メモ

てがログ実装について
お久しぶりです。八坂紗弥です。

検討していたお引越しはできませんでした。
6月体調崩してしまい、やっと治ってきて調整するか~って段階で6月終わりかけていたのでその間に年間自動契約されてしまいました。またのんびり考えるとします。
GPT君には完全に辞めないなら引越しするよりこのままここでやった方が良いと思うよ~と言われました。そうかな…?

少しずつ作っていましたてがログのレイアウトいかがでしょうか?
これでオールインワンでやれますね。やっていく過程でやはりワードプレスでもよかったのかな~?とも思うんですけど、一先ずはこれで。大体のものは載せたと思います。イラストは載せたいものがあまりなくて一枚だけテスト用に載せています。
リンク変だぞ~とかありましたら、ご一報くださると幸いです。自分で中々気づけないものでして……

てがログで名前変換やる方が少ないのでとっても手探り状態なのですが、現状名前変換フォームが一つなのでデフォルト名全固定になっています。作品毎に夢主デフォルト名作って変えるってことが私の今の技術では難しいからです。
ご了承ください。
変換フォームは固定名ですが、シリーズでない限りは作品毎に名前が違うという前提では書いています。



副鼻腔炎拗らせてえらい目に遭っていたので暫くぼんやりしていましたが、ようやく治ってきた下旬に職場の子とサモエドカフェに行ってきました。後豆柴カフェも。普段表情が死んでるんですが、デレデレしてたので「八坂さん満面の笑み~」と笑われました。ええ。そうですとも。どうぶつかわいい(IQの低い感想)
初めて行ったのですが、一杯触らせていただいて、とても癒されました。眠いところをごめんね。


久々に酷い拗らせをしたので、体力づくりや筋トレもちゃんとしないとなと思いました。

気が付けばいよいよ夏ですね。暑いのは苦手ですが、明るい季節感はとても好きです。

ご訪問ありがとうございました。

No.46

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短編

安室透(降谷零)とハロウィーン

 八月の夏休み終了直後から売り始めたハロウィン関連グッズにピンとこなかったが、気がつけば過酷な残暑も形を潜め、少しずつ冬に近づく十月の終わり。秋の深まり。ハロウィンの季節である。イベント事はかきいれ時だ。繁忙期である。こぞってイベントを盛り上げて客たちに楽しんでもらおうと力を入れる。
 喫茶ポアロでも例に違わずハロウィンフェアが開催されていた。主にかぼちゃを使った食品が期間限定で提供されることになっている。かぼちゃを使ったニョッキ、かぼちゃプリン、かぼちゃのキッシュ、パンプキンラテ、エトセトラエトセトラ……。
中でもかぼちゃのニョッキは提供開始から好評でそれを求めにやってくるお客さんも多いらしい。
 店内はかぼちゃのカラーオレンジを基調とした装飾が施され、老若男女幅広い世代で楽しめるようにポップで可愛らしい飾り付けが多い。店員達も簡易な仮装として魔女のとんがり帽子を被っている。漂う食事の匂いとコーヒーの匂い。――ほっとする匂い。
「トリックオアトリート!」
「はい。かぼちゃプリンサービスさせていただきますね」
「えー、私は安室さんにいたずらしたかった!」
「ははは。イタズラはこのプリンで勘弁してくださいね」
 女子高生の客がハロウィンお馴染みの合言葉を唱えた。その相手はポアロの名物店員となった安室透だ。安室がポアロで勤務するようになってから、女性客が増えた。眉目秀麗の男を目当てに来店したが、料理も旨いとくれば評判が評判を呼ぶ。今日も店内は大盛況。昔ながらのシックな喫茶店は新たな形を見出しながら賑わいを見せている。
「遅くなってすみません、ただいま戻りました!」
 勢いよく店の扉が開き、ポアロのもう一人の店員・榎本梓が買い出し荷物を抱えて入ってくる。それ続いてパンツスーツを来た女が同じく荷物を抱えて入ってくる。安室はその透き通る瞳をわずかに瞠目させたが、すぐににこりと笑みを結ぶ。
「梓さんありがとうございます。もしかして{name2}さんに手伝っていただいたのですか?」
「そうなんです。{name2}さんと途中で会って荷物運ぶの手伝ってもらったんです。{name2}さんありがとう」
「沢山抱えて重そうだったから心配だったし気にしないで」
「梓さんも{name2}さんもお疲れさまです。ありがとうございました。{name2}さん、今飲み物用意しますから飲んでいってください」
「申し出はありがたいのですが、仕事に戻る途中だったのでお気になさらず」
「すぐに用意できますからこちらの席にどうぞ」
「{name2}さん、飲み物だけでも飲んでいてください!」
「え、っと……そういうことなら少しだけ」
 二人から説得をされ、{name2}は困惑した表情を浮かべていたが、観念したように苦笑してカウンターの端の席に座る。{name2}はキョロキョロと店内を見回していると、荷物を仕舞い終えた榎本が{name2}に近づいて話しかける。
「{name2}さんのおかげで本当に助かっちゃった。ありがとう」
「うん。お役に立てたなら何より……ポアロはハロウィンイベント中なんだね」
「そうなんですよ。今なら「トリックオアトリート」って合言葉でかぼちゃプリンをプレゼントしてます!」
「trick or treat?」
「――おや? すみません。今、かぼちゃプリン切らしてしまいました。イタズラ……お手柔らかにお願いしますね?」
 タイミングよくマグカップを持って登場した安室に、{name2}はギョッとする。彼女としてはただ単に榎本の言った言葉を復唱しただけにすぎない。かぼちゃプリンをもらう意図は特になかった。慌てて首を振る。
「あ、いいんです、いいんです。今のはなし。気にしないでください」
「そうですか。代わりと言っては何ですが、こちらをどうぞ」
「?」
 透明なカップにたっぷりと注がれたパンプキンラテ。底の方にはかぼちゃの橙色、上部にはホイップクリームがふわふわと浮かび、シナモンなどのスパイスが振り掛けられている。見た目もとても美味しそうだ。
「安室さん特製のパンプキンラテですよ、美味しいですよ」
 絶品です、と満面の笑みで両頬を押さえる榎本。彼女のお墨付きならば相当美味しいのだろう。ありがとうございます、と{name2}が受け取ると安室と{name2}の視線がパチリとかち合う。
「好きでしたよね、甘いの」
 にっこりと満面の笑みを浮かべた安室に、目を丸くする{name2}。隣に立っていた榎本は何かしら勘違いしたのか、わあっと口元を両手で押さえた。きらきらと目を輝かせて{name2}を見つめる視線を、{name2}は黙殺する。騒然とする店内さえも黙殺し、受け取ったカップを一口。腔内に広がるのはかぼちゃのホックリとした甘さとミルクのたっぷり入ったエスプレッソとスパイス。それらが絶妙に混ざり合い、ほおっと息をつく。{name2}は指先で唇を拭うと、安室へと再び視線を向けた。静かに息を呑む気配を感じてにっこりと笑い返した。
「好きですよ、甘いの」
 あなたも大概甘いもの。

 * * *

「trick or treat」
「何……だっ、て?」
 {name2}が帰宅してみれば、不意打ちも甚だしい。『人を駄目にする…… 』でお馴染みのクッションに乗っかって寛いでいる降谷零の姿を見つけ、目を丸くする。{name2}の姿を見るなり無言で両手を広げた降谷を見て、{name2}は肩を竦める。勝手に上がり込んで何をしているのやら。そのままその場立ち尽くしていると、「{name2}」と懇願するような声で呼ばれた。それでいて割れ物に触れるような優しい声に、一瞬、息が詰まったが、誤魔化すようにふうと息を吐く。鞄をテーブルの上にを置いて、近づいていく。
「おかえり」
「……ただいま」
「お勤めご苦労さま」
「うん、零君もお疲れさま」
 目の前まで近づくと腕をぐいと引っ張られて、そのまま降谷の上に雪崩込む。
「れいくん。いきなり引っ張ったら危ないよ」
「ん、ごめん」
 生返事をする降谷の様子を見て訝しんだが、プンと香った酒の匂いにハッとする。確信する。この男は{name2}が戸棚に仕舞っていたバーボンを飲んだようだ。酔っ払うと言ったことがなかったが、今日はどこかほろ酔いで機嫌が良いようだ。{name2}の髪ゴムをするりと抜き取ると、くしゃくしゃと撫で、そのままするりと頬へと手を滑らせて撫でる。
「{name2}」
 起き上がろうとする{name2}を阻止するように、彼女の背中に降谷の腕が回る。
「trick or treat」
「? 珍しいね。お菓子なら台所の棚の上の……」
「食べたよ」
「え」
「お酒の当てに食べたよ、他にある?」
「……ない」
「そう……なら」
 ――イタズラ、しようか
 降谷は{name2}の耳元で囁いた。背筋をゾクリと震わせた{name2}は思わず身を捩ったが、耳たぶをかぷりと甘噛みされる。
「ひっ!? れ、零君!?」
「ふふふ。びっくりした?」
「そりゃびっくりするよ!」
「{name2}もイタズラ、していいよ」
「? 何? いきなり」
「昼間言っただろう」
「ああ……ポアロの時」
「君になら、イタズラされてもいいよ」
「そんな事言われても……」
「{name2}は僕にどんなイタズラするのかな?」
 何言ってんだこいつ、と言った風に{name2}が視線を向ければ、降谷はふにゃりと気の抜けた炭酸のような表情を浮かべるばかりだ。頬を寄せてすりっと頬ずりして、ぎゅうと抱き込まれてしまえば、ああ、何も言えない。ただ、頬ずりした瞬間に擦れた頬にあたった髭がこそばゆい。少しヒゲが伸び始めているから暫く多忙だったのだろうか、などと思ったりする。
「……君は温かいな」
「そうかな?」
「このぐらい温かいといい」
「んー」
「一人はさむい」
 酔ったふりをしないと甘えられないこの男に憐憫を寄せるように背中を擦る。トントントン、と赤子をあやすように叩き始めれば、顔の割に武骨な身体がの身体{name2}に巻き付いて離れない。後頭部を撫でると、ひしと更に抱き締める力が強くなる。甘えてくる飼い犬をあやしているような気分になってなんだか笑えてしまう。
「零君」
「……ぬくい」
「離して。私、お腹減ったよ」
「僕はお腹いっぱい」
「狡いよ、私のお菓子とウィスキー食べて幸せ一杯お腹いっぱいだなんて」
「うーん……ごめん」
「お風呂は?」
「まだ……」
「一緒に入る?」
「入……え!?」
「嘘だよ。イタズラの仕返し」
 驚いて飛び起きた降谷のおでこをツンと小突いて{name2}は笑う。さて、残り物で夕飯でも済まそうか。{name2}は解放されて立ち上がると一瞥をする。
 呆然とした表情でぱちぱちと瞬きをしていた降谷は小突かれた額を暫く撫でいたが、はあ、と大きく溜息を吐くと、のろのろと立ち上がる。
「――ごめん、{name2}。作ってあるよ、ご飯」
「そうなの?」
「うん。準備するから着替えて待ってて」
「はぁい」
 {name2}はテーブルに置いていたカバンを回収し、寝室に入って着替えを済ませると手洗いを済ませるとリビングの食卓に座す。卓上にはご飯と味噌汁。目玉焼き付きのデミグラスハンバーグとコーンとツナのサラダ、と。
「あ、かぼちゃプリン!」
「お昼に渡せなかったからね」
 向かいの椅子に座した降谷がお茶を注ぎ、{name2}に渡し、自分の分を注ぐとクイッとコップを呷る。
「そっか、わざわざありがとう。そしたらイタズラするのはやめとくね」
「え、考えてたの?」
「ふふふ、いただきます」
「え、{name2}? 気になるんだか?」
「内緒」
 降谷のハッと息を飲む音を尻目に、{name2}はマイペースに食事を始める。彼の料理はいつも美味しいと思わず頬が綻んでしまう。

 ――あなたの苗字を貰う。
なんて、イタズラで驚かせてやろうと思ったが、やっぱりイタズラでも言えないな、なんて、思いながら。

25.09.17 初出 『秋色のひとしずく』

No.44

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短編

ポアロで七夕 / 安室透(降谷零)

 六月も下旬に差し掛かるといったところ。梅雨真っただ中の曇天の日。湿気を含んだ空気が夏の空気を帯び始め、じっとりとした熱気を肌で感じる嫌な季節。雨の降らない空梅雨が多い昨今の天候には珍しく、従順なまでに天よりはらはらと雨が降り出したかと思えば、それは次第に勢いづき豪雨へと化けた。バチバチと火花を散らすような破裂音に、その雨の激しさを物語る。一度外へ出れば一瞬で濡れ鼠、傘を差せども乱反射した雨粒が足元をずぶ濡れにするだろう。
「なかなか止まないなぁ」
 朝方から降り出したこの雨の影響で、喫茶ポアロの客足は思いの外伸び悩んでいた。否、正確に言うなれば、悩むという表現は誤りである。大して悩んではいなかった。悩むと言うよりは、――そう、暇を持て余していたと言うべきであった。開店から客足がまばらであったが、この雨が長時間に渡って降り注いでいる影響だろうか。普段は毎日のように姿を見せる常連客も今日は半分も姿を見せていない。いつも通り姿を見せた常連も食事だけを済ませてそそくさと出て行ってしまうから滞在時間は好天時より遥かに短いときた。この嵐のような天気であるから致し方ないが、普段賑わいを見せている店内が静まり返っているのをみると、どこか物足りなさを感じてしまう。特段、慌ただしい方が好きというわけでもないが、何分拍子抜けもいいところである。暇を持て余して清掃をしてみたところで、そもそも飲食を取り扱う店であるから衛生面は日ごろから徹底的に配慮しているためにこれもする事がないような状態であった。
 いよいよ暇になった彼ら――安室透と榎本梓は顔を見合わせる。外は相も変わらず雨脚が強いまま。お客の影などは一向に見られるはずもない。昼時の近いこの時間、人っ子一人いない喫茶ポアロというのは珍しい。安室が働き始めるようになってからは彼目当ての若い女性客が増えたが、この昔ながらの喫茶店の客中心層は中年や年配の人間が主である。そんな顔馴染みの客も今日は家で静かに過ごしているのだろうか。特に年配層は足元が悪い日は外出を控える傾向にある。
「梓さん、どうしましょうか?」
「うーん……早いですけれども、休憩にしましょうか? こんな様子でしたら当分お客さん来ないでしょうし」
「そうですよね……休憩にしてしまいましょうか」
 窓の外に視線を向ければ、依然としてアスファルトに叩き付けられている雨音。ガラス窓を打つ雨量も依然として衰える気配がみられない。ポアロの前の通りを歩く人の影も見当たらないぐらいであるから、皆外出を控えているのだろう。ざあざあと変わり映えのしない雨音に一つ苦笑いを浮かべ、まかないの準備に取り掛かる。
「そういえば、安室さんは今度の七夕のお願い考えました?」
「七夕?」
 まかないを作り始めた榎本がふと思い出したという風に安室に尋ねる。突然飛び出した七夕の話題に疑問を抱いたが、すぐさま季節の頃合いを鑑みて七夕の日が近いことを思い出す。
 七夕といえば短冊に願いを書いて笹竹に飾る習慣や織姫と彦星の七夕伝説が想起されるが、安室にとっては馴染みの薄い話だ。それこそ子どもの頃の町内会の催し物として短冊に願いを書いた記憶があるが、年を重ねるに連れて重要度が低くなりがちだ。
 安室にとっても例外ではなく、成長するに連れて七夕とは疎遠の生活となっていた。中々習慣がない限りは素通りしてしまう行事であると思う。仙台で開催されるあの有名な七夕祭りであればまた話は別だが、安室が幼少期を過ごした街ではそういったことはない。一般的な七夕の行事なのである。
「――懐かしいですね。七夕なんて小さい頃の話ですよ」
「?? あれ? まだ聞いていませんでしたか? 今度の七夕の日にポアロでも七夕飾りをしようってことになったんですよ?」
「え?」
 ぽかんとした榎本に、安室もきょとりとする。寝耳に水。安室にはその報せは届いていなかった。何時の間にかに決まったのだろうか。
 榎本によれば、元々は安易に提案したのがこの七夕飾りのイベントらしい。じめじめとした憂鬱な梅雨の季節を打破するために何か気分転換にできることはないかと考えていたとのことだ。どうやら安室の休暇中にその七夕飾りの件は決まったらしい。暫くの間ポアロでの仕事が入っていなかった安室が知り得なかった事であった。安室透名義の携帯電話を確認してみるが、そういった連絡メールを貰った覚えはなかった。腑に落ちないが、榎本の反応を見る限り、おそらく行き違いになったと考えるしかない。
 申し訳なさそうな表情をする榎本に軽く笑みを浮かべて気にしていないとフォローを入れつつ、続きを促せば、七夕飾りはわざわざ笹竹を持ってきて短冊を飾るらしい。七夕限定の飲食メニューを提供する案も出たらしいが、準備期間がさすがに足りないのことでそちらは見送りになったそうだ。
 短冊は常連客を筆頭に配るようだ。そこに願い事を書いてもらい、笹竹に飾るということだそうだ。先程の榎本が七夕の願いを考えたかと尋ねてきた経緯はそういう事であった。
「――なるほど。それで願い事なんですね」
「ええ! ですから、安室さんも短冊に書くこと考えてくださいね! 飾っちゃいますから!」
「え。お客さんの分だけではなく、僕のも、ですか?」
 少し引きつった安室に、榎本は気付きもせずに楽しそうに話を続けていく。
「もちろん! こういう事は皆で楽しんでやりましょうよ! 初めて来たお客さんにだって渡しましたよ!」
「いきなり書いてくれるものなんですか?」
「美味しいものが食べたいー! とか、お金持ちになりたいー! とか些細な事でもいいんですって言ったら結構その場で書いてくださりましたよ?」
「そういうものなんですかねぇ……」
「適当でいいって言わないと書いてくれないですからね」
「そうですか……」
「そこに書いてくださった方の分の短冊ありますから、参考にするといいんじゃないですか? 参考にするぐらいなら平気ですよきっと!」
「そ、それは……」
「安室さん、絶対書いてくださいね! まかないの方は私に任せてください!」
 今日の賄いはカラスミパスタですと胸を張って彼女の十八番を出されてしまえば、安室も苦笑いをしながらも折れるほかない。それだけこの七夕を盛り上げようと一生懸命なのだ。
「か、考えてみます ……で、では少し拝見」
 カウンターの隅に置かれた手作りの空き箱をそっと開ける。その中には縦十センチ横四センチほどの色画用紙が何枚か入っている。
 これが榎本が言っていた短冊だろう。少し申し訳なく思いながらも、好奇心に負けてパラパラと見てみれば何とも気の抜けるようなゆるい願い事が多い。
 たとえば、寿司をたらふく食いたいだとか、宝くじで一攫千金、意中の相手と付き合いたいだとか。中には、家出したらしい嫁の帰還を乞う切実な祈りや安室を嫁に迎えたいといった何ともいえないような願い事まである。
「(あの人が幸せになれますように……? {name2}も来てたのか。あの人って誰だ?)」
 中には文字に見覚えがあるとよくよく目を凝らしてみれば安室の本名・降谷零名義の幼馴染{name1}{name2}の短冊が混ざっていて、思わず目を瞠った。相変わらずのお人好しで自分の願いですらない。こういう時ぐらいは軽い気持ちで書いたって構いやしないのに。彼女の筆跡をなぞる。{name1}とは偶然再会したのがこのポアロであったが、音信不通となった幼馴染が名前を変えて別人のように振る舞う様を見て事情があると察したらしい。鉢合わせしないように気を利かせて訪問するタイミングを見計らって訪問するようになった。安室が働き始める前からよく来ていたため、{name1}の訪問頻度が減ったことに対して榎本は最近あんまり来ないねと寂しそうにしているのが心苦しい。今回も安室が休みの日に訪れたらしい。確かに何があるかわからない状況ではある。必要以上の接触は避けるべきだが、成り行き上ならばある程度は仕方ないことだ。その場で誤魔化せばどうにでもなる。律儀なものだ。思わずくすりと笑みを漏らしてしまう。
「安室さん、書けましたか?」
「あ、いえ……皆さんの書いてる姿が目に浮かぶようで、何だかいいな、と」
「そうですよね! 子どものお願いは微笑ましいものばかりですし、受験や資格に合格するとか、ゆめがあったりしていいですよね」
「ええ。その人の心が映し出されるようですね」
 安室は手元にある短冊に視線を落としさてどうするべきかと考え始める。箱の中に入っていた黄色い短冊をテーブルの上に乗せてボールペン手に持ってみるが、早々に書き出しをどうするべきかと筆を置いてしまう。
「(僕の……俺の願い……)」
 願いとは一体何だろう。立場上、本音では書くことはできない。当たり前だが、今の自分は“降谷零”ではなく“安室透”なのだから、“安室透”として書かなければならない。降谷零はこの小さな箱庭にはいらない。ならば安室としての願いとは何だろうか。ポアロの客がよりよく過ごせますように。探偵として眠りの小五郎のように凄腕の探偵になりたいといったところだろうか。書くとしたらその程度が無難だろうか。そんなことを書けばいいのだろうか。“降谷零”としての願いは一体どこへ行けばいいのか。
 胃の奥がもやもやと消化不良を起こしているようだ。
 「(――そういえば、ヒロと{name2}と俺で昔短冊書いたっけ)」
 {name1}の置いていった誰かの幸せを願う短冊の文字を撫でていると、ふと古い記憶がこちらを見つめてくる。
 親友の諸伏景光と幼馴染の{name1}の2人との記憶。町内会の七夕祭りで飾る短冊に願い事を書いた時の記憶だ。その日は朝から雨が降っていて、近所の商店街のアーケードの下に笹竹が飾られていた。その近くには会議室にあるような長机が数台並んでいて、机上には空き箱に入った色とりどりの短冊とマジックペンが入っていた。
 皆で短冊を書こうということになって、いざ書こうと思うと降谷は何を書くか悩んでしまった。景光は澱みなくその頃子ども達の間で流行っていた特撮のヒーローになりたいと書いていた。降谷もその正義のヒーローに憧れはしていたものの、景光と同じものを書くのは何だか気恥ずかしい。脳裏にあの先生の事を掠めたが、きっと景光にからかわれてしまうし、それを書くことも恥ずかしい。結局、ヒーローと書くのは恥ずかしくから同じく正義の使者である警察官になりたいと書いて飾ってもらった。
「なあ、{name2}は何をお願いしたの?」
 ぐしゃぐしゃ。
 そう声を掛けた途端、{name1}はハッと弾かれたように短冊を勢いよく丸めてごみ箱に捨てた。白昼夢でも見ていたといったようなその瞳の奥は開いていた。
「{name2}ちゃん? 大丈夫? 顔が真っ青だよ……?」
「……大丈夫だよ、景くん。間違えちゃった。もう一回書き直すから待ってて」
 さっと降谷と景光の方を向くと、つとめて笑み浮かべ、近くにおいてあった短冊を引ったくるように掴み、さらさらと淀みなく書き上げていく。普段大人しい彼女の異様な雰囲気に圧倒された降谷と景光は何も口を挟めず、互いに顔を見合わせたが、にこりと何事もなかったかのように微笑み続けているためそれ以上は声をかけることが出来なかった。
 新しい短冊には、

“零くんと景くんと一緒にずっと仲良く過ごせますように!”

 そう、書いてあった。
 それ以降はその日の七夕について誰も追求せずにいたためそのまま記憶の中に眠っていた。後々、彼女が棄てた短冊を景光がこっそりと拾って保管していた事が分かった。組織に潜入する前に降谷へと渡された棄てられたら願いはあの短冊に書かれた願いとは違う願いであった。
「――安室さん? まかないできましたよ? 書けました?」
「あ……」
 榎本の呼び掛けによって記憶の水底から引き戻される。
手元には安室透が書いた、“お客様がポアロで楽しく快適に過ごせますように”という短冊。
 ふと窓の外に視線を向けると、雨足は弱まりはじめていた。


 * * *


 祭の起源と言えば、豊穣への感謝や祈り、慰霊といった意味合いから端を発している。
 また「まつり」という言葉は「祀る」という言葉に因る。神様を”祀る”という意味合いからも窺い知れるように儀式的な要素を差す。
 今日の祭といえば、そういった宗教的要素から乖離しつつある。“催しもの”、“イベント”といった意味合いが強く、祈りや感謝、などといった儀式的要素形骸化され娯楽要素が加味されることに至った。

 少年――正確には、とある闇組織の取引現場を目撃した高校生探偵・工藤新一が幼児化した姿である――江戸川コナンが居候する毛利小五郎探偵事務所。の、階下。喫茶ポアロにおいても祭りの娯楽化は例外ではない。七夕飾りが盛大に飾られている。
偶然少年探偵団の待ち合わせで立ち寄ったポアロの装飾には一瞬、呆気にとられたが、そういえば江戸川もその短冊を書かされたのだったと思い出す。

 ――7月7日。突き抜けるような快晴。天候は一日中良い予報がでており、織姫と彦星も今夜は一夜限りの逢瀬を喜ぶのだろう。
 少年探偵団の面々との約束の時間まではまだ少し時間がある。折角七夕飾りも盛大に飾られていることだ。暇つぶしに眺めて時間を潰すとしよう。
短冊が一番見やすいテーブルに腰掛ける。
 いらっしゃいとにこりと笑みを浮かべている安室は普段よりもどこか上機嫌な事は気になったが、彼が黒の組織に潜入している公安警察であることが判明しているので、特に危険視することもないだろうから暫し様子見だ。
 出されたアイスコーヒーを片手に頬杖を付いて笹に飾られた色とりどりの短冊を眺めていく。
 ポアロのお客さんが楽しい一時を過ごせますようにやら、探偵団の皆と楽しく過ごしたいやら、うな重腹一杯喰いたいやら、競馬で万馬券を当てたいやら。微笑ましいものからどうしようもないような願いも書かれているが、工藤新一の幼なじみの少女の“会いたい”という一言には少しばかり感じ入ってしまう。
「――あれ?」
「どうかしたかい、コナン君?」
 一枚だけ。一枚だけ古い色画用紙。
一度ぐしゃぐしゃに丸めて引き伸ばしたのだろう短冊が一枚。笹の葉に隠れて少し見えづらい所に括ってある。まるで隠されていたようだ。その短冊に顔を近づけてみれば、滲んだサインペンの文字。薄い黄色い紙には少し書き慣れない子どもの字で書かれている。

 “れいくんのおよめさんになりたい”

 バッと江戸川が彼の方を振り向けば、目を細めて穏やかな表情を浮かべた安室の姿が目に入る。すぐに江戸川の視線に気がついた安室は唇にそっと人差し指を添えて、ぱちりとウィンクをする。
 おいおい、嘘だろう……?
 夢でも見てるのかという信じられないという気持ちで視線を向ければ、安室は手厳しいねと苦笑を浮かべている。
「安室さーん、戻りました」
 カランカランとドアベルが揺れ、榎本が買い物袋片手に上機嫌で入ってくる。その後をおずおずと入ってきた{name1}{name2}に安室は一瞬目を丸くしたが、すぐににこやかに微笑む。
「――いらっしゃい。カウンター席、ご案内しますね」
「えと……お邪魔します?」
「ふふふ、何いってるんですか。遠慮なさらずゆっくりしていってくださいね」
 江戸川はどこか上機嫌な安室を見て、今までこのポアロで関わり合いのなかった{name1}と安室の二人に接点などあっただろうかと首を捻ったが、勢いよく扉が開き少年探偵団のメンバー達が入ってきたことで、安室が偶然機嫌が良かっただけかもしれないと思い直し、彼らに声を掛けた。

 店のドアが開き空気が振動してためか、笹の葉が揺れる。振動であの古い短冊の裏に隠れていて見えなかった一枚が、姿を現す。

 ――今度こそ、君の願いを守れますように。




18.08.05 初出 『天の川に眠る初恋』
25.07.29 修正

No.43

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短編

高校生の諸伏景光と同級生女子が夏祭りに行く話

 夏というだけで心焦がれ心躍るような感覚がするのは夏という言葉が持つイメージに夢を抱くからなのだろうか。
 シャアシャアと気づけば蝉が鳴きはじめている。突き抜けるような快晴、夏空。中天に浮かぶ太陽は燦々と。止めどなく体内から噴き出る汗、茹だるような暑さには辟易するものだが、どうしても嫌いになれない。
 期末テストが終了し、再開された部活動。いよいよ夏の大会に向けて各部活は熱が帯びていく。{name2}の所属する吹奏楽部も夏のコンクールに向けて練習が過熱する。夏季休暇に入ればコンクールのまでの間はほぼ毎日のように練習だろう。好きでやっていることだからそれ自体には問題はない。ないが、折角の夏季休暇であるから部活動だけではなく後で振り返ってみて楽しかったと満足できるような事を一つぐらいは体験したい。
 そうなると思い当たるのは――
「花火大会、行きたいなぁ……」
 ピロティに掲示された花火大会のお知らせポスター。ピロティを通る度に立ち止まって、紺碧の海に鮮やかに咲き誇る火の花の写真に釘付けになってしまう。親友と毎年観に行こうと出かけていたが、今年は一緒には行けない。親友は“幼馴染の研二くん”と遂に両想いになり、二人で花火大会デートだ。親友は花火大会に行くのは{name2}との恒例行事だから{name2}の方が優先と有り難い申し出もあったが、それまで定期的に彼女の恋の悩みを聞いていた手前、遂に想いが通じ合ったという事実を前に引き下がらずには居られなかった。彼女の想いが通じ、男女交際を始めると聞かされた時は自分のことのように歓喜し泣いてしまったぐらいだ。喜んで親友を送り出した。
 確かに毎年恒例行事であったから親友と一緒に行けないのは寂しい。とは言っても一人で行くには寂しいので今年は大人しく諦めるとするか。そう考えているその時であった。
「――お疲れ、{name1}」
「ひゃあぅっ!? つめたっ!?」
 ぼんやりとポスターを眺めていれば、背後から声を掛けられて、ぴとりと首筋に何か冷たいものを押し当てられて飛び上がる。持っていたトランペットを落としそうになり、慌てて抱え込んで死守すると勢い良く振り返った。振り向けば、ペットボトルを持ったクラスメイトの降谷零と諸伏景光が立っていて、きまりが悪そうな表情で頬を掻く。
「ふ、降谷くん!」
「あ……その、ごめん。少しだけ驚かせようと思っただけなんだ」
「びっくりした! びっくりしたよ!」
「ご、ごめん……{name1}さん」
「諸伏くんも気づいた時点で止めてほしかったよ……」
「う、うん……ごめん」
「……はぁ、落とさなくて良かった」
 息を吐き出すとシュンとした降谷と諸伏を見て、やれやれと息を吐く。降谷の手中のペットボトルを手に取ると、順番に二人の頬に引っ付ける。
「ひっ! つめた!?」
「お返し。これでチャラね。びっくりはしたけど怒ってないよ」
「っめたっ! そ、そうか……よかった」
 まさか仕返しされると思わなかったのか、驚いた表情を浮かべた降谷と諸伏に、にんまりと笑う。恥ずかしそうに口元を両手で覆う諸伏と気の抜けた炭酸水のようになった降谷。何だかそれが可笑しくて
クスクスと笑うと、二人も顔を見合わせて眉尻を下げて破顔する。
「降谷くんって意外と悪戯っ子なのね」
「悪かったって……」
「ははは……{name1}さん、それ見てたけど今度の花火大会行くの?」
 諸伏に言われて再びポスターを一瞥するが、首をふるふると振る。
「今年は行く人いないしいかないかな」
「……それなら、一緒に行かない?」
 思わぬ申し出に弾かれたように諸伏を見つめれば、やや緊張した面持ちで{name2}を見ていた。ゴクリと唾を飲み込んだ諸伏の普段の穏やかな雰囲気とはまた違う様子に驚いたものの、花火大会は気になっていたので有り難い申し出だ。一人で行く気にはならなかったが、降谷と諸伏が一緒ならば楽しめそうではある。二人とはクラスメイトの間柄であるし、時折会話もする。全く話したことのない相手という訳でもないから初対面というわけでもないため気まずくもないが、親友同士で約束しているならばぽっと出の人間が割って入るのも気が引ける。
「申し出は有り難いけど……諸伏くんは降谷くんと一緒に行くのでしょ? 私が入っていったらお邪魔じゃない?」
「全然邪魔じゃないよ!」
 食って掛かるように即答した諸伏に、{name2}は驚いて目を丸めると、彼はしハッとして赤面する。その後ろで降谷は腹を抱えて笑っている。確かに勢いのある即答のは驚いたがそこまで笑わなくとも。
 そこまで笑わなくていいだろと笑われた本人も抗議するが、くふふふっと腕に口元を押さえつけて笑いを堪らえようと必死だ。
「……ふふふ。俺は、気にしない。ふふっ、はぁ……俺達浴衣着て全力で楽しみたいから{name1}も浴衣着てきてくれるか」
「え? 零、そんなこと」
「ヒロが花火大会すごく楽しみにしているんだ」
「えーっと、雰囲気大事にしたいってこと?」
「そうそれ」
「お、おい、ゼロ。そんな勝手に」
「ヒロ、浴衣好きだろ?」
「……好き、だけどさ」
 オレの気持ちを考えてよと、ぼやく諸伏を横目に
{name2}は首を傾げる。一方の降谷は上機嫌なのでこの二人は仲がいいんだか悪いんだか。外野の名前が気にしたところで無意味であるのは明白ではあるが。
「? わかったけど、私その日も部活あるから途中から合流でもいい?」
「そうなのか。吹奏楽部、大変だな」
「上手くいかないこともあるけど、好きでやってるからそこまで大変じゃないよ」
 視線を抱えていたトランペットへ向け、表面を優しく撫でる。小学生の金管楽器中心の金管クラブでトランペットに出会ってからずっトランペットを吹いてきた。中学に上がってから両親にお願いして学業と両立することを条件にこのトランペットを買ってもらって以来の相棒。ソロパートがうまくいかなくて泣いた日も、楽しく演奏して笑った日も、この相棒にはいろんな思い出が詰まっている。
「……そういうとこもいいな」
「? 諸伏くん?」
「あ、いや! {name1}さん、毎日暑いから体調には気をつけてね」
「うん。ありがとう諸伏くん」
「よかったな、ヒロ」
 降谷が諸伏の背中を叩くと、思いの外力が強かったのか諸伏は大きく咳き込んだ。ぎょっとしたのは{name2}だけでなく叩いた本人も予想外だったのか、慌てて諸伏の背中を擦っている。一頻り咳き込んで落ち着いてきた諸伏は「ゼロ……」降谷をじとりと睨む。おやァと{name2}が雲行きを怪しんでいると、
珍しく平謝りな降谷に、珍しくご立腹な諸伏。やれやれ、仕方ない。
 トランペットを構えて大きく息を吸い込めば、二人はピタリと言い争いをやめて、{name2}を見る。戦々恐々とした表情を浮かべた男子高校生を見て、{name2}は笑う。
「喧嘩はメッ、だよ」
 固まった二人を置いて、{name2}は歩き出す。そろそろ他の楽器の部員達との合奏の時間だ。夏の新たな楽しみが出来たとほくそ笑んでいれば、諸伏が声をかけてくる。
「夏祭り、楽しみにしてる!」
 振り返ってみれば、ほのかに顔を上気させた諸伏がはにかんだ。


