『Best Wishes!』 / 23年VD その2 吐く息が白く濁る。朝焼けの眩い光と稜線から顔を出し始めた太陽光が幻想的に美しい真冬。 二月十四日のバレンタインデーを迎え、閉店まで慌ただしく過ごししてふと思えばあの女の姿を今日は見なかったと思い出す。常連の女は二十代頃だろうか。少し傷んだ黒髪と薄らと浮かぶクマ、草臥れた様子の女。面は悪くないが、仕事が忙しいのか疲労感が抜けないその姿から哀愁が漂う。他人に深入りはしない比古ではあるが、たまにの休日にやってきては満面の笑みで幸せそうに己の作った菓子を食うのだがら、情ぐらいは沸くものだ。土日が必ず休みの仕事ではないらしく、来る日も平日の午前や午後だったり、時折土日のどちらかであったりするのでいつ来るかはその女の勤務状況次第といった所である。ハロウィンやクリスマスなどのイベント限定販売の菓子を求めて仕事帰り閉店時間間近ギリギリに買って帰る時もあるため、今日もその内来るのだろうかと一つケーキを残していたが、女が来ることなく閉店を迎えた。約束していたわけでもないが、少しばかり締まりのなさを感じつつ閉店作業をする。「師匠のお気に入りの橋本さん、来なかったですね」 カフェスペースの掃除を終えた緋村剣心がバックヤードまで戻ってきていう。誰だ。初めて聞いた名前に小首を傾げる。知人の中ではその名前の人はいなかったはずだ。思い返してみても心当たりがない。「誰だ?」 緋村は意外そうに比古の方を振り向いた。「あれ? 師匠もしかして名前聞いてなかったんですか? ほら、あのパンツスーツ着たポニーテールの子。少し草臥れてる。師匠の作ったケーキ幸せそうに食べてた……!」 窓際の席で束の間の幸せをひっそりと噛み締める姿のあの女。あの女は橋本というのか。 ――ところで。「剣心。お前なんで名前知ってんだよ」「以前、お友達の誕生日ケーキ予約したいって来た時にお名前聞きましたよ。橋本凛さん。警察でお仕事されてるそうですよ」「……なんで、お前の方が知ってんだよ」「えぇ、まさか師匠とあろうお方が知らないとは」「おい。にやにやしてんじゃねぇよ。そんなんじゃねぇよ」「えぇ? 俺は何も言ってないですよ?」「ああ゛、うるせぇなぁ! 明日もあるんだ、早く帰って寝ろ!」「ふふっ。ガトーショコラ、渡せるといいですね」 早く帰れと手を振ると、にこにことしながら降参と両手上げてそそくさと休憩室の方へと逃げていく。取り置きしておいた分を目敏く見つけていたらしい。カンのいいやつめ。やれやれと溜息を深く吐き、肩を竦める。冷蔵庫の中を開ける。奥にしまっておいた箱。毎回イベント期間には必ず来店するため取って置いた分。いつも美味しかったと屈託の笑みで会計して帰っていく橋本。そんな女の姿を見るのを密かな楽しみにしていた。宝箱を開け、中の宝石を発見したようなキラキラとした瞳の輝き。高揚した頬。チェリー色の豊潤な唇が己の作った洋菓子を喰んでいく姿。口元をクリームで汚しながらもうっとりとした表情で味わうその姿が脳に焼き付いている。食べる前まで草臥れた表情を浮かべていたというのに、食べ始めればまるで水を得た魚のように生き返る。そうやって己の作った菓子で人を幸せにできるとしたならば作り手としては本望だ。 冷蔵庫の奥からその箱を取り出して、帰宅の準備を始める。ずっと置いておくわけにも行かないので少しずつ家で食べるほかない。ガトーショコラならばウィスキーのアテにでもするとよいか。などと考えて戸締まりを終えて外へ出ようとすると、ゴンと何かにぶつかった。「?」「ったぁ……」「あんたは」「うぅ……もう、お店終わっちゃいました?」 外を覗くように身を乗り出せば、ドアにぶつかったらしい女が頭を押さえて蹲っている。あの橋本と言う女だ。