しく目を丸くして言葉を失っているようだった。超人の考える事は理解が出来ない。何をそこまで驚くのか。手に持っていた筆を置いて向き直れば、少し怯んだ彼はびくりとする。こんな姿を見るのは初めてだ。この男も人の子なのだなと場違いな事を考えてしまう。どこか躊躇うような仕草など似合わないのだからはっきりと物申せばよいものを。あー、だの、んー、だの、言い澱む姿に言いようのない不安を感じてしまう。無理に言葉など作らなくてもいいのだから素直に思ったことを言えばいい。何を言い淀むのか。可笑しな人だ。
お茶でも飲んで落ち着いてもらおうかとそっと立ち上がろうとすれば、と名前を呼ばれその瞬間に腕を掴んで引っ張られる。思いっきり厚い胸板にぶつかって、反射的に体制を立て直そうとすれば、素早く背中に両腕が回されて力を籠められる。
今、抱きしめられている――?
「――……酒飲んでねぇとこんな事こっ恥ずかしくていえねぇだろ」
その瞬間、彼がどんな顔をしているのか知りたくなった。
私を愛しているという男のことが知りたくなった。
彼は私に見られることがこそばゆいのか身動ぎもできないぐらいに身体に腕を巻き付けてくる。
「」
――ああ
「"愛している"」
耳元で囁かれた瞬間、ゾッと臓器が騒めいていく。ぞくぞくと体が身震いをした。その声はあまりにも優しく甘美であった。くらくらと眩暈がする。
耳に口づけを落とされる。私の髪を優しく撫でると、その手はそっと頬に添えられ、その親指が唇をなぞる。
その瞬間、かっと一気に顔が熱くなっていく。心臓の鼓動が走り始め、苦しい。そんな目で見ないでほしい。
「、愛している」
目の前の男は、ただ、私を見ている。
この人も人だった。あまりにも遥か彼方にいるような孤高の人であったから気づきもしなかった。本当は近くにいて、私を見ていた。自分が欲しかったものを全て持っているこの人が妬ましくも羨ましかった。この人が孤高であるから、超人であるから、それだから凡庸な私にはどうにでもならないのだと割り切って安心していたかった。月と太陽のように離れた存在であることに心地よさを感じていた。そのまま緩やかな関係を気づいていければいいと暢気なことを考えていた。
それなのに、彼は私を愛しているという。似合わない愛の言葉で、あの孤高の人が私に愛を請うた。信じられないような心地だが、これは本当に愛なのだ。
「?」
「あー、……その、んっ……っ」
「」
酒の匂いと味がする。くらくらと酔ってしまいそうだ。ぼんやりと彼に視線を投げれば、にやりと笑っている。首筋に顔を埋めると、そこから頬や髪、目尻、と次々に口づけを落とされていく。
ーーああ、この人が私に愛をくれる人なのか。
「――清十郎さん」
「お、おう……」
「あいしていますよ」
私を愛撫する武骨な手がぴたりと止まる。清十郎さん、と再び声を掛ければ、思いっきり強い力で抱きしめられる。きっと照れているのだろう。抱きしめる力が強すぎてお昼御飯が口から飛び出してきそうだと残念な言葉が脳を駆け巡っているが、あの孤高の人をこうやって翻弄するのもとても愉快なことであるから、今度はその喉笛にでも噛みついてやろう。
【の場合】
愛してると突然言われた。嘘だと口から出ていた。相手は心外だ、と口を尖らせる。普段の行いが悪いんだと言えば抱きしめられた。口がだめなら行動で、と耳元で声がする。ああ、もう、降参です。
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17.04.16 初出 『ろくでなしの敬愛』 / title by:is様
17.05.31 / 17.09.27 修正