雲一つない澄んだ秋空。気がつけば夏の焦がれるような暑さはいざ知らず。微笑みかけるような柔らかい日差しが降り注ぐ。手拭いで顔を拭った夏がどこか恋しいような。少し遠くなった太陽に手を翳せども夏ほどの眩しさは無くなってしまった。いつの間にかに青々としていた紅葉は黄色く。そして黄色から赤。燃えるような麗しの赤に染め上がっていた。枝から旅に出た落葉がカサカサと涼風に吹かれて転がっていく。首元の襟巻きの端がひらひらと風にたなびくのを感じていた。
「――ったく、皆して吉原かよ……永倉さんめ、自分から出かけようって言っておいてすっぽかしやがった」
非番。中々に忙しなく働いて過ごしている中の貴重な休日。が身支度を済ませて永倉の部屋を訪れてみれば既にもぬけの殻であった。おやと首を傾げていると、巡察に向かおうと通り過ぎようとした藤堂に永倉は他の隊士達と吉原の方へと遊びに出かけたの見かけたと言われ、はご立腹である。きっとすっかり忘れてその場で意気投合した仲間達と遊びに行こうと言って行ってしまったのだろう。永倉にはそういう調子のいいところがある。
「ふん……どいつもこいつも鼻の下伸ばしちゃってさ。何だい」
久々の気晴らしを密かに楽しみにしていたは不満そうに唇を尖らせる。吉原には以前連れて行かれたことがあるが、にとっては興味対象としては程遠い。宴会とのことでタダ飯を食らえたのは僥倖ではあったが、用を足しに中座したのが運の尽き。部屋を間違えて他の客の情事を見せつけられて以来どうも苦手だ。男と女が肌と肌を重ね合わせて、互いの性器を擦り付け合う様にゾッとした。男が女に馬乗りになって蹂躙するその姿を見せつけられた時、は全身に鳥肌がたった。生々しい性のやりとりに眩暈と吐き気がした。ずっと男になりたいと願っていた。男に生まれたかった。誇り高い侍として生きたかった。そんなにとっては理想とはほど遠い光景だった。理想は打ち砕かれた。目の前が真っ暗になるような感覚だった。
生まれ持っての性を変えることは出来ない。の生きる遠い未来、性別の壁は少しずつ瓦解され始めているが、まだこの時代のは預かり知らぬ。がいくら晒で胸を潰そうと男のその振る舞いを似せようと、所詮は偽物にしかならない。どう足掻こうと己は男になることは叶わない。あの遊廓で、目の前で繰り広げられた獣のような有様に冷や水を浴びせられたようになってしまった。本能のままに腰を揺らし貪り合う姿は悍ましい。にとって恐ろしい行為のように見えた。誇り高く戦う兵も夢の後。吉原など悍ましい。
「――つまらんな」
わかっている。憧れようとも結局のところ、は男になれやしない。失望しようともあの夜の男達や永倉達のように男にはなれない。はどう足掻こうとも身体的にも女でしかない。天と地がひっくり返らない限りはは男にはなれないのだ。
「つまらん……」
膝を抱え込み、ぎゅうと力を込めていく。屯所にはまだ帰りたくなかった。男世帯の賑やかな屯所に帰ればきっとこの喉の奥に突っかかる不快感どころではなく、何かと気に掛けてくる兄貴分達が構ってくるだろう。そうすればこの不愉快な気持ちも有耶無耶になる。けれども、そうしたくはなかった。気持ちが悪いけれども、屯所に帰るには身体が鉛のように重く、とても億劫だった。
「さっきからどうしたの、おねえちゃん。おなかいたいの?」
「え?」
ゴォン。梵鐘が唸り声を上げた。がハッとして俯いていた顔を上げれば、目の前にはいつの間にかに幼女が立っていた。おかっぱの幼女。その幼女は降って湧いたように突然の前に現れたのだ。決して気を抜いていたわけではない、気配には過敏な方だ。誰かしら近づけば気配に気づくはずである。戸惑いは大きい。何も気配を感じなかったと、驚きながら周囲を見回した。
境内は依然として閑散としている。この本堂へと繋がる石畳の参道。作務衣を着た坊主は竹箒を動かしながら門前に散らばっている枯葉色を集めている。箒の乾いた音が小気味よい。参拝者の姿はぱっと見回す限りでは見当たらず、時折修練の為にやってくる隊士達も今日は見当たらない。遊びにやってくる近所の子ども達の姿も見当たらない。鳴ったはずの梵鍾は鐘木がぴたりと動いていない。
「ねえ。わたしおなかへっちゃったの。なにかたべるものほしいな」
