「──なんだって?」
じろりと切れ長の瞳が優男──を捉える。男の威風堂々とした佇まいに思わず口篭ってしまいそうな所ではあるが、も引きはしない。ここで引いてしまえば確実に人一人泣き寝入りする羽目になるのだ。それは看過できない。
「……あなたと特徴が似た男に物を盗まれたと叫んだ人がいて犯人を探しています。ただ情報が少ないので何か知っていることはないかと皆に確認しているところです」
「盗人? そんなもん知らねぇよ、俺は一介の陶芸家だぜ」
「陶芸、家……?」
は訝しく男に視線を送る。男の特徴は端的に言うなれば眉目秀麗、筋骨隆々。端正な顔立ち、切れ長の瞳、々しい眉、鼻筋のよく通った顔。その涼しげな顔立ちとは対称的に肉体は厚い。筋肉で隆起した四肢。真紅の襟を持つ白い外套はその風格を体現するかの如く。陶芸家と自称するその男を見ながら首を傾げる。一体全体どうしたらここまで筋肉を鍛え上げられるのかと疑問に思うほどの筋肉の鎧。美しい肉体美。のような優男では到底押してもびくともしなさそうな鋼の肉体だ。天と地の差である。
陶芸家と言われてものみならず他の者であっても訝るのは無理からぬ事である。
「何だ?」
男も怪訝そうにに視線を寄こす。
「いえ、士族の方かと思ったので芸術家の方とは思いませんでした」
「まあ当たらずとも遠からずだな」
「え?」
男はこほんと咳払いをする。
「ともかく、だ。お前が探している背が高くて髪の長い盗人だったか? そういえば、そんな奴が俺よりも前の方を走っていったのを見たな」
「ほんとですか?」
「あのなァ、嘘ついてどうすんだよ。大体なんでお前にそんなこと言われなきゃならねぇんだよ。警察気取りか?」
「一応警察関係者です」
「……」
「……」
「お兄さんっ! け、警察の方なんですか?!」
一人の女性が人を掻き分けるようにして息を切らせながら走ってやってくる。膝に両手をつき、ぜえぜえと息を切らした女性を見かねては静かに近づいていく。満身創痍の彼女がふらりと倒れそうになるのを支えてやると、力なく彼女は礼を述べる。おそらくはこの女性が盗人の被害に遭った女性なのだろう。ここまで一生懸命走って追いかけて来た彼女を労わるように背中を擦ってやる。
「お嬢さん大丈夫ですか?」
「はぁ、はぁ……ありがとう。でも、泥棒は、その人、じゃ、ないの」
「……違うんですか?」
「鼠色の着物に柿渋の袴の……」
「鼠色に柿渋……?」
ちらりと横目で男に視線を向けるが、既にへと向ける視線が痛い。確かにこの男は背が高く髪も長いが着物の色はまるで違う。赤襟の外套など奇抜なものだ。は男の腕を掴んでいた手をそっと離して静かに後退しようとするが、今度はガシリと大きな手によって制止を余儀なくされる。
「……」
「……」
「何か言うことはあるか」
「……失礼致しました。他を当たります」
「おう」
男はまだ釈然としない様子ではあったが、の謝罪を受け入れたようである。一先ず女性の方に向き直ると、彼女に視線を合わせて安心させるように語り掛ける。
「お嬢さん、今度こそ捕まえてきますので警察署の方で先にお待ちいただいても?」
「え、ええ……でも」
「大丈夫です。こう見えても腕っぷしには少し自信があるんです」
任せてくれませんかと朗らかに笑みを浮かべるに、女は躊躇いを見せていたが、もう自分にはどうすることも出来ないことを理解していた為、の申し出に藁をも縋る思いで頷いた。
「しっかり捕まえてやれよ」
絶対に。一部始終を見守っていた男が念押しする。が苦笑いを浮かべながらも首肯すると、また群衆の声が一段と騒がしくなる。今度は何だ、喧しい。半ば呆れ顔で騒ぎの大きい方へ視線を振れば、走ってくる男達。若い男やら中年の男やらが入り乱れて走る姿は何とも得体の知れなさを感じる。今度は何の騒ぎだろうか。女性と外套の男、の三人は互いに怪訝そうに顔を見合わせる。気のせいだろうか、それとも。その男たちはと
外套の男の二人を目掛けて走ってきているような気がする。
「いたぞ、あそこだ! 長い髪の男!」
「どっちだ!?」
「髪が長くて……? ええい! 両方とっ捕まえてしまえ!」
──うおお!
