好きなアーティストが歌う自転車の歌に憧れていた。自転車の荷台に乗って、二人で楽しく背中越しに話をしたり、時にはご機嫌に鼻歌を歌ったり、時にはペダルを漕ぐ背中を応援したり、そんなレモンソーダみたいな青春に憧れていた。二人乗りするような気の置けない相手とならばどこまでも行けそうな気がして、いつか誰かとそういう間柄になれればよいと思った。
 ジメジメとした梅雨空に、珍しく光が差し込んだ昼下がり。うっすらと汗ばむ陽気に暑さ慣れしていない身体はへこたれて、コンビニでチューブ型のアイスを買い、半分こした。コンビニ前で凍った容器を揉み込んで中身を解していると、向かいの道路を二人乗りして楽しそうに笑い合う男子高校生と女子高校生目の前を通り過ぎていった。その背中に萩原は大声で呼び掛ける。
「おーい、自転車の二人乗りは危ないぞ!」
「大丈夫でーす! 安全運転しまーす!」
「そういう問題じゃ! おい! おーい! ……ああ、行っちまった」
 「確かに危ないけど私は自転車の二人乗りって、青春の縮図みたいで少し憧れる」
 そう呟いて近づけば、萩原は意外だと思ったらしく、私の方を向いてパチパチと瞬きをした。
ちゃんって、意外とそういう乙女なところあるんだね」
「は? 萩原くん、私のことなんだと思っているの?」
「いや、馬鹿にしてるんじゃないよ。いつものクールなちゃんもいいけど、かわいいちゃんもいいなァ、って思ったんだ」
「どうせ可愛げのない女だよ」
 フンと自嘲するが、萩原に至っては神妙な顔つきで答える。
ちゃんはかわいいよ。普段のちゃんの気の置けない感じも気に入ってるんだけど、新しい一面見れて嬉しい」
「……そうかい、ありがとう」
 屈託のない笑みを浮かべる萩原に、視線を逸らす。よくもまあ恥ずかしげもなく口の回ることだと。それでも、こうして恥ずかしげもなく素直に言葉を告げるからこそ、沢山の人間から好意を寄せられるのだろう。真摯な言葉は心に響く。聞いているこちらはこそばゆくなるものだが、この男はさらりと言ってのける。それはこの男の美徳だ。松田には爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいだ。
「気持ちはわかったけど、さっきの自転車で二人乗りは危ないからだめだよ、ちゃん」
「それはわかるんだけど、憧れはあってもいいでしょう」
「うーん、わかるけどさぁ……あ、それじゃあタンデム自転車は?」
「タンデムはまた別でしょ」
「あは、やっぱり?」
 柔らかくなったチューブ型アイスの封を切り、齧りつく。体温で柔らかくなったアイスはシャーベット状になって、ちゅるりと出てくる。甘みのあるコーヒー味と程よいシャーベットの食感がひんやりと喉を潤して、心地よい。
 先程の二人乗りの高校生の走っていった方を見れば、遠くの方でねずみ取りのパトカーに捕まっている。ご愁傷様。
「……まあ、憧れるけれどもやっぱり危ないものね」
「……」
「萩原?」
 高校生達が走っていった方を暫く見ていた萩原は閃いたという顔をして、私の方を向いた。名案だというように顔を輝かせている。
ちゃん! 今度の休みの日いつ?」
「え?」
「俺と青春しに行こ!」
「は?」
 訝る私を尻目に、萩原は上機嫌でチューブ型アイスを食べ切るとゴミ箱に捨てた。