 * * *


 花火大会に誘われてから二週間。その間に修業式を迎え、夏季休暇に突入した。各部活動の活動は活発化し、熱を帯びる。夏の大会に向けて誰も彼もが情熱を注ぎ頑張っているんだと感じると、{name2}ももうひと頑張りしようと気合が入る。毎日朝早く登校しては下校時間限界まで練習して帰るの繰り返し、束の間の休日は宿題や花火大会に行くための前準備に費やした。光陰矢の如し。諸伏との約束をした花火大会の日をいよいよ迎えた。先生達も見回りがあるからと部活は想定よりも早く切り上げられ、普段は遅くまで自主練して帰宅する{name2}も明るい内に帰宅して浴衣に着替える準備をする。風呂場で身を清め、着付けを済ませると、軽く化粧をする。普段は日焼け止めぐらいしかしないけれど、あの恐ろしく美形のクラスメイトの隣に立つのならば最低限は身綺麗にしていたい。最後にキープメイクミストをすると、今度はヘアセットだ。難しいとヘアセットはできないが、動画サイトで見かけた簡単なシニヨンヘアにする。上手い具合にまとめ上げると、温めていたヘアアイロンで毛先を少し巻いた。最終チェックで顔を左右に傾けながら、メイクやヘアスタイルを確認すると、脱衣所を出て巾着袋にスマホとお財布とハンカチ、携帯用のウェットティッシュ、交通系ICカードを入れ、戸締まりをして会場へ向かう。
 秋は夕暮れ、とはいうけれど、夏の夕暮れもあの青と黄色が混じり合うグラデーションが美しい。斜陽が水平線を煌々と燃え上がらせ、これから始まる夜を祝福するようだ。
 花火大会の会場の最寄り駅は沢山の人が集まり、既にごった返している。祭りの気配に浮き足立った人々の心を映す鏡のように賑わいを見せている。この中から諸伏と降谷の二人と合流できるのだろうかと不安になるが、そういえば部活が早く切り上げになったことを連絡していなかった。慌ててスマホを取り出して先日教えてもらった諸伏のメッセージアプリのページを開く。
「――{name1}、さん?」
「――あ、うん。諸伏くんこんばんは。今日は早く終わったの」
 振り返れば、驚いた表情を浮かべた諸伏が立っていた。緑青の浴衣を着ていて、普段とはまた違う雰囲気。落ち着いた風合いの浴衣が良く似合っている。かっこいいなァ。
「かわいい」
「ありがとう、この浴衣一目惚れだったの」
 白地に紫、紫に近しい青の花が散りばめられたら浴衣。紺の帯。事前に見立ててくれた親友は大人しすぎないかと小首を傾げていたが、寧ろ大人っぽい雰囲気が気に入った。諸伏のにもお墨付きをいただきたいので褒められて悪い気などしない。
「{name1}さん。すごく、かわいいよ」
 諸伏はふわりと花笑みを浮かべる。あまりにもきれいに笑うものだから、{name2}は息を呑んでしまう。眉目秀麗とはこのことか。そわそわと浮ついた心を鎮めるために別の話をする。
「そういえば、降谷くんとは一緒に来なかったの?」
 ぱっと華やかな笑みを浮かべていたかと思えば、すっと波のように引いていき、眉尻を下げた表情が浮かぶ。
「――零は他のやつと行くことになって、俺と{name1}さんの二人だけ」
「そうなんだ」
「……零と一緒がよかった?」
「三人で楽しめたらと思ったけど、人それぞれだからね。諸伏くんこそ、降谷くんとニコイチみたいな感じだったから私と二人で良かったの?」
「……なるほど。君はそういう考えか」
 ふむ、と顎に手を当てて思案するような素振りを見せた諸伏。先ほどとは打って変わって口元を綻ばせている。
「諸伏くん?」
「今日は{name1}さんと一緒がいい」
「う、うん。ありがと」
 何だか胸の奥がキュウする。もしや、と脳裏を過るがすぐのその思考は打ち消した。諸伏は穏やかで誰にでも優しいから、隣の席になって少し会話するような間柄の{name2}にも優しくしてくれるだけだ。ただの厚意に好意を向けるのは自惚れだ。勘違いしてはいけない。
「諸伏くん、折角だから露店見て回ってみない?」
「うん、そうしようか」
 ゆっくりと並んで歩き始める。花火大会と言えばメインは当然花火であるが、露店も楽しみの一つである。ずらりと並ぶ露店には食品を取り扱った店が多い。たこ焼きややきそば、フルーツ飴、ベビーカステラ、牛串、かき氷。どれも美味しそうに見える。芳ばしい匂いが辺りの一面に漂ってきていて食欲を唆る。食品以外では定番のお面屋や金魚すくい、ヨーヨー釣り、射的などが楽しめるようだ。
「ちょっとそこのお兄さん。射的やってみない?」
「オレ?」
 射的屋の親父が諸伏に声を掛け、立ち止まる。パイプ椅子に座ってすっかり寛いでいた親父がちょいちょいと手招きするのを見て互いに顔を見合わせえう。
「彼女に射撃でかっこいいとこ見せちゃおうよ」
「やります」
「諸伏くん?! いえ、あの、私、彼女じゃ……」
「そうこなくちゃ!」
 {name2}を蚊帳の外にしてトントン拍子に話が進められていく。諸伏は店主の親父から射的用の銃を受け取り何やらヒソヒソと話している。時折{name2}の方を一瞥して頷いている様子を見て、居心地の悪さを感じるが、話し終えた諸伏は「頑張れよ」と親父に背中をパンと叩かれている。デジャヴだ。
「{name1}さん、どれが欲しい?」
「え、諸伏くんの欲しいもの優先しなよ」
「オレは射的やりたいだけだから」
「そうなの?」
「うん。だから好きなの選んで」
「兄ちゃん気張れよー、ここが男の見せ所だぜ」
「うん、おじさんありがとう」
 Tシャツの袖を捲って力瘤を見せ、そこをパンと叩く親父。それに呼応して諸伏も浴衣の袖を捲り、意外とガッチリとした腕をパンと叩いて笑い合っている。夏の夜の奇妙な友情。{name2}は楽しそうでいいなと眺めていると振り返った諸伏とバチリと視線が絡み合い、彼はクシャリと無邪気に笑う。トクン、と揺れる心臓を誤魔化すように胸元を両手を添える。
「{name1}さん、何がいいか決まった?」
「えっと……それじゃあ、あの子がいい」
「へぇ、ぷりんくん好きなの?」
「うん、かわいくて癒されるから好き」
 犬のキャラクターの名前が書いてある的を見て、諸伏が銃を構える。銃を構えるその姿に、思わずスマホを取り出して写真を撮ると、撮られたことに気づいて少しはにかんだ。
「どうしたのいきなり?」
「今日の記念に。後で送るね」
「ええ? 自分のカッコつけてる写真は恥ずかしいな」
「いいじゃん。構えた姿がスナイパーみたいでかっこいいよ」
「え……ほんと? 絶対にぷりんちゃん取るね」
「おーい、仲良しなのは微笑ましいけどおじさんを忘れないで」
「おじさんも諸伏くんと一緒に写真どうですか?」
「え? いいの?」
 くすりと笑ってカメラを構えると店の親父と一緒にピースサインを取る諸伏。写真を撮って見せると、二人は嬉しそうによく撮れてるという。
「絶対に取らないとね」
 再び銃を構え直した諸伏の横顔は真剣そのもの。先程までの穏やかな雰囲気とは打って変わって声を掛けられずに{name2}はそのまま押し黙る。店の親父も固唾を呑んで見守る。決着は一瞬だ。諸伏が引き金を引いた瞬間、弾はきれいに的に当たり、地面に落ちる。一発だ。凄腕のスナイパーのように見事の命中させた。
「す、すごい! 一発で当たった!?」
「やるじゃねぇか! 兄ちゃん!」
「ふふふ。オレ、射的結構得意なんだよね」
 得意げな表情で店の親父から景品のキャラクターのぬいぐるみを受け取る諸伏に{name2}はいたく感心し、尊敬の念を持って目を輝かせる。諸伏が差し出してきたぬいぐるみを見て、ハッとしてスマホを取り出すとすぐに写真を撮った。うん、かわいい。
「{name1}さん、写真じゃなくて受け取ってよ」
「ごめんね。つい撮らなきゃと思ったら……本当にいいの?」
「{name1}さんのために取ったんだからもらってくれたほうが嬉しい」
「ありがとう。大切にするね」
 諸伏からぬいぐるみを受け取り、ぎゅうと抱え込む。自分のために頑張って取ってくれたのかと思うとつい口元が綻んでしまう。肌触りの良いぬいぐるみのお腹を撫でているとパシャリと機械の音。ちらりと音のした方を見れば、もう一度シャッター音が下ろされる。今度は諸伏が{name2}の写真を撮ったようだ。
「? 私の写真撮ってもなんも面白味もないよ?」
「オレも今日の記念に撮りたいなと思って、ダメだった?」
「別にいいけど……」
「よかった。……おじさん、ありがとね」
「おう、楽しんでな!」
「行こう、{name1}さん。お腹減っちゃった」
 射的屋の親父に別れを告げ、{name2}と諸伏は再び露店巡りを再開する。日が暮れていくにつれて会場付近には沢山の人達が集まっているのか、歩くのもやっとである。押し合いへし合いの様相を呈した状況に、{name2}は一生懸命逸れないように諸伏の浴衣の袖を控え目に掴めば、ぱっと諸伏が{name2}の方を見た。
「も、諸伏くん……」
「{name1}さん、触れていい?」
「え?」
「手、触れていいですか?」
「う、うん」
「ごめんね、失礼します」
 まるで壊れ物にでも触れるかのように、手を優しく掴まれて、そっと引き寄せられる。男の子と手を繋ぐのは初めてだ。小さい頃に遠足で同じ班の子と手を繋いだとかそういう類いはまた別だ。自分よりも大きくてゴツゴツと骨張った、男の人の手。指先が触れ合って熱い。離れないようにと絡まる大きな手にどきりとして心臓が忙しない。この手を放したくないと握り返すとピクリと揺れが伝わってきた。
 途中の屋台でたこ焼きや焼きそば、かき氷を買って高台の公園に足を運ぶ。日もとっぷりと暮れ、公園は静寂に包まれている。人がぽつりぽつりといるが、閑静な住宅街を抜けた先にある高台であるからか、意外にもその存在は認知されていないらしい。東屋のベンチに腰を下ろせば、タイミングよく花火が夜空に長い尾を引いて昇っていく。パアンと花が開く。華やかに煌めいてパラパラと散っていく。間髪入れずに次弾が打ち上げられ、次々と夜空に花開いていく。喧騒は遠く、花火も少し遠いが濃紺の夜空によく木霊するため、その余韻がどこか心地良い。暫く二人は無言のまま眺めていたが、かき氷が溶け始めているのに気付き、慌てて食べ始めるとキーンとして二人してこめかみを抑えた。あまりにもシンクロした一連の流れに互いに顔を見合わせて破顔一笑した。
「――きれいだ」
「本当にきれいだね」
「今日の{name1}さんも」
「っ……」
「ほんとはね、零も一緒に来るはずだったんだけど、二人きりで行ってこいって気を遣わせちゃったんだ」
「そう、なんだ……」
 動揺が隠せずに視線を膝の上に落とせば、「触れるね」と両手を包むように握られ、視線が再び諸伏の方へと向かされる。射抜かれるような視線に目を逸らすことができない。ああ、焦がされていく。
「――ねえ。オレ、{name1}さんのこと、好きだよ」
 全身の細胞が震え上がり、熱を帯びていく。
「オレの、側にいて下さい」
 花火が次々と咲いて眩しい筈なのに、目の前の男の人が一番輝いて見える。
 ――私の、好きな人
 目の奥に灯る恋慕に気がつけば、内に秘めていた熱情は暴かれていく。彼の手から指先から彼の熱が伝わって、{name2}の内側から焦がしていくようだった。
 この人の厚意を好意と混同させて困らせてはいけないと思っていた。席が近くなり話すようになり、近しい間柄になった頃、この感情を自覚する前に牽制され、釘を差されてきた。彼を慕う彼女たちの希う気持ちは今となっては身に沁みる。立場が違えば自分がそうだったかもしれない。それでも、望まれるならば、目の前のこの人を幸せにしたいと思うのだ。
 するりと手を振り解き、今度は{name2}が諸伏の両手を包み込むようにして握る。
「私でいいのかな?」
「{name1}さんがいい」
「私、部活で手一杯になるかもしれないけど?」
「大丈夫。オレ、{name1}さんが自主練してるの聴くの好きだったから!」
「え、聴いてたの? 知らなかった」
「あ」
 しまったと咄嗟に口元を押さえた諸伏を見て、{name2}は呆気に取られたがクスクスと笑う。優しく詰問すれば、恥ずかしそうに顔を両手で覆う。{name2}の練習の邪魔になると嫌だったから知られたくなかったらしい。情感豊かに歌う{name2}のトランペットの音色に心打たれてからひっそりと耳を傾けていたと白状した。{name2}は諸伏のこういった思いやりを好ましく思っていて、彼の美徳であると思う。{name2}の好きになった男の良いところだ。
 {name2}は諸伏の両手を取って目を覗き込むと、優しく語りかける。
 愛を、歌うように。
「諸伏くん」
「なあに?」
「私も諸伏くんのこと好きだよ」

 色とりどりの花火が夜空に花開く。
 まるで二人の愛を祝福するように。

25.07.22 初出 『きみの名を、灯すように』

No.42

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短編

喫煙者の同期の女と松田陣平

「よォ、元気か」
「やあ松田くん。今日も元気にニコチン摂取しておるよ」
「俺が言うのも何だけどよ、ニコチンは元気に摂取するもんじゃねぇと思う」
 一仕事終えた松田陣平は気分転換も兼ねて庁内の喫煙所に足を運んだ。見慣れてしまった喫煙所の薄暗さや古びた長椅子、申し訳程度に置かれた部屋の隅の萎びた観葉植物。その喫煙所に身を潜ませるように座っていた先客を見つけ声を掛ける。同期の女だ。交通課所属する彼女は同じ警察学校での顔見知り程度ですれ違えば声を掛ける程度の仲ではあったが、この喫煙所で鉢合わせるようになってからは時折こうして世間話をしたり、食事に出かけたりしている。真面目で堅物なタイプかとも思えばおおらか。飄々としたタイプであったが、同期に休憩が長いと怒られながら引きづられていくダメなところもあるが、それは休憩中だけの話であって、仕事はさすがにきっちりとこなしているらしい。無色透明のような女であるが、付かず離れずと適度な距離感を保つので気の置けない女友達と言ったところ、であろうか。
 地べたに座ってぼんやりしていた同期の女は、恐らくここで眠っていたのだろう。まだ寝惚けた顔をしている。警察官という職業柄、男性警察官の方が多数派だ。女性警察官も増えつつあるが、就業比率としてもまだまだ男性が多い。男社会の風潮がまだ尾を引くこともあるため、誰でも出入り可能な空間で無防備に寝入る姿を晒すなど危機感がない。
「お前、俺が来るまで寝てただろ」
「ん……少し立て込んでてね。うっかり、うっかり」
「気をつけろよ。誰もが優しい訳じゃねぇぞ」
「ん」
 じとりと睨めつけるがまだぼんやりしているこの女には暖簾に腕押しだ。やれやれ、これでは先が思いやられる。松田が大きな溜息をつきながらぐしゃぐしゃと髪を搔いているのを尻目に、女はシガレットケースから一本煙草を取り出すと、口に咥えた。今度はマッチケースからマッチを一本取り出し、手慣れた手つきで火を灯すと、火種を手で囲うようにして咥えた煙草の先に火を灯す。マッチの炎を振って消すと、ふうと煙を吐いた。
 その流れるような一連の動作を見て、そういえば自分も喫煙しに来たのだったと松田は思い出す。胸ポケットからシガレットケースを取り出して更にそこから煙草を一本。口に咥えると、手持ちのライターで着火を試みる。ライターの着火ボタンを押すが、ぼっと一瞬音が鳴るだけで火がつかない。もう一度試してみるが、どうも火がつかない。オイル切れか。ついていない。予備などは生憎持っていない。松田は仕方なく女に手を差し出してマッチを乞う。
「なぁ、マッチくれ」
「んー、マッチ? ……ごめん、マッチはさっきので品切れだ」
「あ? まじかよ。……お前、ライターなんっつーもんは」
「無いね」
「ついてねぇ……」
 ぐしぐしと苛立ちで再び髪をかき混ぜていると、ふうと息を吐いた女は、気怠げにゆらりと立ち上がる。松田の腕を掴むとくいくいと袖を引っ張った。何だなんだ。松田は怪訝に思いながら視線を女に向けた。松田を見上げるように立った女の目の下には血色の悪いクマが浮かんでいる。立て込んでいると言っていたのを思い出し、思わず憐憫を寄せる。
「松田くん」
「あ?」
「少し屈んでくれる?」
「? なんだ、よ……!?」
 思わず煙草を落としそうになるのを慌てて咥え直す。女は、己の身長に合わせて屈んだ松田の煙草の先端に自分の煙草の先端を押し当てた。
 ――シガーキスだ。
 これには松田も瞠目する。一層近づいた女の息遣いがやけに生々しく感ぜられて、凝視した。伏し目がちの瞼を彩るまつげ、煙草を咥えたルージュの赤。じりじりと焦がされているのは煙草だけではない。互いに接した部分が熱で焦がされていき、やがて細い煙が立ち始める。徐々に熱を帯び、火種は火が燃え移る。
 伏せられた瞳が、松田を映し、視線が絡み合う。その瞳の灯火に触れたい。ふうと吐いた息が、松田に降りかかる。
「――火着いたね」
「……サンキュ」
「一回やってみたかったんだよね、これ」
 悪戯っ子のようにうししっと歯を見せて笑う女。思わず息を呑み込んでその顔を凝視してしまったが、この女のペースだ。振り回されていると気づくと徐々に腹立たしさが湧いてくる。人の気も知らないでよくもまあ。己が咥えていた煙草を口から放した。女の煙草を引ったくるとそれを灰皿に押し付けた。あ、と女が非難の声を上げるのを無視して、煙を彼女の顔へとけしかける。
「げほっごほっ! ま、松田、くん!? 何!?」
「煙草じゃなくて本当はこっちがお望みなんだろう?」
「!?」
 自分の煙草を灰皿に置いて、女の頬を掴む。親指の腹で柔らかい唇をつつけば、目を見開いて後退りしようとするので、にやりと笑う。
「煙草を相手に意図して吹きかける意味、それぐらいわかるだろう?」
「っ……」
 頬を赤らめて狼狽える女の姿を見て、背筋がゾクリとする。随分と可愛い反応をするものだ。自分から線引きをしていたというのに。
「なぁ、逃げるなら今の内だぜ?」
 ――逃がしやしないけれど。
 その言葉は心音で秘めて、唇をやわやわと指先で弄べば、女の瞳の奥が揺らめいた。
「……うそつき。逃がしちゃくれないくせに」
「待ってやってんだから俺にしては優しい方だぜ?」
「逃してはくれないのね」
「捕まえて欲しいくせに」
 互いにじっと見つめ合い、破顔する。女は松田に抱き着き、松田もその背中に腕を回す。すっぽりと腕の中に収まった女の身体は熱を帯びて温かい。コツンと松田の胸に、女の頭が預けられる。その背中を撫でれば、ぐりぐりと頭を押し付けてくる。甘えられていると思うと、可愛げがあるものだ。
「あーあ。捕まっちゃったなあ」
「おー。観念しろ、不良刑事」
「松田くん、萩原くんに一途だから諦めようと思ったのにな」
「あ? 萩とそんなんじゃねぇよ!」
「知ってるよ。君が親友の事で一生懸命なの。……だから私の気持ち、邪魔になるんじゃないかって思ってたの」
「……馬鹿野郎」
「たまに構ってくれればいいよ」
「だから馬鹿だって言ってんだよ」
「さすがにバカバカ言い過ぎ!」
 ぐわっと顔を上げた女の両頬をぐいっと掴む。そのまま黙らせるように唇に噛み付いた。驚いた女はビクリと体を揺らしたが、そのまま目を瞑り、松田からの口付けを享受していた。ちゅとわざとらしく音を立てて離れると、女は照れくさそうに視線が外していく。灰皿に手を伸ばして、松田が吸っていた煙草を咥えると煙を吸い込んで、松田に吹きかけた。
「――さすがにもう行かないと」
「今夜は帰って来れるのか?」
「誘ったんだから帰るよ、また連絡する」
 女はにっと笑って、咥えていた煙草を松田の口に咥えさせると、そのまま喫煙室を出ていった。
 短くなってきた煙草を一吸いし、ふうと紫煙を燻らせる。メール画面を開き、宛名のない手紙へ女の事を書き連ねると、さてもう一仕事するかと灰皿に煙草を押し付ける。
 喫煙所を出た瞬間に、女から来たメッセージに「降谷に怒られた」と想像に難くないメッセージが飛んで来てにやりと笑ったが、松田どこだと自分を呼ぶ怒号が聞こえてきて、慌てて走り出した。
 

25.06.22 初出 『キックバック』

No.41

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短編

大学3,4年ぐらいの萩原研二とバイクタンデム

 好きなアーティストが歌う自転車の歌に憧れていた。自転車の荷台に乗って、二人で楽しく背中越しに話をしたり、時にはご機嫌に鼻歌を歌ったり、時にはペダルを漕ぐ背中を応援したり、そんなレモンソーダみたいな青春に憧れていた。二人乗りするような気の置けない相手とならばどこまでも行けそうな気がして、いつか誰かとそういう間柄になれればよいと思った。
 ジメジメとした梅雨空に、珍しく光が差し込んだ昼下がり。うっすらと汗ばむ陽気に暑さ慣れしていない身体はへこたれて、コンビニでチューブ型のアイスを買い、半分こした。コンビニ前で凍った容器を揉み込んで中身を解していると、向かいの道路を二人乗りして楽しそうに笑い合う男子高校生と女子高校生目の前を通り過ぎていった。その背中に萩原は大声で呼び掛ける。
「おーい、自転車の二人乗りは危ないぞ!」
「大丈夫でーす! 安全運転しまーす!」
「そういう問題じゃ! おい! おーい! ……ああ、行っちまった」
 「確かに危ないけど私は自転車の二人乗りって、青春の縮図みたいで少し憧れる」
 そう呟いて近づけば、萩原は意外だと思ったらしく、私の方を向いてパチパチと瞬きをした。
「{name1}ちゃんって、意外とそういう乙女なところあるんだね」
「は? 萩原くん、私のことなんだと思っているの?」
「いや、馬鹿にしてるんじゃないよ。いつものクールな{name1}ちゃんもいいけど、かわいい{name1}ちゃんもいいなァ、って思ったんだ」
「どうせ可愛げのない女だよ」
 フンと自嘲するが、萩原に至っては神妙な顔つきで答える。
「{name1}ちゃんはかわいいよ。普段の{name1}ちゃんの気の置けない感じも気に入ってるんだけど、新しい一面見れて嬉しい」
「……そうかい、ありがとう」
 屈託のない笑みを浮かべる萩原に、視線を逸らす。よくもまあ恥ずかしげもなく口の回ることだと。それでも、こうして恥ずかしげもなく素直に言葉を告げるからこそ、沢山の人間から好意を寄せられるのだろう。真摯な言葉は心に響く。聞いているこちらはこそばゆくなるものだが、この男はさらりと言ってのける。それはこの男の美徳だ。松田には爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいだ。
「気持ちはわかったけど、さっきの自転車で二人乗りは危ないからだめだよ、{name1}ちゃん」
「それはわかるんだけど、憧れはあってもいいでしょう」
「うーん、わかるけどさぁ……あ、それじゃあタンデム自転車は?」
「タンデムはまた別でしょ」
「あは、やっぱり?」
 柔らかくなったチューブ型アイスの封を切り、齧りつく。体温で柔らかくなったアイスはシャーベット状になって、ちゅるりと出てくる。甘みのあるコーヒー味と程よいシャーベットの食感がひんやりと喉を潤して、心地よい。
 先程の二人乗りの高校生の走っていった方を見れば、遠くの方でねずみ取りのパトカーに捕まっている。ご愁傷様。
「……まあ、憧れるけれどもやっぱり危ないものね」
「……」
「萩原?」
 高校生達が走っていった方を暫く見ていた萩原は閃いたという顔をして、私の方を向いた。名案だというように顔を輝かせている。
「{name1}ちゃん! 今度の休みの日いつ?」
「え?」
「俺と青春しに行こ!」
「は?」
 訝る私を尻目に、萩原は上機嫌でチューブ型アイスを食べ切るとゴミ箱に捨てた。

* * *

 
「おはよう、{name1}ちゃん! 出かけよう!」
「…………まだ夜明け前だよ、萩原」
 ピンポンとアパートのチャイムが鳴り、恐る恐るドアスコープを覗いてみれば、萩原が満面の笑みで立っていた。廊下の蛍光灯が静かに光っている。遠くで新聞配達のバイクの音が聞こえる程度の静寂に包まれており、外はまだとっぷりと暗闇に支配されている。太陽が日の出の時間を間違えたようなものかとのろのろと玄関の施錠を開けて室内に招き入れれば、満面の笑みを浮かべていた萩原は私を見るなり目を見開いて、宙に視線を彷徨わせた。寝起きで顔が浮腫んでそうだから見苦しかったのならば不可抗力であるから勘弁して欲しい。
「あー……あまり薄着で寝たら風邪をひくよ、{name1}ちゃん」
「ん……そうは言ってももう夏だし暑いよ……萩原の格好も暑そう」
「ああ、バイク乗ってきたからさ。ライダースーツ着てきたんだ。それより、出かける準備しようぜ」
「こんな早くからどこ行くの?」
「んー、どこがいい?」
「ええ? 決めてないの? 決めてるのかと思ったよ?」
 リビングへと案内しようと促すと、萩原は首を振って玄関で待ってると言って、上り框に座り込む。こうなれば玄関で待つつもりなのだろう。わざわざ迎えに来てくれたからのだから支度ができるまではゆっくり寛いでほしいのだが、きっと首を縦には振らないだろう。
「わかった。支度急ぐね」
「いいよ。{name1}ちゃんのこと待ってるの好きだから」
「…………すぐ準備する。待ってて」
「ん」
 冷蔵庫に入っていたお茶をグラスに注いで手渡すと、急いで支度を始める。
「あ」
「? どうかした?」
「ううん。なんでもない」
 ドアを開いた瞬間に萩原が目を逸らす訳だ。キャミソールと三分丈程のルームウェア用の短パン姿で来客対応するなんて慎みがないと思ったのだろう。やんわりと注意してくれていたのだと今更気づく。ちらりと玄関の萩原を見れば、こちらに背を向けて麦茶を飲んでいるようだった。洗顔から化粧、ヘアメイクを時短で済ませ、風通しの良い白の綿ブラウスに、動きやすいレギンスパンツ、軽く羽織るUVカットのパーカーを羽織る。リュックにハンカチとちり紙、化粧ポーチ、スマホ、モバイルバッテリー、二人分のペットボトルのお茶を適当に詰めると萩原と一緒に部屋を出た。
 相も変わらず夜の空気が充満している。放射冷却で昨日の日中よりもひんやりとした空気を纏った夜は心地良い。施錠をして、階下へと降りれば先に降りていた萩原は自分のバイクに跨って待っていた。街頭に照らされた萩原。
 ――ライダースーツ姿の萩原かっこいいな。
 すらりとした萩原によく似合う。まじまじと眺めていれば、早くおいでと手招きするので促されるままに萩原に近づいていった。
「お待たせ」
「ううん。{name1}ちゃんとツーリング楽しみにしてたから待つ時間も楽しいよ」
「そ、う……」
 ――萩原研二、本当によくできた男である。
「安全運転最優先で行くから安心してな」
「萩原のこと信頼してるからそこは気にしてないけど」
「ほんと? 嬉しいこと言ってくれるねぇ」
 萩原はにかりと笑って、私の髪をグシャグシャに撫でつける。わっと軽い悲鳴を上げた私を無視して一頻り撫でると、ヘルメットを付けられる。キツくないと確認されて首肯すると、よしと満足そうな表情を浮かべ、萩原も自身のヘルメットを被った。後ろ手にタンデムシートをポンポンと叩いた。恐る恐る萩原に跨ると彼は楽しそうに言う。
「あはは! {name1}ちゃん、緊張しすぎだよ」
「だってバイク乗ったことないし、ドキドキするよ」
「二人乗り夢だったんだから今日は思いっきり青春しようよ!」
「あ、覚えてたんだ」
「忘れるわけないよ、気になる子の事だもん」
「安全の為に俺の腰に掴まってね」
「う、うん」
 ドギマギしながら萩原の腰に腕を回すと、ピクリと萩原の体が揺れる。腕の力加減が強すぎたかと少し緩めようとすれば、萩原の手の大きな手が私の手に添えられる。すりすりと撫でられる。そっと抱き着く力を込め直せば、バイクが嘶いた。ゆっくりと走り出したバイクが徐々に速度を上げてあっという間に市街地を抜けていく。景色は吹き飛んでいき、風を切って駆けていく様はすいすいと水中を泳ぐペンギンのように早く、心も疾走していく。バイクが風切る音とエンジンの音で他は何も聞こえない。空に薄っすらと灯りが垂れ込め始める。
 ――ああ、夜が明けて朝が来る。
 富士山が見え始め、稜線がキラキラと白み始め、光が満ち始めてくる。その眩さは新しい朝を祝福するようで美しい。息を呑み、感嘆が漏れる。これも萩原が私の憧れを叶えてくれたから見られた景色だ。萩原が私に光りをくれる。
 私は、萩原の何を与えられるのだろうか。
「――好きだ、萩原」
 背中にそっと頭をくっつけて、しっかりと抱き締める。背中を通して心臓の音が伝わってしまっているかもしれないことが少しだけ怖いけれど、伝わっているといい。萩原が向けてくれている好意に期待してもいいだろうか。
「{name1}ちゃん、どう? 青春できてる?」
 赤信号で止まると、萩原はちらりと私の方を向く。ふにゃりとだらしない、幸せそうな顔をしている萩原を見て、私までふにゃりとだらしない顔をして笑ってしまう。
「うん、キラキラしてる」
 信号が青になり、再び走り出す。どこまでもどこまでも。愛おしい、という感情が風に乗って駆け抜けていく。

25.06.15 初出 『夜明けのアクセル』

No.40

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短編

大学3,4年萩原研二とバイクタンデム

 好きなアーティストが歌う自転車の歌に憧れていた。自転車の荷台に乗って、二人で楽しく背中越しに話をしたり、時にはご機嫌に鼻歌を歌ったり、時にはペダルを漕ぐ背中を応援したり、そんなレモンソーダみたいな青春に憧れていた。二人乗りするような気の置けない相手とならばどこまでも行けそうな気がして、いつか誰かとそういう間柄になれればよいと思った。
 ジメジメとした梅雨空に、珍しく光が差し込んだ昼下がり。うっすらと汗ばむ陽気に暑さ慣れしていない身体はへこたれて、コンビニでチューブ型のアイスを買い、半分こした。コンビニ前で凍った容器を揉み込んで中身を解していると、向かいの道路を二人乗りして楽しそうに笑い合う男子高校生と女子高校生目の前を通り過ぎていった。その背中に萩原は大声で呼び掛ける。
「おーい、自転車の二人乗りは危ないぞ!」
「大丈夫でーす! 安全運転しまーす!」
「そういう問題じゃ! おい! おーい! ……ああ、行っちまった」
 「確かに危ないけど私は自転車の二人乗りって、青春の縮図みたいで少し憧れる」
 そう呟いて近づけば、萩原は意外だと思ったらしく、私の方を向いてパチパチと瞬きをした。
「{name1}ちゃんって、意外とそういう乙女なところあるんだね」
「は? 萩原くん、私のことなんだと思っているの?」
「いや、馬鹿にしてるんじゃないよ。いつものクールな{name1}ちゃんもいいけど、かわいい{name1}ちゃんもいいなァ、って思ったんだ」
「どうせ可愛げのない女だよ」
 フンと自嘲するが、萩原に至っては神妙な顔つきで答える。
「{name1}ちゃんはかわいいよ。普段の{name1}ちゃんの気の置けない感じも気に入ってるんだけど、新しい一面見れて嬉しい」
「……そうかい、ありがとう」
 屈託のない笑みを浮かべる萩原に、視線を逸らす。よくもまあ恥ずかしげもなく口の回ることだと。それでも、こうして恥ずかしげもなく素直に言葉を告げるからこそ、沢山の人間から好意を寄せられるのだろう。真摯な言葉は心に響く。聞いているこちらはこそばゆくなるものだが、この男はさらりと言ってのける。それはこの男の美徳だ。松田には爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいだ。
「気持ちはわかったけど、さっきの自転車で二人乗りは危ないからだめだよ、{name1}ちゃん」
「それはわかるんだけど、憧れはあってもいいでしょう」
「うーん、わかるけどさぁ……あ、それじゃあタンデム自転車は?」
「タンデムはまた別でしょ」
「あは、やっぱり?」
 柔らかくなったチューブ型アイスの封を切り、齧りつく。体温で柔らかくなったアイスはシャーベット状になって、ちゅるりと出てくる。甘みのあるコーヒー味と程よいシャーベットの食感がひんやりと喉を潤して、心地よい。
 先程の二人乗りの高校生の走っていった方を見れば、遠くの方でねずみ取りのパトカーに捕まっている。ご愁傷様。
「……まあ、憧れるけれどもやっぱり危ないものね」
「……」
「萩原?」
 高校生達が走っていった方を暫く見ていた萩原は閃いたという顔をして、私の方を向いた。名案だというように顔を輝かせている。
「{name1}ちゃん! 今度の休みの日いつ?」
「え?」
「俺と青春しに行こ!」
「は?」
 訝る私を尻目に、萩原は上機嫌でチューブ型アイスを食べ切るとゴミ箱に捨てた。

