火変わり




「私にも、茶碗を作る事って可能なのでしょうか」

 少し高めの、しかし、しっかりと芯の通った、耳障りのよい声色が鼓膜の中で渦巻いた。
 違い棚に乱雑に置かれている陶器をしげしげといった素振りで眺めていたその人物。普段は陶器に関心も示さない薄情な奴からの発言だった。不意打ちの発言に、陶芸家・新津覚之進は暫し言葉の意味を考え込んでしまっていたが、聞こえてますかと訝しげな声が飛んできてそれが聞き間違い出はなかったことを確認する。珍しいこともあったものである。明日は槍でも降るのではないだろうか。
「新津せんせい」
「聞こえている」
 ろくろを回していた手を止めて訝しく視線を移せば、その水晶体がこちらを覗いている。昼下がりの憂鬱のぶら下げた瞳。そのくせ、嫌に透き通ったその眼球はじっと新津を見つめていた。珍しい視線だ。芸術のことはてんでわからないとぼやいていた奴だからこうして興味を示すのは珍しい。少しでも新津覚之進に興味を抱いたのだろうか。それはそれで小気味いいことだ。この不届き者は飛天御剣流第十三代目継承者比古清十郎の剣術には興味がある癖に、陶芸家・新津覚之進の作陶にはてんで興味がないようだった。正直それが面白くなかった。だが、無理に教え込んだところで何の意味もなさないから放っておいたが、少しでも興味があるようならば吝かではない。
「新津センセイ?」
「お前にその気があるならば何も問題などない」
 芸術は心に潤いを与える。己の中の感覚でそのものに対峙して触れる。それは触覚であるとか、視覚であるとか、嗅覚であるとか、所謂、五感であるとか。そういったものでその芸術の中に眠る何かの種を感じ取って、今度はそれを自分の中へ蒔いていく。その種はすぐ萌芽するかもしれないし、十年後かもしれない。あるいは一生芽吹くことはないかもしれない。それでも己を形成する一部となる。己の琴線に触れたものが自分の知らぬ間に染み渡って、いつか心を掬う時が来るかもしれない。そういったものが、目の前のこいつをいつか助けるかもしれない。それならば触れさせてやるために導いてやるのも芸術家としての務めだ。面倒ではあるが、目の前のこいつは導いてやる方が――
「――やはりいいです」
「は?」
 手拭いで手を拭い、どれ一つ引導を渡してやろうかとに近づこうと立ち上がったが、はそっと棚の上に持っていた湯呑を戻す。ちらりと見えた横顔が嫌に無機質だ。ことりと乾いた陶器の音が小屋の中に響く。その音が、やけに耳障りに渦を巻く。透明な声色に、自然と眉根が寄っていく。
「すみません、気にしないでください」
「おい」
「やはり……それに」

 大股で近づいて、グッと腕を引っ張ってを己の方を振り向かせる。驚いた表情の奥の、揺らぐ射干玉が新津の姿を映している。少しだけ水気を含んだその硝子玉を見て、不謹慎ながら、その艶やかな透明を美しいと思った。途方もないような、迷子の顔をした情けない表情。不細工な顔だと笑ってやる。目の前に天才がいるのだからそんな情けない顔するなんて馬鹿な話があったものか。ピンとデコピンを一発叩き込むと、弾いた額からキレの良い音が鳴り響く。
「っ!?」
「莫迦者。折角俺という天才が直々に教えてやろうってのにお前ときたら」
「って……このっ……馬鹿力……っ痛」
「もう一発行くか?」
「いらん! いらんいらん!」
 これ以上は堪らないと慌てて掴まれていない方の手で額を隠す。その必死さを見て、ふっと笑みを漏らしてしまう。そうだそれでいい。こいつは辛気臭いばかりする。そう言う顔でこの新津覚之進の前にいると言うのは気に入らない。渋い顔などせずに笑っていればいい。生意気に噛み付いて来るぐらいの張り合いがある方がいい。
「安心しろよ、。どんなに芸術の才能がなかろうとこの天才新津覚之進様が直々に教えてやるんだから」
「何ですかそれ」
「下手くそなのは承知の上だぞ」
「……一言余計じゃあないですか?」
 むっすりと、不愉快そうに言う。は怒りで頬を引きつらせるので、両頬をぐいぐいとほぐす様に上下に引っ張った。顔はいいのだから、いつも笑っていればよいというのに。



