* 変換なし。

 ――断じてこれは愛ではない。愛の行為ではない。

 己にそう言い聞かせながら、密やかに息を吸う。喉奥はからからと痰が絡んでいる。乾いた咳払いをしつつ、呼吸がしずらいのはこの痰のせいだけではないことは理解している。唇はふるふると震え、緊張で気道が絞まっていく。努めてゆっくりと肺を揺らし、呼吸を繰り返すがそれでも吸い込んだ空気は体内を上手く巡りやしない。情けなく息を漏らしながら喘いでいる。
「あるじ? また具合が悪いのか?」
 ――月が見ている。
 溜息を漏らすような、はたまた、はっと息を呑むような。そんな美しい月がこちらを見下ろしている。さらりと揺れる夜を凝縮した色の髪。その眼差しは慈愛に満ち、優しく真綿で包み込むようであった。下弦の月が濃紺の空に浮かび、さらさらと揺れる長い柳の葉が瞬く。その一挙手一投足、すべてが美しく悩ましい。その相貌に見惚れていれば、瞳は見る間に曇り、不安を灯す。ゆっくりと手が伸び、両頬が包まれる。輪郭に触れ、人間の柔らかい感触をじっくりと確かめる仕草はまるで壊れ物にでも扱うかのように触れ方だ。少し顔色が悪いと、雲の切れ間から覗き込むように顔色を窺う仕草も様になるものだから、些か居心地が悪い。この美しい月に下心など微塵もない。ただあるのは主である己への労りだけ。憧憬に懸想する哀れな小娘を慈しみ、審神者という役割から脱落しないように繋ぎ止めているに過ぎない。眼下の薄い皮膚を冷たい指先がなぞり、しかりと眠れているかと物憂げに見つめてくるその表情に益々苦々しくなる。はくりと口を開くが喉が乾いて音にならない。振りほどくように咳払いをして再び口を開く。
「だい、じょうぶ。大丈夫だよ、三日月」
「主……。しかし、だなぁ……」
「今日は安静にしてた。大丈夫。いくら霊力が不安定だからって……その……やっぱり、良くないよ」
 彷徨いそうになる視線をぐっと堪えてその麗しい月を見つめて言う。当の本人は想定外だったというような顔をしており、そのきょとんとした顔ですらも美しい。思わず手を伸ばしそうになった手をキツくに握り締め、そっと心臓に手を当てる。
 「(……ああ、なんて浅ましい)」
 献身的な善意を下劣な心で無為にするなどは許されない。この方は己を主として、審神者として慕っているだけだ。歴史修正主義者と対峙するために刀剣より顕現された付喪神。軟弱な小娘ごときが憧憬を寄せたところでたかが知れている。
「口吸いの相手がじじいでは嫌か?」
 そんな浅ましい審神者の心をいざ知らず。彼は長い睫毛をはたはたと瞬かせ、こてんと首を傾げている。
 三日月は眼下から指先を移動させ、渇いた唇をつんと弾いた。血色の悪い唇をそっとなぞられる。頭を掻き毟りたくなるような厚意に、目が、眩みそうになる。
「――そう、じゃない」
「ならば」
 そうではない。
 絞り出した声は思いの外低く唸った。その声に三日月は驚いた表情を浮かべる。
「霊力を補う苦肉の策とはいえ、体の交わりで補うなんてことはしたくない……そんな当人の意思を度外視にした行為はしたく、ない」
「? 所詮刀はモノであろう。顕現させたのは主だ。俺は主のモノといえばそうなのだろう」
 事も無げに言い放つ三日月に、喉奥が引きつりひゅっと鳴る。上顎が貼り付いたように息苦しく、砂漠に一人解き放たれたような寂しさにぎゅと心臓を握り潰された心地になってしまう。ガツンと頭を殴られたよう。目の前が暗くなる感覚。
「違う……ちがう」
 それを振り払おうとぶんぶんと頭を振る。神様が人の姿をして同じ高さまで降りてきてくれた。決して目の前にいる三日月がモノだとは到底思っていなかったし、そんなつもりは毛頭なかった。こうして眼の前で向き合って、会話して、笑ったり、泣いたり、喧嘩をしたり。そういう心を通わせて少しは親しくなれた間柄だと思っていた。不出来な審神者を見限ろうなどせず、ついぞ支えてくれたから。刀のいろはも分からぬ小娘に呆れずに優しく教えて見守ってくれた。そうした厚意に応えたかった。そんな相手にそう思わせていたなんてあまりにも寂しすぎる。