* * *

 
「おはよう、{name1}ちゃん! 出かけよう!」
「…………まだ夜明け前だよ、萩原」
 ピンポンとアパートのチャイムが鳴り、恐る恐るドアスコープを覗いてみれば、萩原が満面の笑みで立っていた。廊下の蛍光灯が静かに光っている。遠くで新聞配達のバイクの音が聞こえる程度の静寂に包まれており、外はまだとっぷりと暗闇に支配されている。太陽が日の出の時間を間違えたようなものかとのろのろと玄関の施錠を開けて室内に招き入れれば、満面の笑みを浮かべていた萩原は私を見るなり目を見開いて、宙に視線を彷徨わせた。寝起きで顔が浮腫んでそうだから見苦しかったのならば不可抗力であるから勘弁して欲しい。
「あー……あまり薄着で寝たら風邪をひくよ、{name1}ちゃん」
「ん……そうは言ってももう夏だし暑いよ……萩原の格好も暑そう」
「ああ、バイク乗ってきたからさ。ライダースーツ着てきたんだ。それより、出かける準備しようぜ」
「こんな早くからどこ行くの?」
「んー、どこがいい?」
「ええ? 決めてないの? 決めてるのかと思ったよ?」
 リビングへと案内しようと促すと、萩原は首を振って玄関で待ってると言って、上り框に座り込む。こうなれば玄関で待つつもりなのだろう。わざわざ迎えに来てくれたからのだから支度ができるまではゆっくり寛いでほしいのだが、きっと首を縦には振らないだろう。
「わかった。支度急ぐね」
「いいよ。{name1}ちゃんのこと待ってるの好きだから」
「…………すぐ準備する。待ってて」
「ん」
 冷蔵庫に入っていたお茶をグラスに注いで手渡すと、急いで支度を始める。
「あ」
「? どうかした?」
「ううん。なんでもない」
 ドアを開いた瞬間に萩原が目を逸らす訳だ。キャミソールと三分丈程のルームウェア用の短パン姿で来客対応するなんて慎みがないと思ったのだろう。やんわりと注意してくれていたのだと今更気づく。ちらりと玄関の萩原を見れば、こちらに背を向けて麦茶を飲んでいるようだった。洗顔から化粧、ヘアメイクを時短で済ませ、風通しの良い白の綿ブラウスに、動きやすいレギンスパンツ、軽く羽織るUVカットのパーカーを羽織る。リュックにハンカチとちり紙、化粧ポーチ、スマホ、モバイルバッテリー、二人分のペットボトルのお茶を適当に詰めると萩原と一緒に部屋を出た。
 相も変わらず夜の空気が充満している。放射冷却で昨日の日中よりもひんやりとした空気を纏った夜は心地良い。施錠をして、階下へと降りれば先に降りていた萩原は自分のバイクに跨って待っていた。街頭に照らされた萩原。
 ――ライダースーツ姿の萩原かっこいいな。
 すらりとした萩原によく似合う。まじまじと眺めていれば、早くおいでと手招きするので促されるままに萩原に近づいていった。
「お待たせ」
「ううん。{name1}ちゃんとツーリング楽しみにしてたから待つ時間も楽しいよ」
「そ、う……」
 ――萩原研二、本当によくできた男である。
「安全運転最優先で行くから安心してな」
「萩原のこと信頼してるからそこは気にしてないけど」
「ほんと? 嬉しいこと言ってくれるねぇ」
 萩原はにかりと笑って、私の髪をグシャグシャに撫でつける。わっと軽い悲鳴を上げた私を無視して一頻り撫でると、ヘルメットを付けられる。キツくないと確認されて首肯すると、よしと満足そうな表情を浮かべ、萩原も自身のヘルメットを被った。後ろ手にタンデムシートをポンポンと叩いた。恐る恐る萩原に跨ると彼は楽しそうに言う。
「あはは! {name1}ちゃん、緊張しすぎだよ」
「だってバイク乗ったことないし、ドキドキするよ」
「二人乗り夢だったんだから今日は思いっきり青春しようよ!」
「あ、覚えてたんだ」
「忘れるわけないよ、気になる子の事だもん」
「安全の為に俺の腰に掴まってね」
「う、うん」
 ドギマギしながら萩原の腰に腕を回すと、ピクリと萩原の体が揺れる。腕の力加減が強すぎたかと少し緩めようとすれば、萩原の手の大きな手が私の手に添えられる。すりすりと撫でられる。そっと抱き着く力を込め直せば、バイクが嘶いた。ゆっくりと走り出したバイクが徐々に速度を上げてあっという間に市街地を抜けていく。景色は吹き飛んでいき、風を切って駆けていく様はすいすいと水中を泳ぐペンギンのように早く、心も疾走していく。バイクが風切る音とエンジンの音で他は何も聞こえない。空に薄っすらと灯りが垂れ込め始める。
 ――ああ、夜が明けて朝が来る。
 富士山が見え始め、稜線がキラキラと白み始め、光が満ち始めてくる。その眩さは新しい朝を祝福するようで美しい。息を呑み、感嘆が漏れる。これも萩原が私の憧れを叶えてくれたから見られた景色だ。萩原が私に光りをくれる。
 私は、萩原の何を与えられるのだろうか。
「――好きだ、萩原」
 背中にそっと頭をくっつけて、しっかりと抱き締める。背中を通して心臓の音が伝わってしまっているかもしれないことが少しだけ怖いけれど、伝わっているといい。萩原が向けてくれている好意に期待してもいいだろうか。
「{name1}ちゃん、どう? 青春できてる?」
 赤信号で止まると、萩原はちらりと私の方を向く。ふにゃりとだらしない、幸せそうな顔をしている萩原を見て、私までふにゃりとだらしない顔をして笑ってしまう。
「うん、キラキラしてる」
 信号が青になり、再び走り出す。どこまでもどこまでも。愛おしい、という感情が風に乗って駆け抜けていく。

25.06.15 初出 『夜明けのアクセル』

No.39

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大学3,4年萩原研二とバイクタンデム

 好きなアーティストが歌う自転車の歌に憧れていた。自転車の荷台に乗って、二人で楽しく背中越しに話をしたり、時にはご機嫌に鼻歌を歌ったり、時にはペダルを漕ぐ背中を応援したり、そんなレモンソーダみたいな青春に憧れていた。二人乗りするような気の置けない相手とならばどこまでも行けそうな気がして、いつか誰かとそういう間柄になれればよいと思った。
 ジメジメとした梅雨空に、珍しく光が差し込んだ昼下がり。うっすらと汗ばむ陽気に暑さ慣れしていない身体はへこたれて、コンビニでチューブ型のアイスを買い、半分こした。コンビニ前で凍った容器を揉み込んで中身を解していると、向かいの道路を二人乗りして楽しそうに笑い合う男子高校生と女子高校生目の前を通り過ぎていった。その背中に萩原は大声で呼び掛ける。
「おーい、自転車の二人乗りは危ないぞ!」
「大丈夫でーす! 安全運転しまーす!」
「そういう問題じゃ! おい! おーい! ……ああ、行っちまった」
 「確かに危ないけど私は自転車の二人乗りって、青春の縮図みたいで少し憧れる」
 そう呟いて近づけば、萩原は意外だと思ったらしく、私の方を向いてパチパチと瞬きをした。
「{name1}ちゃんって、意外とそういう乙女なところあるんだね」
「は? 萩原くん、私のことなんだと思っているの?」
「いや、馬鹿にしてるんじゃないよ。いつものクールな{name1}ちゃんもいいけど、かわいい{name1}ちゃんもいいなァ、って思ったんだ」
「どうせ可愛げのない女だよ」
 フンと自嘲するが、萩原に至っては神妙な顔つきで答える。
「{name1}ちゃんはかわいいよ。普段の{name1}ちゃんの気の置けない感じも気に入ってるんだけど、新しい一面見れて嬉しい」
「……そうかい、ありがとう」
 屈託のない笑みを浮かべる萩原に、視線を逸らす。よくもまあ恥ずかしげもなく口の回ることだと。それでも、こうして恥ずかしげもなく素直に言葉を告げるからこそ、沢山の人間から好意を寄せられるのだろう。真摯な言葉は心に響く。聞いているこちらはこそばゆくなるものだが、この男はさらりと言ってのける。それはこの男の美徳だ。松田には爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいだ。
「気持ちはわかったけど、さっきの自転車で二人乗りは危ないからだめだよ、{name1}ちゃん」
「それはわかるんだけど、憧れはあってもいいでしょう」
「うーん、わかるけどさぁ……あ、それじゃあタンデム自転車は?」
「タンデムはまた別でしょ」
「あは、やっぱり?」
 柔らかくなったチューブ型アイスの封を切り、齧りつく。体温で柔らかくなったアイスはシャーベット状になって、ちゅるりと出てくる。甘みのあるコーヒー味と程よいシャーベットの食感がひんやりと喉を潤して、心地よい。
 先程の二人乗りの高校生の走っていった方を見れば、遠くの方でねずみ取りのパトカーに捕まっている。ご愁傷様。
「……まあ、憧れるけれどもやっぱり危ないものね」
「……」
「萩原?」
 高校生達が走っていった方を暫く見ていた萩原は閃いたという顔をして、私の方を向いた。名案だというように顔を輝かせている。
「{name1}ちゃん! 今度の休みの日いつ?」
「え?」
「俺と青春しに行こ!」
「は?」
 訝る私を尻目に、萩原は上機嫌でチューブ型アイスを食べ切るとゴミ箱に捨てた。

* * *

 
「おはよう、{name1}ちゃん! 出かけよう!」
「…………まだ夜明け前だよ、萩原」
 ピンポンとアパートのチャイムが鳴り、恐る恐るドアスコープを覗いてみれば、萩原が満面の笑みで立っていた。廊下の蛍光灯が静かに光っている。遠くで新聞配達のバイクの音が聞こえる程度の静寂に包まれており、外はまだとっぷりと暗闇に支配されている。太陽が日の出の時間を間違えたようなものかとのろのろと玄関の施錠を開けて室内に招き入れれば、満面の笑みを浮かべていた萩原は私を見るなり目を見開いて、宙に視線を彷徨わせた。寝起きで顔が浮腫んでそうだから見苦しかったのならば不可抗力であるから勘弁して欲しい。
「あー……あまり薄着で寝たら風邪をひくよ、{name1}ちゃん」
「ん……そうは言ってももう夏だし暑いよ……萩原の格好も暑そう」
「ああ、バイク乗ってきたからさ。ライダースーツ着てきたんだ。それより、出かける準備しようぜ」
「こんな早くからどこ行くの?」
「んー、どこがいい?」
「ええ? 決めてないの? 決めてるのかと思ったよ?」
 リビングへと案内しようと促すと、萩原は首を振って玄関で待ってると言って、上り框に座り込む。こうなれば玄関で待つつもりなのだろう。わざわざ迎えに来てくれたからのだから支度ができるまではゆっくり寛いでほしいのだが、きっと首を縦には振らないだろう。
「わかった。支度急ぐね」
「いいよ。{name1}ちゃんのこと待ってるの好きだから」
「…………すぐ準備する。待ってて」
「ん」
 冷蔵庫に入っていたお茶をグラスに注いで手渡すと、急いで支度を始める。
「あ」
「? どうかした?」
「ううん。なんでもない」
 ドアを開いた瞬間に萩原が目を逸らす訳だ。キャミソールと三分丈程のルームウェア用の短パン姿で来客対応するなんて慎みがないと思ったのだろう。やんわりと注意してくれていたのだと今更気づく。ちらりと玄関の萩原を見れば、こちらに背を向けて麦茶を飲んでいるようだった。洗顔から化粧、ヘアメイクを時短で済ませ、風通しの良い白の綿ブラウスに、動きやすいレギンスパンツ、軽く羽織るUVカットのパーカーを羽織る。リュックにハンカチとちり紙、化粧ポーチ、スマホ、モバイルバッテリー、二人分のペットボトルのお茶を適当に詰めると萩原と一緒に部屋を出た。
 相も変わらず夜の空気が充満している。放射冷却で昨日の日中よりもひんやりとした空気を纏った夜は心地良い。施錠をして、階下へと降りれば先に降りていた萩原は自分のバイクに跨って待っていた。街頭に照らされた萩原。
 ――ライダースーツ姿の萩原かっこいいな。
 すらりとした萩原によく似合う。まじまじと眺めていれば、早くおいでと手招きするので促されるままに萩原に近づいていった。
「お待たせ」
「ううん。{name1}ちゃんとツーリング楽しみにしてたから待つ時間も楽しいよ」
「そ、う……」
 ――萩原研二、本当によくできた男である。
「安全運転最優先で行くから安心してな」
「萩原のこと信頼してるからそこは気にしてないけど」
「ほんと? 嬉しいこと言ってくれるねぇ」
 萩原はにかりと笑って、私の髪をグシャグシャに撫でつける。わっと軽い悲鳴を上げた私を無視して一頻り撫でると、ヘルメットを付けられる。キツくないと確認されて首肯すると、よしと満足そうな表情を浮かべ、萩原も自身のヘルメットを被った。後ろ手にタンデムシートをポンポンと叩いた。恐る恐る萩原に跨ると彼は楽しそうに言う。
「あはは! {name1}ちゃん、緊張しすぎだよ」
「だってバイク乗ったことないし、ドキドキするよ」
「二人乗り夢だったんだから今日は思いっきり青春しようよ!」
「あ、覚えてたんだ」
「忘れるわけないよ、気になる子の事だもん」
「安全の為に俺の腰に掴まってね」
「う、うん」
 ドギマギしながら萩原の腰に腕を回すと、ピクリと萩原の体が揺れる。腕の力加減が強すぎたかと少し緩めようとすれば、萩原の手の大きな手が私の手に添えられる。すりすりと撫でられる。そっと抱き着く力を込め直せば、バイクが嘶いた。ゆっくりと走り出したバイクが徐々に速度を上げてあっという間に市街地を抜けていく。景色は吹き飛んでいき、風を切って駆けていく様はすいすいと水中を泳ぐペンギンのように早く、心も疾走していく。バイクが風切る音とエンジンの音で他は何も聞こえない。空に薄っすらと灯りが垂れ込め始める。
 ――ああ、夜が明けて朝が来る。
 富士山が見え始め、稜線がキラキラと白み始め、光が満ち始めてくる。その眩さは新しい朝を祝福するようで美しい。息を呑み、感嘆が漏れる。これも萩原が私の憧れを叶えてくれたから見られた景色だ。萩原が私に光りをくれる。
 私は、萩原の何を与えられるのだろうか。
「――好きだ、萩原」
 背中にそっと頭をくっつけて、しっかりと抱き締める。背中を通して心臓の音が伝わってしまっているかもしれないことが少しだけ怖いけれど、伝わっているといい。萩原が向けてくれている好意に期待してもいいだろうか。
「{name1}ちゃん、どう? 青春できてる?」
 赤信号で止まると、萩原はちらりと私の方を向く。ふにゃりとだらしない、幸せそうな顔をしている萩原を見て、私までふにゃりとだらしない顔をして笑ってしまう。
「うん、キラキラしてる」
 信号が青になり、再び走り出す。どこまでもどこまでも。愛おしい、という感情が風に乗って駆け抜けていく。

25.06.15 初出 『夜明けのアクセル』

No.38

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短編

25年スタンプラリー駅員衣装より駅員パロ / 諸伏高明 

 日々の袋小路に追い詰められる。オフィス街と自宅の往復を機械的に繰り返し、休日を迎えては布団に包まって一日を過ごす。繁忙期を乗り越え、心身ともに解放されてみれば、この代わり映えのしない日々をそのまま過ごすだけで良いのだろうかという疑問が浮上する。一度首を捻れば、現状維持というわけにも行かない。普段の日常から少しだけでも抜け出したくなるものだ。そうなると自分にとっての普段とは異なる非日常とは何か考える必要性が出てきた。
 日常で習慣化していないこと――たとえば、食事。外食をすることであれば、普段食べるご飯よりも少しお金を出して食べに行くとか、普段は食べる習慣のない珍しい料理や外国料理を食べること。お弁当を作って近所の公園にピクニックに出かけるのも良いだろう。
 習い事を始めるというのも良いかもしれない。ヨガや英会話、資格の勉強、自己投資は無駄にならないというし、長い目で見れば自己の人生の肥やしになり、豊かにするかもしれないならば、悪くない――。

「ほら、新幹線が来るよ」

 ふと耳に入ってきた若い女性の声にハッとした我に返る。声のした方を振り返れば、新幹線のミニカーを持った小さな男の子を抱っこした若い母親の姿。男の子は電車が好きなのだろう。きゃっきゃと嬉しそうに笑ってふにゃふにゃした指を方向へ向ける。それにつられるようにして指差す方へ視線を向ければ、新幹線用のレールを颯爽と走っていく新幹線が目の前を通っていく。力強い風圧で髪が揺れ、ものの数十秒で通り過ぎていく。あっという間に遠ざかって小さくなっていく、新幹線を見送って、感じたのは確信。吹き抜けていく疾走感と高揚感。心が躍る体験はこれだ。

 ――そうだ、旅に出よう。

 思い立ったが吉日。優柔不断が服着て歩くような女ではあるが、こうと決まれば行動は早い方である。スマホを駆使して情報収集し、行き先を検討する。幼馴染から丁度のタイミングで連絡があり、新幹線に乗りたいから旅に出るという旨を伝えれば、それならば会いたいからぜひ会いに来て欲しいとのことで会うことになった。長野から引越してからの転勤族の子の私は携帯電話やスマホでのやりとりが主流で、長期休みにタイミングが会えば会う事が多い。私が引っ越してからはメールや電話でのやりとりがメインで暫く会えていなかったので幼馴染達との久々の再会に向けてより心が弾む。

 券売機で週末限定のフリーきっぷと特急券を購入し、駅員に質問する外国人観光客を横目にきっぷを挿入し新幹線改札を通り抜ける。普段利用する在来線とはどこか違う雰囲気に、早くも非日常感を感じ始め、旅が始まる高揚感を感じる。気持ちが弾んで見るもの全てに目が行く。好奇心の塊になったようだ。
 新幹線改札内には駅会社の系列店が経営するカフェとコンビニ、待合所が設置されている。在来線の店舗には売っていない地域のお土産が売っているところもまた小さな非日常感がする。東都ばなな、と言った有名なお土産も売っていて、幼馴染への軽い手土産にと買っていくことにした。

「ええと……何番線だろう?」
「何かお困りですか?」

 電光掲示板を見てキョロキョロしていると、駅員の制服を着た男性に声を掛けられる。つり目がちの高身長の男性駅員だ。顔立ちが涼やかで若々しいが、口髭を蓄えている。年齢は三十代といったところだろうか。精悍な顔つきの駅員に思わず息を呑みむ。駅員の制服がよく似合っていてかっこいい。どことなく幼馴染の高明くんに似ているなと見惚れていたら、お客様と怪訝そうな表情で首を傾げる駅員にハッと我に返る。眉目秀麗な男の、その首を傾げる仕草がかわいいなんて思ったのは内緒だ。そもそも高明くんが首都圏にいる筈がない。以前高明くんから聞いた時に長野で就職したと言っていた筈だ。

「えっと、長野駅まで行きたいのですが、どちらのホームですか?」
「長野ですか。長野方面の列車でしたらあちらの二十一番ホームですね」
「二十一番ホームですね。ありがとうございます」

 お礼を述べれば、にこりと微笑んだ駅員は私の手に持っていたフリーパスと特急券を見て、自由席に乗られるようでしたらは一号車から四号車のどこかで乗ってくださいねと教えてくれた。

「長野へは観光ですか?」
「ええ。それと幼馴染に会いに行くんです。久々に会うからドキドキするけど楽しみなんです」
「幼馴染。それは楽しみですね」
「ええ。由衣ちゃん達に会うの楽しみすぎて早く目が覚めてしまいました」
「……ゆい、さん?」
 駅員の男性はぱちくりと瞬いた。
「由衣ちゃんは私の大事な幼馴染です」
「ふふふ……なるほど。その様子だと今回の再会ですぐに旧交を温まりそうですね」
「きゅうこう?」
「ええ。……と、自由席に乗車されるようでしたらそろそろ時間ですね」

 一頻り笑った駅員の男性は腕時計に視線を向ける。つられて自分の腕時計に視線を向ければ、そろそろ先発の列車が到着する頃合いであった。

「あ、引き留めてしまって申し訳ありませんでした」
「とんでもないです。お話しいただきありがとうございました。それではまた。良い旅を」
「はい、ありがとうございました」

 恭しくお辞儀をした駅員の男性に会釈をすると、教えられたホームに向かう。新幹線ホームは新幹線の到着を待つ乗客たちで賑わい始めていた。リュックサックやキャリーバックなどのカバンを多く見掛けるようになる。その様子を眺めながら、カバンの数だけ今までの思い出が詰め込まれているのだろうなと思う。そして今日もこれからそのカバンに思い出が詰め込まれていくのだろう。新幹線はただ単に移動する手段ではない。乗客達当人や各々の目的地、その目的地で迎えようと待つ人達、それぞれの想いを乗せて走り、人々を繋いでいく。一つ一つが繋がっていく。私の想いも乗せて繋いでくれる。それはとても素敵な仕事だなとキャリーバックをガラガラと引いてホームを歩いていく。旅は一期一会。駅員の彼は「それではまた」と言ってくれたが、あの駅員さんにもいつかまた会えるのだろうか。

 新幹線自由席の乗車待機列には既に人が並び始めていた。由衣ちゃんが「自由席は人気の席だから早めに並んだ方がいいわよ」と助言してくれていたのは有り難い。先程の駅員の男性もそれを見越して話に夢中になりそうなところを切り上げてくれたのだろう。まだ整列の少ない所に並び、電光掲示板見上げた。電光掲示板には私が乗る新幹線の名前と時刻が表示されていて、スマホのカメラで写真を撮る。幼馴染の由衣に、この電車に乗るよと添付してメッセージを送れば、すぐに既読表示がついた。

「なまえちゃんおはよう! 了解しました。なまえちゃんが到着するの楽しみに待ってるね」

 メッセージと共に可愛らしいキャラクターのスタンプが会いに来て、思わず口が綻んでしまう。自分と会うのを楽しみにしてくれると言う彼女が親友として愛おしい。

「私も由衣ちゃんに早く会いたい!」
「嬉しい! 敢ちゃんもなまえちゃんに会うの楽しみにしてるわよ!」
「ほんと!? やったー!」
「高明くんも来れるって言ってたけど……もしかしたら一緒の電車なんじゃない?」
「え? 高明くん、東都来てたの?」

 高明くんも由衣ちゃんと敢助君の幼馴染。敢助くんと同い年で私と由衣ちゃんの六つ年上。物腰の柔らかく、理知的な男の子だった。転勤族の子の私は小学生の卒業までを長野で過ごしていたが、その後は転々と引っ越していたため、会うのは全くの久しぶりだ。特に高明くんや敢助くんとは年齢が六つ違うとなると、中々生活リズムが合わない。私と由衣ちゃんが小学校を卒業して中学校に進学する頃には、二人は高校を卒業して大学に進学する頃合いだ。高明君は東都の大学へ進学して行ってしまったし、高明君が東都にいる間の私は関西の高校に進学して生活していた。私が東都へと引っ越して住み始めた頃には、高明くんが大学を卒業して長野へ帰った後であった。まともに会ったのは何時だったかという記憶も怪しいぐらいだ。手紙や携帯で連絡を取り合うことは時折あったが、こうして会うのは何時ぶりだったか。私の記憶の中の高明君と敢助君はもう朧気だ。覚えているのはおままごとをしたいとせがんだ私に、嫌な顔をせずに付き合ってくれたことぐらいだ。……敢助君は少し嫌そうだったかもしれない。

 ――間もなく、二十一番線に電車が参ります。危ないですから黄色い線の内側までお下がりください。

 業務放送が流れ、スマホのメッセージ画面からはたと顔を上げる。由衣ちゃんとのメッセージのやり取りは楽しいが、乗り過ごしたら元も子もない。きょろきょろと見回せば、新幹線が速度を落としてゆっくりとホームへと入線してくる。待ち侘びた。徐々に速度を落とし停車すると、上京するためにやってきた人々が次々と降車していき、全員が降車したのを確認してすぐさま清掃員の人々が入って車内清掃を始める。その様子は窓からはっきりと見え、テキパキと掃除をしていく様子が見える。こういった様子も新幹線に乗車する機会がないと見れないから私にとっては非日常かもしれない。時間の合間を縫って一生懸命清掃スタッフには賞賛しかない。裏方仕事というのは中々クローズアップされないものであるが、こうして見ていると快適に過ごす為に誰かしらが裏からサポートしてくれているのを日々忘れてはいけないなと思い直す。掃除を済ませて車内から出てきた清掃スタッフの人と目が合い、感謝の意を込めて会釈をすると、驚いたような表情を浮かべたが、はにかみながらも心からの笑顔を見せて会釈をし返してくれた。

 車内に入ると、すぐに窓側の一角に座ることができた。他の乗客たちも席を確保しつつ、荷物を頭上の収納スペースに積み込んでいる。在来線ではすぐ降りてしまうからこそ、中々使わないスペースだが、こういう所からも旅の匂いがする。列車に乗り込んで走り出す前のこの雑然とした雰囲気が好きだ。浮き足立った車内の雰囲気に高揚感を覚えつつ座って待っていれば、いよいよドアの締まる音がする。ゆっくりと動き出す新幹線。
 ここから旅が始まる。徐々に加速していく窓の外の景色に胸躍らせて、車内の雰囲気を味わう。都心の高層ビルの街並みを縫って走り始めた新幹線が、一時間も経てば次第に高層ビルの姿が少なくなって、視界が開けていく。遠くには山並みが美しく走って青空が広がっている。一気に視界が広がっていく様子にどこか心の広がるような心地もする。新幹線の中は存外静かで、出張で乗車したサラリーマンの男性はパソコンで作業をしていたり、登山バックを背負った中年の女性客は黙々と菓子パンを食べていたり、大学生ぐらいの青年はイヤホンをつけて動画配信サービスで映画鑑賞をしている。思い思いの時間の過ごし方からその人のライフスタイルが垣間見えておもしろい。退屈しないなと一人ほくそ笑んでいれば、何かが足元に転がって来る。

「?」
「お姉ちゃん、ぼくのミニカーそっち行っちゃった」

 足元にコツンと何かが当たったと同時に向かいの席の男の子がパタパタとやってくる。白いスポーツカーのミニカーが足元に落ちていた。大方それを地面に走らせて遊んでいたのだろうか。ねじ巻き式のそれは何度か後方へ引いてから指を放すと自動で前に進むのだという。それを渡してやると男の子はにこりと笑ってお礼を述べた。

「お姉ちゃんありがとう」
「どういたしまして。ミニカーかっこいいね」
「うん。パパに買ってもらったぼくのおきにいりなんだ!」

 にこにこと屈託のない笑みを浮かべた男の子は私の隣の空いている席にちょこんと座る。周囲を見渡すが、保護者らしき人物は見当たらない。

「お父さんかお母さんは?」
「パパ今トイレ行ってる。あれきっとうんこだよ!」
「う、うん……な、なるほど」
「つまんないからしんかんせんのたんけんしにきたんだ」
「そうだったんだねぇ」
「お姉ちゃんひまだったらぼくのたんけんたいのたいいんにしてあげる」
「お、おお……?」

 トントン拍子に探検隊に加入することになってしまった。随分と人懐っこい子だが、大丈夫だろうかと少し心配になる。このまま断って一人で歩き回らせるのも心配であるし、それとなく保護者を探しながらこの少年に付き合ってやるべきだろうか。リュックから化粧ポーチを取り出して簡易テーブルに置いておく。帰ってきた時の目印だ。立ち上がり少年に敬礼をする。

「わかりました隊長。自分もお供させていただきます!」
「よし! お姉ちゃんたいいん、それではしゅっぱつします! しゅっぱつしんこー!」
「おー!」

 私がついてくると理解するや否や少年はぱあっと雲の切れ間から光が差したように顔を輝かせた。がしっと手首を掴まれて、ぐいぐいと引っ張る。水を得た魚のようだ。ずんずんと突き進んでいく力強さに驚きつつ、そういえばこうして敢助くんや高明くんに手を引かれて遊び回っていたような思い出が蘇ってきて、思わず目を細める。

「隊長」
「なあに、お姉ちゃんたいいん?」
「パパ隊員をおトイレまで迎えに行ってあげるのはどうですか? 皆で探検したほうが楽しいですよ?」
「たんけんはきけんがいっぱいだ。たのしいことばかりじゃないぞ! きをつけないと!」
「そ、そうですね。ごめんなさい」
「だけどお姉ちゃんたいいんのいけんもわかるのでそれにしよ!」
「やったー! そうしましょう!」

 それとなく少年を誘導して父親を探す探検という目的に切り替えさせることに成功しホッとする。迷子ならば車掌に相談するのが最善だ。車掌室に向かいながら父親を探す方が良いだろう。今頃トイレから帰ってきた父親は我が子が自分の座席にいないことに気づいて慌てて探し回っているかもしれない。ならば車掌の下へ相談しに向かっているかもしれない。

「隊長はどこの席に座っていたんですか?」
「うーん? あっちの方」
「あっちは……指定席の方かな。そうしたらパパ隊員はあっちのおトイレの方かもしれませんね。行ってみませんか?」
「うん。れっつごー!」
「はい。レッツゴー! あ、走ると寝てる人に怒られちゃうんで忍び足で行きましょう! 忍者の足です!」
「ニンジャ!」
「おー、隊長かっこいい〜!」

 少年は私の言葉に反応して、忍者の手で印を組むポーズをしてご機嫌だ。少年が転ばぬように背後で見守りながら、指定席車両の方向へ向かって歩いていく。

「隊長は新幹線に乗ってどこ行く予定なんですか?」
「金沢のおじいちゃんち。おじいちゃんにさいごのばいばいするんだって」
「そっか……聞いてごめんね」
「? なんで?」
「……ううん。おじいちゃんと沢山お話してあげてくださいね」
「うん。おねえちゃんたいいんは?」
「私は、お友達に会いに行くの。引っ越してからあまり会えなくなっちゃったから」
「そしたらお姉ちゃんもいっぱいお話しなきゃね」
「……そうだね」

 新幹線は沢山の物語を運んで走っていく。
 少年はひょうたん島のテーマを歌いながら進んでいく。その後をしみじみとついて行くと、車掌に向かう途中でトイレを見つける。トイレの前では焦った様子の三十代ぐらいの男性と先程駅で案内してくれた男性駅員が話していた。

「あれ、先程の駅員さん?」
「おや……?」
「パパ!」
「翔! どこ行ってたんだ! 翔がいないからパパびっくりしたよ!」

 やはり少年の父親だったらしいその男性は、ほっと安心した顔をして、少年に駆け寄って抱き締めた。チラッと駅員の彼に視線を送れば、彼もホッとした表情を浮かべ、帽子のつばをもち、軽く会釈をした。

「パパがうんこしにいってなかなかかえってこないからお姉ちゃんに遊んでもらってた」
「う……それはごめんな……お姉さんも翔の相手してくださってありがとうございます」

 翔の父親は赤面している。子どもの素直さは時に残酷である。

「気にしないでくださいね。翔くんが暇してた私を探検ごっこに誘ってくださったので楽しい時間を過ごせましたよ。ね、翔隊長?」
「うん、お姉ちゃんたいいんとパパたいいんをさがすたんけんしたよ。たのしかったよ」
「そうか、パパ隊員も翔隊長とお姉さんに見つけてもらえてよかったよ。車掌さんもお手数おかけして申し訳ありませんでした」
「いえ。ご子息が見つかって何よりです。お姉さん隊員さんもご協力ありがとうございました」
「お姉ちゃんありがとね」
「うん、またね」

 翔の父親は私と駅員さんにお辞儀をすると、翔少年の手を引いて、自分たちの座席に戻っていく。残された二人は改めて向き直る。またいつか会えるといいなと思っていたら早々に再会してしまった。

「まさか駅員さんも乗ってたなんて思いませんでした」
「東都には仕事で来ていて丁度長野に帰る途中でしたので」
「そうだったんですね。お疲れ様です」
「ありがとうございます。隊員さんもお疲れ様です」

 クスリときれいな顔で笑われ、バツが悪い。子どもに付き合っていたとは言え面と向かって言われると少しこそばゆ
い。逃げるように、席に戻りますと言えば、微笑みを絶やさずにそれではまたと駅員さんも持ち場に戻っていった。
 席に戻り、化粧ポーチの中身を確認し、リュックに仕舞う。お土産と一緒に駅で買っていたお茶の入ったペットボトルを開けて、残りの到着時間はゆったりとくつろぎながら窓の外の景色を見つめることにした。その地域に住む人たちの息づかいが窓の外を静かに流れていく。

