覆水盆に返らず(上)

 何かを壊すのはいつだって些細なきっかけに他ならない。「あ」と言う声を上げた頃には時すでに遅し。慌てて手を伸ばした手は虚しくも空を切り、為すすべもない。するりと翻ったそれは引き寄せられるように地面に落下し、着地と共にけたたましい破砕音を木霊させる。ガシャン。瞬間、反射的に目を瞑り、耳を塞ぐ。その破砕音がきんと神経に沁みる。
「あ、らら……」
 おそるおそると目を開いてみれば、足元には見事なまでに粉々に砕け散った陶器の破片が散乱している。それは愛用していた茶碗だったもの。毎食を共にしてきた茶碗。割ってしまったことへの衝撃。その場に暫し立ち尽くしてしまう。思いの外、喪失感が強い。後悔悔の念が強く心の中へと立ちこめていく。こだわりを持っていたわけでもない、人から贈られた言うわけでもない、この茶碗に纏わる思い出などもない。これは街に買い物へ行ったときに適当に買ったものだ。飯が食えれば何でもいいと買ったものだ。それがいつしか、なくてはならないものになる。適当に買った茶碗でも毎回使い込めば愛着の一つや二つも湧く。物は大事にする性質。少しの繕いで直るならば本当に使えなくなるまで使う。貧乏臭いと揶揄される事もあるが、使い馴染んだものを使うのが一番だと思っている。
 しゅんと気持ちが萎えて立ち尽くしていた身体に鞭を打って無理矢理動かす。足元の破片を踏まないように注意深く歩き、棚の上に予備の茶碗がないか確認をする。確か色違いの飯茶碗を置いて置いたはずだが、影も形もない。おかしいと暫しの間考え込んでいたが、そういえば、随分昔にそれも割ってしまっていた事を思い出す。その時は今割ってしまった物があるからと買わなかったのだが、今となっては横着せずに予備を備えておくべきだった。後悔先に立たず。茶碗がなければ食事もままならない。米櫃を抱えて食べるという荒技もあるが、抱えながら食べるのは余計に草臥れるから可能な限り却下である。
「これ、修理にならんのだろうなぁ」
 しゃがみ込んで地面に飛び散った欠片の海を眺める。落下した衝撃が強かったのだろうか。茶碗の損傷は想像以上に激しい。修理に出せば使い続けることができるかもしれない。そうは思ったのだが、欠片が思いの外細かく、修理に出してどうにかなるかどうか。素人目では全くわからない。兎にも角にも茶碗がなければ話にならない。昼食は街まで出向き適当に食べれば問題はないが、夕食からはそうはいかない。毎回外で食べるのも落ち着かないし、職業柄帰宅する頃には店仕舞いなんてこともザラにある。そういったときはやはり家で食事をとる必要性が出てくる。昼食のついでに飯茶碗を買い足しておかなければならないなと思案していると、ぐぐぐっとくぐもった虫の音に思わず苦笑いをして、下腹をさする。
「まずは腹拵えだなぁ。街に出るか」
 久々の非番はゆっくりと身体を休めたかった手前、家から出たくなかったのだが、腹が減ってしまえばやむを得ない。家には食事用の器の代えがない。ついでに夕食の材料の調達もした方がよいかもしれない。深く溜め息をついて肩を竦め、飛び散った茶碗の破片を箒でかき集めると、庭の土を木鋤で掘り返して埋める。再び虫が鳴く。腹が減っては何とやら。食を求めて街へと出掛けるために着替え始めた。

 京都。この明治の治世より遥か昔、当時の統治者・桓武帝がこの地に遷都したことから始まる千年の都。その始まりの時代・平安の貴族達の治世から源氏と平氏などの武士の台頭、鎌倉に開かれたという幕府、足利氏の幕府政権、混迷を極めた戦国の乱世、徳川による江戸の幕府政権までの千年間、帝がおわす不動の都であった。この不動の都は東京奠都てんとされるまでのおよそ千百年もの間、政治や文化などこの日本の中心となってきた一大都市である。明治維新後は今までこの都を見守っておられた帝は東の都・東京へと御所を移された。政治や文化の中心が移されたこの京都はその寂しさを湛えているものの、街中の活気はまだまだ失われていない。帝のお膝元であったという誇りを持つこの街は衰えを知らない。
