「ひ、人使い荒すぎる……ダメだ、仕事探そう。あの簾頭め」
一仕事を終えて、昼下がりの往来。じりじりと擦り寄る陽炎。どこまでも吸い込まれるような、煌びやかな夏の青空。人々で賑わう街並みを一人のがのっそりと歩いていた。活気溢れる界隈とは裏腹にの足取りは重く、すれ違う人々はその草臥れた表情を見ては気の毒そうな表情を浮かべながらそそくさと去っていった。は猫の手も借りたいというような人手不足の状況下であちらこちらと駆けずり回り、漸く束の間の休息を手にして帰るところであった。疲労は最高潮。その疲れ目には真昼の日差しが眩しく突き刺さり、目が眩む。今日の日を迎えるまで常に時間に追われ、疲労に苛まれ、上司にはねちねちと結果を催促される。振り返れば大変だったと思わず溜息を吐かずにはいられない。仕事が一段落した今、自分を労わってやりたいとは思う。今日は一区切りついた褒美に家で酒でも飲もうという算段もつけている。疲労感はあるが、少しぐらい酒でも飲まなければやってられぬ。どうせすぐに次から次へと仕事が舞い込んで来るだろう。パーッと気分転換をしてやろう。そう思うと現金なもので心なしか元気が出てきたような気がする。善は急げ。思い立ったが吉日。好機逸すべからず。旨いものは宵に食え。そうだ酒屋に行こう。足取り軽く酒屋の戸を開け、上機嫌で挨拶をする。
「らっしゃい」
「こんにちは」
無愛想な親父がが来たことを認識すると、選び終わったら呼びなと抑揚のない声で告げる。相変わらず無愛想だなと苦笑していると、すぐに他の客が店の中にやってきたので入口から少しずれる。店主の愛想はないが、酒の愛好家には評判の店である。
店内にはと同様に酒を買いに来た者達が何を買おうかと吟味しているようだった。雑然と酒瓶が雑に並べられていて、こういうところからも店主の性格が出るよなとは一種の関心を寄せる。薄暗い店内で親父はのんびりと茶を飲みながら、膝の上に転がる猫を撫でている。やる気があるのだかないのだか。気の抜けるような穏やかな風景にどこか安堵しつつ、目に留まったお気に入りの酒を告げる。
「「親父、朝日山の万寿!」」
「万寿? 悪いけど、それが最後の一瓶だよ」
「え?」
重なる声に驚いて発信源を向く。勢いよく振り返れば、の後に入店した男と視線が絡み合った。随分と体格に恵まれた男だ。顔立ちの涼やかなこと。年はと変わらぬぐらいだろうか。
「あ。お前、この前の不良警官か」
「え?」
不良警官とは随分失礼な男だ。それにしても一方的に相手はを知っているらしい。薄暗い店の中で目を凝らしてその男を凝視する。街の女たちが好みそうな黄色い声が上がるような眉目秀麗とした顔立ち。射干玉の黒髪。赤襟がついた白外套に、その下から覗く筋骨隆々とした巨躯。首を絞められでもしたらひとたまりもなさそうな巨木のような腕。──はてな。こてんと首を転がし、記憶を辿る。こういった出立ちの知り合いは……そういえば、数ヶ月前に会った気がする。あれは確か。
「──ああ、あの時の、空手家のお兄さんか」
「陶芸家だ。記憶を捏造すんな」
じろじろと見られ訝しく思っていただったが、その疑問はすぐに氷解された。一月か二月前だっただろうか。街中で起きた強盗事件の捕物騒動が発生した。その時にが強盗と間違えた男だ。無事強盗を捕縛し、後処理をしてそのまま会うこともなく次の仕事に奔走していたためすっかり忘れ去っていた。予期せぬ再会に驚きつつも、咄嗟のこととは言え、盗人を逃してはならぬと足止めの為に男の酒瓶を引ったくって投げていた。言うまでもなくその酒瓶はなきものにしてしまった。こうして顔合わせる決まりが悪い。