「あれ? 高明君からメッセージ入ってる?」

 目的地の長野まで十五分切ったところで連絡を入れようとすれば、メッセージアプリに連絡が来ていることに気づく。

「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」
「……高明くんの故事成語、懐かしいね。相変わらずよくわかんないけど」

 ふふふっと思い出す。小さい頃に高明くんが言った故事成語を魔法の呪文だと勘違いして、高明くんは魔法使いだと言って、彼を困らせていたのを思い出した。珍しく困った顔をしていて、敢助くんが愉快そうに笑っていたのも鮮明に憶えている。

「高明くんお久し振りです。今日は会えるのを楽しみにしています」

 メッセージを返すと、車内チャイムが鳴る。まもなく長野駅到着するというアナウンスを聞いて、頭上の収納からキャリーバックを下ろし、駅に着いたらすぐに降りられるように荷物を整理する。まだ始まったばかりだというのに色々な事があったなと息をつく。予想外ごとが多かったが、全て新幹線が結んでくれたご縁なのだろう。袖売り合うのも他生の縁。小さな事だろうが、こういった経験も自分の中で何かしらの一部になっていくのだろう。そう思うとここまでに抱いた気持ちは悪い気はしない。
 荷物を纏めて新幹線を降りる。――長野駅。ホームから見える街並みは変わってしまっているところもあるようだけれども、どこか懐かしい。ほっとするのは大好きな人たちが私を待っていてくれるからなのだろう。
 新幹線が発車するのを見えなくなるまで見送ってからホームを降りて改札口へと向かう。改札をでて、きょろきょろと見回すと、私に向かって手を振る由衣ちゃんと隣に佇む敢助くんの姿が見えた。会いたかった二人に感極まる反面、杖をついている敢助くんに姿にぎょっとする。事故に遭ったと聞いてたが大丈夫なのだろうか。

「なまえちゃん! こっち!」
「おー、みょうじか。大きくなったな」
「由衣ちゃん! 敢助君! 久し振り!」

 足早に近寄って行けば、由衣ちゃんが両手を広げてそのまま抱き締めて、敢助くんが頭をポンポンと撫でてくれる。会いたい相手がいるって幸せなことだなァ。三人で一頻り再会を喜び合っていると、背後からポンと肩を叩かれた。振り向く前に肩口に誰かの顔が近づいて耳元で囁かれる。

「お客様、きっぷを拝見」
「っ!?」

 ドキリとして飛び上がり、囁かれた耳を押さえてよろよろと由衣ちゃんの背後に隠れた。甘みを帯びた低温が鼓膜の奥で渦巻いている。何やっているんだと敢助くんの胡乱な視線を気にしている余裕はない。心臓はどくどくと早鐘を打ち、そっと様子を窺う。長野に来るまでに何度も会っていたあの駅員の男性が高明くんだったなんて全然気づかなかった。似ているような気はしたけど、随分と会っていなかったから他人の空似かもしれないと全然気づかなかった。高明くんはきっと最初から私のことに気づいていて、どこで気づくのかと反応を見てほくそ笑んでいたのだろう。彼は意外とそういうところがある。私のことを絶対に揶揄っている。

「先ほど落とされましたよ」

 そういって私が落としたきっぷを差し出してきた彼は悪戯が成功したという笑みを浮かべていた。
 

25.06.09 初出 『great journey』

No.37

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短編

『隻眼』で病院抜け出した後の諸伏高明と看護師の幼馴染

 親鳥の後を追う雛鳥、そんな印象だった。

弟が公園で仲良くなったという少女は弟と同い年。性格は温和で人懐っこい性格であった。弟が紹介してくれた時に、大きな目をキラキラと輝かせて、景光くんのお兄ちゃんと羨望の眼差しで見つめられた時は満更でもなかった。程なくして懐いた彼女は「高明くん、高明くん」とついて回る姿も鳥類の刷り込み現象のようだった。自分を慕ってついてくる彼女が本当の妹のようで、自分の妹のように可愛がっていた。小学生、中学生、高校生、と成長してからも変わらず高明くんと朗らかな笑みを浮かべて接する彼女に癒されていた。
 彼女が医療機関に勤めることになったと聞いたのは随分前だった。彼女は大和敢助や上原由衣とも顔見知りの間柄であり、諸伏らが警察官になると決めたことで、彼女もその決意を固くしたようであった。
 ――高明くんと景光くん、敢助くん、由衣ちゃんが警察官になるなら、私が皆を怪我や病気から護る
 そうして宣言していた言葉通りになった。看護師となった彼女は日々命と向き合い、多くの人々の助けとなっているようだ。暫く会えていなかったが、まさか己が彼女の勤務するに運ばれると思わなかった。氷で覆われた滝つぼから九死に一生を得て、目を覚ましてみれば、泣き出しそうな表情を浮かべた彼女を見つけた。はっとした彼女はすぐに諸伏さんと問診を開始する。先程まで泣き出しそうな表情をしていたのは見間違いだったのかと思わせるぐらい成長した彼女は凛々しく、テキパキと処置をしていた。

「絶対に安静ですからね。ゆっくり休んでくださいね」
「ええ、ありがとうございます」
 そう言って部屋を出ていった彼女を見送って帰ってこないのを確認すると急ぎ病院を抜け出し、天文台での一件を終え病院へと戻れば、彼女が仁王立ちしながらニッコリと出迎えたのである――
「高明くん、私は絶対安静にしてろって言ったよね!?」
「そうでしたっけ?」
「とぼけないでよ。心配したんだよ!」
「すみません」
 彼女はぐいっと顔を覗き込むように近づけてきた。神妙な顔つきのその眼下にはうっすらと青いクマが浮かんでいる。
「病院抜け出して具合悪くなったりしてない?」
「問題ないですよ。ただ君の仕事ぶりに感心していました」
「はぁ……今度抜け出したらはっ倒すからね」
「ははは、もうしませんよ」
「前科一犯ですよ、諸伏警部」
「おや、手厳しい」
 じとりとした視線を寄越した彼女を見る。昔、自分の後ろを追いかけていた引っ込み思案は少女はいつの間にかに成長し、人の命を護るための美しく成長した。小さな握って先を歩いていた筈がいつしか隣を歩いていたのだと気付いてフフッと笑えば、胡乱な視線が飛んでくる。
「やはり滝つぼ落ちたのに無理して熱が……?!」
 諸伏の額に当てた白い腕を掴み、背に片腕を回す。額同士を合わせると、微笑を浮かべた。
「……ほら。杞憂、でしょう?」
 固まった彼女を見やり、掴んでいた方の腕も背に回す。肩口に埋もれた彼女の顔は見えなくなったが、小さい嗚咽が聞こえてきて、幼子をあやすように背中をトントンと叩く。泣き虫は変わらないなあ。
「…………高明くん、敢助くんと由衣ちゃん後で来てくれるそうですよ」
「そうですか」
「彼らもそうですが、高明くんももっと自分を大事にしてください。病院に運ばれてきた時、血の気が引きました」
「……ご心配お掛けして申し訳ない」
「私たちは患者さんを助けるためなら全力を尽くします。でも状況によっては見つけ出す前にお亡くなりになってしまったりして助け出せない時もあります」
 グッと目元を乱暴に拭った彼女は、諸伏を見上げる。
「職務を遂行するその信念は素晴らしい。けれども命あっての物種だから――」
 ――もっとご自愛ください。
 生半可な二の句はとても継げやしない。
今回は命拾いしたが、次はどうかはわからない。絶対はない。待つ身より待たるる身とはこんな気持ちのなるものなのか。気丈に振る舞おうとするから涙さえ拭うことは出来なかった。
あまつさえ彼女の言葉には満足に応えられない。口惜しさを覚えつつも、少し落ち着いたらしい彼女は諸伏の胸を押して立ち上がる。目元は赤くなってしまっているが、その奥の瞳は真っ直ぐに諸伏を見つめている。
 ――ほんとうに強くなった。
 彼女が近所のガキ大将に揶揄われているのを見かけて助け出したのは今は昔。泣き虫だった雛鳥が成長して育った姿を見て感慨深くも、胸の奥に隙間風が吹き込んでいくような感覚がする。
「高明くんが生きてて良かった」
 肩の荷が下りたと息をついた彼女のその目元は赤く痛々しい。優しく撫でてやると、冷たい手と頬ずりして笑った。その姿にそっと息を呑む。約束はできないが、せめて彼女の覚悟には応えなければならない。
「言うは易く行うは難し」
「?」
 彼女は突然飛んできた言葉にピンときてない様子で、またことわざ? と首を捻っているのを見て、微笑む。彼女に対するこの気持ちは慈しみに他ならない。優しく撫でていた目元からなぞるようの指先を下降させ、頬のなだらかなふくらみを通り過ぎ、指先でふにっと唇をつつくと、慌てた声が転がって来たが、それも悪くない。
「職業上、今回の様な怪我を負ったり、帰れなかったりもあるでしょうから絶対に帰るとは約束はできません」
「うん」
「……ですが、目覚めた時、私を想うあなたの姿を見て、帰る場所はあなたの元がいいと思いました」
「え」
「これからも私が帰る場所にあなたがいて欲しい」
 諸伏は彼女の手を取ってその甲に口づけを落とした。その小さな手は荒れていて、その手でこの病院の患者達と向き合い、この病院だけではなく、病や怪我と闘う者全ての者の味方でありたいと命を活かそうと粉骨砕身してきたのだろう。そう想うと愛おしく思う。顔を上げて、にこりと微笑めば、頬を紅潮させた彼女がはにかんだ。
「高明! どこだ!? 無事か!?」
「ちょっと敢ちゃん! ここ病院よ!」
 どたどたと騒がしい声がこの部屋に近づいてくるのを聞いて、「来たな、敢助くんと由衣ちゃん……」と彼女が呟く。他の患者さんの迷惑だから注意してくるね、と出ていったその顔は先程までの可愛らしい表情ではなく、仕事に真摯に向き合おうとする凛々しい表情であった。「静かにしてください」と敢助くん達を注意した瞬間に他の看護師から「あなたも少し声が大きい」と注意されている声がこの部屋まで届いてきて、思わず笑ってしまった。

25.06.04 加筆修正         
25.05.25 初出 『思う念力岩をも通す』

No.36

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短編

女審神者と三日月

 ――断じてこれは愛ではない。愛の行為ではない。

 己にそう言い聞かせながら、密やかに息を吸う。喉奥はからからと痰が絡んでいる。乾いた咳払いをしつつ、呼吸がしずらいのはこの痰のせいだけではないことは理解している。唇はふるふると震え、緊張で気道が絞まっていく。努めてゆっくりと肺を揺らし、呼吸を繰り返すがそれでも吸い込んだ空気は体内を上手く巡りやしない。情けなく息を漏らしながら喘いでいる。
「あるじ? また具合が悪いのか?」
 ――月が見ている。
 溜息を漏らすような、はたまた、はっと息を呑むような。そんな美しい月がこちらを見下ろしている。さらりと揺れる夜を凝縮した色の髪。その眼差しは慈愛に満ち、優しく真綿で包み込むようであった。下弦の月が濃紺の空に浮かび、さらさらと揺れる長い柳の葉が瞬く。その一挙手一投足、すべてが美しく悩ましい。その相貌に見惚れていれば、瞳は見る間に曇り、不安を灯す。ゆっくりと手が伸び、両頬が包まれる。輪郭に触れ、人間の柔らかい感触をじっくりと確かめる仕草はまるで壊れ物にでも扱うかのように触れ方だ。少し顔色が悪いと、雲の切れ間から覗き込むように顔色を窺う仕草も様になるものだから、些か居心地が悪い。この美しい月に下心など微塵もない。ただあるのは主である己への労りだけ。憧憬に懸想する哀れな小娘を慈しみ、審神者という役割から脱落しないように繋ぎ止めているに過ぎない。眼下の薄い皮膚を冷たい指先がなぞり、しかりと眠れているかと物憂げに見つめてくるその表情に益々苦々しくなる。はくりと口を開くが喉が乾いて音にならない。振りほどくように咳払いをして再び口を開く。
「だい、じょうぶ。大丈夫だよ、三日月」
「主……。しかし、だなぁ……」
「今日は安静にしてた。大丈夫。いくら霊力が不安定だからって……その……やっぱり、良くないよ」
 彷徨いそうになる視線をぐっと堪えてその麗しい月を見つめて言う。当の本人は想定外だったというような顔をしており、そのきょとんとした顔ですらも美しい。思わず手を伸ばしそうになった手をキツくに握り締め、そっと心臓に手を当てる。
 「(……ああ、なんて浅ましい)」
 献身的な善意を下劣な心で無為にするなどは許されない。この方は己を主として、審神者として慕っているだけだ。歴史修正主義者と対峙するために刀剣より顕現された付喪神。軟弱な小娘ごときが憧憬を寄せたところでたかが知れている。
「口吸いの相手がじじいでは嫌か?」
 そんな浅ましい審神者の心をいざ知らず。彼は長い睫毛をはたはたと瞬かせ、こてんと首を傾げている。
 三日月は眼下から指先を移動させ、渇いた唇をつんと弾いた。血色の悪い唇をそっとなぞられる。頭を掻き毟りたくなるような厚意に、目が、眩みそうになる。
「――そう、じゃない」
「ならば」
 そうではない。
 絞り出した声は思いの外低く唸った。その声に三日月は驚いた表情を浮かべる。
「霊力を補う苦肉の策とはいえ、体の交わりで補うなんてことはしたくない……そんな当人の意思を度外視にした行為はしたく、ない」
「? 所詮刀はモノであろう。顕現させたのは主だ。俺は主のモノといえばそうなのだろう」
 事も無げに言い放つ三日月に、喉奥が引きつりひゅっと鳴る。上顎が貼り付いたように息苦しく、砂漠に一人解き放たれたような寂しさにぎゅと心臓を握り潰された心地になってしまう。ガツンと頭を殴られたよう。目の前が暗くなる感覚。
「違う……ちがう」
 それを振り払おうとぶんぶんと頭を振る。神様が人の姿をして同じ高さまで降りてきてくれた。決して目の前にいる三日月がモノだとは到底思っていなかったし、そんなつもりは毛頭なかった。こうして眼の前で向き合って、会話して、笑ったり、泣いたり、喧嘩をしたり。そういう心を通わせて少しは親しくなれた間柄だと思っていた。不出来な審神者を見限ろうなどせず、ついぞ支えてくれたから。刀のいろはも分からぬ小娘に呆れずに優しく教えて見守ってくれた。そうした厚意に応えたかった。そんな相手にそう思わせていたなんてあまりにも寂しすぎる。
「ちが、う、ちがうっ!」
「あ、あるじ?」
 声が震えて、目の奥が熱くなる。キュッと喉の奥が締まる。わなわなと身体が震えてしまう。腹の底からふつふつと湧き上がる憤りに唇を噛み締める。己のままならぬ状況が不甲斐なくて狂おしいほど悔しい。戦場に送り出すたびに苛まれる。引き裂かれるような罪悪感と二度と帰ってこないのではないかという恐怖心。霊力が不安定であるばかりに仲間を中々顕現させられない。常に戦力不足。そんな状況でも何一つ不平不満を言わず、審神者の体調を第一に気に掛けてくれる。
「無理をしてくれるな主よ。身体を大事にしれくれ」
 呼び掛ける優しい声には焦燥が滲む。声を張り上げて噎せる背中を擦るその優しい手。あなたは、あなたたちはモノではないのだ。
「主よ。もう無理をしないでくれ。主が倒れてしまったら困る」
「……ねぇ、やっぱりあなたはモノではないよ」
「何を」
「あなた達には物心が付いたでしょう」
 丸まった背中をさする手が止まる。乱れた呼吸を整えながら顔をあげれば、丸い水面に映る三日月は揺れている。
 ――嗚呼、きれいだ。
 三日月にそっと手を伸ばし、透明感のある頬に触れる。ピクリと三日月の体が揺れたが、払い除けられるような拒絶はない。ゆっくり優しく撫でれば、むず痒いような表情で暫く頬を引きつらせていた。やがて、眉根をハの字に曲げ、はにかむように笑うと、手の平に頬擦りをしてきた。
「あるじ」
「私の霊力が安定しないばかりに気遣ってくれたのはとても嬉しいよ。ありがとう」
「ああ」
「だけど”主"だからという義務感で自分を蔑ろには絶対にしないで欲しい」
 約束してくれるかい。そう言って三日月の頬を撫でながらその瞳を見つめれば、ぐいっと腕を引かれて抱き締められる。あるじ、と密やかな声で呼び掛ける三日月の姿を目にしてしまえばもう何も言うまい。きつく抱き締められたまま、されるがままになって、天井を仰いだまま目を瞑る。
「ありがとう」
「体調不良で中々安定しないから苦労かけてると思うけど……」
「そんなことはない。加州や乱も今剣も。皆が主の世話焼くの楽しそうにしておった」
「ああ……迷惑かけてる」
「誰も迷惑だとは思っておらんよ」
「そうだと……ありがたいけどなぁ」
「あるじ」
「なに……んぅ」
 落とされた口づけ。優しい刹那。何が起こったのか混乱していたが、事の次第に気づくとハッと我に返るが、抱き締められたまま身動きができない。身を捩ろうにも抑え込まれ、されるがまま唇を甘噛みされたり吸われたりしている内に脳がぼんやりとしていく。このままでは良くない。蕩ける意思の中で止めようと伸ばした手はそのまま地面に縫い付けられてしまう。
「っあ……みか、づき、だめ」
「……大丈夫だ。主が俺たちを大事に想ってくれるように俺たちも主を大事に想っている」
 にこりと美しい月の微笑みに、視界が霞む。初めての口づけは切ないほどやさしい。唇をぬるりと舐めて引き結んでいた口元が解かれていく。ゆっくりと口内に入ってきた舌が絡まり、吸い上げられる。ちゅちゅちゅと吸われていると身体の底からじんわりと熱を帯び始めていく。それと同時に温かい何かが流れ込んでくる感覚がする。眠っていた細胞が活性化されているような感覚。これが三日月の霊力なのだろうか。少しずつ身体が目覚めいくような、そんな感覚がする。身体が火照っている。
「……っは、ぁっ……主」
 ゆっくりと離れた三日月は恍惚とした表情を浮かべながら己の唇をなぞっている。霊力が循環し、彼自身も火照っているようであった。無意識なのか何度も何度も己の唇をなぞり、先程の行為を反芻しているようだった。恥ずかしいやら何やらで視線を彷徨わせていれば、「主」とはにかむ月の声。
「みかづき?」
「その……もう少し、口を吸ってもよいか?」
 そう言ってこちらを見つめる瞳は月というよりは焦がれる太陽のようであった。

24.08.19 初出 『月よ星よと』

No.35

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短編

御影密と女主とウィークエンドシトロン

 秋の日差しが心地よく身に沁みる。部屋の窓際に置かれた大きなビーズクッションに身体をもたれかけて日向ぼっこ。夏ならば暑くて辟易していた日差しも、肌寒くなってきたこの季節になるとその温かさが恋しくなる。海老のように丸くなって目を瞑るとふわふわと良い心地になって、うとうとと眠くなっていく。
「密さん? お眠ですか?」
 彼女の、{name2}の声。優しくて柔らかくて、お菓子みたいに甘くて良い匂い。洋菓子店に勤務する彼女の家はお店で出すお菓子の練習のためにお菓子を作っている為いつも甘い匂いがする。焼き菓子の香ばしい匂いであったり、チョコレートの甘い匂いであったり。甘いものが好きな俺にとってはそれがたまらない。ふらりと朝日の家に立ち寄れば、彼女は嫌な顔一つせずににこにこと笑って部屋に上げてお菓子をご馳走してくれる。味見してほしいと差し出される{name2}が作るお菓子は甘くて美味しい。食感も甘さも香りも、そのお菓子の美味しいを引き出すようして作られているからどのお菓子も文句のつけようがなく美味しい。俺はマシュマロが好きだけど、同じぐらい{name2}が作るお菓子は美味しくてどれもお気に入り。甘いものが好きな俺にとってはまさに至れり尽くせりだ。必ず帰る際には俺が所属する劇団の団員達と食べてとレモンケーキをお土産まで渡してくれる。レモンの爽やかな風味と表面をコーティングする砂糖掛けの程よい甘さ。口当たりが良くて劇団の皆からも好評だった。本当は誰にもあげたくないけれど{name2}は皆で食べてねと必ず念押しをする。穏やかな{name2}がそういう風に強めに主張するのは珍しいし、余程のことだろうから仕方なく皆にお裾分けしているけれど、どうしてなのだろう。
「密さん、密さん。起きてください。有栖川さんがお迎えにきていますよ」
「迎えに来たよ、密くん。皆が待っているから帰ろう」
 劇団の同室のアリスが{name2}の家の中に入ってきていた。いつも眠ってしまう俺を迎えに来るのはアリスの役目みたいになっているけれども、まだこの砂糖菓子のような空間で微睡んでいたい。そっと片目を開けてアリスの姿を見つけて、再び目を閉じる。
「いないって言って追い返して」
「いないって……私もう目の前にいるのだからそれは通用しないよ」
「お、起きて密さん……。お土産のケーキもありますから」
「レモンケーキ?」
「ええ。今日のは良い出来栄えです」
「おお。{name2}くんの特製のレモンケーキだね。私もこれを頂くの楽しみなのだよ」
 先程まで考えていたレモンケーキの事が話題に上がり、思わず目を開く。何かいい詩興の予感がするといいながらブツブツ何か考えているアリスを放っておいて、ゆっくりと体を起こす。おはようございますと少しほっとしたような笑みを浮かべた{name2}を見やる。またいつでも来てくださいねとラッピングされた箱を差し出される。
「皆さんで食べてくださいね」
「どうしていつもレモンケーキなの?」
 俺の問いかけにキョトンした{name2}が、おずおずと言う。
「お嫌い、でした?」
「ううん。{name2}のお菓子はいつも美味しいから好き」
「そ、それはありがとうございます!」
「俺一人で全部食べたいぐらい」
「そ、それはダメ。だ、ダメです」
「なんで?」
「珍しいね。物腰の柔らかい{name2}君がそこまで言うのは?」
 疑問に思っていたのは俺だけではなかったらしい。新しい詩を考えていたアリスもはたりと意識をこちらに向けて怪訝そうな顔をしている。
「ウィークエンドシトロンはこのケーキの名前通り週末に大切な人達と一緒に過ごしながら食べるケーキです。だから大事な人達との時間をこのケーキを食べながら大切にしてほしいんです」
「そういう事だったんだね」
「そうなんだ。俺、知らなかった」
「なので密さんにとって大切な劇団の方々と楽しく食べてくださると嬉しいです」
 一人で食べちゃダメですよ渡されたレモンケーキの入った箱。アリスの方を見れば、穏やかに笑っていて、見透かされているみたいで何だか腹が立つ。
「食べるよ、{name2}」
「ええ、皆さんで食べてくださいね」
「{name2}と俺とで」
「え?」
「密君。私の分もちゃんと用意してくれたまえよ」
「……仕方ないからアリスの分も」
「仕方ないとはなんだね!?」
 {name2}の手を引いて椅子に座らせると、台所から包丁とお皿を三枚持ってきて、箱の中のケーキを切り分ける。慌てる{name2}をアリスが宥めながら、紅茶を用意する。
「ひ、密さん」
「俺は{name2}の事も大切に思っているから、今日は{name2}と一緒にケーキを食べたい。そう思うのはダメなの?」
「……ダメ、じゃないです。ありがとうございます」
 泣きそうな顔をする{name2}の頭を優しく撫でる。いつもありがとうと言葉を掛ければ、ついに泣き始めてしまい、泣き止むまでの間は暫くケーキと紅茶はお預けになってしまった。

