【はじめに】
こちらで短文や小ネタなどを載せます。
基本的にお相手キャラ×夢主の話。単発の話も稀にございます。
現状るろ夢が多くなるかもしれませんが、昔書いたものの供養で中途半端なものも載せます。

るろ主デフォルト名:橋本凛(男装名:朔太郎)

人目に触れない方が良いものは鍵つき。
鍵は『あさきゆめみし』シリーズのお相手の身長。数字3桁。
DC夢 / 松田妹主と降谷がポアロであったその後
(*以前書いてた夢主設定を見直して書いてるため、以前の夢主設定と異なります)


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 一日の業務を終え、一人暮らしをする1DKの集合住宅に帰宅する。自宅のドアの前で家の鍵を開けようとすると、はたっと違和感を感じて留まる。
 ――誰かいる?
 ぎょっとしたが、緊急事態の時も冷静であれ。大きく息を吸って、ふうぅっと長く息を吐き切ると、室内の状況を確認するために、室外のメーターボックスを静かに確認する。じっと見つめていれば、案の定、メーターが動いている。やはり誰かが室内に侵入しているようだ。身内や友人が訪ねてくるという予定もないため、考えられるのは線はやはり空き巣であろう。単独犯か、複数犯か。自衛の為にと教えてもらったボクシングの心得はあるが、制圧できるほどの腕前でもない。安全には代えられないから、敢えて呼び鈴を鳴らして出ていってもらうか。どうせ盗まれるような金目のものもない……もしも下着泥棒であったりしたら、それはそれで困る。ここは管理会社に連絡して一緒に立ち会ってもらうか。警察は、なぁ……。
 スマートフォンを取り出し、アドレス帳に登録してある管理会社の連絡先ページを探す。
「どうか、されましたか?」
 不意に後方から声を掛けられて、ビクリと肩を揺らす。振り返れば、丁度階段を上がってすぐの所に四角い縁の眼鏡をかけた実直そうな男が立っていた。抹茶色のスーツをピシッと着こなした男で、きっと周囲からも期待されているデキるサラリーマンといった感じなのだろうか。あ、と目を見開いた男の反応に、どこか出会っていただろうかと小首を傾げたが、すぐに真面目な顔つきになった。買い物帰りなのかコンビニの袋が手にぶら下がっている。怪訝そうな顔の男はスタスタと歩いてきて、忍の側までやってくる。おそらく初めて見る人だ。
「あ、どうも……えっと、ご近所さん、ですか?」
「ええ。同じ階の飛田と申します。丁度立ち尽くしたままのあなたの姿が見えたので」
「ええっと……」
 家の中に知らない誰かがいると言ったら今まで面識も何もなかったご近所さんでも助けてくれるだろうか。忍が当惑していると、飛田は忍を落ち着かせるように柔らかく口元を結ぶ。
「何かお困りのようでしたのでお声がけさせていただきましたが、すみません、余計な御世話だったかもしれません」
「いえ、ありがとうございます。その、ですね……どうも、家の中に、知らない誰かが入り込んでいるようでして……」
「……知り合いがいらっしゃっている、とかではないんですか?」
 忍が状況をしどろもどろに話し始めると、飛田が浮かべていた穏やかな表情から神妙な顔つきに変わる。深刻な表情を浮かべた飛田はちらりと忍の家のドア一瞥し、忍に持っていた荷物を預けるとそのまま彼女を一歩下がらせ、ドアの眼の前に立つ。そっとドアに耳をそばだて、ゆっくりノブを回す。音を立てずに、おそるおそるとドアノブを引き、飛田と忍は顔を見合わせる。
 ――開いて、る。
 二人の間に緊張感が走り、忍はゴクリと息を呑む。
「(中の様子を覗いてみます。危ないのですぐに逃げられる所に避難しててください)」
「(で、でも、と、飛田さんが……)」
「(自分は大丈夫ですのであなたは自分自身の身の安全の確保をお願いします)」
 互いにアイコンタクトをして、忍は言われるがままに後退り成り行きを見守ることにする。えらいことになってしまった。まさかご近所さんを巻き込むことになるとは思わなんだ。
――だか、それで良いのか?
 自分の問題をたまたま居合わせた他人に任せるだけ任せたままにしていてよいのか。そもそも悪いことをしていない自分が何故泣き寝入りしなければならないのか。悪いのは人様の家に勝手に侵入している不逞の輩の方だ。そう思ってきたら腹が立ってきた。荷物を廊下の隅に置き、そっとドアを開けて隙間から中の様子を窺う飛田に近づき、ずんずんと近づいていく。近づく気配にギョッとした飛田が制止しようと手を広げたが、ええいままよ、とドアを勢いよく開ける。このまま引き下がってたまるか。
「ちょっ!? 危ないから下がって……!?」
「なんで私が大人しくしなきゃいけないの!? 許さーん!」
 パンプスを脱ぎ捨ててずんずんと部屋に入ると、リビングにいる誰かも気づいたようで、玄関とリビングに繋がる通路のドアが開かれる。
忍を止めようと追ってきた飛田が忍の腕を取りぐっと引き戻し庇うように前に出る。
「遅いぞ、忍……っと、風見?」
「え!? ふ、降谷さん!?」
「え、零君?」

 ――え?

