No.13

あさきゆめみし

猫に小判

  吾輩は━━といった有名な文章が生まれる前の話である。

 根無し草同然の私ではあるが、この界隈では人気者である。あちらへ行けばやれ可愛いだ、こちらへ行けばやれ可愛い。どこへ行っても目に入れて痛くない、私が通りを通れば皆振り返る。そういう存在である。
 今日も今日とてここいらの界隈は長閑なもので、雀がちゅんちゅんと囀り、どこかの家の牛がもおと呑気に歌う。お犬殿は自分の尻尾を追い回してくるくるとその場を回っている。畑には中年の男が何やら土を弄り、女たちは世間話に花を咲かせ、子ども達はそこら中で遊び走り回っている。数年前の京の街のきな臭さは夢まぼろしだったかの如く長閑である。
 春近し、の穏やかな陽気にうっとりと意識がとろけていく。真冬の寒さで縮こまり硬くなったが解れていくように。くわあっと大きく欠伸をして道端の日溜まりに蹲っていると、突如として黒い影が落ちる。何だ私が気持ちよく眠ろうとしていたのに。瞑りかけた目開けば、頭撫でるひんやりとした手。冷たい。全身の毛が逆立ってふるりと身震をする。私はこの手を前にも感じたことがある。
「━━にゃあ」
「元気だったかな、ぽち」
 私のことをぽちと巫山戯た名前で呼ぶ女が眼の前にしゃがみ込んでいた。名を{name2}という。この女も私に対して好意を抱く一人であって、道すがらに出会えばこうして足を止めて挨拶をしてくる。これは人気者の宿命というやつだ。だらしなく綻んだ顔は小綺麗で中性的な顔立ちをしている。私を見つめるその瞳はいつも凪いだ海のように湛えられている。どこまでも清澄な海。やさしく身を包まれたような。そんな感覚。温かい陽だまりのような、そんなこそばゆさを感ずる━━とはいってみたが、海など見たことない私にとっては伝聞を加味した上での想像の域を出ない。
 そういった海を瞳に宿す女に私は得も言われぬ思いを抱くのだが、女は私の気持ちも知らずに私の背などを撫でてにこにこと、暢気なものである。少しカサついた、肉刺が潰れて硬い手が背中を、背筋をなぞる。ザラついた手が不快な一方で痒いところをこすられたような一時の奇妙な快感。昼寝の邪魔をされたことも不服なのだが、その女は私を甘やかす一人だから仕方なしに相手をしてやることにする。決してこの女が撫でる手の感触が心地よいとかではない。
「ぽちはかわいいねぇ」
 瞑りかけた瞳を片方持ち上げて鼻を鳴らす。当然である。皆が私のこの愛らしい姿を見てこの女のようなだらしない顔をするのだ。私が愛らしく、人間たちの間で愛でられるのは至極当然。自然の摂理なのだから。そうであるからもっと撫でるがよい人間。にゃあと鳴いてやれば、増々だらしなく笑みを浮かべた顔が、私の身体をひょいと抱き上げ抱え込むとぎゅっと顔を押し付けてきた。こそばゆく身体を捩るのだが、人間の力にはさすがに勝てない。にゃあと再び鳴くが、私の背中に顔を埋めたまま離れない。やれやれ。私の可愛さは時として罪深い。
「お前……何やってんだ?」
 うっとり夢心地の中、突如として低い声が耳を揺らし、はっとする。声の主を横目で見れば胡乱な目を向けた男が{name2}のすぐそばの立っていた。いけ好かない整った顔立ち、野暮ったい白外套、その下から時折覗く鋼の巨躯。{name2}の知り合いなのだろうか。こういう図体のでかい男はこの辺ではあまり見ないから珍しい。威圧感のある切れ長の目がずいと私の顔を覗き込む。この界隈に住む人間はどいつもこいつも冴えない顔をしているがこの男は女みたい小綺麗な顔をしている。人間の女が好きそうな顔だ。{name2}もこの男みたいなのが好みなのだろうか。前足をぐっと伸ばしてしっしっと払い除ければ、すっと身を引いて届かない場所に下がった。それでもなお、手を顎に当てて思案するようにじっと私の顔を見つめていた。
「{name1}」
「待ってください。まだ私には猫吸いが足りないんです」
 静かに深呼吸をする{name2}。吐息が背中に当たってむず痒く、再度体を捩る。じたばたしても私の体に顔を埋めたまま離そうとしないので、呆れたものだ。男も同様に呆れた顔をする。
「離してやれ嫌がっているぞ」
「にゃ!」
「え? 怒った? ごめん」