「たべるもの?」
この寺によく訪れているが、この辺ではあまり見かけたことのない顔の子だ。ぱちぱちと瞬きをしていると、その幼女は無邪気な笑みを浮かべての膝に乗り上げてくる。とは初対面のはずだが、随分と人懐っこい子どもである。食べるものは丁度都合よくこの寺に寄る前に街で買い出しをしていたから、自分へのご褒美として人気の饅頭屋で買った饅頭があるにはあるが、饅頭でもいいのだろうか。包みに入れていた饅頭を二つ渡すと、幼女は驚いた顔をしてを見上げる。
「ひとつでいいよ?」
「食べる前にそこにいらっしゃる御本尊様にお供えしてきてね」
「! ありがとう!」
嬉しそうにの膝の上から飛び降りて、幼女は賽銭箱の縁に饅頭を乗せようとする。背が足りないを見かねて抱え上げてやると、ありがとうと嬉しそうに言う。風変わりな子だなと苦笑して、
「私はいいからご挨拶なさい」
「うん」
幼女をそっと地面に降ろして二人並んで手を合わせて挨拶を済ませると、目の前の石段に再び座り直す。もう食べていいと首を傾げながら見上げてくる幼女に、いいよと答えてやれば、喜色を浮かべて高らかにいただきますと宣言をする。
じっと眺めていれば、満面の笑みを浮かべながら饅頭を口一杯に頬張る幼女の様子を見て、目を細める。美味しいかと尋ねれば、に向かって同じく満面の笑みで頷く幼女。世間の妹や弟はこうやって兄や姉を慕ってくれるのだろうか。そう思いながら、幼女の頭を優しく撫でてやる。
「あれ? くんだ」
「こんにちは、沖田せんせい」
にわかに門の方が騒がしくなったかと思えば、子ども達が境内に飛び込んでくる。この壬生寺の近所に住んでいる子ども達だ。きゃっきゃと楽しそうに追いかけっこをしている。子ども達に交じってやってきたのは、の上司である沖田総司だ。沖田はの姿を認めるなりパッと明るい顔をして近寄ってくる。嬉しそうにニコニコと笑みを浮かべた彼はの目の前までやってきた。
「お一人ですか? 隣いいですか?」
「え?」
ハッとして横を向けば、先程まで隣にいたあの幼女はいなくなっていた。きょろきょろと境内に視線を飛ばすが、走り回る子ども達の中にその姿を認めることができなかった。
「(いつのまに……?)」
「くん?」
「いや、何でもないです」
「それじゃあ、お隣失礼しますね」
「少し休憩します!」と走り回る子ども達に高々と宣言した沖田は、ニコニコと笑みを浮かべながらの座っている階段の隣に腰を下ろす。立ち止まった子ども達は、了解というように沖田に手を振って返事をすると、再び境内を走り回り始めた。その様子を微笑ましそうに眺める沖田につられるように、も子ども達が楽しそうに鬼遊びをする様子を見守る。
子ども達は実に縦横無尽に駆け回っている。境内の掃除をしていた坊主が一度走ると危ないぞと注意をしてはいたが、坊主の顔もどこか慈しむような表情で子ども達を見守っている。本堂前まで階段を駆け上がってみたり、境内に植わっている大木の周りをぐるぐると回ったり、鐘楼の影にこっそり隠れてみたり、挙句の果てにはと沖田の背後に隠れてみたり、本当に自由闊達だ。
「いつもお休みの日は子ども達と遊んでいるのですか?」
包みから取り出した饅頭を手で割って、沖田に差し出すと嬉しそうに手に取った。
「そうですね。大体は子ども達と遊んでいますね」
沖田は一度へと視線を戻し、再び子ども達へと視線が向かわせた。その瞳には普段屯所にいる時とは違った穏やかで優しい橙色を灯している。そして、子ども達の笑い声に誘われるように穏やかに笑い声を零している。屯所でくつろいでいる時などは物腰柔らかく穏やかな雰囲気はあるが、任務中は緊張感で張り詰めている。危険な仕事であるから当然と言えば当然だが、こうして心の底から気持ちを寛げている姿を見せるのは珍しい。滅多に見かけない穏やかな表情をこっそりと横目で追う。
「それにお勤めがお勤めですから……できる限りは一緒に子ども達といたいんです」
子ども達と一緒に過ごす時間がとても愛おしいのです。
