朝の匂いを察知して自然と目を覚ました瞬間、隣のぬくもりを探すのが最早日課となってしまった。見つからないその面影の行方を期待して探してしまう。もしかしたら。もしかしたら今日こそはあの黄色い幸せを見つけることが出来るのかもしれないと求めてしまう。そうして見つからないその人思って明日こそは、とその空白に呪いを掛けるのだ。
 さらりとシーツを撫でて、いつか横たわっていた日々を思い出して頬をそっと寄せて目を瞑る。
「零くん」
 瞼の裏に棲みついた彼は私に優しく笑いかけてくれる。心を優しく撫でてくれる。
 繊細な麦わら色の髪も、私を見つめるくすんだ水色の瞳も、小麦色の頼もしい腕も、少しだけ荒れた薄い唇も。全て身体が覚えていて、全てが愛おしい。彼を形どる全てを思い出しては求めてしまう。
「君は一人でも生きていけるけれども、これじゃあ私は君がいないときっと生きられないね」
 小さい笑みを零し、するりとシーツを愛撫する。すんと鼻を啜る。いつか鼻を擽った彼の匂いも今ではどこかへと消えて行ってしまった。

 暫くじっとその空白を見つめ、もう一撫ですると、名残惜しい気持ちを抑えてベッドから抜け出した。
 きっと今日もこの国のために戦っているのだろう。あの人はそういう男だ。そして、その大多数を守るためにいつか私は切り捨てられてしまうだろう。それでもあの人を、孤独なあの人を愛することが出来たのならば、その孤独を少しでも癒すことができたのならば、私はそのいつかが来ても構わない。君が生きていてくれさえすれば、それ以上のことは本当はどうだっていい。
 ……本当は。本当は、今日という日を一緒に過ごすことができないのが残念だった。最後の日一緒に過ごし、明日からの新しい日々を一緒に迎えたかった。けれども、あの人が平穏無事ならば、帰って来ない寂しさも飲み込んでしまわなければならない。
「……あれ?」

 リビングの卓上がいつもの様子が違う。近づいてみて見ると、ラップに包まれた朝食とクリアファイルに入れられた書類が置いてある。そのクリアファイルの上には正方形の付箋紙が貼りつけられていて、「へ。今日中に記入すること!」と一言添えられている。
 そんなことよりも……。
「え!? うそ、帰って来てた!?」
 何時の間にかに帰って来ていたのだろうか。一言声を掛けてくれればいいものなのに。思わずリビングを見回してしまうが、当然彼の姿はない。もう出て行ってしまった後のなのだ。
 わかってはいたものの、思わず肩を落として溜息を吐く。彼の仕事が多忙であることは理解はしているが、やはり一目でもいいから会いたかった。あんなにも焦がれていた彼とすれ違いをしてしまい、失望は大きい。次はいつ会えるのかわからない。明日か明後日か来週かそれまたさらに先か。仕事が立て込めば一週間以上は当たり前だ。



 零くんと、心許ない気持ちで呟くと、不意にピリリリとテーブルの上に置きっぱなしにしていたスマートフォンが鳴る
 はてな。昨夜はコンセントに繋いだはずだったが……?
「もしも……」
「ああ、僕だよ。おはよう。今日も元気かい? ちゃんと朝食は食べてくれよ」
「零くん!?」
「うん。おはよう、。今起きたばっかりだったかな。約束。朝食は残さずきっちり食べること!」
「う、うん!」
「食べ終わったら、暫くシンクに着けておくこと」
「うん!」
「そしたら、そこのクリアファイルの書類の記入欄に必要事項をしっかり読んで書くこと」
「うん! ……あれ? 婚姻、届?」
「…………
 改まった声色の彼に、そっと背筋が伸びる。珍しく緊張した雰囲気に、ごくりと息を飲む。
「これからもずっと一緒に」

“僕と結婚してください”

 耳たぶを打つ言葉が優しい。今までもらったどんな言葉よりも、何よりも、優しい声色の言葉は、そっと心臓を撫でて震わせる。目の奥がじわりと熱くなって、明日からも一緒に居ていいのかと思うと胸がきゅうと一杯になって、目からぽろぽろぽろぽろと涙が零れてくる。
 ——ああ、大事な書類なのに。
「……私、いいの?」
「いいんだよ。と一緒に居たいんだよ」
「零くん……」
「一人で泣くなよ、今は傍にいてあげられないんだから」
「うっ……零くん……」
「泣かないで、
「書類……涙で……濡らし……ちゃった」
 一瞬の沈黙。だが、すぐに笑い声が破裂する。
「っははは!」
「零、くん?」
「やっぱり、だなァ……」
「え? え? なに? 怒ってないの?」
「予備もらっておいたから大丈夫だよ。テーブルの隅に封筒置いてない?」
「あ!」
「ふふっ、もう泣き止んだね」
「え、あ……!」
 ハッとして、頬を抑えれば、電話の向こう側からクスクスと楽しそうな声。

 ——やっぱり、零君がいないと私は駄目だなあ。

「そろそろ電話切らなくちゃいけないんだけど、最後にもう一つ約束していい?」
「うん? なあに?」
「明日一緒に書類出しに行こうね」
 
 ——また明日。

 そう言って、電話はあっさりと切れてしまった。
 いつか、零君の理想の為に、切り捨てられてしまうのだろうと思っていた。彼が守りたいと思うものの為に、私は最小限のリスクの一部として、離れていかなければならない日が来るのだろう。そう思っていた。
 しかし、零君は違ったのだ。私を抱え込んだまま、理想を遂げようと覚悟を決めたのだ。きっと足手まといにしかならない私と一緒に居たいと願ってくれた。それはこの上ない幸せなことだ。明日だけじゃなくて明後日明々後日と続く未来への約束だ。それを零君がくれるのだ。ならば私も零君に全てを捧げる覚悟をしよう。
「零くん……ありがとう」
 一度スマートフォンをぎゅっと胸に抱きしめると、そっとテーブルの上に置いた。そして、封筒に入った予備の婚姻届けを取り出してみる。そこには既に零くんの繊細な筆跡で名前が書かれていた。

 ”降谷 零”
 
 その何よりも美しいと思う名前をそっとなぞり笑みを零すと、その横の欄にゆっくり自分の名前を書いた。その美しい文字とは対称的に丸みを帯びた垢抜けない自分の字を見て、そのアンバランスさに小さく笑ってしまった。零君から名前を貰い、いつか、私の名前も美しい名前になれるだろうか。
 書き終わった婚姻届けを感慨深く眺めながら、スマートフォンを再び起動する。写真を撮ってメールに添付して送れば、彼の作ってくれた朝食を食べ始める。
 明日からの新しい日々に期待を寄せながら。



19.04.30 初出 『式日』