 * * *



「わっ、つめたい!」
 おそるおそる土に触れたの肩がビクリと跳ねた。冷たいと跳ねた手と顔が同じ表情を浮かべ、そっとその粘土の感触を確かめるように触れる。
 新津の勧めもあり、気を取り直したは新津に教えを乞いながら土を捏ね始めていた。芸術の事はてんでわからないと嘆いただが、興味がないわけではなかったらしい。土を捏ねるのが楽しいようだ。その横顔は好奇心に満ち足りたように輝いていた。手つきは不器用だが、手を土塗れにしながらも楽しそうに捏ねている。先ほどとは打って変わって良い顔つきだ。夢中になって捏ねているを見て、新津はそっと笑う。引き留めて正解だった。幼子のように無邪気に目を輝かせて土弄りを楽しんでいる。武家の生まれであるから習い事は一通りできるようだが、手習にしろ何にしろ厳しく躾けられて、芸事を楽しむような環境にはなかったらしい。作陶などは縁がなかったようで、新しい習い事として興味深そうにしている。興味のなさそうな素振りはあったが、陶芸自体に興味がないわけではなさそうだ。大方、興味はあるが、芸術としてはよくわからぬから口を出さず遠巻きに見ていたといっところだろう。手を動かす度に着物の袖が揺れ、汚れそうになっている。見かねて背後から襷掛けをしてやると、弾かれたようにが振り向いた。
「な、ん……?」
「袖が汚れる」
 目を白黒とさせていたが己の袖に視線向けてから物言いたげに新津をじとりと見つめてくるが、そろりそろりと止めていた手元へと視線を向けてぽつりと呟いた。
「……ありがとうございます」
「ああ、楽しそうだな」
 一瞬、虚を突かれたという風な顔をしたはすぐに苦笑する。
「楽しいと言えば楽しい。けれど変な感じ」
「あ?」
 頬に掛かる髪を指先で弾きながら、土を捏ね続ける。
「こうやって何かを作るのって初めてなんです。だから自分の手で何かを生み出すって不思議な感じ」
「嫌だったか?」
 新津の問いかけに、がふふっと機嫌が良さそうに息を漏らす。
「でも、気分はいいですよ」
「そうかよ」
 新津も楽しそうに土を捏ねるにつられるようにそっと笑みを漏らす。あまり笑わない奴だから心配していたが、しっかりと笑えている。ふとした瞬間に浮かべる辛気臭い顔がどうにも気に掛かっていたが、これをきっかけに何かが変わるかもしれない。
「そういえば、新津先生って陶芸界では偉い人なんですか?」
「別に偉くはないが、いきなり何だ」
「陶芸なんて私には縁遠いものだと思っていたから何も知らないと思ってね」
「お前、本当に俺のこと知らないよな」
「ははは。えー? まあまあ」
「ったく。しょうがねぇな」
 新津の事を先生というからにはある程度の事は知っているのかと新津自身は思い込んでいたが、それは全くの間違いだということに気が付いた。「飛天御剣流陶芸術とか?」などと頓珍漢な事を宣うっている。何が飛天御剣流陶芸術だ。呆れと腹立たしさを感じながらも、珍しく楽しそうにしているに毒気を抜かれてしまうのも事実。
「俺が陶芸を始めたのはここ近年だ。陶芸界ではまだまだ新人の部類だ」
「へぇ。もっと前からやってらっしゃるのかと思ったなぁ」
「巷じゃ新進気鋭の陶芸家なんて言われてるみたいでな。まぁ何でもこなせてしまう天才だから当然だな」
「うわ、腹立つな」
「あ?」
「あ」
 あという顔をした後、憎たらしいまでには満面の笑みを浮かべる。
「――それで。どんな感じに作ってるんですか?」
 はぐらかしたと睨めば、シラを切る。どうあっても押し通すつもりらしい。一つ舌打ちをしつつ、仕方なく見逃してやる。
「作品はその時に作りたいものを作ってるが、基本的には湯呑や食器類は使いやすい形にするように作っている」
「へぇ。それはこだわりなんですか?」
「そうだな。実用的で四季折々を感じて親しめる方がいいだろう」
「四季折々、ですか?」
「食器っていうもんは人間が生活している長く使うものだろう。食器と共に生きるんだ。それならば、長く使い続けられて楽しめる方がいいだろうよ」
 じっと新津を見つめて話を聞いていたは感心したよう息を漏らす。その瞳には薄っすらと光が差し込み始めている。
「行きつけの酒屋の親父に一つやったら、使いやすくてずっと使っているって嬉しそうに話してやがったけどよ。やはり、そいつが気に入って長く使ってくれるって言うのが陶芸家としては嬉しいもんだな」
 しわがれた親父の顔がくしゃくしゃになって笑っていた。使いやすくて毎日食事の時間に器を何を盛りつけるか考えるのが楽しみだと欠けた前歯を見せながらからからと笑っている姿が目に浮かび、思わず笑みが零れてくる。
「ふぅん?」
 に視線を戻せば、にんまりといった様子のが新津を見ていた。
「何だよ、文句でもあるのか」
「いいや、貴方もそういう顔するんだなぁと少し合点がいった」
 が柔らかく笑う。あまりにも穏やかに笑うので珍しさにじっと見つめていると、のひんやりと冷たい手が新津の手に触れた。土に濡れた指先が輪郭をなぞる様に新津の手の甲や手のひらを這い、指先に絡まったりする。
「おい」
 新津も流石にぎょっとして手を放そうとするのだが、それでもは離さない。
「先生の手は”つくる手”なんですね」
「”つくる手”?」
「こうして作品を作ったりするのは勿論だけれども、それって誰かの生活の一部も作っているってことなんですよね」
「まあそうなるな」
「少なくともその酒屋の親父さんは新津先生の作ってくれた食器を使って生活することで毎日が豊かになったと思いますよ」

