一仕事を終え、籠り切りの執務室から出てきたのは八時を過ぎた頃。厠で用を済ませ、そのまま部屋にとんぼ返りする気もせずに縁側で白銀の庭を眺めてみる。灰かぶりの空からにはしんしんと舞い落ちてきている。どうりで寒いはずである。
澄みきった冷たさが身に染みる。
普段であれば快活に駆け回る短刀達の姿も今日はさすがに見当たらない。身を切る寒さだ、皆部屋でのんびりと過ごしているのだろう。粟田口の短刀達が兄貴分の一期一振と楽しそうに過ごしている姿が目に浮かぶ。
誰もいない、私だけの庭。その寂しい庭にそっと降りる。さくりと降り積もった雪がささやいた。足元がひんやりとして少し身震いをする。だが、清々しさすら感じる。この寒々しさが喧騒としていた心象を宥めていくような感覚がする。ささくれだった心が少しずつ柔らかくなっていく。肺一杯に凜とした空気を吸い込んで、体の熱を冷ましていく。そうしていくことで全て浄化されていくような気がしてくるのだ。
―― 今、庭の椿が美しく咲き始めているぞ
ふと、忙殺されていく中で近侍からそんな言葉を聞いた事を思い出した。その頃は愛でる暇も惜しかったが、今は愛でるほかない。美しいものは心を潤してくれる。特に歴史修正主義者との戦闘の日々に草臥れてしまった今こそ愛でるべきだ。付喪神と人間の一筋縄ではいかないこの関係も神経をすり減らす。別段不仲ではないが、たまには一人っきりで少し放っておかれたいのだ。桜を大勢で愛でる春も好きではあるが、この深々とした空気の中で一人、花をそっと愛でる時間も自分には必要だった。束の間だけでもそれを味わっていたい。そうすればもう少しだけ喉が通るのだ。
「―― っえ?」
もう少し近くで眺めていようと椿の咲く植え込みに近づいた瞬間であった。踏み込んだ瞬間ぐっと重心が地面に引っ張られ、足が引っ張られる。
浮遊感。
あっと思った、落とし穴。身が空を切り、沈んでいく。雪に埋もれて全く気づきもしなかった。足元から崩落していく。慌てて受け身の体勢を取って落下の衝撃に備えれば、直後にびりびりと痺れるような一撃が全身を揺らした。怪我こそなさそうではあるが、地面に叩きつけられた痛みに顔を歪めてしまう。冷たい背中をさすりながら身体を起こしてから顔をあげると空は随分と遠くなった。随分と深い穴のようだ。ご丁寧に穴は垂直に掘られていて、容易によじ登るのは困難だ。誰かの手を借りぬ限りとても自力では這い上がることはできないだろう。
加えてこの悪天候。皆部屋の中でのんびりと過ごしている事だろうから助けを望むにも望みが薄い。確かに気分転換に一人になりたかったが、これほどとは言ってはいない。これでは最悪凍死してしまいそうだ。
「主」
「鶴丸?」
「主、みーつけた」
ひょっこりと穴を覗き込んできたのは今日の近侍である鶴丸国永だ。私の姿を認めるなり、嬉しそうに目元をくしゃりとさせて笑った。何が嬉しいのだか。相変わらずの死人のような白装束に寒々しさ。余計に寒さを感じて見ているこちらが眉を顰めてしまう。もう少し暖かそうな格好をしろ、風邪を引きそうだ。
それにしてもこんなに早くに見つけてくるとは思わなかった。……ではない、明らかにこいつが黒だ。否、白だけれども。白だけれども黒だ。この馬鹿みたいな深い穴を掘ったのはこの鶴丸国永という男だ。そうに決まっている。こうも早く見つけられるはずもないし、この雪が降って寒い中にわざわざ外へ出てくる者などいない。きっとこいつが意図的に私を落とすために画策したのだ。椿が咲いたと知らせてくれたのはこの男であった。用意周到だ。これもいつもの驚きとやらを追求した結果なのだろうか。その結果は後で減給、だ。手向かいすれば容赦はせん。
散々文句も言いたいが、誰にも見つからないのではと危惧はしていたところではあった。落とし穴に落とされたのは腹立たしいが、こうして様子を見に来てくれたことで落とし穴の中で凍死するなどという間抜けな結末を迎えず済んだことには胸を撫でおろしている。発育が劣悪だから胸などないなどといった茶化しも今なら許してやる。
何にせよ、気分転換もそこそこに出来たことだ。身体も冷えてきたことだし鶴丸国永に手を貸して引き上げてもらって、さっさとお汁粉でも作って暖をとろう。それがいい、今日はゆっくりと眠るのだ。ただ今は眠りたい。
「……鶴丸、もう気が済んだか?そろそろ部屋に帰りたいから手を貸してくれ」
穴の上の鶴丸に呼びかけるが、彼はじっとこちらを見下ろしたまま動かない。薄く笑みを浮かべているその様子に不穏な空気を感じる。まだ何かあるというのだろうか。
目を細めた彼は落とし穴から離れたかと思うと、あろうことか雪掻き用のスコップで雪を私の落ちた穴に落とし始めたのだ。一体何を考えているのだ。
冷たい!
