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No.15
あさきゆめみし
2023.7.22 No.15
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暮れ泥む。水平線の際が燃える橙から群青へと美しい色彩を引いていった。深々と積もり始める静寂。長い夜のはじまり。水平線にすっぽりと姿を隠して太陽が眠り始めれば、急速に冷え込んで行く夜の街。手提灯の仄かな灯火が凍えるような寒さで俯く心を上向かせるように導いていく。
「へくしゅっ!」
襟巻きを整えて口元を覆う。澄んだ空気が一層身に沁みる。吐く息の白さも身が震える水の冷たさも、今はまだ見ぬ春が恋しくなる。悴んだ手のひらに息を吹きかけてみても焼石に水だ。すぐさま止めた途端にひんやりと冷たくなる。じわんじわんと寒さで手が悴んでしまう。
「くしゅん、くしゅっ、くしゅっん、くしゅっ!」
「……何だ。手袋持ってこなかったのか」
振り返る痩せた狼は訝しげに息を吐く。
「忘れました」
「あらら……僕の貸してあげましょうか?」
「それじゃあ沖田さんが寒いでしょう」
「お、何なに? {name1} は手袋忘れたのか? 俺の貸してやろうか?」
「永倉さんは手汗がすごそうなのでちょっと……」
「ひどい!」
「それにしても今日は冷え込みますね。雪でも降るんでしょうか?」
「確かに昨日よりも冷え込んでいるな」
「おーい、無視しないで……?」
およよよ、とがっくりと肩す永倉。あくまでも冷静な斎藤に立ち止まる方が寒いと歩くように促されるとしょぼんとした永倉は歩き始める。そんな様子を後方で歩いていた{name3} は静かに息を吐いて、来た道をそっと振り返る。疎ながらも夜更けに出歩く人もいて、彼らも初詣に向かうといったところだろうか。皆寒さに縮こまりながらもどこか表情は明るい。新しい年に期待を寄せているから待ち遠しいのだ。手持ち提灯がゆらゆらと揺れる姿も浮き足立っているかのようだ。
「へっくしゅん!」
「ほんとに風邪引いちゃいましたかね?」
くしゃみの反動でズレた襟巻きを、今度は沖田が丁寧に直してくれる。心配そうに見つめてくる彼に小さく首を振る。
「う……ずっ…大事、ない、です」
くしゅん。再びくしゃみをする。今日は本当によく冷える。無理しないでくださいねと困ったように言った沖田に頷いて、またズレそうになる襟巻を整える。
「今年もあっという間、でしたね」
ぼんやりと墨色の空を見上げていた沖田に、つられて空を見上げてみる。垂れ込んだ夜にそっと呼吸をする星の綴り。空気は冷たく、張り詰めた糸のようにピンと張っている。頬を掠める空気も冷たくて肌がひりつく。凍えるような寒さはいつもよりも一段と寒い。寒さで震える身体がたどたどしく息を吐いた。
「……そう、ですね」
「色々と大変なこともあったけど、皆が一緒だったから良かった」
「ええ」
「{name3} くん、それはあなたのことも言っているんですよ」
沖田は空を撫でていた視線をこちらに向けた。その後ろを駆けていったのは、流れ星だっただろうか。ぽかんとして見つめていると、にこりと微笑んだ沖田が{name2} の両手を引く。「手冷たくなっちゃいましたね」と温めるように擦る。ぎょっとしてビクリと震えると、ぱちくりとして{name2} を見つけていたが、ぷっと吹き出してクスクスと笑う。沖田は己のしていた手袋を外すとそれを{name2} の手につける。
「え」
「風邪引いたらつまらないですからね」
「これでは総司の手が冷たくなってしまうからダメです」
「ボクは大丈夫ですよ」
「私が嫌です」
片側を外してすっと目の前に差し出せば、きょとりとした沖田は仕方ないなと苦笑を浮かべて片側だけ手袋をつけた。