 ――陶芸家って素敵なつくる手を持っているのですね。

 いいですね、そういうの、って。
 慈しむような笑みを浮かべた。その眼差しには一点の曇りもなく尊敬の念が込められており、労わるようにするりと新津の手を一撫でして手が離される。陶芸に関して明るくないがこうして陶芸家・新津覚之進を称賛したのは初めてであった。それほど陶芸には興味を示さなかった人間が、こうして陶芸家・新津覚之進の事を認めて評価することは素直に喜ばしいことだ。自他共に認める天才肌であるから、
称賛されること自体に何の不思議も持っていない。寧ろ何でもできてしまう天才だからこそ称賛されることは普通であるという気概すらある。故にが新津を褒めたことも何ら不思議ではない。ただ、が心の底から陶芸家・新津覚之進に敬意を払う姿に、満更ではない感情が芽生えていた。ゆるりと胸の奥底を撫でるような心地はどこか日溜まりに浸かるような穏やかな心地がするこそばゆさがある。そのこそばゆさに新津は自分の髪をくしゃくしゃと乱暴に掻き混ぜる。普段は斜に構えているような所がある癖に、こうも素直に褒められるとなると何となくむず痒く調子が狂う。
「あー……お前、いつもこうなのか?」
「何ですかいきなり?」
「いや、何でもねぇよ。……そんで、何がつくりたいんだよ?」
「茶碗ですけど」
「? 埴輪作ってんじゃねぇの?」
「違いますけど」
 何言ってんだこいつという視線を寄越すの手が止まる。手のひらや指先で土を練りながら成形を始めていたのだが、茶碗というには奇妙な形だ。西洋の湯呑みのように取っ手を付けてみたのだと述べたの顔には、どこか溌剌とした表情が浮かんでいる。新津に触発されてやる気に満ち溢れていると言ったところだが、どうにも不可解な形状のものに見えてしまう。まごうことなき埴輪。否、土偶という線も捨てがたい。埴輪だろうかと問うてみたが、即座に否定されて、さすがの新津も困惑する。
「お前、変な創意工夫は止めろ。まずは基本に忠実に作れ」
「え? 持ち手あれば今度こそ落とさないと思ったんですけど」
「初心者は複雑にしない方がいい。それにあまり薄いとヒビ割れるから厚めにな」
「ちぇっ……取っ手をあるといいと思ったんだけどな」
「まだいうか」
 しょんぼりとしながら一度形を崩して再び土を捏ね直していくの姿に少しばかり罪悪感も覚えたが、これでは完成まで遠のく一方だ。適度に助け船を出してやりながらろくろで回しながら成形してやると、少し不恰好だが茶碗の形が姿を現していく。
「わ! 出来た!」
「まぁ、俺の手に掛かればざっとこんなものだろう。絵付けはどうするか決めているか?」
 各々が満足した表情で成形された茶碗を見つめる。は子供のようにきらきらと目を輝かせて、すごいと呟いている。
 小屋の外の窯の中に成形した茶碗を入れて、窯に火を入れる。
 後はこの窯の中で焼き上げる作業だけ。細かいところを上げれば、土に含まれた水分を飛ばしてから絵付けなどして再び焼き上げるというような工程もあるのだが、割愛する。
「絵付けなんてするんですか? 私、絵心ないのでお任せしていいですか?」
「(だろうな……)物によってはそのまま絵付けなしで焼いてもいいが、特別だ。絵入れといてやるよ」
「ありがとうございます」
 楽しみだなと小さく呟いたその横顔は、今まで観た中で一番穏やかで明るい顔をしていた。



