小暑。夏至を幾分過ぎてから日暮れの遅さを日々感じるようになった。じんわりと纏わりつくような蒸し暑い日々が今年もやってきている。懐に忍ばせた手拭いを引っ掴み、滲み始めた汗を拭き取る。見上げれば空はどこまでも突き抜けるような青。澄み切った美しい青、燦々と燃ゆる陽。白く輝く眩さに思わず頭上に腕を上げて光を遮る。簾の立て掛けられた軒先、どこかの家の軒下から転がってくる風鈴の音、通りの向かって打ち水をする女にねじり鉢巻をした金魚売りの男。山奥で悠々自適に過ごし、暫く振りに街まで降りてみればすっかり夏の気配がそこかしこと漂っている。夏の眩い空気に誘われて浮足立っているようだった。ぶらりと歩いていると、時折短冊が吊るされた笹竹が飾ってある軒端があって、そういえば夏には七夕などという節句があったと足を止めた。青々とした笹竹が澄み渡る天に向かって伸びており、笹の葉と短冊はさらさらと中を泳いでいる。眺めていると思い思いの願いが風にたなびいているのが見えた。一枚は舌足らずな字。かと思えば柔らかい女文字、流麗で美しい綴り……。一枚一枚に書き手の物語が想像される。何を見てきて何を思い、その小さな細長い紙に願うのか――。
「おじちゃんも書く!?」
「あ?」
しみじみと宙を流るる短冊を眺めていると、そこへととと、っと子どもが駆けてくる。にこっと屈託のない笑みを浮かべると、ずいと短冊の束を差し出される。このお祭りの気分にしっかりと乗せられ満喫しているようで微笑ましい。屈んで視線を合わせてやると、その子どもは新津の手を掴み、短冊を握らせてくる。
「おじちゃんは願い事何を書く?」
「願い事……」
「俺はね、けいさつのおにーちゃんみたいになりたいんだ」
「警官のオニーチャン?」
「この前道に迷って人攫いに遭いそうだったんだけど助けてくれたんだ。髪の長いお兄ちゃん!」
ふふふと思い出し笑いをする喜色ばんだ表情の子どもの言葉に、新津にも一人心当たりがある。その人物の姿を思い浮かべる。中性的な顔をした黒髪の知人を。すましたような表情に見えるその人は殊の外子どもに優しく、面倒などもよく見ている。無愛想に見える表情は決して子どもを邪見にはしない。特段扱い慣れているというわけでもないが、困っている子を捨ては置かない。以前見かけた時も人拐いから子どもを助けていた。
「ねぇ、おじちゃんはどんな願い事を書くの?」
* * *
「いや、こんなにはいらねぇ……」
用事があると子どもと別れ、取引相手に作品を引き渡す。よろしければ、とそこでも短冊を渡される。先程余分にもらっていたのだが、願いなんていつ叶うかなんてわからないのだから何枚でも書いておいて損はないとここでも押しつけられてしまった。やれやれ。深い溜息を吐く。じわじわと何処かでなく蝉の声を聴いているとさすがに暑さに辟易してくる。どこか茶屋でも入り少し休んでいくかとあたりを見回せば、ふと馴染みの姿が見えた。橋の下、川辺りに座り込み、そのまま足を浸して涼んでいる。背後に手をつき、そのまま体も後方に投げ出してくつろいでいる。袴の裾を少したくし上げ、足を晒す姿は少々だらしないが、暑さに参っているようでもあるから少しは目を瞑ってやるべきなのか否か……
「──そこで寝るなよ、」
「あれ? 新津先生? こんにちは」
橋の上から覗き込めば、目を丸くした朔──があっと小さく声を上げ、新津を認識する。完全に気の抜けた姿のは慌てて取り繕うつもりもないようで、暢気にお久し振りですねなどと譫言を言う。手には扇子、どこで買ったのやら削り氷が入った器、首には手拭い。やれやれ、すでに出来上がっている。
が涼んでいる橋の下に下りていくと、橋の下にはと同じ様に陽射しから逃れようと涼んでいる連中がちらほらと見受けられた。確かに日向よりも随分涼しいから気持ちはわからんでもない。こっちこっちと手を振るの隣に座り込めば、持っていた扇子で扇いでくれる。些かひんやりとしたような風が起こり、なるほど、これはないよりあった方が良い。
「今日はお買い物ですか?」
「取引だ」
「……ああ、先生のお茶碗とか人気らしいものねぇ」
のほほんとは割れ氷を一口含んでもごもごする。その姿が小動物が口をもごもごさせて餌を食べる姿に見え、益々気が抜ける。
「仕事は?」
「今日は休みです。ご飯ないから家から出てきたけど暑くて少し涼んでいました」
「暑いのはわかるがあまりだらしなくはするなよ」
