「きれい……」
春の息吹に触れ、は感嘆の感嘆を漏らす。その双眸に映る春の色は大層穏やかな色をしており、珍しく相好を崩している。さらさらと風に弄ばれるぬばたまの髪をそっと押さえつけ、は自分の背丈よりも倍以上ある大木を見上げていた。桜の古木である。枝の先の薄桃色の可憐な春は眩い空気の中に咲いていた。ひらひらと舞いながら桜の花弁が散っていく様を見て縁起が悪いと煙たがる者もいるが、その儚くも美しい様に見惚れてしまう者も沢山いる。
個人としても毎年この春の時期が来るのを楽しみにしている。厳しい冬の白銀の世界を耐え忍び、その先にやってくる鮮やかで暖かい季節。太陽の遠く感じた冬が終わり、爛漫の春を迎え、夏に向かってまた太陽が近付いてくる。春は生命の美しい季節。この命が塗り変わっていく様はいつ迎えても心地がよい。春と共に花開いていく桜を、一面に淡くも美しく咲き乱れる桜の到来を、今年も楽しみに待っていた。
「はぁ……良い、天気だ」
の唇から悩ましく吐き出される溜め息。うっとりとした恍惚の表情。普段はすました顔の彼女も春の陽気に心が随分と微睡んでいる。淡い春の陽気に包まれて、張り詰めていた心が解けていくようだ。
慈しむように老木に触れてみる。触れてみると意外とひんやりとしていてこの春の温かい陽気と相俟って心地良い。静かに根元に身体を預けると、額を樹皮に重ねる。ひんやりとした温もりがの額から染みていく。木や花などの静物に触れていると、不思議と心が朗らかになるから摩訶不思議だ。不思議と触れた先から生命力が伝わってくる。老木にそっと腕を回すと、桜の枝はさやさやと風に揺れて笑う。仕方のない甘えたな小娘だと笑っているようだ。大きく息を吸い込む。桜の柔らかくも甘い匂いが鼻孔からするすると肺へ流れ込んで、体内まで春めいていくような心地だ。
日々の仕事に疲れ、ふと桜が見たくなってやってきたのだが、思い切って来て良かったとはゆっくりと息を吐く。人使いの荒い上司に反逆し、仕事を抜け出してきてしまったのだが、これは抜け出して正解だ。後々の報復はある程度覚悟の上だが、薄桃色の美しい春を堪能せずに仕事などやっていられない。ここに酒瓶の一つや二つあったならば最高であったが、文句は言うまい。罪悪の残滓は片隅にはおいてあるつもりである。桜の木の真下から仰ぎみる桜色の空はこの時期だけのとっておきの風景である。
――来年も、また桜見に来ましょうね。
桜の柔らかくも甘い匂いが、その記憶を呼び覚ましていく。
今まで生きていた内で大切にしていた日々と、大切な人たちの思い出。
がまだ京都の屯所に転がり込んでいた頃。おつかい帰りにこっそり、彼の人と二人で見に来た桜。どこから捜し当てたのか。連れられてやってきたこの桜の木の下は春の産声が鳴り響いていた。桃源郷と呼ばれる場所はきっとこの場所のように美しい花の都なのだろうと思った。圧巻の花園にただただ、心が震えていた。見惚れるとはあのことだったと思う。桃色の絶景は、息を飲むほど美しく夢のようなであった。あの時、はいても経っても居られずに衝動のまま駆け出し、桜の木まで駆け寄ると感触を確かめるようにぺたぺたと触れていた。あれほどまでに美しい景色を見たのは生まれて初めてだったのだ。あまりにも美しい光景に、愛おしいほどの美しい世界だと歓喜していた。震えるほど、目頭が熱くなるほど、麗しい春を、この身に宿すことができたのだから。
――春はお好きですか?