屈託のない表情で子ども達を見守っている沖田。心の底からそう思っているようであった。それは沖田にとって心の拠り所でもあるようだった。殺伐としたこの京の都で命がけ。いつ死ぬかもわからない状況だ。どこかに拠り所は必要だ。他の隊士達もそういった各々の拠り所があって、日々を生き続けている。他の隊士達は色街などへ行って心を慰めたりするようだが、沖田にとってはこうして子ども達と遊ぶことが何よりも心の慰めになるらしい。そういった沖田のあり方をはどこか安堵していた。
「せんせいは、色街には行かないのですね」
「うーん、くんも色街には行かないですよね?」
「え?」
「ん?」
気が付けばぽろりと零れていった言葉にハッとする。無意識だった。個人的な事を聞くものではなかったと、慌てて口元を抑えると、怒ってないから気にしないでくださいと気を使われる始末である。目を丸くした沖田が、すぐににこにこと笑みを浮かべた。
「ボクはね、少し気になる子がいるんです」
「気になる子……そういう女性がいたとは初耳ですね」
瞬間。少しだけ、子ども達の笑い声が遠く聞こえた。くらりと眩暈がするような、そんな感覚が思考を鈍らせる。
沖田に想い人がいるなどとはは思いもよらなかった。驚き目を丸くすると同時に、すぐさま先程の問いに対しての回答が腑に落ちる。なるほど、その気になる女性というのは、色街へと行っても会えない人物なのだろう。そうすると市中の女性か、江戸へ残していった恋人などなのかもしれない。そういう存在がいたというのは本当に初耳で驚いてしまったが、そうであれば納得がいく。男性であればそういうこともあるだろうし、色街へ行くことが悪いことではないが、沖田が行かない理由を述べた瞬間、何となく安堵してしまった。それと同時に無性に落ち着かないような何とも言えない心地がする。やはり自分の上官の色事など知りたくないからだろうか。
「ふふっ……。原田さんや永倉さんには内緒にしてくださいね。あっという間に屯所内で知れ渡ってしまうし、知られると恥ずかしいですから」
「あ、ええ……。そういう個人的な事は他人には話したりはしませんよ。そういうのって野暮でしょう」
「……そうですね」
噛み締めるように呟いた沖田に、思わず視線を向ければ、覗き込むような視線と絡み合う。凪いだ海というのはこういうものだろうかと見入っていると、神妙な面持ちで見つめてくる。
「くんは気になる人、いますか?」
「え?」
「いいえ、何でもないです」
の自然と傾いた首を見て、沖田は困ったような顔をしたが、すぐさま、穏やかな表情を浮かべて首を振った。何でもないですといった表情を見て、とても何でもなさそうには思えなかったが、今のには沖田にかけるべき言葉が何なのか見当がつかず、必死に言葉を紡ごうと口を開いたり閉じたりしているが、結局のところ、唇は震えなかった。
「総司! お兄ちゃん! 一緒に遊んでよ~!」
「よぉ~し! そしたらボクとくんが今度は鬼の役ですね! 十数えたら追いかけますよ~!」
「わああ! にげろにげろ~!」
打って変わって。勢いよく立ち上がった沖田に、びくりとは身体を揺らした。先程の沖田の神妙な面持ちは跡形もなく消えてなくなってしまった。それでも脳内はどこか言葉を探している。
間延びした数数え。一目散に散り散りになって四方へ走っていく笑い声。少し傾いた陽の光。
「——くんが良ければ、またお休みの日に来てくれませんか?」
「え」
「子ども達も、ボクも、喜ぶので」
十。高らかに宣言した沖田がを置いて走り出す。残されたはただその背中を見つめて、暫く座り込んでいた。早速一人子どもを捕まえた沖田がぎゅうと羽交い絞めにするように抱きしめて頬ずりをしているのが見える。きゃいきゃいと子ども達が楽しそうにする声が、そっと優しく寄り添って、何とも言えないような温かさを感じる。少しだけ、優しいような気持ちと張り詰めた糸が弛緩していくような、そんな心地に包まれて、居た堪れなくなったはすっと立ち上がると、腰に刀を差して走り出す。
それを見た沖田は嬉しそうに笑って、
「今度はくんが鬼だよ」
ひらひらと手を振る沖田と沖田に捕まった子ども。先程までつまらないと思っていた気持ちはどこか吹き飛んでしまって、こうして沖田や子ども達と過ごすのも悪くないなと思いながら、沖田の背中を追いかけるのだ。
21.11.09 『春は何処か』 初出
22.03.24 加筆修正