No.32

短編

御影密と夢主

 ――随分と太陽を見ていない気がする。

 傘を透かすように空をじっと睨む。空はどんよりとした灰色。雨脚はやや強く、傘を差さなければすぐに間もなく全身濡れ鼠になるほどの強さ。ぱちぱちと傘の上や地面に弾ける度に、反射した雨粒が体に掛かったりかからなかったりする。
 近年多かった雨がほとんど降らない空梅雨も、今年ばかりは本来の梅雨空。梅雨入りしてからこの一ヶ月近く晴れた空を暫く見ていない。
 雨は嫌いだ。髪は湿気を含んで扱いづらいし、洗濯物も乾きが遅い。梅雨寒の気候のせいで体調管理も難しい。しとしととした雨音に耳を傾けて眠るのは嫌いではないが、こうどんよりとした天気が続くと元気もでないし、太陽が少し恋しい。
 くしゅんとクシャミをして鼻を啜ると、雨が当たらない様に傘を持ち直して帰路を慎重に歩き始める。水たまりを避けながらいつもよりもゆっくりと歩いていると、前方の軒先に見知った人物の姿を見つけた。突然の雨であったから降られてしまったのだろうか。普段はふわふわっとしている髪――白に近い薄緑というのだろうか――がしっとりと水気を含み、その人の輪郭にぴったりと張り付いている。たらりと雨粒が頬横切り、喉元を伝っていく。
 ――ほんとうに、美しい人だ。
 普段とはまた違うミステリアスな雰囲気に思わずその場にくぎ付けになっていれば、コチラの視線に気づいたその人が私を認め、怪訝そうにしている。
「{name2} ?」
「ひ、ひそか、さん」
 すっと引き結んだ黄緑色の日本人離れした瞳が、柔らかく笑みを浮かべている。息を飲んでしまうようなその仕草に惚けてしまう。こうして微笑みかけてくれるのは私の事を親しい間柄だと思ってくれているのだろうか。そうだとすれば、彼に少し近づけたような気がして嬉しい。
 弛んだ口角のままに笑みを浮かべて応えれば、そんなところにいないでおいでと密さんは手を差し出してくれる。誘われるように彼に近づいてその手をとれば、ぐいと手を引いて私を引き寄せた密さんが傘の中に入ってくる。
「{name2} 、おしごとだったの?」
 するり、と彼の白い手が私の傘を持つ手に絡まって握る拳を解くと、傘を攫って行く。
「――は、はい。密さんもですか?」
「うん。今日はスーパーの試食コーナーのおしごと」
「そうなんですね。お疲れさまです! 沢山売れました?」
「うん、美味しかったよ」
「えー? 試食品食べちゃったんですか? 食べちゃダメですよ?」
「子どもが一緒に食べようって来たから一緒に食べちゃったけど、美味しいって言ったら皆買ってくれたよ」
「うーん。それだったら、いいの……かなぁ?」
 肩を寄せてそっと傘を傾けてくれる密さんに申し訳ないなと心の中で言い訳をしながら、そうっと身を寄せる。ぱちぱちと弾ける雨音と一緒にさっきまで引き摺っていた憂鬱は弾けて消えてしまったようだ。
 ちらりと盗み見た密さんの横顔は相変わらず陶磁器のように白くてきれいだ。その涼やかな顔にはいつもどぎまぎとさせられてしまう。少し子どもっぽいこの人はマイペースでいつも眠っているような感じがする。けれども、この人は見ていないようでいつも何かを見ている。ほんの僅かな機微でさえもその黄緑色の双眸は捉えている。何考えて居るのか読み取れないその涼し気な容貌で、何か見透かされているような気がしてしまう。
「{name2} 、いい匂いする」
「え!? そうですか? 今日作ったお菓子かな……?」
「ん。甘くて優しい匂い」
 ちらりと盗み見していた視線と密さんの視線がかち合って少し決まりが悪い。そんな私を密さんは気にも留めずに、湿気でいつも以上にうねる私の髪をそっとのけて、
「!」
「……ん、あまい」
 何の前触れもなく、唇をはむと咥えられ、あっさりと離れていく。
密さんはぺろりと唇を舐めて、少し思案顔。どくどくどくと心臓の鼓動がうるさく鳴って思わず両手で口元を隠せば、密さんがこちらに視線を向けて、目が合う。すっと目を細めた彼が、{name2} と撫でるように私を呼んで、口元を覆った指先にもう一度触れるだけのキスをする。
「かえろう、{name2} 」
「っ……」
 何事もなかったかのように傘を畳む密さんを視界の端で捉えることしかできない。項垂れながら両頬を手で抑え、蒸気する体温を静まれと念じていれば、覗きこんできた密さんに再び唇を甘噛みされるのである。


19.07.15 初出 『 きみの触れた火が柔いこと 』 title by:alkalism

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