23.07.23 『Sweets are forever.』 初出

No.34

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短編

御影密とジュンブラ

 紫陽花が色鮮やかに咲き始める六月。水色や紫、桃色。花弁の彩りの美しさがこの時期の憂鬱な雰囲気を少しだけ穏やかにする。梅雨の走りの天気の中、久方ぶりに穏やかに晴れたの中。肌を撫でるひんやりとした風が心地良く、うたた寝が心地良い季節だ。
「あれ? 御影さん、寝てる……?」
 散歩がてら買い物に出掛けた{name1}{name2}が土手縁をゆったりと歩いていると、見知った人物を見つける。
斜面に生える青青とした土手の草花に埋もれるように倒れている。否、眠っている。
 ――御影密。この天鵞絨町の劇団・MANKAIカンパニーの劇団員。白銀の髪。アシンメトリーの前髪は右目を覆い隠し、ミステリアスな雰囲気を醸し出す。細く透き通るような顔と肌。メジロ美しい色を彷彿とさせる瞳。どこか浮き世離れした彼方のような人。
 {name2}が密と初めてあった日も道端に倒れていて大層驚いたのだが、どこでも寝てしまうという風変わりな人物であっただけで、その時介抱してからというもの、所々で眠っている彼を見つけては介抱しているので奇妙な関係性になっていた。今日も気持ちよさそうに昼寝しているだけのようだが、初めて見たときは具合が悪く行き倒れているのかと大層肝を冷やしたものである。
 転がり落ちないようにと慎重に斜面を降りて行くと、中腹辺りで猫のように丸まって眠っている密に近づいていく。目の前まで近付くと、履いていたロングスカートの裾を丁寧に折り畳んで足に巻き付けると彼の顔を覗き込むようにしゃがむ。
「御影、さん?」
 すぅすぅと穏やかな寝息を立てて眠る密。閉ざされた瞳に寄り添う長い睫毛、透明感のある色白い肌。その美しい見目に、思わず溜め息を吐き出してしまう容姿。その美しさに少し気後れしてしまう。
「……眠り姫、みたい」
 彼はどんな夢を見ているのだろうか。楽しい夢だろうか、それとも。穏やかな寝息を立てているのだからきっと優しい夢を見ているのだろうけれども。夢の中とて幸せであるといい。
 そっとその場に座り込むと、自分のトートバックから紺色のカーディガンを取り出す。六月とはいえ、梅雨寒の日もある。体が資本の役者が風邪を引いては一大事だ。
 眠る密の身体にそっと掛けてやると、すっと手が伸びてきて{name2}の手首をつかむ。
「俺に何か用?」
「! おお起きてたんですか!?」
「{name2}の気配、覚えた」
「け、はい?」
「うん、覚えた」
「?? そう、なんですか?(よくわからないけど、少し得意げな感じがかわいい)」
 密はたまに不思議な物言いをする。その物言いに{name2}は首を捻ってしまうのだが、当の密に至っては説明する気もないため結局{name2}は置いてけぼりを食らう。そういった彼独特な感性は彼らしいと思わなくもないし、きっと彼の性質のようなものであるから気になりはするが結局のところそれはそういうことであると納得するほかない。また、そう言ったところはミステリアスで魅力なのかもしれない。
 まだまだ寝たりないというようで、ゆっくりと身体を起こすも大きな欠伸をする。眠たげに目をこすり、ゆらりと瞳を転がす。眠たげに目を細める仕草はまるで子どものようで可愛いらしくみえてしまい、ほくそ笑む。
「おはよ、{name2}」
「はい。おはようございます、御影さん」
「今日はおやすみ?」
「はい。今日はお仕事お休みなんです。密さんもお休みですか?」
「うん。今度劇団でブライダルフェアのお仕事する事になってちょっと考えていたんだけど……」
 こてり、と密は首を捻る。
 {name2}はその様子から察して小さく苦笑する。
「寝てしまったんですね」
「うん。気持ちよかった」
 目を細めて穏やかな笑みを浮かべる密に、{name2}はどきりとする。密のような見目麗しい人物の笑みというものは思わず息を飲んでしまう。とくり、とくり、と胸の辺りが忙しなくなる。きゅっと心臓を鷲掴みにされたような感覚。こそばゆいような、えも言われぬ感覚。そこには歓喜のような感覚も入り混ざっていて、口元が自然と緩んでいくのがわかる。
「{name2}?」
「あ、いえ。それより、今度また何かイベントがあるんですか?」
 怪訝そうに顔を覗き込んできた密に、びくりとする。彼は無意識に行動するが、顔がいいのであまり不用意に近づかれてしまうとドキドキしてしまう。
{name2}が居住まいを正しながら距離を保つと、密はきょとりとした表情を浮かべ瞬いた。暫し、{name2}のことを怪訝そうに見つめていたが、何を言うでもなく{name2}から借りたカーディガンを畳み始める。その手つきは意外や手慣れている。
「今度……ブライダル、フェア? とかいうので、コラボするんだって」
「ブライダルフェア!! 素敵ですね!」
 {name2}は思わず身を乗り出すように声を上げる。所謂、ロマンチシズム的なものが好みであり、こういったブライダルフェアのようなものも当然{name2}の興味関心を引く。乙女心を擽るには十分であった。
 明るさの灯る声色を聴き、密は動かしていた手を止めて{name2}へと視線を向ける。そして、あっと気が付いた顔。{name2}が少女趣味思考であるのを思い出したのだろう。彼女が前のめりになった瞬間、驚いた表情を浮かべたが、すぐに合点が行ったというように目をそっと細めた。
「それで、ちょっとしたお芝居もするからエチュードがてら考えてみようって話になって考えてた」
「何かいいアイディア出ました?」
「まだ。{name2}なら、どんなプロポーズされたら嬉しい?」
「え!? わ、私ですか!?」
 ありがとうと畳んだカーディガンを渡してくる密に、驚いて落としそうになる。まさか密からそう言った相談を持ちかけられるとは思いも寄らなかった。慌てて掴んだカーディガンを丁寧に持ち直してバックの中に入れながら考え始める。演劇については門外漢であるし、果たして{name2}自身の理想が彼の芸の肥やしとなるかは甚だ疑問ではあるが、言われたからには考えるのが筋だ。うーんと唸りながら考えてみるのだが、自分が理想とするプロポーズを答えて参考になるのだろうか。答えたところでその独り善がりな思いを演技に乗せてしまってもいいのだろうか。
 途方もない気持ちになって静かに密へと視線を向ければ、ふああっとマイペースに欠伸を漏らし、くしゃくしゃと髪を掻いてうつらうつらと船を漕ぎ始めている。これではまたしても眠ってしまうと、慌てて考え始める。尤も、これは{name2}が考えることではなく、密が考えるべきことなのだが、お人好しの{name2}は生真面目に言葉を探している。
「え、ええ……えっと、うーん、好きな人からのプロポーズなら何でも嬉しいですけど」
「それじゃあ困る」
「う、うーん。そう、ですね。月並みですけど、ずっと側にいて欲しいとか、大切にするとか、言われたいですね。エンゲージリングはめてもらって……えっと、その、恥ずかしいですね……」
「ふぅん」
「……参考になるかわからないですけど、やっぱり好意を真摯に伝えてくれるならばどんな形でも私は嬉しい、と思います」
 たどたどしく紡ぎ出した言葉に、密の薄い反応。元より感情の起伏は少ない彼であるから気を揉んだところで仕方がないのだが、あまりにも鈍い反応に{name2}も焦燥感を覚えてしまう。うろうろと視線を彷徨わせていると、暫し思案顔の密がちょっと待っててと言い、すっと立ち上がって歩き始めてしまう。
「え? 御影さん?」
「{name2}はここで待ってて」
 すぐ戻るから。そう言って斜面を足取り軽く歩いていく密。足元に視線を落としながら、先を進んでいく姿をその場から動けずに眺めていると、数十メートル先の土手縁辺りでその場にしゃがみ込んだ。暫く落とし物を探すような仕草で雑草を掻き分けていたが、何を思ったのだろうか、不意にその辺に生えている草を引っこ抜き始める。突拍子もない行動に{name2}は驚くが、彼女を気にも止めずに次々と引き抜いている。一体何をしているのだろうか。{name2}には密の考えが皆目見当もつかない。それどころか、突拍子がなさすぎて、少しだけハラハラしている。決して意味のない行動はしないけれども、そこに至るまでの説明がなされないため、時折、{name2}は不安になってしまう。忙しなく揺れる心を落ち着かせるようにきゅっとスカートの裾を握りしめ、固唾を呑んでいると、雑草を引っこ抜いていた密が直ぐにこちらに向かって歩いてくる。
「{name2}、手出して」
「え? はい……?」
「左手がいい」
「左手、ですか? わかりました」
 再び目の前にしゃがみ込んだ密に乞われ、左手を出すと、薬指に何か円状のものを差し込んだ。よく見ればそれは三つ葉のクローバーを編み込んだ指輪になっていて、薬指の根元まで差し込むと、密はそのまま指先を持ち上げて口づけを落とす。
「っ! み、御影さん!?」
「{name2}のこと、俺が幸せにしたい。いつも俺の隣にいて欲しい。結婚しよう」
「えっ!?」
 どきり。心臓が跳ね上がる。告白。夢にまでみた、プロポーズ。異性からの、熱の籠もったプロポーズ。小さい頃から少女漫画やドラマで見てはいつか自分も大切な人からプロポーズを受けてみたいと心踊らせていた。親友からはロマンチック思考の{name2}らしくて好きだけど、結婚詐欺とかに引っかかったりしないか心配だと真面目な顔で言われてしまったが、憧れはいつも鮮やかで美しく胸の奥で輝いている。
 高まる鼓動と上気していく頬。こんな風に男の人からプロポーズをされるなんて、夢みたいだ。
 真剣な眼差しが胸を焦がすように熱く、優しい。どきどきと胸がいっぱいになって、体中が熱く沸騰していく。
 満足そうに口元を緩めた密が{name2}の薬指を優しくさする。
「クローバーに込められたら意味知ってる?」
「クローバー、ですか?」
「三つ葉には『希望』・『愛情』・『信仰』って意味があるって紬から聞いた」
「へぇ……素敵ですね。そうしたら四つ葉だと最後の一枚はどんな意味があるんですか?」
「最後の一枚は『幸福』。幸福が訪れるんだって」
 そういわれて、指に宿るそのリングを見つめる。青々とした三つ葉のクローバー。もう一つ葉が合ったならばとないものねだりをしてしまうが、四つ葉の葉は珍しいと言うから仕方がない。
「だから{name2}が最後の一枚になって俺のところに来て欲しいな」
 ダメかな。
 小首を傾げた密は少し寂しそうな表情を浮かべる。その様が女の自分よりも様になっていて、思わず心揺さぶられてしまう。思わず息を呑むほどの美しい所作であった。そして、揺れる{name2}の気持ちを知ってか知らずか。密は{name2}の手を包み込むように握る。求愛を受けているという事実が、気恥ずかしくもあり、嬉しくて、忙しなく視線を揺らす。緊張は最高潮。
 まさか密からプロポーズされるなんて思いも寄らなかった。新生冬組の旗揚げ公演で観た役者・御影密。普段の飄々とした雰囲気とは打って変わって、まるで別人のようにリアリティのあるお芝居をする人だなと思った。普段の緩やかな風体からは大凡考えも及ばないその姿に驚いた。そして、御影密という役者は何と人間描写が巧いのだろうと思った。第二回公演の時は旗揚げ公演の時の天界に住む天使の人間離れした役所とは違い、大正時代の財閥の子息といった異なる役柄を演じていた。どちらの役も普段の密からは違った新しい面をみているようで、「ああ、この人は役者さんなんだ」と改めて思ったのである。そういった彼の演じるお芝居を観て、普段の彼と過ごしていく内に、もっと色々な面を観てみたいと思うようになった。御影密という一人の人間にもっと触れてみたいと思ってしまった。この熱を帯びた美しい黄緑の瞳を、私は、
「御影さん。私……」
「プロポーズする人ってこんな気持ちなのかな?」
「え?」
「プロポーズって難しい……今度のブライダルフェアもこんな風になるのかな」
「え!? あ! ……え、エチュード……」
 ハッと我に返ると羞恥心で更に顔が熱くなるのを感じた。
 ――なんて、馬鹿なんだろう。
 冷や水を浴びせられたような感覚であった。男性からの告白に勝手に舞い上がって馬鹿だ。ブライダルフェアをテーマにした演技ネタについての話をしていたのだから、今のプロポーズは演技に決まっている。それを本当にプロポーズされたような錯覚に陥って、一人舞い上がってしまった。密にとってこれは演技の練習であったのに、それを本気に取ってしまって全く馬鹿だ。穴があったら入りたい。都合の良い夢を見ていたのだ。
「{name2}?」
「え、あ、本当にプロポーズをされたみたいでドキドキしてしまいました。えへへ。素敵なお芝居でしたよ」
「俺はよくわからないけれど、女の人はこういうプロポーズされたら嬉しくなるの?」
「あ、はい。すごく、嬉しいです」
「……」
「御影さんのプロポーズされたら、どんな女の人も頷く、と思います」
 密の顔を見るのが怖くなって、視線をうろうろ宙に漂わせてから下降していく。気持ちが萎びていくのと同じように。努めて笑顔でいなければならないと頭の中では思っていても表情はぎこちなく固まっていく。密が訝しがる前にいつも通りに振る舞わなくては、いつも通りに笑顔に、
 ――もし、御影さんが私ではない誰かにプロポーズしたら嫌だなァ。
 そう思ってしまったら、もうダメだった。今日はうまく笑えない。
 そもそも、彼は好きな女性はいるのだろうか。密の身近な女性といえばMANKAIカンパニーの監督。彼女・立花いづみは密の劇団関係者であるし、互いに近しい距離の間柄だ。{name2}も密を通していづみに会ったことがあるが、心根の美しい人だった。彼女の持ち前の明るさや実直さは惹かれるものがある。それ故に団員達からは多大なる信頼を寄せられており、密もその一人だろう。もしも、密がいづみへと想いを寄せているとしたならばとても敵わないと思う。同性である{name2}も惹かれるような魅力を持った彼女に、何の取り留めもない女の勝ち目などないのだから。
 願わくば密の好きな人が彼女でなければいいのにと浅ましくも願わずには居られない。
 ――あれ? どうして、そう思うのだろう……?
「{name2}」
「おーい、密くーん!」
 何か言い掛けた密を、不意に呼ぶ声が響く。はっと引き戻されるような感覚。{name2}も密も聞き馴染みのある芯の通ったテノール。呼ばれた当の本人の顔には少しばかり苦々しげな表情が浮かぶ。密が暮らすMANKAI寮の同室の男の声だ。
「密くん、お昼の時間だよ。昼食の後にはミーティングが……おや?」
「こ、こんにちは有栖川さん」
「うむ。{name2}くんが一緒だったか。よかったよ」
「アリス、うるさい」
「うるさいとはなんだね!? 折角私と紬くんが君を探しに来たのに!」
「密くん! 臣くんがマシュマロデザート作って待ってるよ、帰ろう?」
「帰る」
「ほんと君はブレないね……」
 土手の上から見下ろす二人の男。詩人であり、密の所属するMANKAIカンパニー劇団員の有栖川誉と同じく団員である月岡紬である。二人は密を探しに来たらしく、土手の下にいる{name2}と密を見つけるとほっと安堵したような表情を浮かべて{name2}と密に向かって手を振っている。
 {name2}は内心ほっと胸をなで下ろしていた。これ以上密と二人きりでいるのは、胸が苦しくて居たたまれないから。これ以上二人きりで居たら、声が震えてしまいそうだった。
 密は密で先程までは何かいいたそうに{name2}を見つめていた。じっとりとした視線を{name2}に向けて、一瞬、逡巡を灯したか。判断しかねるその刹那、すでに彼の瞳には他の色が灯っていた。
 料理上手な劇団員が己の好物であるマシュマロを使用したデザートを作って帰りを待っているということを聞くなり、興味はそちらに向けた。すっと音もなく立ち上がると土手を素早く上っていく。これはこれで{name2}の動揺を鎮めるためのきっかけにはなったが、こうもあっさりと離れて行かれると離れがたく感じてしまう。かといって引き留めることは{name2}にはできなかった。追及されず安心してしまった手前、そんな資格などはない。手に灯る温もりが残滓を湛えている。我ながら自分勝手だと小さく苦笑しつつも、後を追うように土手を上る。
 {name2}が土手の上へと上がってくるころには、既に密と誉はMANKAIカンパニーへの帰路へと少し歩き始めていた。ちらりと密が{name2}の方に視線を寄こす。きっと、密は{name2}の動揺に気づいているのだろう。
「{name1}さん」
 {name2}を待っていた紬がそっと手を引いて土手の上に引き上げる。
「月岡さんありがとうございます」
「{name1}さん、その指輪は?」
 紬の視線は{name2}の左手薬指に注がれている。先程密がくれたクローバーで編んだ指輪。一人舞い上がってプロポーズだと思ってしまった。偽りの指輪。密にとってプロポーズではなかったが、それでも捨てようとは思えなかった。彼からもらったものだったから。
「――……御影さんが、先ほどエチュードで作ってくださって」
「エチュード?」
「ブライダルフェアで皆お芝居するからって」
「ああ。密くん練習しておいてねって言ったこと覚えれくれてたんだ」
 我が事のように嬉しそうに笑みを浮かべる紬に、{name2}もつられて笑ってしまう。
「とても。とても素敵なお芝居でびっくりしてしまいました」
「密くんのお芝居は本当にリアリティがあって精細なんだよね」
「お恥ずかしいんですが、私、うっかり……」
「そんなことはないよ。それは密くんの気持ちが沢山込められている証拠だよ」
「え?」
「以前密くんにクローバーの話をしたんだけどね」
「あ、花言葉の?」
「うん、そうそう。密くんから聞いたんですか?」
「はい。月岡さんからお聞きになったとか」
「ふふっ。クローバーをみつけたら大切な人にあげるといいよって言ったんだけど、覚えててくれたんだなぁ」
「……え」
 悪戯が成功したというような笑みを浮かべる紬に、{name2}はドキリとして目を大きく見開いてしまう。
凪いだその深い色の瞳が慈しみを湛えている。
「密くんは、{name1}さんのこと大切に思ってるよ」
「そ、うでしょうか……?」
「寂しいのかな。{name1}さんが忘れてった膝掛けをよく抱え込んで寝てる。{name2}の匂いがして落ち着くって」
「……」
「ふふっ。林檎みたい」
「……っ!」
 自分の事のように嬉しそうに笑う紬を見て、{name2}は思わず赤面する。何だか彼には自分が思っていることは何でもお見通しのような気がしてならない。加えて、邪気もなく厚意を向けられてしまえばただただ、自分の不安や心配がちっぽけなことに見えてしまう。
「……今は、密くんなりに自分の記憶のこととか思うところがあるみたいだけれど……」
「――ええ」
「それでも、」
 ――{name1}さんと一緒にいるときは幸せそうだ。
 だから見守ってあげて欲しい。紬はそう言って、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。それにはもう何も言えなくなってしまう。本当に密にとって自分は大切に思う存在になることができているのだろうか。正直な所、自信はない。けれども、紬が言うならば少しでも密の為になることが出来ているのではないかと思えてきてしまう。
「おーい、紬くん、{name2}くん! 君たちも早く来たまえ! 皆が私達の帰りを待っているよ! 早く帰ろうではないかー!」
 ふとみると、先を歩いていた誉が二人の方を振り返り、声を上げていた。すれ違いざまのランニングをしている男性がちらりと一瞥を寄こし、走り去っていく。彼の声の響きが良いから驚いたのだろう。朗らかにこちらへと手を振る誉の姿を見ていると、何だか色々な不安なことも和らいでいくような、不思議と元気が沸いてい来るような気がする。それは、まるで、大丈夫だというかのような。
「{name2}、行こう」
「御影、さん」
 いつのまにかに{name2}の目の前まで戻って来た密に目を丸くしたが、彼の白い手が{name2}の手をそっと引き結ぶ。壊れ物を扱うかのように、それは、優しく。
「皆、俺達を待っててくれるよ」
 小さい笑み。きゅっと結ばれた指先。しっかりと離さないというような手つき。温かい手の温もり。静かに揺れ始める心。
 密が紬の方を一瞥したの釣られるように{name2}も紬の方を向こうとすれば、振り向く前に密が歩き出し引っ張られていく。握られた左手には先程密がくれたクローバーの指輪が指に彩を与えている。いつか、この指輪が本当の意味でのエンゲージリングになる日がくるのだろうか。その相手がこの、やさしい人だとといい。
 そっと紬の方を窺えば、ぽかんとした表情を浮かべていたが、目があった瞬間、相変わらずの柔和な笑みを浮かべて{name2}たちを見つめていた。

20.10.03 初出 『花になれ』

No.33

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短編

御影密と夢主

 ――随分と太陽を見ていない気がする。

 傘を透かすように空をじっと睨む。空はどんよりとした灰色。雨脚はやや強く、傘を差さなければすぐに間もなく全身濡れ鼠になるほどの強さ。ぱちぱちと傘の上や地面に弾ける度に、反射した雨粒が体に掛かったりかからなかったりする。
 近年多かった雨がほとんど降らない空梅雨も、今年ばかりは本来の梅雨空。梅雨入りしてからこの一ヶ月近く晴れた空を暫く見ていない。
 雨は嫌いだ。髪は湿気を含んで扱いづらいし、洗濯物も乾きが遅い。梅雨寒の気候のせいで体調管理も難しい。しとしととした雨音に耳を傾けて眠るのは嫌いではないが、こうどんよりとした天気が続くと元気もでないし、太陽が少し恋しい。
 くしゅんとクシャミをして鼻を啜ると、雨が当たらない様に傘を持ち直して帰路を慎重に歩き始める。水たまりを避けながらいつもよりもゆっくりと歩いていると、前方の軒先に見知った人物の姿を見つけた。突然の雨であったから降られてしまったのだろうか。普段はふわふわっとしている髪――白に近い薄緑というのだろうか――がしっとりと水気を含み、その人の輪郭にぴったりと張り付いている。たらりと雨粒が頬横切り、喉元を伝っていく。
 ――ほんとうに、美しい人だ。
 普段とはまた違うミステリアスな雰囲気に思わずその場にくぎ付けになっていれば、コチラの視線に気づいたその人が私を認め、怪訝そうにしている。
「{name2} ?」
「ひ、ひそか、さん」
 すっと引き結んだ黄緑色の日本人離れした瞳が、柔らかく笑みを浮かべている。息を飲んでしまうようなその仕草に惚けてしまう。こうして微笑みかけてくれるのは私の事を親しい間柄だと思ってくれているのだろうか。そうだとすれば、彼に少し近づけたような気がして嬉しい。
 弛んだ口角のままに笑みを浮かべて応えれば、そんなところにいないでおいでと密さんは手を差し出してくれる。誘われるように彼に近づいてその手をとれば、ぐいと手を引いて私を引き寄せた密さんが傘の中に入ってくる。
「{name2} 、おしごとだったの?」
 するり、と彼の白い手が私の傘を持つ手に絡まって握る拳を解くと、傘を攫って行く。
「――は、はい。密さんもですか?」
「うん。今日はスーパーの試食コーナーのおしごと」
「そうなんですね。お疲れさまです! 沢山売れました?」
「うん、美味しかったよ」
「えー? 試食品食べちゃったんですか? 食べちゃダメですよ?」
「子どもが一緒に食べようって来たから一緒に食べちゃったけど、美味しいって言ったら皆買ってくれたよ」
「うーん。それだったら、いいの……かなぁ?」
 肩を寄せてそっと傘を傾けてくれる密さんに申し訳ないなと心の中で言い訳をしながら、そうっと身を寄せる。ぱちぱちと弾ける雨音と一緒にさっきまで引き摺っていた憂鬱は弾けて消えてしまったようだ。
 ちらりと盗み見た密さんの横顔は相変わらず陶磁器のように白くてきれいだ。その涼やかな顔にはいつもどぎまぎとさせられてしまう。少し子どもっぽいこの人はマイペースでいつも眠っているような感じがする。けれども、この人は見ていないようでいつも何かを見ている。ほんの僅かな機微でさえもその黄緑色の双眸は捉えている。何考えて居るのか読み取れないその涼し気な容貌で、何か見透かされているような気がしてしまう。
「{name2} 、いい匂いする」
「え!? そうですか? 今日作ったお菓子かな……?」
「ん。甘くて優しい匂い」
 ちらりと盗み見していた視線と密さんの視線がかち合って少し決まりが悪い。そんな私を密さんは気にも留めずに、湿気でいつも以上にうねる私の髪をそっとのけて、
「!」
「……ん、あまい」
 何の前触れもなく、唇をはむと咥えられ、あっさりと離れていく。
密さんはぺろりと唇を舐めて、少し思案顔。どくどくどくと心臓の鼓動がうるさく鳴って思わず両手で口元を隠せば、密さんがこちらに視線を向けて、目が合う。すっと目を細めた彼が、{name2} と撫でるように私を呼んで、口元を覆った指先にもう一度触れるだけのキスをする。
「かえろう、{name2} 」
「っ……」
 何事もなかったかのように傘を畳む密さんを視界の端で捉えることしかできない。項垂れながら両頬を手で抑え、蒸気する体温を静まれと念じていれば、覗きこんできた密さんに再び唇を甘噛みされるのである。


19.07.15 初出 『 きみの触れた火が柔いこと 』 title by:alkalism

No.32

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短編

降谷とプロポーズ

 朝の匂いを察知して自然と目を覚ました瞬間、隣のぬくもりを探すのが最早日課となってしまった。見つからないその面影の行方を期待して探してしまう。もしかしたら。もしかしたら今日こそはあの黄色い幸せを見つけることが出来るのかもしれないと求めてしまう。そうして見つからないその人思って明日こそは、とその空白に呪いを掛けるのだ。
 さらりとシーツを撫でて、いつか横たわっていた日々を思い出して頬をそっと寄せて目を瞑る。
「零くん」
 瞼の裏に棲みついた彼は私に優しく笑いかけてくれる。心を優しく撫でてくれる。
 繊細な麦わら色の髪も、私を見つめるくすんだ水色の瞳も、小麦色の頼もしい腕も、少しだけ荒れた薄い唇も。全て身体が覚えていて、全てが愛おしい。彼を形どる全てを思い出しては求めてしまう。
「君は一人でも生きていけるけれども、これじゃあ私は君がいないときっと生きられないね」
 小さい笑みを零し、するりとシーツを愛撫する。すんと鼻を啜る。いつか鼻を擽った彼の匂いも今ではどこかへと消えて行ってしまった。
 暫くじっとその空白を見つめ、もう一撫ですると、名残惜しい気持ちを抑えてベッドから抜け出した。
 きっと今日もこの国のために戦っているのだろう。あの人はそういう男だ。そして、その大多数を守るためにいつか私は切り捨てられてしまうだろう。それでもあの人を、孤独なあの人を愛することが出来たのならば、その孤独を少しでも癒すことができたのならば、私はそのいつかが来ても構わない。君が生きていてくれさえすれば、それ以上のことは本当はどうだっていい。
 ……本当は。本当は、今日という日を一緒に過ごすことができないのが残念だった。最後の日一緒に過ごし、明日からの新しい日々を一緒に迎えたかった。けれども、あの人が平穏無事ならば、帰って来ない寂しさも飲み込んでしまわなければならない。
「……あれ?」
 リビングの卓上がいつもの様子が違う。近づいてみて見ると、ラップに包まれた朝食とクリアファイルに入れられた書類が置いてある。そのクリアファイルの上には正方形の付箋紙が貼りつけられていて、「{name2}へ。今日中に記入すること!」と一言添えられている。
 そんなことよりも……。
「え!? うそ、帰って来てた!?」
 何時の間にかに帰って来ていたのだろうか。一言声を掛けてくれればいいものなのに。思わずリビングを見回してしまうが、当然彼の姿はない。もう出て行ってしまった後のなのだ。
 わかってはいたものの、思わず肩を落として溜息を吐く。彼の仕事が多忙であることは理解はしているが、やはり一目でもいいから会いたかった。あんなにも焦がれていた彼とすれ違いをしてしまい、失望は大きい。次はいつ会えるのかわからない。明日か明後日か来週かそれまたさらに先か。仕事が立て込めば一週間以上は当たり前だ。
 零くんと、心許ない気持ちで呟くと、不意にピリリリとテーブルの上に置きっぱなしにしていたスマートフォンが鳴る
 はてな。昨夜はコンセントに繋いだはずだったが……?
「もしも……」
「ああ、僕だよ。おはよう{name2}。今日も元気かい? ちゃんと朝食は食べてくれよ」
「零くん!?」
「うん。おはよう、{name2}。今起きたばっかりだったかな。約束。朝食は残さずきっちり食べること!」
「う、うん!」
「食べ終わったら、暫くシンクに着けておくこと」
「うん!」
「そしたら、そこのクリアファイルの書類の記入欄に必要事項をしっかり読んで書くこと」
「うん! ……あれ? 婚姻、届?」
「…………{name2}」
 改まった声色の彼に、そっと背筋が伸びる。珍しく緊張した雰囲気に、ごくりと息を飲む。
「これからもずっと一緒に」
“僕と結婚してください”
 耳たぶを打つ言葉が優しい。今までもらったどんな言葉よりも、何よりも、優しい声色の言葉は、そっと心臓を撫でて震わせる。目の奥がじわりと熱くなって、明日からも一緒に居ていいのかと思うと胸がきゅうと一杯になって、目からぽろぽろぽろぽろと涙が零れてくる。
 ――ああ、大事な書類なのに。
「……私、いいの?」
「いいんだよ。{name2}と一緒に居たいんだよ」
「零くん……」
「一人で泣くなよ、今は傍にいてあげられないんだから」
「うっ……零くん……」
「泣かないで、{name2}」
「書類……涙で……濡らし……ちゃった」
 一瞬の沈黙。だが、すぐに笑い声が破裂する。
「っははは!」
「零、くん?」
「やっぱり、{name2}だなァ……」
「え? え? なに? 怒ってないの?」
「予備もらっておいたから大丈夫だよ。テーブルの隅に封筒置いてない?」
「あ!」
「ふふっ、もう泣き止んだね」
「え、あ……!」
 ハッとして、頬を抑えれば、電話の向こう側からクスクスと楽しそうな声。
 ――やっぱり、零君がいないと私は駄目だなあ。
「そろそろ電話切らなくちゃいけないんだけど、最後にもう一つ約束していい?」
「うん? なあに?」
「明日一緒に書類出しに行こうね」
 ――また明日。
 そう言って、電話はあっさりと切れてしまった。
 いつか、零君の理想の為に、切り捨てられてしまうのだろうと思っていた。彼が守りたいと思うものの為に、私は最小限のリスクの一部として、離れていかなければならない日が来るのだろう。そう思っていた。
 しかし、零君は違ったのだ。私を抱え込んだまま、理想を遂げようと覚悟を決めたのだ。きっと足手まといにしかならない私と一緒に居たいと願ってくれた。それはこの上ない幸せなことだ。明日だけじゃなくて明後日明々後日と続く未来への約束だ。それを零君がくれるのだ。ならば私も零君に全てを捧げる覚悟をしよう。
「零くん……ありがとう」
 一度スマートフォンをぎゅっと胸に抱きしめると、そっとテーブルの上に置いた。そして、封筒に入った予備の婚姻届けを取り出してみる。そこには既に零くんの繊細な筆跡で名前が書かれていた。

 ”降谷 零”
 
 その何よりも美しいと思う名前をそっとなぞり笑みを零すと、その横の欄にゆっくり自分の名前を書いた。その美しい文字とは対称的に丸みを帯びた垢抜けない自分の字を見て、そのアンバランスさに小さく笑ってしまった。零君から名前を貰い、いつか、私の名前も美しい名前になれるだろうか。
 書き終わった婚姻届けを感慨深く眺めながら、スマートフォンを再び起動する。写真を撮ってメールに添付して送れば、彼の作ってくれた朝食を食べ始める。
 明日からの新しい日々に期待を寄せながら。

19.04.30 初出 『式日』 

No.31

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短編

安室透とポアロの常連のOL

 学生の頃とは打って変わり、社会人となって日々は目まぐるしく流れていく。仕事をして、家に帰って、次の日の業務の確認をして、眠って、また起きて。時々、学生時代の友人と会ったりして。
 それがずっと続くと思うと、少しだけ、寂しい気もする。

 その分、好きな事を増やそうと思った。好きなものが増えることは、幸せになれる時間が増えるということだと思う。
好きな歌手の音楽を聴くこと、好きな食べ物を食べること、好きなデザインの洋服を身に纏うこと。それらは、絶え間ない日々にそっと寄り沿うようにして私を幸福感で満たしていく。

「いらっしゃいませ……! {name2}さん、こんにちは!」
「こんにちは、安室さん! 今日は席空いてますか?」

 仕事の合間にふらっと立ち寄った喫茶店も、最近増えた好きなものの一つ。
 喫茶ポアロ。個人経営の喫茶店だ。このポアロは雑居ビルの1階層に店を構えており、2階層にはあの有名な毛利小五郎の探偵事務所がある。そのため、毛利小五郎本人やそのご家族の方たちと鉢合わせることもあり、ちょっとした有名人にも会えるという不思議な喫茶店でもある。そんなところも少しおもしろいところだと思う。

 ポアロの店内は――……お世辞にも、そう広くはないが、開放的な作りにはなっている。店の目鼻先は通りに面しており、往来がある。通りの面はガラス張りになっているため、外からポアロの様子を窺うことが出来る。
 店内にはカウンター席とテーブル席の二通りの席があり、店の混雑の具合によりけりではあるが、作業しにポアロへ訪れることもあるため、テーブル席に通してもらうことが多い。

 以前の客の年齢層は中高年の男性が多かったようだが、噂の名物店員”安室 透”さんが従業員として働くようになってからは日に日に女性客が増えているらしい。彼目当て訪れる女子高生は専ら安室さんとの距離が近いカウンター席が人気なので、作業したいときには店員から少し遠いテーブル席が空くので少しありがたい。少し騒がしいけれども、嫌な騒がしさではないので気に入ってはいる。

「あれ? 今日は随分と穏やかですね」
「穏やか?」
「安室さんいらっしゃる時は女子高生いっぱいなイメージがあったので」
「ははっ。彼女たちだって、いつもここにいるわけではないですよ」

 店内にはカウンター席に常連のおじさんが2人。テーブル席には飛び石に2人。それぞれが、思い思いに昼下がりの緩やかな時間を過ごしているようだ。普段、安室さん目当てで来る女子高生たちは珍しく一人として見当たらない。
 はて、と首を捻れば、近くに座っていたおじさんが、高校生たちはテスト期間であるらしいということを教えてくれた。図書館の近所に住むその常連さんが朝方散歩している時に早くから図書館の開館時間待ちをしている学生の行列を見たという。
 今は図書館が駆け込み寺らしい。道理で休日であるが学生の姿が見当たらないわけだ。

「学生さんが元気で賑やかなのも楽しいけれども、たまには以前みたいな長閑なポアロもいいよね」
「そうだなぁ。学生の若い子見てると元気出るけれども、俺たちおじさんだからちょっと疲れちゃうね」
「違いない!」
「はは……確かに、高校生の子たち元気いっぱいですものね」

 苦笑いしながら、共感の意を示してみれば、くるりと視線が私の方に向く。
 なんだ、なんだ。

「{name2}ちゃん……いい保養だな」
「10代を経た20代の少し落ち着いた若い子……いいね。オアシスだ」
「すみません、店内でナンパは……ちょっと」
「ええ! 安室くん! 僕たちからまだ女の子を取り上げるのかい! ずるいよ~イケメンだからって!」
「そ、そういうわけではないんですが!……ゴホン! {name2}さん、今日は奥のテーブル席でよろしいですか!」
「安室君のいけずー!」

 背中を押されるように奥のテーブル席に案内されて席に座れば、常連さん達はにやにやと安室さんを見て楽しそうに笑っている。
 私がこの店に通うようになってからあまり見かけない光景だ。
 普段は女学生が多い時間帯に来てしまう事が多く、こういった常連さんたちの憩う時間帯に身を置く機会がなかった。皆さんとは何となく顔を合わせて、顔馴染みに挨拶する程度ではあったが、こうやって気さくに交友する機会は珍しかった。安室さんは気を使って茶化すいい大人たちから庇ってくれたが、少しだけ、そういった細やかな交流が楽しかったりする。

 ポアロを見つける前は、誰もが知っている有名カフェチェーン店をその時の気分で利用していたが、こういった細やかな人の交友とは無縁の場所であった。店内は沢山の人で賑わい、どこもかしも席を見つけるのが難しく、やっとの思いで席を見つけた席もどこか少し落ち着かないことがあった。お店のコーヒーやお茶菓子は力を入れているなりにおいしいし、安定した商品供給がされていて、店舗数もそれなりにあるので気軽に立ち寄りやすい。チェーン店にもいいところがある。それがお気に入りだったし、好きだった。

 けれど、ふとした瞬間に、居心地が悪く感じてしまう。
 お気に入りのカフェラテは温かいけれども、ふと我に返った時、周囲を見回してみるとパソコンと睨めっこをするサラリーマンや仕事の打ち合わせをする人々。少しくたびれた顔。知らない談笑。
無人島に1人流れ着いたような、宇宙空間に放り出されたような、哀愁漂う冬の黄昏時のような。
心許ない寂寥感。騒然とした中に深々と息を顰める荒涼感。
 それがどこか寂しくて、温かいはずなのに寒い感じがした。

 ポアロを見つけた時は嬉しかった。また新しく好きなものが増えると思った。梓さんや安室さんが愛想よく気さくに迎えてくれて、案の定、すぐにお気に入りの場所になった。ごはんやデザート、コーヒーは何を頼んでも美味しくて幸せな気持ちなるし、少しばかり騒がしい常連さんたちも、それも何だか温かくて心地よかった。
 鶴山のおばあちゃんは仕事の作業をしていれば、えらいねと一粒の飴玉をくれるし、久々に会って隣になった常連のおじさんは久しぶり元気だったと声を掛けてくれる。そんな些細なことが嬉しくて、楽しくて、ここでの交流も好きなものの一つになっていた。
 やはり好きなものに囲まれて過ごす時間は幸せだ。

「ふふっ」
「なにかいいことありました?」
「!  安室さん!」
「コーヒーとハムサンド、お待たせしました」

 仕事の資料を広げて作業しつつ思い出し笑いをしていれば、安室さんが頼んでいたコーヒーとハムサンドを運んできた。見られた。
 恥ずかしくなって、両頬に手を添えれば、にこにこと笑みを浮かべた彼が、お疲れ様ですと労いの言葉を掛けてくる。
コーヒーカップに寄り添うようにソーサーの上にちょこんと乗った小さな包み紙を見つけて、あっと思う。その中には少量の金平糖が入っていて、それもポアロで好きになったものの一つだ。コーヒーに添えられたそれは密かな楽しみであった。
 少しテーブルの上を整えて、スペースを作ると早速運んできてくれたハムサンドとコーヒーをいただく。
 シャキシャキのレタスとハムにマヨネーズと味噌が混ざったソースが程よく絡まっておいしい。食べものの魔法。おいしいものは自然と口元が綻んでいく。
 おいしいコーヒーと居心地のよいゆったりとした空間。このポアロには幸せが沢山つまっている。

「相変わらず愛されてるね、{name2}ちゃん」
「え?」

 よく隣の席になる物静かなおじさんが、新聞から視線を私に向ける。
 何が気づいていなかったのだろうと、思案していれば、彼は意外そうな表情をしていた。

「気づいてなかった? そのソーサーに乗ってる金平糖。普通はついてないんだよ。安室君が君にコーヒーを出すときだけはいつも乗っているんだ」
「――え?」

 思わず常連のおじさんを接客している安室さんの方を見れば、バチっと目があって、ウィンクを一つ。どきり、と心臓が揺れた。とくとくと、さざめき始める胸にそっと手を当てて、冷静に努めようとする。
 これは、どういう事なのだろう。少なくとも彼は私に対して好感を持ってくれていると捉えていいのだろうか。都合のいいことばかり考えて勘違いしてしまいそうだ。

 彼は店のドアが開く音に反応して、すぐに新たなる客を迎えに行く。他の学校よりも一足先にテストが終わっていた学校の生徒だろうか。賑やかになり始める店内に、一部始終を見ていたおじさん達からの生温い視線。どきどきといまだ熱を持つ心臓。
 視線が彼を負い始めようとするのを抑えて視線を逸らせば、コーヒーカップに寄り添うように置かれた金平糖の入った包み紙が目に入る。先程よりも愛おしく思えてきて、それをいつもよりも丁寧に開ける。中には、淡くも美しい色の金平糖が入っている。きらきらと輝く星のようだ。
 ひとつまみ、その星を口の中に含めば、さりさりと小さく砕けて、口の中が甘い宇宙のようになっていく。残りの金平糖を丁寧に包み紙に包み直して、さらにハンカチで包んで大切にカバンの中にしまうと今度からはコーヒーの中にではなく、瓶の中に入れて取っておこうと思った。星を集めて、その星が瓶の中一杯になったならば、今度は私から彼に好意を返そう。

――また好きなものが増えそうだ。



フォロワーさんのお誕生日に送りました。おめでとう!
18.12.09 初出 『ロマンチック・スター』

No.30

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短編

審神者の独白


季節は生まれ変わり続け、貴方が居なくなった夏の終わりを今年も迎えました。
今年も相変わらず残暑の厳しい日々が続いています。軽い夏バテに苛まれたりして皆に心配をかけてしまいました。少しずつ夏が微睡み始めているというのに情けない話です。

この時期になると昼下がりの午後はとても曖昧で気が遠くなるような途方もない気持ちになります。砂漠の真ん中にポツリと佇むような、人気のない空間の死んだ空気の流れのような。荷物の臭いがする空き家を想像するとわかりやすいかもしれません。生活感があって誰かが住んでいた痕跡が見えるけれども誰もいない。あの死んでいる空間はどうにも恐ろしいものです。

夏は一番快活に見えるのに隅っこは冬の夜よりもどこか冷たいような寂しいような感覚がします。いつの間にかに聞こえなくなっていたことに気づく蝉の声、少しずつ眠る時間が長くなっていく夏。太陽が遠くなっていく。
華やかな夏の中に潜む鬱屈とした退廃が背筋をぞっとさせるのです。とても寒い、寒い。温かいはずなのにどこか寒い。


貴方とたった二人で紡ぎ始めたこの本丸も少しずつ仲間が増え賑やかになりました。それと同時にこの本丸が物静かであった時を思い出せなくなって来ています。
時折あなたと私が初めて鍛刀したあの子とお話しをします。あなたと一緒にいた頃の事を思い返そうと試みていますが少しずつ形を変えていってしまいます。記憶が少しずつ美化されていくのです。あなたと過ごした時間が少しずつ形を変えて綺麗な思い出として変わっていくのです。最初は意思疏通が上手く行っていなかったことも、わかり合えず言い合いをしたことも、忘れかけてあの子に言われて久々に思い出しました。それはきっと些末なことではあるけれども、私は愕然としてしまいました。記憶が形を変えてあなたの輪郭を曖昧にさせていくのです。あなたがいなくなったとき、一つたりとも忘れまいと決心していたのに私はすっかりと記憶を違えてしまったのです。最初から仲良くあなたと過ごしていたと思い込んでしまっていたのです。それはあなたをどんどん忘れていくようで恐ろしいです。


そんな私を励ましてくれるのは獅子王でした。覚えていますか、彼のこと。私達の本丸に初めて来てくれた太刀の獅子王です。今でもダメな私を励ましてくれます。本当にいい子です。私を気遣ってあなたが居た頃の話をよくしてくれます。先に獅子王と出会っていたら獅子王に恋していたかもしれませんね。たらればです。
新しく来た方達もとても頼もしい仲間です。
へし切長谷部は怖いぐらいに忠実ですが、審神者の私を先回りして手助けしてくれます。燭台切光忠は私が料理が得意でないことを察して上手く補助してくれます。今では食べ物を焦がすことも少なくなりました。
そういえば、あなたにはよく焦がして呆れられたものでしたね。自慢ではありませんが随分と上達しました。今では料理本を見ずとも簡単なものならば直ぐに作れます。皆おかわりしてくれます。昔では考えられないですね。
今、とても賑やかで毎日が心地好いです。