「あのー、譲っていただくわけには」
「あの時の万寿」
「……」
「弁償しろ」
「……」
「俺の万寿、投げたのは誰だったか?」
「う……私ですねそうでしたね。ごめんなさい」
「そういうわけだからこれでこの前の事はチャラにしてやる」
「私の万寿……」
「投げたのは誰だったか?」
「うっ……わかりました、奢ります、奢ります!」
くっと歯を食い縛り、懐から渋々と財布を取り出した。中から酒代を出して店主に渡すと、まいどと呑気な声色。さらば私の万寿。は店主から受け取った酒瓶を渋々と男に差し出す。その様子に男は呆れた表情を浮かべているが、としてはこの酒屋に来るまでに満身創痍に近い状態になって好みの酒を買って帰るのを楽しみにしていたのだ。その酒を買って帰り、作ったつまみに舌鼓しながら家でゆっくりと酒を楽しむところまで考えていたから未練がましくもなってしまう。
「潔くねぇな」
「わ、わかってますよ、みっともないことぐらい! ただ馬車馬のように働かされて楽しみにしてたからがっかりが大きいんです!」
「お前それ……」
苦々しそうに憐憫を向けた男に、はぐいっと男の手の内に酒瓶を押し込んだ。同じ店内にいるから話が聞こえていたようで心なしか周りにいる他の客もを不憫と思うような視線を向けている。ますます決まりが悪い。小さくなりかけたを横目に、くわあっと大きな欠伸をする酒屋の親父が言う。親父の膝の上で丸くなっていた猫もつられるようにして欠伸をする。
「あんたらもう面倒だから一緒に酒盛りでもすればいいじゃないかい。仲良くやるには酒で万事解決だよ」
「それだ!」
「え?」
店にいた他の客が一斉に振り返る。無遠慮に詰め寄る男達に思わず後ずさるのだが、意味を成さない。
「今日はみんなで出してやるから皆で飲もうぜ兄チャンたち!」
「え?」
「酒盛りだよ! 大変だったんだろう? そんな時は皆でパーっとやって楽しく過ごそうぜ! 親父、この予算だとどのくらい買える?」
「まいど……少しならまけてやるよ」
ニヤリと笑った店主を見て、この人の一人勝ちだなとは頬を引きつらせた。ちらりと横目に大男を見れば、どうしてこうなるんだと溜息を吐いていた。
* * *
酒宴が催されると噂を聞きつけた近所に住む者達があれよあれよとの家にやってきては盛んに出入りする。老若男女は問わず。女たちは自分の田んぼや畑で採れた野菜やら米やらを持ってきて、厨で調理をし、男たちは女たちにどやされて掃除をし始める。が留守にしている間に埃っぽくなった家の雨戸を全て開け放ち、各自持ち回りで掃除をし始める。大勢の男たちの協力であっと言う間に綺麗になった家の中にが唖然としていると、一番広い居間の中に皆が集まって早速酒宴が始められる。各々が自分の家から持ってきたという漬物やら何やらを酒のつまみに飲み始めている。女たちは会話に花を咲かせながら料理を作り、その子ども達は手伝いをしてみたり、盗み食いをしてみたり、家の中を縦横無尽に走り回ったり、隠れん坊をしたり、無邪気に遊んでいる。も家主として料理を手伝っていたが、ここは任せてくつろいでくださいと逆に銚子と徳利、自分で作った鴬宿梅に卵ふわふわを持たされて厨を追い出されてしまった。とぼとぼと仕方なく宴会場と化したへと赴けば、「兄チャン! 一緒に飲もうぜ!」とわいのわいのと一瞬で取り囲まれて、次々と徳利に酒を継ぎ足されていく。飲み比べ大会がすでに始まっており、べろんべろんの酔いどれになっている。飲み過ぎて気分が悪くなったものは既に縁側から身を乗り出して吐き戻しているため、子ども達が面白おかしいといったように笑って庭に穴を掘り始めている。
