『春一番』 少し前までの凍えるような寒さが嘘みたいに暖かくなった三月中旬。桃色が美しい早咲きの桜はそろそろと葉桜になり、後少しすればソメイヨシノが開花する。そんな頃。寒い冬ももう少し。春本番を迎えようとしているこの時期は卒業式やらと世間は何かと騒がしいらしいが、この病院はまた別の忙しさと日々闘っている。 この病院に所属する医師・高荷恵は午前中の診察を終えて、遅い昼休憩を取ろうとしていた。それまでは小さな町医者の元で働いていたが、縁あってこの大きな病院に赴任した。赴任してみれば街医者の元で働いていた頃よりも沢山の患者が毎日病院へとやってくる。大変ではあるが、具合が悪く困っている人たちの力になれることでこの仕事に対してのやりがいを感じる。一人ひとりと向き合い、各々の体質にあった方法で不調を改善していくために処置する。各々に合った処置というのは難しい。様々な症状や病床を考慮した上でその時の現状での最適解だと判断しても、実際に処置してみると体質的に問題が出てしまったりと当の本人からしてみれば最適解ではなかったりもする。鈍感な時もあるが人の身体は多分に繊細なところもあるため故の難しさ。内心頭を抱えながらも向き合い続ける中で患者の笑顔を引き出せたならば、それだけでも報われてしまう。 そうして向き合い続け、あっという間に昼が過ぎる。この仕事にやりがいを感じてはいるが、自分とて一人の人間だ。ずっと根を詰めていては疲れて気が滅入ってしまう。気分転換がてら外の空気を吸おうと中庭のベンチに腰掛けて休憩を取ることにした。「……桜は、もう少し先かしら」 ベンチの上に伸びる桜の木を見上げる。このベンチはソメイヨシノが咲く頃には薄墨色に美しく染まる。今はまだ硬く閉ざされた蕾。売店で買ったペットボトルのお茶を一口。喉を潤しながら、一息つく。「あー高荷ちゃん! おつかれちゃん!」「たかにちゃん! おつかれちゃん!」「……三好先生。子ども達に悪影響だから止めてくださる?」「高荷ちゃんは今からご飯? おつかれちゃん」「話聞いています?」 黒髪の癖毛の男。三好恭之助。高荷恵と同じくこの病院に所属する医者である。外科の若い男であるが、その腕は若いながらに評判がいいと聞く。性格は朗らかで緩い。子ども達に慕われているらしく、院内ではよく子ども達に群がれている姿を目撃している。子ども達をおんぶにだっこしている姿はとても腕利きの外科医には見えず、保育士といったところの風体である。おんぶした子どもに癖毛を引っ張られながらもにこにこと笑みを浮かべた男にやれやれと溜息を吐いて子ども達に声を掛ける。「皆。それ以上は三好先生も疲れてきているから止めてあげてね」「えー?」「うん。実は流石に疲れてきていた。皆、五円玉チョコ上げるから勘弁してちょ」「五円玉チョコ!」 チョコレート菓子につられて子ども達は三好から次々と離れていく。何とも現金な子ども達だと思わなくもないが、子どもは正直なぐらいが丁度いい。三好も同じことを思ったのか「おまいさん達、ほんと現金じゃのぅ……」と少し寂しそうな瞳を湛えて呟いていた。そんな三好のことなどお構いなし。子ども達は容赦は知らぬ。チョコレート頂戴コールのが始まり、もみくちゃにされ始める。「わ~?」「ちょっと! 何やってんのよ!?」「高荷ちゃん、ヘルプ~」「もー! アンタってやつは世話が焼けるわね!?」 子ども達から追い剥ぎ同然の目に合う外科医の男を見て深い溜息を吐く。 三好はどこからともなく取り出した五円玉チョコをすぐさま子ども達にひったくられて、白衣のポケットやら何やらを勝手に漁られている。 子ども達は大袋に入った五円玉チョコの大袋を何個か見つけると、わあわあとそれに群がって袋を開け始める。個包装になった五円玉チョコが何枚も入っていて、それを皆で仲良く山分けし始めている。宝物をみつけた子ども達はそちらに夢中で三好になど見向きもしない。「ちょっと、大丈夫?」「はは。手厳しか」 もみくちゃにされて地面に倒れ込んでいた三好に高荷が近づいて手を差し出せば、彼はぱちぱちと瞬きをして暫く高荷を見つめていたが、にこりと嬉しそうに笑い、「心配してくれるのは高荷ちゃんだけじゃ」と満足そうに手を取って立ち上がった。ぱたぱたと白衣についた砂埃を叩いているしょぼしょぼとした男の腕を引いてベンチに座らせると栄養ドリンクをすっと渡す。「ほ?」