それでも、ふとした瞬間、浦島太郎の気持ちになるのです。温かくてぞっとするのです。私が好きな歌手がそんなことを歌っていましたが、こういう感覚なのかもしれません。あなたがいないと自覚した瞬間、どうしても突き放されたように寒くなるのです。
あなたを探してどうしようもなく語りかけたくなります。どうでもいいような事ばかりですが、ただあなたに聞いてほしいのです。恐ろしく穏やかなこの時間をあなたと過ごしたいのです。
私はあなたがいないことが寂しくてたまらないのです。いなくなるのはもう沢山だと鍛刀をすることが怖くなってしまって遠ざかっていました。皆が新しい仲間を連れてくるのをただひたすらに眺めていました。その中にあなたが戻ってきてくれるのではないかと期待してもいました。一方でそれはもうあなたではないのだからどうか来ないでほしいと願っていました。

またあなたを失うのが怖くてあなたを遠ざけようとしました。ごめんなさい。

けれども、もう止めようと思います。
会いたいのなら自分から会いに行くしかないのです。願うだけでは何も叶わない。私があなたへと会いに行くのです。
あの頃から私達と一緒にいたあの子は先日修行から帰ってきてくれました。今度は私の番です。私が一歩踏み出す番。今度は私の番です。あの子が強くなりました。私も今度は強くなって行こうと思います。


この手紙を書き終わったならば釜に入れて燃やしてしまいましょう。
そうすればきっと、あなたにこの想いが届く気がするのです。

「……新しい主?」

たとえ、現れたあなたが違うあなただったとしても。

「はじめまして、――様。この本丸の審神者です。これからもよろしくお願いします」


『夜明け前に』
18.03.19 加筆修正

No.29

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短編

やや病みな鶴丸と女審神者

 一仕事を終え、籠り切りの執務室から出てきたのは八時を過ぎた頃。厠で用を済ませ、そのまま部屋にとんぼ返りする気もせずに縁側で白銀の庭を眺めてみる。灰かぶりの空からにはしんしんと舞い落ちてきている。どうりで寒いはずである。
澄みきった冷たさが身に染みる。
 普段であれば快活に駆け回る短刀達の姿も今日はさすがに見当たらない。身を切る寒さだ、皆部屋でのんびりと過ごしているのだろう。粟田口の短刀達が兄貴分の一期一振と楽しそうに過ごしている姿が目に浮かぶ。
 誰もいない、私だけの庭。その寂しい庭にそっと降りる。さくりと降り積もった雪がささやいた。足元がひんやりとして少し身震いをする。だが、清々しさすら感じる。この寒々しさが喧騒としていた心象を宥めていくような感覚がする。ささくれだった心が少しずつ柔らかくなっていく。肺一杯に凜とした空気を吸い込んで、体の熱を冷ましていく。そうしていくことで全て浄化されていくような気がしてくるのだ。
 ―― 今、庭の椿が美しく咲き始めているぞ
 ふと、忙殺されていく中で近侍からそんな言葉を聞いた事を思い出した。その頃は愛でる暇も惜しかったが、今は愛でるほかない。美しいものは心を潤してくれる。特に歴史修正主義者との戦闘の日々に草臥れてしまった今こそ愛でるべきだ。付喪神と人間の一筋縄ではいかないこの関係も神経をすり減らす。別段不仲ではないが、たまには一人っきりで少し放っておかれたいのだ。桜を大勢で愛でる春も好きではあるが、この深々とした空気の中で一人、花をそっと愛でる時間も自分には必要だった。束の間だけでもそれを味わっていたい。そうすればもう少しだけ喉が通るのだ。
「―― っえ?」
 もう少し近くで眺めていようと椿の咲く植え込みに近づいた瞬間であった。踏み込んだ瞬間ぐっと重心が地面に引っ張られ、足が引っ張られる。
浮遊感。
 あっと思った、落とし穴。身が空を切り、沈んでいく。雪に埋もれて全く気づきもしなかった。足元から崩落していく。慌てて受け身の体勢を取って落下の衝撃に備えれば、直後にびりびりと痺れるような一撃が全身を揺らした。怪我こそなさそうではあるが、地面に叩きつけられた痛みに顔を歪めてしまう。冷たい背中をさすりながら身体を起こしてから顔をあげると空は随分と遠くなった。随分と深い穴のようだ。ご丁寧に穴は垂直に掘られていて、容易によじ登るのは困難だ。誰かの手を借りぬ限りとても自力では這い上がることはできないだろう。
加えてこの悪天候。皆部屋の中でのんびりと過ごしている事だろうから助けを望むにも望みが薄い。確かに気分転換に一人になりたかったが、これほどとは言ってはいない。これでは最悪凍死してしまいそうだ。
「主」
「鶴丸?」
「主、みーつけた」
 ひょっこりと穴を覗き込んできたのは今日の近侍である鶴丸国永だ。私の姿を認めるなり、嬉しそうに目元をくしゃりとさせて笑った。何が嬉しいのだか。相変わらずの死人のような白装束に寒々しさ。余計に寒さを感じて見ているこちらが眉を顰めてしまう。もう少し暖かそうな格好をしろ、風邪を引きそうだ。
 それにしてもこんなに早くに見つけてくるとは思わなかった。……ではない、明らかにこいつが黒だ。否、白だけれども。白だけれども黒だ。この馬鹿みたいな深い穴を掘ったのはこの鶴丸国永という男だ。そうに決まっている。こうも早く見つけられるはずもないし、この雪が降って寒い中にわざわざ外へ出てくる者などいない。きっとこいつが意図的に私を落とすために画策したのだ。椿が咲いたと知らせてくれたのはこの男であった。用意周到だ。これもいつもの驚きとやらを追求した結果なのだろうか。その結果は後で減給、だ。手向かいすれば容赦はせん。
 散々文句も言いたいが、誰にも見つからないのではと危惧はしていたところではあった。落とし穴に落とされたのは腹立たしいが、こうして様子を見に来てくれたことで落とし穴の中で凍死するなどという間抜けな結末を迎えず済んだことには胸を撫でおろしている。発育が劣悪だから胸などないなどといった茶化しも今なら許してやる。
 何にせよ、気分転換もそこそこに出来たことだ。身体も冷えてきたことだし鶴丸国永に手を貸して引き上げてもらって、さっさとお汁粉でも作って暖をとろう。それがいい、今日はゆっくりと眠るのだ。ただ今は眠りたい。
「……鶴丸、もう気が済んだか?そろそろ部屋に帰りたいから手を貸してくれ」
 穴の上の鶴丸に呼びかけるが、彼はじっとこちらを見下ろしたまま動かない。薄く笑みを浮かべているその様子に不穏な空気を感じる。まだ何かあるというのだろうか。
 目を細めた彼は落とし穴から離れたかと思うと、あろうことか雪掻き用のスコップで雪を私の落ちた穴に落とし始めたのだ。一体何を考えているのだ。
 冷たい!
 落ちてくる雪の塊に焦って止めるように声を掛けるが雪はどんどん落とし穴の中に降り積もっていく。生き埋めにするつもりか。
 アイツ今日の夕食抜き、減給。
「ばっ!鶴丸国永!お前どういうつもりだ!?」
「主。我慢してくれな、俺も直ぐにそちらに行くから」
「は?お前なに言って、」
 あろうことか!
 鶴丸はひょいと穴の中目掛けて飛び込んできて、私を下敷きにする。
 狭い穴の中で避けきれるはずもなく、突然の衝撃に思わず倒れ込み、反撃の平手打ちを食らわす。
「っ~!バカ者っ!飛び込んでくるやつがあるか!」
「はははっ!君なら受け止めてくれると思っていたぜ」
 怒鳴り付けても悪びれる様子もなく笑って私の上に馬乗りになる鶴丸。じわんじわんと鈍痛が沁みる。にんまりと蕩けるような笑みを浮かべるその瞳に、思わず口を噤む。その瞳はいつもよりも暗い。冬の海の曇り空を彷彿させる。寒くて暗い色。様子がおかしい。
「鶴丸国永」
「君が俺を置いて死ぬ夢をみるんだ」
「は?」
「最近、手薄になった本丸が襲撃されて審神者が殺されているって聞いている」
「――そう」
頬に触れられると弧を描くように愛撫し始める。次第にその手は輪郭をなぞり、目の周りをなぞり、鼻筋をなぞり、唇をなぞり、喉仏をなぞる。喉仏を何度もなぞると白い両手が首を包み込む。氷のような手。それは私という存在を確かめているようだった。存在を確認して目を細める。
「君が俺の知らないところで死ぬくらいなら、ここで君を殺してこの中に一緒に閉じ込めれてしまおうか」
「ふざけているのか」
「ふざけていないさ。俺をその懐に抱き込んでくれよ」
人差し指で左胸を指す。つんつんとつつく彼の行動が鬱陶しい。
億劫なことだ。最近横行する本丸奇襲の事件を受けて感傷的になっているのだろう。その不安を私にぶつけているのだ。
頬を撫でつける動作も生け垣から毟ってきた椿の花を私の髪に挿して満足げにうっそりと笑うのも、私に触れて生きているのに触れて安心しようとしている。
私はここにいるというのに。
個体差はあるようだが、この本丸に顕現させたこの男はどこか情緒不安定だ。知人の審神者に仕える鶴丸は裏表なく明朗快活であった。
この鶴丸も普段は飄々としてあけすけな性格をしているが、どこか不安定だ。
神様も存外情に左右されるらしい。
本人自身もその感情に戸惑っているようだ。
「鶴丸」
やれやれ。両手を広げて構えてみれば、すぐさま私の冷たい背中に腕を回される。胸に耳を当てて、良い音だと笑みを浮かべている。ゆるく胸を撫でるこの男にそういった意図がないのは承知であるが、苛立ちがくすぶる。この男には戦ってもらわなければならぬ。私がどうあがいても戦えない相手と戦うことができるこの男がここで折れてしまうのは憎々しい。
「君は死なないでくれよ」
「無茶いわんでくれよ」
体が軋む。
「置いてかないで」
「そういわれてもなぁ」
「そうなるぐらいなら君の懐で眠るんだ。しっかりと抱き込んでくれ」
「信濃の専売特許だね、それ」
「主、」
酷く、真剣な瞳をする。
「俺は、主と静かに眠りたかったんだ」
「――――ばかもの」
優しく後頭部に手を回して撫でてやると更にグリグリと頭を押し付けてくる。今日の鶴は甘えただ。すんすんと鼻を鳴らして私のにおいを嗅いでいる。胸に耳をくっつけて、生きていると呟いてから少しだけ顔が穏やかになった。世話のかかる神様だ。冷え切った体を抱え込んで、さらに遠くなった空をぼんやりと見つめる。
はらはらと舞い落ちてくる雪が私と鶴丸を白く包み込んでいく。
「{name2} 」
「?」
「俺を置いて死なないで」
「ばかめ、私がお前を置いていくのではないよ」
「え?――」
「お前が折れたとき、私は死ぬのだ」
精々最期まで折れてくれるなよ、私のかみさま。

『オブシディアンの輝き』 title by: 天文学 様
17.10.04 初出
17.11.21 加筆修正

No.28

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短編

獅子王と女審神者

 本丸に神降ろしがなされて暫く。放任主義な主に少しばかり面を食らったが、日々不自由なく過ごしている。歴史修正主義者討伐のための出陣や資源確保の遠征、他所の本丸との演習などの使命は勿論果たしている。碌に休みもない劣悪な環境の本丸があるが、この本丸は任務に支障がないならば自由――謀反を働くようなこと以外は――にしてよいという。
 怪我をすれば丁寧に手入れをしてくれるし、無茶な進軍はさせない。そういった点を見れば、この本丸は良心的なのだろう。ただ、任務以外に審神者との関わり合いがないから、牛や馬のように放し飼いにされている気分だ。

「主、何処かに行くのか?」
「万屋に行ってくるよ、何か買って来て欲しいものあるかな?」
「俺もついてく!」
「? 今日は非番なんだから、無理に着いてくる必要はないよ?」
「いいんだよ、俺が主と行きたいの!」
「そう?」

 自分よりも小さな身体に腕を巻き付ければ、刹那、彼女は身を堅くする。
一緒に過ごすようになってから、こういった行動で示す愛情表現を受けることに戸惑う事に気がついた。嫌がっている訳ではないから、いつもそれに気づきながらも知らぬ振りをする。
 ぐりぐりと頬擦りをすると彼女は困ったように苦笑し、恐る恐る撫でてくれる。ささくれてごわついているが、優しい手つきだ。不器用にも慈しみを持って撫でてくれる。愛情のつまったこの手が好きで俺はいつもこうやって彼女の擦り寄っていた。不器用なりに俺達刀剣男士達の事を良く気にかけてくれていたし、俺達を丁寧に扱ってくれる。そんな彼女の事を少なからずも好いている。主として慕っている。
 言葉にはしないが、俺が彼女を慕っている事実を嬉しく思ってくれているらしい。彼女は俺が甘えると満更小さく口角を上げる。そういうところが、少し不器用で可愛い。
そういうとむず痒かって隠してしまうから言わないけれども。

「獅子王、獅子王」
「なんだぁ?」
「お前は私には勿体ないくらい甘やかしてくれるね」
「そうかなぁ?」
「いつも私の事大切にしてくれてありがとう」


 お前の心、嬉しいよ。

 主は屈託なく笑った。俺に笑いかけてくれるだけで嬉しかった。
 縁ある幕末の刀剣男士、特に新選組隊士縁の刀剣男士とは仲が良さそうで羨ましかった。主は不器控えめな性格だから俺たちが近付かなければ必要以上に踏み込まないように配慮している。それが余計に寂しい。きっと他の刀剣男士も同じだと思う。
だから何気ない買い出しだって、少しでも寄り添う時間ができることが嬉しい。
俺達は、刀は、こうやって人間に寄り添えるのが一番嬉しいのだ。

「{name2}」
「何だい?」
「これからも俺の事、大事に使ってくれよな」


 そっと額に唇を寄せれば、きょとんとした表情をしたが、小さくはにかんで俺の額にも口付けを落としてくれた。
 今日の夕食は俺の好きな献立を作ってくれるのだろう。彼女は俺の事も大事にしてくれるのだから。


――――――――
『砂糖はビン底にて』 title by :約30の嘘 様
16.05.21 初出

No.27

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短編

鶴丸と女審神者

 遠征帰りの道すがら、小間物屋の紅が目を引いた。本丸で俺たちの帰還を待つ主の事を思い出して、その紅が急に欲しくなった。あの人に似合う美しい真紅だ。
直ぐにそれを手にとって、店主に銭を差し出せば、邪推した店主はにたりと下品な笑みを浮かべて紙袋に包んだ紅を渡してきた。上手くやれよ。下品な妄想をされるのは不愉快であったが、強ち間違いでもないため、苦笑いで返答するしかない。
 改めて手の内にある紅を見て、買ってしまったことを後悔した。勢いで買ってしまったものの、どうすればいいのか途方に暮れてしまう。我に返ってみれば何だかこそばゆい。
良く良く考えれば主は身形に気を使う光忠や加州とは違い無頓着、否、正確には服装に対しての戒めがあるようだった。女物の着物は一切合切着ることはないし、万屋で買う着物は必ず男物。中性的な顔立ちも相俟って、男物の着物を着ていれば一般人には普通の好青年と間違えられる。女でありながらも男であるような振る舞いをするため、演練で会う他の女性審神者を魅了している節もある。本人も満更彼女達に好感を持たれるのは嬉しいようで、紅を渡した所で意味など成さないだろう。

「……似合う、と思うんだけどなぁ」

ちらつく主の姿。
一度だけ次郎太刀と乱藤四郎にせがまれ、根負けした主が初めて俺たち刀剣男士に見せた女性装。控え目で落ち着いた化粧、鮮やかな紅で引かれた口紅、目元を縁取る上品な黒、椿油で艶々とした漆塗りの黒髪。
普段青年として振る舞う主とはまるで別人のように変わり、その姿に本丸内の刀剣男士達は息を飲んだ。――俺もその中の一人。正直、予想以上だった。
普段の風貌や振る舞いから忘れてしまいがちだが、彼女は紛れもなく女だった。

「鶴丸国永?」
「あ、主!?」

物思いに耽っていたせいで肩越しに顔を覗き込まれるまで主が近くに居たことに気づかなかった。思いを馳せていた人物の登場に心臓がびくりと跳ね上がる。

「鶴…?」
「あ、いや。疲れてぼうっとしてたから驚いた。こりゃ一本取られた!」
「そうか…そういえばお前さんは遠征に行ってたのだったね、ご苦労さま」

目を細めて俺の頭を撫でる主が穏やかに笑うのを最近知った。最近まで仮面被っていたのだが、その素顔が明るみになった。本丸中に知れ渡ったことで主は仮面を被るのを止めたのだが、仮面をしていた時は表情が窺えず、よく加州や短刀達が不安がっていた。あまり自己主張しない人であった上に仮面等しているから余計に何を考えているのかわからなかった。だが、こう顔を付き合わして見るようになって俺たち刀剣男士の事をよく見てくれているのがわかった。素っ気ないようでかすり傷でも怪我をすれば直ぐに手入れをしてくれるし、すました顔をして短刀に結構甘い。個性の強い俺たちの我が儘も何だかんだで聞いてくれたりして、俺の驚かせも意外と気に入ってくれているようだ。少し遠く感じていた主が近付いたみたいで嬉しかった。こうやってお疲れさまと労って撫でられるのは心地が良くて好きだ。

「主」
「何だい?」
「……これ、主に似合うと思って」
「……紅?」

案の定、ぽかんと驚いた表情を浮かべた主。驚きを提供できた嬉しさもあるが、少しだけ愛らしいと思ってしまった。
貝殻を開いて紅を薬指で掬い取る。彼女の唇の前に手を翳せば、少し戸惑いながらも瞼を下ろした主。恐る恐ると唇に触れれば、柔らかい感触にどぎまぎした。禁忌に触れたような甘美な感覚に痺れる。唇の上に薬指を滑らせて愛撫するように紅を塗ると、鮮やかに色付いた唇にはっと息を飲んだ。

「きれいだ」

無意識に零れた言葉に長い睫毛を震わせながら瞳を開く主。鮮やかに色付いた唇。はあと一息吐いた半開きの唇が色めかしい。鶴丸と俺の名前を呼ぶ。背筋をぞくぞくとさせて身悶え、背徳感を感じていれば、主は俺の両頬を掴むと、唇をそっと重ね合わせてきた。優しい彼女の匂いがする。柔らかくて目眩がしそうになる。優しく触れるだけの口付けにふわふわと心が弛んで恍惚としてしまう。

「きれいな鶴ね」

名残惜しくもゆっくりと離れた主が俺の手のひらから貝殻をとって薬指で紅を掬いあげる。俺が彼女の唇に紅を塗ったように彼女は俺の唇にもそっと紅を引いていく。手入れをされる時のように大切なものに触れるような繊細な手つきで触れられて心が落ち着かない。俺を見上げる主を見下ろす俺。少し色が落ちた主の唇に目が留まり、先ほどこの唇に口吸いをしたのだと改めて自覚すると身体の内側から一気に熱くなっていく。どくどくと忙しない心臓。この不整脈を静めようとする俺の気持ちを知らずに主は俺を見て、驚いたかと柔らかく微笑んだ。その瞬間、俺はどうしようもなくなってしまって、彼女の事を力一杯抱き締めると、色の落ちた唇を再び色付かせるために口付けを落とした。

15.06.17

No.26

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あさきゆめみし

春は何処か

雲一つない澄んだ秋空。気がつけば夏の焦がれるような暑さはいざ知らず。微笑みかけるような柔らかい日差しが降り注ぐ。手拭いで顔を拭った夏がどこか恋しいような。少し遠くなった太陽に手を翳せども夏ほどの眩しさは無くなってしまった。いつの間にかに青々としていた紅葉は黄色く。そして黄色から赤。燃えるような麗しの赤に染め上がっていた。枝から旅に出た落葉がカサカサと涼風に吹かれて転がっていく。首元の襟巻きの端がひらひらと風にたなびくのを感じていた。
「ふぁあっ……いい天気だなぁ」
 非番。日用品の買い出しを早々に終えて一息。用事は済ませてしまったが、折角の休みにそのまますぐに帰るのも味気ない気がする。そう思って立ち寄ったのが屯所近くの古刹である。重厚な門をくぐり、境内へと足を踏み入れていくと、石畳の参道と本堂がまず視界に入ってくる。開けた境内をぐるりと見回すと、作務衣を来た坊主が竹箒を持っている。掃除をしているようで、石畳に散らばった枯葉色を集めている。しゃっしゃっと箒の乾いた音が小気味よい。参拝者の姿はぱっと見回す限りでは見当たらず、時折修練の為にやってくる隊士達も今日は見当たらない。遊びにやってくる近所の子ども達の姿も見当たらない。珍しく静かな境内だ。これはよい。少しばかり休憩をしていこうと、門の前から奥にある本堂の方へと踏み入れていき、本堂前の幅広い階段に腰を掛ける。会談の隅に腰を掛けると、懐から先程道中で買ってきた饅頭の包みを取り出した。それを見て思わず口角が吊り上がってしまう。
「ふふん。今日はこれが買えて僥倖だった」
「何がぎょーこーなの?」
「それはこの饅頭を買えたことだよ。人気のお店だから中々買えない、ん……?」
 {name2} がハッとして顔を上げると、目の前にはいつの間にかに幼女が立っていた。おかっぱの幼女。修練などでこの寺によく訪れているが、この辺ではあまり見かけたことのない顔の子だ。気がつかなかったとぱちぱちと瞬きをしていると、その幼女は無邪気な笑みを浮かべて{name2} の膝に乗り上げてくる。{name2} とは初対面のはずだが、随分と人懐っこい子どもである。
「そうなの?! いいなぁ、私も食べたいなぁ!」
「……食べる?」
「うん!」
 ポリポリと頬を掻いた{name2} に、屈託のない笑みを浮かべる幼女。{name2} は子どもの扱いなどてんでわからないのだが、まさか無下に出来るはずもなく、分け与えてやることにする。正直なところ、甘味は{name2} の好物であるから、惜しいと言えば惜しいのだが、それではあまりにも大人げない。
「——でも、まずはご挨拶してからにしようか」
「ご挨拶?」
「うん」
 持っててと幼女に饅頭の包みを持たせ、そのまま抱えるあげると本殿前の賽銭箱に二人分の賽銭を入れる。
「仏様にご挨拶?」
「そうだよ、そうしたら食べようね」
「わかった!」
 一生懸命に拝み始める幼女の様子を見て、微笑ましく思った{name2} は思わずつられて笑う。お邪魔しますと{name2} も暫し手を合わせていると、少女は待ちきれなさそうに{name2} の袖を引いている。早く饅頭を食べたいという表情で見つめてくる幼女を見て、世間の妹や弟はこうやって兄や姉を慕ってくれるのだろうか。そう思いながら、幼女の頭を優しく撫でてやる。
「食べよっか」
「食べるー!」
「ゆっくりお食べ」
 満面の笑みを浮かべた幼女は待ってましたとばかりにはしゃぐ。{name2} も苦笑しながら、抱えていた幼女を隣にそっと下ろしてやると、包みを開き、饅頭を一つ手渡してやる。ありがとうと嬉しそうに受け取った幼女を横目に己の分も取り出して食べ始めようとする。
「あれ? {name3} くんだ」
「こんにちは、沖田せんせい」
 にわかに門の方が騒がしくなったかと思えば、子ども達が境内に飛び込んでくる。この壬生寺の近所に住んでいる子ども達だ。きゃっきゃと楽しそうに追いかけっこをしている。子ども達に交じってやってきたのは、{name2} の上司である沖田総司だ。沖田は{name2} の姿を認めるなりパッと明るい顔をして近寄ってくる。嬉しそうにニコニコと笑みを浮かべた彼は{name2} の目の前までやってきた。
「お一人ですか? 隣いいですか?」
「え?」
 ハッとして横を向けば、先程まで隣にいたあの幼女はいなくなっていた。きょろきょろと境内に視線を飛ばすが、走り回る子ども達の中にその姿を認めることができなかった。
「(いつのまに……?)」
{name3} くん?」
「いや、何でもないです」
「それじゃあ、お隣失礼しますね」
 「少し休憩します!」と走り回る子ども達に高々と宣言した沖田は、ニコニコと笑みを浮かべながら{name2} の座っている階段の隣に腰を下ろす。立ち止まった子ども達は、了解というように沖田に手を振って返事をすると、再び境内を走り回り始めた。その様子を微笑ましそうに眺める沖田につられるように、{name2} も子ども達が楽しそうに鬼遊びをする様子を見守る。
 子ども達は実に縦横無尽に駆け回っている。境内の掃除をしていた坊主が一度走ると危ないぞと注意をしてはいたが、坊主の顔もどこか慈しむような表情で子ども達を見守っている。本堂前まで階段を駆け上がってみたり、境内に植わっている大木の周りをぐるぐると回ったり、鐘楼の影にこっそり隠れてみたり、挙句の果てには{name2} と沖田の背後に隠れてみたり、本当に自由闊達だ。
「いつもお休みの日は子ども達と遊んでいるのですか?」
 持っていた饅頭を手で割って、沖田に差し出すと嬉しそうに手に取った。
「そうですね。大体は子ども達と遊んでいますね」
 沖田は一度{name2} へと視線を戻し、再び子ども達へと視線が向かわせた。その瞳には普段屯所にいる時とは違った穏やかで優しい橙色を灯している。そして、子ども達の笑い声に誘われるように穏やかに笑い声を零している。屯所でくつろいでいる時などは物腰柔らかく穏やかな雰囲気はあるが、任務中は緊張感で張り詰めている。危険な仕事であるから当然と言えば当然だが、こうして心の底から気持ちを寛げている姿を見せるのは珍しい。滅多に見かけない穏やかな表情をこっそりと横目で追う。
「それにお勤めがお勤めですから……できる限りは一緒に子ども達といたいんです」
 子ども達と一緒に過ごす時間がとても愛おしいのです。
 屈託のない表情で子ども達を見守っている沖田。心の底からそう思っているようであった。それは沖田にとって心の拠り所でもあるようだった。殺伐としたこの京の都で命がけ。いつ死ぬかもわからない状況だ。どこかに拠り所は必要だ。他の隊士達もそういった各々の拠り所があって、日々を生き続けている。他の隊士達は色街などへ行って心を慰めたりするようだが、沖田にとってはこうして子ども達と遊ぶことが何よりも心の慰めになるらしい。そういった沖田のあり方を{name2} はどこか安堵していた。
「せんせいは、色街には行かないのですね」
「うーん、{name3} くんも色街には行かないですよね?」
「え?」
「ん?」
 気が付けばぽろりと零れていった言葉にハッとする。無意識だった。個人的な事を聞くものではなかったと、慌てて口元を抑えると、怒ってないから気にしないでくださいと気を使われる始末である。目を丸くした沖田が、すぐににこにこと笑みを浮かべた。
「ボクはね、少し気になる子がいるんです」
「気になる子……そういう女性がいたとは初耳ですね」
 瞬間。少しだけ、子ども達の笑い声が遠く聞こえた。
 沖田に想い人がいるなどとは{name2} は思いもよらなかった。驚き目を丸くすると同時に、すぐさま先程の問いに対しての回答が腑に落ちる。なるほど、その気になる女性というのは、色街へと行っても会えない人物なのだろう。そうすると市中の女性か、江戸へ残していった恋人などなのかもしれない。そういう存在がいたというのは本当に初耳で驚いてしまったが、そうであれば納得がいく。男性であればそういうこともあるだろうし、色街へ行くことが悪いことではないが、沖田が行かない理由を述べた瞬間、何となく安堵してしまった。それと同時に無性に落ち着かないような何とも言えない心地がする。やはり自分の上官の色事など知りたくないからだろうか。
「ふふっ……。原田さんや永倉さんには内緒にしてくださいね。あっという間に屯所内で知れ渡ってしまうし、知られると恥ずかしいですから」
「あ、ええ……。そういう個人的な事は他人には話したりはしませんよ。そういうのって野暮でしょう?」
「……そうですね」
 噛み締めるように呟いた沖田に、思わず視線を向ければ、覗き込むような視線と絡み合う。凪いだ海というのはこういうものだろうかと見入っていると、神妙な面持ちで見つめてくる。
{name3} くんは気になる人、いますか?」
「?」
「いいえ、何でもないです」
 {name2} の自然と傾いた首を見て、沖田は困ったような顔をしたが、すぐさま、穏やかな表情を浮かべて首を振った。何でもないですといった表情を見て、とても何でもなさそうには思えなかったが、今の{name2} には沖田にかけるべき言葉が何なのか見当がつかず、必死に言葉を紡ごうと口を開いたり閉じたりしているが、結局のところ、唇は震えなかった。
「総司! お兄ちゃん! 一緒に遊んでよ~!」
「よぉ~し! そしたらボクが今度は鬼の役ですね! 十数えたら追いかけますよ~!」
「わああ! にげろにげろ~!」
 打って変わって。勢いよく立ち上がった沖田に、びくりと{name2} は身体を揺らした。先程の沖田の神妙な面持ちは跡形もなく消えてなくなってしまった。それでも脳内はどこか言葉を探している。
 間延びした数数え。一目散に散り散りになって四方へ走っていく笑い声。少し傾いた陽の光。
「——{name3} くんが良ければ、またお休みの日に来てくれませんか?」
「え」
「子ども達も、ボクも、喜ぶので」
 十。高らかに宣言した沖田が{name2} を置いて走り出す。残された{name2} はただその背中を見つめて、暫く座り込んでいた。早速一人子どもを捕まえた沖田がぎゅうと羽交い絞めにするように抱きしめて頬ずりをしているのが見える。きゃいきゃいと子ども達が楽しそうにする声が、そっと優しく寄り添って、何とも言えないような温かさを感じる。少しだけ、優しいような気持ちと張り詰めた糸が弛緩していくような、そんな心地に包まれて、居た堪れなくなった{name2} はすっと立ち上がると、腰に刀を差して走り出す。
 それを見た沖田は嬉しそうに笑って、
「今度は{name3} くんが鬼だよ」
 そう言って頬ずりして仲良くしていた子どもを抱えながら夕暮れに走り出していった。

21.11.09 『春は何処か』 初出
22.01.03         加筆

No.25

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あさきゆめみし

知っていたよ、君の答えは

生命力溢れる眩い光に包まれる初夏。新緑が美しく潤う季節。日に日に日没までの時間が遅くなっていくのを感じる。同時に盛夏へ向かって一段と蒼く美しい色に空は染まっていく。
緩やかに髪を撫でる風が涼しく過ごしやすい季節だ。爽やかな心地に包まれて、体内が穏やかに循環していくのを感じる。
転寝をするには心地よい時分である。
「……寝、てる?」
畳の上に彼女は丸くなって眠っていた。身体を呼吸に合わせて上下させている。普段の堅い表情とは違い、平素穏やかな表情を浮かべて眠っている。ふにゃりと口許を弛ませる様子から幸せな夢でも見ているのだろうか。

思わぬ光景に出くわした私は暫く彼女を見つめ、立ち尽くしていた。近寄っても良いものかと躊躇い、立ち竦んでしまった。彼女があまりにも穏やかに眠っているものだから、戸惑ってしまう。いつも何処かぎこちない表情を浮かべる彼女幸せそうに笑みを浮かべて眠っている。起こしてしまえばきっとそんな表情を見る機会など失ってしまう。気配に過敏な彼女の事であるから、近づけばきっと起こしてしまう。彼女には少しでも笑っていて欲しい。

だから、近づいてしまいたい気持ちの反面、その場に立ち尽くしてしまう。起こしてしまえば、あのぎこちない表情を浮かべるのだろう。

――ああ、でも、少しだけならば許されるだろうか。

彼女に触れること。少しだけならば、許されるだろうか。眠っている少しの間であれば、隣にいてもよいだろうか。そんな考えが、立ち尽くした私の身体を静かに動かし始める。気配を悟られぬようにそっと彼女の目の前まで近づいていく。足音を殺し、静かに腰を下ろす。深い眠りに身を焦がしているようで、珍しく彼女は目を瞑ったまま動かない。触れたくなって咄嗟に手を伸ばしかける。ふと躊躇いが生じたが、髪に触れてしまえば手が優しく髪を撫でて始めてしまう。心地良さそうに眠っているのでその手を離すなどできなくなってしまった。
「{name1} 、さん」
優しく頬に触れる。温かい熱を持った頬、唇から漏れる寝息。手のひらで弧を描きながら撫でていく。ずっと触れられなかった感触。控えめな睫毛も膨らんだ瞼も小さな唇も。今だけは触れられる。
彼女の存在が心の何処かに息づいていて、ずっと探していた。初めましてとぎこちなく笑う彼女に見えない壁を感じ、落ち込んでしまってから、私は彼女に触れられなくなってしまった事を悟ってしまった。こんな形でさえなければ。
もう一度、彼女に触れていたかった。
「{name2} 、さん」
「{name2} さん」
「――{name2} 、」
眠る彼女に顔を近づけた。ふわりと彼女の匂いが胸一杯に吸い込まれていく。私に気づかずに穏やかに寝息を立てている彼女。指先を彼女の唇にそっと這わせて、自分の唇に這わす。ごくりと生唾を飲み込んで、狡いことをしていると思いながらもそっと彼女を啄んだ。
彼女はまだ眠っている。