「兄チャンも飲み比べやろうぜ…うっぷ」
「あなたは飲み過ぎですよ。これ以上子どもたちに迷惑かけないでくださいよ」
「う……まだだ、まだ行けるぜ……俺はな、呑兵衛の中の呑兵衛…うっ……おろろろろろっ……」
「この野郎……これでは私がいい気分で酔えやしないじゃないか……!」
えいと引っ張っていって、子ども達が掘ってくれた穴に男の顔を突っ込むと、うええっと呻き声を上げながら戻し始めている。吐瀉物の酸っぱい臭いに顔を顰めながら手桶に水を張り、吐き戻している男の隣に手拭いと一緒に置いてやる。ぽんぽんと背中をさすってやると、ありがとなと満身創痍の男の声を聞いて溜息を吐く。
「大変そうだな」
「ああ……あなたか。あなたはちゃったかり楽しんでいるみたいだな」
後は自称呑兵衛の気の済むまで吐き戻すしかあるまいと、呑兵衛から静かに離れると居間の隅に座り込む大男。隅に置いていた小さな台座の前に静かに座り酒を楽しんでいた。阿鼻叫喚と言った酔いどれ達の中に入り込む気力はなく、男の隣に座り込むと、男は持っていた猪口をに渡す。中には並々と酒が注がれており、男なりに気遣ってくれていると見た。有り難く頂戴することにした。
その台座の上に香炉と線香、燐寸ケエスが並べられているのだが、男がつまみとして食べていたらしい大根の煮物が置かれている。その隣にが厨で作った鶯宿梅と卵ふわふわを置く。燐寸を擦って線香に火をつけると香炉に差すと手を合わせて一頻り拝む。
「――ありがとうございます。一緒に食事してくれたんですね」
何とも言えぬ表情でを見つめていた男はゆっくりと視線ををずらして言う。
「ああ。どいつもこいつも目先の酒しか見えてねぇからな。俺ぐらいは線香の一本ぐらいは上げねぇと」
「賑やかなの好きな人達でしたし気にはしないと思いますけどね」
は小さく苦笑し、目の前で繰り広げられる大宴会の様相を眺める。どこから降って湧いて出たのか。こうして近所の人々が己の家に集合した人数は老若男女問わず多数に渡る。普段は一人暮らしするには物悲しい寓居であるが、こうして人が集えば賑々しい限り。酔いどれ達の阿鼻叫喚、そのだらしない姿を見て可笑しそうに笑う子どもたち、厨から聞こえる楽しそうな女たちの声、肴片手に将棋を指す老紳士達、庭の隅の木の下で何やら雰囲気のよろしい若い男女。各々がこの宴会を各々の楽しみ方で穏やかに過ごしている。
「――まぁ、呑気なもんだ」
零れ出た言葉に皮肉の意図はない。膝を抱えるようにして座り、膝の上に顎を乗せる。やいのやいのそこら中で笑い声が聞こえる。昔の仲間たちとこうして大宴会をしていた時も酔っ払いが脱いだり、酔った勢いで相撲をとったり、馬鹿騒ぎをしていた。遠い昔になりつつある在りし日の光景が眼前に再現されたような錯覚を覚え、つられて綻んでしまう。それと同時に冷水を浴びせられているように、どこか醒めていく。
「だが、嫌いじゃないのだろう?」
ポンと開栓する音が聞こえ、視線を男に移す。男の手には先程譲った酒瓶が握られている。万寿だ。の猪口をひったくり、なみなみと注ぐとすぐに返される。ぽかんとしている間に自分の分も手酌で注ぐと、少し猪口を掲げたのでも慌てて掲げた。それを合図に注がれた酒を呷れば――嗚呼、旨い。はぁと思わず感嘆が零れ落ち、それを見ていた男にクククッと笑われる。良い飲みっぷりだと