今しがた弟子と話していたばかりなだけに少し決まりが悪い。丈の長いダウンコートにマフラーをぐるぐるに巻いている。丁度仕事帰りだったのだろうか。 外の様子を見回せば、既に日は落ち、雲一つとない美しい夜の帳が下りている。昼間の温かい日差しはどこえやら、身が引き締まるような凍える寒さだ。ひゅうと笛のように音を立てて風が吹いていく。冷蔵庫の中に閉じ込められたような寒さに思わず眉根が寄り合う。頭を抱えて蹲ったまま暫く動かない橋本にぶつからないようにそっと入り口から出て、目の前にしゃがみ込み頭に触れると、橋本に驚いた表情が浮き上がる。「大丈夫か?」「す、すみません」「怪我は……とりあえず無さそうか?」「は、はい。大丈夫です」 恥ずかしげにはにかんで橋本はゆっくりと立ち上がる。ふらつかずにすっと立ち上がったところを見ると、不幸中の幸いにも致命傷を負ったという様子はなさそうである。怪我がない事を確認し、そっと胸を撫で下ろすと、ゆっくりと立ち上がった。不慮の事故とはいえ、怪我をさせるなど言語道断だ。当の本人は比古を観ながら、背高いですねなどと気の抜けるような事を呟いているが、そんな呑気な事を言ってのけるぐらいだから何ともないのだろう。それは何より。久々にこうして会ってみれば、相変わらずといったところだ。仕事に追われて草臥れてはいるが、以前見かけた時よりも今日は元気そうだ。「悪いな、今日は店仕舞いだ」「そうですか……やっぱり間に合わなかったかぁ」「その代わりと言っちゃなんだが、これ持って帰ってくれ」「え? でも……」 残念そうにしょんぼりとしていた橋本に、取り置きしていたガトーショコラの箱を渡せば、寝耳に水といった素っ頓狂な表情を浮かべる。店の手提げ袋に入れて持たせると、暫くそれをじっと見つめて少しばかり複雑そうな表情をしていたが、首を振る。すぐに渡したばかりの箱を返そうと差し出される。「受け取れません。営業時間内に間に合わなかった私が悪いので」「キャンセル分出すの忘れてただけだ。俺は仕事中以外は甘いもん食わねぇし折角だからもらってくれ」「でも……」 渋る橋本の手をそっと押すと、そのまま紙袋を持つ手を握り込ませる。「処分するより貰ってくれた方が助かる。金は要らねぇ。その代わりにまた来てくれよ。お前さんの食いっぷりが見ていて気持ちがいいからよ」「! み、見てたんですか!?」「パティシエが言えた事じゃねぇが、甘いものばかり食べすぎないようにな」「は、はずかしい……」 まさか見られていたなんて。そう言って居た堪れ無さそうに頬を赤く染めた橋本が己の両頬を覆い隠すようにして手を添える。橋本はスイーツを頬張って気が緩んだ姿をしっかりと見られていたことが恥ずかしいというのだが、比古にとっては好ましく思えていた。自分が作った菓子をそれはもうこの世の祝福を一心に受けたというような顔をして食べている橋本を見た時、気分が良かった。その食べっぷりに甚く感服し、とても好ましく思っていた。「いつも喰いに来てくれてありがとな」 比古はほくそ笑む。ポカンと比古を暫し見つめていた橋本はハッと我に返ると視線を右往左往させていたが、あっと何かに気づいたように声を漏らすと、鞄のポケットの中から何かを取り出して比古に手を差し出すように促した。「これ。貰ってください」「……何だこれ?」「五円玉チョコ。今日友人からもらったんです。良いご縁がくるって。一枚あなたにあげます」「だがお前がもらったものだろう、それなら」「私はもうご縁もらいましたので」 橋本はにこりと慈しむように笑い、そっと比古の手に己の手を添えて拳を握り込ませながら魔法を掛けるように呟いた。 ――あなたにもご縁がありますように23.02.18 『Best wishes!』 初出 あさきゆめみし / るろ夢 2023/07/22(Sat) 22:17:40