落ちてくる雪の塊に焦って止めるように声を掛けるが雪はどんどん落とし穴の中に降り積もっていく。生き埋めにするつもりか。
アイツ今日の夕食抜き、減給。
「ばっ!鶴丸国永!お前どういうつもりだ!?」
「主。我慢してくれな、俺も直ぐにそちらに行くから」
「は?お前なに言って、」
あろうことか!
鶴丸はひょいと穴の中目掛けて飛び込んできて、私を下敷きにする。
狭い穴の中で避けきれるはずもなく、突然の衝撃に思わず倒れ込み、反撃の平手打ちを食らわす。
「っ~!バカ者っ!飛び込んでくるやつがあるか!」
「はははっ!君なら受け止めてくれると思っていたぜ」
怒鳴り付けても悪びれる様子もなく笑って私の上に馬乗りになる鶴丸。じわんじわんと鈍痛が沁みる。にんまりと蕩けるような笑みを浮かべるその瞳に、思わず口を噤む。その瞳はいつもよりも暗い。冬の海の曇り空を彷彿させる。寒くて暗い色。様子がおかしい。
「鶴丸国永」
「君が俺を置いて死ぬ夢をみるんだ」
「は?」
「最近、手薄になった本丸が襲撃されて審神者が殺されているって聞いている」
「――そう」
頬に触れられると弧を描くように愛撫し始める。次第にその手は輪郭をなぞり、目の周りをなぞり、鼻筋をなぞり、唇をなぞり、喉仏をなぞる。喉仏を何度もなぞると白い両手が首を包み込む。氷のような手。それは私という存在を確かめているようだった。存在を確認して目を細める。
「君が俺の知らないところで死ぬくらいなら、ここで君を殺してこの中に一緒に閉じ込めれてしまおうか」
「ふざけているのか」
「ふざけていないさ。俺をその懐に抱き込んでくれよ」
人差し指で左胸を指す。つんつんとつつく彼の行動が鬱陶しい。
億劫なことだ。最近横行する本丸奇襲の事件を受けて感傷的になっているのだろうp。その不安を私にぶつけているのだ。
頬を撫でつける動作も生け垣から毟ってきた椿の花を私の髪に挿して満足げにうっそりと笑うのも、私に触れて生きているのに触れて安心しようとしている。
私はここにいるというのに。
個体差はあるようだが、この本丸に顕現させたこの男はどこか情緒不安定だ。知人の審神者に仕える鶴丸は裏表なく明朗快活であった。
この鶴丸も普段は飄々としてあけすけな性格をしているが、どこか不安定だ。
神様も存外情に左右されるらしい。
本人自身もその感情に戸惑っているようだ。
「鶴丸」
やれやれ。両手を広げて構えてみれば、すぐさま私の冷たい背中に腕を回される。胸に耳を当てて、良い音だと笑みを浮かべている。ゆるく胸を撫でるこの男にそういった意図がないのは承知であるが、苛立ちがくすぶる。この男には戦ってもらわなければならぬ。私がどうあがいても戦えない相手と戦うことができるこの男がここで折れてしまうのは憎々しい。
「君は死なないでくれよ」
「無茶いわんでくれよ」
体が軋む。
「置いてかないで」
「そういわれてもなぁ」
「そうなるぐらいなら君の懐で眠るんだ。しっかりと抱き込んでくれ」
「信濃の専売特許だね、それ」
「主、」
酷く、真剣な瞳をする。
「俺は、主と静かに眠りたかったんだ」
「――――ばかもの」
優しく後頭部に手を回して撫でてやると更にグリグリと頭を押し付けてくる。今日の鶴は甘えただ。すんすんと鼻を鳴らして私のにおいを嗅いでいる。胸に耳をくっつけて、生きていると呟いてから少しだけ顔が穏やかになった。世話のかかる神様だ。冷え切った体を抱え込んで、さらに遠くなった空をぼんやりと見つめる。
はらはらと舞い落ちてくる雪が私と鶴丸を白く包み込んでいく。
「」
「?」
「俺を置いて死なないで」
「ばかめ、私がお前を置いていくのではないよ」
「え?――」
「お前が折れたとき、私は死ぬのだ」
精々最期まで折れてくれるなよ、私のかみさま。