酒瓶を差し出され、瞬間、迷いが生じたが、これもこの男なりの労いだろう。ありがたく猪口を差し出せば再び並々と注ぎ、今度はがその酒瓶を受け取って男の猪口に注いでやる。喧騒を仏頂面で眺めている男の顔は呆れとわずかな苦笑が見て取れる。
「あなたも、ね」
互いに顔を見合わせて、ふっと笑みをこぼすとくいっと猪口を煽る。
――ドォン。
突如空を切り裂くような轟音が聴こえ、周囲に静寂が訪れる。爆発音だ。は慌てて立ち上がる。
「っ……!」
急に立ち上がったせいか。酒のせいか。足がくらりとふらついてもつれ倒れそうになる。
「危ねぇな。気をつけろ」
「すみません。私」
ドォン。
もう一度轟音。ふらついたを支えた男はギロリと睨み、そのまま待ってろとを一度座らせてから縁側まで出て外の様子を窺い始める。一体何の音だろうか。額を軽く押さえながら、思考を巡らせる。考えられるのは不平士族の存在だろうか。最近、明治政府に不満をもつ士族たちに不穏な動きが見られるからそういう類の事件かもしれない。もうそうであったら、座っている場合ではない。ただ平凡な毎日を懸命に生きる街の人達を巻き込むわけにはいかぬ。今度こそとすっと立ち上がると、男の後を追って縁側まで出ていく。先に集まっていた者たちもじっと空を見つめたままで、声をかけようとした瞬間、轟音と共に空に光が放たれる。閃光。それは鮮やかに光を放ち、一瞬の輝きと共に花を開き散っていく。墨色の雲一つない空に咲く花。
「え……花火?」
パラパラと花が散りゆく。それは夢の如く。美しい閃光。張り詰めていた気持ちは一気に萎び、ポカンとして見上げてしまう。再びドォンと轟音が夜空を駆け巡っていく。そういえば上司である男から今日は花火の催し物があると聞いていたのをすっかり忘れていた。勿論万が一の為の仕事もあるにはあったのだが、詰めていたを見兼ねて今回は免除していたのだ。今頃見廻をしながら上司はこの花火を見ているのだろうか。続々と花火が打ち上がり、大輪の花が夜空に咲く。夏の夜空を彩る花火には思わず見惚れてしまう。
――きれいだ。
無意識に呟いた言葉が軒下の風鈴と共に揺れる。夏の夜に咲き乱れた大輪の花。パラパラと散っていく花びらはすぐに見えなくなる。
「きれいだな」
の言葉に応えるようにして、男が呟く。これは酒のせいか。ふわふわとした心地がの心を優しく、夏の夜風と共にすり寄ってくる。蒸し暑い空気と遠くに聴こえる祭囃子。子どものきゃっきゃと笑う声。花火が打ち上る度に「たまや」と「かぎや」の掛け声。何処かの家の夕飯の匂い、夏の夜の寂寞。軒下の風鈴が呼び寄せたのは夏と、その他には。
「おいお前」
「……です」
「」
ほれ、と柱に凭れ掛かりながら空を見上げていた男がいつの間にかに持ってきた酒瓶を差し出してくる。促されるままに酒瓶を呷ると、丁度打ち上がった花火が美しく花開く。
「春は夜桜、夏には星、秋に満月、冬には雪」
「? なんですか? 呪い?」
「莫迦め。それだけで酒は十分美味いって話だよ」
そういってから酒瓶受け取ると男もそのまま酒を呷る。
「……だが、花火も悪くない」
「ははっ……なんじゃそりゃ」
ふふふっと笑い声を漏らすと、そんなに笑うなと少しムッと顔の男だったが、すぐにやれやれと息を吐き肩をすくめた。
――まぁ、悪くはないかな。
24.09.15 『新しい酒は新しい革袋に盛れ』 初出