 松田忍と降谷零、降谷零と飛田――本名は風見裕也という――が互いに知人同士であったという事実が判明し、泥棒だと思っていた相手が降谷だったという結末を迎え、忍と、風見は互いに顔を見合わせてすっかり脱力する。忍は良かったと大きく息を吐き出すと、ぐいっと引っ張られる。降谷だ。
「僕が二人を勘違いさせたのはすまないが、いつまでそこに溜まっていても仕方がない。ご飯の準備ができているから少し話をしよう」
「あ、はい。すみません。松田さんも大丈夫ですか?」
「ええ。こちらこそお付き合いしてくださってありがとうございました」
 準備するから着替えてきなさいと忍に言うと、予め作っていたらしい食事の準備を始めるので、忍と風見は廊下に置いたままの荷物を一先ず引き入れる。言われた通りに忍が身支度を済ませると、降谷と風見が何か話していたようだが、風見はすっと立ち上がって、詳しい事は降谷さんにませましたので帰りますとお辞儀してさっさと帰っていってしまった。忍が引き留める間もないぐらい颯爽と。
「お、お礼したかったのに!」
「俺が言っとくよ」
「そういえば零君と飛……風見さんって知り合いだったのね」
「それはこっちのセリフだ。まさか君たちも知り合いだったとは」
「いや、それは偶然。零君がいると思わないから泥棒に入られたと思ってどうしようかと思ってたら声かけてくれた」
「ふぅん?」
「?」
 降谷はじっと忍のことを見つめていたが、ご飯食べようとリビングテーブルに座る。ご飯と豆腐とワカメの味噌汁に、生姜焼き。生姜たれの芳ばしい匂いが食欲をそそる。以前は料理が得意ではないと言っていたけれども、意外だ。
「零君って昔料理苦手って言ってなかった?」
「いつの話をしているんだ。料理ぐらい出来るようになってるよ」
「そっか。頑張ったんだね」
「忍はもう少し自炊しような。冷蔵庫の中何もなかったぞ」
「うっ……」
 にやにやと不敵の笑みを浮かべる降谷に、忍は決まりが悪い。別に料理が出来ない訳では無い。少し面倒なだけだ。
 こうして向かい合って食事をしてみると彼が警察学校時代に時折会い、顔を突き合わせて食事をしていたのを思い出す。あの頃は兄の友人たちに会ってみたいと言って駄々をこねて会わせてもらい、そこから時折休みの日に会いにいくようになったのだったか。懐かしいなと降谷が食べる姿を眺めていれば、彼もそう思ったらしく、懐かしいなと呟いた。今は二人。萩原は爆弾処理中に殉職、兄も殉職、伊達は交通事故、諸伏は警察官を辞すと言ってからは音信不通。恐らくは……
 これ以上先を考えたくないと思考を振り払い、別の疑問を提示する。
「そういえば、何で零君が私の家に? 先日会った時は家の場所教えてなかったし、鍵も渡してなかったよね?」
 先日喫茶ポアロで再会した際はその二階の毛利探偵事務所に居候する江戸川コナンという少年ともう一人の喫茶ポアロの店員の榎本梓という女性と会話していたため特にそういった話をする暇もなかった。ランチが終わればおやつ時に入り、ランチが終了して引いていた波が少しずつ寄せ返してきて店員二人が忙しくなってきたからだ。江戸川と忍は店の混雑状況を見て、解散し、そのまま互いに帰路に就いたのである。
 思わぬ再会を経た降谷と忍ではあったが、降谷は本名の降谷零ではなく安室透という人格としてポアロに勤務していた。経緯は聞いてないが、以前警察官を辞したという噂はデマであり、潜入捜査官として身内や知人に被害が及ばぬように自分の素性を偽っていたのであろう。おそらく、彼は公安警察の一人。喫茶ポアロに潜入捜査の一環で勤務しているとなれば、顔馴染みである忍がその周りをうろつくわけにはいかない。極力彼の邪魔にならぬように接触は控えるべきであると結論に至り、あれ以来ポアロを訪問することもなく、普段通りの日常生活を送っていたのだが、本日、唐突に降谷が来訪した。あの泥棒騒ぎになってしまった。
「僕に掛かれば忍の住んでいるところなんてすぐわかるよ」
 職業上調べ上げることは造作もないということなのだろうが、それは職権乱用ではないか。忍がじとりと視線を送るが、彼はそれを黙殺する。これは常習犯だ。無駄骨を折るだけだろうが、諌めるだけは諌めるべきか。
 降谷はごちそうさまと手を合わせて、テーブルの上の食器を片付け始める。台所のシンクに使ったお皿を漬け込んで再びテーブルに戻ってきたころで忍が完食すると、そのまますぐに食器も回収し、それもシンクに漬け込まれていく。忍がご馳走様と述べれば、降谷はお粗末様と笑う。台拭きでテーブルの上を拭いてから、急須で二人分のお茶を淹れる。
「零君……兄さんの友人だから訴えはしないけど、他の人にやったら訴えられる可能性あるから気を付けないとダメだよ?」
 降谷は瞬きをして、忍の目を覗き込む。その表情はあくまでも微笑みを讃えている。
「そんなことはしないよ。折角再会したのだから忍と二人きりで少し話をしたかったんだけど、忍はもうポアロに来ないつもりみたいだったからね」
 じろりと逆に問い詰めるような降谷の瞳を受け、今度は忍が肩を竦める番だ。
「……私がポアロの常連さんになったら零君のお仕事の邪魔になるでしょう」
「今更忍一人が常連になったところで支障はない」
 それよりも聞きたいことがある、と身を乗り出してきた降谷の顔を咄嗟に顔を両手で受け止める。忍とて聞きたいことがあった。
「……零君はさ警察官になったことあんまりよく思っていないでしょう」
「どうして?」
「兄さんの二の舞になると思った?」
 一瞬、その瞳が暗く揺らめいた気がした。
「そんなことはないよ」
「私はこれ以上自分と同じような被害者を出したくないと思ったからこそ、なりたいと思ったよ」
「……そうか」
 何も答えてはくれないが、これ以上の言葉は要らないだろう。困ったような表情を浮かべながら、忍の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「――お勤め、ご苦労さま」
「私だって役に立てることあるよ、もう守られてばかりは嫌だからね」
 忍はパッと髪を撫でる手をはねのけて、降谷に手首を掴む。もう片方の手で降谷の目の下をなぞる。「酷いクマ」と呟けば、彼は驚いた表情を浮かべた。ぐっと腕を引っ張って、寝室へと引っ張っていくと降谷をベッド上に放り投げ、素早く掛け布団をかけた。
「え? 忍……?」
「寝不足なんでしょ。今日はもう寝なさい」
「いや、さすがに、ここで寝るのは」
 有無を言わさぬ忍の言葉に珍しく降谷もたじたじだ。
「いいから寝ろ」
 起き上がろうとする降谷に、忍は唸りながら近くにあったクッションを顔面に投げつけて再び布団の上に沈める。
「……忍、ごめん。それじゃあ少しだけ仮眠を」
「いいよ明日休みだから気にしないで。零君の仕事はただでさえ忙しいんだから。身体が資本でしょ」
 おやすみ、いい夢を。
 自室のドアを閉めると、洗い物を始める。シンクの洗い物を手早く済ませると、戸棚の中に隠していたバーボンをそっと取り出せば、飲み過ぎないように、と誰かさんが貼ったらしい付箋を見て思わず笑う。その割には、隣に高級チョコレート菓子店のチョコレートが置いてあるものだから、ドアの向こうで今日は少しだけ夜更かしをして晩酌を楽しんでしまおう。再開を祝いながら。

25.05.20 『朋あり遠方より来る』 初出
DC夢 / 松田妹主と降谷がポアロで再会する
(*以前書いてた夢主設定を見直して書いてるため、以前の夢主設定と異なります)