吐く息が白く濁る。朝焼けの眩い光と稜線から顔を出し始めた太陽光が幻想的に美しい真冬。
二月十四日のバレンタインデーを迎え、閉店まで慌ただしく過ごししてふと思えばあの女の姿を今日は見なかったと思い出す。常連の女は二十代頃だろうか。少し傷んだ黒髪と薄らと浮かぶクマ、草臥れた様子の女。面は悪くないが、仕事が忙しいのか疲労感が抜けないその姿から哀愁が漂う。他人に深入りはしない比古ではあるが、たまにの休日にやってきては満面の笑みで幸せそうに己の作った菓子を食うのだがら、情ぐらいは沸くものだ。土日が必ず休みの仕事ではないらしく、来る日も平日の午前や午後だったり、時折土日のどちらかであったりするのでいつ来るかはその女の勤務状況次第といった所である。ハロウィンやクリスマスなどのイベント限定販売の菓子を求めて仕事帰り閉店時間間近ギリギリに買って帰る時もあるため、今日もその内来るのだろうかと一つケーキを残していたが、女が来ることなく閉店を迎えた。約束していたわけでもないが、少しばかり締まりのなさを感じつつ閉店作業をする。
「師匠のお気に入りの橋本さん、来なかったですね」
カフェスペースの掃除を終えた緋村剣心がバックヤードまで戻ってきていう。誰だ。初めて聞いた名前に小首を傾げる。知人の中ではその名前の人はいなかったはずだ。思い返してみても心当たりがない。
「誰だ?」
緋村は意外そうに比古の方を振り向いた。
「あれ? 師匠もしかして名前聞いてなかったんですか? ほら、あのパンツスーツ着たポニーテールの子。少し草臥れてる。師匠の作ったケーキ幸せそうに食べてた……!」
窓際の席で束の間の幸せをひっそりと噛み締める姿のあの女。あの女は橋本というのか。
――ところで。
「剣心。お前なんで名前知ってんだよ」
「以前、お友達の誕生日ケーキ予約したいって来た時にお名前聞きましたよ。橋本凛さん。警察でお仕事されてるそうですよ」
「……なんで、お前の方が知ってんだよ」
「えぇ、まさか師匠とあろうお方が知らないとは」
「おい。にやにやしてんじゃねぇよ。そんなんじゃねぇよ」
「えぇ? 俺は何も言ってないですよ?」
「ああ゛、うるせぇなぁ! 明日もあるんだ、早く帰って寝ろ!」
「ふふっ。ガトーショコラ、渡せるといいですね」
早く帰れと手を振ると、にこにことしながら降参と両手上げてそそくさと休憩室の方へと逃げていく。取り置きしておいた分を目敏く見つけていたらしい。カンのいいやつめ。やれやれと溜息を深く吐き、肩を竦める。冷蔵庫の中を開ける。奥にしまっておいた箱。毎回イベント期間には必ず来店するため取って置いた分。いつも美味しかったと屈託の笑みで会計して帰っていく橋本。そんな女の姿を見るのを密かな楽しみにしていた。宝箱を開け、中の宝石を発見したようなキラキラとした瞳の輝き。高揚した頬。チェリー色の豊潤な唇が己の作った洋菓子を喰んでいく姿。口元をクリームで汚しながらもうっとりとした表情で味わうその姿が脳に焼き付いている。食べる前まで草臥れた表情を浮かべていたというのに、食べ始めればまるで水を得た魚のように生き返る。そうやって己の作った菓子で人を幸せにできるとしたならば作り手としては本望だ。
冷蔵庫の奥からその箱を取り出して、帰宅の準備を始める。ずっと置いておくわけにも行かないので少しずつ家で食べるほかない。ガトーショコラならばウィスキーのアテにでもするとよいか。などと考えて戸締まりを終えて外へ出ようとすると、ゴンと何かにぶつかった。
「?」
「ったぁ……」
「あんたは」
「うぅ……もう、お店終わっちゃいました?」