 そんな壮麗な古都・京都の街の外れに、その青年は住んでいた。外観の古さは目立つが、青年が一人で住むには部屋も十分過ぎるぐらいに広い家だ。本来ならばこの若い青年が普通に働いて稼いでも手に入れるのは難しい代物だ。しかし、それを安く譲ってもらい手に入れたのである。当然、それにはそれなりの訳があるが、それはまたいつかの機会があればの話。きっと蛇足になろうが。
 身支度を整えた青年は、町屋づくりの家屋が並ぶ街中を闊歩する。
藍色の紬に、鼠色の袴。腰には大小。髪を高く結った中性的な顔立ちの青年。若侍といった出で立ちの男だ。散髪脱刀令が発布され、髪型を自由に変える事が可能になった。その影響か、散切り頭の男達が界隈に見られるようになっているが、この青年は散髪するまでには至っていないようである。やや時代錯誤となりつつあるそのいで立ち。その腰には廃刀令が発布された今尚刃が息を潜め、静かに狙いを定めている。ただし、この京都の街ではそういった刀を下げる者もまだ珍しくない。廃刀令が出ているからと言って特段目くじらを立てて非難するような者は少ない。すれ違う者達は刀へ一瞥を送るものの、そのまま去っていく。青年に機嫌を損ねて斬りかかられても困ると言うことで無視を決め込んでいるという見方もできるのだが、そこまで掘り下げる必要もない話である。
 この通りには軒並み色々な商店が立ち並んでいて、街に買い物へ来ると必ず通るのがこの通りである。日用品を取り扱う店や食事処、呉服屋、質屋など、多様な商店が集中している。いわば商店街だ。青年もよくこの辺の食事処にはふらりと顔を出しているため、店の者達とも顔馴染みだ。青年が店の前を通れば、店の者達が軽く声を掛けていく。
「今日も賑わってるなぁ」
 青年は辺りを見回して、楽しげに笑う。昼下がりの通りは、人が所狭しと行き交っていて騒がしい。着流しを着た男や青年と同じように袴姿の男、近年増えているシャツにスラックスの洋装の男、振袖の若い女や、丸髷の女、明治になってから着用の許された羽織を早速着こなす女。市中に出れば、様々な人がおり、その顔には喜怒哀楽がそれぞれに宿る。車夫が通りかかる度に、人々は暗黙の了解とでもいうように道を空けては、見送っていく。通りに面した食事処からは香ばしい匂いやら、甘い匂いやらが漂っていて、食欲を掻き立てられる。一時的に静まっていた腹の虫が刺激され、再び鳴き始める。路面に立ち並ぶ店の前には客に呼び掛ける看板娘や店の女将、店の主人。その賑やかな声も頼もしく、数年前までの幕末の動乱の殺伐とした空気感を感じさせないほどだ。幕末の市井も往来はこの明治に負けぬ程度には確かに市井は活気があったが、その反面、暗躍する者達のきな臭さがどこかにあった。明治維新後の混沌は尾を引いている節は無きにしも非ずといったところだが、それでもこの都は懸命に生きている。
 日々欧化政策が打ち出されていく明治の世では、外国の食文化も欧化の波が到来している。幕末頃に横浜外国人居留地の設立により広がった肉食文化。この京都にもその波はやってきて、牛鍋店が人気を博している。牛鍋とは文字通り牛の肉を使った料理。開国される以前まで、この国では肉食の文化が根付いていなかったが、異人達によってもたらされた新たな食文化だった。作り方は鉄鍋の中にだし汁、醤油・みりん・砂糖・酒などを加え煮立てた割り下というものを入れ、牛肉と野菜を入れて煮ると言うもので、鍋の中の肉を返しながら煮るのである。因みに野菜を入れるのは日本人が食べ慣れていない肉のくさみを消すために入れたのがきっかけらしい。
