枯木逢春




 春光が氾濫する、冬がひっそりと解けていく。

 比古清十郎が己の住む山奥の山小屋から下りて街に出てみれば、里は既に春の気配が漂っていた。光のどけき春を迎え、冬の刺々しい気配も次の冬に向けて眠りにつこうとしている。住処とする山奥より一足先に人里にはすっかり梅の馥郁ふくいくたる香りが漂い始めている。
 いよいよ、春が眠りから覚めていく。
「贈答用に食器を作ってほしい」
 それはからの依頼だった。
 遡るはまだ春眠る冬の日の事。雪で閉ざされた山奥へ分厚い防寒対策をしてがやって来た。そんなの姿に比古も驚いたが、比古のもう一つの側面である陶芸家・新津覚之進への依頼で遥々訪ねてきたのだ。その依頼というのが、贈答用に食器を作ってほしいという依頼であったのだ。話によれば、の近所に住む夫婦が子どもを授かったとのこと。次の春頃にはその子が産まれるであろうということらしい。そのお祝いに贈り物をしたいと考えたようだ。陶芸家・新津覚之進の腕を見込んでの相談であり、比古からしてみれば意外な事であった。という女は剣術には秀でた才覚を持っているのだが、芸事に関して疎いところがある。武家の娘である故に一通りの事は習いはしたようだが、最低限といった具合だ。一度だけ陶芸に興味を持ったが比古に教えを請うたことがあったが、その一度きりとなってしまった。自身は陶芸に携わることはなかったが、新津が作った食器を実際に愛用している。その上で新津を信頼し依頼したのである。それならばの信頼に応えるべきだと二つ返事で了承した。
 それから数ヶ月。完成した食器を手に、こうして山を下りて来たのである、が──。
「何故こうなる……?」
「まあまあ。後でわかるから今は何も聞かずにお願いします」
 の住む家を訪ねて行けば、当の本人は不在のようだった。その代わりに玄関の戸に貼り紙がされていた。すぐにその所在が分かり、は葵屋にいるとのことであった。葵屋といえば京都の街の一角にある料亭兼旅館。以前比古が十本刀の破軍・不二と対峙した場所だ。そして……。思い出した記憶に少しばかり苦々しさを感じつつも、依頼した当の本人がいなければ話にならない。葵屋に集う元御庭番衆の賑やかしい連中の顔ぶれを思い出しながら、その足で葵屋まで訪ねて行けば、葵屋の娘・巻町操が待ってましたと言わんばかりに比古を葵屋の中へと引っ張り込んで客間に押し込むと、置いてあった行李の中から姿を現したのは上等な絹で織られた束帯衣装。その上等さに思わず感心していたが、巻町は唐突に比古の外套を脱がせようと掴みかかり、代わりにその束帯を着ろという。唐突な事で訳が分からぬと流石の比古も困惑したが、のために着てほしいと言われてしまうと訳が分からぬながらも抵抗する手を緩めてしまう。悪いようにはならないと鼻息荒げに述べる巻町に一抹の不安が過るが、のためになるという文言と悪いようにはならないという文言を信用するほかないのである。深くため息を吐き、外套を脱いでいう通りにする。すると部屋の外で控えていた白尉と黒尉が申し訳なさそうな表情を浮かべつつも入ってきて、比古の束帯衣装の着替えを手伝い始める。髪は頭頂部に結い直されて、冠を被せられる。輪無唐草の文様が入った二藍の縫腋袍ほうえきほうに、表袴。
 この装束は──ひな人形の。
さん。ひな祭りしたことないんだって」
「ひな祭り? ……──そういえば今日は上巳じょうしの節句か」
 ひな祭り。上巳の節句ともいう。上巳の節句の上巳とは三月最初の巳の日のことを指す。古代中国ではこの日に川の水で身を清め、厄を祓う風習があったという。この風習が日本へと伝わったのが平安時代。それが草や藁、紙といった物から作った人ひと形がたに災いや穢れを映し、川や海へと流す日本古来からある風習と融合したという。