外を覗くように身を乗り出せば、ドアにぶつかったらしい女が頭を押さえて蹲っている。あの橋本と言う女だ。今しがた弟子と話していたばかりなだけに少し決まりが悪い。丈の長いダウンコートにマフラーをぐるぐるに巻いている。丁度仕事帰りだったのだろうか。
外の様子を見回せば、既に日は落ち、雲一つとない美しい夜の帳が下りている。昼間の温かい日差しはどこえやら、身が引き締まるような凍える寒さだ。ひゅうと笛のように音を立てて風が吹いていく。冷蔵庫の中に閉じ込められたような寒さに思わず眉根が寄り合う。頭を抱えて蹲ったまま暫く動かない橋本にぶつからないようにそっと入り口から出て、目の前にしゃがみ込み頭に触れると、橋本に驚いた表情が浮き上がる。
「大丈夫か?」
「す、すみません」
「怪我は……とりあえず無さそうか?」
「は、はい。大丈夫です」
恥ずかしげにはにかんで橋本はゆっくりと立ち上がる。ふらつかずにすっと立ち上がったところを見ると、不幸中の幸いにも致命傷を負ったという様子はなさそうである。怪我がない事を確認し、そっと胸を撫で下ろすと、ゆっくりと立ち上がった。不慮の事故とはいえ、怪我をさせるなど言語道断だ。当の本人は比古を観ながら、背高いですねなどと気の抜けるような事を呟いているが、そんな呑気な事を言ってのけるぐらいだから何ともないのだろう。それは何より。久々にこうして会ってみれば、相変わらずといったところだ。仕事に追われて草臥れてはいるが、以前見かけた時よりも今日は元気そうだ。
「悪いな、今日は店仕舞いだ」
「そうですか……やっぱり間に合わなかったかぁ」
「その代わりと言っちゃなんだが、これ持って帰ってくれ」
「え? でも……」
残念そうにしょんぼりとしていた橋本に、取り置きしていたガトーショコラの箱を渡せば、寝耳に水といった素っ頓狂な表情を浮かべる。店の手提げ袋に入れて持たせると、暫くそれをじっと見つめて少しばかり複雑そうな表情をしていたが、首を振る。すぐに渡したばかりの箱を返そうと差し出される。
「受け取れません。営業時間内に間に合わなかった私が悪いので」
「キャンセル分出すの忘れてただけだ。俺は仕事中以外は甘いもん食わねぇし折角だからもらってくれ」
「でも……」
渋る橋本の手をそっと押すと、そのまま紙袋を持つ手を握り込ませる。
「処分するより貰ってくれた方が助かる。金は要らねぇ。その代わりにまた来てくれよ。お前さんの食いっぷりが見ていて気持ちがいいからよ」
「! み、見てたんですか!?」
「パティシエが言えた事じゃねぇが、甘いものばかり食べすぎないようにな」
「は、はずかしい……」
まさか見られていたなんて。そう言って居た堪れ無さそうに頬を赤く染めた橋本が己の両頬を覆い隠すようにして手を添える。橋本はスイーツを頬張って気が緩んだ姿をしっかりと見られていたことが恥ずかしいというのだが、比古にとっては好ましく思えていた。自分が作った菓子をそれはもうこの世の祝福を一心に受けたというような顔をして食べている橋本を見た時、気分が良かった。その食べっぷりに甚く感服し、とても好ましく思っていた。
「いつも喰いに来てくれてありがとな」
比古はほくそ笑む。ポカンと比古を暫し見つめていた橋本はハッと我に返ると視線を右往左往させていたが、あっと何かに気づいたように声を漏らすと、鞄のポケットの中から何かを取り出して比古に手を差し出すように促した。
「これ。貰ってください」
「……何だこれ?」
「五円玉チョコ。今日友人からもらったんです。良いご縁がくるって。一枚あなたにあげます」
「だがお前がもらったものだろう、それなら」
「私はもうご縁もらいましたので」
橋本はにこりと慈しむように笑い、そっと比古の手に己の手を添えて拳を握り込ませながら魔法を掛けるように呟いた。
――あなたにもご縁がありますように
23.02.18 『Best wishes!』 初出