雄叫びを上げながら突っ込んでくる男達。嘘だろ。これにはぎょっとした。想定外としかいいようがない。とんだ濡れ衣だ。まさか己が盗人と間違えられるとは。
「なんで!?」
「ぼーっとすんな! この場は逃げるぞ!」
唖然として立ち尽くしていたの腕を男は引いて走り出す。暫く男に引き摺られるがままでいたも我に返ってはっとすると、自力で地面を蹴って走り出す。「逃げたぞ、追え!」と後方から聞こえる声を尻目に、男と京都の街中を並走する。こんな筈ではなかったと思いつつも、今の状況ではどう足掻いたところで転がるように滑り落ちていく岩石を正面から止めようとする方が骨の折れる話である。あれでは話し合いどころではない。
「ったく、なんでこの俺がこんなことに……」
「こうなったらあなたと私で一蓮托生です。捕まる前に真犯人を先にしょっ引くしかないですよ。そうじゃなければこのままずっと鬼ごっこです」
「ちっ。めんどくせぇ」
「逃がすな! 追え、追えーッ! 盗人だ、盗人だ!」
混雑する往来。人混み縫うように通り抜けながらと外套の男は加速していく。地面を強く蹴り上げて、加速に加速を重ね、京の街を駆け抜けていく。たちが走り抜けていくのを人々は驚いたり、迷惑そうに顔を顰めたり、危ないと怒鳴り散らしたりしていく。彼らの言い分は尤もであるが、たちは御免と一言述べつつも逃げていく男の後を追いかけていく。人の隙間からそれらしき人物がちらりちらりと見える。ただ往来は人とすれ違うには窮屈なほどの人混みで、それが追いかけると外套の男の行く手を阻むため中々距離が縮まらない。
「不味い。この先は中山道だ」
「京都から出て行ってそのまま東に逃げる気だな」
「あの野郎……勝ち逃げする気か、許せん」
「詰めるにもまだ距離があるぞ。どうするつもりだ?」
「うーん……あ」
「あ?」
ニヤリ。どちらが悪党なのかわからないあくどい笑みをが浮かべたその隣で外套の男の顔も引き攣った。
それは獲物に狙いを定めた狼の如く。
* * *
京都の街を一人の若い男が駆けていく。その緊迫した表情に、すれ違う人々は何事かと怪訝そうな顔をして男を見送る。男は混雑する界隈を突き抜けていく。随分と前から街中を走り続けていて、息は浅い。足は疲労の色が濃くなっていく。それでも焦燥感が走れと叫ぶ。速く、速く。もっと速く。足よ、止まるな。動け、動け。急がなければ。すれ違う人々にぶつかるのもなりふり構ってはいられない。怒号が飛んでくるのも関係ない。兎角速く、速く、速く。早くこの街から抜け出さなければ──。
「!?」
「おっと。兄チャン、すまんけぇの」
三条大橋を渡り、京都の街から離れるために中山道方面へと走っている途中、曲がり角から出てきた男にぶつかり、思いっきり地面に転がる。勢い余って地面を転がった弾みで身体を強く打ち付ける。痺れる様な痛みに、舌打ちをする。ついていない。今日はぶつかってばかりだ。痛む身体を無理やり起こし、ぶつかった男の方を睨みつける。
「おい、痛えじゃねぇか!」
「大丈夫かえ? すまんのぅ、吹き飛ばしちまった」
男は困ったような表情で手を差し伸べる。大事ないかと柔らかく微笑みかける千草色の作務衣を来た男。頭には三角巾を巻いている。先程ぶつかった優男よりもこの男の方が体格はしっかりとしているが、まさか自分が吹き飛ばされるとは思っていなかった。奇天烈な言葉遣いをする男。背丈は五尺八寸程はあるだろう。ふわふわとした黒くて長い癖毛結い上げた若い男。年は二十代前半か半ばといったところだろうか。男と同じ年頃かもしれない。人当たりの良さそうな綺麗な顔はさぞかし女から好評だろう。気に食わない。腹が立つ。モテない男の僻みであることはわかっている。この目の前の男が何の気なしに手を差し伸べてくれていることもわかる。それでも屈折してしまった男は差し伸べられた手を叩き落とし、自力で立ち上がる。
案の定、手を弾かれた男は驚いて目を丸めている。
「気をつけろ、馬鹿野郎!」
「およよ、手厳しかね」
「何がおよよだ、気色悪い! さっさとどけっ! 俺は急いでいるんだっ!」
「逃がすかよっ!」
「おい馬鹿!! 俺の万寿!!」.
