幼い頃は野山を駆け回る方が好きな子どもだった。
少女達が好きなおままごとはあまり好きではなくて、どちらかというと鬼ごっこや日曜日の朝に放映されるヒーローのごっこ遊びの方が好きだった。ヒーローでも悪役で何でも。少年達に混じって縦横無尽に駆け回っている方が好きだった。少女達が大好きな色恋の話よりも幼い頃から習っていた剣道が好きで、少女達からは風変わりな子だと言われてきた。気には留めなかったが、男勝りだと揶揄されてきた。
そんなでも好きな人がいた。心臓が震えるほどに、呼吸が震えるほどに。ただ、あいしていると伝えたい人がいた。熱に浮かされたように想いを募らせていた。身の内側から静かに焦がし、燃やし尽くされる恋だった。ただ隣にいるだけでも幸せで、ずっと一緒にいたいと願っていた。願ってしまった。叶わぬ、恋だった。彼にとってのは大切な妹でしかなかった。かわいい妹。彼はの最愛の人であるが、は彼の最愛の人にはなれない。そんな彼に思いを告げられるわけもなく、彼はの知らない女性と結ばれてしまった。
今度こそ告白するのだと作っていたチョコレートは渡せぬまま、ゴミ箱の中に初恋と共に溶けていった。
は思わず苦い顔をする。セーラー服を身にまとっていた学生時代から時分よりも大人にはなったが、苦い記憶というものは中々どうしてか消化されないものである。
目の前の催事場には、バレンタインフェアと可愛らしいデザインフォントと色掛かれたパネルが天井からぶら下げられている。小さな少女から素敵な婦人まで。女性は誰しもが恋する乙女だ。ショーケースの中に陳列された見本のチョコを真剣な眼差しで吟味している。
日々忙しく過ごしていたからはすっかり忘れていたのだが、季節は二月上旬。バレンタインデーの日を目前としていた。
――バレンタイン。キリスト教のお祝いの日。聖バレンティヌスに由来する記念日。カップル達の愛の日。家族や恋人といった大切な人に贈り物をする習慣がある。それがどういったわけか、日本においては女性が意中の相手にチョコレートを贈り、愛の告白をする日となり随分と年月が経つ。
基本的にバレンタインデーと言えば、女性から意中の男性へと愛の告白とともにチョコレートを贈るイメージが根強いが、昨今では友人に贈る友チョコや日頃の自分へのご褒美としての自分用チョコ、お世話になった相手へ贈る義理チョコなど、チョコレート一つ贈るにも形態は様々である。
初恋の相手に贈ろうとした日以来、はバレンタインを祝うことを止めた。もちろんもらえば、お返しにホワイトデーにお菓子を渡したりしていたが、自分から参加しようとすることはなくなっていた。あの日以来、手作りでチョコレートを作ることもない。
「あら。そういえば、もうすぐバレンタインだったわね。自分へのご褒美に欲しかったのよ。見ていきましょ!」
「え、あ、うん」
隣にいた友人の鎌足が目をきらきらと輝かせた。鎌足は学生時代からのの友人であり、気の置けない仲である。お互いに忙しくしていて、久々に会うことになっただが、彼女は昔からイベント事が好きで、マメにこういった行事に参加しては楽しむタイプの人間だった。自身はそういったイベント事に積極的に参加する方ではないが、鎌足に手を引かれては色々なイベント事を一緒に楽しんできたため、昔のようにの手を引いて催事場へと歩き出す鎌足に小さく笑う。最初は乗り気ではなくとも彼女に手を引いてもらうと、最後には一緒に楽しんでいたなとしみじみと握られた手をみつめる。催事場の中へ躊躇いもなく入って行くと、彼女はわくわくとした顔でチョコレートを物色し始める。その顔は昔と変わらず楽しそうで、先ほどまで苦い記憶を思い出して憂鬱になっていたの気持ちを吹き飛ばしてくれるかのようだった。
「これ、おいしいわよ。アンタも食べなさい」
「ははっ。鎌足が作ったんじゃないのに」
「こっちは選ぶのに真剣なんだから、遠慮しないでどんどん食べなきゃ損よ! 」
店員の女性から試食のチョコレートをもらって、当然のようにの分だと次から次へと渡してくる。遠慮のなさには苦笑いしつつもそれを受け取り、一つずつ食べながら展示されているチョコレートの見本を見ていく。