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 手を浸したくなるような涼やかな青空。快晴。休日をより楽しむにはやはり天気の一つや二つ良くなければと上機嫌で街並みを歩いていく。陽だまりの心地よい季節になった。日用品買い出しをして昼下がり。昼食時を迎えた街中は飲食店からの食欲をそそる匂いで満たされている。買い物を終えた忍も正午を過ぎて空腹を刺激され始めていた。今日は何を食べようかと周囲を見回しては目移りする。陽気な外国人オーナーが作るインドカレー屋、ラーメン店の熱々のラーメン、ベーカリーから漂う焼きたてのパンの匂い。どれも彼もが心地よく、空腹を更に刺激する。昼時の混雑からは落ち着いているものの、まだまだ混雑している店舗も多い。どうしたものだろうかとなと歩いていると、一件の喫茶店が目に入り、歩みを止める。
「最近入ったあの喫茶店の店員さんイケメンなのよ。それだけじゃなくて食事も美味しいからぜひ行ってみて。ハムサンドがすごく美味しいの」
 ふと職場の先輩が話していたことを思い出した。その話を聞き、近くに用がある時にでも寄ってみようと思っていた店だ。確かこの喫茶店だったか。看板を見つけ、近づいてみると”喫茶 ポアロ”の文字。外観は表参道やらのお洒落なカフェというよりは、純喫茶寄りのレトロな部類に入るだろう。お洒落なカフェも魅力的ではあるが、気後れしてしまい逆に落ち着かない。忍個人としてはこのポアロのような親しみやすい憩いの場としての喫茶店の方が好みである。このポアロは小規模な雑居ビルの一階に入っており、その一階がこの喫茶ポアロになっており、二階は探偵事務所――よくよく見れば、眠りの小五郎で一躍有名となった毛利小五郎の名前が大体的に窓ガラスに貼られている――という構成になっている。
 毛利小五郎と言えば、難事件を解決し、その事件解決の姿があたかも眠っているような姿なので、付いたあだ名が眠りの小五郎。最近よく耳にするようになった名前であるから忍も聞いたことはあったが、こんな所に毛利小五郎の事務所があるとは思っていなかった。事務所の方を見上げて、へぇと感心していると、丁度二階事務所に通じる階段から眼鏡をかけた子どもが降りてきて、鉢合わせる。青いジャケットに白いシャツ、赤い蝶ネクタイ。ぱちくりとした目が可愛らしい。毛利探偵のご子息だろうか。視線が合い少年は小首を傾げる。兄の幼少期の写真もこのくらいの頃があってかわいかったなと自然と心が和む。
「? お姉さん、小五郎のおじさんに何か御用ですか?」
「ううん。私はこちらの喫茶店の方に。毛利探偵の名前は聞いたことあるけど、事務所ってこんなところにあるんだ、って少し感心してただけなの」
「なーんだ。そーだったの。僕も今からポアロでご飯食べようと思ってたんだ。ポアロのごはん美味しいからおすすめだよ」
「そうなんだね。私の職場の先輩もポアロのごはん美味しいって言ってたから、ずっと気になっていたの。近くに来たから今日は来れて良かったよ」
 にこりと笑うと忍につられて少年も笑って、ハムサンドとか美味しいんだよと教えてくれる。
 江戸川コナンというらしいその少年は毛利小五郎とその娘・毛利蘭の父子家族――正確には奥さんは別居中だそうだ――の下に居候しているらしい。家庭事情はそれぞれではあるが、まだ幼い子が人様のお家に預けられるとはのっぴきならない事情があるのだろう。江戸川は小学一年生だという。まだ入学して一年目で両親がおらず心細いだろうに。小学生の身で人様の家に預けられるなんて大変な人生だと呟くと彼は苦笑いしていた。心なしか哀愁が漂っている。小学生にしては達観し過ぎではないか……?
「いらっしゃいませ、コナン君。おや……はじめまして」
「こんにちは安室の兄ちゃん。丁度お店の前で鉢合わせした……えっと?」
「――……あ。ごめんね、コナン君。そういえば名前名乗っていなかったね。私は松田。松田忍です。安室? さんも初めまして」
 目の前に現れた金糸の髪の男に目が釘付けになっていると、江戸川はおよそ普通の小学生が向けないであろう胡乱な目を忍に向けた。忍が突如として目の前に現れた眉目秀麗な男に目を奪われていたとでも思ったのだろう。傍から見ればそう見えたやもしれぬ。
「ダイジョウブ? 忍さん?」
「ええ。噂で聞いてたけど、本当にイケメンさんなんだなって驚いてしまって」
 しどろもどろに答える忍に、最早一目惚れしたなと呆れ顔の江戸川の顔。だが、忍の心中は別の意味で穏やかではなかった。脳裏を埋め尽くす疑問。何故、Why? で埋め尽くされている。
 ――夢でも見ているのだろうか?
 ぱちぱちと瞬きをする。まさか音信不通となっていた兄の友人が喫茶店で働いているなんて夢にも思わない。
 「どういう事だってばよ……?」と脳内で昔読んだ漫画のキャラクターが首を傾げている。
「安室さん。忍さん、職場の先輩からポアロのこと聞いて来てみたんだって」
「あ、はい。ハムサンド美味しいと聞いたので食べたいのですが……」
「そうでしたか。準備しますのでぜひ食べて行ってくださいね」
 安室はにっこりと笑みを浮かべて、忍と江戸川を案内する。あまりにも惚けているように見えたのか、忍の姿を見かねた江戸川が心配して相席するかと尋ねられて、そこで気を遣わせてしまったと忍は我に返る。大丈夫だと凪いだ声で告げれば、意外そうな顔をした江戸川は後ろ髪引かれるように忍の方を見ていたが、カウンター席に座って女性の店員に注文を始めていた。
 忍は案内された店内奥のテーブル席に座ると、おしぼりとお冷やを渡される。ありがとうございますと視線を向ければ、安室はにこりと笑みを浮かべて、メニュー表を開いて手渡して、お決まりの頃にお伺いしますと去って行った。
その後ろ姿を暫くじっと見つめていたが、渡されたメニュー表に視線を落とす。
 江戸川に”安室”と呼ばれていた男はかつて忍の兄・陣平とその幼馴染の萩原研二が紹介してくれた警察学校の同期の男である。その時紹介された名は降谷零と名乗っていた。陣平と萩原が休日になると忍と会い、同期を紹介していたため、降谷と忍は互いに顔見知りだ。当時学生だった忍は降谷に勉強を教えてもらったりしたし、陣平達と共に食事に行ったり、遊びに行ったりと交流をしていた。彼らが警察学校を卒業後警察官となり、暫くすると降谷と諸伏景光という男とは音信不通となる。警察を辞めたと聞いたりもしたが、志の高い彼らが警察官を辞することがあるのだろうかと腑に落ちず、釈然としない思いを抱えて過ごしてきた。その間に幼馴染の萩原研二、兄・松田陣平、その同期で面倒見の良いもう一人の兄貴分的存在の伊達航、一人ずつ目の前から居なくなっていった時には、考えたくもなかったが、音信不通となった降谷と諸伏の生存を不安視し、流石に堪えた。
 ――けれども、こうして零くんは生きていた。
 純粋に嬉しかった。何故安室と名乗っている理由がわからないが、ただ生きていると知っただけで少し声が震えて涙が出そうだった。
「忍、さん」
「あ、むろ、サン」
 いつの間にか目の前に立っていた彼に、ハッとする。決まりましたかと凪いだ青い瞳を見て、鼻の奥がツンとしたが、努めて笑みを浮かべる。あまり考えたくはないが、きっと、警察を辞したと噂を聞いたことがあったが、彼は今でも警察の仕事をしていて、その仕事は公安警察なのだろう。潜入捜査官。この喫茶店がコンセプトカフェ的な要素があり、店内限定のあだ名が”安室”であるといった気の抜けるような理由だったならばどんなに良かっただろう。
「――えっと、ハムサンドとケーキセット。ケーキはショートケーキ、飲み物はカフェオレでお願いします」
「お飲み物は何時お持ちしますか?」
「ハムサンドと一緒にください」
「畏まりました」
 テキパキと注文を取るその横顔を眺め、メニュー表を返す。久しぶりの再会が名残惜しいが、忍と再会した瞬間、彼は初対面を装った。咄嗟に話を合わせたのだが、彼にとっては忍が知人ではないほうが好都合なのだろう。混乱していて気が回らなかったが、これ以上は踏み入れるべきではないだろう。
「……忍。元気そうでよかった」
 メニュー表を渡した瞬間、忍だけに聞こえる声で彼は呟いた。そして降谷は何事もなかったように、歩を進め、カウンターへと戻っていく。震える心を落ち着けるために、おしぼりを広げ、ぽふっと顔に当てる。冷めてしまったおしぼりで顔を軽く拭うように。そうでなければきっと泣いてしまいそうだった。
「忍さん?」
 気づかわし気に近づいて来た江戸川に、おしぼりを退けて微笑む。何でもないよと言えば、目を見開いたが、それ以上は何も言わなかった。
「ねえ、コナン君。やっぱり一人だと寂しいから相席してくれない?」
「えー?」
「コナン君が今食べてる代金は私が払うから」
 そうのんびりとした口調で提案すれば、仕方ないなあといった風に自分の席へと戻っていって、カウンターで作業をしている降谷と女性の店員に何やら声をかけて始めた。彼らがちらりと忍の方をを見た時に、忍はドキリとしたが「忍さんこっち」と江戸川が手招きをしてから彼の隣のイスを引いてくれた。何だか彼らの仲間に入れてもらえたように特別嬉しくなって心の底からふにゃりと笑えば、彼らは目を丸くつつも、同じように笑みを浮かべてくれた。
 荷物を持って江戸川の隣に座り、注文したハムサンドとケーキセットが来るまでの間、アイスコーヒーを飲みながら学校の宿題を解くコナン君を横目に、店内を眺める。店内はカウンター席とテーブル席があり、道路側の大窓から外光が入るため、一定の明るさがある。田舎とまでは行かないがのんびりとした雰囲気が漂い、皆が思い思いの時間を過ごしている。常連らしき高齢の女性はうとうとと微睡んでいる。少し離れたテーブルには女子高校生だろうか。女学生達はお喋りに夢中になっており、ちらちらとカウンターで作業する安室を見てはかっこいいと盛り上がっている。常連らしき中年の男性はちらりと一瞥したが、いつものことかと言わんばかりにコーヒーを啜り、経済新聞を眺めている。まるで木漏れ日のような場所。
「よい喫茶店ですね」
 この空間は降谷にとって仮初の居場所かもしれないが、危険な仕事に身を投じているであろう彼が束の間の安寧に触れる場所として、傷ついた身体を休める居場所として、この喫茶店が拠り所のなってくれているといいなと祈らずには居られない。
「ええ。僕もお気に入りの場所なんです」
 穏やかな三日月型の瞳が、お待たせしましたとハムサンドとカフェオレを持ってくる。これが噂のハムサンドかと感心していると、ぐうと腹の虫が主張し始めて、パッと腹部を押さえる。ニヤリと隣で笑う気配がしたが黙殺する。近くにいた降谷と女性の店員の耳にも届いたようで彼らも笑っている。きまりが悪く恥ずかしくなって、いただきますと少し大きな声で魔法を唱えれば、召し上がれと楽しそうな声が響いた。