首にかけていた手拭いで口元を拭ったは瞬き、暫く新津の顔を見ていたが、はァと肩を竦める。不服といった表情ではあるが、一意見として留めてくれはするようだ。新津は改めてを見据える。暑さで少し元気がない表情、不健康そうな血色、川に突っ込んだ足。晒されたの脛肉には傷が走っている。古傷ではあるが、その傷跡は足に稲妻が走ったように生々しく見える。桃色の肉が盛り上がっている様はあまりにも痛々しく顔を顰めてしまう。
「それ、くれ」
「……ああ、これか。いいですよ」
何となく決まりが悪いと話を変えるために新津が割れ氷を指指させば、は割れ氷を匙で掬う。そして掬った氷を新津の目の前に差し出した。どうぞと当たり前のように差し出したの行動に思わずぎょっとする。
「? どうしたんですか? 早くしないと溶けちゃいますよ?」
何の気なしのは怪訝そうに首を傾げている。これは幼児に餌付けするような感覚で差し出しているのだろうか。
「センセ?」
「──あ、ああ。わかった」
ひくりと口端が引き攣ったが、観念して口を開き、匙ごと氷を含む。嚥下した瞬間、ひんやりとした感触が一気に広がり、渇いた口腔内が潤っていく。すぅと溶けてなくなってしまった。喉の奥がひんやりとして心地よく染み込んでいく。
「もう少し食べます?」
割れ氷の器に視線を落とし、サクサクと食べやすい大きさに細分しているの手をそっと掴み制止させる。顔を上げた当人は怪訝そうな表情をしていたが、その手の中から割れ氷の器を受け取る。
「ありがとな。後は自分でやるさ」
「あ……ああ、そうですね」
ちらりと向かい岸に視線をやれば、慌てて顔を背ける若い女達。ちらちらと新津とを見ては互いに耳打ちし合っている。その視線に悪意はないが、好奇心の色が見え隠れしている。そんな彼女たちと目が合ったようで、立ち上がったは小さく笑みを浮かべ、向かい岸に向かって手招きをした。これには驚いて思わずを二度見してしまう。何をする気か。突拍子もない行動に猜疑心を抱く。動揺したのは向こう岸の女達も同じであり、戸惑ったように顔を見合わせているが、おそるおそるといった風に立ち上がり、近くの飛石を乗り継いで渡ってくる。もすぐにさっと近づいていって、転ばぬように彼女らに手を差し出している。
「あ、あの……お兄さん」
きまりが悪そうにの様子を窺う女性たちに、あっけらかんとした態度で懐からずっと何か取り出して差し出した。
「お嬢さんたち、時間ある? これ書かない?」
「え?」
「お前もか」
「え? 先生も?」
懐から取り出したのは見覚えのある。まごうことなく。先程もらってきた短冊だ。ももらっていたらしい。納涼しながらをこちらのやりとりを窺っていた周囲の人々にも配り始めている。短冊かァと風情に感嘆を漏らす声で少しずつ賑わい始める橋の下。色とりどりの短冊をが配り回り、新津の元へと戻ってきた。
「はい先生」
「俺はいい」
先ほどもらった短冊を取り出せば、あっと上げた声が切なく溶けていった。先生に押し付けようと思ったのに、と聞き捨てならぬぼやきが聞こえてきて視線を飛ばせば、は肩を竦めて両手を上げる。
「……なぁんだ。もらってたんですね」
「町中で配ってたガキにもらった」
「私もあの子にもらったんですよ」
「警察のオニーチャンに助けられたから警察官になりたいって書くって言ってたぞ」
「警察官かァ。うーん。私はともかく簾の怖いニイチャンがいるからなぁ……」
「簾……? 何言ってんだお前?」
唐突におかしなことを言うものだから思わず聞き返してしまう。当の本人はどうでも良いようで、何でもないとすぐに矢立を取り出して、短冊片手に何やら思案し始めた。にとって怖い上司がいるということなのか。そういえば、以前こき使われているとかいないとか言っていた気がするがそういう事か。最早それ以上は考えても仕方がない。周囲を見れば、意外や意外、その場に居合わせた者達は存外乗り気になって短冊に何かしら願い事を書き始めている。初めて出会う者同士が期待に胸を膨らませて語り合い、和気藹々と短冊を書いている。
「億万長者に俺はなる!」
「鮓をたらふく喰いたい」
「畳屋の子と結婚したい」
そういった十人十色の願いが語られるのが聞こえてくる。その横顔はどこか幼子の面影が見え隠れして、朗らかな心地にさせる。
「新津センセは願い事って何かありますか?」