 * * *



 が新津の山小屋で作陶をしてから暫く。素焼きや絵付などの工程を新津が引き継ぎ、ついに完成した。茶碗を持って新津は街へと降りた。警察関係者として働いているは仕事上出張しなければならないこともあるらしい。文のやり取りをして都合を互いに窺っていたが、漸く完成品を渡すときが来たのだ。作る前は心許ない様子のだったが、茶碗を成形していく内に興味関心が芽生えたのか楽しそうにしていたのが目に浮かぶ。
 ――それって誰かの生活の一部も作っているってことなんですよね。
 感心したように土を練っていたが笑っていたのを思い出す。その眼差しには大半は敬意の念が篭ってはいたが、その奥底に薄暗い燻りがなりを潜めていた。あれはの心の中の燻りだ。明治に入って数年。は自分の事を語らない。詳しい過去は与り知らぬところではあるが、という人間は未だに幕末という時代を引き摺って生きている節がある。薄氷の上に立っているような危うさがある。そういう姿を見ていると、喧嘩別れして音沙汰のない自分の弟・緋村剣心の姿が脳裏に過る。と己の弟子は同年代といったところだろうか。音沙汰がないものだからあの弟子が今どこで何を想い生きているのか定かではないが、みたいにどこか燻り続けながら生き続けていたら目覚めが悪い。緋村に与えた飛天御剣流は比古清十郎のとっておきだ。飛天御剣の剣がきっと緋村を助けてくれているだろうが、はどうだろうか。あれは――
この茶碗をに渡したら、の生活にも少しは彩りを添えてやることが出来るのだろうか。
「こんにちは新津先生」
「おう、。何やってんだ、こんなところで」
 思案していると、が軒下から這い出て来た。突然のことにぎょっとしたが、当の本人はお久しぶりですと拍子抜けするくらいに呑気な声だ。よく見れば腕の中に小麦色の猫が収まっている。目を真ん丸くしてきょろきょろと怪訝そうに見回しては時折ゆらゆらと尻尾を揺らがせている。が猫の頭を撫でてやると、にゃあと鬱陶しそうに手を払おうとしている。ぺしりと猫の前足がの手を叩くと、は指を動かして空気をにぎにぎとしていたが、ゆっくりと手を引っ込め。少しだけ寂しそうな顔に、少しだけ同情する。動物は結構好きらしい。
「猫ちゃんが迷子になったから見つけて捕まえてほしい、って近所の方に頼まれましてね」
「それで捕まえて泥だらけか」
「え、うそ。泥だらけになってます?」
 げっと苦々し気に顔を歪めたが猫を抱えながら、自分の着物の汚れを確認する。新津の指摘通り、も猫も身体中泥まみれになっている。群青色の着物も、白銅色の袴も、中性的な顔も、結った長い髪も、泥に塗れて、みすぼらしい。うわっと嘆息を漏らしたを横目に、やれやれと懐から手拭いを取り出した。猫を抱えて手が塞がっているの顔をごしごしと拭いてやると、痛いと抗議の声が上がったが、新津の知ったところではない。猫の顔もごしごしと拭いてやると同じようににゃあと抗議の声が上がる。