 この京都にある白べこという牛鍋店は東京にも姉妹店がある人気の店であり、青年も何度か上司に連れられて足を運んでいる。初めて店を訪ねた時、そこの娘は牛鍋の作り方や特徴を初めて食べる青年に丁寧に教えた。気さくで、商売上手な娘だ。初めて食べる牛鍋に感銘を受けていた青年を微笑ましそうに見守っていたことを青年自身も記憶している。そんな彼女は今日も今日とて往来の人々に呼び込みを行っている。
「お昼はぜひ牛鍋白べこへ! ……あら? はんやないの。こんにちは」
「こんにちは、関原さん。よく覚えてらっしゃいましたね」
 青年──が界隈を歩いてきたのに気付いた女性は愛想良く声をかける。彼女の名は関原冴という。関原の頭には三角巾、着物の上にはひらひらとした可愛らしい装飾の布地が付いた前掛け。にこにこと朗らかな笑みを浮かべている。この牛鍋・白べこの看板娘である。はこの店に上司と何度か足を運んでいるため、顔馴染みとなっていた。
「そりゃあ覚えてますよ、牛鍋おいしそうに食べとったもん。あん時ははんの上司の藤田はんも締まりがないって呆れとったね」
「はは、そりゃどうも」
「褒めてへんよ?」
 も関原につられるように笑う。
はん、お昼はもう食べましたか? まだだったらぜひ白べこでお食べやす」
「牛鍋かぁ。今度藤田さんと食べにくる予定だったけど、誘われた手前折角だから食べてこうかな」
「あら? 藤田はんとお約束してらしたんですか?」
「いいえ。約束してはないけど、散々こき使われている分は奢ってもらわないと割に合わないと言いますか」
「ふふっ。そうなんですか。おもしろいこといいはりますね。わかりました。そんなら藤田はんにぎょーさん奢ってもらわないとあきまへんね」
「今度白べこにお金を沢山落とさせますからね、楽しみにしててくださいね」
「まぁ、頼もしい!」
 和やかに笑い合う二人。の軽口に、笑う関原。彼の上司である藤田が聞いたならば、只では済まないが、ここにはその藤田はおらぬ。冗談を交えながら和やかに会話をする穏やかな日々の何気ない風景。夢のようだとは思う。少し前までの陰惨な幕末の京都は今や昔話だ。徳川主導の幕府は倒れ、明治と改められた治世。制限されていた異国との交流は撤廃され、新しい文化がこの街にもやってくる。そして、新しい日々。人々が何気ない一日を穏やかに、何気なくても一生懸命に、その日を過ごしている。もう道端に人を転がす日々は来ないのだろう。そっと腰に帯びた刀を撫でる。の目の前にいる市井の人が恐怖に陥れられることも嘆き悲しむこともない。ぬるま湯のような穏やかな日々を暮らす為の犠牲の果て。その果てに見えた景色がこの日常なのだろうか。
 促されるままに白べこの店内に入ると、関原があっと何か気付いたようだ。
「そういえばはん急ぎの用とかなかった? 今日はどこか行く予定やったんです?」
「ああ。そういえば食事のついでに食器を買いに行こうと思ってたんだ」
 食事の事に気を取られて当初の目的を思い出した
「食器?」
「食器割ってしまってね。予備も前に割ってしまったままだったので新調するんです。よく見たら皆ボロボロだったし、いい機会だから全て新調しようかと」
「そんならこの通りをまっすぐ行って、角で左に曲がって四軒目のお店にいくとええよ。うちもよくお世話になってるお店なんです」
「へぇ、それはいいことを聞いた。ありがとうございます」
「先に買い物してからうち来ます?」
「うーん、そうだな。お腹減ったしに先にここで食べてから行こうかな……あれ?」
「? あら、外が騒がしい。喧嘩かねぇ?」