暫く思案していた横顔をじっと眺めていたが、どうやら思い浮かばなかったらしい。筆を置き、川に浸していた足を動かした。パシャパシャと緩やかに動かしているのを横目に、割れ氷を食べきると、さて、と矢立を取り出して短冊に筆を走らせ始める。
「何も思いつかないのか?」
「叶わないことを書いても虚しいし、ねぇ」
新津はの顔を見る。真面目な奴め。
「別に気にしなくてもいいんじゃねぇの。些細なことでも何でも。あっちのやつらも億万長者だのなんだの、言っていたぜ。七夕の由来通りに機織りの上達祈願であったり、旨い酒が飲みたいとか。願いがを持つことが生きる上での希望になるんだろうよ」
倒れ込んでいたがすくっと起き上がり、じっと新津を見つめる。何だ。
「意外といい事言いますね」
「あ?」
「なんでもないです」
「旨い酒、土作りに良いきれいな水……何でもいいだろ。本当に叶えたい願いはそいつ次第さ」
「まあそりゃそうですけど。子どもたちが一生懸命考えて書いてるのにそれでいいのかな、って」
「気にしねぇよ。あのガキも来年には警察官から政治家になりたいとでもなってるだろうよ」
「わかるけど……それはそれでちょっと複雑だなあ。」
さらさらと筆を走らせていると、も短冊を一つ手にとって半信半疑といった表情をしていたがゆっくりと書き始める。
「……仕事が少し減りますように?」
「いいんじゃねぇの?」
新津の言葉に答えを得たというように更に書き進める。水を得た魚のようだ。
「私のことこき使い過ぎなので上司は小指をタンスの角にぶつけますように?」
「そういうのは止めとけ。美味いもの食いたいとかにしとけ」
「……冗談ですよ」
肩を竦めたを尻目に本当に冗談なのだろうかという言葉脳裏に過ったのだがそっと飲み込んだ。
「ほら、もっと楽しい感じのねぇのか?」
「うーん……鮓が食べたい!」
「おお。いいじゃねぇか」
「牛鍋!」
「ほぉ……酒と一緒に牛鍋もいいな」
「センセの奢り!」
「奢り? 俺の? ……おいちょっと待て!」
「鮓、牛鍋、酒、菓子、センセの奢り!」
聞き捨てならないと新津が声をかければ、は書き上げた短冊をずいっと新津に差し出した。
「鮓」
「牛鍋」
「湯豆腐」
「あぶり餅」
「新津センセが奢る旨い飯と酒」
短冊に書かれた流麗な手を見て、内容には感心しないがその筆ぶりにはほうと感嘆を漏らした。己の弟子などは手はからきしで、辛くも読めるかといったところであったが、のは繊細で美しく、文字も軽やかだ。彼の人は巫山戯た警官だなと始めは思っていたものの、意外な一面に新津は感心した。
「お前……中々達者じゃねぇか」
「ふふふん。驚いたか。中々いい字を書くでしょう」
「この腕前なら人に手解きするのもわけねぇな」
「昔ね、代筆していてよく褒められましたからね」
少し得意げには笑う。褒められて満更でもないのだ。こそばゆそうだが頬肉が緩んでいる。こういうところは少し子供っぽくもあるが、普段のすました顔から意外な一面だ。思わずフッとつられて口元が緩む。ふと喧嘩別れした弟子の姿を思い出したのはこのとは同年代ぐらいだからだろうか。風の知らせで生きているのは知っていたが明治になってからの噂はてんでわからぬ。今頃何処かで過ごしているのかはたまた――無沙汰は無事の便りなどと言ったりもするが。
「新津センセ。食べ物のお願い書いていたらお腹が減りました。何か食べに行きませんか」
「お前の奢りなら行ってやってもいいぜ」
「ええ……でもお腹減ったし……仕方ないか」
足を川底から引き抜き、頭に掛けていた手拭いを取ると濡れた足を拭き始める。足を拭き終えるとそばに置いていた足袋を履いて、草履を履く。よっこいせ、と気の抜ける掛け声と共に立ち上がった。両膝に手をついて立ち上がると、の袖からひらひらと一枚の短冊が流れていった。すぐに川の流れに飲み込まれてやがて短冊の姿すら見えなくなった。
「一枚、川に落ちていったぞ」
「え? これで全部だと思ったけどな?」
きょとんとした顔のがゴソゴソと袖を探るが他には見当たらないようで怪訝そうな顔をしている。気のせいであったか……?
じっと下流の方を見つめていると、流れてくる短冊が二、三。願いを書いた短冊を流す七夕送りにはまだ早いがどうやら一緒に書いていた連中が流したらしい。
「あれ? そういえば私の割れ氷は?」
「あ? ……ああ、暑ちぃから全部食っちまった」
「やっぱり全部奢ってもらおうかな」
食い物の恨みは水には流れないらしい。
24.10.10 『魚心あれば水心』 初出