「ちが、う、ちがうっ!」
「あ、あるじ?」
 声が震えて、目の奥が熱くなる。キュッと喉の奥が締まる。わなわなと身体が震えてしまう。腹の底からふつふつと湧き上がる憤りに唇を噛み締める。己のままならぬ状況が不甲斐なくて狂おしいほど悔しい。戦場に送り出すたびに苛まれる。引き裂かれるような罪悪感と二度と帰ってこないのではないかという恐怖心。霊力が不安定であるばかりに仲間を中々顕現させられない。常に戦力不足。そんな状況でも何一つ不平不満を言わず、審神者の体調を第一に気に掛けてくれる。
「無理をしてくれるな主よ。身体を大事にしれくれ」
 呼び掛ける優しい声には焦燥が滲む。声を張り上げて噎せる背中を擦るその優しい手。あなたは、あなたたちはモノではないのだ。
「主よ。もう無理をしないでくれ。主が倒れてしまったら困る」
「……ねぇ、やっぱりあなたはモノではないよ」
「何を」
「あなた達には物心が付いたでしょう」
 丸まった背中をさする手が止まる。乱れた呼吸を整えながら顔をあげれば、丸い水面に映る三日月は揺れている。
 ――嗚呼、きれいだ。
 三日月にそっと手を伸ばし、透明感のある頬に触れる。ピクリと三日月の体が揺れたが、払い除けられるような拒絶はない。ゆっくり優しく撫でれば、むず痒いような表情で暫く頬を引きつらせていた。やがて、眉根をハの字に曲げ、はにかむように笑うと、手の平に頬擦りをしてきた。
「あるじ」
「私の霊力が安定しないばかりに気遣ってくれたのはとても嬉しいよ。ありがとう」
「ああ」
「だけど”主"だからという義務感で自分を蔑ろには絶対にしないで欲しい」
 約束してくれるかい。そう言って三日月の頬を撫でながらその瞳を見つめれば、ぐいっと腕を引かれて抱き締められる。あるじ、と密やかな声で呼び掛ける三日月の姿を目にしてしまえばもう何も言うまい。きつく抱き締められたまま、されるがままになって、天井を仰いだまま目を瞑る。
「ありがとう」
「体調不良で中々安定しないから苦労かけてると思うけど……」
「そんなことはない。加州や乱も今剣も。皆が主の世話焼くの楽しそうにしておった」
「ああ……迷惑かけてる」
「誰も迷惑だとは思っておらんよ」
「そうだと……ありがたいけどなぁ」
「あるじ」
「なに……んぅ」
 落とされた口づけ。優しい刹那。何が起こったのか混乱していたが、事の次第に気づくとハッと我に返るが、抱き締められたまま身動きができない。身を捩ろうにも抑え込まれ、されるがまま唇を甘噛みされたり吸われたりしている内に脳がぼんやりとしていく。このままでは良くない。蕩ける意思の中で止めようと伸ばした手はそのまま地面に縫い付けられてしまう。
「っあ……みか、づき、だめ」
「……大丈夫だ。主が俺たちを大事に想ってくれるように俺たちも主を大事に想っている」
 にこりと美しい月の微笑みに、視界が霞む。初めての口づけは切ないほどやさしい。唇をぬるりと舐めて引き結んでいた口元が解かれていく。ゆっくりと口内に入ってきた舌が絡まり、吸い上げられる。ちゅちゅちゅと吸われていると身体の底からじんわりと熱を帯び始めていく。それと同時に温かい何かが流れ込んでくる感覚がする。眠っていた細胞が活性化されているような感覚。これが三日月の霊力なのだろうか。少しずつ身体が目覚めいくような、そんな感覚がする。身体が火照っている。
「……っは、ぁっ……主」
 ゆっくりと離れた三日月は恍惚とした表情を浮かべながら己の唇をなぞっている。霊力が循環し、彼自身も火照っているようであった。無意識なのか何度も何度も己の唇をなぞり、先程の行為を反芻しているようだった。恥ずかしいやら何やらで視線を彷徨わせていれば、「主」とはにかむ月の声。
「みかづき?」
「その……もう少し、口を吸ってもよいか?」
 そう言ってこちらを見つめる瞳は月というよりは焦がれる太陽のようであった。




24.08.19 初出 『月よ星よと』