 貴族たちの間では人形のような小児の形をしたものが幼児に降りかかる災いを振り払ってくれると考えられ、その貴族たちの子女の間で“ひいな遊び”小さな人形や道具で遊ぶままごとが行われていた。それらが信仰がいつしか融合し、今日の“ひな祭り”へと形を変えて年中行事として受け継がれてきたという。
 下賀茂神社では小さな人形を作り、子どもの身代わりとして境内のみたらし川へと流して無病息災を願う“流し雛”が行われている。
 因みに上巳の節句は桃の節句とも言われるが、旧暦の三月三日桃の花が咲く頃であったためにその名で呼ばれるようになったようである。桃には古来より魔除けや厄除けとしての効果があるとも考えられているため、ひな祭りの飾りとして使用されている。
 葵屋では今日のひな祭りの催し物として訪れた客にちらし五目鮓とか蛤の吸い物などの特別な料理を振舞っていたらしい。ちらし<五目鮓ごもくずしは飯に酢塩を加え、椎茸・木耳・玉子焼・紫海苔・芽紫蘇・蓮根・笋たけのこ・鮑・海老など。魚肉は酢に漬けたものなどを細かく刻み、飯の中に混ぜる。色々な具材を混ぜた酢飯の上には錦糸卵を散らす。決して安くはないが、お祝いの日には丁度良いだろう。海老は背が丸くなるまで長生きするように、蓮根は先を見通せるように。そう言った縁起の良い食べ物と一緒に子どもたちの健康を願う想いが混ぜ込められている。
 蛤のお吸い物は蛤が二枚貝であること。対になる貝以外とは二枚の貝を合わせても合わないこと。そういったことから、一生同じ人と連れ添うように、将来仲のよい夫婦になりますように、と願いを込めるのである。
 そういった縁起の良いものを食べてひな祭りの日を過ごそうということで、試しに企画してみた所それが盛況となり、人手が足りなくなった。手が空いていたが手伝いに入ったそうなのだが、当の本人はひな祭りの祝いなどしたことがないと言ったのだ。これには話を聞いた巻町はぎょっとしたのだが、自身は気にも留めていないようで、寧ろ、本人よりも巻町の方が気がかりになって仕方が無くなってしまったのである。
 巻町の指摘を聞き、という女の生い立ちが歪んだものであったことを改めて思い知らされる。幼少期より男として育てられ、その後の彼女の人生を大きく歪ませた。それは呪いのようなものだ。“”という人格を否定し、“"という人格に成り代わり、男として生きてきた。長年の呪いに苛まれ続け、解き放たれた昨今は本来のという女として生きている。最近の話だ。それまでは男として生きてきたわけだから当然ひな祭りなど縁遠い日々だったのだろう。
「……」
さんは平然としてたけど、私はその話聞いた時に寂しくなっちゃった。親が子どもが平穏無事に成長するのを願うのは当たり前でしょ!?」
「せめてもお前がそう思ってくれるのはにとっては救いだろう」
 ハッとした巻町。すぐに苦虫を噛み潰したようは顔をする。巻町の頭にポンと手を乗せて撫でてやると、益々複雑そうな表情をして、そんなのはあんまりだと消え入るように呟いた。巻町は複雑な気持ちを抱いたようであるが、そうやってという一個人に心を寄せる者がいる事実は何よりも有り難かった。比古も彼女のことを気にかけてはいるが、いつも側にいてやれるとは限らない。少なからずとも気にかけてくれるのならば一人でも多い方が良い。と言う女はその佇まいから一見凜々しくも見えるのだが、どこか危うさを孕んでいる。放っておけば人知れず野垂れ死ぬぐらいの危うさはある。自分を蔑ろにして犠牲になる。それが最善策であれは平然とやってのける気があるのだ。そういう輩を引き止めるためには巻町のような存在が必要だ。
 ポンポンと頭を撫でてやると、の気配のする部屋の前まで歩いて行く。入る前にちらりと巻町を見て頷くと、部屋の中のに声を掛けて、一気に開け放つ。
「──新津、センセイ?」
「……へぇ」
「?」
 感嘆。
 そこには色鮮やかな女房装束に身を包んだの姿。施された化粧はの顔立ちに合わせ色づき、その唇には美しい紅色が灯る。柔らかく色づいた頬。涼やかな目元に引かれた線と彩りがより美しく目元を見せる。