「もみくちゃにされて大変だったでしょ。これ飲んでおきなさい。それじゃ午後もたないわよ」「ありがとう! 大切にしまっておくね!」「このおバカ! 飲めって言ってるでしょう。飲みなさいよ!」 この様子だとこの男は本当に飲まずにしまっておきそうだ。一度渡した栄養ドリンクひったくり、キリキリと開栓してから再び三好に渡す。念押しして、飲みなさいといえば、彼はすっと目を細めて、ありがとうと穏やかに紡ぐ。それは、凪いだ海のように穏やかな表情。「……ご馳走様。高荷ちゃん飲もうとしたんだよね。ごめんね。お礼にどうぞ。子ども達にには内緒だよ」 しい。 人差し指を唇に添え、身振り手振りしながら渡されたのは金平糖の入った小さな瓶。一体どこに隠し持っていたのだろうか。手のひらの上にポンと小さな瓶を持たされると、またねとひらひらと手を振って立ち去っていく。「……変な奴」 再び子ども達に囲まれてわいのわいのと騒いでいる三好を見て呟く。 掌に乗せられた金平糖の瓶に視線を落とす。薄桜色、若草色、黄色、白色。パステルカラーに近い色合いの金平糖が瓶詰にされていて、その様子がかわいらしい。そっと零れないように開栓し、手のひらに星屑を転がす。それを暫く眺めてから口の中にそっと含ませると、柔らかく優しい甘さが広がり、その優しい甘さが張り詰めた気持ちを緩やかに弛緩させていく。「──さて、午後も頑張ろうかしら」 便の蓋を締めてそっとポケットにしまう。ベンチから立ち上がりぐっと空に向かって伸びをすると、あっと思わず声が漏れる。ベンチの上に伸びたその枝に一輪だけ花を開いたソメイヨシノ。これから日にちが過ぎればまた次々と桜が花開いていくのだろう。その頃にはこうやってこのベンチの下で満開の桜が見られるのだろうか。その時には今日のお礼にでもあの男を誘ってやろうか。きっと驚いた顔をしながらまたあの締まりのない顔で笑うのだろう。 小さく笑みを漏らし、仕事へ戻ろうと院内へと足を向ければ、もうお菓子はないよと未だに子ども達にたかられている三好の姿が見えて思わず笑ってしまった。23.03.28 『春一番』 初出 るろ夢 / シリーズ以外 2023/07/22(Sat) 21:53:29
少し前までの凍えるような寒さが嘘みたいに暖かくなった三月中旬。桃色が美しい早咲きの桜はそろそろと葉桜になり、後少しすればソメイヨシノが開花する。そんな頃。
寒い冬ももう少し。春本番を迎えようとしているこの時期は卒業式やらと世間は何かと騒がしいらしいが、この病院はまた別の忙しさと日々闘っている。
この病院に所属する医師・高荷恵は午前中の診察を終えて、遅い昼休憩を取ろうとしていた。それまでは小さな町医者の元で働いていたが、縁あってこの大きな病院に赴任した。赴任してみれば街医者の元で働いていた頃よりも沢山の患者が毎日病院へとやってくる。大変ではあるが、具合が悪く困っている人たちの力になれることでこの仕事に対してのやりがいを感じる。一人ひとりと向き合い、各々の体質にあった方法で不調を改善していくために処置する。各々に合った処置というのは難しい。様々な症状や病床を考慮した上でその時の現状での最適解だと判断しても、実際に処置してみると体質的に問題が出てしまったりと当の本人からしてみれば最適解ではなかったりもする。鈍感な時もあるが人の身体は多分に繊細なところもあるため故の難しさ。内心頭を抱えながらも向き合い続ける中で患者の笑顔を引き出せたならば、それだけでも報われてしまう。
そうして向き合い続け、あっという間に昼が過ぎる。この仕事にやりがいを感じてはいるが、自分とて一人の人間だ。ずっと根を詰めていては疲れて気が滅入ってしまう。気分転換がてら外の空気を吸おうと中庭のベンチに腰掛けて休憩を取ることにした。
「……桜は、もう少し先かしら」
ベンチの上に伸びる桜の木を見上げる。このベンチはソメイヨシノが咲く頃には薄墨色に美しく染まる。今はまだ硬く閉ざされた蕾。売店で買ったペットボトルのお茶を一口。喉を潤しながら、一息つく。
「あー高荷ちゃん! おつかれちゃん!」
「たかにちゃん! おつかれちゃん!」
「……三好先生。子ども達に悪影響だから止めてくださる?」
「高荷ちゃんは今からご飯? おつかれちゃん」
「話聞いています?」
