『結び目』 / 23年VD その1

 冬茜。冬の夕焼けの燃える美しさは思わず足を止め息を飲むほどである。日没が迫り、稜線を燃やし始める美しいあの橙は凛冽な空気さえも息を飲むように美しい。澱みのない澄み切った空気がより一層夕景を際立たせ、誰しもを魅了する。
 缶コーヒーを飲みながら、凛は一人窓の向こう側を臨む。誰そ彼。街灯の橙が薄っすらと色付き始めている。家路へと向かう人かそれとも。自治体のスピーカーから流れる時報の音楽がどこか物悲しくもあるが、どこか明日への期待を感じる。ひんやりとした廊下の片隅に自販機とゴミ箱の列。気分転換がてらに作業を中断し抜け出してはきたのだが上着かマフラーでも持ってくればよかったのしれない。少し身震いをしつつも、静まり返った廊下の片隅でのコーヒーブレイク。薄暗い自販機の側面に寄りかかりながら、少し温くなったコーヒーを一口。ぼんやりと暮れ泥んでいく夕景を眺めながら、深い息を吐き出した。
「甘いものが食べたい」
 無意識に吐き出された言葉が廊下の空気を揺らす。思いの外、ゆらゆらと、己の鼓膜をゆする。
 コーヒーのお供に甘いものが食べたい。コーヒーを飲みながら零れ出た思いが言霊により一層強くなる。交通違反に交通事故、酔っ払いの介抱、強盗、ストーカー、エトセトラ。事実は小説よりも奇なり。思いもしない事件に振り回されて流石に疲れていた。疲れ時には糖分がいいと聞く。甘いものが食べたいときは特定の栄養素が足りていないとも聞く。何が足りていないのかなどと気にしすぎるよりは好きなものを好きに食べた方が健康的な気もするが。
 要するに甘いものが食べられれば何でもよいのだ。散々けったいな事件に振り回されたのだ。早く仕事を終わらせてお気に入りの店に飛び込むのもいいのかもしれない。お気に入りの洋菓子店。ふとした時に食べたくなる美味しい洋菓子店。少し無骨なパティシエが作る繊細で美しくも甘いもの好きを多幸感で満たす美味しいお菓子の数々。サクサクで甘いクッキーやふんわり柔らかいフィナンシェ、皮はさっくり中はたっぷりなめらかカスタードシュークリーム、甘くて美味しいケーキ……嗚呼、想像しただけで食べたくなる。こうしてはいられない。早く報告書を片付けて一時でも早くこんなところから抜け出すべきだ。
「プリン、シュークリーム、ケーキ、チョコ……嗚呼、どいつもこいつも何でつまんないことで仕事増やすのよ。手当たり次第しょっ引いてやろうか」
「わぁ……あんさん随分キテるなぁ……おつかれさん」
「あ、沢下条……お疲れさま」
 喧しい男が来たと喉まででかかった言葉を飲み込んで労いの言葉をかけると、上機嫌な金髪の男がやってくる。同僚の沢下条張という男だ。すらりとした見た目だが、程よく筋肉質の男。陽気な関西人。凛の得意なタイプではないが、その性格から何だかんだで憎めない男だ。沢下条は「よっ」と手を立てて砕けた挨拶をすると自販機に小銭を入れて缶コーヒーのボタンを押す。転がり出た缶を拾い上げ、隣に並ぶようにして立つとカチャリとプルタブを捻った。同時に先ほど己が開けた缶と同じコーヒーの香ばしい香りが舞い戻ってきて、思わず鼻をひくりとさせた。嚥下する咽喉の流動を横目に、香りが拡散してしてわからなくなった己の缶コーヒーを煽る。
「今日はどうしたん?」
「交通違反にドラック、強盗、痴話げんか、その他もろもろ。警察は何でも屋じゃないわ」
「あー、お疲れさん」
「そろそろ帰りたい」
「あー、そうしょげるな。よし、しゃあないな。ワイのとっておきをくれてやるで」
 凛を不憫に思ったのか、沢下条は犬を撫でるように凛の頭をわしゃわしゃと撫でた。そうしてごそごそとズボンのポケットを何やら漁り始める。何だろうか怪訝に思いながらも、ぼさぼさになった髪の毛を手櫛で軽く整える。手間だ。余計な事をしてくれる。そう思いながらじとりと成り行きを見守っていると、何かを見つけたらしい沢下条が「あった」と嬉々として凛の手のひらの上に小さい包みを乗せた。茶色いビニールフィルムにプリントされた五円玉を模したキャラクター。小学生ぐらいの子どものお小遣いでも手軽に買えるチョコレート菓子だ。凛も幼少期の頃に小遣いを肩掛けバックに入れて田んぼに囲まれた駄菓子屋まで買いに行った記憶がある。成長して買う機会は減ってしまったが、本物の五円玉のようで面白いチョコだと気に入って買っていた。
「? ごえんだま、チョコ?」
「ハッピーバレンタインやで!」
 快活に笑う沢下条を見て、はてな。
「馬連……?」
「馬ちゃうで、バレンタインや! チョコや、チョコ! 好きな人に愛の告白とチョコ渡す日や! この沢下条張様からかわいそうな凛に愛のお裾分けや!」
 バレンタインデーと言えば、何某かの殉教の日であるとか、友達や恋人、大切な人に贈り物をする日だったか。日本では女性が意中の相手に愛の告白と一緒にチョコレイトを贈ったり、親しい友人間でチョコを交換してその日を楽しんだりする。凛も友人にチョコレイトを交換したことはあるが、学生時代の頃の話で近年では中々会うことも出来なくなってしまったため、そういった行事ごとには遠ざかっていた。職場では義理チョコの文化は用意する側の負担になるとのことで廃止されたため、益々バレンタインデーとは縁遠い生活を送っていた。
「そっか。もうそんな日か」
「どや。ワイからの愛のある友チョコや」
「愛のある友チョコ……?」
「おい、首傾げんなや! 泣くで!」
「ははっ。わかっているよ、ありがとう」
「たく……。仕方ないやっちゃ。ほら特別にもう一枚やる。これで少しは元気だしや。ええことあるとええな」
「沢下条」
「五円玉チョコやったんや。今からお前にも良いご縁がくるで」
「それは……まあ楽しみにしてみるよ」
 ほなな。そういって手をひらひら振りながら廊下を歩いていく。その後ろ姿を見送りながら、手のひらの五円玉チョコに視線を落とす。何とも言えない気が抜けるような顔の五円玉のキャラクターの表情。愛嬌のあるその顔を見て、ふと小さく笑ってしまった。久方ぶりにあったあの男は相変わらずの賑やかしい男だが、何だかんだでこの五円玉チョコのキャラクターのように憎めない。
「ご縁、いただきます」
 一つだけフィルムを破いて、口に入れる。小さい頃お小遣いを握り締めて買いに行った時と今も変わらず甘い味。冷め切ったコーヒーを流し込んで、もうひと頑張りしようと気合を入れ直すのである。

23.02.14 『結び目』 初出