25.05.17 『スズランを、あなたに』 初出
dc夢 / fry / 学パロ / ネタ供養


 今年も憂鬱な時期がやってきた。
体育祭。日本では明治時代末期に「富国強兵」「健康増進」と言った意味で普及され、現在では健康や仲間たちとの協調性や連帯感を養うための行事とされていることが多い。地域差や学校の方針にもよるが、年に1度の大きな行事の内の一つである。その日は皆が一致団結し、打倒他クラスを合言葉に大いに盛り上がる。イベント特有の非日常感に大半の生徒たちは弄ばれて浮かれるのである。但し、運動嫌いの一部の生徒はどう足掻いたとて浮足立つことはなく憂鬱には変わりないのだが。
「憂鬱……」
 差し込む陽射しを遮るように腕を額の前に掲げて、
 昨今の地球温暖化問題において酷暑及び残暑は深刻なものであり、暑さ寒さも彼岸までといった言葉も次第に陰りが見え始めている。漸く残暑の空気が立ち去ったこの頃。校庭のトラックを囲うように並べられた椅子と不思議な腰掛けてぼんやりと競技が開催されるのを眺めている。街角で配布されていた不動産広告が書かれた団扇の生温い風に辟易しながら、事務的な声援を送る。隣に座る後輩も目の前を横切ったランナーに声援を送っている。本来ならば学年、クラス別に別れて待機しているのだが、吹奏楽部員は体育祭を盛り上げる一役として演奏を担当している。運営本部、救護テントと並んだその隣に陣取り、入退場や応援歌の演奏を担当する。基本的には自分の番が来るまではこのテント下で待機しているため、学年が違えどこうして隣同士で待機しているのである。
「先輩、朝練の走り込みいつも周回遅れですものね」
「運動苦手だからね」
「まあ吹奏楽部は文化部ですから大丈夫ですよ」
「別名、走る文化部だけど」
「腹筋もしますね」
「運動、嫌い……」
「演奏は?」
「大好きー!」
「じゃあ、そのためにも運動もがんばりましょう! 演奏のためには筋トレ大事です!」
「よくできた子だね……」
「先輩もっと褒めて!」
 体育祭という行事は確かに非日常感があり、盛り上がるが、やはり私のような運動を苦手とするタイプの生徒達は総じてうかないかおおをしている。運動を得意とする運動部に所属するような生徒たちとは違い、やる気は雲泥の差。やる気など家を出るときには置いてきたという生徒は多いはずだ。何が悲しくてこの残暑の空気が漂う中の炎天の校庭に教室から持ち出した椅子に座って他人が走るのを眺めていなければならないのか。いや、楽しいわけがない。
 はあっと深い嘆息を漏らせば、後輩ちゃんは苦笑しつつも、私を元気づけようと健気である。こういったところは彼女の好ましいところであり、自分が男子であったら好意をもって交際を申し込んでいたかもしれれない。
「まあまあ。降谷先輩と諸伏先輩の活躍でも観て目の保養にしましょうよ、先輩」
「降谷くんと諸伏くん?」
 ぱちくりと、瞬きをすれば、後輩の指さす方向を向く。その指先には、クラスメイトの降谷零くんと諸伏景光くんの姿がある。二人とも学校中のアイドルかというくらいの人気者であり、特に降谷くんはその浮世離れしたルックスは圧倒的に女子に大人気である。諸伏君も人気であるが、彼はどちらかというと女子よりは男子の支持率が多い気がする。
いずれにせよ、その二人は女子男子共に一目を置かれる生徒である。
「先輩同じクラスとか羨ましいすぎですよ」
「そういわれても……二人とは事務的な接点ぐらいしかないしなあ」
「あ! 降谷先輩借り物競争でるみたいですよ」
「え? そうしたら、もうすぐ、私の大縄跳びのターン近いじゃん。ちょっとトイレ行ってくんね!」
「えー! 先輩ここで!?」
「後輩ちゃんが応援してくれるなら、私の応援がないぐらい降谷君も諸伏君も見逃してくれるさ」
「ちょっと、先輩!?」
 トイレへ行くついでに気分転換して少しサボってこようと、引き留める後輩ちゃんをするりとかわし、席を立つ。
 トイレに向かう途中で校庭のトラックの中で待機している降谷くんがこちらを見た気がしたが、誰かと見間違えたのだろう。特に気にすることもないと、そのままトイレに向かう。

*****

 用を足し、ついでに飲み物を買い、一息ついてから校庭に戻れば、少しばかり騒然としている。
はて、何事だろうか。
「いた! みょうじ!」
「え?」
 大声で呼ばれてびくりとすれば、一斉に視線が私に向けられる。なんだ、なんだ。どうしてこうなった。戦犯が私なのか。
 思わず後退りすれば、焦って一気に駆け寄ってきた降谷くんが私の両手を掴んで、逃がすまいとする。
「え、え? 降谷くん?」
「どこに行ってたんだ?! 探したぞ!」
「お、お手洗いと飲み物買いに行ってたんだけど……」
「一緒に来て」
「なんで?」
「借り物競争してるから」
「え? まだ終わってなかったの?」
「君がいないと俺は終わることが出来ないんだ」
「? 私がいなくたって別に」
「気になる子を連れてこいって書いてあるんだから、君以外じゃゴールできない。当たり前だろ!」
「え?」
「!?」
ばっと口を両手で押さえた降谷くん。しまったという顔をした降谷くんに、戸惑いを覚える。聞き間違え出なければ、彼は気になる子を連れてくというお題で、私じゃなければ意味がないと言ったのだろうか。
それじゃあ、まるで――……。
 しんと、一拍の静寂。そして、噴火するが如くの悲鳴。
 顔を紅潮させた降谷くんから伝染するように私の頬も熱くなっていく。夢みたいな話だ。何も関係ないと思っていた学校の人気者から好かれていたなんて。
「みょうじ……俺……」
「降谷くん……」
 熱っぽく呼ばれ、思わず動揺してしまう。不整脈を起こしたかのように、鼓動が足早になっていく。どうしよう、私は人から好かれる事があるのか。こんなことがあるのか。見つめられる熱量に耐えられず、忙しなく視線を泳がせてしまう。
「みょうじ」
 降谷くんの手が、私の手に優しく絡まっていく。
 ああ、もう、どうしよう――

「降谷ー、みょうじー!さっさと走ってこーい! 借り物競争終わらんぞ!」

 先生は本当に空気が読めない。

19.04.16 
25.04.26 加筆修正
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* 現代パロ。おねしょた。
* デフォルト:橋本凛

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 にこにこと愛想の良いと笑みを浮かべる彼が得体の知れぬ化物のように思えてならなかった。行儀がよく、愛想よく笑みを浮かべる彼は不気味な異質さを持っていた。我が侭も言わなければ、生意気も言わない、粗相もしない。"都合の良すぎる子供"。気味が悪くないわけがない。大人からしてみれば文句なしの¨良い子¨――¨都合の良い子¨ではあるが、子どもとしては及第点すら届かないだ。子どもらしさのない子どもだった。子どもとは我が侭の一つや二つ、無知故の過ちに無謀に無防備に突っ込んで行って学び成長するものだと思う。自分も決して可愛い子どもではなかったが、まだ生意気であったし、無知故の無茶苦茶をしたものだ。だが彼はいい子過ぎる。可愛げがあるようで全くない。
 彼、瀬田宗次郎と橋本凛は今の今まで面識などまるでなかった。遠縁に当たるらしいのだが、一度たりとも顔を合わせたことはなかった。寧ろ遠縁の存在など全く関知していなかった。ある日突然瀬田の保護者から橋本が瀬田と遠縁にあたると電話が掛かってくるまでその事実を知らなかったぐらいである。それを知った時の橋本は驚きもしたが疑問の方が多く、突然の知らせを不審に思う他なかった。
 結果から先に言うと、その電話が掛かってきた時に瀬田を引き取るようにと体よく押し付けられたのである。話があるからと呼び出されて電車を乗り継いで呼び出された家に行けば、即座に10才に届くか届かぬかの子供を目の前に連れてきて強引に引き取らされたのだ。あまりの強引さにぽかりと間抜けな顔を晒した橋本だが、にこにこと愛想よく笑う少年を不憫に思い、その場は引き取ることにしたのである。早くに両親を亡くしてからどうも近しい親戚の間をたらい回しにされたらしい。相手をしていくには色んな意味で骨が折れそうだ。
 一人身の橋本からしたら給金で子ども一人ぐらいを養うぐらいはどうということはないが、白状してしまえば子どもは苦手である。引き取ることはこの際もういいが、何せ子どもは繊細だ。感性も未熟で身体も未熟。橋本が守ってやらなければならない。加えて橋本の下にやって来るまでの彼の回りの環境は良くないものだっただろう。何せ親戚中を盥回しにされるぐらいだ。彼を橋本と引き合わせた中年の男も小さな瀬田を鬱陶しそうに見つめていた。そんな保護者だった男に対して瀬田は嫌な顔せずに笑みを浮かべていた。目も当てられぬ、酷い有り様だ。聊か狂うている。自己を屈折させた環境に身を置いた少年に対してどう接してやるべきか。心理カウンセラーでも教育専門家でもない橋本には解りかねるが、これ以上見過ごして彼を屈折させるのは目覚めが悪いし、屈折したまま成長される方が厄介である。もしそのまま成長してしまえば、それこそどうしようもなくなってしまう。はたして、邪険に扱われてきた子に対してストレスなくどう接してやるべきか。それが課題になるだろう。今は様子を見ながら少しずつ距離を図るしかないだろうか。
 相変わらずにこにこと笑う瀬田にどうしたものかと頬を掻く。彼は橋本を見上げたまま、様子を窺っている。

「あー、えっと……瀬田、宗次郎……くん」
「はい」
「取りあえず、今日からはうちに住んでもらうことになった」
「ええ、オジさんから聞きました」
「じゃあ……とりあえず、うちに行こうか」
「はい、わかりました」

