摩天楼の窓から見下ろす眠らない街は極彩色に揺らめいている。キラキラと、ゆらゆらと。ネオンサインが眩く街の陰影を色濃く映し出し、一層と華やかにする。
 それとは対照的なこの摩天楼。高層マンションの最上階。この薄暗い部屋は窓から薄らと青白い月明かりが幻想的に差し込んでいる。
 燃えるように熱く肌を重ね合った先ほどの熱は放射冷却によって急激に冷えていくようであった。
 心象風景を彷彿とさせるような静寂。水道の蛇口から落ちる雫の音さえも研ぎ澄まされて聞こえる静寂。それはとても穏やかに冷まされている。心地の良い静寂だ。

 キングサイズのベッドの縁に腰掛けながら、横たわる女の寝顔を眺める。
剥き出しの白い肌が月光で青白く光り、その表情をもまるで死人のように青白い。そっと頸動脈に触れてみれば、指先を跳ね返すように脈打つ血管に、少しだけ笑ってしまった。

「せんせい?」
「すまない、君。起こしてしまっただろうか?」
「いいえ。少しばかり瞼の裏側を舐めていただけですよ」
「まだ眠っていても大丈夫ですよ」

 身じろいだ彼女がこそばゆそうな表情で、その男――神宮寺寂雷を見ていた。熱に浮かされたようなその瞳は暗闇の中でもじっと寂雷の姿を捉えている。その視線が絡み合ったと思った瞬間、彼女もそう感じたのだろう。脱け殻だった彼女に色が灯る。ゆるやかに相好を崩される。
 もぞもぞと、まるで芋虫のようにシーツに包まって転がりながら寂雷に近寄っていく姿は滑稽だった。可笑しくて口元に手を当ててクスクスと笑って、いると、近づいてきたは寂雷の太ももに顎を立てる。

「……そこまで笑わなくてもいいじゃないですか」
「丸くてコロコロとしたかわいいいもむしだなァって思ってしまったら、ね?」
「いも虫かわいくない……」
「そうかな。僕は君みたいな子は十分かわいいと思うけれども」
「……ずるい」

 は癇癪を起したようにバタバタと足をバタつかせる。しかし、寂雷にとってはそれすらも可愛らしいものにしか映らない。仕方のない子だ。そう思いながらも機嫌直す算段を付け始めるが、大抵、ちょっとしたことで彼女の機嫌は直ってしまう。宥めすかすように髪を撫でて、いいこ、いいこ、と子守唄を歌えば、すぐに元通りだ。
 その手つきの優しさに絆されたはうっそりとした表情を浮かべると上体を起こし、寂雷の肩にしなだれかかる。僅かに眉間の皺を寄った彼女を、労るように腰を抱く。幼子をあやすように拍子をつければ、彼女はそっと手を重ねる。

「少し、無理をさせてしまったかな……」
「いいえ。あなたから求められるのは誰だって悪い気はしませんよ」
「はは……買い被りすぎだよ」
「そんなことはございませんよ。背中の傷、お薬を塗って差し上げますね」
「ああ……いつも言っているけれども、このくらいは」
「後生ですから」
「そこまで言うほどでもないんだけれどなァ」

 寂雷の頬に延ばされた手がゆるやかに弧を描く。それは、まるで慈しむかのような手つきだ。少しばかり年の割に幼いと思った彼女が女の顔になる。
 そういった瞬間、寂雷はそれ以上を何も言えなくなってしまう。

「先生は、お医者様だから」

 の手が、そっと背中に回されてケロイドになりかけのそこをすっとなぞる。

「っ……。私が、医者だと何かあるのかい?」
「あなたはどんな傷でも治してしまうでしょう」
「そうだね。心の傷は難しいけれども、僕は医者であるから可能な限り傷は治すよ」
「でも、先生は誰かの傷を治すけれども、誰も先生の傷を治そうとはしない。先生は誰かに治してもらう必要なんてないのでしょうけれども、私は少しでも先生の傷を癒したい」

――だから、私はあなたの傷を治したいのです。

くん……」
「――せんせい。お薬、塗りますね」

 夜に溶けていきそうなほどに、静かに微笑みをたたえた女が寂雷を背中から抱き締める。暫くの間抱きしめて離れなかった彼女はすっと身を引くと、薬指に塗布した軟膏で背中をなぞり始めた。
 冷たくて、思いの外ひりひりと傷口が叫んでいる。



19.03.29 初出 『かみさまになれない人』 / 天文学様