あの頃、無自覚ながらも彼女は私のことを愛してくれていた。私と話すときは誰よりも穏やかに過ごしていたし、私を誰よりも側に置いてくれた。
私は彼女の気持ちに気づいていたけれど、死と隣り合わせのあの頃は色恋沙汰どころではなかった。体を病んでいたから後先短い私が彼女を縛ることに抵抗があったのだ。彼女の気持ちに目を瞑っていることしかできなかった。
彼女の瞳が私を映していたことは嬉しかった。私の事を大切に思っていてくれた事も嬉しかった。少しずつ死に行く私の身体が使い物にならなくなることに恐怖心を抱いていた中で、それでも彼女は、あなたは、私を愛してくれた。それが嬉しかった。
たとえ、君が覚えていなかったとしても、
「――{name2} 」
もう一度。彼女の唇をなぞると、彼女は唸り声を溢し、ピクリと身体を震わせる。名残惜しいが起こしてしまったようだ。震える瞼が開く前にそっと身を引いて彼女に呼び掛ける。
「{name1} さん」
「…………?」
「風邪を引きますよ、早く起きてください」
「…………お、きた、さん?」
「はい、沖田です」
ゆらりと瞼が開いてその瞳に私の姿を映していた。大きな欠伸をしながら伸びをする彼女。まだ脳が働いていないのか視線がふわふわとしている。
「?」
「こちらで眠っていらっしゃったので今起こそうと思っていたんですよ」
「……あー。私、寝てたのか」
目の前に私が居たことを不思議そうにしていたが、返事をすれば合点が言った様子である。上手く誤魔化せたとほっと思う反面、罪悪感が残る。意識のない彼女に触れてしまったのだ。一時的な幸福感を得たが、あの頃の彼女と今の彼女は違うのだから、自分勝手な軽率な行動であったと内省する。
頬をポリポリと掻いてぼんやりとしている彼女に寝癖がついていると指摘すれば、彼女は目を丸くしてから恥ずかしそうに髪を手櫛で解かす。片側の頬に畳の跡がついていて少し微笑ましい。こればかりは手の施しようはないので胸の内に秘めておく。
「沖田さんは稽古に?」
「ええ……お土産買って来たので先にこちらに置きに来たのですが」
「そしたら私がここで寝ていた、と」
彼女はこそばゆそうに表情を歪める。
「気持ち良さそうに寝ていましたよ」
「そうですか?……珍しく幸せな夢を見たからかもしれませんね」
「そうですか。どんな夢だったんですか?」
ぱちぱちと彼女は瞬きをする。暫くきょとんとした表情を浮かべていたが、柔らかい笑みを浮かべて、唇に指を当てた。
「――内緒、です」
はっと息を飲むほど柔らかな笑みだった。彼女が私に向けて優しく笑いかけてくれるなんて思いもしなかったのだ。暫し彼女のことを見つめてしまい、彼女が怪訝そうに声をかけるまで意識が飛んでいた。
「沖田さん?」
「え、あ、はい」
「どうかされました?」
「すみません。少し、ぼんやりしていました」
「そうですか」
「――{name1} 、さん。あの」
「{name2} ー!皆で昼飯食いに行くぞー!」
道場の方が騒がしい。稽古をしていた原田さんや藤堂さんが騒いでいる。柱時計を見れば、丁度正午を回ったところである。どうりで近くの家から昼食の匂いが漂ってくるわけである。
「沖田さん、皆さん待っていますし行きましょうか」
顔を見合わせた{name2} は行きましょうと立ち上がる。そっと彼女の手を握ってみれば、驚いたようで彼女は私を見た。
触れられないと思い込んでいたが、今度こそ触れていたい。
「今日は原田さん達にいっぱい奢ってもらいましょうね」
「……そうですね、困らせてやりましょう」
街の剣道場。かつて共に戦場を駆け抜けた仲間達がもう一度芽吹き、何の因果か導かれるように集まった。過去では考えられない程穏やかな日々を綴る。
彼女は何も覚えていない。それでも、こうして導かれるようにこの場所に来た。
それだけで、それだけで十分だ。
彼女が私を愛していてくれた事も私が知っていればそれだけで十分だ。
今度は私があなたを愛すればいい。

16.05.22 初出 『知っていたよ、君の答えは』
16.05.29 加筆

No.24

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あさきゆめみし

体温を愛惜した

 家路へ向かう往来はまるで深々と降り積もる雪の夜のようだった。斜陽の陽だまりの道と家々の作り出す薄暗い影。日が当たらぬ冬の水底の路地裏。往来を通り抜ける人気はない。
 深、と降り積もる静けさが、底冷えする空気が、じんじんと身に沁みる。北風がひゅるりと凪ぐ度に身が縮こまって、暖をとろうと首に巻いた襟巻きに頬を埋める。悴んだ手のひらを合わせてスリスリと手揉みをしながら往来を歩いて行く姿はさぞかし不格好ではあるが、背に腹は代えられぬ、致し方ない。
「寒いですよね。もう少しですから我慢してくださいね」
「わかっているよ、そのくらいは我慢するさ」
 一歩先を歩く背中はいつだって美しく伸びている。楽しそうに息を弾ませるその表情を窺うことは叶わないが、見なくたってわかりきっている。
 くるりと振り向いたその表情はやはりにこやかに笑っていて、笑い声と共に白い息が吐き出される。
「あはははっ! {name3} くん少し短気なところありますからね」
「うるさいよ、総司」
「私は好きですよ、そういうとこ」
「(――またそうやって、臆面もなく……)」
 彼の言動を苦々しく思い、顔が歪むのを感じながら、袖の中に手を引っ込めようとすれば、先に手を握られる。ぎょっと彼を凝視する。
 彼はにんまりと花が咲いたようにきれいに笑っている。それは、女である自分でさえも息を飲み溜息を吐いてしまうような悩ましい美しさ。眩暈がするような優しい眼差しは、真っ直ぐに受け止めるには眩しすぎる。
 そっと視線をずらせば、{name3} くんと優しく手を包み込んで、丁寧に撫でられる。自分の手の冷たさで感覚が曖昧になっているが、ひんやりとした彼の手はきっとこちらの手よりもずっと冷たくて、まるで、まるで……。
 脳裏に過った言葉に背筋をぞっとさせてぶるぶると考えを振り払う。
 するりと手を解こうとしてみるが、しっかりと手を離さないように握り締められて解けない。
「寒いので{name3} くん手貸してくださいね」
「私だって、手つめたい……」
「冷たい同士くっつけば温かくなりますって」
「……」
「ね、{name3} くん?」
「――屯所の近くまで」
「ふふ、ありがとうございます。嬉しいです」
 狡い。狡い、ずるい。
 この男はそうやって人の心に付け込もうとするのだ。にこにこと朗らかに笑って、人懐っこい笑みを浮かべて、そうやってすべてをなし崩しにしてしまう。人の気も知らないで、どろどろに私を甘やかすから本当にたちが悪い。自然とゆるみ始める口許だって、襟巻きを整えて隠してしまわなければならない。冷たかった指先がじわじわと握られた部分から熱を帯びて冷え切った心までも温かく溶かすようだ。
「放さないでくださいね」
「――わかっているよ、寒いのだろう」
「ぜったいに、はなさないで」
「? 総司?」
 じっと見つめるその真剣な眼差しを受けて、軽口など叩けるはずもなく、息を飲んだ。先を歩いていた{name3} の手を引いて立ち止まらせると、両頬をその手で包み込む。まるで壊れ物にでも触れるような優しい手付きで{name3} に触れるとそっと頬に口づけを落とす。
「そう、じ」
 どくり、どくり。心臓が沸き立っていく。頭の中は騒然としている。まるで幽鬼でも見たような現実味がない感覚に、思考が追い付かず狼狽える。彼と過ごしていく内に、彼のことを心のどこかで慕っていたのを感じてはいたが、想いを告げるという行為は禁則行為のようにとらえていた。自分が男装している以上、女であることは許されない事だと思っていたし、明日をも知れぬ身でありながら、色恋になどかまけている場合ではないと理解していた。この感情もそっと目隠しをして氷を口の中に含ませるように溶かして飲み込んでしまえば、そっと水底にしまい込んでしまえば、少し息苦しいだけだ。ただ、そこに彼や仲間たちと一緒に笑い合える方がよほど今の自分には大事なことだと思っていた。
 それなのに、どうして。どうして、こんなむごいことをするのだ。ただ、一緒に生きることができるだけで良かったのだ。私が性別を偽ってようやっと肩を並べて彼と戦うことができるのだ。性別を偽って漸く手に入れた彼らと駆け抜けてきた大切な日々を、いつの間にか大切になってしまったこの日々を捨てなければならない。
「――きっとあなたは、私と一緒には居られないのでしょうね」
「あ、あ……」
 ああ。そうやって、寂しそうな顔で笑うなんてずるい。
「それでもね。思ってしまいました。あなたとずっと一緒にいたいなぁ、って」
 だから、泣かないでください。
 はらはらと、涙と雪が舞うのは一体どちらが先であったか。唇を開いて言葉を発しようとするが、わなわなと唇が振動して上手く開かない。視界がぼんやりとぼやけていく。どうして、こうも私は上手く紡ぐことが出来ないのだろう。歪んで君が見えなくなっていく。いかないで。
 これは君に言わなければならない言葉だ。あの時、ずっと言えなくて後悔していた言葉だ。だから今度こそ、目が覚めてしまわぬ前に、私もずっと――
「――私も。ずっと一緒に、いたかった。いたかったよ」
 それは遠き、冬の片隅の夢。


18.11.24 初出 『体温を愛惜した』 title by : そにどり
18.12.27 加筆修正

No.23

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あさきゆめみし

『春一番』

 少し前までの凍えるような寒さが嘘みたいに暖かくなった三月中旬。桃色が美しい早咲きの桜はそろそろと葉桜になり、後少しすればソメイヨシノが開花する。そんな頃。
寒い冬ももう少し。春本番を迎えようとしているこの時期は卒業式やらと世間は何かと騒がしいらしいが、この病院はまた別の忙しさと日々闘っている。
 この病院に所属する医師・高荷恵は午前中の診察を終えて、遅い昼休憩を取ろうとしていた。それまでは小さな町医者の元で働いていたが、縁あってこの大きな病院に赴任した。赴任してみれば街医者の元で働いていた頃よりも沢山の患者が毎日病院へとやってくる。大変ではあるが、具合が悪く困っている人たちの力になれることでこの仕事に対してのやりがいを感じる。一人ひとりと向き合い、各々の体質にあった方法で不調を改善していくために処置する。各々に合った処置というのは難しい。様々な症状や病床を考慮した上でその時の現状での最適解だと判断しても、実際に処置してみると体質的に問題が出てしまったりと当の本人からしてみれば最適解ではなかったりもする。鈍感な時もあるが人の身体は多分に繊細なところもあるため故の難しさ。内心頭を抱えながらも向き合い続ける中で患者の笑顔を引き出せたならば、それだけでも報われてしまう。
 そうして向き合い続け、あっという間に昼が過ぎる。この仕事にやりがいを感じてはいるが、自分とて一人の人間だ。ずっと根を詰めていては疲れて気が滅入ってしまう。気分転換がてら外の空気を吸おうと中庭のベンチに腰掛けて休憩を取ることにした。
「……桜は、もう少し先かしら」
 ベンチの上に伸びる桜の木を見上げる。このベンチはソメイヨシノが咲く頃には薄墨色に美しく染まる。今はまだ硬く閉ざされた蕾。売店で買ったペットボトルのお茶を一口。喉を潤しながら、一息つく。
「あー高荷ちゃん! おつかれちゃん!」
「たかにちゃん! おつかれちゃん!」
「……{name1}先生。子ども達に悪影響だから止めてくださる?」
「高荷ちゃんは今からご飯? おつかれちゃん」
「話聞いています?」
 黒髪の癖毛の男。{name1}{name3}。高荷恵と同じくこの病院に所属する医者である。外科の若い男であるが、その腕は若いながらに評判がいいと聞く。性格は朗らかで緩い。子ども達に慕われているらしく、院内ではよく子ども達に群がれている姿を目撃している。子ども達をおんぶにだっこしている姿はとても腕利きの外科医には見えず、保育士といったところの風体である。おんぶした子どもに癖毛を引っ張られながらもにこにこと笑みを浮かべた男にやれやれと溜息を吐いて子ども達に声を掛ける。
「皆。それ以上は{name1}先生も疲れてきているから止めてあげてね」
「えー?」
「うん。実は流石に疲れてきていた。皆、五円玉チョコ上げるから勘弁してちょ」
「五円玉チョコ!」
 チョコレート菓子につられて子ども達は{name1}から次々と離れていく。何とも現金な子ども達だと思わなくもないが、子どもは正直なぐらいが丁度いい。{name1}も同じことを思ったのか「おまいさん達、ほんと現金じゃのぅ……」と少し寂しそうな瞳を湛えて呟いていた。そんな{name1}のことなどお構いなし。子ども達は容赦は知らぬ。チョコレート頂戴コールのが始まり、もみくちゃにされ始める。
「わ~?」
「ちょっと! 何やってんのよ!?」
「高荷ちゃん、ヘルプ~」
「もー! アンタってやつは世話が焼けるわね!?」
 子ども達から追い剥ぎ同然の目に合う外科医の男を見て深い溜息を吐く。
 {name1}はどこからともなく取り出した五円玉チョコをすぐさま子ども達にひったくられて、白衣のポケットやら何やらを勝手に漁られている。
 子ども達は大袋に入った五円玉チョコの大袋を何個か見つけると、わあわあとそれに群がって袋を開け始める。個包装になった五円玉チョコが何枚も入っていて、それを皆で仲良く山分けし始めている。宝物をみつけた子ども達はそちらに夢中で{name1}になど見向きもしない。
「ちょっと、大丈夫?」
「はは。手厳しか」
 もみくちゃにされて地面に倒れ込んでいた{name1}に高荷が近づいて手を差し出せば、彼はぱちぱちと瞬きをして暫く高荷を見つめていたが、にこりと嬉しそうに笑い、「心配してくれるのは高荷ちゃんだけじゃ」と満足そうに手を取って立ち上がった。ぱたぱたと白衣についた砂埃を叩いているしょぼしょぼとした男の腕を引いてベンチに座らせると栄養ドリンクをすっと渡す。
「ほ?」
「もみくちゃにされて大変だったでしょ。これ飲んでおきなさい。それじゃ午後もたないわよ」
「ありがとう! 大切にしまっておくね!」
「このおバカ! 飲めって言ってるでしょう。飲みなさいよ!」
 この様子だとこの男は本当に飲まずにしまっておきそうだ。一度渡した栄養ドリンクひったくり、キリキリと開栓してから再び{name1}に渡す。念押しして、飲みなさいといえば、彼はすっと目を細めて、ありがとうと穏やかに紡ぐ。それは、凪いだ海のように穏やかな表情。
「……ご馳走様。高荷ちゃん飲もうとしたんだよね。ごめんね。お礼にどうぞ。子ども達にには内緒だよ」
 しい。
 人差し指を唇に添え、身振り手振りしながら渡されたのは金平糖の入った小さな瓶。一体どこに隠し持っていたのだろうか。手のひらの上にポンと小さな瓶を持たされると、またねとひらひらと手を振って立ち去っていく。
「……変な奴」
 再び子ども達に囲まれてわいのわいのと騒いでいる{name1}を見て呟く。
 掌に乗せられた金平糖の瓶に視線を落とす。薄桜色、若草色、黄色、白色。パステルカラーに近い色合いの金平糖が瓶詰にされていて、その様子がかわいらしい。そっと零れないように開栓し、手のひらに星屑を転がす。それを暫く眺めてから口の中にそっと含ませると、柔らかく優しい甘さが広がり、その優しい甘さが張り詰めた気持ちを緩やかに弛緩させていく。
「──さて、午後も頑張ろうかしら」
 便の蓋を締めてそっとポケットにしまう。ベンチから立ち上がりぐっと空に向かって伸びをすると、あっと思わず声が漏れる。ベンチの上に伸びたその枝に一輪だけ花を開いたソメイヨシノ。これから日にちが過ぎればまた次々と桜が花開いていくのだろう。その頃にはこうやってこのベンチの下で満開の桜が見られるのだろうか。その時には今日のお礼にでもあの男を誘ってやろうか。きっと驚いた顔をしながらまたあの締まりのない顔で笑うのだろう。
 小さく笑みを漏らし、仕事へ戻ろうと院内へと足を向ければ、もうお菓子はないよと未だに子ども達にたかられている{name1}の姿が見えて思わず笑ってしまった。

23.03.28 『春一番』 初出

No.22

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あさきゆめみし

『Best Wishes!』

 吐く息が白く濁る。朝焼けの眩い光と稜線から顔を出し始めた太陽光が幻想的に美しい真冬。
 二月十四日のバレンタインデーを迎え、閉店まで慌ただしく過ごししてふと思えばあの女の姿を今日は見なかったと思い出す。常連の女は二十代頃だろうか。少し傷んだ黒髪と薄らと浮かぶクマ、草臥れた様子の女。面は悪くないが、仕事が忙しいのか疲労感が抜けないその姿から哀愁が漂う。他人に深入りはしない比古ではあるが、たまにの休日にやってきては満面の笑みで幸せそうに己の作った菓子を食うのだがら、情ぐらいは沸くものだ。土日が必ず休みの仕事ではないらしく、来る日も平日の午前や午後だったり、時折土日のどちらかであったりするのでいつ来るかはその女の勤務状況次第といった所である。ハロウィンやクリスマスなどのイベント限定販売の菓子を求めて仕事帰り閉店時間間近ギリギリに買って帰る時もあるため、今日もその内来るのだろうかと一つケーキを残していたが、女が来ることなく閉店を迎えた。約束していたわけでもないが、少しばかり締まりのなさを感じつつ閉店作業をする。
「師匠のお気に入りの{name1}さん、来なかったですね」
 カフェスペースの掃除を終えた緋村剣心がバックヤードまで戻ってきていう。誰だ。初めて聞いた名前に小首を傾げる。知人の中ではその名前の人はいなかったはずだ。思い返してみても心当たりがない。
「誰だ?」
 緋村は意外そうに比古の方を振り向いた。
「あれ? 師匠もしかして名前聞いてなかったんですか? ほら、あのパンツスーツ着たポニーテールの子。少し草臥れてる。師匠の作ったケーキ幸せそうに食べてた……!」
 窓際の席で束の間の幸せをひっそりと噛み締める姿のあの女。あの女は{name1}というのか。
  ――ところで。
「剣心。お前なんで名前知ってんだよ」
「以前、お友達の誕生日ケーキ予約したいって来た時にお名前聞きましたよ。{name1}{name2}さん。警察でお仕事されてるそうですよ」
「……なんで、お前の方が知ってんだよ」
「えぇ、まさか師匠とあろうお方が知らないとは」
「おい。にやにやしてんじゃねぇよ。そんなんじゃねぇよ」
「えぇ? 俺は何も言ってないですよ?」
「ああ゛、うるせぇなぁ! 明日もあるんだ、早く帰って寝ろ!」
「ふふっ。ガトーショコラ、渡せるといいですね」
 早く帰れと手を振ると、にこにことしながら降参と両手上げてそそくさと休憩室の方へと逃げていく。取り置きしておいた分を目敏く見つけていたらしい。カンのいいやつめ。やれやれと溜息を深く吐き、肩を竦める。冷蔵庫の中を開ける。奥にしまっておいた箱。毎回イベント期間には必ず来店するため取って置いた分。いつも美味しかったと屈託の笑みで会計して帰っていく{name1}。そんな女の姿を見るのを密かな楽しみにしていた。宝箱を開け、中の宝石を発見したようなキラキラとした瞳の輝き。高揚した頬。チェリー色の豊潤な唇が己の作った洋菓子を喰んでいく姿。口元をクリームで汚しながらもうっとりとした表情で味わうその姿が脳に焼き付いている。食べる前まで草臥れた表情を浮かべていたというのに、食べ始めればまるで水を得た魚のように生き返る。そうやって己の作った菓子で人を幸せにできるとしたならば作り手としては本望だ。
 冷蔵庫の奥からその箱を取り出して、帰宅の準備を始める。ずっと置いておくわけにも行かないので少しずつ家で食べるほかない。ガトーショコラならばウィスキーのアテにでもするとよいか。などと考えて戸締まりを終えて外へ出ようとすると、ゴンと何かにぶつかった。
「?」
「ったぁ……」
「あんたは」
「うぅ……もう、お店終わっちゃいました?」
 外を覗くように身を乗り出せば、ドアにぶつかったらしい女が頭を押さえて蹲っている。あの{name1}と言う女だ。今しがた弟子と話していたばかりなだけに少し決まりが悪い。丈の長いダウンコートにマフラーをぐるぐるに巻いている。丁度仕事帰りだったのだろうか。
 外の様子を見回せば、既に日は落ち、雲一つとない美しい夜の帳が下りている。昼間の温かい日差しはどこえやら、身が引き締まるような凍える寒さだ。ひゅうと笛のように音を立てて風が吹いていく。冷蔵庫の中に閉じ込められたような寒さに思わず眉根が寄り合う。頭を抱えて蹲ったまま暫く動かない{name1}にぶつからないようにそっと入り口から出て、目の前にしゃがみ込み頭に触れると、{name1}に驚いた表情が浮き上がる。
「大丈夫か?」
「す、すみません」
「怪我は……とりあえず無さそうか?」
「は、はい。大丈夫です」
 恥ずかしげにはにかんで{name1}はゆっくりと立ち上がる。ふらつかずにすっと立ち上がったところを見ると、不幸中の幸いにも致命傷を負ったという様子はなさそうである。怪我がない事を確認し、そっと胸を撫で下ろすと、ゆっくりと立ち上がった。不慮の事故とはいえ、怪我をさせるなど言語道断だ。当の本人は比古を観ながら、背高いですねなどと気の抜けるような事を呟いているが、そんな呑気な事を言ってのけるぐらいだから何ともないのだろう。それは何より。久々にこうして会ってみれば、相変わらずといったところだ。仕事に追われて草臥れてはいるが、以前見かけた時よりも今日は元気そうだ。
「悪いな、今日は店仕舞いだ」
「そうですか……やっぱり間に合わなかったかぁ」
「その代わりと言っちゃなんだが、これ持って帰ってくれ」
「え? でも……」
 残念そうにしょんぼりとしていた{name1}に、取り置きしていたガトーショコラの箱を渡せば、寝耳に水といった素っ頓狂な表情を浮かべる。店の手提げ袋に入れて持たせると、暫くそれをじっと見つめて少しばかり複雑そうな表情をしていたが、首を振る。すぐに渡したばかりの箱を返そうと差し出される。
「受け取れません。営業時間内に間に合わなかった私が悪いので」
「キャンセル分出すの忘れてただけだ。俺は仕事中以外は甘いもん食わねぇし折角だからもらってくれ」
「でも……」
 渋る{name1}の手をそっと押すと、そのまま紙袋を持つ手を握り込ませる。
「処分するより貰ってくれた方が助かる。金は要らねぇ。その代わりにまた来てくれよ。お前さんの食いっぷりが見ていて気持ちがいいからよ」
「! み、見てたんですか!?」
「パティシエが言えた事じゃねぇが、甘いものばかり食べすぎないようにな」
「は、はずかしい……」
 まさか見られていたなんて。そう言って居た堪れ無さそうに頬を赤く染めた{name1}が己の両頬を覆い隠すようにして手を添える。{name1}はスイーツを頬張って気が緩んだ姿をしっかりと見られていたことが恥ずかしいというのだが、比古にとっては好ましく思えていた。自分が作った菓子をそれはもうこの世の祝福を一心に受けたというような顔をして食べている{name1}を見た時、気分が良かった。その食べっぷりに甚く感服し、とても好ましく思っていた。
「いつも喰いに来てくれてありがとな」
 比古はほくそ笑む。ポカンと比古を暫し見つめていた{name1}はハッと我に返ると視線を右往左往させていたが、あっと何かに気づいたように声を漏らすと、鞄のポケットの中から何かを取り出して比古に手を差し出すように促した。
「これ。貰ってください」
「……何だこれ?」
「五円玉チョコ。今日友人からもらったんです。良いご縁がくるって。一枚あなたにあげます」
「だがお前がもらったものだろう、それなら」
「私はもうご縁もらいましたので」
 {name1}はにこりと慈しむように笑い、そっと比古の手に己の手を添えて拳を握り込ませながら魔法を掛けるように呟いた。

 ――あなたにもご縁がありますように

23.02.18 『Best wishes!』 初出

No.21

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あさきゆめみし

『結び目』

 冬茜。冬の夕焼けの燃える美しさは思わず足を止め息を飲むほどである。日没が迫り、稜線を燃やし始める美しいあの橙は{name2}冽な空気さえも息を飲むように美しい。澱みのない澄み切った空気がより一層夕景を際立たせ、誰しもを魅了する。
 缶コーヒーを飲みながら、{name2}は一人窓の向こう側を臨む。誰そ彼。街灯の橙が薄っすらと色付き始めている。家路へと向かう人かそれとも。自治体のスピーカーから流れる時報の音楽がどこか物悲しくもあるが、どこか明日への期待を感じる。ひんやりとした廊下の片隅に自販機とゴミ箱の列。気分転換がてらに作業を中断し抜け出してはきたのだが上着かマフラーでも持ってくればよかったのしれない。少し身震いをしつつも、静まり返った廊下の片隅でのコーヒーブレイク。薄暗い自販機の側面に寄りかかりながら、少し温くなったコーヒーを一口。ぼんやりと暮れ泥んでいく夕景を眺めながら、深い息を吐き出した。
「甘いものが食べたい」
 無意識に吐き出された言葉が廊下の空気を揺らす。思いの外、ゆらゆらと、己の鼓膜をゆする。
 コーヒーのお供に甘いものが食べたい。コーヒーを飲みながら零れ出た思いが言霊により一層強くなる。交通違反に交通事故、酔っ払いの介抱、強盗、ストーカー、エトセトラ。事実は小説よりも奇なり。思いもしない事件に振り回されて流石に疲れていた。疲れ時には糖分がいいと聞く。甘いものが食べたいときは特定の栄養素が足りていないとも聞く。何が足りていないのかなどと気にしすぎるよりは好きなものを好きに食べた方が健康的な気もするが。
 要するに甘いものが食べられれば何でもよいのだ。散々けったいな事件に振り回されたのだ。早く仕事を終わらせてお気に入りの店に飛び込むのもいいのかもしれない。お気に入りの洋菓子店。ふとした時に食べたくなる美味しい洋菓子店。少し無骨なパティシエが作る繊細で美しくも甘いもの好きを多幸感で満たす美味しいお菓子の数々。サクサクで甘いクッキーやふんわり柔らかいフィナンシェ、皮はさっくり中はたっぷりなめらかカスタードシュークリーム、甘くて美味しいケーキ……嗚呼、想像しただけで食べたくなる。こうしてはいられない。早く報告書を片付けて一時でも早くこんなところから抜け出すべきだ。
「プリン、シュークリーム、ケーキ、チョコ……嗚呼、どいつもこいつも何でつまんないことで仕事増やすのよ。手当たり次第しょっ引いてやろうか」
「わぁ……あんさん随分キテるなぁ……おつかれさん」
「あ、沢下条……お疲れさま」
 喧しい男が来たと喉まででかかった言葉を飲み込んで労いの言葉をかけると、上機嫌な金髪の男がやってくる。同僚の沢下条張という男だ。すらりとした見た目だが、程よく筋肉質の男。陽気な関西人。{name2}の得意なタイプではないが、その性格から何だかんだで憎めない男だ。沢下条は「よっ」と手を立てて砕けた挨拶をすると自販機に小銭を入れて缶コーヒーのボタンを押す。転がり出た缶を拾い上げ、隣に並ぶようにして立つとカチャリとプルタブを捻った。同時に先ほど己が開けた缶と同じコーヒーの香ばしい香りが舞い戻ってきて、思わず鼻をひくりとさせた。嚥下する咽喉の流動を横目に、香りが拡散してしてわからなくなった己の缶コーヒーを煽る。
「今日はどうしたん?」
「交通違反にドラック、強盗、痴話げんか、その他もろもろ。警察は何でも屋じゃないわ」
「あー、お疲れさん」
「そろそろ帰りたい」
「あー、そうしょげるな。よし、しゃあないな。ワイのとっておきをくれてやるで」
 {name2}を不憫に思ったのか、沢下条は犬を撫でるように{name2}の頭をわしゃわしゃと撫でた。そうしてごそごそとズボンのポケットを何やら漁り始める。何だろうか怪訝に思いながらも、ぼさぼさになった髪の毛を手櫛で軽く整える。手間だ。余計な事をしてくれる。そう思いながらじとりと成り行きを見守っていると、何かを見つけたらしい沢下条が「あった」と嬉々として{name2}の手のひらの上に小さい包みを乗せた。茶色いビニールフィルムにプリントされた五円玉を模したキャラクター。小学生ぐらいの子どものお小遣いでも手軽に買えるチョコレート菓子だ。{name2}も幼少期の頃に小遣いを肩掛けバックに入れて田んぼに囲まれた駄菓子屋まで買いに行った記憶がある。成長して買う機会は減ってしまったが、本物の五円玉のようで面白いチョコだと気に入って買っていた。
「? ごえんだま、チョコ?」
「ハッピーバレンタインやで!」
 快活に笑う沢下条を見て、はてな。
「馬連……?」
「馬ちゃうで、バレンタインや! チョコや、チョコ! 好きな人に愛の告白とチョコ渡す日や! この沢下条張様からかわいそうな{name2}に愛のお裾分けや!」
 バレンタインデーと言えば、何某かの殉教の日であるとか、友達や恋人、大切な人に贈り物をする日だったか。日本では女性が意中の相手に愛の告白と一緒にチョコレイトを贈ったり、親しい友人間でチョコを交換してその日を楽しんだりする。{name2}も友人にチョコレイトを交換したことはあるが、学生時代の頃の話で近年では中々会うことも出来なくなってしまったため、そういった行事ごとには遠ざかっていた。職場では義理チョコの文化は用意する側の負担になるとのことで廃止されたため、益々バレンタインデーとは縁遠い生活を送っていた。
「そっか。もうそんな日か」
「どや。ワイからの愛のある友チョコや」
「愛のある友チョコ……?」
「おい、首傾げんなや! 泣くで!」
「ははっ。わかっているよ、ありがとう」
「たく……。仕方ないやっちゃ。ほら特別にもう一枚やる。これで少しは元気だしや。ええことあるとええな」
「沢下条」
「五円玉チョコやったんや。今からお前にも良いご縁がくるで」
「それは……まあ楽しみにしてみるよ」
 ほなな。そういって手をひらひら振りながら廊下を歩いていく。その後ろ姿を見送りながら、手のひらの五円玉チョコに視線を落とす。何とも言えない気が抜けるような顔の五円玉のキャラクターの表情。愛嬌のあるその顔を見て、ふと小さく笑ってしまった。久方ぶりにあったあの男は相変わらずの賑やかしい男だが、何だかんだでこの五円玉チョコのキャラクターのように憎めない。
「ご縁、いただきます」
 一つだけフィルムを破いて、口に入れる。小さい頃お小遣いを握り締めて買いに行った時と今も変わらず甘い味。冷め切ったコーヒーを流し込んで、もうひと頑張りしようと気合を入れ直すのである。

23.02.14 『結び目』 初出

No.20

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あさきゆめみし

Show Mast Go On

 舞台に立つのは初めてではないが、ミュージカルとなるとまた普通の劇とは違う。
 今日、人気漫画やアニメ、ゲームなどの題材の舞台が人気である。多数の作品が役者たちによって舞台化されている。原作となる漫画やアニメを忠実に再現し、キャラクターに成り切って演じる。大まかにいえばそのようなものであるが、これに歌がついてくるのがミュージカルだ。ただの歌ではない。この歌を通して、観客たちは劇の状況やその役の心情を汲み取る。そのためにこの歌唱が重要になってくる。{name2} 自身は歌うのは好きだが、上手か上手でないかとそういわれると自分では何とも言えない。それでもやる以外の選択肢はない。今回が{name2} にとっては初めての挑戦である。初めての挑戦に自然と練習への熱が入っていく。稽古する度に知ることや稽古して見えてくることもあって、楽しみであると同時に少し緊張もしている。