 淡々と受け答えをする瀬田に、居心地の悪さを感じる。喉に魚の小骨が刺さるような不快感。飲み込めない理不尽に眉をひそめる事しか出来ない。
せめて、せめて自分が今まで見向きもされなかった彼に目をかけやるしかない。
「瀬田くん、荷物を持ってやろ」
「いえ、結構です。それより行きましょう」
「う……うん」

 一先ず小さな切っ掛けからでも関わりを始めようと橋本は瀬田の手荷物を持ってやろうと進言したが、瀬田はにこりと笑みを浮かべたまま必要ないときっぱりと断ってさっさとリュックを背負うとすぐに最寄りの駅に向かって歩き始めてしまう。あまりにもバッサリと必要ないと言われた橋本は手持ち無沙汰に手を引っ込めるに引っ込められずに立ち尽くす。こうも一刀両断にされるとは考えもしなかった。完全に信用されてない。にこにこと笑ってはいるが、近付いてこようとはしない。今までにいた環境が環境ではあるが、これは距離を縮めるのには時間が掛かりそうだ。
 さっさと歩き出した彼に、本当に可愛いげのないガキだと小さく呟けば、立ち止まったままの橋本にようやっと気づいたのか彼はきょとんと間抜けた顔で振り返った。来ないのかと言うように見つめてくる視線に、髪の毛を掻きむしり、前途多難だと頭を抱えたくなった。
 まさに、たじたじ、である。

14.08.15

―――――――――――

旧ブログからネタ掘り出したのでこちらに載せます。
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『Best Wishes!』 / 23年VD その2

 吐く息が白く濁る。朝焼けの眩い光と稜線から顔を出し始めた太陽光が幻想的に美しい真冬。
 二月十四日のバレンタインデーを迎え、閉店まで慌ただしく過ごししてふと思えばあの女の姿を今日は見なかったと思い出す。常連の女は二十代頃だろうか。少し傷んだ黒髪と薄らと浮かぶクマ、草臥れた様子の女。面は悪くないが、仕事が忙しいのか疲労感が抜けないその姿から哀愁が漂う。他人に深入りはしない比古ではあるが、たまにの休日にやってきては満面の笑みで幸せそうに己の作った菓子を食うのだがら、情ぐらいは沸くものだ。土日が必ず休みの仕事ではないらしく、来る日も平日の午前や午後だったり、時折土日のどちらかであったりするのでいつ来るかはその女の勤務状況次第といった所である。ハロウィンやクリスマスなどのイベント限定販売の菓子を求めて仕事帰り閉店時間間近ギリギリに買って帰る時もあるため、今日もその内来るのだろうかと一つケーキを残していたが、女が来ることなく閉店を迎えた。約束していたわけでもないが、少しばかり締まりのなさを感じつつ閉店作業をする。
「師匠のお気に入りの橋本さん、来なかったですね」
 カフェスペースの掃除を終えた緋村剣心がバックヤードまで戻ってきていう。誰だ。初めて聞いた名前に小首を傾げる。知人の中ではその名前の人はいなかったはずだ。思い返してみても心当たりがない。
「誰だ?」
 緋村は意外そうに比古の方を振り向いた。
「あれ? 師匠もしかして名前聞いてなかったんですか? ほら、あのパンツスーツ着たポニーテールの子。少し草臥れてる。師匠の作ったケーキ幸せそうに食べてた……!」
 窓際の席で束の間の幸せをひっそりと噛み締める姿のあの女。あの女は橋本というのか。
  ――ところで。
「剣心。お前なんで名前知ってんだよ」
「以前、お友達の誕生日ケーキ予約したいって来た時にお名前聞きましたよ。橋本凛さん。警察でお仕事されてるそうですよ」
「……なんで、お前の方が知ってんだよ」
「えぇ、まさか師匠とあろうお方が知らないとは」
「おい。にやにやしてんじゃねぇよ。そんなんじゃねぇよ」
「えぇ? 俺は何も言ってないですよ?」
「ああ゛、うるせぇなぁ! 明日もあるんだ、早く帰って寝ろ!」
「ふふっ。ガトーショコラ、渡せるといいですね」
 早く帰れと手を振ると、にこにことしながら降参と両手上げてそそくさと休憩室の方へと逃げていく。取り置きしておいた分を目敏く見つけていたらしい。カンのいいやつめ。やれやれと溜息を深く吐き、肩を竦める。冷蔵庫の中を開ける。奥にしまっておいた箱。毎回イベント期間には必ず来店するため取って置いた分。いつも美味しかったと屈託の笑みで会計して帰っていく橋本。そんな女の姿を見るのを密かな楽しみにしていた。宝箱を開け、中の宝石を発見したようなキラキラとした瞳の輝き。高揚した頬。チェリー色の豊潤な唇が己の作った洋菓子を喰んでいく姿。口元をクリームで汚しながらもうっとりとした表情で味わうその姿が脳に焼き付いている。食べる前まで草臥れた表情を浮かべていたというのに、食べ始めればまるで水を得た魚のように生き返る。そうやって己の作った菓子で人を幸せにできるとしたならば作り手としては本望だ。
 冷蔵庫の奥からその箱を取り出して、帰宅の準備を始める。ずっと置いておくわけにも行かないので少しずつ家で食べるほかない。ガトーショコラならばウィスキーのアテにでもするとよいか。などと考えて戸締まりを終えて外へ出ようとすると、ゴンと何かにぶつかった。
「?」
「ったぁ……」
「あんたは」
「うぅ……もう、お店終わっちゃいました?」
 外を覗くように身を乗り出せば、ドアにぶつかったらしい女が頭を押さえて蹲っている。あの橋本と言う女だ。今しがた弟子と話していたばかりなだけに少し決まりが悪い。丈の長いダウンコートにマフラーをぐるぐるに巻いている。丁度仕事帰りだったのだろうか。
 外の様子を見回せば、既に日は落ち、雲一つとない美しい夜の帳が下りている。昼間の温かい日差しはどこえやら、身が引き締まるような凍える寒さだ。ひゅうと笛のように音を立てて風が吹いていく。冷蔵庫の中に閉じ込められたような寒さに思わず眉根が寄り合う。頭を抱えて蹲ったまま暫く動かない橋本にぶつからないようにそっと入り口から出て、目の前にしゃがみ込み頭に触れると、橋本に驚いた表情が浮き上がる。
「大丈夫か?」
「す、すみません」
「怪我は……とりあえず無さそうか?」
「は、はい。大丈夫です」
 恥ずかしげにはにかんで橋本はゆっくりと立ち上がる。ふらつかずにすっと立ち上がったところを見ると、不幸中の幸いにも致命傷を負ったという様子はなさそうである。怪我がない事を確認し、そっと胸を撫で下ろすと、ゆっくりと立ち上がった。不慮の事故とはいえ、怪我をさせるなど言語道断だ。当の本人は比古を観ながら、背高いですねなどと気の抜けるような事を呟いているが、そんな呑気な事を言ってのけるぐらいだから何ともないのだろう。それは何より。久々にこうして会ってみれば、相変わらずといったところだ。仕事に追われて草臥れてはいるが、以前見かけた時よりも今日は元気そうだ。
「悪いな、今日は店仕舞いだ」
「そうですか……やっぱり間に合わなかったかぁ」
「その代わりと言っちゃなんだが、これ持って帰ってくれ」
「え? でも……」
 残念そうにしょんぼりとしていた橋本に、取り置きしていたガトーショコラの箱を渡せば、寝耳に水といった素っ頓狂な表情を浮かべる。店の手提げ袋に入れて持たせると、暫くそれをじっと見つめて少しばかり複雑そうな表情をしていたが、首を振る。すぐに渡したばかりの箱を返そうと差し出される。
「受け取れません。営業時間内に間に合わなかった私が悪いので」
「キャンセル分出すの忘れてただけだ。俺は仕事中以外は甘いもん食わねぇし折角だからもらってくれ」
「でも……」
 渋る橋本の手をそっと押すと、そのまま紙袋を持つ手を握り込ませる。
「処分するより貰ってくれた方が助かる。金は要らねぇ。その代わりにまた来てくれよ。お前さんの食いっぷりが見ていて気持ちがいいからよ」
「! み、見てたんですか!?」
「パティシエが言えた事じゃねぇが、甘いものばかり食べすぎないようにな」
「は、はずかしい……」
 まさか見られていたなんて。そう言って居た堪れ無さそうに頬を赤く染めた橋本が己の両頬を覆い隠すようにして手を添える。橋本はスイーツを頬張って気が緩んだ姿をしっかりと見られていたことが恥ずかしいというのだが、比古にとっては好ましく思えていた。自分が作った菓子をそれはもうこの世の祝福を一心に受けたというような顔をして食べている橋本を見た時、気分が良かった。その食べっぷりに甚く感服し、とても好ましく思っていた。
「いつも喰いに来てくれてありがとな」
 比古はほくそ笑む。ポカンと比古を暫し見つめていた橋本はハッと我に返ると視線を右往左往させていたが、あっと何かに気づいたように声を漏らすと、鞄のポケットの中から何かを取り出して比古に手を差し出すように促した。
「これ。貰ってください」
「……何だこれ?」
「五円玉チョコ。今日友人からもらったんです。良いご縁がくるって。一枚あなたにあげます」
「だがお前がもらったものだろう、それなら」
「私はもうご縁もらいましたので」
 橋本はにこりと慈しむように笑い、そっと比古の手に己の手を添えて拳を握り込ませながら魔法を掛けるように呟いた。