行きましょう。そう言って剥き出しになって言える互いの手を取り合って歩き出す。前を歩く沖田の結髪は機嫌が良さそうに揺れる。彼もこの街の雰囲気に浮かれているのかもしれない。本当に不可思議な心地だ。大晦日というだけで、街はどこか普段と雰囲気が違う。お祭りのように浮き足立っている。昨日も今日も変わり映えのしない日でただ大晦日というだけで同じようなものなのに。露店にはちらほらと店を出す者もいて甘酒や鮓、天麩羅、蕎麦などの店は賑わいを見せ始めている。新しい年に期待を乗せた除夜の鐘が夜の帳に響き渡る。こぼれた息は白く冷たい。
――にこりと微笑む、星。
「おーい。二人とも早く早く! 早くお蕎麦食べに行こうよ、斎藤が苛々してるから」
「してません」
「ほらはやくー! お蕎麦食べたら甘酒飲もう!」
ぶんぶんと手を振る永倉、むっつりと眉間に皺を寄せた斎藤が遅れた二人を待っている。
「はーい。今行きます!」
少し急ぎましょうか。そういう割には速度を上げずにそのままの速さで歩き続ける沖田。怪訝に思いながらも、その歩幅に追いていかれまいと指先に力を込める。呼応するように握り締められた温かい指先から熱が伝わる。温かくて心地良い。温かくて離れ難い。
前を行く彼らに追いつくと、するりと離れた指先はすぐに冷めてしまった。
「──起きろ、阿呆」
「あ、れ?」
トン、と手刀が脳天に落ちる。ぱちぱちと瞬き、ぽりぽりと頭を掻く。はて。一体ここはどこだろうか――。冴えない頭のまま辺りを見回すと、見慣れた警察署の資料室中であった。床には資料が散乱したままになっている。どうやら調べ物をしながら座り込んで眠ってしまっていたようだ。視界の端に靴の先が映り、足元から手繰るように顔を上げると、目の前には胡乱げな表情を浮かべた斎藤一が佇んでいた。呆れたといった大きな溜め息を吐かれ、再びぱちぱちと瞬く。
「やっと起きたか、阿呆」
「あー? 斎藤、さん? ……すみません。寝てました?」
「涎ついてるぞ」
「え?」
「冗談だ。阿呆め」
慌てて袖で口元を拭えば、やれやれと言ったようにまた深い溜息を吐く。斎藤一。{name1} {name2} とは今も昔も仕事仲間といった所。言葉は乱暴ではあるがわかりやすくいえば、腐れ縁。今しがた見ていた夢の中にも彼は登場していた。昔の――幕末の頃の夢。泡沫のように優しい、懐かしい夢だった。いつだったか目の前の男と他の旧知の男達と初詣に出かけた時の記憶だ。同じ組織の仲間という括りではあったが、斎藤とはつかず離れずといった関係であって、仲良いわけではなかった。それでもあの日、仲間達に誘われて初詣に行った記憶は今でも鮮明に覚えていて、今のことのように思い出される。
「……へっくしゅん!」
窓を開ける音がして、ちらりと視線を向ければ、深々と冷えた冬の夜の冴ゆる空気が滑り込んでくる。目が覚める寒さに思わず身震いをする。シガレットケエスから一本煙草を取り出した斎藤は流れるような動作で燐寸を擦り、煙草の先に炎を灯す。煙草の匂いが瞬間、充満していく。斎藤は口に咥え、静かに少しゆっくりとした調子で吸い込むと、ゆっくりと息を吐き出した。
「また煙草ですか? あんまり吸いすぎるのもどうなんですか?」
「うるさい」
窓辺に佇む斎藤の隣まで移動すると、窓の外を眺める。横から飛んでくる忌々しそうな視線は黙殺する。転寝をする前は部屋に日が差し込んでいたがいつの間にかに外はとっぷりと暮れている。空には幾千の星が密やかに囁き合っている。地上では暗闇の中、ちらほらと手提灯の仄かな光が点々と見られる。何処か浮足立った気配がして、「おやア?」と首を傾げる。心なしか往来を歩く者たちは普段より多い。中には露店らしきものも見える。