* * *

 
「おはよう、ちゃん! 出かけよう!」
「…………まだ夜明け前だよ、萩原」
 ピンポンとアパートのチャイムが鳴り、恐る恐るドアスコープを覗いてみれば、萩原が満面の笑みで立っていた。廊下の蛍光灯が静かに光っている。遠くで新聞配達のバイクの音が聞こえる程度の静寂に包まれており、外はまだとっぷりと暗闇に支配されている。太陽が日の出の時間を間違えたようなものかとのろのろと玄関の施錠を開けて室内に招き入れれば、満面の笑みを浮かべていた萩原は私を見るなり目を見開いて、宙に視線を彷徨わせた。寝起きで顔が浮腫んでそうだから見苦しかったのならば不可抗力であるから勘弁して欲しい。
「あー……あまり薄着で寝たら風邪をひくよ、ちゃん」
「ん……そうは言ってももう夏だし暑いよ……萩原の格好も暑そう」
「ああ、バイク乗ってきたからさ。ライダースーツ着てきたんだ。それより、出かける準備しようぜ」
「こんな早くからどこ行くの?」
「んー、どこがいい?」
「ええ? 決めてないの? 決めてるのかと思ったよ?」
 リビングへと案内しようと促すと、萩原は首を振って玄関で待ってると言って、上り框に座り込む。こうなれば玄関で待つつもりなのだろう。わざわざ迎えに来てくれたからのだから支度ができるまではゆっくり寛いでほしいのだが、きっと首を縦には振らないだろう。
「わかった。支度急ぐね」
「いいよ。ちゃんのこと待ってるの好きだから」
「…………すぐ準備する。待ってて」
「ん」
 冷蔵庫に入っていたお茶をグラスに注いで手渡すと、急いで支度を始める。
「あ」
「? どうかした?」
「ううん。なんでもない」
 ドアを開いた瞬間に萩原が目を逸らす訳だ。キャミソールと三分丈程のルームウェア用の短パン姿で来客対応するなんて慎みがないと思ったのだろう。やんわりと注意してくれていたのだと今更気づく。ちらりと玄関の萩原を見れば、こちらに背を向けて麦茶を飲んでいるようだった。洗顔から化粧、ヘアメイクを時短で済ませ、風通しの良い白の綿ブラウスに、動きやすいレギンスパンツ、軽く羽織るUVカットのパーカーを羽織る。リュックにハンカチとちり紙、化粧ポーチ、スマホ、モバイルバッテリー、二人分のペットボトルのお茶を適当に詰めると萩原と一緒に部屋を出た。
 相も変わらず夜の空気が充満している。放射冷却で昨日の日中よりもひんやりとした空気を纏った夜は心地良い。施錠をして、階下へと降りれば先に降りていた萩原は自分のバイクに跨って待っていた。街頭に照らされた萩原。
 ――ライダースーツ姿の萩原かっこいいな。
 すらりとした萩原によく似合う。まじまじと眺めていれば、早くおいでと手招きするので促されるままに萩原に近づいていった。
「お待たせ」
「ううん。ちゃんとツーリング楽しみにしてたから待つ時間も楽しいよ」
「そ、う……」
 ――萩原研二、本当によくできた男である。
「安全運転最優先で行くから安心してな」
「萩原のこと信頼してるからそこは気にしてないけど」
「ほんと? 嬉しいこと言ってくれるねぇ」
 萩原はにかりと笑って、私の髪をグシャグシャに撫でつける。わっと軽い悲鳴を上げた私を無視して一頻り撫でると、ヘルメットを付けられる。キツくないと確認されて首肯すると、よしと満足そうな表情を浮かべ、萩原も自身のヘルメットを被った。後ろ手にタンデムシートをポンポンと叩いた。恐る恐る萩原に跨ると彼は楽しそうに言う。
「あはは! ちゃん、緊張しすぎだよ」
「だってバイク乗ったことないし、ドキドキするよ」
「二人乗り夢だったんだから今日は思いっきり青春しようよ!」
「あ、覚えてたんだ」
「忘れるわけないよ、気になる子の事だもん」
「安全の為に俺の腰に掴まってね」
「う、うん」
 ドギマギしながら萩原の腰に腕を回すと、ピクリと萩原の体が揺れる。腕の力加減が強すぎたかと少し緩めようとすれば、萩原の手の大きな手が私の手に添えられる。すりすりと撫でられる。そっと抱き着く力を込め直せば、バイクが嘶いた。ゆっくりと走り出したバイクが徐々に速度を上げてあっという間に市街地を抜けていく。景色は吹き飛んでいき、風を切って駆けていく様はすいすいと水中を泳ぐペンギンのように早く、心も疾走していく。バイクが風切る音とエンジンの音で他は何も聞こえない。空に薄っすらと灯りが垂れ込め始める。
 ――ああ、夜が明けて朝が来る。
 富士山が見え始め、稜線がキラキラと白み始め、光が満ち始めてくる。その眩さは新しい朝を祝福するようで美しい。息を呑み、感嘆が漏れる。これも萩原が私の憧れを叶えてくれたから見られた景色だ。萩原が私に光りをくれる。
 私は、萩原の何を与えられるのだろうか。
「――好きだ、萩原」
 背中にそっと頭をくっつけて、しっかりと抱き締める。背中を通して心臓の音が伝わってしまっているかもしれないことが少しだけ怖いけれど、伝わっているといい。萩原が向けてくれている好意に期待してもいいだろうか。
ちゃん、どう? 青春できてる?」
 赤信号で止まると、萩原はちらりと私の方を向く。ふにゃりとだらしない、幸せそうな顔をしている萩原を見て、私までふにゃりとだらしない顔をして笑ってしまう。
「うん、キラキラしてる」
 信号が青になり、再び走り出す。どこまでもどこまでも。愛おしい、という感情が風に乗って駆け抜けていく。




25.06.15 初出 『夜明けのアクセル』