 ――あなたにもご縁がありますように

23.02.18 『Best wishes!』 初出
『結び目』 / 23年VD その1

 冬茜。冬の夕焼けの燃える美しさは思わず足を止め息を飲むほどである。日没が迫り、稜線を燃やし始める美しいあの橙は凛冽な空気さえも息を飲むように美しい。澱みのない澄み切った空気がより一層夕景を際立たせ、誰しもを魅了する。
 缶コーヒーを飲みながら、凛は一人窓の向こう側を臨む。誰そ彼。街灯の橙が薄っすらと色付き始めている。家路へと向かう人かそれとも。自治体のスピーカーから流れる時報の音楽がどこか物悲しくもあるが、どこか明日への期待を感じる。ひんやりとした廊下の片隅に自販機とゴミ箱の列。気分転換がてらに作業を中断し抜け出してはきたのだが上着かマフラーでも持ってくればよかったのしれない。少し身震いをしつつも、静まり返った廊下の片隅でのコーヒーブレイク。薄暗い自販機の側面に寄りかかりながら、少し温くなったコーヒーを一口。ぼんやりと暮れ泥んでいく夕景を眺めながら、深い息を吐き出した。
「甘いものが食べたい」
 無意識に吐き出された言葉が廊下の空気を揺らす。思いの外、ゆらゆらと、己の鼓膜をゆする。
 コーヒーのお供に甘いものが食べたい。コーヒーを飲みながら零れ出た思いが言霊により一層強くなる。交通違反に交通事故、酔っ払いの介抱、強盗、ストーカー、エトセトラ。事実は小説よりも奇なり。思いもしない事件に振り回されて流石に疲れていた。疲れ時には糖分がいいと聞く。甘いものが食べたいときは特定の栄養素が足りていないとも聞く。何が足りていないのかなどと気にしすぎるよりは好きなものを好きに食べた方が健康的な気もするが。
 要するに甘いものが食べられれば何でもよいのだ。散々けったいな事件に振り回されたのだ。早く仕事を終わらせてお気に入りの店に飛び込むのもいいのかもしれない。お気に入りの洋菓子店。ふとした時に食べたくなる美味しい洋菓子店。少し無骨なパティシエが作る繊細で美しくも甘いもの好きを多幸感で満たす美味しいお菓子の数々。サクサクで甘いクッキーやふんわり柔らかいフィナンシェ、皮はさっくり中はたっぷりなめらかカスタードシュークリーム、甘くて美味しいケーキ……嗚呼、想像しただけで食べたくなる。こうしてはいられない。早く報告書を片付けて一時でも早くこんなところから抜け出すべきだ。
「プリン、シュークリーム、ケーキ、チョコ……嗚呼、どいつもこいつも何でつまんないことで仕事増やすのよ。手当たり次第しょっ引いてやろうか」
「わぁ……あんさん随分キテるなぁ……おつかれさん」
「あ、沢下条……お疲れさま」
 喧しい男が来たと喉まででかかった言葉を飲み込んで労いの言葉をかけると、上機嫌な金髪の男がやってくる。同僚の沢下条張という男だ。すらりとした見た目だが、程よく筋肉質の男。陽気な関西人。凛の得意なタイプではないが、その性格から何だかんだで憎めない男だ。沢下条は「よっ」と手を立てて砕けた挨拶をすると自販機に小銭を入れて缶コーヒーのボタンを押す。転がり出た缶を拾い上げ、隣に並ぶようにして立つとカチャリとプルタブを捻った。同時に先ほど己が開けた缶と同じコーヒーの香ばしい香りが舞い戻ってきて、思わず鼻をひくりとさせた。嚥下する咽喉の流動を横目に、香りが拡散してしてわからなくなった己の缶コーヒーを煽る。
「今日はどうしたん?」
「交通違反にドラック、強盗、痴話げんか、その他もろもろ。警察は何でも屋じゃないわ」
「あー、お疲れさん」
「そろそろ帰りたい」
「あー、そうしょげるな。よし、しゃあないな。ワイのとっておきをくれてやるで」
 凛を不憫に思ったのか、沢下条は犬を撫でるように凛の頭をわしゃわしゃと撫でた。そうしてごそごそとズボンのポケットを何やら漁り始める。何だろうか怪訝に思いながらも、ぼさぼさになった髪の毛を手櫛で軽く整える。手間だ。余計な事をしてくれる。そう思いながらじとりと成り行きを見守っていると、何かを見つけたらしい沢下条が「あった」と嬉々として凛の手のひらの上に小さい包みを乗せた。茶色いビニールフィルムにプリントされた五円玉を模したキャラクター。小学生ぐらいの子どものお小遣いでも手軽に買えるチョコレート菓子だ。凛も幼少期の頃に小遣いを肩掛けバックに入れて田んぼに囲まれた駄菓子屋まで買いに行った記憶がある。成長して買う機会は減ってしまったが、本物の五円玉のようで面白いチョコだと気に入って買っていた。
「? ごえんだま、チョコ?」
「ハッピーバレンタインやで!」
 快活に笑う沢下条を見て、はてな。
「馬連……?」
「馬ちゃうで、バレンタインや! チョコや、チョコ! 好きな人に愛の告白とチョコ渡す日や! この沢下条張様からかわいそうな凛に愛のお裾分けや!」
 バレンタインデーと言えば、何某かの殉教の日であるとか、友達や恋人、大切な人に贈り物をする日だったか。日本では女性が意中の相手に愛の告白と一緒にチョコレイトを贈ったり、親しい友人間でチョコを交換してその日を楽しんだりする。凛も友人にチョコレイトを交換したことはあるが、学生時代の頃の話で近年では中々会うことも出来なくなってしまったため、そういった行事ごとには遠ざかっていた。職場では義理チョコの文化は用意する側の負担になるとのことで廃止されたため、益々バレンタインデーとは縁遠い生活を送っていた。
「そっか。もうそんな日か」
「どや。ワイからの愛のある友チョコや」
「愛のある友チョコ……?」
「おい、首傾げんなや! 泣くで!」
「ははっ。わかっているよ、ありがとう」
「たく……。仕方ないやっちゃ。ほら特別にもう一枚やる。これで少しは元気だしや。ええことあるとええな」
「沢下条」
「五円玉チョコやったんや。今からお前にも良いご縁がくるで」
「それは……まあ楽しみにしてみるよ」
 ほなな。そういって手をひらひら振りながら廊下を歩いていく。その後ろ姿を見送りながら、手のひらの五円玉チョコに視線を落とす。何とも言えない気が抜けるような顔の五円玉のキャラクターの表情。愛嬌のあるその顔を見て、ふと小さく笑ってしまった。久方ぶりにあったあの男は相変わらずの賑やかしい男だが、何だかんだでこの五円玉チョコのキャラクターのように憎めない。
「ご縁、いただきます」
 一つだけフィルムを破いて、口に入れる。小さい頃お小遣いを握り締めて買いに行った時と今も変わらず甘い味。冷め切ったコーヒーを流し込んで、もうひと頑張りしようと気合を入れ直すのである。