「なんか賑やかですね?」
「今日は大晦日だから浮足立ったやつらも多い。中には度し難い阿呆らも多い。今日は見廻りの人員をも増やしている」
「私達もいつぞやは浮かれた阿呆でしたね」
「……いつの話をしているかと思えば」
{name2} が見た過去の夢の話をすれば、憶えていた斎藤は眉間に皺を寄せた。年越しぐらいは静かに過ごそうと思っていたところを永倉と沖田に初詣に誘われ引きずり出されたのだった。そのことを思い出したのだろう。{name2} も斎藤と同じで永倉と沖田に引きずり出された側ではあるが、今振り返ればあの時は仲間たちと楽しく過ごすことが出来たし、誘われて初詣に行ってよかったと思う。
「――今となってはいい思い出だと思いますけど」
「誰も悪いとは言っておらん」
フンと鼻を鳴らした斎藤に、{name2} はパチパチと瞬きをして、緩やかに相好を崩す。斎藤が吐き出した紫煙がそっと夜の空を駆けていく。
「あ、そうだ、斎藤さん。お蕎麦食べに行きましょうよ」
「は? お前と?」
「え、何で嫌そうな顔するですか。久々に見廻りがてら行きましょうよ」
「食べたいなら一人で行け。なんで仕事終わりにまでお前のお守りをしないとならん」
「え、仕事終わったんですか?」
「お前が寝こけてる間にな」
「ええ~。私まだ終わってない……」
「……はぁ。もう今日は切りのいいところまででいい。急務ではないから、使う時までにしっかりまとめておいてくれればいい。どうせ今日のお前は使い物にならん。俺は帰るぞ」
「はは、手厳しい。……わかりました、お疲れさまです」
ふぅと大きく息を吐きだした斎藤は、机の上にある灰皿に煙草を押し付けて火種を消す。窓を閉めて、ちゃんと戸締りしろよと資料室をでていこうとする。その背中を見送りながら、作業に戻ろうとしていた{name2} だが、くしゅんとクシャミをすると、斎藤が扉を開けて立ち止まり、くるりと振り返る。
「手袋はいるか?」
ニヤリと嗤うこの男に、{name2} は苦笑して首を振る。
「――いいえ。もういらない」
* * *
斎藤が退出してから一刻は経っただろうか。乱雑に散らばっていた資料を整理し、今後利用するものはすぐ利用できるようにまとめ終えることが出来た。もちろんこれが全てではないが部屋を出ていった斎藤が急務ではないと言っていたこともあるし、区切り良いところで一区切りとして切り上げることにしたのである。作業中に転寝するぐらいではあるから何だかんだで身体の隅には疲労感が蓄積しているのだ。片側の肩を押さえて首を左右に、ほぐすように動かすと、パキパキと固まった肩回りの肉が悲鳴を上げる。この様子では年越し蕎麦よりも帰ってゆっくりと休息を取った方が良いかもしれない。はあ、と重く吐いた息は冷たい。
資料室内の後片付けを済ませ戸締りをし、{name2} も警察署を後にする。宿直の担当者に挨拶をすれば、羨ましそうに視線を送られたが、すぐに気を付けて帰れよと気遣いの言葉が送られてぎこちなく笑った。難儀なものだ。
警察署の外に出ると先程よりも一層冷たい空気が垂れ込めていた。深々と夜が降り積もり続けている。研ぎ澄まされていくように空気は冷たく、美しい。良く晴れ渡った空に泳ぐ星々が一層きれいに光り輝いている。普段は静かな夜だが、今日は大晦日。戌の刻を過ぎたが、普段よりも出歩く人々は多い。この光景はあの頃と、昔も今も変わらない。新しい年に期待を募らせて、足取りが軽やかになる。良い一年だったと言える人にも、そうでなかったと思う人も、”来年も”、”来年こそ”は、と希望を抱くのだろうか。往来を行く人々の顔はどこか晴れやかに見える。中には酔いどれ達が道端で吐き戻したり眠りこけていたりするのだが、それもまた新しい年に期待して浮かれてしまうから仕方のない事なのだろうか。