チョコレートと言っても実に豊富な種類がある。定番のハートの形のチョコレート、ホワイトチョコレート、抹茶のチョコレート。それぞれの会社で出しているチョコレートには特徴が大きく異なっていて、中々にバラエティー豊かで視覚的にも面白い。こちらも美味しいですよ、と朗らかな笑みを浮かべる店員の女性が渡してくる試食品のチョコを食べてみると、コクがあり、チョコレート特有の甘味が舌の上で踊る。生チョコレートなどは舌に乗せた瞬間に蕩けていく感覚が心地よく、思わず買いたくなってしまうような品だ。
「(このチョコはお酒が入ってるんだ……こういうのなら食べそう)」
ふと、暫く会っていないとある男の姿が脳裏によぎる。
「そういえば、あの男とまだ続いているの?」
「え?」
間髪入れずに鎌足の小綺麗な顔がくしゃりと歪む。
「あの比古とかいういけ好かない男よ」
「ああ。……ふふっ、比古さんか」
脳裏を過った人物を言い当てられたようではどきりとしたが、鎌足の気持ちはわからなくもないのでクスリと笑う。
「気障ったらしくて、私は嫌よ。あんなおじさん。むかつく!」
「ふふふっ……いけ好かない、おじさん……」
「笑ってんじゃないわよ!」
鎌足の歯に衣着せぬ物言いをは気に入っている。彼女──正確には彼だが──のさっぱりとした性格が好きで、学生時代一緒に過ごしていた。大した面識のない相手にさえこれであるから、思わず苦笑いしてしまう。だが、それは彼女のよいところでもあるとは思っている。
「ってば、あいつに良いように扱われてない? 大丈夫なの?」
「なんで? 私と比古さんは師と弟子みたいなものでしょう?」
「それは昔の話でしょ。わからないわよ。弟子の緋村とアンタの三人ではそうかもしれないけど、緋村が上京した今は男と女の二人きりでしょ。アンタ、容姿はそんな悪くないからいつく食べられても可笑しくないわよ」
「食べる、って……比古さんは別にそんなことは考えてはないと思うけど? 昔から緋村と一緒に剣道教えていた手前その延長線上の付き合いだと思うけれども」
「そうかしら。私はそうは思わないけど。男と女で、アンタのこと気に入ってはいるんでしょ。が嫌じゃなければ何も言わないけど、少しでも不快に思うのなら会うの止めた方がいいわよ」
はチョコレートを見つめていた視線を移し、まじまじと鎌足の顔を見る。その表情はいつになく神妙な面持ちを湛えていて、開きかけた口を噤む。
彼女なりに友人が年上の男に騙されていないかと心配してくれているらしい。彼女はドライなようで、の事を昔から気にかけている。そういう心配を彼女は昔からしてくれて、はそれがありがたく嬉しいかったりする。ハッキリと物事を言うので敬遠されてしまうところもある彼女だが、心根はとても優しいのである。少しだけ口は悪いが。そこはご愛嬌。
「鎌足、心配してくれてありがとう」
「アンタって薄氷の上に立ってるような感じがして心配なのよ。いい? あいつに苛められたらすぐに私に言いなさいよ。ぶっ飛ばしてやるから」
「私、鎌足と結婚する……」
「嫌よ。私、あんたの面倒見きれないわ。アンタのこと引っ張っていけるのあの男ぐらいよ」
「え? さっきと言ってること矛盾してない?」
「だってなんか大事な親友取られるのシャクに障るのよ!」
「鎌足、結婚……」
「嫌よ」
「がっかり」
「友達として好きよ、」
今日は私が奢ってあげる。そう言ってウィンクをする鎌足はが持っていたチョコレートの箱をひったくるとあっという間に会計を済ませてしまった。
鎌足はああいっていたが、比古は自分の事をどう思っているのだろうとは少し気になった。そして、自身は比古の事をどう思っているのだろうかという事。鎌足から指摘されて気づいたが、第三者からしたら比古とは男女の関係と捉えられる場合があるようだ。言われてみればそういった見方も可能なのかもしれない。当事者であるは全く想像もしていなかった。としては一環として師匠と弟子というような関係だと思っていた。同じ剣道部だった緋村剣心に紹介され、比古の下へ通って稽古していた。からしたら剣の師。比古からしてみれば突然降って沸いて出た二人目の弟子といったところだろう。剣の才能は認めてくれているようで、が学生大会で無敗記録を打ち立てたときには感心していた。男にだって引けを取らない実力を持っていると褒めたこともある。
だが、それが男と女という視点となると疑問である。恋人たちの甘い関係などはない。たまに会えば、近況報告のように食事に行き、手合わせをしたり、その程度のものだ。