――ああ、好きになれそうだよ
心の底からの本音であった。自然と口角が持ち上がり、彼の人に微笑んでいた。の零れた表情に驚いた彼の人は、まじまじとの顔を見つめていたが、彼もつられて嬉しそうに笑う。の感情の発露を己のことのように嬉しいと笑う彼の人の笑みはまさに春の華のようだった。見惚れてしまうような花笑みであった。
彼の人がゆっくりとの隣に並ぶ。互いに見つめ合ってから、自然と頭上を覆う桜の花に視線を向ける。花風が枝を優しく揺らし、花びらを舞わせる。法華経、法華経、と春へ誘う歌声がする。柔わらかで心地の良い誘い。するりと誘われるようにの小指にそっと絡まる。あの人の小指。
「来年も、また一緒に見に来ましょうね」
「来年も一緒に?」
「ええ、約束です」
「それで指切り?」
「針千本は痛いので、お団子奢るので手を打ってください」
「ふふっ。意気地なし」
「針千本飲む覚悟がないと駄目ですか?」
「ううん。約束しよう。来年もここに来よう」
――思い出に眼差しは緩む。木漏れ日がの顔を照らす。眩しい。
その緩んだ眼差しは遠い思い出を見つけ、そして、その後の約束の行方を見つけると表情が暗くなっていく。彼の人とは一度も来られずに十年以上の時を空費してしまった。不履行の約束。二人が、一人になった花見。切る指もなく、ただ、一人、あの日と同じ美しい桜を見つめるだけだ。
「もう、団子も奢ってくれないね」
苦々しく吐き捨てた言葉から目を背けるように目を瞑り、木に身体を寄り掛ける。目を瞑れば昨日のことのように思い出されていくのに、経年と共に遠ざかっていく。一生果たされることのない優しい約束。何年も掛かってやっとの思いで再び訪れたこの場所。その優しい約束を思い出しては悼むのだ。
「*“山ざくら 霞の間より”……だな」
鼓膜を揺らした男の声に、びくりと身体が揺れた。驚いて振り向いて見れば、酒瓶を片手に持った大男。その視線は、男も例外ではなく、桜へと注がれている。眉目秀麗の男。筋骨隆々とした強靭な肉体とは相対するように綺麗な顔立ち。男の黒漆塗りの艶やかな黒髪がそよそよと風に揺られ、ひらひらと舞い散る淡い桃色の花びらがどこか幻想的に映り、そっと息を飲む。
「いい花見日和だ。今日の酒は美味いぞ」
「新津、センセイ?」
気を緩め過ぎたかと、――男装している時はと名乗っており、その時はと呼ばれることが多い――は自省する。この新津覚之進という男が近づいてきたことを気取ることができなかった。昔から命の危機に晒されてきた為、人の気配には過敏な方であったのだが、桜の美しさに見惚れてこの様では上司に斬り捨てられてしまう。
「、お前も花見に来たのか」
「ええ、ちょっと息抜きに」
「ならば、一献」
新津は持っていた酒瓶を傾ける仕草をすると、の隣に腰を下ろす。どうやら酒盛りは強制らしい。ははっと乾いた笑いを零すと、渋々男の方へと向き直る。差し出された盃を受け取ると、とくとくと小気味よい音とともに透き通った色の酒が注がれていく。酒独特の匂いがふんわりと漂い、ひらひらと舞い落ちてくる桜の花弁が引き込まれるように盃へと舞い落ちる。
「あ」
「ほぉ。中々に粋なこったな」
「きれいですね」
「ああ、きれいだな」
桜が舞い落ちてきた盃を覗き込んで感嘆の声を上げる。こつんとぶつかった額同士。絡まった視線。見据える眼差しは凪いでいる。口角を緩やかに結び微笑を浮かべる新津に、は見てはいけないものを見たような、何となく気まずさを覚えながら、そっと居住まいを正し、盃を口にする。いただきます。盃を静かに傾ける。ゆっくりと一口。喉を反らし、酒を口の中へと含ませると、途端に口腔内に酒の風味が広がっていく。さらりとしたというよりは味わい深い。酒の香りもよく香っていて喉の奥に沁み渡っていく。この酒のみでも十分に楽しむことが可能であるが、食事でもより一層楽しむことが可能であろう。
「……おいしい」
「ふん。当たり前だろう。俺の好みの酒だ」
「ただの飲兵衛じゃあなかったんですね」
「一言余計だ」
桜の花弁を飲み込まないように、ゆっくりと飲み干すと、今度は盃と酒瓶を交換する。今度はが盃に酒を注ぐと、新津は目を細めて水面に浮かび上がる桜を見つめている。
「そういえば、団子が食べたかったのか?」
「え?」
「さっき、言ってただろう。団子がどうのって」