「身なりはちゃんとしろ」
「新津センセイに言われてもなぁ」
「あ?」
「いや、なんでもないです」
「ったく、お前も世話が焼けるな」
 やれやれと溜息を吐き呆れる。頬を拭っていると、ふふふっと擽ったそうに呑気に笑う。腕の中の猫も泥だらけの顔を拭いてもらい、擽ったそうに鳴く。美人さんにしてもらえて良かったねと、猫の頭を撫でている。そんな戯れる姿を眺めていると、くるりと視線が新津に向く。猫の両前足を持って、人形師のように猫の手を動かすとポンポンと肉球で新津の腕を叩く。
「新津センセ、ありがとにゃん」
「あ、ああ……」
「あれ、猫お嫌いです?」
 横の前足をぴょこぴょこ動かしながら、は怪訝そうに首を傾ける。にゃあと猫も釣られて鳴く。
「いや……何というか。お前もそういうことするんだなって思った」
「猫と戯れるの楽しいですよ。新津せんせは猫と遊ばないんです?」
「猫はあんまり見かけねぇな。熊はよく戯れて来やがるが」
「熊?」
 は目を白黒させる。
「それより、お前の茶碗持ってきたぞ」
「あ! ありがとうございます。楽しみにしてました!」
 ぱあっと喜色を浮かべたを横目に、持ってきた包みの中から先日の茶碗を取り出した。
「すごい……!」
 息を呑む音がする。
 釉薬で美しい淡雪に身を包んだ白磁の茶碗。その美しい淡雪の上に引かれた流麗なな藍色の線が梅の花を描いている。白と藍が互いに美しい色合いを引き立てており、見る者を魅了する。豪奢さはないが、簡素ながらも洗練された美しさを表現した器は新津にとって会心の出来である。毎日使うものなのだからいつでも手に馴染むものが良いのだ。のとしてもこれぐらいが使いやすいだろう。
「気に入ったか」
「すごい……すごい。こんなに綺麗なるなんて思わなかった。ありがとうございます!」
 感極まったように、新津の手の中に収まった器を覗き込む。陶器色合いや肌、手触りを噛み締める様に確かめて、幼児のように嬉しそうに笑う。大袈裟だという言葉は、喉元で引っ掛かり声にはならなかった。
「……私にも、つくれるんだ」
 一瞬、はくしゃりと顔を歪めて、泣きそうな表情をした。
、お前」
「新津センセイ」
 動いた視線が柔らかく笑みを結ぶ。あれは見間違いだったのだろうか。
「大事に使いますね」
「――ああ」
が猫を抱え直そうとすると、大人しかった猫が突然足をパタパタとさせて暴れ始める。いきなり暴れ始めた猫に驚いて、落ち着かせようとするのだが何かが気に食わなかったか。バタバタといっそう暴れて、があっと叫ぶと同時に猫が腕の中から飛び出して新津に向かって飛び出した。咄嗟に飛び込んでくる猫を抱え込むことには成功したが、興奮した猫は新津の腕の中でバタバタと暴れて、再び飛び出していこうとする。

 ――ガシャアン!

