l はかまいり

訣別の手引き

「ええっと……比古殿?」
「……」
「……?」
所用で東京に出かけ、久々に京都へ帰ってくれば珍しく家の中に先の戦いの折りに知り合った男の姿を見つけた。山籠もりをする仙人のような超人の男が街外れとは言え人里に降りてきたものだから、はその人の姿を認め、眼を丸くしてぽかりとする。当の本人は、帰ってきたの姿を認めるなり、に一瞥を寄越すだけ。がしまっておいた酒を何処からか見つけたのか一気に煽っていた。余談であるが、丁度昼時である。

が比古と呼んだ男の機嫌が良くないことには気がついていた。彼の弟子曰く、”陰険でぶっきらぼう”、少しばかりひねくれてはいると自身心得てはいるが、このように家主を無視し、勝手に上がり込んで家を漁るようなこと――弟子相手ならばまた違うかもしれないが――は未だ初めてである。

彼の琴線に触れるような事をしただろうか、そう思い当たる節を記憶の糸から手繰ってもてんで思い当たらない。比古とはそれなりに良好な関係を築いてきたし、暇なときは月見酒やら何やらとしていたが、互いに一線は画していた。当たり障りのない関係ではあるが、それなりに良好だったはずである。――勿論、の一方的な心持ちではあるかもしれない。琴線に触れたつもりはなかったが、気づかぬ内に触れてしまっていたのかもしれない。そうなるとどうしようもないが、人とは誰しも穏便に済ませたい者である。わざわざ事を荒立てて厄介を増やす者はいない。増やすような奴は余程の大莫迦者か、心根が歪曲したひねくれ者ぐらいの者だ。どうにかして比古が不服に思っていることの原因について探り当てなければならないが、思い当たる節がない時点で正直なところお手上げである。何か煽てて少しでも状況をよくするのは良案である気もするが、相手が何処かの単細胞な喧嘩屋ならいざ知らず、超人相手に聞くはずもなく即座に却下する。要するに、手詰まりだ。原因不明の理不尽には打つ手をなくし、肩を竦める他ない。声を掛けても無視されるのだから取り付く島もない。
何故、自宅で居心地の悪い思いをしなければならないんだと、不服に思いつつも、相手が相手なだけに何も言えない。

「は、はい!」
いつの間にかを見下ろすように目の前に立っていた比古に、身体を揺らす。思案をして気を取られていた間に目の前にやってきていた彼に音もなく驚いた。見下ろすままに両腕を捕まれると、そのままじりじりと詰め寄るように歩き出して、の身体を壁に縫いつけるようにした。何を考えているのか、には理解できず、この不可解な行動に戸惑うばかりだ。
「比、古……さん?」
「何処行ってたんだ?」
「え?」
「言えんのか」
漸く口を開いた比古の言葉に、咄嗟に反応が出来なかった。予想もしていなかった問いかけに、は拍子抜けした。東京へ行くのは大したことではないからとご近所さんと毎日のように会う腐れ縁の知人ぐらいにしか知らせなかったのだ。比古とはそれなりに良好な関係ではあるが、頻繁に会っているわけではなかったし、比古もそこまで人里に頻繁に降りてくるような人ではなかったので、すぐに帰ってくるからと知らせなかった。だから、まさかこのような事を言及されるとは思っても見なかったのだ。
の反応が気に入らなかったらしい彼はその端正な顔の眉間に皺を寄せて、少しばかり押しつける力を強くする。
「――えっと、東京に所用で行っていました。直ぐ帰ってくるつもりだったのですが」
「今度は直接言いに来い。水くせぇ真似するな」
「すみません」
「あと」
「?」
――そいつが大事だったのはわかるが、あまり俺を退屈させるなよ
眼を細めた比古がの頬を優しく愛撫して、そっと髪を一房持ち上げると、口づけを落とした。ぎょっとして眼を丸くするに、にやりと不適な笑みを浮かべると、卓袱台の上に置いていた土産の酒を抜け目なくかっさらって家を出て行った。
取り残されたはずるずるとその場に沈み込むように座り込むことしか出来ず、これは一本取られたなあと髪にそっと触れて苦笑した。

15.04.24 『訣別の手引き』 / title by: as far as I know様