うーんと考え込んでいるを見かねたのだろうか。鎌足は呆れたように笑って、の頭をぐりぐりと撫でつける。
「知ってる? 運命の相手はいい匂いがするのよ」
「え?」
「――まあ、いつもお世話になってるんだったら感謝の気持ちのつもりでチョコレート贈ってみたら。いい機会なんじゃない?」
「う、うん」
にっこりと笑う鎌足に、はそれもそうかと納得する。久し振りに手作りでもしてみようかとぼんやりと考え始める。
「……バレンタイン、どころじゃなかった」
偶然にもバレンタインの日と休みが重なったと感心していた矢先のことである。バレンタインといえば、愛の告白のイメージが先行してしまうが、外国では家族や友人など大切な人に感謝の気持ちを込めて贈り物を贈るという。鎌足にも助言をもらった。確かにいつも世話になっているし、いい機会だと思ったは買っておいたチョコレートやココアパウダーで生チョコを作ることしていた。人並みにレシピを見たりしたりすれば料理はできるものの、あまり凝ったものは作れないので、以前Webサイトに載っていた簡単に作れるという謳い文句の生チョコレートを作ることにした。材料によってはビターな仕上がりになるとのことで、甘めなものが苦手な男性でも食べやすいとのことだ。加えて、お酒が入った生チョコなので酒を嗜む比古は何だかんだできっと食べてくれるだろう。
早速材料を集めて、チョコを溶かしながら混ぜる。更にそのチョコレートの中にお酒と生クリームを少し入れて混ぜ込んでいく。バットにクッキングシートを引いてその中に溶かしたチョコを流し込む。冷蔵庫で数時間冷やした後、包丁で切り、ココアパウダーをまぶせば完成だ。心地の良い達成感。後はラッピングをして渡すだけだ。そこまでは出来た。
問題はその後だった。急遽入った呼び出しで休日が一転。人手が足りないから応援が欲しいとのことで渋々出勤する羽目になった。
その後は散々なものだった。高齢者の住宅に侵入した空き巣事件の操作、銀行強盗犯による立てこもり、マンションの上下階の生活音を巡るトラブルによる口論から発展した人傷沙汰の事件、果ては迷子のお守りと親探し。
次から次へと起きるトラブルに奔走し、すべての事件の処理一段落させて帰路に着く頃には二月十五日の斜陽を拝む事になっていた。学校指定のセーラー服やブレザーを着た少女達や学ランのしょうねん達が友人とのおしゃべりに花を咲かせながら帰路へと向かう。斜陽の光に包まれてきらきらと輝いて見える彼らが眩しくて、やるせない気持ちにさせる。
くたびれた自身のパンツスーツ姿を見て大きな溜息を吐いて、帰路へと向かう。渡すどころか会いに行くことすらままならなかった。仕方ないと思いつつ、渡せなかったことが少しだけ心残りだ。陶芸家として名の通っている男だから基本的に山小屋に籠もっては土を捏ね、土を焼いている。集中した作業になるので次はいつ会えるかわからない。冷蔵庫の中に入れたままのチョコレートは帰ったら処分する他ないだろう。そうだ、自分で食べてしまうのがよろしい。
疲労でふらふらとしながらも自宅にたどり着く。だが、へろへろだったの眼光は鋭く研ぎ澄まされていく。
――部屋に誰かいる。
疲労で澱んでいた空気を薙払い、気を張り詰める。先程の満身創痍を感じさせない臨戦態勢。
音を立てずにドアを閉めると、足音と気配を殺して進んでいく。どうやらリビングの中に人がいるようだ。泥棒だろうか。警察官の自宅に泥棒が入るなど洒落にならない。ぎりっと奥歯を噛みしめて、リビングルームに続く扉を開けようと手を伸ばす。だが、がドアのぶをひねる前にぐっとドアが引かれ、の身体は前のめりに傾く。しまった。咄嗟に受け身を取ろうと身構えるが、中にいた人物に腕を引かれて抱え込まれる。
「危ねぇな、大丈夫か?」
ふんわりと匂う清潔感のある香水の匂いがの鼻を掠める。分厚い筋肉の鎧。がっしりと抱え込む太い腕。さらりと頬にかかる長い髪。端正な顔立ちの男がの顔をのぞき込んでいる。
「比古、さん?」
「仕事か? ご苦労さんだったな」
「ん……」
よしよしと節くれだった手がの頭を撫でて労う比古の姿に、張り詰めていた空気がしゅわりと泡のように溶けていく。空き巣ではなくて良かったとほっと胸をなで下ろすと、隅に無理矢理押し込めていた疲労感がぶり返していく。身体の体勢を立て直そうと比古の厚い胸板を押して立ち上がろうとするが、よろよろとふらついてしまい、比古を巻き込んでソファーの上にダイブする。
