緩やかに髪を撫でる風が涼しく過ごしやすい季節だ。爽やかな心地に包まれて、体内が穏やかに循環していくのを感じる。
転寝をするには心地よい時分である。
「……寝、てる?」
畳の上に彼女は丸くなって眠っていた。身体を呼吸に合わせて上下させている。普段の堅い表情とは違い、平素穏やかな表情を浮かべて眠っている。ふにゃりと口許を弛ませる様子から幸せな夢でも見ているのだろうか。
思わぬ光景に出くわした私は暫く彼女を見つめ、立ち尽くしていた。近寄っても良いものかと躊躇い、立ち竦んでしまった。彼女があまりにも穏やかに眠っているものだから、戸惑ってしまう。いつも何処かぎこちない表情を浮かべる彼女幸せそうに笑みを浮かべて眠っている。起こしてしまえばきっとそんな表情を見る機会など失ってしまう。気配に過敏な彼女の事であるから、近づけばきっと起こしてしまう。彼女には少しでも笑っていて欲しい。
だから、近づいてしまいたい気持ちの反面、その場に立ち尽くしてしまう。起こしてしまえば、あのぎこちない表情を浮かべるのだろう。
――ああ、でも、少しだけならば許されるだろうか。
彼女に触れること。少しだけならば、許されるだろうか。眠っている少しの間であれば、隣にいてもよいだろうか。そんな考えが、立ち尽くした私の身体を静かに動かし始める。気配を悟られぬようにそっと彼女の目の前まで近づいていく。足音を殺し、静かに腰を下ろす。深い眠りに身を焦がしているようで、珍しく彼女は目を瞑ったまま動かない。触れたくなって咄嗟に手を伸ばしかける。ふと躊躇いが生じたが、髪に触れてしまえば手が優しく髪を撫でて始めてしまう。心地良さそうに眠っているのでその手を離すなどできなくなってしまった。
「、さん」
優しく頬に触れる。温かい熱を持った頬、唇から漏れる寝息。手のひらで弧を描きながら撫でていく。ずっと触れられなかった感触。控えめな睫毛も膨らんだ瞼も小さな唇も。今だけは触れられる。
彼女の存在が心の何処かに息づいていて、ずっと探していた。初めましてとぎこちなく笑う彼女に見えない壁を感じ、落ち込んでしまってから、私は彼女に触れられなくなってしまった事を悟ってしまった。こんな形でさえなければ。
もう一度、彼女に触れていたかった。
「、さん」
「さん」
「――、」
眠る彼女に顔を近づけた。ふわりと彼女の匂いが胸一杯に吸い込まれていく。私に気づかずに穏やかに寝息を立てている彼女。指先を彼女の唇にそっと這わせて、自分の唇に這わす。ごくりと生唾を飲み込んで、狡いことをしていると思いながらもそっと彼女を啄んだ。
彼女はまだ眠っている。
あの頃、無自覚ながらも彼女は私のことを愛してくれていた。私と話すときは誰よりも穏やかに過ごしていたし、私を誰よりも側に置いてくれた。
私は彼女の気持ちに気づいていたけれど、死と隣り合わせのあの頃は色恋沙汰どころではなかった。体を病んでいたから後先短い私が彼女を縛ることに抵抗があったのだ。彼女の気持ちに目を瞑っていることしかできなかった。
彼女の瞳が私を映していたことは嬉しかった。私の事を大切に思っていてくれた事も嬉しかった。少しずつ死に行く私の身体が使い物にならなくなることに恐怖心を抱いていた中で、それでも彼女は、あなたは、私を愛してくれた。それが嬉しかった。
たとえ、君が覚えていなかったとしても、
「――」
もう一度。彼女の唇をなぞると、彼女は唸り声を溢し、ピクリと身体を震わせる。名残惜しいが起こしてしまったようだ。震える瞼が開く前にそっと身を引いて彼女に呼び掛ける。
「さん」
「…………?」
「風邪を引きますよ、早く起きてください」
「…………お、きた、さん?」
「はい、沖田です」
ゆらりと瞼が開いてその瞳に私の姿を映していた。大きな欠伸をしながら伸びをする彼女。まだ脳が働いていないのか視線がふわふわとしている。
「?」
「こちらで眠っていらっしゃったので今起こそうと思っていたんですよ」
「……あー。私、寝てたのか」
目の前に私が居たことを不思議そうにしていたが、返事をすれば合点が言った様子である。上手く誤魔化せたとほっと思う反面、罪悪感が残る。意識のない彼女に触れてしまったのだ。一時的な幸福感を得たが、あの頃の彼女と今の彼女は違うのだから、自分勝手な軽率な行動であったと内省する。
頬をポリポリと掻いてぼんやりとしている彼女に寝癖がついていると指摘すれば、彼女は目を丸くしてから恥ずかしそうに髪を手櫛で解かす。片側の頬に畳の跡がついていて少し微笑ましい。こればかりは手の施しようはないので胸の内に秘めておく。
「沖田さんは稽古に?」
「ええ……お土産買って来たので先にこちらに置きに来たのですが」
「そしたら私がここで寝ていた、と」
彼女はこそばゆそうに表情を歪める。
「気持ち良さそうに寝ていましたよ」
「そうですか?……珍しく幸せな夢を見たからかもしれませんね」
「そうですか。どんな夢だったんですか?」
ぱちぱちと彼女は瞬きをする。暫くきょとんとした表情を浮かべていたが、柔らかい笑みを浮かべて、唇に指を当てた。
「――内緒、です」
はっと息を飲むほど柔らかな笑みだった。彼女が私に向けて優しく笑いかけてくれるなんて思いもしなかったのだ。暫し彼女のことを見つめてしまい、彼女が怪訝そうに声をかけるまで意識が飛んでいた。
「沖田さん?」
「え、あ、はい」
「どうかされました?」
「すみません。少し、ぼんやりしていました」
「そうですか」
「――、さん。あの」
「ー!皆で昼飯食いに行くぞー!」
道場の方が騒がしい。稽古をしていた原田さんや藤堂さんが騒いでいる。柱時計を見れば、丁度正午を回ったところである。どうりで近くの家から昼食の匂いが漂ってくるわけである。
「沖田さん、皆さん待っていますし行きましょうか」
顔を見合わせたは行きましょうと立ち上がる。そっと彼女の手を握ってみれば、驚いたようで彼女は私を見た。
触れられないと思い込んでいたが、今度こそ触れていたい。
「今日は原田さん達にいっぱい奢ってもらいましょうね」
「……そうですね、困らせてやりましょう」
街の剣道場。かつて共に戦場を駆け抜けた仲間達がもう一度芽吹き、何の因果か導かれるように集まった。過去では考えられない程穏やかな日々を綴る。
彼女は何も覚えていない。それでも、こうして導かれるようにこの場所に来た。
それだけで、それだけで十分だ。
彼女が私を愛していてくれた事も私が知っていればそれだけで十分だ。
今度は私があなたを愛すればいい。
お題:診断メーカー
沖田総司へのお題は『知っていたよ、君の答えは』https://shindanmaker.com/392860
16.05.29 加筆