 強めに抗議の声を上げると、{name2}は慌てて私の首元に埋めていた顔を上げる。ごめんごめんと私を抱え直し、赤子でもあやすかの如くぽんぽんと背中をたたかれる。騙されてなるものか。尻尾を揺らしぺしぺしと{name2}の胸元を叩く。ひょいと{name2}の腕の中から飛び出して、男の頭に飛び乗った。男は私の行動の予期まではしていなかったようで、飛びついた私を咄嗟に受け止めようとして態勢を崩した。
「?!」
「センセ!?」
 それに驚いた{name2}も咄嗟に手を伸ばしたが、男の恵まれた体躯を脆弱な{name2}に引き戻せるはずも無く雪崩込むようにそのまま男の上に倒れ込んだ。
「あたた……ごめんなさい。怪我してません? 大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。さすがに顔面めがけて飛びついてくるとは思わなかった……ったくよ」
「にゃぁお……」
「駄目だよぽち。いくらセンセイの顔が怖いからって奇襲なんて」
「おい。俺の顔は怖かねぇだろ」
 私と{name2}を受け止めた男は私に危ないから止めろと軽く𠮟った。{name2}はゆっくりと体を起こして新津の上から引くと、男を起こそうと手を差し出した。その手を掴んだ男がゆっくりと体を起こすと、懐から何かが転がり落ちた。びくりと反応した{name2}が素早く拾い上げて手のひらに収まったものを確認する。その瞬間にはふっと顔が弛緩し、つんとそれを指先でつつく。慈しむような表情を浮かべたその姿は春の木漏れ日のようだ。
「かわいいですね、これ。どうしたんですか?」
「以前こいつと出会った時に丁度丸まってる姿が箸置きになりそうだと思って作ってみたんだ」
「そうだったんですか。よかったねぇぽち」
 地面に降ろされた私の前に{name2}がしゃがみ込んだ。宝物を見せるかのように手の開き、男が作った箸置きとやらを見せてくれた。どんなものだろう、とゆらりと尻尾をくゆらせ、近づいてついと覗き込んで見れば、確かに丸くなって眠る我々猫らしきの作りものが乗っかっている。朗らかに笑みを浮かべる{name2}に喉を鳴らす。私はこんなにブサイクではない。低く唸り、{name2}の手の平に乗るそれをぱんと叩くのだが、びくともしない。それどころか{name2}は何を勘違いしたのか。気に入ったと思ったらしく、欲しいの?と勘違いする始末。
「お前にやる。試作品だ」
「よろしいのですか?」
「そのぐらい簡単に作れる」
「ありがとうございます」
 男にしてはらしくない。視線に逡巡が生じていたが、それも一瞬であった。
「──このくらいは、お前にも作れる」
「そうですか」
 {name2}は私に視線を落としたまま頭を優しく撫でてくる。にゃあと少し声を落として鳴けば、ごろごろと首を撫で、耳のつけ根を指先でモミモミと優しく揉む。ああ、よきかな、よきかな。{name2}の指先がやわやわと撫でるのが心地よく、心がぼんやりと蕩けてしまう。ふふふっと小さく笑う{name2}の声すらも柔らかくて心地よい。
「私、何かを創造することってしたことがなかったんです」
 {name2}は柿の実がポトンと地面に転がり落ちるような、何に気のない声で呟いた。
「壊すことは沢山してきたけど、思えば何かを作るってしたことがなかったんです。そういうころもあって何かを作るってことができるか不安があったんですけれど、それでもやってみて楽しかったです」
「そうか」
「私はきっと陶芸家は向いていないのかなと思ったけれども、あの日作ってみて少し不格好でもできたときは嬉しかった」
 神妙そうな表情で静かに耳を傾ける男の眼差しも、優しい。
「新津先生ありがとうございました」
 感謝しています。そう言って男を見て笑う{name2}の顔に屈託はない。男は珍しく目を見開いて{name2}を見ていたが、フッと口元歪ませると、男が近づいて私を優しく転がし晒された腹をわしゃわしゃと撫でた。突然の男の行動に無礼者、と声を上げようと思ったが如何せん男の猫の撫で方が上手い。中々やりおる。心地よいところを撫でられて抗議しようと思った気持ちも霧散してしまった。ふんわりと何かの匂いがする、この男の匂いだろうか。
「もう一度やってみるか」
「いいんですか? またはにわみたいな器作りますよ?」
「そこは……俺が要所要所でどうにかする」