「っ!?」
少し高めの男の声が飛んできて、ハッとする。もう追手が来たのかと慌てて振り向こうとした、瞬間、背中に重たい一撃。ドンとどつかれたような重い痛みで前のめりに転ぶ。ガシャンと甲高い悲鳴を上げて飛んできた酒瓶が割れて落ち、中に入っていた酒が周囲に華やいだ芳香を漂わせていく。
「ってぇ!!」
「引ったくりは良くないぜ、お兄サン」
引ったくりと呼んだ男に酒瓶を投げつけたは軽快な足取りでその男に近づいていく。蹲った引ったくりの男はげほげほげほと激しく噎せ返すと、ぶるぶると身体を痙攣させる。瞬間、胃液が逆流する。酸っぱい匂いに耐えかねて嘔吐。べちゃべちゃと聞くに堪えない音を立てて、まき散らす。浅くなった呼吸を整えようと息を荒げ、立ち上がろうとすれば、背中に容赦なく足が踏み降ろされて、地面へと縫い付けられる。ジタバタと藻掻き、起き上がろうとするが、カチャリと嫌な金属音が耳に響く。
「ひぃっ!?」
「観念してさっさと盗んだものを返せ」
落ち着いた静かな声で優男――は言う。その顔に表情はない。ただの無だ。無関心。怒りすらない。引ったくりの男の身体中には冷や汗が伝い、血の気がすっと引いていく。本能が感じている。この明治のご時世に刀を持ち、人に向けても何一つ顔色を変えない様子は明らかに異質だ。刀を持って昨日今日の若造ではない。引ったくりの男が知らない先の戦い幕末の動乱を知っているのだろう。下手したら命ごと引き裂かれてしまうかもしれない。心臓はどくどくと速く脈を打ち始め、緊張感が高まっていく。ただの優男かと思ったが、とんでもないことだった。幕末の亡霊だ。明治が始まってもう少しで十年経とうとするこの時代に、こいつはきっとその気になれば、人を殺めることなど何一つ悪だと思わないだろう。殺すことなど造作もないことだと思っている。きっとそうだ。殺される。殺らなければ殺られる。嫌だ死にたくない死にたくない。逃げなければ。
「面倒だなぁ、鬼ごっこはもういいだろう?」
首元に添えられた刀に、思わず喉の奥が引き攣る。刃先が首の皮に当たり、ぷつりと切れ、じわりと痛みで痺れていく。このままでは本当に殺されてしまう。
「うわああああああああっ!」
「っ!」
死にたくない。そんな思いが男の身体に起死回生の力を宿す。身体の底から力を振り絞って起き上がり、引ったくりが動けないようにと背中を踏みつけていたを跳ね飛ばす。火事場の馬鹿力だ。
一方のは反撃を食らうと思っていなかったのだろう。態勢を崩し、そのまま転がり込んだ。その拍子に手から転がり落ちた刀を男が奪い、更にもう一本脇差を引き抜いてが容易に拾えない場所へと飛ばす。形勢逆転だ。起き上がったの眼前に切っ先を突き付ける。追い詰められていた男は、相手の武器を奪ったことで少しずつ落ち着きを取り戻し始める。
「っ動くなよ! 動いたら斬り捨ててやるからな!」
窮地から解放された男は余裕が出て来たのか、ニヤリと笑う。追い詰められて気が動転してしまったが、とて丸腰ではどうにもならないだろう。もう一本の脇差も手の届かないところに投げ捨ててやった。取りに走るにしろ、それに抜く前に斬り捨ててしまえばいい。何も剣術はの専売特許ではない。男とて剣術を学んでいたし、それなりの腕前を持っている。丸腰ではない。男にも刀があるのだから、どうにか凌いで掻い潜ることは出来るだろう。ただで殺られることもない。それにいざとなれば、あの奇天烈な言葉を使う丸腰の男を人質にしてしまえばいい。他人の物を取り返しに来るようなお人好しの奴だ。どんなに昔強かろうとも今は腑抜けてしまっている、結局のところ甘チャンだ。
「財布を返せ」
「ふん。これは俺の財布だ。落とし物なら他当たんな」
「白を切るか」
「うるせぇな、俺の懐にあるもんは俺のもんだ!」
「大人しく従わないなら、従わせるまでだ」
「ふん! やれるものなら、やってみやがれ!」
男は刀を振り上げ、上段から一気に振り下ろす。剣術道場での成績はいつも上位だった。目録だって──
「っ!?」
「馬鹿か、アンタ。侍が丸腰では何もできないとでも本当に思っているのか」
目にも止まらぬ速さで引き抜いたのは刀の鞘であった。男が刀を上段から振り下ろしきる前に、鞘で弾き飛ばすと、低く踏み込んだは懐に勢いよく飛び込んで突きを鳩尾に叩き込む。強烈な突きを食らった男は身体を弓なりにしならせて吹き飛ばされていく。先程までの自信は音もなく崩れていく。刀が無ければどうにでもなると思っていた。勝てるとさえ思い込んでいた。そんな傲慢な考えは一つの突きに塵と化していく。相手を見縊った男の完全なる敗北であった。
男の手から離れた刀は宙へ舞い、くるくると回転しながら落ちていく。は落ちて来た刀をそのまま手に取ると、の突きを食らって立ち上がれなくなった男の前に刀を突きつけた。
「この私が、逃がすわけないじゃないか」
あくまでもは冷静だった。圧倒的な力量差に戦意喪失しつつある男は、悪夢でも見たような顔でをみる。当初考えていた中山道を下って逃げてしまおうという気力は毛頭残っていなかった。
はぐいっと引ったくりの男の襟を引くと、懐を遠慮なく漁る。男の持ち物としては華やかすぎる女性のものらしき財布を見つけると、にんまりと笑う。
「警察から逃げられると思うなよ、兄サン」
「否。俺、そんな柄の悪い警官おらんと思うんじゃけど」
「俺もそう思う」
事の成り行きを見守っていた作務衣の男と外套の男は冷静に突っ込んだ。
21.05.18 『覆水盆に返らず』 初出
23.05.06 修正
23.05.06 修正