学生の頃とは打って変わり、社会人となって日々は目まぐるしく流れていく。仕事をして、家に帰って、次の日の業務の確認をして、眠って、また起きて。時々、学生時代の友人と会ったりして。
それがずっと続くと思うと、少しだけ、寂しい気もする。
その分、好きな事を増やそうと思った。好きなものが増えることは、幸せになれる時間が増えるということだと思う。
好きな歌手の音楽を聴くこと、好きな食べ物を食べること、好きなデザインの洋服を身に纏うこと。それらは、絶え間ない日々にそっと寄り沿うようにして私を幸福感で満たしていく。
「いらっしゃいませ……! さん、こんにちは!」
「こんにちは、安室さん! 今日は席空いてますか?」
仕事の合間にふらっと立ち寄った喫茶店も、最近増えた好きなものの一つ。
喫茶ポアロ。個人経営の喫茶店だ。このポアロは雑居ビルの1階層に店を構えており、2階層にはあの有名な毛利小五郎の探偵事務所がある。そのため、毛利小五郎本人やそのご家族の方たちと鉢合わせることもあり、ちょっとした有名人にも会えるという不思議な喫茶店でもある。そんなところも少しおもしろいところだと思う。
ポアロの店内は――……お世辞にも、そう広くはないが、開放的な作りにはなっている。店の目鼻先は通りに面しており、往来がある。通りの面はガラス張りになっているため、外からポアロの様子を窺うことが出来る。
店内にはカウンター席とテーブル席の二通りの席があり、店の混雑の具合によりけりではあるが、作業しにポアロへ訪れることもあるため、テーブル席に通してもらうことが多い。
以前の客の年齢層は中高年の男性が多かったようだが、噂の名物店員”安室 透”さんが従業員として働くようになってからは日に日に女性客が増えているらしい。彼目当て訪れる女子高生は専ら安室さんとの距離が近いカウンター席が人気なので、作業したいときには店員から少し遠いテーブル席が空くので少しありがたい。少し騒がしいけれども、嫌な騒がしさではないので気に入ってはいる。
「あれ? 今日は随分と穏やかですね」
「穏やか?」
「安室さんいらっしゃる時は女子高生いっぱいなイメージがあったので」
「ははっ。彼女たちだって、いつもここにいるわけではないですよ」
店内にはカウンター席に常連のおじさんが2人。テーブル席には飛び石に2人。それぞれが、思い思いに昼下がりの緩やかな時間を過ごしているようだ。普段、安室さん目当てで来る女子高生たちは珍しく一人として見当たらない。
はて、と首を捻れば、近くに座っていたおじさんが、高校生たちはテスト期間であるらしいということを教えてくれた。図書館の近所に住むその常連さんが朝方散歩している時に早くから図書館の開館時間待ちをしている学生の行列を見たという。
今は図書館が駆け込み寺らしい。道理で休日であるが学生の姿が見当たらないわけだ。
「学生さんが元気で賑やかなのも楽しいけれども、たまには以前みたいな長閑なポアロもいいよね」
「そうだなぁ。学生の若い子見てると元気出るけれども、俺たちおじさんだからちょっと疲れちゃうね」
「違いない!」
「はは……確かに、高校生の子たち元気いっぱいですものね」
苦笑いしながら、共感の意を示してみれば、くるりと視線が私の方に向く。
なんだ、なんだ。
「ちゃん……いい保養だな」
「10代を経た20代の少し落ち着いた若い子……いいね。オアシスだ」
「すみません、店内でナンパは……ちょっと」
「ええ! 安室くん! 僕たちからまだ女の子を取り上げるのかい! ずるいよ~イケメンだからって!」
「そ、そういうわけではないんですが!……ゴホン! さん、今日は奥のテーブル席でよろしいですか!」
「安室君のいけずー!」
背中を押されるように奥のテーブル席に案内されて席に座れば、常連さん達はにやにやと安室さんを見て楽しそうに笑っている。
私がこの店に通うようになってからあまり見かけない光景だ。
普段は女学生が多い時間帯に来てしまう事が多く、こういった常連さんたちの憩う時間帯に身を置く機会がなかった。皆さんとは何となく顔を合わせて、顔馴染みに挨拶する程度ではあったが、こうやって気さくに交友する機会は珍しかった。安室さんは気を使って茶化すいい大人たちから庇ってくれたが、少しだけ、そういった細やかな交流が楽しかったりする。