 ふと店の外が騒がしいことに二人は気が付いた。思わず顔を見合わせて、合わせ鏡のように首を傾げる。店内に居合わせた数名の客と店員は互いの顔色を窺いつつ、店外の雰囲気を感じ取ったのだろうか、表情に翳りが見える。不安そうに外を気にする様子の客と店員。
 は店内の雰囲気を感じ取って、戸口に静かに近寄るとそっと隙間を作り、様子を窺う。普段の市井の賑わいとは一変し、物々しさすら感じる。男の怒号や女性の悲鳴が轟き、穏やかではない。何らかの事件が発生したようだ。大橋の方へと駆けていく人やら何やらと。事態を収拾できる者がおらず、混沌と化している。状況を今一度理解しきれてはいないのだが、兎にも角にもこの状態で人々の不安を増幅させるままではいかぬ。非番だなんだと文句も全て飲み込む他ないだろう。
はん」
 不安そうに見つめてくる関原に、はにこりと微笑み、幼子に言い聞かせるように穏やかに話す。
「私が外の様子を見てきます。関原さんは危ないからお店の中で騒ぎが収まるまで待ってて、ね?」
「お巡りはん呼んできましょうか?」
「お気遣いありがとうございます。大丈夫、様子を見てくるだけです。その代わりに美味しい牛鍋用意しといてくださいよ?」
 お道化たように言えば、関原の強張っていた表情が漸く解けていく。それを見て安心したもにこりと笑い、頭をポンポンと撫でて、いってくると再び外への扉を勢いよく開いて出ていく。
「泥棒! 泥棒!」
「泥棒?!」
 白べこを出た途端に女の悲鳴が聞こえ、はハッとする。先程までの不明瞭だった状況が一気に開けていく。普段は穏やかな昼下がりの街中が騒然としていた理由の答えが転がってきた。その声を聴いて慌てて辺りを見回して見るが、往来に犇めく群衆に盗人が紛れて込んでいるためか盗人の姿が判然としない。木を隠すなら森の中とはよく言ったものだ。
「くそ、今日は人多いな!?」
 感心している場合ではないとは改めて周りを見回すが、依然として往来は騒然とするばかりだ。あっちに行った、こっちに行った、怪我人が出た……あちらこちらで上がる不穏の声。この状況は不味い。身勝手な輩のために無関係な人々が巻き込まれている。それは許容できぬ。理不尽な事で泣き寝入りさせられるのを黙って見過ごすほどの外道でもない。だからこそこのままでは見逃してしまうと焦りが募る。それだけは阻止したい。
「あの男! 髪が長くて背が高い男! 捕まえて!」
 叫ぶ声に弾かれたように振り返る。あまりにも騒然とした界隈。人でごった返した往来の中で誰が叫んだのか判然としない。致し方ない。叫んだ者を探すにも流動的なこの往来を探すには困難だ。盗人逃げられるのも不味い。手当たり次第探す他ないか。焦燥感に追い立てられながら周囲を見回すと進行方向に髪が長く背の高い男が立ち去ろうとしているのを発見する。
 ──見つけた
 髪の毛が長く背の高い男。それらしき男の後ろ姿を発見する。立ち去ろうとする背中を見失わないように小走りを始める。犇めき合う往来を身体を捩らせながらするりするりとすり抜けていく。盗人は人の群れに紛れ込んだつもりなのだろうか。歩く姿は威風堂々としたものであり、はギリっと歯噛みをする。外套など羽織って随分と派手な男だ。憎たらしい。腹立たしさを押し殺しながら接近していく。往来の人々に紛れ込みつつ、気取られぬように注意深く尚且つ迅速に。人の流れの切れ間に出て、一気に詰め寄って男の腕をガシリと掴んだ。
「待ちなさい、あんたが盗人か?」
「あ?」
 不意をつかれて驚いた表情の男。瞳の中に人影が映る。
 この数年後の明治11年、明治東京で浪漫譚が始まるのだが、京都の明治浪漫譚は今ここから始まる──かもしれない。

21.05.18 『 覆水盆に返らず』(上) 初出
23.04.15 修正