「ほらほら、そこの旦那さん達。こんなところで寝ていたら風邪を引いてしまうよ。そちらの旦那さんはお水はいるかい?」
「ううーん……? あれ? 死んだとっつぁん?」
「おろろろろろ……うっぷ……まだまだ……うぷ……」
「残念だけど私はアンタの死んだとっつぁんじゃあなくて勤務帰りのお巡りさんだよ。お水だよ、ほらしっかり」
やれやれと呆れ思いながらも、男達を放ってはおけない。露店の親父がちらりちらりと心配そうに視線をくれる。まだ他の客がいるから屋台から離れられずにいるがこちらの事も気にかかっているらしい。有り難いことだ。水もらっていいかと声を掛けると、水の入ったこと竹筒を投げ渡してくれる。栓を抜き、吐き戻す男には水を、眠りかける男には声を掛け続けていると、不意に頭上が暗くなる。ふと顔を上げれば、驚いた。目の前に筋骨隆々とした巨躯の男が立っている。赤襟のついた白い外套が目立つ。新津覚之進という男だ。
「お前はいっつも何か巻き込まれているな」
「センセ?」
この先生と呼ぶのはこの男が陶芸家であるからだ。縁など蝋燭の火のように吹けば消える程度だろうと当初は陶芸家先生と他人行儀に呼んでいたのだが、慇懃無礼だと指摘されて以来、{name2} は先生と呼んでいる。山奥に住むような人嫌いな男ではあるが、何かと縁があったのか小さなきっかけが積み重なり、縁を重ねる内暫し酒を酌み交わすようになった。同じ銘柄の酒を好み、穏やかに飲み交わす内に互いに打ち解けて合うことができたようだ。この男はわざわざ下山して{name2} を探しにやってきたようだ。
「年越しぐらい酒飲みにと、お前の家に行ったが留守だった」
じろりと非難めいた視線を寄こした新津に、{name2} は瞬きをする。酒飲みに{name2} を誘いに来てくれたらしい。斎藤には振られたが、新津は年越しに付き合ってくれるつもりがあるようだ。それは僥倖ではあるが。
「え? センセは冬眠してたのでは?」
「俺は熊じゃねぇよ……! 折角人が酒でも飲んで年でも越そうかと思ったら、お前まさか……」
苦虫を噛み潰した表情をする。
「ああ。仕事してましたけど?」
「お前も、本当に難儀なものだな……」
新津の視線の中に憐憫が滲み始めるが見えると、決まりが悪く視線を逸らす。
すると事の成り行きを見守ってた露店の店主がバタバタとこちらにやってくる。
「なあ。今聞こえたんだけど、お兄ちゃん達知り合いかい?! ちょっと店番頼んでいいかい?!」
「え?」
「こいつらの家の人呼んですぐ戻ってくるから! それまで頼むよ! 奢るからさ!」
「え!? ちょっと!? おじさん!?」
「意外と足速ぇな、あの親父……」
ちょっくら言ってくらァ、と疾走していった親父。その姿はすでに小さくなっていき、やがて見えなくなった。新津が感心する程の足の速さだ。
酔っ払いの親父二人を放っておくわけにもいかないので、少し移動させるべきか。よっこいしょと親父の屋台の近くにある街路樹にもたれ掛からせて、着ていた羽織を脱いでかけてやる。大したことをしてはやれなかったがすぐ家人を呼ぶと言っていたから、それまでは様子見しながら待つ他ない。そっと屋台の椅子に新津と腰掛けていれば、ぐうと腹が鳴る。咄嗟に腹を押さえれば、しっかりと聞こえていたらしい新津がプッと噴き出した。
「何だ、飯食ってねぇのか?」
「……食べ損ねてましたからね」
ニヤニヤと笑う新津。{name2} はぷいとそっぽを向けば、一頻り笑った新津が立ち上がり、外套を脱ぎ捨てる。この真冬に半袖かと{name2} はぎょっとして思わず両腕を擦るが、この男は特段寒さを感じてはいないらしい。{name2} は見てるだけで寒いというのに。
「仕方ねぇな。少し待ってな」