 {name2} が演じるのは男として生きた女警官。自分の腕っ節一つで幕末を生き抜き、新しい時代に翻弄されながらも生きていく役だ。主要キャラの部下であり、何かとこき使われて裏で工作するキャクターなので、出番が多いわけではないが、ちょこちょこと出番がある。{name2} 自身はこのキャラクターをわりと気に入っている。主人公の師匠と少しいい感じにはなるのだが、今回の演出上はほぼカットである。
「何か気になることがあるのか?」
 台本をじっと見つめて思案していると、主人公の師匠役・比古清十郎が怪訝そうに言う。{name2} よりも先輩の役者であり、比較的に若い役者が多い今回のミュージカルの中では年長者である。{name2} の役との絡みもあるためか、何かと気にかけてコミュニケーションを取ろうとしてくれているようだ。そのため、稽古が始まってからはしばしば声を掛けられることが増えた。二人の出番が被る同じシーンやそれぞれのキャラクター像についての互いの考えを示し、話し合う。そこからそれぞれの役どころを咀嚼し、演技の方向性を探る。そういったコミュニケーションを大事にとってくれている事は有難いことだ。それに付随して出番が重ならないシーンに関しても助言をくれたり、稽古以外に食事に行ったりと、可能な限りのコミュニケーションを取ってくれる。演じ合う上で理解しようとしてくれているのだ。
 比古は{name2} の隣まで歩いてくると、手元の台本を覗き込んだ。高身長のせいか少し見づらそうにしている様子を見て、更に見やすい位置に台本を持ち上げる。とんと身体が触れ合った瞬間に、一瞥が向けられたが、再び台本に視線が落ちて行った。
「――どこだ?」
「ええと、この殺陣のシーンなんですけど……」
「どれ、やってみせろ」
 台本を隅に置き、立て掛けてある稽古用の刀を投げ渡すと、比古はそれを手に取って腰に下げた。休憩をしていた演者達の視線が自然と{name2} 達に集まり始める。比古清十郎の殺陣は美しくも力強く、憧れを抱く者が多い。誰もがその殺陣に近づきたいと思っているから当然だ。本人に至っては役者が本業ではなく陶芸家や剣道家という異色。そうお目にかかる機会もないから皆がそのと殺陣を一目見たいと思う気持ちはわからぬでもない。{name2} 自身も比古の殺陣の美しさに惹かれるものがあるから、こうして直々に稽古をつけてもらうのは貴重な機会だ。
 高揚し始める気持ちを感じながら腰に刀を差し、比古を正面に対峙する。お前のタイミングで始めろという比古の言葉に頷く。
「――行きますよ」
「こい」
 床を強く蹴り、一気に間合いを掻き消していく。素早く柄に手を掛けて勢いよく抜刀する。右薙に一刀。抜刀した比古の初速がすぐに追いついて、稽古用の刀が高らかに交わる音が稽古場一面に響く。
 ――速い。
 手は抜いていない。この男相手に抜けるわけがない。この一手は全力で打ち込んだ。しかし、後から抜刀した比古に難なく受け止められてしまった。……悔しい。ギリギリと歯噛みする。この斬撃が通らないことは分かっていたが、こうも易々と止められてしまうと悔しい。ニヤリと不敵の笑みを浮かべる比古も気に食わない。ギロリと睨みつけながら素早く切り返して、次の一刀。一歩踏み込んでいく。指先が地を蹴りつけ、更に一歩踏み込む。追撃の手は緩めない。実力差は否めない。長期戦は尚更分が悪い。ならば斬り込んでいく他ない。始めから分が悪いのはわかっている。覚悟の上だ。連撃を繰り返す{name2} に、比古はあくまでも冷静に見定めて受け流していく。誰から見ても実力差は明らかだろう。{name2} とて人並みよりも優れた剣の使い手であるが、比古はまた一味も違う。まさに剣の達人だ。{name2} の剣戟を少しずつ切り返していくとあっという間に{name2} を追い詰めてしまった。
「っ!」
「勝負あり、だな」
 キンと刃同士が交わり、競り負けた{name2} の手から刀がくるくると弧を描きながら弾き飛ばされていく。弾かれてビリビリと痺れた手。間合いを取ろうと後退する前に比古は{name2} の首元に切っ先を突き付ける。
 ――チェックメイトだ。
 {name2} と比古の殺陣の迫力に圧倒された他の役者たちは誰もがそう思った。だが。{name2} のその顔は未だ諦念は浮かばない。鞘に素早く手に掛けて切っ先を弾いて退けると背後に飛び、飛ばした刀を拾って素早く打ち込む。
「ふぅん? 中々やるじゃねぇか」
「はぁ……は、ぁ……はぁ……それは、どうも」
 切っ先が互いの喉笛を捉えている。汗だくになった{name2} と依然として余裕綽々としたいで立ちの比古。ゆっくりと切っ先を下ろした{name2} は納刀し、両膝に手をついて呼吸を繰り返しながら息を整える。結果は分かってはいたがやはり悔しい。全力で立ち向かっていったのに、比古は息一つ切らさずに対峙していた。「二人ともすげぇな……」と誰かが呟いた声が、{name2} の表情を一層曇らせる。{name2} としてはその言葉に見合うだけの動きは出来なかったと感じていた。
「あまり気に病むことはない。あれだけ動けていれば十分だ。いい筋してるな」
「そう、です……か」
 ぽんぽんと比古の手が{name2} の頭を撫でる。撫でられると思っていなかった{name2} はぽかんと見上げると、ニッと満足気に頷いている。自分ではまだまだ足りないかと思っていたが、少しは認めてもらえたという事だろうか。
「師匠、セクハラ……」
「あ? 何でだよ、褒めただけだろ」
「えー、知らないんですか。師匠が褒めたつもりでも触られるの嫌って人だっているんですよ」
「めんどくせぇ。そういうもんなのかよ……やだったか?」
「え? いや、べつに……」
 比古と{name2} の手合わせをギャラリーの一人として見つめていた緋村が静かに近づいてくる。静まり返っていた稽古場がそれを皮切りに騒然とし始めていく。比古と{name2} の稽古を観て触発されたのか、それぞれが中断していた稽古には熱が入っている。皆も認めてくれたのだろうか。それならば嬉しい。
 乱れた息をゆっくりとした呼吸で整えていると、にこにこと笑みを浮かべた緋村が{name2} にねぎらいの言葉を掛けながら手拭いを渡してくる。
「{name2} 。今の殺陣、鬼気迫る感じがすごく良かった。連撃も無駄な動きがないし、容赦なく叩き込んでいくかっこよかった」
「……ふぅ……ありがとう緋村」
「{name2} に師匠の事ぼこぼこにしてほしかったけど、師匠も中々しぶといから」
「おい剣心」
「次はボコボコにする」
「{name2} ……それじゃ話が成立しねぇだろ……」
 やれやれと呆れた表情の比古に、楽しそうに笑う緋村。頭の上から離れていった手。ぼんやりとじゃれ合う比古と緋村を眺める。乗せられた大きな手の感触を思い出しながら、触れられた所にそっと手を当てる。緋村はああいっていたが、決して……
「{name2} 。調子はどう? やってけそう?」
「……うん、何とかがんばれそう」
 台本を持った鎌足が{name2} の所までスタスタと近づいてくる。ちらりとまだ言い合いを続けている師弟を一瞥し、自らも鎌足の側へと歩み寄っていく。正直不安がないと言えば嘘になるが、それでもどうにかしがみついてやっていけるかもしれない。それはきっと頼もしい仲間がいるからで。
「鎌足。ここの歌、練習するからアドバイスちょうだい」
「OK! そうこなくちゃ!」
 鎌足と歌い始めると、それに合わせて誰かが歌い始める。それが繋がってまた違う誰かが歌い始める。稽古は初めてのことが多くて大変だけれども、一つのものを大勢で作り上げていくという作業は悪くない。それに、ただ少しだけ褒められただけでもまたがんばろうと思えるならそれも悪くないのかもしれない。

23.02.11 『Show Mast Go On』 初出

No.19

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あさきゆめみし

Stay who you are.

 夏は蒸し暑く、冬は寒い。今年は数年に一度の寒波が襲来。京の街は雪化粧がお気に入りのようで金閣の屋根が美しいスノーホワイトに染まる日が幾日か。子どもの頃は雪が降る度にはしゃいだものだが、大人になると色々な障害に縛られてあんなに好きだった雪の日もどこか億劫になる。
 今日は寒凪。暦の上ではもう春であるのにまだまだ春が遠いこの時期。凍てつくような寒さに身を震わせながら歩きながらも何処か浮き足立っているのは二月の甘い季節だからだろうか。
「今年のバレンタインはどうしようかしら。志々雄様にはマストだけど、{name2} にも何かあげたいわね。あの子涼しい顔して甘いものに目がないんだから」
 今日会うはずだった友人の顔を思い浮かべ、自然と笑みが溢れてくる。何を上げても喜ぶだろうから何も心配はないけれど、一方で何にするか選択肢が多過ぎるから迷ってしまいそうだ。
「うーん。やっぱり甘いものかしら? 疲れてるからアロマグッズ? お花もいいわ、ね……あら?」
「あ? お前は確か、{name2} の」
 通りの店から出てきたのは鎌足の友人の{name1} {name2} の意中の相手・比古清十郎である。


 * * *


 カランカラン。ドアの上部に取り付けられた呼び鈴が鳴る。人の良さそうなマスターがちらりと鎌足達の姿を見てにっこりと笑うと、お好きな席にどうぞと告げる。
「ブレンド。奢ってやるから好きなもの頼んでいいぞ」
「え、あっ……じゃあ、チーズケーキとブレンド」
「マスター」
「はい、かしこまりました。少々お待ち下さいね」
 コーヒーミルを挽きながらにこにこと微笑むマスターを横目に、通り沿いの窓際の席に腰を掛ける。
 店内はどの街の何処かにあるような喫茶店。少し薄暗い店内に灯る橙の蛍光灯、アンティークの家具、調度品。店内にはマスターの淹れるコーヒーの香ばしい香りと穏やかなジャズミュージック。客達は思い思いの穏やかな時間を過ごしている。古めかしさはあるが純喫茶と言った感じで落ち着き洒落ている。センスがいい。比古の行きつけの喫茶店なのだろうか。コートを脱いで向かいに腰掛ける比古をチラリと見る。
「確か――本条鎌足、だったか」
「ええ、おっさん。私の{name2} がお世話になってるようね」
「おっ……」
 比古は面食らった表情を浮かべたが、すぐに眉間に眉を寄せる。顎を摩りながら、「おっさん」と鎌足に言われた言葉を反芻している。鎌足が嫌味で行ったのだが、少しばかり気にしているらしい。鎌足としては大事な親友を取られてしまった八つ当たりのようなものであるが。
「お待たせしました。ブレンド二つとチーズケーキです」
「ありがとうございます」
「ごゆっくり」
 にこにこと微笑を浮かべるマスターに礼をいい、互いに一杯。
 芳醇なコーヒーの香り、苦味だがコーヒーの味わいを引き立てる為の味わい深い苦味。温かいコーヒーが冬の寒空の下歩いて冷え切った身体を温めて安らぎを与えてくれる。フォークで切り分けたチーズケーキを一口添えれば、チーズケーキの優しい味わいとコーヒーがうまくマッチする。
「今日、{name2} がお前と会うの楽しみにしてだはずだが?」
 ソーサーの上にカップを置いた比古が、鎌足を見る。少しだけ空気が刺々しいのは先ほど鎌足の発言のせいだろうか。
「あの子は仕事の呼び出しよ。バレンタインのチョコ見に行こうって約束してたのよ」
「バレンタイン?」
「{name2} があなたに渡したいって言ってたわよ」
 バレンタインと聞いてキョトンとした顔をしていた比古だが、己のためだと理解すると目がスッと細まった。へえと言いながらカップに手をつける比古は吝かでもない様子だ。{name2} が自分の為に贈り物の準備をしたいと思った事実が嬉しいのだろう。
「(何よ、満更でもないんじゃないよ)」
 きっかけは緋村剣心と言う彼の弟子を通じて知り合ったという。学生時代、剣道部員だった{name2} と緋村は、緋村の剣の師匠である比古清十郎を訪ねては剣の腕前を磨いたと言う。それからずっと師匠と弟子として過ごしてきて、緋村が就職を機に上京してからも二人は時折一緒に休日を過ごしていると言う。映画館へ行ったり、美術館や博物館に行ったり、互いの家を行き来して休日を過ごしたり。ただの師匠と弟子というには少し歪だ。手を出されてもないというから尚の事。
 鎌足は{name2} の親友だ。男のくせに女みたいな態度が気に入らないと一部の人間から白眼視されていたが、{name2} は素直にすごいと褒めてくれた。ファッションもメイクもわからない彼女にメイクをしてやれば、魔法見たいとキラキラした表情で嬉しそうに笑ってくれた。鎌足にとって{name2} は自分を受け入れてくれる大切な存在だ。同性が好きとカミングアウトした時もそっかとさらりと受け止めてくれた。そんな彼女だから比古と一緒で幸せになれるならなって欲しいと願っている。好きな友人を年の離れたおっさんに取られるのは少し悔しいけれども、彼女が幸せになれるなら後押ししてやりたい。
「比古さんはさ、{name2} の事どう思っているの」
「あ?」
「もしその気がないんだったら{name2} から離れて欲しい」
「……なんだよそれ」
 穏やかだった顔が険しい顔に戻る。比古の顔は眉目秀麗という言葉がぴったりと当てはまるほど整っているから、そういう美人が怒ると威圧感を感じる。一瞬たじろぎそうになったが、ここで引くわけには行かないと唇を噛む。
「……っお節介だとは思った。けど、{name2} は私の大切な親友よ。だから大切にしてくれる人と幸せになって欲しいの。だからアンタの気持ちが{name2} に向いているか知りたい」
 持っていたフォークを皿の上に置き、居住まいを正す。目はその力強い視線に。

「比古清十郎。あなたは、{name2} のことどう思っているの?」
 
 * * *

 「何かあったら」と渡されていた合鍵で施錠を開く。玄関を入るとその家の匂いがする。ふんわりと香るサボンの匂い。後ろ手に鍵を閉め靴を揃えて脱ぐ。
「{name2} ?」
 リビングまで入っていけば、ソファの上にスーツを脱ぎ散らかしたまま寝こけている女の姿が目に入る。キャミソールに、レースのパンツ。猫のように丸まって眠っている。
「……黒」
 すうすうと穏やかな寝息を立てながら無防備に眠っている姿に頭を抱えたくなったが、隣の寝室から掛け布団を引っ張ってきて掛けてやる。脱ぎ捨てたワイシャツやスーツを拾い集めて、洗濯籠やハンガーに吊るしたりしてやる。どうやら帰ってきてそのまま力尽きたらしい。
 比古は{name2} の目の前にしゃがみ込んで覗き込む。目元にはうっすらとクマが出来ている。あまり眠れていなかったのだろうか。指先で目元を撫でて、頬に掛かった髪をどかしてやる。薄紅色に色付いた唇から小さく漏れ出る寝息。穏やかな表情を浮かべて眠っている。一体どんな夢を見ているのやら。
「ん……ひこ、さん……それは、エタノールだ……お酒じゃないよぉ……」
「何っていう夢を見てんだ、こいつ」
 へへへと呑気に寝言をいう彼女に、溜息が零れる。ぐにぐにと頬を引っ張ってやると、ううっと苦しそうに唸るので、すぐに手を放してやる。ぺしっと額を叩いて立ち上がる。
「仕方ねぇな、寝かせとくか」
 窓際に置かれたままの陶器の花瓶を手に持つと台所へと持っていく。花瓶を軽く濯ぎ、水を入れると買ってきた薔薇の花束を移し替える。丁寧に活けて満足すると、冷蔵庫を開いて買ってきた包み紙を入れようとする。
「お。今年はガトーショコラか」
 タッパーに冷やされたガトーショコラを見つけてそれと引き換えに包み紙を冷蔵庫に入れ替える。湯を沸かしてコーヒーを準備しつつ、再び花瓶を窓際に置く。淹れたてのコーヒーとタッパーを片手にソファーを背に床に座り、タッパーからガトーショコラを取り出した。一口食べてみると甘さを控えめにしたようで、思いの外甘すぎず丁度良い。比古が酒を嗜むと把握しているからだろう。ラム酒が程よく風味が効いている。あまり甘いものは食べないのだが、毎年この時期になると{name2} がせっせと食べやすく作ってくれるので、その分だけは残さず食べることに決めている。
「ウィスキーかブランデー辺りが欲しいところだが、仕方ねぇな」
 淹れたてのコーヒーのお供にガトーショコラを食べ進める。昼下がりの穏やかな光、背中から伝わる微睡みの気配、柔らかい{name2} の匂い、コーヒーとガトーショコラの香ばしくも甘い匂い。息をゆっくりと吐き出して空になったカップとタッパーをテーブルの上に置く。
「いつもありがとうな」
 囁くように呟いて{name2} の寝顔を覗き込むと、触れるだけの口付けを落とす。よしよしと頭を撫でるとピンポンとインターホンが鳴る。宅急便だ。いまだに起き上がる気配のない{name2} を一瞥しつつ、玄関まで受け取って再びリビングまで戻ってくると、ようやっと目が覚めたらしい{name2} が身体を起こしていた。{name2} と呼べば、うんと気の抜けた返事が返ってくる。ぼんやりと何を見ているのかと視線をたどると、先程飾った窓際の薔薇をじいっと眺めていた。その耳は少しばかり薔薇のように赤く色づいているようで、おやァと思うよりも早く口角が吊り上がる。
「おはよう。口元にチョコレイトついてるぞ」
にやりと笑いながら{name2} の唇をなぞれば、真っ赤な顔をした{name2} にうるさいと睨みつけられた。

22.02.14 『Stay who you are.』 初出

No.18

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あさきゆめみし

As you like it

 幼い頃は野山を駆け回る方が好きな子どもだった。
 少女達が好きなおままごとはあまり好きではなくて、どちらかというと鬼ごっこや日曜日の朝に放映されるヒーローのごっこ遊びの方が好きだった。ヒーローでも悪役で何でも。少年達に混じって縦横無尽に駆け回っている方が好きだった。少女達が大好きな色恋の話よりも幼い頃から習っていた剣道が好きで、少女達からは風変わりな子だと言われてきた。気には留めなかったが、男勝りだと揶揄されてきた。
 そんな{name2} でも好きな人がいた。心臓が震えるほどに、呼吸が震えるほどに。ただ、あいしていると伝えたい人がいた。熱に浮かされたように想いを募らせていた。身の内側から静かに焦がし、燃やし尽くされる恋だった。ただ隣にいるだけでも幸せで、ずっと一緒にいたいと願っていた。願ってしまった。叶わぬ、恋だった。彼にとっての{name2} は大切な妹でしかなかった。かわいい妹。彼は{name2} の最愛の人であるが、{name2} は彼の最愛の人にはなれない。そんな彼に思いを告げられるわけもなく、彼は{name2} の知らない女性と結ばれてしまった。
 今度こそ告白するのだと作っていたチョコレートは渡せぬまま、ゴミ箱の中に初恋と共に溶けていった。

 {name2} は思わず苦い顔をする。セーラー服を身にまとっていた学生時代から時分よりも大人にはなったが、苦い記憶というものは中々どうしてか消化されないものである。
 目の前の催事場には、バレンタインフェアと可愛らしいデザインフォントと色掛かれたパネルが天井からぶら下げられている。小さな少女から素敵な婦人まで。女性は誰しもが恋する乙女だ。ショーケースの中に陳列された見本のチョコを真剣な眼差しで吟味している。
 日々忙しく過ごしていたから{name2} はすっかり忘れていたのだが、季節は二月上旬。バレンタインデーの日を目前としていた。
 ──バレンタイン。キリスト教のお祝いの日。聖バレンティヌスに由来する記念日。カップル達の愛の日。家族や恋人といった大切な人に贈り物をする習慣がある。それがどういったわけか、日本においては女性が意中の相手にチョコレートを贈り、愛の告白をする日となり随分と年月が経つ。
 基本的にバレンタインデーと言えば、女性から意中の男性へと愛の告白とともにチョコレートを贈るイメージが根強いが、昨今では友人に贈る友チョコや日頃の自分へのご褒美としての自分用チョコ、お世話になった相手へ贈る義理チョコなど、チョコレート一つ贈るにも形態は様々である。
 初恋の相手に贈ろうとした日以来、{name2} はバレンタインを祝うことを止めた。もちろんもらえば、お返しにホワイトデーにお菓子を渡したりしていたが、自分から参加しようとすることはなくなっていた。あの日以来、手作りでチョコレートを作ることもない。
「あら。そういえば、もうすぐバレンタインだったわね。自分へのご褒美に欲しかったのよ。見ていきましょ!」
「え、あ、うん」
 隣にいた友人の鎌足が目をきらきらと輝かせた。鎌足は学生時代からの{name2} の友人であり、気の置けない仲である。お互いに忙しくしていて、久々に会うことになっただが、彼女は昔からイベント事が好きで、マメにこういった行事に参加しては楽しむタイプの人間だった。{name2} 自身はそういったイベント事に積極的に参加する方ではないが、鎌足に手を引かれては色々なイベント事を一緒に楽しんできたため、昔のように{name2} の手を引いて催事場へと歩き出す鎌足に小さく笑う。最初は乗り気ではなくとも彼女に手を引いてもらうと、最後には一緒に楽しんでいたなとしみじみと握られた手をみつめる。催事場の中へ躊躇いもなく入って行くと、彼女はわくわくとした顔でチョコレートを物色し始める。その顔は昔と変わらず楽しそうで、先ほどまで苦い記憶を思い出して憂鬱になっていた{name2} の気持ちを吹き飛ばしてくれるかのようだった。
「これ、おいしいわよ。アンタも食べなさい」
「ははっ。鎌足が作ったんじゃないのに」
「こっちは選ぶのに真剣なんだから、遠慮しないでどんどん食べなきゃ損よ! 」
 店員の女性から試食のチョコレートをもらって、当然のように{name2} の分だと次から次へと渡してくる。遠慮のなさに{name2} は苦笑いしつつもそれを受け取り、一つずつ食べながら展示されているチョコレートの見本を見ていく。
 チョコレートと言っても実に豊富な種類がある。定番のハートの形のチョコレート、ホワイトチョコレート、抹茶のチョコレート。それぞれの会社で出しているチョコレートには特徴が大きく異なっていて、中々にバラエティー豊かで視覚的にも面白い。こちらも美味しいですよ、と朗らかな笑みを浮かべる店員の女性が渡してくる試食品のチョコを食べてみると、コクがあり、チョコレート特有の甘味が舌の上で踊る。生チョコレートなどは舌に乗せた瞬間に蕩けていく感覚が心地よく、思わず買いたくなってしまうような品だ。
「(このチョコはお酒が入ってるんだ……こういうのなら食べそう)」
 ふと、暫く会っていないとある男の姿が脳裏によぎる。
「そういえば、あの男とまだ続いているの?」
「え?」
 間髪入れずに鎌足の小綺麗な顔がくしゃりと歪む。
「あの比古とかいういけ好かない男よ」
「ああ。……ふふっ、比古さんか」
 脳裏を過った人物を言い当てられたようで{name2} はどきりとしたが、鎌足の気持ちはわからなくもないのでクスリと笑う。
「気障ったらしくて、私は嫌よ。あんなおじさん。むかつく!」
「ふふふっ……いけ好かない、おじさん……」
「笑ってんじゃないわよ!」
 鎌足の歯に衣着せぬ物言いを{name2} は気に入っている。彼女──正確には彼だが──のさっぱりとした性格が好きで、学生時代一緒に過ごしていた。大した面識のない相手にさえこれであるから、思わず苦笑いしてしまう。だが、それは彼女のよいところでもあると{name2} は思っている。
「{name2} ってば、あいつに良いように扱われてない? 大丈夫なの?」
「なんで? 私と比古さんは師と弟子みたいなものでしょう?」
「それは昔の話でしょ。わからないわよ。弟子の緋村とアンタの三人ではそうかもしれないけど、緋村が上京した今は男と女の二人きりでしょ。アンタ、容姿はそんな悪くないからいつく食べられても可笑しくないわよ」
「食べる、って……比古さんは別にそんなことは考えてはないと思うけど? 昔から緋村と一緒に剣道教えていた手前その延長線上の付き合いだと思うけれども」
「そうかしら。私はそうは思わないけど。男と女で、アンタのこと気に入ってはいるんでしょ。{name2} が嫌じゃなければ何も言わないけど、少しでも不快に思うのなら会うの止めた方がいいわよ」
 {name2} はチョコレートを見つめていた視線を移し、まじまじと鎌足の顔を見る。その表情はいつになく神妙な面持ちを湛えていて、開きかけた口を噤む。
 彼女なりに友人が年上の男に騙されていないかと心配してくれているらしい。彼女はドライなようで、{name2} の事を昔から気にかけている。そういう心配を彼女は昔からしてくれて、{name2} はそれがありがたく嬉しいかったりする。ハッキリと物事を言うので敬遠されてしまうところもある彼女だが、心根はとても優しいのである。少しだけ口は悪いが。そこはご愛嬌。
「鎌足、心配してくれてありがとう」
「アンタって薄氷の上に立ってるような感じがして心配なのよ。いい? あいつに苛められたらすぐに私に言いなさいよ。ぶっ飛ばしてやるから」
「私、鎌足と結婚する……」
「嫌よ。私、あんたの面倒見きれないわ。アンタのこと引っ張っていけるのあの男ぐらいよ」
「え? さっきと言ってること矛盾してない?」
「だってなんか大事な親友取られるのシャクに障るのよ!」
「鎌足、結婚……」
「嫌よ」
「がっかり」
「友達として好きよ、{name2} 」
 今日は私が奢ってあげる。そう言ってウィンクをする鎌足は{name2} が持っていたチョコレートの箱をひったくるとあっという間に会計を済ませてしまった。
 鎌足はああいっていたが、比古は自分の事をどう思っているのだろうと{name2} は少し気になった。そして、{name2} 自身は比古の事をどう思っているのだろうかという事。鎌足から指摘されて気づいたが、第三者からしたら比古と{name2} は男女の関係と捉えられる場合があるようだ。言われてみればそういった見方も可能なのかもしれない。当事者である{name2} は全く想像もしていなかった。{name2} としては一環として師匠と弟子というような関係だと思っていた。同じ剣道部だった緋村剣心に紹介され、比古の下へ通って稽古していた。{name2} からしたら剣の師。比古からしてみれば突然降って沸いて出た二人目の弟子といったところだろう。剣の才能は認めてくれているようで、{name2} が学生大会で無敗記録を打ち立てたときには感心していた。男にだって引けを取らない実力を持っていると褒めたこともある。
 だが、それが男と女という視点となると疑問である。恋人たちの甘い関係などはない。たまに会えば、近況報告のように食事に行き、手合わせをしたり、その程度のものだ。
 うーんと考え込んでいる{name2} を見かねたのだろうか。鎌足は呆れたように笑って、{name2} の頭をぐりぐりと撫でつける。
「知ってる? 運命の相手はいい匂いがするのよ」
「え?」
「──まあ、いつもお世話になってるんだったら感謝の気持ちのつもりでチョコレート贈ってみたら。いい機会なんじゃない?」
「う、うん」
 にっこりと笑う鎌足に、{name2} はそれもそうかと納得する。久し振りに手作りでもしてみようかとぼんやりと考え始める。



「……バレンタイン、どころじゃなかった」
 偶然にもバレンタインの日と休みが重なったと感心していた矢先のことである。バレンタインといえば、愛の告白のイメージが先行してしまうが、外国では家族や友人など大切な人に感謝の気持ちを込めて贈り物を贈るという。鎌足にも助言をもらった。確かにいつも世話になっているし、いい機会だと思った{name2} は買っておいたチョコレートやココアパウダーで生チョコを作ることしていた。人並みにレシピを見たりしたりすれば料理はできるものの、あまり凝ったものは作れないので、以前Webサイトに載っていた簡単に作れるという謳い文句の生チョコレートを作ることにした。材料によってはビターな仕上がりになるとのことで、甘めなものが苦手な男性でも食べやすいとのことだ。加えて、お酒が入った生チョコなので酒を嗜む比古は何だかんだできっと食べてくれるだろう。
 早速材料を集めて、チョコを溶かしながら混ぜる。更にそのチョコレートの中にお酒と生クリームを少し入れて混ぜ込んでいく。バットにクッキングシートを引いてその中に溶かしたチョコを流し込む。冷蔵庫で数時間冷やした後、包丁で切り、ココアパウダーをまぶせば完成だ。心地の良い達成感。後はラッピングをして渡すだけだ。そこまでは出来た。
 問題はその後だった。急遽入った呼び出しで休日が一転。人手が足りないから応援が欲しいとのことで渋々出勤する羽目になった。
 その後は散々なものだった。高齢者の住宅に侵入した空き巣事件の操作、銀行強盗犯による立てこもり、マンションの上下階の生活音を巡るトラブルによる口論から発展した人傷沙汰の事件、果ては迷子のお守りと親探し。
 次から次へと起きるトラブルに奔走し、すべての事件の処理一段落させて帰路に着く頃には二月十五日の斜陽を拝む事になっていた。学校指定のセーラー服やブレザーを着た少女達や学ランのしょうねん達が友人とのおしゃべりに花を咲かせながら帰路へと向かう。斜陽の光に包まれてきらきらと輝いて見える彼らが眩しくて、やるせない気持ちにさせる。
 くたびれた自身のパンツスーツ姿を見て大きな溜息を吐いて、帰路へと向かう。渡すどころか会いに行くことすらままならなかった。仕方ないと思いつつ、渡せなかったことが少しだけ心残りだ。陶芸家として名の通っている男だから基本的に山小屋に籠もっては土を捏ね、土を焼いている。集中した作業になるので次はいつ会えるかわからない。冷蔵庫の中に入れたままのチョコレートは帰ったら処分する他ないだろう。そうだ、自分で食べてしまうのがよろしい。
 疲労でふらふらとしながらも自宅にたどり着く。だが、へろへろだった{name2} の眼光は鋭く研ぎ澄まされていく。
 ──部屋に誰かいる。
 疲労で澱んでいた空気を薙払い、気を張り詰める。先程の満身創痍を感じさせない臨戦態勢。
 音を立てずにドアを閉めると、足音と気配を殺して進んでいく。どうやらリビングの中に人がいるようだ。泥棒だろうか。警察官の自宅に泥棒が入るなど洒落にならない。ぎりっと奥歯を噛みしめて、リビングルームに続く扉を開けようと手を伸ばす。だが、{name2} がドアのぶをひねる前にぐっとドアが引かれ、{name2} の身体は前のめりに傾く。しまった。咄嗟に受け身を取ろうと身構えるが、中にいた人物に腕を引かれて抱え込まれる。
「危ねぇな、大丈夫か?」
 ふんわりと匂う清潔感のある香水の匂いが{name2} の鼻を掠める。分厚い筋肉の鎧。がっしりと抱え込む太い腕。さらりと頬にかかる長い髪。端正な顔立ちの男が{name2} の顔をのぞき込んでいる。
「比古、さん?」
「仕事か? ご苦労さんだったな」
「ん……」
 よしよしと節くれだった手が{name2} の頭を撫でて労う比古の姿に、張り詰めていた空気がしゅわりと泡のように溶けていく。空き巣ではなくて良かったとほっと胸をなで下ろすと、隅に無理矢理押し込めていた疲労感がぶり返していく。身体の体勢を立て直そうと比古の厚い胸板を押して立ち上がろうとするが、よろよろとふらついてしまい、比古を巻き込んでソファーの上にダイブする。
「おい、{name2} 」
「ははっ、ごめんなさい。力が上手入らなかった」
「無理するぐらいなら寄りかかってろ」
「いっ!?」
 ピンと額を小突かれる。手加減して小突いたのだろうが少し痛くて思わず額をさすっていると、からからと笑う気配が密着した身体から振動として伝わる。そっと耳を胸につけ、手を添える。脈を打つ音に耳を傾けて静かに目を瞑る。とく、とく、とく。優しい、鼓動と暖かいぬくもりに尖っていた神経が解れていく。
 人手が足りないと応援で呼び出され、ひったくりやら強盗犯やら何やらとジェットコースターのような一日だった。それこそ治安の悪さを心配するぐらいの事件の多発。そう滅多にあることではないのだが、こういう馬鹿みたいに事件が連発することも時折ある。怒号も飛び交う混沌を極めた状況を乗り越え、こうして優しく労われるのは報われた気がして、嬉しかった。
「つかれた」
 大きな身体に腕を回してぎゅっと抱き締めると、{name2} の耳許で息を飲む音がした。
 そして、暫くの沈黙の後、比古の止まっていた手が再び{name2} の髪を撫で始める。
「俺だからいいが、軽率に男に抱きつくんじゃない」
「しないよ。しても比古さんと緋村と鎌足ぐらいかな」
「あのバカ弟子とあいつも駄目だ。特にあの赤い髪のあいつ」
「えー。お祝いの時に喜びをわかちあえないじゃないか」
「それは抱きつかなくてもできるだろう」
「まあ、それもそうだけど。その時の気持ちが高ぶったときってやってしまう時もあるので」
「やめなさい」
「……はい」
「いいこだ」
 するりと骨張った手が{name2} の頬を撫でる。それは幼子をあやすように優しい。目元に指先を滑らすと、その薄い皮膚を揉んでいく。
「ちゃんと飯食ってるか? 随分とやつれている」
「ほんとは昨日お休みだったんですけどね。呼び出しかかってしまってね」
「あまり無理はするな」
「自分で選んだんだ。そうもいかないよ」
「あまりにも辛いなら辞めるのも手だぞ」
 その言葉に、{name2} は目を開き、撫でられていた手をそっとどかすと立ち上がって比古を見下ろす。
「それはない。私は辞めない。辛くとも辞めるつもりは毛頭ない。たとえ、殺されたって辞めるものか」
 先ほどまでの満身創痍の状態とは打って変わって、無機質な表情の{name2} 。その瞳には静かに灯る光が轟轟と燃えている。それをじっと見上げていた比古は口角を上げて笑みを浮かべる。
「……そうだ。それでこそだ。お前のそういうところが俺は好きだぜ」
「相変わらず意地が悪い。焚きつけといて」
「そんなことはねぇよ。俺なりの優しささ」
 もう大丈夫そうだな。そういってソファから立ち上がると、ポンと{name2} の頭を撫でて玄関へと向かって歩いていく。
「比古さん?」
「ちゃんと食べて今日はさっさと休め。冷蔵庫に何もなかったから食い物入れておいた」
「? 泊まっていかないの?」
「嫁入り前の女のところに軽々しく泊まらねぇよ」
 ちゃんと休めよ。そういって部屋を出ていった比古。{name2} はそういう気遣いできたのかと感心した。だが、一つ疑問は残る。はて、結局何しに来たのだろうか。{name2} は小首を傾げて考えてみるが、てんで見当もつかない。思いつかないものだからもういいとすぐに考えるのを諦めると、あっと思い出す。そういえばチョコレートを比古に渡すのをすっかり忘れていたのだ。否、チョコレートを食べているところ見ないからもらっても困るかもしれないのだが。それでも、日頃の感謝は伝えるべきだ。いつ伝えられなくなるかわからないのだ。今から走って追いかければまだ間に合うだろうか。{name2} は慌てて冷蔵庫まで駆け寄って、ドアを開く。
「あ」
 冷蔵庫の中に入っていたはずの生チョコの姿は跡形もなくなっていた。代わりにきれいにラッピングされた見慣れない箱がいくつか入っている。その箱の上に乗っていたメモ用紙の切れ端には走り書きで一言。うまかったと書いてあり、思わず笑ってしまった。何だそういうことか。
 ポケットに入っていたスマートフォンが着信を告げる。メッセージアプリが受信したメッセージには鎌足からのメッセージが届いていた。
 ハッピーバレンタインと書かれたメッセージ、突然の比古の来訪。──やってくれたなと思うと同時に、次に会った時にはお返しをしてやらなければなあと{name2} はほくそ笑んだ。

『As you like it』 初出:21.02.17

No.17

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