「――あー。桜見ていたらお団子食べたくなってね」
「ふぅん……」
「新津センセは甘いものあまり召し上がらないですからね」
新津の気のない返事に苦笑する。そっと彼の傍らに酒瓶を置くと、すかさずそれを取って手酌で酒を注ぎ始める。
「ふふっ……」
「なんだ」
「いいえ? “春は桜”……でしたっけ?」
「“春は夜桜”が一番いいんだがな……」
ちらりとを見ると、そっと頭の上に乗っかっていた桜の花弁を摘まむ。
「――だが、昼間見る桜も悪くない」
「お酒もおいしいならなおさら、ね」
「違いねぇな」
顔を見合わせて、ふっと笑う。そして、桜の木を見上げる。ひらひらと穏やかな春が新しい季節を祝福するように二人へと降り注がれていく。春昼の心地よい空気感が流れていく。二人の間には言葉はない。元より口数が多いほうではない。それでも、流れる沈黙は重々しいものではない。むしろ穏やかなもので、互いが自然と身を寄せるような居心地のよさであった。自身も、何だかんだと振り回されることもあるが、どこか居心地よいような感覚を自覚していた。
先程までの感傷的な気分はどこかへと有耶無耶に消えてしまった。凍えていた心は麗らかな空気に包まれて凪いでいる。温かくて、どこか安心する。この桜の木のように。
それはきっと――
「新津センセ、そろそろ戻ります」
桜の木を一撫でして、は新津に視線を向ける。それまで酒を呷りながら桜を眺めていた彼もへと視線を向ける。
「もう帰るのか」
「はい。仕事抜けてきてしまいまして」
「……お前、結構突拍子もないことするときあるよな」
「そうですかね」
「まあ、仕事じゃ仕方ねぇな」
「おすすめの夜桜が見れないのは残念ですけれども」
「そうするとまた来年だな」
「――来年?」
はたりとの瞳が瞬く。
「俺も近々新しい作陶に入る。そうしたら今年はもう見られないだろう」
「そうなんですか」
「来年は夜桜だ。団子も用意してやらんこともない」
「センセ?」
すっと小指を差し出して、新津はニヤリと笑う。
「約束だ。お前は美味い酒用意しておけよ」
来年もお前の花見に付き合ってやる。そういって掬い上げるようにの小指が絡まって、指切りをすると、あっさりと離れていく。
「え、え?」
「約束破ったら、何でもいうこと聞いてもらうからな」
覚悟しておけよ。そういっての額をピンとはじく。新津は面白いものを見つけたというように上機嫌になって酒を呷り始める。
呆然とするは、突然の宣言にまだ混乱している。来年などわからない。警察に所属するはこの明治の世の中で幾度となく危険に晒されてきた。すでに幾度となく死に掛けている。約束を守れるのかすらわからない。
――来年も、また桜見に来ましょうね。
約束が希望をくれる。柔らかくて暖かい光となって、呼び掛けてくる。ささやかな約束だ。風に吹かれて飛ばされるような約束。指切りするほどの約束でもない。約束は思わぬ形で破られることだってある。口約束を期待はしていないし、期待されても困る。
それでも、心は確実に震えた。この約束は優しさで詰まっている。にとっては大切な約束になる。
来年の花見はきっと二人で夜桜を。
「センセは春は好き?」
「あ?」
「私は大好きなんですよ」
にこりと心からの微笑みを見せたに、新津は目を丸くする。静かに息を飲む気配を感じながら、は優しく手を取って小指同士を指を絡ませる。
そして今度はから――
「来年も、また桜見に来ましょうね」
楽しみにしておきます。
そう言って指切りをすると、仕事に戻ろうとその場を足早に後にする。
道すがら、驚いた新津の顔を思い出しながら、絡めた小指を見つめてほくそ笑む。来年こそは聞けなかったあの言葉の意味を聞けるのだろうかと考えながら。
*“山ざくら 霞の間より”
古今和歌集 巻第十一 恋歌一 四七九 『山ざくら霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ』 紀貫之
“山桜が霞の間からほのかに見えるようにほのかに姿を見たあなたが恋しいことだ”
参考:
高田祐彦 訳註『新版 古今和歌集 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 平成二十一年六月 初版
21.04.18 『星巡り』 初出