ポアロを見つける前は、誰もが知っている有名カフェチェーン店をその時の気分で利用していたが、こういった細やかな人の交友とは無縁の場所であった。店内は沢山の人で賑わい、どこもかしも席を見つけるのが難しく、やっとの思いで席を見つけた席もどこか少し落ち着かないことがあった。お店のコーヒーやお茶菓子は力を入れているなりにおいしいし、安定した商品供給がされていて、店舗数もそれなりにあるので気軽に立ち寄りやすい。チェーン店にもいいところがある。それがお気に入りだったし、好きだった。
けれど、ふとした瞬間に、居心地が悪く感じてしまう。
お気に入りのカフェラテは温かいけれども、ふと我に返った時、周囲を見回してみるとパソコンと睨めっこをするサラリーマンや仕事の打ち合わせをする人々。少しくたびれた顔。知らない談笑。
無人島に1人流れ着いたような、宇宙空間に放り出されたような、哀愁漂う冬の黄昏時のような。
心許ない寂寥感。騒然とした中に深々と息を顰める荒涼感。
それがどこか寂しくて、温かいはずなのに寒い感じがした。
ポアロを見つけた時は嬉しかった。また新しく好きなものが増えると思った。梓さんや安室さんが愛想よく気さくに迎えてくれて、案の定、すぐにお気に入りの場所になった。ごはんやデザート、コーヒーは何を頼んでも美味しくて幸せな気持ちなるし、少しばかり騒がしい常連さんたちも、それも何だか温かくて心地よかった。
鶴山のおばあちゃんは仕事の作業をしていれば、えらいねと一粒の飴玉をくれるし、久々に会って隣になった常連のおじさんは久しぶり元気だったと声を掛けてくれる。そんな些細なことが嬉しくて、楽しくて、ここでの交流も好きなものの一つになっていた。
やはり好きなものに囲まれて過ごす時間は幸せだ。
「ふふっ」
「なにかいいことありました?」
「! 安室さん!」
「コーヒーとハムサンド、お待たせしました」
仕事の資料を広げて作業しつつ思い出し笑いをしていれば、安室さんが頼んでいたコーヒーとハムサンドを運んできた。見られた。
恥ずかしくなって、両頬に手を添えれば、にこにこと笑みを浮かべた彼が、お疲れ様ですと労いの言葉を掛けてくる。
コーヒーカップに寄り添うようにソーサーの上にちょこんと乗った小さな包み紙を見つけて、あっと思う。その中には少量の金平糖が入っていて、それもポアロで好きになったものの一つだ。コーヒーに添えられたそれは密かな楽しみであった。
少しテーブルの上を整えて、スペースを作ると早速運んできてくれたハムサンドとコーヒーをいただく。
シャキシャキのレタスとハムにマヨネーズと味噌が混ざったソースが程よく絡まっておいしい。食べものの魔法。おいしいものは自然と口元が綻んでいく。
おいしいコーヒーと居心地のよいゆったりとした空間。このポアロには幸せが沢山つまっている。
「相変わらず愛されてるね、ちゃん」
「え?」
よく隣の席になる物静かなおじさんが、新聞から視線を私に向ける。
何が気づいていなかったのだろうと、思案していれば、彼は意外そうな表情をしていた。
「気づいてなかった? そのソーサーに乗ってる金平糖。普通はついてないんだよ。安室君が君にコーヒーを出すときだけはいつも乗っているんだ」
「――え?」
思わず常連のおじさんを接客している安室さんの方を見れば、バチっと目があって、ウィンクを一つ。どきり、と心臓が揺れた。とくとくと、さざめき始める胸にそっと手を当てて、冷静に努めようとする。
これは、どういう事なのだろう。少なくとも彼は私に対して好感を持ってくれていると捉えていいのだろうか。都合のいいことばかり考えて勘違いしてしまいそうだ。
彼は店のドアが開く音に反応して、すぐに新たなる客を迎えに行く。他の学校よりも一足先にテストが終わっていた学校の生徒だろうか。賑やかになり始める店内に、一部始終を見ていたおじさん達からの生温い視線。どきどきといまだ熱を持つ心臓。
視線が彼を負い始めようとするのを抑えて視線を逸らせば、コーヒーカップに寄り添うように置かれた金平糖の入った包み紙が目に入る。先程よりも愛おしく思えてきて、それをいつもよりも丁寧に開ける。中には、淡くも美しい色の金平糖が入っている。きらきらと輝く星のようだ。
ひとつまみ、その星を口の中に含めば、さりさりと小さく砕けて、口の中が甘い宇宙のようになっていく。残りの金平糖を丁寧に包み紙に包み直して、さらにハンカチで包んで大切にカバンの中にしまうと今度からはコーヒーの中にではなく、瓶の中に入れて取っておこうと思った。星を集めて、その星が瓶の中一杯になったならば、今度は私から彼に好意を返そう。
――また好きなものが増えそうだ。
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18.12.09 初出 『ロマンチック・スター』