黒髪の癖毛の男。三好恭之助。高荷恵と同じくこの病院に所属する医者である。外科の若い男であるが、その腕は若いながらに評判がいいと聞く。性格は朗らかで緩い。子ども達に慕われているらしく、院内ではよく子ども達に群がれている姿を目撃している。子ども達をおんぶにだっこしている姿はとても腕利きの外科医には見えず、保育士といったところの風体である。おんぶした子どもに癖毛を引っ張られながらもにこにこと笑みを浮かべた男にやれやれと溜息を吐いて子ども達に声を掛ける。
「皆。それ以上は三好先生も疲れてきているから止めてあげてね」
「えー?」
「うん。実は流石に疲れてきていた。皆、五円玉チョコ上げるから勘弁してちょ」
「五円玉チョコ!」
チョコレート菓子につられて子ども達は三好から次々と離れていく。何とも現金な子ども達だと思わなくもないが、子どもは正直なぐらいが丁度いい。三好も同じことを思ったのか「おまいさん達、ほんと現金じゃのぅ……」と少し寂しそうな瞳を湛えて呟いていた。そんな三好のことなどお構いなし。子ども達は容赦は知らぬ。チョコレート頂戴コールのが始まり、もみくちゃにされ始める。
「わ~?」
「ちょっと! 何やってんのよ!?」
「高荷ちゃん、ヘルプ~」
「もー! アンタってやつは世話が焼けるわね!?」
子ども達から追い剥ぎ同然の目に合う外科医の男を見て深い溜息を吐く。
三好はどこからともなく取り出した五円玉チョコをすぐさま子ども達にひったくられて、白衣のポケットやら何やらを勝手に漁られている。
子ども達は大袋に入った五円玉チョコの大袋を何個か見つけると、わあわあとそれに群がって袋を開け始める。個包装になった五円玉チョコが何枚も入っていて、それを皆で仲良く山分けし始めている。宝物をみつけた子ども達はそちらに夢中で三好になど見向きもしない。
「ちょっと、大丈夫?」
「はは。手厳しか」
もみくちゃにされて地面に倒れ込んでいた三好に高荷が近づいて手を差し出せば、彼はぱちぱちと瞬きをして暫く高荷を見つめていたが、にこりと嬉しそうに笑い、「心配してくれるのは高荷ちゃんだけじゃ」と満足そうに手を取って立ち上がった。ぱたぱたと白衣についた砂埃を叩いているしょぼしょぼとした男の腕を引いてベンチに座らせると栄養ドリンクをすっと渡す。
「ほ?」
「もみくちゃにされて大変だったでしょ。これ飲んでおきなさい。それじゃ午後もたないわよ」
「ありがとう! 大切にしまっておくね!」
「このおバカ! 飲めって言ってるでしょう。飲みなさいよ!」
この様子だとこの男は本当に飲まずにしまっておきそうだ。一度渡した栄養ドリンクひったくり、キリキリと開栓してから再び三好に渡す。念押しして、飲みなさいといえば、彼はすっと目を細めて、ありがとうと穏やかに紡ぐ。それは、凪いだ海のように穏やかな表情。
「……ご馳走様。高荷ちゃん飲もうとしたんだよね。ごめんね。お礼にどうぞ。子ども達にには内緒だよ」
しい。
人差し指を唇に添え、身振り手振りしながら渡されたのは金平糖の入った小さな瓶。一体どこに隠し持っていたのだろうか。手のひらの上にポンと小さな瓶を持たされると、またねとひらひらと手を振って立ち去っていく。
「……変な奴」
再び子ども達に囲まれてわいのわいのと騒いでいる三好を見て呟く。
掌に乗せられた金平糖の瓶に視線を落とす。薄桜色、若草色、黄色、白色。パステルカラーに近い色合いの金平糖が瓶詰にされていて、その様子がかわいらしい。そっと零れないように開栓し、手のひらに星屑を転がす。それを暫く眺めてから口の中にそっと含ませると、柔らかく優しい甘さが広がり、その優しい甘さが張り詰めた気持ちを緩やかに弛緩させていく。
「──さて、午後も頑張ろうかしら」
便の蓋を締めてそっとポケットにしまう。ベンチから立ち上がりぐっと空に向かって伸びをすると、あっと思わず声が漏れる。ベンチの上に伸びたその枝に一輪だけ花を開いたソメイヨシノ。これから日にちが過ぎればまた次々と桜が花開いていくのだろう。その頃にはこうやってこのベンチの下で満開の桜が見られるのだろうか。その時には今日のお礼にでもあの男を誘ってやろうか。きっと驚いた顔をしながらまたあの締まりのない顔で笑うのだろう。
小さく笑みを漏らし、仕事へ戻ろうと院内へと足を向ければ、もうお菓子はないよと未だに子ども達にたかられている三好の姿が見えて思わず笑ってしまった。
23.03.28 『春一番』 初出