「おい、」
「ははっ、ごめんなさい。力が上手入らなかった」
「無理するぐらいなら寄りかかってろ」
「いっ!?」
ピンと額を小突かれる。手加減して小突いたのだろうが少し痛くて思わず額をさすっていると、からからと笑う気配が密着した身体から振動として伝わる。そっと耳を胸につけ、手を添える。脈を打つ音に耳を傾けて静かに目を瞑る。とく、とく、とく。優しい、鼓動と暖かいぬくもりに尖っていた神経が解れていく。
人手が足りないと応援で呼び出され、ひったくりやら強盗犯やら何やらとジェットコースターのような一日だった。それこそ治安の悪さを心配するぐらいの事件の多発。そう滅多にあることではないのだが、こういう馬鹿みたいに事件が連発することも時折ある。怒号も飛び交う混沌を極めた状況を乗り越え、こうして優しく労われるのは報われた気がして、嬉しかった。
「つかれた」
大きな身体に腕を回してぎゅっと抱き締めると、の耳許で息を飲む音がした。
そして、暫くの沈黙の後、比古の止まっていた手が再びの髪を撫で始める。
「俺だからいいが、軽率に男に抱きつくんじゃない」
「しないよ。しても比古さんと緋村と鎌足ぐらいかな」
「あのバカ弟子とあいつも駄目だ。特にあの赤い髪のあいつ」
「えー。お祝いの時に喜びをわかちあえないじゃないか」
「それは抱きつかなくてもできるだろう」
「まあ、それもそうだけど。その時の気持ちが高ぶったときってやってしまう時もあるので」
「やめなさい」
「……はい」
「いいこだ」
するりと骨張った手がの頬を撫でる。それは幼子をあやすように優しい。目元に指先を滑らすと、その薄い皮膚を揉んでいく。
「ちゃんと飯食ってるか? 随分とやつれている」
「ほんとは昨日お休みだったんですけどね。呼び出しかかってしまってね」
「あまり無理はするな」
「自分で選んだんだ。そうもいかないよ」
「あまりにも辛いなら辞めるのも手だぞ」
その言葉に、は目を開き、撫でられていた手をそっとどかすと立ち上がって比古を見下ろす。
「それはない。私は辞めない。辛くとも辞めるつもりは毛頭ない。たとえ、殺されたって辞めるものか」
先ほどまでの満身創痍の状態とは打って変わって、無機質な表情の。その瞳には静かに灯る光が轟轟と燃えている。それをじっと見上げていた比古は口角を上げて笑みを浮かべる。
「……そうだ。それでこそだ。お前のそういうところが俺は好きだぜ」
「相変わらず意地が悪い。焚きつけといて」
「そんなことはねぇよ。俺なりの優しささ」
もう大丈夫そうだな。そういってソファから立ち上がると、ポンとの頭を撫でて玄関へと向かって歩いていく。
「比古さん?」
「ちゃんと食べて今日はさっさと休め。冷蔵庫に何もなかったから食い物入れておいた」
「? 泊まっていかないの?」
「嫁入り前の女のところに軽々しく泊まらねぇよ」
ちゃんと休めよ。そういって部屋を出ていった比古。はそういう気遣いできたのかと感心した。だが、一つ疑問は残る。はて、結局何しに来たのだろうか。は小首を傾げて考えてみるが、てんで見当もつかない。思いつかないものだからもういいとすぐに考えるのを諦めると、あっと思い出す。そういえばチョコレートを比古に渡すのをすっかり忘れていたのだ。否、チョコレートを食べているところ見ないからもらっても困るかもしれないのだが。それでも、日頃の感謝は伝えるべきだ。いつ伝えられなくなるかわからないのだ。今から走って追いかければまだ間に合うだろうか。は慌てて冷蔵庫まで駆け寄って、ドアを開く。
「あ」
冷蔵庫の中に入っていたはずの生チョコの姿は跡形もなくなっていた。代わりにきれいにラッピングされた見慣れない箱がいくつか入っている。その箱の上に乗っていたメモ用紙の切れ端には走り書きで一言。うまかったと書いてあり、思わず笑ってしまった。何だそういうことか。
ポケットに入っていたスマートフォンが着信を告げる。メッセージアプリが受信したメッセージには鎌足からのメッセージが届いていた。
ハッピーバレンタインと書かれたメッセージ、突然の比古の来訪。――やってくれたなと思うと同時に、次に会った時にはお返しをしてやらなければなあとはほくそ笑んだ。
『As you like it』 初出:21.02.17