23.02.14 『結び目』 初出 
 
『春一番』

 少し前までの凍えるような寒さが嘘みたいに暖かくなった三月中旬。桃色が美しい早咲きの桜はそろそろと葉桜になり、後少しすればソメイヨシノが開花する。そんな頃。
寒い冬ももう少し。春本番を迎えようとしているこの時期は卒業式やらと世間は何かと騒がしいらしいが、この病院はまた別の忙しさと日々闘っている。
 この病院に所属する医師・高荷恵は午前中の診察を終えて、遅い昼休憩を取ろうとしていた。それまでは小さな町医者の元で働いていたが、縁あってこの大きな病院に赴任した。赴任してみれば街医者の元で働いていた頃よりも沢山の患者が毎日病院へとやってくる。大変ではあるが、具合が悪く困っている人たちの力になれることでこの仕事に対してのやりがいを感じる。一人ひとりと向き合い、各々の体質にあった方法で不調を改善していくために処置する。各々に合った処置というのは難しい。様々な症状や病床を考慮した上でその時の現状での最適解だと判断しても、実際に処置してみると体質的に問題が出てしまったりと当の本人からしてみれば最適解ではなかったりもする。鈍感な時もあるが人の身体は多分に繊細なところもあるため故の難しさ。内心頭を抱えながらも向き合い続ける中で患者の笑顔を引き出せたならば、それだけでも報われてしまう。
 そうして向き合い続け、あっという間に昼が過ぎる。この仕事にやりがいを感じてはいるが、自分とて一人の人間だ。ずっと根を詰めていては疲れて気が滅入ってしまう。気分転換がてら外の空気を吸おうと中庭のベンチに腰掛けて休憩を取ることにした。
「……桜は、もう少し先かしら」
 ベンチの上に伸びる桜の木を見上げる。このベンチはソメイヨシノが咲く頃には薄墨色に美しく染まる。今はまだ硬く閉ざされた蕾。売店で買ったペットボトルのお茶を一口。喉を潤しながら、一息つく。
「あー高荷ちゃん! おつかれちゃん!」
「たかにちゃん! おつかれちゃん!」
「……三好先生。子ども達に悪影響だから止めてくださる?」
「高荷ちゃんは今からご飯? おつかれちゃん」
「話聞いています?」
 黒髪の癖毛の男。三好恭之助。高荷恵と同じくこの病院に所属する医者である。外科の若い男であるが、その腕は若いながらに評判がいいと聞く。性格は朗らかで緩い。子ども達に慕われているらしく、院内ではよく子ども達に群がれている姿を目撃している。子ども達をおんぶにだっこしている姿はとても腕利きの外科医には見えず、保育士といったところの風体である。おんぶした子どもに癖毛を引っ張られながらもにこにこと笑みを浮かべた男にやれやれと溜息を吐いて子ども達に声を掛ける。
「皆。それ以上は三好先生も疲れてきているから止めてあげてね」
「えー?」
「うん。実は流石に疲れてきていた。皆、五円玉チョコ上げるから勘弁してちょ」
「五円玉チョコ!」
 チョコレート菓子につられて子ども達は三好から次々と離れていく。何とも現金な子ども達だと思わなくもないが、子どもは正直なぐらいが丁度いい。三好も同じことを思ったのか「おまいさん達、ほんと現金じゃのぅ……」と少し寂しそうな瞳を湛えて呟いていた。そんな三好のことなどお構いなし。子ども達は容赦は知らぬ。チョコレート頂戴コールのが始まり、もみくちゃにされ始める。
「わ~?」
「ちょっと! 何やってんのよ!?」
「高荷ちゃん、ヘルプ~」
「もー! アンタってやつは世話が焼けるわね!?」
 子ども達から追い剥ぎ同然の目に合う外科医の男を見て深い溜息を吐く。
 三好はどこからともなく取り出した五円玉チョコをすぐさま子ども達にひったくられて、白衣のポケットやら何やらを勝手に漁られている。
 子ども達は大袋に入った五円玉チョコの大袋を何個か見つけると、わあわあとそれに群がって袋を開け始める。個包装になった五円玉チョコが何枚も入っていて、それを皆で仲良く山分けし始めている。宝物をみつけた子ども達はそちらに夢中で三好になど見向きもしない。
「ちょっと、大丈夫?」
「はは。手厳しか」
 もみくちゃにされて地面に倒れ込んでいた三好に高荷が近づいて手を差し出せば、彼はぱちぱちと瞬きをして暫く高荷を見つめていたが、にこりと嬉しそうに笑い、「心配してくれるのは高荷ちゃんだけじゃ」と満足そうに手を取って立ち上がった。ぱたぱたと白衣についた砂埃を叩いているしょぼしょぼとした男の腕を引いてベンチに座らせると栄養ドリンクをすっと渡す。
「ほ?」
「もみくちゃにされて大変だったでしょ。これ飲んでおきなさい。それじゃ午後もたないわよ」
「ありがとう! 大切にしまっておくね!」
「このおバカ! 飲めって言ってるでしょう。飲みなさいよ!」
 この様子だとこの男は本当に飲まずにしまっておきそうだ。一度渡した栄養ドリンクひったくり、キリキリと開栓してから再び三好に渡す。念押しして、飲みなさいといえば、彼はすっと目を細めて、ありがとうと穏やかに紡ぐ。それは、凪いだ海のように穏やかな表情。
「……ご馳走様。高荷ちゃん飲もうとしたんだよね。ごめんね。お礼にどうぞ。子ども達にには内緒だよ」
 しい。
 人差し指を唇に添え、身振り手振りしながら渡されたのは金平糖の入った小さな瓶。一体どこに隠し持っていたのだろうか。手のひらの上にポンと小さな瓶を持たされると、またねとひらひらと手を振って立ち去っていく。
「……変な奴」
 再び子ども達に囲まれてわいのわいのと騒いでいる三好を見て呟く。
 掌に乗せられた金平糖の瓶に視線を落とす。薄桜色、若草色、黄色、白色。パステルカラーに近い色合いの金平糖が瓶詰にされていて、その様子がかわいらしい。そっと零れないように開栓し、手のひらに星屑を転がす。それを暫く眺めてから口の中にそっと含ませると、柔らかく優しい甘さが広がり、その優しい甘さが張り詰めた気持ちを緩やかに弛緩させていく。
「──さて、午後も頑張ろうかしら」
 便の蓋を締めてそっとポケットにしまう。ベンチから立ち上がりぐっと空に向かって伸びをすると、あっと思わず声が漏れる。ベンチの上に伸びたその枝に一輪だけ花を開いたソメイヨシノ。これから日にちが過ぎればまた次々と桜が花開いていくのだろう。その頃にはこうやってこのベンチの下で満開の桜が見られるのだろうか。その時には今日のお礼にでもあの男を誘ってやろうか。きっと驚いた顔をしながらまたあの締まりのない顔で笑うのだろう。
 小さく笑みを漏らし、仕事へ戻ろうと院内へと足を向ければ、もうお菓子はないよと未だに子ども達にたかられている三好の姿が見えて思わず笑ってしまった。

23.03.28 『春一番』 初出
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『紅一点』

「塗ってみてもいい?」
 マニキュアを買ったと言う凛が嬉々として言う。新しい玩具を手に入れたと言うような表情に、どうも気が緩んでしまう。
「いや、なんで俺の?」
「自分で自分の手を塗るの難しいからまずはあなたの手で」
「はぁ? なんだそれ」
「お願い!」
「はぁ……仕方ねぇな」
やったと歓声を上げた凛にやれやれと思いつつも、つい構ってやってしまう。
「それじゃあ手出して」
 口元を綻ばせた凛に手を差し出すと、俺の手をまじまじと見て、「相変わらず大きい手だね」と暢気な口調で呟いた。紅色のマニキュアの蓋を開栓すると、筆先にたっぷりと液体が乗っかっていて、それを縁で扱くと指をそっと掴まれる。ぺたり、と筆先が爪先に触れた瞬間、鮮やかな紅花が灯る。
その先に真剣な表情で己の爪先を彩る凛の顔が見えてしげしげと眺める。まつ毛に落ちる影。頬に掛かる黒髪。唇に引かれた艶やかな紅色。視線がうるさいと抗議されるようにちらりと向けられて、仕方なく己の爪先に視線を送る。初めて使うというにはまずまずと言ったところだろうか。
「ほおー。臭いがしねぇのもあるんだな」
「そうだね。今のは割とすぐ乾いたりするのもあるから使いやすくなったね……あっ」
「下手くそ」
「うるさいな、難しいよ」
 そんなに言うなら塗ってみてよ。むむむと不服そうな表情を浮かべた凛に苦笑する。本当に色んな表情を浮かべるようになった。
「……どれ、塗ってやろうか」
 速乾性のあるものだったらしい。マニキュアを受け取って凛の手を取った。「相変わらず小せぇ手だな」と零せば、暫くキョトンとした凛の表情は苦笑に変わる。少しゴツゴツとした手を掴み、指先に同じ色を灯す。おおと感嘆を上げる凛の声を聞きながら思わず笑いが込み上げる。丁寧に爪先を塗っていくと、じっとこちらを見つめる視線を感じて顔上げる。どうかしたかと問いかけてやれば、何でもないよとやけに機嫌良さそうに見つめる凛に首を捻りながらもう片方の手を塗り始める。
凛は塗り終わった手をかざし、
「塗るの上手くて腹立つ」
と呟いたので、ふっと笑いながらもう一度言い放つ。
「下手くそ」