「え、あなた……この寒いのに……半袖……?」
「そばがある……ってなんの話してんだお前。人がせっかく準備してやろうと」
「いえ……お蕎麦いいですね。大晦日だし丁度食べたかったんですよね」
「……ったく。天ぷらもあるぞ」
「それは素晴らしいですね」
「これは俺から特別に、だ」
すっと取り出したのは万寿の酒瓶。{name2} と飲もうと昼間に馴染みの酒屋で買って腰帯に引っ掛けて持ち歩いていたらしい。栓を抜いて猪口にとくとくと二人分。猪口に流し込まれた瞬間に米の柔らかい匂いが香り立つ。涼やかな透明度の水面がきらきらと輝く。並々と注がれた猪口を互いに持つと、その場で猪口を掲げてから互いに酒を呷る。こくり、こくり、こくり、とゆっくり嚥下する。
「……はぁ」
唇を潤すと思わず漏れる溜息。――ああ美味い。この豊潤な香りと旨み。仕事の後の一杯はまた格別である。
「遅くまでご苦労だったな」
飲み終えた新津はことりと徳利を置き、早速料理の準備を始める。それを眺めながら、空になった猪口をコロコロと弄ぶ。
「今更ですけど、飲酒して料理するのっていいんですか?」
「このくらい造作もない」
「ふぅん? ……ねぇ、センセ、もう一杯」
「俺が作ってんだから大人し待ってろ」
「ちぇ~」
新津は茹で釜にそばを入れて茹でていく。{name2} はその間に箸と丼を準備して、ぼんやりとその姿を眺めている。
「もう今年も終わりかぁ、早かったなあ」
「そうだな」
「センセとは……お花見しながらお酒飲んだり、月見しながらお酒飲んだり……? 私たち、お酒飲んだりしかしてないですね?」
「フ……違いねぇ。不満だったか?」
茹で上がったそばを湯切りして、丼にそばを入れる。その上から温かい蕎麦汁を入れ、切ってあったネギとわかめを散らし、仕上げに海老の天ぷらを乗せる。海老天そばだ。出汁の香りが食欲を掻き立てる。{name2} がわァと感嘆を漏らせば、新津は作った甲斐があったとニッと笑う。
「待たせたな」
「わぁ! ありがとうございます。いただきます!」
丼を受け取った{name2} は早速そばを一口。温かくてほろりとする。疲れた体に染み渡るような優しい温かさ。腰の効いた蕎麦に、蕎麦本来の風味。さっくりと上げられた海老の天麩羅に蕎麦汁が絡むとまた美味しい。空腹だったために無心でつるつると啜っていると、己の分の丼を手に持った新津が{name2} の隣に腰を下ろした。いつの間にやら先程脱いでいた外套を羽織っている。
{name2} が美味いと一瞥を送れば、新津はニヤっと口端を釣り上げて酒瓶を取り出した。{name2} に向けて軽く傾けたのを合図に、{name2} は慌てて自分の猪口を両手で持って差し出した。並々と注がれていく酒。
「ありがとうございます。お蕎麦美味しいです」
「そりゃ良かったな」
酒を注ぎ終わった新津が今度は{name2} に酒瓶を差し出し、{name2} は自分の猪口を置いてからそれを受取る。新津の猪口にそっと酒を注いで器を満たすと、酒のお供に蕎麦を食べ始める。
「……私は、皆でお酒飲むのも楽しいけれど、こうしてゆっくりと静かに飲むのも楽しいから好きですよ」
「そうか」
「先生。また来年もお花見したり、お祭り見に行ったり、お月見したり、雪見したりしましょうね」
「……考えとく」
「ふふふ。考えといてください」
「仕方ねぇな」
「ええ。来年もよろしくお願いしますね」
屋台に垂れ下がっている風鈴が揺れる。それは年の瀬の浮き足立つのように軽やかに。そしてこれから迎える新しい年を祝福するように。冷たいけれども優しい風に吹かれて風鈴が鳴る。きっと来年もまたその先も。こうして緩やかに年を重ねていくのだろう。その時はあの頃のように誰か側にいてくれるだろうか。