 切り裂くような鋭利な音が響く。暴れた猫の足が持っていた包みを跳ね飛ばし、地面に落下した。茶碗は見るも無惨に四散する。猫は飛び出してそのままどこかへと走り去っていく。
「あ」
 粉々に砕け散った茶碗が足元に漂っている。往来する人は固まったままの新津とを横目に訝しそうに見ていくが、すぐに興味を失ったように通り過ぎていく。
 茶碗の出来栄えに心底喜んでいた手前、に何と声をかけてやるべきかと足元に視線落としたままのの様子を窺う。表情はすっかりと消え失せ、じっと足元を見つめまま立ち竦んでいる。
よく見れば、破片が飛んだのか、その手から鮮血がつつっと静かに流れている。
「! 大丈夫か。怪我しているぞ」
「――あ、ああ。大丈夫です。痛くないので」
 今気がついたというような顔で血が出ている箇所を認めると、は口付けを落とすように傷口に唇を当てる。どこか儀式めいたその様子に思わず息を呑み、凝視してしてしまう。の顔立ちは整っている為、そういった何気ない仕草も中々に様になるのだ。無言のまま細まった瞳がゆっくりとしゃがみ込み、足元に散らばった茶碗の破片を拾い始める。感情が何も乗らぬその瞳が気味が悪くも気にかかる。
、俺がやる」
 破片を拾う手を掴んで制止すると、ハッとした表情でが新津を捉える。
「あ。すみません、折角仕上げていただいたのに」
「そんな顔をするな。時間はかかると思うが、金継ぎしてみよう」
「金継ぎ?」
 小首を傾げるに、新津は大きな欠片を丁寧に拾い上げる。そして繋ぎ目を合わせくっ付けて見せる。
「小麦粉と漆と水を混ぜ合わせたものを繋ぎに、破片と破片を接ぎ合わせる。他に欠けたとこを埋め合わせたり、金属粉で継ぎ目部分を装飾したりするんだ」
「でも結構細かく割れてしまったから難しいのでは?」
 ぽつりと呟いたの頭をガシガシと撫でて、ニッと口角を引き結ぶ。
「お前は俺を誰だと思っているんだ?」
「……山奥おじさん?」
「天才陶芸家だ。お前俺の事なんだと思ってんだ」
「わざわざ山奥で暮らす変な人」
「おい!」
「はははっ。人嫌いみたいな生活してるくせに、意外と世話焼きなおじさんですよね、新津先生って」
 目を細めて笑ったがそっと新津の手を解く。。そう声を掛けた新津に首を振る。
「すみません。金継ぎするかしないかは新津先生に任せていいですか」
 欠片を拾い集めたが包みにしまい込んで新津に渡す。ゆっくりと膝を伸ばして立ち上がるが斜陽を眩しそうに見つめ、己の顔の前に腕で庇を作る。
「暫く仕事で京都を出なければいけないので」
「またか。忙しいな、どこ行くんだ?」
「薩摩の方に」
「怪我せず帰って来いよ。張り合いがないからな」
 新津が気を遣って掛けた言葉張り合いなんて思ってもないでしょうと、は力なく笑い、肩を竦めて深く息を吐く。

「ま、その金継ぎとやらでも直りそうもなければ無理しなくて良いですよ。ものはよく壊れるものですから」
 左様なら。
 踵を返して家路へと歩いていく姿に、一抹の不安が過ぎる。
「おい! 今度帰ってくる時までに直して置く。土産の酒、忘れんなよ!」
ピタリと立ち止まったは振り返り、きょとんとした顔をしたが、相変わらずですねと苦笑した。
「にゃおん」
 先程の小麦色の猫が民家の瓦屋根から飛び降りてきての前を横切って駆けていく。それにハッと気づいたが「ぽち! 逃げるな、家に帰るぞ!」と全力で駆け出して行く姿を見て、気が抜けた笑いが漏れてしまう。足が意外と早いようでもう既に遠くに見えるのみですぐに見えなくなって行った。些か気になりはするが、きっとひょっこりと帰ってくるのだろう。
 それまでにこの割れた茶碗を綺麗に直してやらないとなと手の中の包みを持ち上げる。いつかこの茶碗を使って飯を食うアイツを思い浮かべながら、酒でも買って帰ろうかと馴染の酒屋へと足を向けるのだった。




  ――後に西南戦争と呼ばれる、武士達による最後の武力蜂起が始まる、少し前の話である。

22.04.03 『火変わり』 初出
22.04.16        加筆修正