23.07.19 『紅一点』 初出
『縁は異なもの味なもの』 / よその子コラボ

「今日は猪鍋にしましょう」
「は?」
 引き留める間もなく、籠と斧、小銃を持って凛が小屋を飛び出していったのが一刻ほど前だったか。あの韋駄天め。あっという間に山間に入っていってしまった。それは彼女が日本中を駆け回っていたからこその身軽さであるが、こうも身軽だと考えものだ。火の番をしていた比古にとって彼女の行動は寝耳に水のようなものであったし、竈門から離れるわけにもいかなかったため、彼女をすぐに追いかけられなかった。出来上がった焼き物を取り出して火の始末をしっかり済ませると早速探しに行く準備をする。血腥い幕末の京都で刀片手に生き延びたような女であるから軟弱ではないとは理解しているし、ついこの間までかつての同志の男の使いっ走りのようなことをしていて、危険な任務の渦中にいたぐらいだから杞憂かも知れぬ。そうではあるが、無茶していないか一番心配だ。前科がある。先の戦に駆り出されて帰ってきた時は随分と重症で帰ってきた。身体中を包帯で覆った姿で布団に横たわった姿を見た時は幾ばくか肝が冷えた。ジクジクと痛々しい傷は膿んで腐臭がしていたし、その傷から熱が出て、意識がぼんやりしていた。重症。一歩間違えれば凛は死んでいただろう。俺の目の届かない所で、あれは、野垂れ死ぬところだった。
「──本当に、手のかかる女だ」 
 大きく息を吐き切ると刀を携え外套を羽織るとすっと立ち上がる。脳裏に過ぎるは目を輝かせて比古の作品を作る手を素敵な手だと褒めたあのきれいな顔。あの賞賛を述べた時の心の底からの言葉は心地が良かった。自分には芸術の、何かを生み出すことへの才能はないと諦めていた凛が比古に手取り足取り教えて作った茶碗にとても感動していた姿。あの顔は今後忘れることができぬだろう。
 小屋の入り口に掛かる葦簀を軽く払いのけて外へ出る。
「に、新津覚之進先生!」
「何だお前か」
 一歩外へ出れば丁度山を登ってたどり着いた巨躯の男と癖毛の洋装の女。女は体全体の輪郭がわからないように白いシャツを着込んでいるため、素人目には優男に見えなくもない。この女は凛と違って芸術を嗜むらしく、陶芸家新津覚之進の作品の愛好家であるそうだ。先日訪ねに来てから時折こうやって比古の小屋を訪ねに来ている。弟子曰く、人嫌いな比古にとっては煩わしい人付き合いの予感に眉を顰めたものであったが、渋々と教えてみたらな中々に筋がよい。こうと教えればすぐに軌道修正し、新たなものを生み出していく。素質はあるのだろう。手土産で持ってきた酒あても悪くない。
「あ、あの、新津先生。今度は安慈様のお茶碗割ってしまいまして……その」
「はぁ……またか。安慈とやら、お前も大変だな」
「いや……」
 安慈様ごめんなさいと泣きそうになる女を見て、後ろに控える巨躯の男に視線を移す。安慈と呼ばれる坊主。この坊主はあくまで女の付き添いとしてきているだけであってこちらは焼き物をつくるなどにはあまり関心はないようである。女に向ける眼差しはその相貌から想像し得ない穏やかな慈しみを感じる。側からみればどういった経緯があって連れ合いになったのか首を傾げるような奇妙な二人ではあるが、人のことは何も言うまい。茶碗を割ったことについて謝罪をしつづける女を宥めすかす坊主。やはり不思議この上ないが、この二人にはこの二人なりの特別な絆で結ばれた関係があるのだろう。他人のことは言えまい。
「……ったく。後で教えてやるから、大人しくここで待ってな。俺は凛を探しに行く」
「え? 凛ちゃん、どこか行っちゃったんですか?」
「ああ、あいつは」
「あれ? センセ、おでかけ?」
「凛ちゃ、ん!?」
「やあ、いらっしゃい」
 暢気な調子で血濡れた猪を引き摺りながらやってきた凛に、女はギョッとして固まってしまった。持っていた斧には猪のものらしき血が滴っており、血生臭い。常人ならば当然の反応だ。凛が戦いから遠ざかってから出会った間柄であるから穏やかに過ごす凛しか見たことがなかったのだろう。こういった側面は初めて見るものにとって刺激が強すぎる。
「お前を探しに行こうと思ったんだよ。ってか血まみれじゃねぇか」
「返り血さ。いやー、中々にしぶとくてね」
「あわわ、わ! り、凛ちゃん怪我してない!? 大丈夫?!」
「え、ええ……大丈夫ありがとう?」
「(心配され慣れてないから照れてるな、こいつ)」  
 我に返り、一目散に駆け寄ってきた女に、凛はしどろもどろになりながら頷いた。女は凛に怪我ないかと身体中をくまなく見て回り、全てが返り血であるとわかると、良かったと、息をふっと吐き出した。凛はどこか居心地が悪そうな表情をしていたが、彼女にとっては良い薬だ。心配してくれる存在がいるという自覚がないからすぐに無茶をする。もうすでに自分だけの命ではないと言う自覚が薄いものだから平気で無茶をする。女が持っていた手拭いで凛の顔の返り血を拭こうとするが、凛は汚れるから大丈夫と一進一退の攻防戦が始まっている。やれやれ。
「お互い苦労するな」
「そうでもない。覚之進殿もそうなのでは?」
「……ふん」
  じっと彼女らの行く末を見守る安慈。その眼差しは何処か慈しむような。その眼差しは勿論あの女に向けられている。微かに綻ぶ口元に、へえと感心する。彼女らのやりとりに視線を移せば、凛の顔拭いながら本当に怪我していないよねと怖々と尋ねているが、凛は暢気なもので死ぬこと以外はかすり傷だったりするしなあと呟いて怒られている。
 難儀なものだな、お互いに。
「おい凛! 鍋にするんだろ? 早くしねぇと日が暮れちまうぜ」
「そ、そうだ、猪鍋! お二人もぜひ食べて行ってください!」
「あ、あの、凛ちゃん、安慈様は……」
「すまない凛殿と覚之進殿。お気持ちは嬉しいのが、私は獣肉は……」
「あ」
 どすり。凛が引き摺っていた猪が手から滑り落ち地に落ちる。途方に暮れた瞳がこちらへと向けられ、そういえばそうだったと失念していた自分自身も肩を竦め溜息を吐いた。

23.06.22 『縁は異なもの味なもの』 初出
『ポッキー・プリッツの日』 / 2022.11.11 

「これ……食べてくれませんか?」
 珍しいこともあったものだ。何にせよ、相変わらず素直ではない。だかそういう素直でないところもからかいがいがあるというか、いじらしいというか。歯切れ悪く声をかけてきた凛が口に咥えた細い棒状の菓子。枝のようなそれの内側にはチョコレイトが詰められていて、中までぎっしりと詰まっている。
 ポッキー・プリッツの日。十一月十一日。数字の一が並ぶ様がお菓子のポッキーやプリッツを連想させることからいつの間にかやそう呼ばれるようになった日だ。特別な日というわけでもないが、若い世代を中心にこの日を意識してポッキーやプリッツなどのお菓子を楽しんでいるようだった。ポッキーといえば、ポッキーゲームというものがあるが、二人の人間がポッキーの端と端を咥えて食べ進めていくいわばチキンレースだ。ポッキーを食べ進めていき、唇同士がくっつくかくっつかないかとそういったスリルに盛り上がったりするようだが、俗物的な意味合いが強いため、凛がそういった事を持ちかけてくるとは予想外であった。
 そわそわと忙しなく宙を漂う視線。ほんのりと上気した頬。艶やかな色に染まる唇。こういったことに疎いからきっと誰かに吹き込まれたのだろう。だが、こうやって下手くそな誘い方をする凛も中々に健気だと思うと笑ってしまう。
「そんなことしなくたってキスぐらいしていくらでもやるよ」
 ガブリと噛みつけば驚いた顔の凛が咥えていたポッキーを落とす。バリバリと咀嚼しながら凛の顎を引っ捕えると、今度はがぶりと唇に噛み付いてやった。甘い、チョコレイトの味が口内に広がる。そろそろと体重を掛けてゆっくり押し倒すと、とろりと溶けた瞳が瞬きをして、そっと背中に腕がまわっていった。