ちらりと視線を移せば、蕎麦を啜る男と目が合い、小さく笑う。ピクリと動いた眉根を見て、ゆっくりと視線を戻して蕎麦を一口啜る。汁を飲み、ふーっと息を吐けば吐く息が白く濁る。
「降ってきたな、どうりで寒いわけだ」
「雪……かァ」
「{name1}」
「はい?」
「来年もよろしく頼む」
ハッとして新津へ視線を送れば、何事もなかったように蕎麦を啜っている。遠くの喧騒が祝福するのは新しい年の始まりだろうか。はらり、はらり。小さな雪の欠片が静かに舞い始めている。へくしょんと側で寝ていた酔っ払いの男達はくしゃみをして起きると、丁度良い具合に向こうの通りから店の親父が彼らの家人を連れてやってくるのが見えた。
「アンタ! また酔っ払って人様に迷惑かけて!」
「か、かあちゃん! ご、ごめんって!」
すぐに酔っ払い達に気がつくとすぐに詰め寄って来て、説教が始まった。平謝りの彼らを問答無用でひっぱたき、{name2} と新津と店主の親父に謝罪していくと、酔っ払いを引きずって帰っていく。あっという間に酔っ払いを連れて帰っていく姿は実につむじ風のようで、残された三人は顔を見合わせて、笑ってしまった。
「店番ありがとうございやす。お礼に……と思いましたが、もう蕎麦食べてしまいましたね」
「こいつが待ち切れなくてな」
「ちょっとセンセ! そこは恥ずかしいから内緒にしといてくださいよ」
{name2} が慌てて抗議するが新津はフンと鼻で笑う。
「親父の分も残してあるから食べてくれ」
「え?」
ご苦労だったなと新津が店の親父に自分が作った天麩羅蕎麦を渡せば、店の親父はきょとんとしていたが、俺の分の蕎麦かァと嬉しそうに顔を綻ばせた。
「蕎麦を人に作ってもらうなんて久し振りだなぁ……それじゃあ、遠慮なくいただきやす」
「この蕎麦、親父さんの手打ちですよね。噛み応えもコシもあって美味しかったです」
「ああ。親父の蕎麦中々美味かったぜ」
「お二人とも……ありがとうございます。この天麩羅蕎麦も美味しいです」
ずるずると美味しそうに蕎麦を啜り始めた親父を見て、新津と{name2} 顔を見合わせほくそ笑む。酔っぱらいの世話で疲れただろう。後はゆっくりしてくれと声をかけてお代を払うと、申し訳なさそうにしていたが、次の機会に蕎麦を食べる約束をすると、今から張り切っているようだった。
蕎麦屋の親父と別れて、紺碧の夜に閉じ込められた街を歩く。降り始めた雪の粒は夜が更け、新しい年へと向かうにつれて少しずつ大きくなっているようであった。芯から冷え混んでいく空気に身震いをして、両手を擦り合わせる。先程斎藤の申し出を断ってしまったが、大人しく手袋を借りておけばよかったかもしれない。――否、彼に借りを作るのは後が怖いから我慢だ。
「ふぇっっ、くしゅん! くしゅん!」
「寒いのか?」
「……うぅ……少し」
「なら、家帰って飲み直すか」
「ええ? 初詣は?」
「また明日でいいだろう。一緒に行ってやるから。今日はお前んち帰るぞ」
風邪引いたら元も子もないだろう。そう言って{name2} の手引っ掴むと、往来の流れに逆らって、{name2} の家に向かって歩き始める。握られた大きくて温かい手。昔繋いだ手とはまた違う。武骨な手。この手が器を生み出す手のだ。繋がれた手をぼんやりと眺める。
「お前の手冷てぇ」
「だいぶ冷えてしまいましたからね。センセの手温かくて名残惜しいですが、センセが寒いのは不本意なので離してよいですよ」
「それではお前が寒いだろう」
ぐっと拳ごと手を握り締められる。優しい手。ふふふとほくそ笑む。手を握る力を込めれば、何処からか新年の挨拶をする声が聞こえてきて、{name2} も早く帰って新しい年の祝杯をするのが楽しみになってきたのである。
24.12.15 初出 『晴れるや』