「ふふふ。……それじゃあもう一回やってみようかねぇ。今度は飛び出さないでくれよ、ぽち」
「にゃ」
 肉球をぷにぷにと触られ、いい加減に飽きてきたとその手を払いのけようとして、ふとやめた。今度は飛び出すなと釘を刺した言葉に何となく心当たりがある。あの時だ。脳裏を掠めたのは己の手で作った焼物が私が飛び出してった拍子に不運にも落ちて割れてしまった時の{name2}のこの世の全ての終わりといったような顔。あの時一瞬浮かべたこの女の顔が今でも鮮明に思い出される。故意にやったことではない、仕方ないとすぐに己に言い聞かすようにして私の丸くなった背中を撫でていたあの手から伝わった複雑な感情を今でも覚えている。
 それ以来、{name2}は焼き物を作らなかった。作らないというよりもする機会がなかったようだが、あの頃の{name2}は今よりもどこか張り詰めた糸のような緊迫感を孕ませていたし、その後にさつまという国へ戦争に行くといって暫く帰ってこなかった。その時のこの女は死を覚悟した悍ましい諦観と希望が入り混じっていた。薄気味悪かったのを覚えている。戦とは人が不幸になるものだというが何故わざわざ不幸になりにいくのか私には理解できなかった。出征するまで{name2}を見かけるたびに声をかけたが、私を撫でて可愛がるばかりで伝わりやしない。案の定、{name2}も不幸になった。戦争から戻ってきた{name2}は満身創痍で惨憺たる顔をしていたからさすがの私も心配になったものだ。
 あの時の割れた器を思い出すと、悪いことをしたと罪悪感が湧いてくる。あの器は{name2}にとっての一種の希望であったのだと気づいた時には戦争は終わり、{name2}は死にかけて帰ってきた。もうあの器は戻ってこない。そんな憐れな女だから大人しく肉球ぐらい触らせてやるぐらいは仕方ないのだ。私なりの気遣いである。
「? 今日は大人しいね。おねむかな?」
「? そんなしおらしい猫だったか? っと」
「にゃ!」
「こらぽち! センセに腹立ったのはわかるけど一応芸術家だ。手はダメだ! 芸術家の手は命なんだ!」
「おい、一応ってなんだよ」
 この男は一言余計なのだと腹を立て、前足を振り上げれば{name2}は慌てて私を引き寄せて制止する。私の渾身の蹴りが空振りに終わり、ほっと息を吐いた{name2}ににゃっと抗議すれば、苦笑いしながらも私を宥めすかすように頭を撫でた。{name2}には強く出れない。
「よしよし……あれ。そういえば、新津センセ用事があったのでは? 今日はお買い物とかで降りてきたんですか?」
「ああ。そうだったな。お前は今日は休みか?」
「ええ。買い出しもしてきたので後はのんびりと過ごそうかと……何か御用ですか?」
「久々に酒でも酌み交わそうと思ったのだがどうだ?」
「酒盛り! わぁいいですね。そういえば久しぶりですね。それはいい、楽しそうだ」
 ごそごそと腰帯に紐をくくり提げていた酒瓶を持ち上げた男。わぁと{name2}が喜色を浮かべた。意外にも酒盛りは嫌いではないらしい。食いつきがよい。酒の肴はどうしようかと話し始める{name2}と男。楽しそうな二人。蚊帳の外にされて面白くないとポンと男の持っている酒瓶を前足で軽く叩くと、こらと男が酒瓶を遠ざける。なんだつまらんと喉を鳴らせば、不意にピシりという音がする。何の音だろうか。瞬間、酒瓶に亀裂が走り、ばらばらと崩れていく。その音に驚いて{name2}の腕の中から飛び出してしまった。
「「あ」」
 びちゃびちゃびちゃと酒が地面に零れ落ちて、独特の臭気が辺りに広がっていく。それほど強く叩いたつもりはないが、壊れてしまった。
「……俺の万寿」
「ど、どうして? 猫が叩いて割れる程の物でもな……あ、さっきぽちが飛び付いて転んだ時に罅が入っていたのか……?」
「……あ」
 顔を見合わせていた二人がぐるりと私へと視線を向ける。これは不味いかもしれない。静かに揺れるのは怒りの炎。本能が語り掛けている。逃げろと。慌てて走り出すと、待てぽちと叫び声が後ろから聞こえてきて、無我夢中で地面を蹴りながら畦道を駆け抜けていく。

24.10.24 『猫に小判』 初出

No.13

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