 ポカンとした表情で立ち尽くすの側によれば、我に返ったがそっと袖を引き上げて自分の顔を隠そうとするが、その腕を取って引き寄せるとそのまま逃げられないように背に腕を回す。
「顔をよく見せろ」
「恥ずかしい」
「恥ずかしがることねぇだろ」
「だって」
 隠していた顔を目元だけ覗かせる。
「今日のあなた、かっこいいから」
 頬を赤らめて顔を背ける。思いがけぬ言葉に呆気に取られかけるが、こちらを向いて欲しいと優しく諭せば、そっと袖を下ろす。比古を見上げると、そっと胸元に手を添えてくる。透き通った瞳には束帯を着た己の姿が映り込んでいる。頭にそっと撫でて、ゆっくりと頬へと滑らせながら撫でると、指先が紅い唇に触れ、引き寄せられるように輪郭をなぞった。
「新津、センセイ……私、」
 震える唇。息を飲む音。
「わかっている」
 の身体を抱き寄せて笑いかけると、目を見開いて固まっていたが、そっと額を合わせるように顔を近づけて、壊れ物にでも触れるように頬に触れてくる。それがおかしくて喉奥を鳴らす。
「心配すんな。俺はそんな柔じゃねぇよ」
「うん」
「俺はお前に何も言わずにどこかへは行かん」
「私は勝手に出かける」
「おい」
 ふふふ、っと笑いを漏らす。すっと神妙な表情で言う。
「私よりも長生きしてね」
「縁起でもねぇこというな」
「好きな人に先立たれるのはもう沢山だから」
「ああ……」
 脳裏に過る、この女の初恋の相手の存在。
「もう誰も好きにならないつもりだったんだ。──あなたが責任取ってくれないと困る」
 それは祈りのような、告白だった。睫毛が震え、薄らと瞳には幕が張る。密やかな吐息。人を恋しく想う顔はどんな化粧よりも美しい。その顔をまじまじと見つめていると、は何か言ってよ、と居心地悪そうに視線を彷徨わせ始めた。そんな姿もいじらしく愛おしい。ふっと笑みを零すと、ぱちくりと瞬いて怪訝そうに首をかしげる。
「ま、お前の面倒見られるのは俺ぐらいなもんだしな」
「なにそれ、この自信家野郎」
「その自信家に恋焦がれてるのは誰だったか?」
「意地悪」
「いじめがいがあるからつい、な」
 互いに暫し睨み合っていたが、破顔一笑。手を重ね合わせ、指を一本ずつ丁寧に折っていき、互いの手に絡ませていく。
「ねぇ……ひな祭りって何すればいいの?」
「あ? ……唐突だな」
「巻町さんに「お店手伝ってくれたお礼!」って言われてこんなに綺麗な着物着つけてもらっちゃったんだけどいいのかなぁ?」
「よく似合ってるな」
「そ……そう、かなぁ。あなたこそ、よくお似合い、です」
「(素直に褒められると弱いんだよな、こいつ)」
「こほん……それでね。ひな祭りって特に女の子の成長をお祝いするみたいなんだけど、その成長を願ってお食事するみたいんなんだけれども」
「そういえば、あの操とやらもそんなこと言ってたな。祝い事だったら酒とか飲むんじゃねぇのか」
「つまり──……宴会みたいなことすればいいってこと?」
「……そうだな。折角お膳立てしてくれたんだから、ここはぱっとやらねぇとなぁ?」
 ニヤリ。二人して顔を見合わせて悪い顔をする。
「巻町さん、そんなところで覗き見してないで一緒にお祝いしましょうよ」
「え、いいの!? ……あ」
 天井裏から下りて来た巻町にクスリと笑う。あわあわ慌てる巻町をも比古も咎めずに、優しく迎え入れる。
「巻町さん色々手を回してがんばってくれたね。今日はありがとう。いい思い出になった」
 にこりとが笑ったことで、慌てていた巻町はすぐに満面の笑みで頷く。
「……うん! 皆も呼んできていい?」
「お好きにどうぞ」
 爺や皆に声かけてみる、と元気よく部屋を飛び出していった巻町を見送り、部屋に用意されていた白酒の入った酒瓶を開けて、二人分を銚子に注ぐ。互いに見つめ合って小さく笑うと盃を静かに合わせ、酒を口にした。

 ──ほけきょう。どこかで春を告げる声が聞こえる。

23.03.28 『枯木逢春』 初出